「まさか、本当にこのお茶会に参加くださるなんて……あれだけ先生に醜態を晒してしまいましたのに」
「俺が君の誘いを断る訳ないじゃないか。それに、傷心している生徒を放って置くわけにはいかないだろ? 俺はいつでも君の味方さ。好きに頼ってくれていいんだ」
小鳥のさえずりが忍び、太陽が頭上に傾く時間帯。
トリニティの庭園は花弁と紅茶の香りに包まれ、そこに穏やかな時間が流れていた。
いつもなら整然と並ぶ長机、銀食器と絹のクロスで飾られる上品なお茶会。
だが今日だけは違った。
丸い小さなテーブルにレース調の布を掛け、中央の三段ケーキスタンドを囲むように四人が座る。
肩の力を抜いたその光景は、どこか家庭的で、そして少しだけ秘密めいていた。
一人は獣耳を直立させ、本を片手に読書に耽るフォックス。
そしてもう一人は、桃色の髪をかき上げお転婆な振舞と共に隣のフォックスにちょっかいをかけるトリニティの最終兵器。
「とてもお心強いお言葉に感謝申し上げます。ネロ先生が来てからというもの、このトリニティも品位というのが一段と上がったかと」
「よせよ。俺は先生だからな。当然さ」
「エデン条約、そしてアリウスに住まう子供たちを救った手腕……お見事でした」
舞い散る風が、彼女の穏やかな髪色を靡かせ、目元を覆う。
淡色の神秘の奥に潜んだ憂いた瞳。少し自信なさげな、そして疲労を吐露させた眼は先生の心を締め付けると同時に彼の口元から笑みが陽炎の用に……溶ける。
「それに比べて私は……今まで蓋をしていた、見て見ぬふりをしていたのかもしれません。そこには悲しみが渦巻いていたのに、私ときたら己の保身ばかりです」
桐藤ナギサ。
彼女の声はまるで秋風に揺られ、枯れ木にのこる最後の葉が落ち葉となるように、沈み、雪のように空気に溶けそうになる。
そんな彼女の声が耳を通っては、ネロ先生はどんな言葉で、どんな態度であっても、彼女の心を少しでも軽くできるなら──心の剣を手に取り、天に掲げる。
「だが、指揮を執ったのは君だ。動いて、考えて、実際に食事を届けたんだ。立派だと思うぜ」
「……そこまでの活路を切り開いたのは先生です。闇を払い、光芒を差し込んだ。それまで不可能に思えたアリウスとの関係、信頼を得たのです」
「きっかけなんて些細なものさ。なぁ、少しは自分を褒めてもいいんじゃないか?」
「いえ……私は……」
項垂れるナギサを前に、彼は眉尻を下げた。何か、気の利いた一言でも添えられたなら。だが、あの赤い男のように気安く心に踏み込む言葉が、どうしても見つからない。
助けを求めるように視線を横へ送ると、不意にミカと目が合った。彼女はいつものように優雅な所作で紅茶を啜っていたが、先生の逡巡を察したのだろう。カップをソーサーにそっと戻し、静かに立ち上がる。裾を揺らしながら、軽やかに風を纏いだした。
「ねぇねぇナギちゃん! 野球やらない? 野球!」
「野球……ですか?」
「うん! 丁度先生もいることだし、1体3のチーム戦ってことで!」
「やれやれ。ミカ、チーム戦って言葉を知ってるかい? 複数と複数がまぐわうというのがチーム戦なのだよ」
「まぐわう!? セイアちゃんいきなりなんてこと言うの!?」
「何故顔を赤くする必要が……」
彼女の真っ白な肌が仄かに赤みを帯びる頃、彼は再びナギサの瞳を吸い込まれるように見つめだした。
「おいミカ、いくらなんでもこのご時世でティーパーティーが野球なんてしてたら変な目で見られるだろ。ったく」
「あー……」
「公衆の面前で野球なんてやってみろ。きっと翌日には噂話で持ち切りだ。ただでさえナギサは立場が危ないってのによ」
「あー……先生。そのことなのだけど」
「ま、君がそんなバカみたいなのする訳ねーか。むしろ、やってみた方が面白いまであるぜ」
