「よくここが分かったね。君を待っていたよ、白洲アズサ」
「待ってた? 私を? ……どうして」
静寂が支配する薄暗い部屋の中央。
古びたシャンデリアがかすかに揺れ、天井に映る影を不気味に踊らせる。その薄闇の下、一つのティーカップが卓上に佇んでいた。湯気は細く立ち上っているが、その主はまるで関心を示さず、ただ静かに天井を見上げている。
その人物の対面には、まるで影のように佇むもう一人の少女がいた。腰には無造作に装着された爆弾。冷えた金属の表面が、薄明かりの中で鈍く光を放っている。生徒──いや、暗殺者と呼ぶべきか。
沈黙を破るのは、標的となった人物の口から発せられるだろう「命乞いの言葉」。
少なくともアズサはそう予想していた。
しかし──。
標的は、静かに口を開くと、意外な第一声を発した。
「知っていたんだ、君が私の前に現れるのを。なんと説明するか……予知夢、予知夢だ。そう思ってくれると良い」
「……そうだとして、何故抵抗しないんだ?」
「それは無駄だからだよ、白洲アズサ。君の能力は卓越している。私がどう足掻こうが、何をしようが無意味なのさ。全ては虚しいものである──君達アリウスが好きな言葉だろう?」
「私達を知っているのか。それなら、猶更殺さなければならない」
「……そうだね。アリウスという所は表舞台に出てはならない。例えそれが人の頭の中だとしても。君の行動は正解だよ。だが、同時に間違いでもある」
「間違い?」
彼女は椅子から立ち上がり、アズサの目の前までゆっくりと歩く。
普段ならその何気ない行動にも警戒するアズサだが、彼女の悲壮な瞳が、その場の異質さ際立たせていた。
片手を頬に添え、親指で目元をゆっくりと撫でるその動作は、不思議とアズサの心を落ち着かせる。
「そうか、もう……汚染されているのだね。君は飲んでしまったんだ。君達をまとめる恐ろしい大人から……」
アズサは記憶を掘り起こす。
任務の前に飲まされた試験管に入った深紅の液体。喉に残る鉄の味は未だに不快感を残しているが、次第に慣れ、気にも留めなくなっている。
マダム曰く、身体能力を上げる薬との名訳で飲まされたものだが、今の所効果は出ない。
「もう、絶望しかないのかもしれないね。君は変質し、自我は壊れ、君は君ではいられなくなる。それがいつどのタイミングで表層に出るのか、私の予知夢でも垣間見ることは叶わなかった。──いや、正確にはどろどろした恐ろしい力が拒んで来たんだ。でも、ほんの少しの隙間から見えたその先の未来は……永遠の絶望と苦しみ」
「……続きは?」
「予知夢を拒絶される。私の勝手な憶測だが、その先にいるのはキヴォトスの神秘が通用しない、いや、軽く凌駕してしまう存在がいることだ。そして、君が飲んだ液体はその存在に通ずる為の片道切符」
「私は……私で居たい」
「そう思いながらも、君はここまで来てしまった。ヘイローを壊す爆弾を片手に持ち、私を殺しに。だが、それでも君の本質はまだ変わらない。自分らしくありたいという、普遍的だが勇気の元となる強い光。そんな些細な願いさえも蹂躙してしまう世界に、少しでも抗いたい。それが君だね? 白洲アズサ。だから君はここへ来た。私の助言を貰いたくて、勇気を振り絞って」
──私は、どうすればいい。
「それは私にも分からない。本来の物語は捻じれてしまった。最初に見た予知夢は、あろうことか絶望の底へと消え消滅してしまったのだよ。結局、君は私のヘイローを破壊する任務を全うするしかなくなる。だが……これは願いだ」
「願い?」
「ああ、どうせ絶望的な未来しか見えないのなら、少しでも抗いたい。こんな私でも、明るい未来を望んでいるんだ。それには──君の助けがいる」
「私の……助け。けど、私は人を殺す事しか学んでこなかった。そんな私でも……人を助ける事が出来る?」
「君は、私と同じで臆病なんだね。外の世界が怖くて、もしかしたら自信の希望を壊されるかもしれないと勝手に想像して、一歩を踏み出せない。けど、君の命はあとどのくらい残っているかは分からない。いつ自我が崩壊するか、いつ心臓が止まるか……。それなら」
──私と一緒に、反逆してみないかい?
