トリニティの裏切者。
血なまぐさい台詞の中、ヒフミは吐露する様に自身の胸中を明かした。
それは、一晩とは言え一緒に寝床を整え夕食を囲み、輝かせる明日に向けて皆と親睦を深めた時間を過ごしたからこそ出る言葉であった。
つまり、一時一瞬、ヒフミは目の前の時間を必死に駆け抜けていた証拠。光が強くなれば共に影が濃くなり、ナギサからの依頼は彼女の心に影を残す。
彼女の事情を知っているダンテは、そっと背中に手を添え、優しく撫でるように叩き、落ち込んで曲がった背中浮立たせた。
「心配すんな、俺がいる」
その笑みは、ヒフミが初めて彼に出会ったあの時の顔と同じ。口元の柔らかな口角を笑みに曲げ、顎を傾け挑戦的な瞳で見下ろす。それは自分なら事情を知らぬとも絶対に達成出来るという、圧倒的な自身から生み出された大人の顔。今はそこに一人の人間としての「信頼」が重なっているからか、不安に眉を下げていたヒフミの顔に段々と柔らかな笑みがこぼれ始め、嬉々として上澄ついた声を出し、胸をなでおろす。
「……そうですよね! ダンテ先生がいますからね!」
「そうだ。これも何かの縁、どんな事があっても必ず俺が守ってやる。何、シャーレの先生としての権限が無くても俺を止められる奴なんていねーのさ」
「ふふふ、頼もしいです! それはそうと……」
「どうした? 急にもじもじしだして」
「あの……だって、服が」
「服? そりゃプールで泳いでたからな」
「だとしても!! あはは……ちょっと刺激が」
さっきまで水面に反射するだけだった月明りが、今度は柔らかな光となってダンテの肉体に降り注ぐ。彫刻のような筋肉に輪郭は立体感に影を作り、男性的で力強く、厚みのある胸筋は全体のシルエットを鋭利に見せ、頭身を際立たせる。光の影が織りなすコントラストは決して錯覚ではない。
不思議だったのは、あれだけ戦闘をこなしているのにも関わらず傷が殆ど見当たらないこと。もっと確認したい所だが、ヒフミにとってダンテの肉体はあまりにも刺激的であり、これ以上見つめ続けるのは困難を極めた。故に瞳を逸らし顔を覆うが、そんな彼女の事情など露知らずダンテは懐に入ろうと顔を覗かせる。
「どうした? 気分が悪いのか?」
「い、いえ!」
「耳赤いぜ? 熱でもあんのか?」
「い、いえ。近っ! あの、くぅ、その、……ご、ごめんなさいまた明日ーー!!」
両頬を押さえながら、燕のように滑らかに、そして驚くほどの速さで遠ざかるヒフミ。その姿は、まるで風に乗って消える影のようだった。
なんだかよく分からない──ダンテは肩をすくめ、視線を追いかけるのをやめた。とりあえず、女の子に逃げられたのなら、それは振られたということだろう。そんな形で思考をまとめるほか、彼には選択肢が見当たらなかった。
後30分泳いだ後、適当に床に寝転んで休憩して部屋に戻ってシャワーでも浴びるかと、両腕を天に向かって大きく伸ばす。
さぁ息を吸い込んで飛び込み──ダンテが地面を蹴り上げようとしたその時、奥の茂みからカサカサと動く音が聞こえだした。瞳を光らせ視線を集中させると、そこにはお尻が一つ。今にも逃げ出しそうにフリフリと左右に揺らし、奥の闇へと消える。
「見ていやがったな? 明日問い詰めるか」
ーー
ーー
「おはよう! 皆おはよう! さぁ、早く起きて歯磨きしてシャワー! 順番にしっかりこなしていこう!」
早朝。
約束の起床時間はすっかり過ぎ、目覚まし時計も全て切られた怠惰の朝。
すっきりとした顔周りのアズサは先日はぐっすり眠れていたのか、瞳をぱっちりと開いて背筋を伸ばし、元気ではきはきとした声を出す。反面、コハルは未だ夢の中の誰かと会話中だ。その中で一際異彩を放つ人物が一人。寝起きだというのに体感時刻は未だ深夜。ダンテは皆の起床が遅いからと様子を見に来た事を後悔し始める。
「先生! ダンテ先生! 昨日の夜ヒフミちゃんとプールで〇〇してたのはなんだったのでしょうか!? 私とても気になります!!」
「なに? ダンテ、ヒフミと何かあったのか?」
「何もねーよ。というかやっぱりお前かよ」
「え!? でもヒフミちゃんの背中に○○を○○して、○○が○○に当たって○○していませんむぐぐぐ──!!」
「待て、まだ朝だぞ。時間帯を考えろ」
「むぐぐーーー!(あぁ、先生の大きな手で無理やり口を押えられて……私……私)むむぐむぅ」
「ダンテ、私も気になる」
「ダメだアズサ。せめてこの補習授業部が終わってからにしてくれ」
「なるほど、つまりそれは何かあったの裏返しだな? 了解だ。私は妙な詮索はしたりしない。ハナコもダメだぞ、それ以上彼に迷惑を掛けてはいけない」
