「ふぅん、素敵な露天風呂ね」
岩づたいにせせらぎが流れ込み、湯船の縁で小さな渦を描く。頭上では竹の簾越しに夕日が射し込み、幾筋もの光条が湯気を貫いて乳白色の靄を黄金に染めた。
石組みにはびこる苔はしっとり濃緑に潤み、湯に触れるところだけがふわりと色を淡くしている。遠くで鳥が一声鳴くと、熱を帯びた湯面がわずかに揺れ、その反射が木の葉にちらちらと跳ね返る。
「ええ、この宿自慢の露天風呂だそうです。今回は貸し切りで予約させて頂きましたので、お客は私達だけです。羽を広げて寛がれてください」
「凄いぞアコちゃん! これは秘湯だ!」
「ふぅ、なんだか久しぶりに入る気がします。ここ最近は激務でしたからね」
かけ湯を受けたチナツの素足が、湯面にそっと波紋を描く。温度を確かめながら膝、腰と沈めていくにつれ、熱が皮膚を透って骨の芯へしみわたり、思わず安堵の吐息が漏れた。
あとに続くアコとイオリも岩縁に手をつき、足先からゆっくりと身を沈める。胸まで湯に浸かった瞬間、喉奥で堪えていた息が一気にこぼれ、強ばっていた肩がほどけたように湯へ溶け込んでいく。
木立の隙間から差す木漏れ日が湯気を淡く照らし、湯面に踊る光が三人の頬をやわらかく染めた。静かな湧き音と遠くの鳥の囀りだけが響く中、湯は疲労を吸い取り、心もまたほどけていった。
「委員長?」
「先に髪を洗ってからにするわ。気にしないでゆっくりして」
ヒナは蛇口をひねり、ぬるめの湯を髪に落とした。濡れた髪を束ねるようにかき寄せ、掌に広げたシャンプーを泡立てる。淡い蜂蜜を思わせる甘い香りが湯気に混ざり、いっぱいに柔らかく広がる。泡が髪をすべり、指先が頭皮をほぐすたび、緊張が溶けて頬がゆるむ。目尻に小さな笑みが宿り、湯の音だけが静かに重なった。
そんな彼女の背中を視界に収め、手で口元を隠しながらこしょこしょ話をする三人。
「なぁチナツ。委員長やっぱり元気無いよな」
「ええ、スルメ焼きを食べてる時は少し笑顔が出ていましたが、全体的にぼーっとしていますよね。やっぱりあのお祭りの広場で数時間遊んだ疲れも来ているのかもしれません」
「もう、イオリがはしゃぐからですよ。チナツも乗っかっちゃって」
「いや違うぞ。チナツが近所の子供を買収して戦略的に襲撃してきたからだ。それにアコちゃんだってかなりムキになってたじゃないか」
「そりゃあ五回も顔に当てられれば誰だってムキになります」
髪と身体を洗い終わったヒナがゆっくりと湯面に浸かり、大きな羽を目一杯広げて天を仰いだ。
先ほどまでゆらゆらと地面を白く染め上げていた雪の結晶は夕日と共に溶け、竹の簾から差し込む光芒は辺りを幻想に染める。
湯口から湧き出る水の音、隙間から這いよる冷気は顔を涼ませ、その寒暖差が彼女達の身体に心地よい寒暖差と和みをもたらす。ヒナの両手が湯を掬い顔を温め直すと、仄かに赤みを帯びた頬がきめ細かく輝き、いつもの可愛らしい顔立ちがどこか大人びた女性に見えた。
そんな彼女の口が開く。
「ねぇ、先生上手くやってるかしら。あの人は猪突猛進だから……」
「ぜっっっっったい5人は顔掴んで──貴様、今何をした……! って言ってるぞ。私には分かるんだ。大体、委員長の代わりなんて本当に務まるのか? なんでも斬れば解決じゃないんだぞ!」
「容易に想像出来ますね。確かに、先生にとってゲヘナは違う意味で荷が重いかもしれません。言っても理解しないで我を通す生徒が沢山いますからね……。まぁ先生も真っ直ぐなお人ですが」
「あの先生は思考がデジタルな所がありますから。ですが、最初にお会いした時よりもだいぶ丸くなったと思いませんか? エデン条約の時から、明らかに。ヒナ委員長もそう思いませんか?」
「うん。トリニティでなにかあったのって聞いたけど、色々だって一蹴されたの。なんかカードを大事そうに見ながらね」
