大きな怒声が、ざわついていたラウンジ内に響き渡る。
普段は物静かなラウンジという空間に、その日二度目のハプニングが起きようとしていた。ラウンジ内に張り詰めた空気が漂う。
その原因たる人物――荒谷達は、大声で叫んだ為に集まってくる周囲の視線を意に介さず、ラウンジ内をずかずかと歩いていく。向かった先は彼らの目的の人物、呼び出しに応じなかったハルユキが居る最奥のテーブルだ。
荒谷たちが近づいてくるのを見て、ハルユキは生きた心地がしなかった。ブレイン・バーストというプログラムに対する興味や関心から消えかけていた、周囲からの重圧や緊張感が再び蘇ってくる。
――くそっ、大人しく屋上で待っていろよ。何だってこんな時に出てくるんだよ!
心の中で悪態をつくも、声に出して歯向かう勇気は無いハルユキは、睨んでくる荒谷達の威圧を前に何もできない。
「クリームメロンパン2個と焼きそばパン1個、それから苺ヨーグルト3個を買って、屋上に来るように言ったはずだよなぁ」
故に。空気の読めない乱入者、荒谷達の横暴な要求に対し口を開いたのは。彼と同じテーブルに居た少女、黒雪姫だった。
「君が荒谷君か。成る程な」
その言葉に、荒谷は初めて黒雪姫の存在に気がついたらしい。目を細めて疑念の混じった視線を黒雪姫に向けた。学園の有名人である黒雪姫が、自分達の苛められっ子であるハルユキと同席しているのを不思議に思ったのだろう。しかし、すぐに唇を吊り上げて嫌らしい笑みを浮かべる。
自分達と同じで、ハルユキを弄んでるとでも勘違いしたようだ。名前を知られているのは、ハルユキを苛める同業者だからとでも思ったのか。
「なんですか、生徒会副会長さん。ああ、この豚の日頃の惨めな姿についてでも聞きた……」
得意気に話し出す荒谷の言葉を遮るように、侮蔑を込めた目を向けながら黒雪姫が口にしたのは、彼の予想を裏切るものだった。
「ハルユキ君からよく聞いているよ。間違ってこの学園に送られてきた、猿かチンパンジーにしか見えない奴だ。とな」
『え……? ええーっ!? ちょ。な、何を言っちゃってるんですか! 先輩』
思いがけない暴言に、ハルユキは思考発生で抗議の叫び声を上げる。火に油を注ぐ行為、そしてその原因を擦り付けられたのだ。ハルユキの叫びは悲鳴に近い。
『ふっ、まぁ見ていたまえハルユキ君。丁度良い機会だ。厄介事は早めに片付けておくとしよう』
焦るハルユキとは裏腹に、黒雪姫は落ち着いた声で慌てるハルユキをなだめる。
こんな状況で何落ち着いてるんですか。とハルユキが今度は声に出して抗議しようとした時、変化は起こった。
「な、な、なん……」
呆然と固まっていた荒谷のこめかみが、ピクピクと動き出したのだ。身体全身が小刻みに震え、怒りのボルテージが高まっていくのがハルユキにはわかった。思わず席から立ち上がり、荒谷から後ずさって距離を取る。だが――
「なんだとぉぉ!てめぇっ、このブタァァァ!!」
けたたましい怒声と共に、荒谷は拳を振り上げてハルユキに襲い掛かった。後ずさっていた足が竦みあがり、ハルユキは動けなくなってしまう。
――殴られるっ!
