バージル先生概念:キヴォトスに舞い降りた悪魔
──バージル先生、きっとあなたなら。
このキヴォトスの厄災を……。
月光が大窓を透かして流れ込み、大理石の床に淡い輝きを落とす。その光は冷たく反射し、銀の髪を逆立てた男の貌をぼんやりと映し出していた。
大窓の手前には、執務室にあるような重厚な机と椅子。その前で立ち尽くす少女は、息を呑んだまま男を凝視する。──いつ、どこから現れたのか、痕跡すら残さぬ存在。戸惑いと畏怖が心を締めつけるが、それでも奇妙な確信が胸の奥に宿っていた。連邦生徒会長が指名した「先生」とは、この男にほかならない、と。
静謐な空気の只中、彼は一歩も動かず、時間から切り離された像のように立ち尽くす。
深い紺の外套は夜の帳を引き寄せるかのように揺れ、冷ややかな気配が部屋の隅々まで滲み広がっていく。言葉はなく、ただその存在のみで場を圧し、支配していた。
感情を映すことのない鋭い双眸。刀の柄に添えられた指先は微動だにせず、それでいて目にする者の心を確実に縛る。無言の立ち姿から発せられる威圧は、雄弁なる言葉の千倍もの説得力を持っていた。
彼女が息を呑む。彼はただ立つ──それだけで充分だった。
ただ者ではない。七神リンの額を冷たい汗が伝い落ちた。
「あなたが……バージル先生でしょうか?」
「貴様は何者だ。まずそれを答えて貰おう」
「私は……七神リンと申します。連邦生徒会所属の首席行政官です。先生、あなたは連邦生徒会長から呼ばれた方だと思うのですが、先生がどうやってここまで来られたのか私も把握を──」
彼女が言葉を紡ぐよりも早く、男はゆるやかに歩みを進め、大窓の前へと立った。
そこから見下ろす光景は、彼が知る世界をはるかに超えていた。ビル群が林立し、その窓窓から溢れ出す光が夜空に散りばめられた宝石のように瞬いている。
あの恐怖の塔から見渡した街並みでさえ、この眼前に広がる景色には及ばない。男は思わずまばたきを繰り返し、その圧倒的な規模を確かめようとした。
七神リンは、息を詰めたまま彼の背を見つめる。
──明らかに人の身が放つ気配ではない。
肌を撫でる冷気に似た、鋭利な刃のような気配。少しでも近づけば、触れる前に肉を断ち落とされそうな仄かな殺気がそこにあった。
背中越しでさえ、その存在に射竦められ、蛇に睨まれた鼠のように体が硬直する。動けない。呼吸すら乱れそうになる。
だが──彼女は責任を負う行政官である。
恐怖に足を縫いとめられてもなお、仕事を全うせねばならなかった。
「そこから見える景色は──キヴォトス。バージル先生がこれから働かれる土地です」
「キヴォトス? 聞かぬ名だ。それに俺が働くとはどういう意味だ?」
「言葉の通り、キヴォトスで先生として活動して頂きます。生徒の困りごとから始まり、紛争地域の調停や各学校の武力介入まで業務は多義に渡り──」
「貴様らの戯言になど興味はない。他の奴に任せるがいい」
「え、それはどういう意味でしょうか?」
彼は沈黙を崩さず、ただ静かに鞘へと手を添えた。
七神リンが、もう一度同じ問いを投げかけようと口を開いたその瞬間だった。
幾筋もの閃光が月明かりに導かれるように走り、大窓は轟音を伴って真っ二つに裂け落ちた。
吹き荒れる夜風が室内へ雪崩れ込み、帳のようにカーテンを翻す。
その荒れ狂う空気の中、彼はゆるやかに振り返った。
いつのまにか響き渡る金属の鞘音が、静寂を深く切り裂いていく。リンは口を開けたまま動けず、背筋を伸ばしたまま硬直する以外に選択肢を見いだせなかった。
恐らく──あの手にあるのは刀だ。
窓を断ち割ったのも、きっとその一閃に違いない。
だが、彼女の目に映ったのは、ただ光が走った一条の軌跡のみ。
その現実に、リンの肩は震え、息は喉の奥で途切れた。
「意味の説明が必要な程愚かではないだろう」
「た、確かにそうですが。って、あ──」