「ヒナ委員長になんて暴言を……! 今度シャーレに赴いた時に一言申し上げなければいけませんね!」
「アコ……結構先生と仲いいよね」
ーー
ーー
「先生、今日もお疲れ様でした」
「リンか。ここに顔を出すのは珍しい。急ぎか?」
「いえ……あの、これを見て頂きたいのですが」
シャーレの執務室に足を踏み入れると、リンがソファに腰を沈めていた。彼女は顔を上げるやいなや、ローテーブルで動かしていたノートPCをぱたんと閉じ、鞄から一枚の書類を取り出して差し出す。
その眉間には、書類の中身に対する諦め半分の呆れがにじんでいる。バージルは紙を受け取ると、一瞥だけで内容を把握し、鼻を鳴らした。次の瞬間、ためらいなくシュレッダーの投入口へ滑り込ませる。
「ビル倒壊の請求書だったのですが……」
「どうせブラックマーケットだろう。放っておけ」
「つまり、ブラックマーケットのビル一棟を破壊したと?」
「生徒に出だしをする悪党をこらしめただけだ。応ずる必要はない。だが、もし幾たびも請求書を送りつけてくるのなら俺が直々に話を付けてやろう」
鍔の金属を鳴らしな閻魔刀を立てかけ、オフィスチェアに座りパソコンを起動する。巨大なペロロ様の壁紙の中にはいくつものフォルダが散乱しており、その中の「ゲヘナ」をクリック。スケジュール帳が画面全体に広がると同時にマウスを合わせキーボードを鳴らした。
ヒナが戻るのは二日後。二泊三日の温泉旅はどんなものかと指が顎先を支えると、脳内に彼女達の和んだ顔がちらつき始める。
これが、先生としての役目なのかは未だはっきりしないが、生徒が楽しんでくれているのならそれは間違いではない筈だ。ゲヘナでの生徒との接し方も悩みに悩んだが──厳しい指導もきっと将来役に立つと、子供の頃に父の訓練で泣かされた記憶が起こされる。
「……先生」
「どうした」
「余計なお世話かもしれませんが、その──先生は変わられましたね」
「俺が?」
「ええ、エデン条約での問題を解決なさった時から」
「ふん、どうだか。お前が俺を見る目が変わったのだろう」
「いえ、違います。ほんの数か月前の先生は……知らん、興味も無いの一点張りでしたから」
「……さあな」
「ではお変わりになられたバージル先生、この後生徒会の皆と美味しいおでん屋さんに食べにいくのですが、ご一緒にいかがでしょうか?」
「……酒は?」
「秘密裏に生酒が入ったそうです。店主も先生と飲みたいとおっしゃられていました」
「ふん、仕事などしておられんな。すぐに向かう」
キーボードをたたく手を止めたバージルはコートを肩に引き寄せ、軽やかに立ち上がる。彼の背を見送りながらリンはそっと照明を落とし、微笑を残して扉を閉じた。
ーー
ーー
「うぉ……! なんて豪勢なんだ! これ本当に食べていいのかアコちゃん!?」
「そりゃ出されてるのですから」
漆黒の卓上に色鮮やかな会席膳が並ぶ。中央の朱塗り盆には前菜盛り合わせ。紅葉を添えた鮭の押し寿司や胡麻豆腐、串打ちのつくね。右手に艶やかな赤身の刺身と薬味、奥には天ぷらと彩りサラダ。左手前の塩焼き川魚が柚子と檜葉をまとい、その奥には味噌田楽と季節野菜。霜降り牛は小鍋の鉄板で炙る趣向で、白御飯と吸い物が控える。
「イオリ、いきなり霜降り牛からとは……」
「お腹が減ってる時は一番舌に染みる物からいくのが鉄板だ!」
鮮やかな赤身が段々と焼け、ほんのり色味を残した状態で彼女の口に運ばれる。とろける程の触感にうっとりと頬を赤らめたイオリは思わず片手を顔に添え、三日月のように瞳を細くする。
まるで運命の出会いのようなイオリの反応に喉をごくりと鳴らしたヒナは、同じように霜降り牛を鉄板の上で炙り口の中に溶け込ませると、瞼の裏に満点のお星さまを咲かせた。
