「嫌です、絶対にあなたになど話しません!」
鋭く吐き捨てる声が室内に響いた。
銀色の髪をなびかせた男は、肩を竦めながら部屋を後にする。口角をわずかに吊り上げ、ニヒルな笑みを形づくると、「手強いウサギちゃんだな」と低く呟き、控室へと戻った。
そこには狂犬の異名で恐れられる公安局の局長が待っていた。男はその隣に腰を下ろし、何事もなかったかのように脚を組む。
「ダンテ先生でもダメでしたか。流石はSRTの生徒と言うべきでしょうか……。元とは言え、訓練は本物のようですね」
尾刃カンナは困惑を隠せず、思わず眉を曇らせた。
この先生「達」の口から言葉を聞けば、生徒は心を許し、洗いざらい語り出す──そんな甘い目論見は、早くも粉々に砕かれていた。
公園での戦闘までは順調だった。仕掛けられた罠をまるで遊具で戯れる子供のように打ち破った彼らの姿を見て、事件の解決も容易いと踏んでいたのだ。だが、現実はそう単純ではない。
「ふん、こいつの聞き方がダメなだけだろう。頑固な相手に正義を問うなど愚の骨頂だ」
「そうは言うがよ、じゃあ他に何を聞けってんだ。ダンテでも無理なら、相当ハードルは高いぜ」
「愚かな息子だ。貴様はあいつの愚かさを継承したのではあるまいな」
「……うるせえ、ぶん殴るぞ親父」
目を離せば即座に火花が散る。
ただの親子喧嘩ならまだしも、問題は彼らが争えば絶対にただの喧嘩では済まないということだった。
ビルは倒壊し、列車は宙を舞い、それを巨大な青白い手が握り潰す。あげくは放送禁止用語が飛び交い、クロノスでさえ放送自粛を検討する惨状となる。
結末はいつも同じだ。何かに納得したような顔で清々しく帰路につくのだが、その後始末には莫大な費用がかかり、国家レベルで借金は膨らみ続ける。
それでも彼らは涼しい顔で先生を名乗り活動を続けている。
本当に反省しているのか──いや、少なくともダンテ先生に関しては絶対に反省などしていない。尾刃カンナはそう確信し、横目で彼を一瞥した。
「そもそも相手は子供だ。俺達の主義なんざ鬱陶しいに決まってるだろ。ダンテも親父も説教くせえんだよ」
「いーや、お前は何もわかっちゃいねえ」
「同感だ。理解など必要無い。体に刻み込むまでだ」
「俺はそういう意味で言った訳はないんだがな」
「結局は同じ結論に辿り着くだろう」
「ま、確かに不思議なことにこの「クソ」兄貴と同じ意見になっちまうことだけが納得いかねえが」
「俺の話聞いてたか? 補聴器が必要なら先に言ってくれると助かるぜ」
バージル先生は相変わらずの猪突猛進ぶりだと、カンナはこめかみを押さえながら大きくため息をついた。
黒か白かで物事を断じるその性格は、潔いとも言えるが──裏を返せば視野の狭さそのものだ。目的に突き進む速さは異常とすら言えるが、複数の思惑が絡み合う局面となれば途端に脆さを晒す。
先日もその典型だった。ミレニアムの胡散臭い生徒に唆され、軽率にマフィアへ襲撃を仕掛けたまでは良い。だがそこで待ち受けていたのは、よりにもよってダンテ。両者がぶつかり合った結果、施設は瓦礫と化し、インチキ生徒が狙っていた端末は跡形もなく粉砕された。
しかも当の本人は、約束の反故など意に介さず、ダンテとの戦いそのものを存分に楽しんでいる始末である。
挙句には「最初から気に食わなかった」と豪語し、ダンテと肩を並べてインチキ生徒を「ジャックポッド」などと口元をニヒルに曲げながら叩きのめす。──正直、手に負えない。カンナはただ頭を抱えるほかなかった。
「じゃあ、理解しているダンテ。もう一回ミヤコのところに戻って説得してきたらどうだ?」
「ハッ、生意気な甥っ子だ。よく見てろ、俺の本気って奴をな!」
「お手並み拝見といこうか」
その時、取調室の控室の扉がそっと開いた。
静まり返った取調室の控え室。壁時計の針が無遠慮に刻む音だけが響く中、扉がわずかに軋みを上げて開いた。
そこからひょっこりと顔を覗かせたのは、緑の髪を揺らす少女、橘ノゾミ。帽子のつばを指先で軽く持ち上げ、悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「先生、お弁当忘れてたよ」