切り裂かれた大窓から、男の身体が宙へと身を躍らせた。
慌ててその姿を追った七神リンの視界には、既に彼がサンクトゥムタワーの高さから地上へ真っ逆さまに落下していく様が映る。
常識で考えれば、生き延びられるはずがない。キヴォトスの生徒でさえ、この高さからの落下を無傷で済ませることなど到底あり得ないはずだった。
だが、次の瞬間。
アスファルトを抉る衝撃波と轟音が地を震わせたにもかかわらず、その中心で彼は何事もなかったかのように立ち上がっていた。
粉塵の帳を払い、まるで散歩でも始めるかのように、平然と真っ直ぐ歩き出す。
リンは目を疑った。
「キヴォトスの外にいる者は銃弾の一発で倒れる」──そう教え込まれてきた常識が、いとも簡単に覆される。
理解を拒む現実に頭が追いつかず、先生として果たすべき役目さえ放り出されたような錯覚に襲われる。
想定を遥かに超えた存在を前にして、リンはただ頭を抱えることしかできなかった。
ーー
ーー
謎の若き女から別れた後、バージルはとりあえずこの街を見て回ろうと、列車に飛び乗る。
勿論無断乗車だ。この世界の通貨など持っているはずがない彼は、監視カメラを切りに切り伏せ身元を隠し、壁を持ち前の身体能力で飛び越え誰の目にも留まらず中に入り込んだ。
レッドウィンター行きと書かれた電光板に目を配りながら、外の景色に身を委ねる。聞いたことのない地名、見たことのない景色。
いつからだろう、嗅いだことのない淡い香りが鼻孔をくすぶると、頭に浮かんでは消えていた一つの疑問が表面に湧き出てきた。
「ここは……異世界か?」
魔界でクリフォトの根を切り、血を分けた兄弟との喧嘩に明け暮れる。
己が欲しかった力、そして己を唯一理解してくれた肉親との因縁に終止符を打った彼は、肉親と共に人間界に帰った。
何をしたい訳でも、指名も目標も無い。あるのは……大勢の人間を手にかけた殺戮者という事実のみ。
それでも彼は、生きることを選んだ。
いつか、己が得た答えの問いを見つける為に。
そして、己の問いの答えを探す為に。
動いて、手に掴んで、噛み占める。
道導の狭間で、確かな感触を求めに。
そんなある日のこと。
様々な土地を再び放浪していた彼の目の前に、突如として光の球体が舞い降りた。
心地よい、けどどこか切ない感情が彼の中に流れる。忘れていた心の欠片に戸惑いを見せる刹那の瞬間。球体は彼を飲み込み、彼の世界から姿を消した。
かすかに瞼を持ち上げた時、耳に届いたのは、規則正しい電車の振動と穏やかな走行音。
揺らぐ視界の中に浮かぶのは、見慣れぬ車内。そして、その正面に座る一人の少女。
少女は静かに唇を開き、これから彼が向かう世界の断片を、囁くように語り始めた。
私のミスでした。
……大事なのは経験ではなく、選択。
あなたにしかできない選択の数々。
私の手に負えない厄災が、キヴォトスに迫っています。あなたになら、この捻じれて歪んだ先の結末とは、また別の結果を……。
その結末は、きっとあなたの答えの問いになる。
──バージル、きっとあなたになら。
少女の言葉に首を傾げる間もなく、彼の身体は月の海へと投げ込まれた。
波間に揺れるように、どこからともなく夜想曲が流れ、異国の文化を示す旋律が世界を染めていく。
キヴォトス──未知なる地。
そこへ舞い降りた悪魔は、静かに地を踏みしめた。
深く息を吸い込み、確かな重みを感じながら、一歩、また一歩と歩き出した。
「……雪か」
列車が走る時間が長くなればなるほど、窓の外には白く縁取られた大地が広がり、ところどころに雪が厚みを増していた。
微かな冷気が足元を撫で、硬い床を伝ってじんわりと身体に入り込む。
そのとき、車内の片隅にあるスピーカーがざらついた音を立てて声を流し始めた。
──次はー……レッドウィンター。あと30分ー。
──パヒャヒャっ! 超特急で飛ばせば20分で着くよー!