恐怖心から目を瞑るハルユキ。そこへ、黒雪姫の思考発生の叫びが脳裏に響いた。
『今だ、叫べ! バースト・リンク!!』
その言葉の意味を、ハルユキは知らない。しかし、追い詰められていた彼はほとんど反射的に叫んだ。それまでの彼の現実を、日常を、常識を覆すプログラム――ブレイン・バースト。その始動キーである言葉を。
「バースト・リンク!」
瞬間――世界は加速した。
ラウンジ内のあらゆる音が消え去り、凍ったかの如く世界が青一色に染まる。殴りかかっていた荒谷が、成り行きを見つめていた生徒が、物言わぬ彫像になった。彼らの世界は停止してしまったのだ。
「う、うわぁっ」
全てが停止する世界で、固まっているハルユキの身体から押し出されるように、ピンクの豚が現れた。地面にぶつかって一回転すると、ぶつけた頭を摩りながら顔を上げ、目にした光景に驚きの声を上げる。ピンクの豚の正体は、仮想世界用のアバターに姿を変えたハルユキだった。
「ど、どうなってるんだ。これ」
停止した世界。さらには自分の身体が目の前に存在するという異常事態に混乱するハルユキへ、停止した世界で動いていたもう一人の人物が声を掛ける。
「ブレイン・バーストが起動し、世界が加速したのだ」
そう告げたのは、黒のドレスを着て蝶の羽根を持つアバターに姿を変えた黒雪姫だ。しかし、彼女の簡潔な言葉では、ハルユキは現状に対する疑問を解消することができなかった。キョロキョロと挙動不審に周囲を伺う。
「世界が……加速した? ブレイン・バーストが起動したって……」
「ふむ、そうだな。順を追って説明していこう」
黒雪姫は教え子に説明する教師のように、ハルユキに現状の説明を始める。
「一見すると周囲が停止したと感じるだろうが、実は違う。周囲が停止したのではなく、私達が加速したのだ。正確に言うと、ブレイン・バーストプログラムが私達の脳の意識を加速させたのだよ。そして、ソーシャルカメラが捉えた画像から再構成した3D映像が、この青い世界の正体だ。私達はニューロリンカー経由で、それを脳で視ているのだよ」
淡々と説明しつつも、黒雪姫は手に持っていた黒い傘を椅子に掛けると、ピンク色の豚になったハルユキを両腕で優しく抱き上げた。
「う、うわっ」
突然の行動に、ハルユキは思わず手足をバタつかせるも、すぐに大人しくされるがままにする。仮想とはいえ、黒雪姫の柔らかな肌の感触に内心は穏やかではなかったが。
黒雪姫は抱き上げたハルユキをテーブルの上に移動させ、説明を続ける。
「ニューロリンカーには、人の思考を加速させる力がある。そう気づいた者がいた。ブレイン・バーストは、ニューロリンカーに秘められた加速の力を引き出す為のプログラムだ。その加速レートは、通常の一千倍にも上る」
「一千……倍……」
あまりにも常識を逸脱したその言葉の意味を、ハルユキはゆっくりと呟いて脳に浸透させる。黒雪姫はそんなハルユキの姿を視界に捉えながら、大げさに両手を広げて熱弁した。
「そうだ。現実の一秒を一千秒、十六分四十秒として体感する空間。それが私達バースト・リンカーが住まう世界、
声高らかに宣言する黒雪姫。その姿を、じっとハルユキが見つめている。そんな中、我に返った黒雪姫は熱く語っている自分に気づき、頬を赤く染めた。誤魔化すように、手を口元に当てて咳払いをする。
「む……んん! この加速の力を使えば、今まさに殴られようとしている君は長大な持ち時間待で状況を把握し、熟慮することができる。来るとわかっていれば、現実に戻って拳を避けることも容易だろう」
黒雪姫の言葉に、ハルユキは停止している荒谷と己の姿を見つめた。
――そうか、絶対に避けられないと思っていたのに。これが加速の力なのか。
ハルユキは複雑な気持ちだった。梅郷中に入学して以来、ずっと荒谷には苦しめられてきた。もう学生の間は諦めるしかないとまで考えたほどである。そんなどうしようもなかった現実が、今、この時を持って覆されたのだ。ブレイン・バーストという一つのプログラムが持つ加速の力によって。
これまでのハルユキの苦痛を思えば、複雑な心境になるのも仕方がないだろう。
まぁ、黒雪姫の次の発言を聞いて、ハルユキのもやもやした感情は一瞬で消え去ってしまったが。
「だが、避けるな。ここはあえて、ぶっ飛ばされようじゃないか。ハルユキ君」
あろうことか、黒雪姫は大人しく殴られろ。とハルユキに助言したのだ。
「え……ええっ? 嫌ですよ、そんな! い、痛いじゃないですか」
当たり前だが、ハルユキは反論した。大人しく殴り飛ばされろ、と言われてうなずくような者は特殊な趣向を持つ人間でなければいないだろう。ハルユキにそんな趣味は無い。
「まぁ聞け。私が君に殴られろ、と言っているのはちゃんと理由があっての事なのだ」