小さな包みを片手に、堂々とした足取りで室内へ。生意気さを隠そうともしない態度は、あたかもこちらが彼女に取り調べを受ける立場であるかのようだった。
机にことりと置かれた弁当箱。仄かに漂う香ばしい醤油の香りは、バージル先生の引き締まった眉間の皺を少し和らげる。
「先生、普通はありがとうでしょ? もしかして言えないの~?」
彼女を見やる。だがノゾミは臆することなく、腰に手を当てて胸を張る。その仕草は「感謝するのが筋でしょ」と言外に告げているようであった。
「ふん、頼んだ覚えはない」
「パヒャヒャ、素直じゃないんだから~! じゃあ、お仕事頑張ってね~」
「貴様も帰りは気を付けるんだな」
小気味よい声を残し、ノゾミは軽やかに踵を返す。そそくさと扉を閉め、廊下に消えていく背中は、最後まで悪戯っ子のような余韻を残していた。
その様子を無言で見送っていたバージルに、じとりと視線を投げかける影がひとつ。彼の隣にいた息子──ネロ先生である。
怪訝そうに親父の横顔を凝視し、やがて大きく、わざとらしいほど深いため息を吐いた。その吐息は、沈黙を断ち切るかのように控え室に響き渡った。
「親父……まさかと思ってたが、ハイランダーの生徒に手を出してる噂は本当だったのかよ。なぁ、15歳に手を出して恥ずかしいと思わねえのか? 良い病院は沢山知ってるが、流石の俺も紹介仕切れないぜ?」
「何を勘違いしている。……あいつが勝手にやってることだ」
「その上思春期のガキみたいなことを言っちまうなんてよ。なぁ、せめて俺を生む前に中二病は卒業しておくべきだろうが」
「黙れ、切られたいのか」
「盛り上がってる所悪いんだが、俺の本気をしっかり見ててくれよ」
ーー
ーー
薄暗い一室の中心にある机と椅子。
机の上には刑事物のドラマに出てきそうないかにもなライトが一つ、彼と彼女の袂を分かつように照らされていた。
一方は銀髪に深紅のコートを纏った大男。
もう一方の月雪ミヤコは、取調室の椅子に腰かけている。
制服の上から重ねた防護装備は、まだ小柄な身体にはいささか大げさに映るが、その姿勢は整然としており、訓練で鍛えた規律を決して崩さない。
長い髪は薄暗い光の中で淡く輝き、揺れるたびに月光の糸を垂らしたかのようだった。その瞳は決して揺らいでいない。紫がかった大きな瞳は真正面の男──ダンテを見据え、恐れではなく、覚悟を宿している。
小さな唇を結ぶ。
ダンテの醸し出す隠しきれない威圧感。先生とは思えない横柄な態度は、彼女の額に汗を垂らした。
「ミヤコ、もう一度だ。どうしてあんな公園で籠城なんてしたんだ? しかも俺達がやってきても抵抗の手は緩めなかった。勝てる見込みなんざゼロだって分ってただろ」
「……SRTの生徒は、どんな時でも諦めませんので」
「もうSRTは廃校になったんだ。いい加減諦めてヴァルキューレに編入するのも悪くはないぜ。お前たちRABBIT小隊なら好待遇だろ」
「そういう問題ではありません。……あなた、一応先生ですよね? 生徒を説得するにしてももっとましな言葉を選んだ方が良いのではないでしょうか。何も考えないで無策に突っ込むなど愚の骨頂です」
無言で告げるミヤコ。その表情は至って真剣なのに、口から出る言葉は妙に刺々しく、挑発めいている。
机を挟んで向かい合う大男のこめかみが、ぴくりと跳ねた。
大人として、子供の言葉にいちいち反応してはならない。そう自分に言い聞かせながらも、思わず腕を組み、背もたれにぐいと寄りかかる。表情は必死に取り繕って無言を貫いているが、肩に入った無駄な力と、わずかに震える足先が、内心の動揺を雄弁に物語っていた。
一方のミヤコはといえば、膝の上で手を揃えたまま、無垢な瞳でじっと相手を観察している。
「無言ですか。所詮、あなた程度では私達のことなど理解できません。早く家に帰ってピザでも食べて眠っていたら良い──」
そうミヤコが言いかけた瞬間、目の前に「どすん」と音を立てて置かれた黒いビニール袋。
中には何かしら大きなものが詰め込まれているのか、袋の下部は不自然に膨らみ、今にも破れそうに張りつめている。さらに、鼻を突く生臭い匂いが瞬く間に取調室いっぱいに広がった。