弾むように明るい、はしゃいだ子供の声。
だが聞き耳を立てれば、どこか作り物めいた響きがあり、きっと中身は大人が子供っぽい声を張っているのだろうと考えられる。運航者に違いはないはずだ、と。
彼は最初、気にするに値しないと高を括っていた。
だが、窓の外の景色が急速に流れを早め、世界そのものが走り抜けるように加速していくのを肌で感じ取ったとき、胸中の疑念は氷解していった。
気づけば彼の手は無意識のうちに、硬い肘掛けをぎゅっと握りしめていた。
その時、不意に向かいの自動ドアが開き、一人の生徒がゆっくりと歩いて来る。
淡い翡翠色の長い髪がふわりと揺れ、眠たげな瞳を半分ほど閉じたまま、ふらつく足取りで進んでくる。身にまとっているのは駅員を思わせる制服。その仕立てのきちんとした衣装と、年若い少女の姿との組み合わせは、どこか奇妙な不釣り合いさを帯びていた。
駅員といえば年配か、少なくとも落ち着いた大人の男が務めるものだと勝手に思い込んでいた彼は、その光景に思わず視線を奪われる。
「あれー? あなた、切符見たっけー?」
のんびりと、拍子抜けするほど間の抜けた声が響く。
彼女は目の前に座る彼を見ても驚きもせず、ためらいもなく問いを投げかけてきた。
不意を突かれた彼は返答に迷い、ひとつ咳払いをしてから、ゆっくりと改めて少女を見つめなおした。
「どこかへ落としてしまったようだ」
「ふーん……。そっか、なら大丈夫ー。駅できちんと手続きしてねー」
特に気にすることもなく通り過ぎる少女の背中を見て、安堵の息を吐く。
そう言って無線機に語りかけた少女は、軽やかに後方のドアを開け、ふらりと奥へと姿を消した。
その背中が見えなくなった瞬間、車内の空気から圧が抜けるように静けさが戻る。危機は去ったのだと、バージルはひとつ息を吐き、再び前へ視線を戻した。
目の端に、座席の脇に無造作に差し込まれた紙束が映る。パンフレット。恐らく、他の乗客が置き忘れていったものだろう。
手を伸ばして取り上げる。厚みの割に軽く、ざらついた紙の感触。
偶然の拾い物にしてはあまりにも好都合だ。未知の世界を知る手掛かりが、こうして目の前に差し出されたのだから。
バージルは冊子をめくり、視線を文字の海に沈めていった。
──その時だった。
「次は、レッドウィンター」──車内アナウンスの声が響いた、その刹那。
後方から轟く爆音が車体を震わせ、熱風が車内を蹂躙するように吹き荒れた。反射的に前方へ身を投げ出したバージルは、すぐさま振り返る。
自動ドアの先に広がっていたのは、雪景色。
鉄橋の上を走っていた列車の、後方二車両が音を立てて切り離され、崖下へと落ちていく最中だったのだ。連結部から吹き出す火花、断ち切られた金属のきしみ。落下していく車両は、雪深い谷底へ吸い込まれるように墜ちていく。
眼下で新雪が弾け、爆発の余波と衝撃で巻き上がった粉塵が、激しい嵐となって顔を打ち据える。
だが彼の乗る車両は、辛うじて鉄橋の上に留まっていた。
(何事だ……?)
列車は減速することなく走り抜け、わずか数十秒後。目的の駅に滑り込むと同時に、乗客たちは蜘蛛の子を散らすように出口へ駆け出していった。
その群れに紛れ、バージルもまた静かに立ち去ろうとした──が。
背後に潜む気配を確かめるべく、警戒心から一度だけ振り返る。
そこにいたのは、淡い翡翠色の長い髪を両端にまとめ、真っ直ぐに彼のもとへ駆け寄ってくる少女の姿だった。
先ほど車内で会話を交わした少女とよく似ている。だが、その表情の輪郭や瞳の奥に宿る光には、どこか違いがある。
──姉妹か。バージルは瞬時にそう印象を抱いた。
次の瞬間、少女の唇が大きく開かれ、切実な言葉が吐き出される。
その声は騒然とした駅構内のざわめきを突き抜け、確かに彼の耳へと届いた。
「あの、私と同じ制服を着た子を見なかった!?」
「……そういえば、一人いたかもしれぬな」
「どこ!? どこに行ったの!?」
「後部列車の方へと歩いていったが、それがどうした?」
後部の二両——あれこそが、谷底へと落ちていった列車だった。
少女の足はふらつき、重心を保てずに膝が崩れ落ちる。目は大きく見開かれ、信じ難さが顔から滲み出していた。唇が震え、思わず零れた一語が空へと消えていく。視線の焦点は定まらず、やがて天を仰ぐように宙を見つめたまま、時間が止まったかのようだった。
「ヒカリ……そんな」
——行かなきゃ!!