彼女達に倣って三日月の瞳を描いたイオリとアコ。この世の贅沢を満喫した彼女達の肩には、既に風紀員の疲れなど微塵も残ってはおらず、一種の幸せをかみしめるのであった。
ーー
ーー
「ぎゃああああああ!!!」
素っ頓狂な叫びがゲヘナの廊下にこだまする最中、彼は相も変わらず片手に刀を携え叫んでいる生徒を見下ろす。
いきなりの襲撃にも関わらず、銃弾達はまさか己が二つに分身……いや、真っ二つにされるとは思ってもいないだろう。このキヴォトスでは銃弾を跳ね返す者はいても、銃弾を切り伏せる者などひとりもいない。こんにちも生徒の体を直撃し、奇怪な金属音を響かせ地面に落下すると踏んでいた。
ある銃弾は円を描いた刀身に纏わり地面に当列に並べられ弾き飛ばされ、ある銃弾は跳弾の勢いで跳ね返され、銃口に巻き戻される。
持ち主の生徒は、いつの間にか眼前に現れた彼を視界に収めつつも、脳の反応が遅れ対処出来ずそのまま銃を握りつぶされると同時に首元に手刀を当てられ気絶し、救急医学部部長に死体として運ばれる。
「く、くっそーー! ゲヘナは私達の学校だ!!! 好きにさせてたまるか!!」
銃が効かないのなら肉弾戦だと、四方八方から一斉に飛び掛かる生徒達。
──遅い。
彼の口が微かに動いたその瞬間。いつの間にか彼女達よりも微かに高く飛び上がった彼の手には既に刀は無く、鞘に収まったその長物は高速に回転しながら彼女達の身体を一人残らず吹き飛ばすと、着地と同時に手に収まる。
「ふ、まるで侵略者に掛ける言葉だ。俺は風紀委員会の代理として仕事をしているに過ぎん。抵抗する者には罰を、従順な者には規則を。これまでもそうだっただろう」
「もっと自由だったぞ!?」
──黙れ。
容赦ない一撃。鞘の先端が生徒の腹を直撃し、数メートル床を転がらせると、先程までの威勢の良い口からは虫の声。
「セナ」の一言で彼女も他の生徒同様回収され、廊下に残るのは幾たびの薬莢のみ。散らばったそれを気にすることなく闊歩するその先には、このゲヘナ学園でも数少ない彼を慕う生徒の姿があった。
「せ、せんせー」
「イブキか。こんな所で何をしている。怪我でもしたらどうする気だ」
「でも、みんな怖い顔してる。怖いよー……」
「……そうか。ならば、青の者に守って貰えばいい」
彼女の不安をなだめる言葉とともに、右腕を水平に払う。すると床に淡い青光が走り、そこから鎧に包まれた影が立ち上がる。蒼炎を思わせる輪郭に刃のきらめきを孕んだドッペルゲンガ──無数の悪魔を屠ってきた悪魔の化身だ。
影は無言でイブキの肩に手を置き、守るように一歩前へ出る。促されるまま彼女が教室へ向かうと、奥から「わーい、トランプしよー!」と弾む声がこぼれた。小さな足音とともに、恐怖は遊戯の笑い声に溶けていく。
「さて、風紀委員会に逆らう者は他に──」
言葉が途切れた刹那、鼓膜を揺らす轟音が校舎を震わせた。壁も床も息を呑んだかのように一瞬で硬直し、直後に廊下の窓ガラスがカタカタと震えながら風を吸い込む。破裂点から押し寄せた衝撃波は、彼の青いコートの裾を荒く裏返し、乾いた埃と硝煙の匂いをまとわせた。爆薬の量、破砕音、そして余波の速さ──常人なら聞き分けることも難しい情報を、一瞬で解析する。
ここまで派手な火薬を扱うのは温泉開発部しかいない。そう断じた瞬間、胸の奥に沈めていた闘争本能が静かに熱を帯びた。居合い抜きで閻魔刀を抜き、刃先で爆煙を断ち斬る──そんな場面が脳裏をよぎる。だが、まだ理性は剣呑な衝動に手綱をかける。あくまで相手は生徒、傷つける訳にはいかない。規律を示し、力の使いどころを教えるのが先生の役目だ。
「今こそ俺は、俺の本当の仕事に取り掛かるとしよう」