「……えっ」
「もちろん、お前ほどの生徒がただの説得でぺらぺら喋る奴だとは思ってないさ。だから──持ってきたんだよ」
「一体……何を?」
ダンテは口元に笑みを刻んだまま、黒いビニールの中へと手を差し入れる。次の瞬間、無造作に放り投げられた物体が、弧を描いてミヤコの手元に落ちてきた。
反射的に受け止めたその重量感に、ミヤコの指先は強張る。視線を落とした先にあったのは──サキのヘルメットだった。
硬質な表面を覆うのは、赤黒く乾きかけた液体。斑点のように散った大小様々な赤の粒が、不規則にこびりついている。
彼は机のスタンドライトを掴み、ぐいと角度を変えてミヤコの方へと向けた。
光に照らされたヘルメットは、異様な艶を帯びて赤黒く輝く。
ミヤコの喉から、かすかな息の音が洩れる。握りしめた指先は震え、月のように澄んだ瞳に、恐怖とも怒りともつかぬ光が浮かんでいた。
「何発目で喋ったっけか。ま、数なんて覚えちゃいねーな」
「え……あ……こ、これってサキの──」
「ああ、もしかしたらその液体の正体もサキのかもしれねえな。お前はどう思う?」
「えっ……あ、い、いや。嘘、ど、どうしてこんな酷いことを」
「なんの話だ? 確か、何故あんなところで籠城しようとしたのかって話だっけか?」
もう一息だと息を巻いたその時、取調室のドアが勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、ミヤコと同じくRABBIT小隊に所属する生徒──空井サキ。
きりりとした眉と、冷たい水色の瞳。表情は幼さを残しながらも、凛と振舞おうと無駄にこわばる。
「なぁ先生、そろそろ私のヘルメット返してくれないか? なんだか落ち着かないんだ」
「おいサキ、入ってくるなって言ってただろ」
「そうは言うが、時間を過ぎていたのはそっち──って、私のヘルメットに何をしているんだ!」
目を点にしたミヤコからヘルメットを回収するサキ。
まさかの装飾に眉を顰め、彼の方へと視線を移す。
「ダンテ先生、これはプリンが一個じゃ足りないぞ」
「んだよ、お前のせいで失敗したじゃねえか」
「それは制限時間内に仕事を全う出来なかった先生のせいだな。プリン三個で許そう。私は心が広いからな!」
「え……? は……? さ、サキ、どうして……? というより、いつからこの人と親し気な仲に……?」
「へ? ああ、ダンテ先生はパトロールの途中で色々あってな! たまにシャーレのシャワー室を借りたり、プリンを奢ってもらったりして──」
ーー
ーー
「で、クソみたいに生徒を傷つけた挙句成果も上げられなかったって訳だ。なぁダンテ、あんたはキヴォトスに何しに来たんだよ」
「耳が痛いぜ。だが、サキの邪魔が入らなきゃミヤコは今頃ぺらぺらと全部喋ってたはずなんだ」
「む、ミヤコを傷つけたのは許さないぞ! いつか我らSRT生徒の力を見せつけてやるんだからな! とりあえず、プリンをだな」
「お前はもうSRTの生徒じゃねえだろ」
「なっ!」
「おいダンテ、言葉は選んで話せって絵本にも書いてあるだろうが」
ダンテェェェェェェェェ。
ダンテェェェェェェェェィ。
怨霊か、悪魔か。呼び名はいくらでもあるだろうその声は、本来ならば人を震え上がらせるはずの響きだった。だがダンテにとっては、今やお気に入りの目覚まし時計の旋律に等しく、退屈な日常に差し込む愉快な合図に変わっていた。
場所はシャーレではなく、公安局の取調室。
差し入れに持ち込まれるのは、きっと彼の好物である熱々のピザだろう。そんな確信を胸に、ダンテはソファに深々と腰を沈め、足を組んだまま声の主を待つ。
ヌヌッと姿を現したその人物。
深い蒼色の髪が蛍光灯を淡く反射し、あどけなさの残る顔立ちに似つかわしくない大人びた所作を纏っている。
部屋に入るなり、彼女は懇切丁寧にネロとバージルへ挨拶を済ませる。そして、まるで当然のように、偉そうにふんぞり返っていたダンテの隣へ腰を下ろした。ソファがぎしりと鳴り、重みが確かに増した。
「こんにちは、ダンテ先生!」
「よぉ、ユウカ。舞踏会の始まりまでまだ時間はあったはずだが、急用か?」