走り出そうとしたその瞬間、バージルの手が無意識に彼女の肩にかかった。咄嗟の仕草に、自分でも驚く。だが接触は短く、確かな重みだけが残る。
「貴様、まさかあの谷底へと赴くのではあるまいな?」
「その通りだよ!! 行って、助けなきゃ!!」
「あの高さから落ちて助かるはずもなかろう。大人しく救助を待っておけ」
彼の言葉は冷たく、容赦がなかった。怒りに燃えた彼女の瞳は尖り、衝動のままに腕を振りほどく。勢いよく向き直ると、バージルの真正面に立ち、下から強く見上げた。
「そんな悠長なことしてられないよ……だって、だって」
胸の奥から溢れ出す声は震えているが、言葉は止まらない。声帯を震わせ、最後に全てを吐き出すように彼女は叫んだ。
──私の家族なんだから!!!
ーー
ーー
鉄橋から列車が落下して、すでに二時間が経過していた。
山奥を覆う猛吹雪は容赦なく吹き荒れ、どれほど防寒具を身にまとおうと骨の芯から体温を奪い取っていく。吐く息は瞬時に白く凍り、喉の奥にまで冷気が突き刺さる。生きて歩き続けること自体が、すでに死と背中合わせだった。
その中を、橘ノゾミは必死に前を向いて進んでいた。
小さなスノーバイクのハンドルを握りしめ、身を伏せながら猛風に抗う。前方は一面の白。濃い霧と雪が重なり合い、視界はほとんど塞がれていた。見えるものは何もない。頼りになるのは、胸元に括りつけた小さなコンパスだけ。針が震えるたび、彼女はそれを信じてアクセルを捻った。
その時、鼻腔をくすぐる焦げ臭い匂いが風に乗って流れてきた。
金属が焼け焦げ、油が燻る独特の匂い。ノゾミは顔を上げ、唇をきつく結んだ。間違いない。列車の残骸は近い。ヒカリも、あの中にいるはず。
彼女はさらにアクセルを踏み込む。エンジンが唸り、雪煙を巻き上げてバイクが加速する。心臓の鼓動も早鐘のように速くなる。もう少し、もう少しだ。
しかし次の瞬間、目の前に突如として現れた黒い影に息を呑む。
大木。真っ白な視界の中から不意に姿を現したそれは、避ける間もなく進路を塞いだ。
衝撃音と共にスノーバイクは派手に弾け飛び、ノゾミの身体も雪原に叩きつけられる。
世界が回転し、耳鳴りが響き、視界は白と黒が入り混じる。
転がりながら止まった彼女は、額を押さえ呻き声を漏らした。おでこには激しくぶつけた痣。冷たい風が容赦なく吹きつけ、震える身体から熱を奪い続ける。だが止まってはいられない。
膝を雪に沈めながら立ち上がり、一歩、また一歩と足を進める。
やがて、吹雪の帳の向こうに異様な影が浮かび上がった。
──天を衝くかのように、列車の残骸が地面に突き刺さっていた。
車両は原型を失い、ねじれ、裂け、氷の柱のように白い世界に突き立っている。
ノゾミの呼吸が荒くなる。胸の奥が軋むように痛む。
その残骸の脇に、翡翠色の髪が雪に埋もれているのを目にした瞬間、心臓が止まったかのような錯覚を覚えた。
「……ヒカリ!」
雪を蹴散らし、重たい足を必死に動かす。
寒さも、痛みも、もはや関係なかった。
ただ最愛の家族へと辿り着くために。ノゾミは全ての力を込めて、その小さな身体を前へと駆けさせた。
「ヒカリ! しっかりして!」
ノゾミは雪を掻き分け、冷たく硬い氷の層を素手でかき破りながら、その翡翠色の髪を持つ少女の傍へと膝をついた。
白い息を荒げ、震える指で肩を揺さぶる。
ヒカリの顔は雪に覆われていた。ノゾミは手袋を外し、素手でその冷たい雪を払う。白い頬が現れ、唇は紫色に変わっている。
「お願い、返事してよ……」
必死に呼びかけながら、その身体を抱き起こす。冷えきった体温が自分の腕を刺すように伝わってきた。ノゾミは唇を噛み、涙を滲ませながらも強く抱き締める。