独白とともに窓枠を蹴り、外気に身を投げた。落下と同時に大地を蹴りつけ、一気に屋根伝いに加速。再び鳴り響く爆発音は先ほどより重く、耳の奥に杭を打つように響いてくる。誘われるように鳴り続ける炸裂音が、まるで「ここまで来い」と呼び声を上げているかのようだ。
両足にさらに力を込め、跳躍。宙を裂くように身を翻し、校舎の影をひと息で置き去りにする。着地したのは運動場の端。そこから見えたのは、中央に陣取り地面を抉る巨大ドリル──不格好な顔面プレートを付けた温泉掘削用とおぼしきロボットだ。そのコクピットには万魔殿議長のマコト、そして温泉開発部部長のカスミ。二人の意気揚々としたシルエットが照り返す夕陽に浮かび、機体の排気熱が蜃気楼のように揺らいでいた。
「キッ……キキッ! 遂に来たな先生!」
「マコトか。またバカな真似をする」
「キキキッ……その余裕な態度、いつまで持つかな!」
ガッチャンコ! と間抜けな音で油圧シリンダーが伸び、ドリルロボの脚がゆっくり持ち上がる。次の瞬間、巨大な足が運動場へ叩きつけられ、乾いた土と砂が柱のように舞い上がった。熱気を孕んだ風がバージルのコートを荒々しくはためかせ、遠巻きに見ていた生徒の悲鳴を吹き散らす。
「不細工な顔だ」
口ではそう吐き捨てながらも、胸裏では別の懸念が膨らむ。こんな危険物が校内を徘徊すれば、巻き添えになる生徒が必ず出る──それだけは絶対に許せない。先生である以上、生徒の未来を守ることが最優先だ。どんな小さな声でも耳を傾け、悩みを青空へと解き放つ。それが先生という肩書へ込められた責務。
──夕日が覆う砂浜の上で、涙をこぼしていた純粋無垢な少女。そして、この世界を託していった先生の魂。
バージルは優しさで包み込む術を持たない。けれど、その崇高で穢れなき想いだけが、刃を握る彼を「先生」に変える。
鋼の意志とともに歩を進め、彼は再び刀の柄に指を掛けた。
──淡い青の硝煙が彼の周囲で輪を描きながら、静かに大気を削いでいく。
左足を一歩うしろへ深く引き、鞘と握られた左腕を地面すれすれまで構え、柄を握り込んだ。
胴を大きく捻った姿勢は、一瞬のうちに万物の気配を吸い込み、次の刹那に向けて凝縮する嵐の胎動だ。
「ひ、ひ、ひええぇぇええぇぇええ!!!」
「む、どうしたカスミ」
「あ、あ、あれは──! マコト議長、先生が相手など言ってなかったじゃないか! ひええぇぇええぇぇええ」
風は止み、音さえも遠ざかる。刀がわずかに軋む音だけが、時を断つ起点となった。
「ひええぇぇええぇぇええ!!! 逃げろおおお!!!」
「お、おい待てどこに行く──」
ーー
ーー
「では、無病息災を願いまして──」
「アコちゃん、こういう所では声に出さないのが普通じゃないか?」
「まぁまぁ、雰囲気ですから」
境内は一面の純白。しんと積もった雪に赤い欄干と檜皮葺の大屋根が映え、朝の光を返してまぶしい。重い雪帽子を載せた社殿の屋根からは時折粉雪がはらりと落ち、参道に小さな跡を刻んでいた。
アコは掌を合わせる前に息を整え、ほわりと白い吐息をこぼす。イオリは雪除けの屋根を見上げ「いい場所だな」と呟き、ヒナは凛とした空気を胸いっぱいに吸い込みながら鈴の緒を引く。チナツは肩に降りた雪片を払い、手水舎の水面に映る四人の影を確かめると、静かに二礼二拍手。
雪の静けさに柏手が澄んで響き、木立の奥で枝の雪がさらりと揺れた。
「なんだか気持ち良いね」
「ええ、心が洗われるようです」
先日よりも幾分かましになったヒナの表情に気を配りながらも、アコは彼女の手を引いておみくじへと誘った。
無病息災を謳ったこの神社では、基本的には健康に関するグッズや催しが主になるが、昨今の情勢を踏まえてか、客足を最優先にする考え方で運営している。
当然、おみくじは客の興味を引くのには絶好の商材だ。恋から始まり商いに終わる。友人関係やら未来の羨望やらと上げれば枚挙いとまがないと言われても仕方がない。