「ええ、私はプレミアムコースに入ってるので、先行上映が可能なんです。ところで、このタブレットの資料を見ていただけますか?」
「なんだ? ……あぁ」
「ええ、0が一つ大きいですよね? 見ましたよね? 確か私はお伝えしていたはずです。店の支払いをツケ払いにしないと、お給料以上の出費をしないと」
「そうだっけか?」
「あとこれ、私に相談も無しに勝手に部屋を借りましたね? アリスちゃんが全部喋ってくれました」
「ぐ……アリスの奴、あんだけアイスを奢ってやったってのに」
「足りなかったそうです。ふぅ、理解しました。今度の月末にはたっぷり因数分解してあげますから、覚悟しておいてください!」
ぷりぷりと腰を揺らし、頬をふくらませたまま取調室を後にするユウカ。
閉められた扉は、彼女の怒りを代弁するように、いつもより少しだけ大きな音を響かせた。ダンテはソファに深く座り直し、眉間を押さえながらも苦笑を漏らす。
「ふ、女の尻に敷かれるなど、スパーダの血族として情けないことこの上ないぞ」
「親父には言われたくないと思うぜ」
「だな」
「では、次は俺の番だ。貴様らに先生とは何かを魅せてやろう」
「本当に大丈夫か? っておい、閻魔刀は置いて行けよ」
「ならば、力づくで奪えばいいだろう」
「そういう話じゃねえ! ああもう分かったからさっさと先生を魅せてくれ。ったく」
「ハッ、困った親父だな」
「叔父にも困ってるんだがな」
ーー
ーー
先ほどの先生の最悪な行為を受けて、ミヤコは唇をきつく結んだまま黙り込んでいた。
彼女の真正面には、青の衣を纏った男。眉間に深く刻まれた皺と鋭い眼光だけで、生身の人間を容易く震え上がらせる存在がいる。
机越しに組まれた両手、その奥から突き刺さる視線は、冷たい殺気を孕み、言葉を介さずにミヤコの心臓を射抜く。
いくらSRTの精鋭とはいえ、彼女もまた一人の少女にすぎない。体が本能的に危険を察知したのか、震える指先は止まらず、必死にそれを隠すように握り拳を固めた。
取調室の空気は重く、そして冷たい。蛍光灯の白い光が、彼女の頬のわずかな強張りを鮮やかに照らし出していた。
「ぴょんこ」
その一言は、冷気を帯びた鉄の塊のように部屋へ響いた。
顔を上げたミヤコの視線の先で、バージルは無造作に巨大なウサギのぬいぐるみを持ち上げていた。片手で耳をつかみ、吊り下げられたその姿は哀れな処刑囚のようだ。
次の瞬間、閃光が奔る。
まばたきひとつの間に、ぬいぐるみは腕も頭も胴体も切り離され、机の上に無惨な残骸をさらしていた。
ぴょんこ……ミヤコが命のように大切にしているペットの名だ。
そして──バージル先生という男は、口にしたことを本気で実行してしまう危うい人物でもある。
点と点が繋がった瞬間、ミヤコの瞳は恐怖に染まり、堰を切った涙が頬を伝った。
「や、……ぴ、ぴょんこに悪いことをしな……いで」
「何を言っている? 俺はただ、貴様が大切に飼っているペットの名前を喋っただけだ。さて、では本題に戻ろう。貴様は何故あんなところに籠城し抵抗した──」
「待て待て待て待て!!! 親父やり過ぎだ!!!」
ドン、と扉を鳴らしながらネロが身を乗り出し、ミヤコの肩を抱き顔を体に傾けさせる。
「てめぇ、やって良い事と悪い事の区別すらつかねえのかよ! ああ──クソっ、親父もダンテも本当に半分人間なのか!?」
「何を出しゃばっている、まだ貴様の時間ではない」
「生徒をこんなに怯えさせて黙ってられるか! 遊びじゃねえんだよ!! 親父の時間は終わりだ!!!」
ーー
ーー
「すまねえなミヤコ。あいつらも悪気があってあんなことをした訳じゃねえんだ」
「ぐしゅ……お、大人になんて、負けません」
「はぁ……。なぁミヤコ、俺の質問に答えて欲しいだけなんだ。何、別にそれでお前の立場が悪くなる訳じゃねえさ。もしそれでお前にとって望まない展開になったとしたら、先生としてきっちり責任は取るつもりだぜ?」
「……ひとつ、だけでしたら」
その声はまだか細いが、かすかに芯を含んでいた。
ミヤコの視線の先、机の上には湯気を上げるコーヒーが置かれている。ほんのりと漂う苦味を帯びた香りが、無機質な取調室の空気をやわらげていた。