──その時だった。
地面を揺さぶる轟音。吹き荒れる風が一気に勢いを増し、猛吹雪となって彼女たちの視界を奪う。
雪片が針のように顔へ突き刺さり、呼吸さえままならない。
ノゾミが顔を上げた瞬間、耳を裂くような金属の悲鳴が夜空に響いた。
見上げれば、天高く突き刺さっていた列車の残骸が、吹雪に煽られ、ゆっくりと傾き始めていた。
「嘘……!」
凍りつくような瞬間。
列車の残骸は、まるで巨大な獣が牙を剥いて襲いかかるかのように、彼女たちの上へと影を落としていた。
ノゾミは必死に体を捩り、ヒカリを抱えたまま逃げ出そうとする。だが、ここへ来るまでに全ての体力を削り尽くしていた。猛吹雪の中での行軍、雪原を裂くスノーバイクの衝撃、そして大木との衝突で全身に走った鈍痛。意識は霞み、まぶたは重く、呼吸さえも凍りついて思うようにできない。
足に力を込めようとしても、膝は雪に沈み、寒気が骨の芯まで突き刺さる。自分の体温さえ維持できず、指先の感覚も失われていく。
頭上から迫る轟音。きしむ金属音が大地を震わせ、雪煙が舞い上がる。
巨大な影が一歩ずつ近づいてくるように、確実に、彼女たちを呑み込もうとしていた。
もう……ダメだ。そんな思考が彼女の頭を巡り、家族を抱きしめ、身を屈めようとした。
──その時。
一筋の閃光が宙を裂き、夜空を切り裂く稲妻のように走った。
落下していた列車の巨塊が、まるで見えざる手に持ち上げられるかのように、切り上げられていく。
突拍子もない光景に、ノゾミは自らの目を疑った。
だがすぐに気づく、自分の視界に映るその存在こそが、あり得ざる事象の原因だと。
彼女の前に立っていたのは、一つの影。
まるで最初からそこに居合わせたかのように自然に、堂々と。
長いコートを翻し、腰を深く落とし、握られているのは「刀」。
その柄を深々と掴み、を天仰ぐその姿は。
──
銀色の髪は閃光に照らされ逆立ち、冷ややかに煌めく青の瞳が闇を穿つ。
仄かに輝くその瞳に目を奪われ、ノゾミは声を失ったまま、ただ息を呑んで見つめるしかなかった。
再び列車の残骸が彼女たちの頭上に落ちようとした瞬間、幾千もの閃光がほとばしり、世界全体を覆い尽くす。
その姿は瞬きする間もなく掻き消え、刹那の後には同じ場所に舞い戻っていた。
──時間そのものが止まったように錯覚する静寂の中。
橘ノゾミは確かに聞いていた。
鍔と鞘がぶつかり合い、鋭く響き渡る反響音を。
「う、嘘……だよね?」
ノゾミの震える声が白い吐息に混ざる。
彼女の目に映ったのは、閃光に打たれた列車の末路だった。
鉄と鋼でできた巨塊は、もはや重力に縛られた存在ではなかった。まるで空気よりも軽い紙切れのように、切り刻まれ、細片となって雪の空へと散っていく。
──誰かが……来てくれた。
──凄い人が、私たちを助けてくれたんだ。
安堵に包まれた瞬間、張り詰めていた全身の糸がぷつりと切れた。
体力を使い果たしたノゾミは、力なく雪の上に崩れ落ちる。
視界が白くかすみ、瞼が重く閉じていく。
その暗闇の中、頬に触れる感触だけが鮮明だった。
──暖かい。
冷え切った世界の中で、その手……暖かかった。
ノゾミの意識は、その温もりに包まれるようにして、静かに沈んでいく。
静かに瞳を閉じる彼女を見て、彼は己の行動が理解出来ないでいた。出来ないでいたが、それが問いに繋がる気がして、体を止めることが出来なかったのだ。
「……俺は」
ーー
ーー
──何をしている。
多くの人間の命を奪ったこの俺が。
今更……人助けだと?
答えは得たはずだ。
あの時に……答えは。
──俺は、何を探している?