名残惜しそうにダンテの手から顔を離したハナコは、頬を赤らめたまま、どこか陶酔した表情で準備に取りかかった。その様子は、まるで思春期を超えたさらに先の感情を模索しているように見える。牢屋にいた頃からその片鱗はあったが、彼女の内にある未知の渇望が、今も静かに燃え続けているようだ――そう感じながら、ダンテは静かに息を吐いた。
「うぅ、あともう少し」
開かれたカーテンから漏れた日差しがヒフミの顔に降り注ぐ。思わず寝返りを打ち光から逃げるが、反射光は尚も彼女の顔に朝を告げようと迫る。それすらも嫌だったのか、今度は枕を顔に押し当て意地でも暗闇の世界へと逃げ込むようにベッドに深く落ち始めた。しばらく沈黙が続く。
「起きないのか?」
耳慣れた声が彼女の脳内に入り込んだのか、枕の位置をずらし目元だけを露出させる。彼女にとっても段々特別になりそうな顔が伺うように自分を見つめていると思うと、両頬に熱を帯び始め、枕をさらに深く握り込んだ。特徴的な銀色の髪は日差しを反射し、自身の目元へとまばゆい光を差し込もうとする。しっかりと顔を見たいが、これ以上寝起きの顔を晒すのは乙女心のせいで憚られる。
いつもは後ろで二つに結ばれている長い髪が、今はばらけて彼女の周りに広がり、枕に沈む頬に優しく絡みついていた。微かにうとうとした表情の上に散らばる髪は、日差しを反射して淡い影を作り、その影が目元をさらに引き立て、まるで宝石のような輝きを放っている。
無邪気で幼い印象を与えるいつもの彼女からは想像もつかないほど、その姿は静かで美しい。その美しさに、彼は思わず息を呑み、視線を外すことができなかった。
「ほらほらダンテ先生、乙女の寝起きをそんなに軽々しく見ては駄目ですよ? 準備しますから廊下で待っててください」
「それもそうか。先に教室に行ってるからまた後でな」
ハナコの言葉を皮切りに、そそくさと部屋から出て廊下に足音を鳴らす。その軽快な足音は朝の喧騒のきっかけにもなり、ヒフミは眠気まなこを擦りながら上体だけを起こし、そのままヘッドボードに背中を預け、両腕を天に向かって息を吸い込みながら伸ばしていった。
「おはようヒフミちゃん!」
「ふわぁ、おはようハナコちゃん」
「今、アズサちゃんとコハルちゃんが一緒にシャワーを浴びてますから、終わったら一緒に入りましょうね!」
「ふぅん、シャワーですか。わかり……え、一緒? というか今何時です……ってえええええ寝坊してますうううううう」
ーー
ーー
「大変お待たせ致しました! そろそろ始めましょうか!」
先日の大掃除のおかげか、教室内部はいつになく清々しい空気に包まれていた。窓ガラスは磨かれて陽の光を柔らかく反射し、机の上には埃一つ見当たらない。床の隅々まで拭かれた様子がありありとわかり、木の香りさえ漂うイメージが脳内を巡る。ヒフミの胸いっぱいに注がれた空気はまるで清流の流れ。これから巻き起こる試練の数々に挑む気持ちを持った、先日とは真逆の果敢に溢れる姿。純粋で真っすぐな瞳はダンテにとっても新鮮に感じられる光景であった。
「今日は、補習授業部の大切な初日です。とても大変な状態で、慌てふためいてしまう状況ですが……。ゴールはとてもシンプルです。それは、一週間後の第二次特別学力試験で合格する。ただそれだけです!」
ヒフミは手元にあるファイルから数枚の紙を取り出し、それぞれの机の上に置き始める。
当然と言わんばかりに先生であるダンテの前にも置くと、「俺も?」と疑問の声が出たが、先生の立場であろうがどうか関係ない。これから一緒に試験を合格する仲間である以上、同じ道を歩むのが当然だと、プリントで口元を隠しながらヒフミは言葉を小さくつぶやく。
「なるだけの情報を集めました。去年の過去問とその模範解答です。闇雲に勉強する時間なんて私達には残されていませんから。何が出来なくて何が出来るのか、まずはそこの把握から始めましょう!」
ヒフミの急な提案に驚きを隠せないアズサ、コハル、ダンテ。
確かに彼女の言う通り、全部を0から勉強する時間なんてとても取れない状況。効率を最優先した作戦なのは間違いない。
「ではダンテ、号令をお願いします。善は急げですからね。早急に取り掛かって早急に改善しましょう!」
「了解。制限時間は?」
「60分。100点満点中60点以上で合格。本番と同じです! ダンテも勉強をしているのなら、今のご自身の実力を測れるいい機会ですよ!」
「そうだな。じゃあ今から」
──第一次補習授業部模試を開始する!