「な、何ですか。その理由って」
「今まで、この生徒が横暴な態度を取っていられたのは、君が学校側に告発することができなかった以外にも、もう一つの理由があっただろう?」
「あ! そ、そうか。此処はソーシャルカメラの視界の範囲内なんだ」
黒雪姫に言われ、ハルユキは荒谷が重大な失敗を犯していることに気づく。荒谷達は今まで、人気が無くソーシャルカメラに映らない屋上や校舎裏にハルユキを呼び出していた。カメラが設置されている場所や、人目につく場所は避けていたのだ。にも関わらず、今の荒谷はソーシャルカメラの視界に入り、多くの学生が居るラウジンで殴りかかろうとしている。
「そう。この者は私の安い挑発で頭に血が上り、多くのカメラが設置され、多数の学生達が集まるこのラウンジで、その醜態を晒そうとしているのだ。それは、逃れようの無い確かな証拠を押さえることになる。君にとっては今、この時こそ、これまでに受けてきた屈辱を晴らすチャンスなのだよ。ハルユキ君」
黒雪姫の指摘は正しい。それはハルユキにもよくわかった。しかし、ブレイン・バーストという加速の力を手にした今、一つの感情が芽生えてくる。
ハルユキは停止している荒谷に鋭い視線を送り、黒雪姫に問う。
「先輩。ブレイン・バーストの力を利用して、僕はコイツに喧嘩で勝てますか」
ハルユキの中で芽生えた感情、それは復讐心だった。好き放題に殴られ、蹴られてきた日々。屈辱に濡れた半年間で溜まった怒りを、憎しみを晴らすことができるのだ。ブレイン・バーストの加速の力を使うことで。
ハルユキの真剣な問い掛けに、黒雪姫はその美貌を引き締め、強い口調できっぱりと確言する。
「勝てるだろうさ。君はもう、常人では敵わぬ力を手にしたバースト・リンカーなのだから」
「……そう、ですか」
心臓の鼓動が高まり、呼吸が荒くなる。暗い負の感情が心の中を満たしていく。このまま大人しく殴られるか、加速の力を使い叩きのめすのか。半年に及ぶ惨めな生活を、どちらの方法で終わらせるのか。
数秒の間を置いて、ハルユキは選択する。
「やめておきます。大人しく殴り飛ばされますよ、せっかくのチャンスですから」
強張った表情を崩して目を閉じ、肩の力を抜きながら大きく息を吐き出して、ハルユキはそう告げた。
――先輩の誘いに乗ったのは、現実が破壊されることを求めたのは、荒谷を叩きのめす為なんかじゃないんだ。
荒谷に喧嘩で復讐する必要は無い。そう心の中で自分に言い聞かせ、ハルユキは沸きあがる激情を沈静化させていく。黒雪姫は目を細め、嬉しそうに唇を吊り上げた。
「賢明な選択だ。よく決断したな」
褒めるように優しく耳元で囁き、黒雪姫は再びハルユキを抱き上げる。
「わ、わううっ」
緊張して、背筋をピンと伸ばすハルユキを黒雪姫は抱き上げると、腕の上に乗せてバランスを取り安定させた。
「そうだな。どうせなら最大の効果を狙おう。加速が切れたと同時、君が自分から右後方へと飛ぶのだ。顔を回して、拳の威力を殺すのを忘れるなよ」
「えっ? で、でも。それだと先輩にぶつかっちゃいます」
ハルユキは停止している現実の黒雪姫の身体を指差す。荒谷に殴られかけているハルユキとの距離は、およそ一メートル程だ。ハルユキが勢いよく飛べば、彼女の華奢な身体が巻き込まれてしまう危険性がある。
しかし――
「効果を最大にすると言っただろう? 大丈夫、心配するな。ちゃんと考えてあるさ」
そんなハルユキの心配を。黒雪姫は問題無い、と一蹴してしまった。
でも、とまだ何か言いたげなハルユキの頬が、 むにょん。と柔らかな何かにぶつかって潰れた。黒雪姫が自らの頬を当てたのだ。豚のアバターの、ピンク色の肌が赤くなる。
「大丈夫だと言っているだろう。それとも、君は私の言葉が信用できないのかな?」
「うぅ……。ずるいですよ、先輩。その言い方は」
恨めしげな視線を向けるハルユキを停止している彼の身体の上に乗せ、黒雪姫もまたもう一つの己の身体に触れる。
「そろそろ時間だな。じゃあ、上手くやれよ。私が叫んだブレイン・バーストプログラムの解除コマンドを続けて叫べ」
「は、はい」
神妙に頷いて、緊張しつつもハルユキはその時を持つ。黒雪姫はそんな彼を軽く一瞥した後、加速を解くコマンドを高らかに叫んだ。
「バースト・アウト!」
「バ、バースト・アウト!」
二人の叫びと共に、ガラスか何かが砕け散ったような高音が周囲に鳴り響く。
それを合図にして、停止していた青い世界は再び時を刻み始めた。
やっとブレイン・バーストが晴雪君の手に渡った。
次話からブラック★ロックシューターのキャラを本格的に交えていく・・・かも。
ついでに原作から少し違った展開にします。書いてて面白味に欠けるので。