商魂震えるその在り方に興味を惹かれた4人は、どうせなら催しが多い場所に向かおうと、この神社へと足を運ぶ事になったのだ。
「へぇ、おみくじ」
「委員長はどれを引かれますか?」
チナツは早々に筒を振り終え、引き当てた紙を結び所へくるりと結わえてからヒナの横に戻ってきた。結び目のそばで揺れる白札には「湯所にて、待ち人来たれり」と文言。肝心の意味が今ひとつ掴めず、彼女は首を傾げたまま眉間に小さな皺を寄せている。おまけに ラッキーアイテムはバスタオルとハイカラな文言もあったものだから、余計に疑問符が頭上を回っているらしい。
ヒナはそんな様子に苦笑しつつ、「人間関係」と書かれた木箱から一本の細い籤筒を手に取る。冷えた空気に鈴の音が混じり、白く光る社殿の屋根から雪がほろりと落ちた。
「ふぅん……待つべし、ね」
「そうですよ。何も委員長が動く事ではないです」
「知ってるの? ……ま、そうだよね」
「あっ」。チナツの手が思わず口元を隠すが、時既に遅しだ。
そもそも、薄々気が付いていた。地面に倒れるなど、頻度こそ多くはないが何度かあった。それがいきなり身を労わるように旅行を計画し、あの先生まで協力してくれるというのだから、きっと何に悩んでいるかなど全てお見通し。優秀な後輩達だ。色々調べもしたのだろうと考えると、彼女の口元は緩やかになった。
悪辣に愚痴を吐くのではなく、静かな時間を過ごして欲しいという彼女達の願いは心底嬉しかった。己に暴言を吐いた生徒を責めるのは逆に心を痛める。力あるものだからこそ、悪態のひとつや二つ耐えなければと思い込んでいた。
──少しだけ、甘えてもいいのかも。
「……ありがとね、みんな」
ーー
ーー
「甘えるな。まだ窓の四隅に埃が残っているだろう。徹底的に磨け」
「く……! 議員であるこの私に掃除をさせるなんて……! けど、先生の暴挙もここまでよ! 私は情報部の力を使い先生の弱点を発見したのよ? 怖い? 怖いわよね? ふふっ、今さら怖気ついても遅いんだから! じゃあ行くわよ? 先生は段々私に服従するようになぁ~る。言う事をなんでも聞くようになぁ~る。……お、おかしいわ、身体が熱い。どうしてなの!? ……は!? まさか逆にコインを利用して私を従わせようと……。うぅ、なんて卑怯なの!? あううう……身体が熱い。服を脱ぎたくなってきたわ。ただ催眠を跳ね返すのではなく、先生にそんなご趣味があったなんて」
「貴様何をしている……」
ただでさえネクタイを谷間に挟んだ出で立ちが不埒だというのに、額から頬、顎先から首元を通り深い谷底へ滴る一粒の大きな汗は彼女の魅力を更に引き立てていた。
公序良俗に反しようとする彼女を静止しつつ、パチンっと両手を合わせ催眠を解除すると、彼女はまた悔しそうな顔をしながら雑巾で窓辺を磨く作業へと戻る。
「掃除は心も綺麗にする。貴様らにはお似合いの措置だ」
昼過ぎ、ゲヘナ生徒によるクーデターを鎮圧した彼は、昼食を与えたのち全員を校内に呼び集めた。ロボット掃除機に頼り切りな今の環境では己のしでかしたことに気付きもしないと判断し、あえて素手の清掃を命じる。
サツキが床を磨く横を、カスミのモップが軽快に滑り抜ける。蛇口まわりではイロハがナイロンたわしを回しつつ、水しぶきでひそかな遊びに興じていた。上窓の高所作業はイブキが担当──肩車しているのは彼のドッペルゲンガーだ。無邪気な笑顔でガラスを拭き上げる姿を、地上で見上げるマコトはどこか寂しそうに視線を泳がせる。
夕方までかけて校舎が隅々まで磨き上げられる頃には、全員の腕も脚も鉛のように重くなっていた。やがて温泉開発部が手配した大浴場へ移動すると、生徒たちは湯船に溶ける粉末のように力なく沈み込み、熱い湯とともに一日の疲労をゆっくりと洗い流していった。
ーー
ーー