ぱちぱちと薪の爆ぜる音がこだまする。
暖気を帯びた木の香りが更なる眠気を誘いながら、柔らかい布地に包まれた感触が心地よい。
閉じた瞳が重くのしかかる。足先が少し冷たい。だから身をさらに丸くして、寄り添っている温もりに更に深く溶け込むんだ。
──夢を、見ていたのかな。
悪い悪い悪夢だ。
誰も傷つかないで、誇りを持って今日も乗客を目的地まで届ける。
いつもの日常のはずだった。けど、最近多発するテロ行為には頭を悩ませていた。
まさか──それが自分に降りかかるなんて。
絶望が目の前に現れた。もうダメかと思った。
けど──。
「う……ううん」
まぶたを持ち上げた瞬間、ノゾミの視界に広がったのは、淡い暖色に揺れる薄暗い光だった。
しばしそれが何か理解できず、ようやく火だと気づくまでに数秒を要した。小さな山小屋の中、焚かれた炎が壁に影を踊らせている。
現状を確かめようと、ノゾミは身を起こそうとする。だが思うように体は動かず、喉からかすれた声が漏れただけだった。
「……寒い……」
か細い呟きと同時に、枕を探すように腕を伸ばす。指先が触れたのは、温かな体温。隣に横たわるヒカリだった。彼女は安らかな寝息を立てて眠り続けている。
「目を覚ましたか」
低く響く声に顔を上げる。
そこにいたのは、列車から降りた直後に彼女へ最初の言葉を投げかけた、あの男の姿だった。
「あ、あれ? あなたは──」
「喋るつもりならやめておけ。貴様の体は衰弱している」
言葉は冷たいが、響きは妙に確かだった。実際、舌は重く回らず、声に力もこもらない。
寒さと疲労に奪われた体力は戻らず、反論する余裕もなかった。
ノゾミは観念するように息を吐き、男の厚いコートに身を委ねる。
両脇に二人を抱え込むようにしてソファー座るバージルは、焚火の炎に視線を戻し、その青い瞳に揺らぐ光を映していた。
小屋の中はまだ冷たい。だが、その静かな炎と彼の腕に包まれる温もりだけが、確かに二人を生かし留めている。
(何故だ。これが俺の得た答えなのだろうか。だが問いは……)
「あの」
「喋るなと言っただろう」
「う、うん。でもね──」
少女は悟っていた。
あの列車での出来事。切り伏せた者。そしてここまで運び込み、暖かくしてくれた者を。
──ありがとう。
言葉が宙を舞うと同時に、彼女の瞳は深く落ちる。
なけなしの体力を使ってでも、伝えたかったその言葉は、バージルにとって……。
聞き流すことが出来ない、新しい己の姿であった。
ーー
ーー
とある駅の待合室。
列車を待つ人々が一斉に視線を向ける先には、大きなモニターがあった。
そこに映し出されているのは、キヴォトスに吹き込まれた新しい風──突如現れた「先生」の存在だった。
学園都市で暮らす生徒たちは、これまで「先生」と呼ばれる存在に出会ったことなどなかった。ゆえに驚きと好奇心がないまぜになり、待合室は自然とざわついていた。
ネット上でも同様に、すでにシャーレとその「先生」の噂で持ち切りだ。
「怖そう」「刀が物騒すぎる」、そんな声が次々と飛び交う。自分たちが当然のように銃を携えていることなど棚に上げ、ただ新しい存在への興奮と警戒が混じり合っていた。
ざわめきの中、同じモニターを見上げる二人の生徒がいた。
ひとりは眠たげな瞳をこすりながらぼんやりと画面を眺め、もうひとりは輝く瞳で食い入るようにその姿を追っている。
「ねぇねぇヒカリ、あれ見てよ!」
「うーん? しゃーれ? せんせー?」
「うん! ……もしかして、思い出せない?」
「うーん、柔らかい光が見えたかもー」
「うわ……薄っすらじゃん! もー」
橘ノゾミは小さくため息をつきながらも、僅かに頬を赤らめ、画面に映るその横顔をしっかりと目に焼き付けていた。
隣で首を傾げるヒカリは、そんな姉の表情を新鮮に思ったのか、今度は逆にその横顔に釘付けになっている。
家族の新しい一面を見つけたように、静かに見守っていた。
「ねぇ、会いに行こうよ! 私達だって生徒でしょ? 生徒が先生に会ったっておかしくないしさ!」
それに──。