背凭れに体を預け、紅茶とは似つかわしくない乱暴な飲み方でカップを傾ける。彼の口元には、悪戯を思いついた少年のような、ニヒルな弧が浮かんだ。
けれど視線を戻した先のナギサは、まるで葬列に肩を並べたかのように沈んだ面持ちだった。
「……やはり、そうですよね。気晴らしにとバッティングセンターに誘われて……浮かれて」
その一言は、沈黙の水面に落ちた石のように、彼らの間にじわりと波紋を広げた。
まさかそんな地雷を抱えていたとは――ネロとて予想していなかった。反射的にミカへ助け舟を求めて目を向けるが、時すでに遅い。彼女は“まぐわう”の余韻に呪われたまま、膝をくにゃりと曲げ、真っ赤な頬を両手で覆って身悶えている。とても戦力にはならなそうだ。
ではセイアはどうか――そう思い、藁にもすがる思いで目を向けると、「夢の後遺症が……」とか細く呟き、視線を逸らしてしまった。こちらもまるで当てにならない。
「あ、ああ……その、あれだ。俺はそんなバカみたいな君を放っておけないって意味さ」
「いえ、かばって頂かなくても大丈夫です。私は理解していますから」
ナギサの声は不思議なほど穏やかで、諦めにも似た透明さを帯びていた。彼は思わず息を飲む。
手を伸ばせば届く距離なのに──どうしてか、彼女は遠くに感じられた。
「ちっ……! こうなったら!」
椅子が床を擦る鋭い音とともに、彼は立ち上がった。次の瞬間には、ためらいもなくナギサの手を掴み、ぐっと引き上げている。
突然の展開に追いつけず、ナギサは大きく瞬きをしたまま流れに身を委ねた。けれど、その手から伝わる確かな体温が、胸の奥にじわりと染みていく。
絡まり切った不安をほどく指先。冷えた頬を溶かす掌。
本来ならば、教師としてそんな温もりに寄りかかるべきではない──それでも……導かれるその力に、どこか連れていってほしいと、心が勝手に願ってしまう。
「わわ! ちょっと先生いきなり!?」
「お前らも準備してろ。校庭に集合だ」
宣言のようなその声に、迷いは一切なかった。
ナギサの手はまだ彼のものの中にしっかりと握られたままだった。
急な展開についていけず置き去りにされたミカとセイア。
しかし二人は追いかける様子もなく、残されたマカロンをきれいに平らげ、紅茶で甘さを流し込む。そんな余裕ある動きのまま、息の合った会話が始まった。
「ねぇねぇセイアちゃん。先生ってナギちゃんが絡むときだけ人が変わると思わない? 私だけそう思うのかな」
「安心したまえミカ。恐らくトリニティのどの生徒も君と同じ意見だとも。私も……珍しく君と同意見だ」
「だよねー。はぁ、当番の時もナギちゃんだけ2泊3日だし。なんかお仕事終わった後は美味しいお店に連れってってるみたいだし」
「ミカ、諦めるなんて君らしくない。いつもの強欲振りはどうしたんだい? 猪突猛進が君の花形なのに」
「セイアちゃんって会話の中に絶対馬鹿にしてくる文言が含まれてるよね!? あと、諦めるなんて──」
「いいんだミカ、君もとても分かりやすいからね。私は一人の友人として、素直に君を応援したいと思っているんだ」
「うぅ……セイアちゃん」
「ま、骨ぐらいは拾っておこう」
「やっぱり馬鹿にしてるよね!?」
「だが、いつからそんなにご執心になったんだい? いくらシンプルを極めた君だからといっても、何かきっかけはあるだろう?」
「失礼だ!? 私だって色々……うぐぐ」
ミカは別の感情で真っ赤になった頬を膨らませ、椅子を蹴るように立ち上がった。
──少しでも彼の視線を奪いたい。
そんな一念で思いついた作戦は、どう考えても“チーム戦”とは程遠い。
勝てばいい。ただそれだけ。
単純すぎるほど単純なその闘志が、彼女らしい熱を帯びて燃え上がっていた。