カリカリと紙の上を滑る鉛筆の音。それは、彼の人生において馴染みのない音だ。
元いた世界では、読み書きは最低限のものを身につけるだけで精一杯だった。その他の知識は「仕事」に必要な範囲で教わるか、なけなしの金を握りしめて本を買うか、あるいは立ち読みで済ませるしかなかった。母親であるエヴァが殺されてからは孤児院に引き取られたものの、その環境は劣悪で、勉強どころか生き延びるだけでも精一杯の日々。当然学校で「勉強」などという、普通の人間が通る道など経験していないダンテは、改めて新鮮な気持ちで、大人しく目の前の問題に取り組む。
己には似つかわしくない日常。
彼が「先生」を拒む理由が、その一端にあった。
血と復讐に塗れた10代を送って来た人間が、一丁前に純粋無垢な少女達に何を教えろというのだ。
その発端である一つの疑問。
──何故自分はキヴォトスに呼ばれたのか。
厄災が迫っているというのならまだ分かる。が、何故先生という役割を与えられたのか未だに答えは出ない。
「時間だ」
終了のアラートが鳴ると、それぞれが深い溜息を吐き、背もたれに体重を傾ける。
試験というのは単純な長距離走ではない。一瞬一瞬が短距離走であり、長い時間を掛けて行う短距離の長距離走。
皆が小休憩で飲み物を飲んでいる間、彼はそれぞれの答案用紙に採点を施しはじめた。
ーー
ーー
「出揃った。じゃあ発表する」
──ハナコ:4点
──アズサ:33点
──コハル:15点
──ヒフミ:68点
──ダンテ:14点
それぞれが現実の壁に押しつぶされるように深い息を漏らしている中、ヒフミは再び壇上へと歩み出た。彼女の視線が教室全体をゆっくりと巡り、全員をその瞳に収める。そして、一瞬の静寂を挟み、重みのある言葉を放った。勿論その視界の中にはダンテも含まれている。
「これが現実です。このままですと私達に明るい未来はありません。ここから後一週間、なんとしてでも60点を超える為にも、残りの時間を効率的に使っていかなくてはならないのです!! そこで、作戦を考えました!」
ヒフミの作戦とは、単純で分かりやすい内容であった。
成績の低いアズサとコハルをヒフミとハナコが教える。ハナコに限っては一年生の時と最近の試験の点数に差異が起こりすぎているので、その原因を探るという物。
この試験を乗り越える肝は、アズサとコハルの点数をどれだけ上げるかで成功率は格段に違いが出る。一番点数が低いハナコを集中的に指導しないのは、過去のデータを参照した結果、彼女が何らかの理由で捻じれてしまった結果であり、元々の力を発揮すれば元に戻ると踏んでいた。
「皆様頑張りましょう。頑張れば絶対に合格出来ます!」
アズサもコハルも、ヒフミの強い覚悟に圧倒されたのか、気持ちを前向きへと切り替える。
「えへへ、やはり鞭だけでは皆様もお辛いでしょうから、きちんとご褒美も持ってきているのですよ!」
意気揚々とリュックから取り出したのは、変な形をした鳥のぬいぐるみ。胴体が長い猫と、パンダみたないな外見のよく分からないもの。そして小さな角帽を被った青色の変な鳥。
ハナコとコハルは遠慮がちに距離を置いていたが、アズサだけは瞳を輝かせ未知なる遭遇を楽しむ。
「確か、舌を出して涎を垂らしながら、もう許して……!! と泣き叫ぶキャラクターだったような?」
「そんなのハナコだけだろ」
「え!? ダンテ先生どういうことですか!? 私がいつそんな事をしたのでしょうか!? 待ってください……確かに昨日の夜、ベッドの上で何者かに跨られて両手を縛られ、口の中に親指をねじ込まれた記憶が……!」
「しくじったぜ。ツッコミ所を間違えちまった」
「ダメ、先生も死刑よ」
そんな中、アズサに受け入れられたのが嬉しかったのか、るんるん笑顔のヒフミがダンテの所までこれでもかと両腕いっぱいのぬいぐるみを抱え、机の上にどさりと置いてくる。
「ダンテもこのぬいぐるみが欲しいんじゃないですか!? テストに合格出来たら私のお気に入りのコレクションをおひとつお譲りします! 頑張りましょう!」
「いや、どうだかな」
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいんです! 大人でも子供でも関係ありません! ……それに、なんだか似合いませんか?」
「似合う? 嘘だろお前。ああ、それなら欲しいのが一つあるな」
「ほんとですか!? どれがお好みですか!?」
「確か、黄金のペロロトプス……だっけか? 価値があるなら欲しいぜ。いざという時質に入れるのも悪かねぇ」
「皆様! 勉強は始まったばかりです! お昼を超えてお夕食の時間まで張り切っていきましょう!」