湯の花が漂う露天をあとにし、山の幸を盛り込んだ彩り豊かな朝食を平らげた一行は、ほかほかの余熱を抱えたまま帰路のバスに揺られている。毛布にくるまったアコたちは素早く眠りに落ち、車内には穏やかな寝息とタイヤのリズムだけが流れていた。──ただ一人、ヒナを除いて。
車窓には、つづら折りの山道で跳ねていた砂利がいつしか消え、アスファルトを擦るロードノイズへ変わっていく。渓流の影はビルの輪郭に置き換わり、街灯が連なるたびに彼女の瞳に小さな光が宿った。
気持ちが折れそうなとき、何も言わず撫でてくれる仲間がいる……。
温泉の湯気よりも温かいその事実が胸に沁み、「ここに居てもいい」という安堵がじわりと広がる。風紀委員長であり、先輩であるという責任感を、いつの間にか鎧のように着込み過ぎていたのかもしれない──とヒナは静かに息をついた。外の景色が次第に市街へ移ろう頃、重荷の一部が肩からそっとほどけていくのを感じていた。
バスは最後まで揺れを抑えたまま静かに停車した。見慣れたはずの校門が、ほんの少し眩しく映るのは心と体から力が抜けたせいだろうか。ヒナは袖口でそっと目頭をぬぐい、運転手へ一礼。荷物室からスーツケースを引き出すと、エンジン音を残してバスはゆるりと走り去り、旅の余韻だけを置いていった。
明日からは再び忙しい日常が待っている。それでも胸の内は以前より軽く、足取りも自然と弾む。門をくぐった先、脇に佇むのは刀を携えた先生の姿。
帰着を見届けるようにわずかに口角を上げ、ヒナの肩に静かに手を置く。
「やはり俺では荷が重い。お前がいなければこの学園は成り立たない」
そのひと言を残し、先生は背を向けて歩き去った。
残った温もりが肩に染み込み、ヒナは深く息を吸い込みながら校舎へ向かって歩き始めようとしたその時──。
「ヒナ委員長が帰って来たぞーーーー!!」
その呼ばわり声が号砲になったように、校舎入口から生徒の群れが雪崩れ込み、まっすぐヒナのもとへ押し寄せた。気づけばアコ・イオリ・チナツは、いつの間にか後方へ退避。取り残されたヒナは成すすべもなく持ち上げられ、無数の腕にゆらりと宙を舞う。
胴上げの中心には、万魔殿の面々が先陣を切り、温泉開発部は「ひぇえええ」と怯え声を上げながらも両手を差し出す。美食研究会は「やはりヒナさんがいなくては」と目元を潤ませ、救急医学部は端で「落ちたら死体です」と小声でつぶやく。そんな喧噪も気流のように混ざり、天井へ向けてヒナの身体がふわりと放り上げられるたび、歓声が重なった。
「ヒーナッ!」
「ヒーナッ!」
「ヒーナッ!」
校舎に反響するリズムの中、胴上げはしばし続いた。過日味わった恐怖と、それで気づいた風紀委員長の優しさ──生徒たちはそれらを胸に、また日常のゲヘナへと戻っていくことだろう。
けれど忘れてはならない。もし再び無秩序が牙をむくなら、「鬼」と呼ばれたあの先生が姿を現し、混沌を規律へ引き戻すに違いないということを。
ーー
ーー
騒動から一週間。
ヒナは相変わらず業務の奔流にのみ込まれ、過労死という単語さえ冗談にならないほどの忙しさをくぐり抜けていた。その日も緊急コールを受け、近所のゲームセンターで不良生徒を鎮圧し終えた帰り道。夕映えの商店街でふと足を止めると、曲がり角の向こうから見覚えのある影が現れた。
胸に突き立った一言を忘れさせてくれなかった張本人が、歩幅を合わせて進み出る。薄い汗が首筋を流れ、ヒナは無意識に指先へ力を込めた。
「探したぜ委員長」
「私を? どうして?」
「いや、まぁその──あの時は言い過ぎたと思ってさ」
「……ふぅん。もしかして、先生に言われたの?」
「ちげーよ、大人の言う事なんか聞くもんか。ただ──傷つけたかなって」
「そう。うん、ちょっと傷ついたかも。それならさ」
コーヒーでも奢ってくれない?