椅子の向こうに座る先生は、両手を広げ、口元に爽やかな笑みを浮かべている。
警戒を解くべきか否か──心の天秤が揺れる中、ミヤコはそっとカップに手を伸ばした。鼻先をくすぐる香りを嗅ぎ、唇を湿らせる程度に口へ含む。
温かさが喉を伝い、胸の奥へと広がっていく。こわばっていた肩がわずかに落ち、彼女の呼吸も静かに整っていった。
「……あなたにとって、正義とは?」
「ん? 質問に質問で返すのか。まぁいいさ」
彼は背もたれに身を預け、余裕を纏いながらも真っ直ぐに彼女を見据えた。
その視線に射抜かれ、ミヤコは息を詰める。鋭利な目元の奥で輝くのは、透き通るように純粋な瞳。そこに濁りはなく、ただ真実だけを映す鏡のようだった。
思わず心を奪われ、視線を逸らすことができない。
頭の中で「駄目だ」と何度も首を振る。だがその瞳は、まるで魔力を宿した月の光のように彼女を引き寄せ、逃れられぬ重力を放っていた。
「大切な人を守る──誰も死なせないことさ」
「誰も死なせない……ですか?」
「ああ。腹が減ってたら飯を食わせる。怪我をしてたら治す。寝床がなければ毛布を用意する」
「……ただ優しいだけでは?」
「そうかもな。ま、正義だなんてでかい言葉、俺には似合わねえさ。けどなミヤコ、正義ってのは色んな形があるとは思わないか?」
「形? ……SRTの正義とは、理にかなった正しい道理のこと」
「だったな。だが、全員が全員SRTじゃないだろう? 例えどんな奴にだって、あのバカ二人にだって正義はある」
ネロはゆっくりと立ち上がり、彼女の隣に椅子を移して腰を下ろした。
その動作は威圧的ではなく、不思議なほど自然で、近づく気配にミヤコは警戒を解いてしまっている自分に気づいて小さく驚いた。
これが、彼の持つ先生としての魅力なのだと理解する前に。再び吸い込まれるように、その瞳へと心を奪われそうになったことにも気づかぬまま。
「きっと、あの籠城だってお前の正義が先行した行為だと思ったんだ。だから──お前の正義を聞かせて欲しいだけさ。安心しろよ、俺は先生だぜ? お前の正義を曲げようだなんて微塵も思っちゃいねえよ」
その声は穏やかに響き、取調室の冷たい空気をほんの一瞬だけ、温めるものに変えていくのであった。
ーー
ーー
間接照明が柔らかく灯る店内。シェイカーの乾いた音がリズムを刻み、流れるBGMと溶け合って、大人の世界を演出していた。
本来なら生徒とは縁遠い空間、そのカウンターに肩を並べて座る三人の魔剣士。
一人は度数の低い酒をちびちびと舐め、酔いではなく香りを楽しんでいる。もう一人は同じく軽い酒を口に運びつつ、ナッツを指で摘んでは咀嚼する。そして最後の一人は、既に三本目のボトルに手を伸ばそうとしていた。
「ネロ、勝負はお預けだ。俺は負けていない」
「だな」
「どう見たって俺の勝ちだろうが。つうかそもそも勝負なんてしてねえっての。生徒をなんだと思ってやがる」
「随分真面目な奴に育っちまって。家庭環境は大事みたいだぜ、バージル」
「ふん、愚かな弟め。貴様と同列だと思うな」
ダンテが背を伸ばし、隣の二人を交互に眺める。血を分けた家族とはいえ、これほどまでに考え方が異なるものかと、思わず口元に笑みが浮かんだ。
今まで数え切れぬほどの戦いをくぐり抜けてきた。それでも──こうして肩を並べ、酒を酌み交わす時間も悪くはない。そう思いながら、三本目のボトルを注文する。
「で? ネロ、どうだキヴォトスは」
「ああ──頭を抱えちまうぜ。親父もダンテも、年端もいかねえ少女に尻に敷かれてるとはな」
「この世界の奴らは気が強いからな。二言目には銃の引き金を引こうとしやがるばかり。退屈しねえぞ」
「俺はさっさとキリエの元へと帰りたいぜ」
「浮気すんなよ?」
「するかよ!! 俺は彼女一筋だ」
「ふん、ナギサに会っても同じことが言えるかどうか……見物だ」
「ああ、声が似てるってもんじゃない」
「変なこと言うんじゃねえよ」
──クソっ、どうなってやがる。
ネロの悪態が店内に響き、ダンテの笑い声と混ざって弾けた。
ネロのキヴォトスでの生活は、まだ始まったばかりだ。