ーー
ーー
街灯の明かりが点滅を繰り返す。暴動の影響で電力は不安定になり、ただ一つだけ、彼女を照らす街灯は闇を際立たせ、まるで世界に一つしか存在しない光であるかのように錯覚させた。
斜張橋のワイヤーは風で軋み、橋の上に吹き荒れる突風が、まるで世界そのものが崩れ落ちていくかのような不安を煽る。
阿慈谷ヒフミは震える足を無理やり前に進め、指定された座標と、動物のアイコンを使った隠語を頼りに目的地へと辿り着いた。
辺りには乗り捨てられた車がいくつも並び、荒れ果てた道路には割れたガラスと瓦礫が散らばっている。吹き抜ける風に乗り、遠くで響く爆発音と銃声が消え入りそうに届く。
誰もいない──。
しかし、かすかに聞こえた反響音が、ヒフミの心臓を跳ね上がらせた。
すぐに息を呑み、身を隠すように乗り捨てられた自動車の影へと身を寄せる。
「アズサちゃん……? アズサちゃんいるんですか!? 返事をしてください!!」
ヒフミの呼びかけが、静寂に包まれた夜の空気を震わせた。だが、返ってくるのは闇に沈む街のざわめきだけ。冷たい風が吹き抜け、斜張橋のワイヤーを震わせる音が、心臓の鼓動に不吉な拍子を刻む。
それでも、彼女は歩みを止めなかった。震える足を無理やり前へと進め、乗り捨てられた車の影から反響する足音を頼りに、夜の闇を裂くように声を張り上げる。
ヒフミの目に映ったのは、いつものアズサとはかけ離れた姿だった。
美しく長い髪は乱れ、可愛らしかった口元にはいくつもの血痕がこびりついている。それは、食いしばり、自我を保とうとした証。
痛みに耐え、苦悩し、それでも己を繋ぎ止めようとした、苦渋の決断。
「……ヒフミ」
「よかった……無事だったんですね。さぁ、帰りましょう! 皆も心配していますよ! きっと頬を膨らませて怒られるかもしれませんが」
──行けない。
「でも、すみません。アズサちゃんに持病があるなんて初めて知りましたから……。でも大丈夫です! 救護騎士団も集まってますから、診て貰いましょう!」
──ダメなんだ。
「もしかしたら入院するかもしれませんが……その時は私が付きっきりで看病して差し上げますね! アズサちゃんが観たモモフレンズのアニメはまだ一期です! 知っていますか? 二期は邪悪な悪魔を退治する物語ですが、それはもう涙が出るほど感動が」
「ここで、お別れだ」
ヒフミの言葉を遮るように、アズサは静かに告げた。
その瞳は、もう以前のアズサではなかった。 宝石のように澄んだ光は消え去り、血の塊のような赤黒い光が鈍く光る。
「もう、私は私じゃいられなくなる。頭の中で誰かが叫ぶんだ、殺せ、殺せって」
「……違います。アズサちゃんはそんな人じゃありません……」
彼女は静かに歩き出した。
アズサがまだ未練を残していると知って、自分達がいる世界へ戻りたいと願っているのを胸に。
──来ないで!!!
アズサは咄嗟に手を伸ばし、ヒフミの進もうとする足を制した。その動きは衝動的で、切実なものだった。
ヒフミの慈愛が、きっと彼女自身を傷つけると知って。
「きっと──悪魔になるんだ。ほら、翼だって真っ黒に染まって、血管に沿って黒い線が広がってる」
街灯が照らしたアズサの体は、およそ人の形をした、別の存在。
「アリウスで変な薬を飲まされたんだ。多分それが原因。それに……預言者は私の自我が崩壊するとも言った。きっともう、時間は残されてない。だから──最後の時間でアリウス達を止めなきゃ。罪滅ぼしにはならないかもしれないけど、それが私が出来る、最後の選択」
「最後だなんて……最後だなんて言わないでください。きっと治ります。先生だってきっと助けてくれるはずです。ハナコちゃんやコハルちゃんだって傍に居てくれます。だから──」
ヒフミの必死な言葉に、アズサはふっと微笑んだ。
「ヒフミは……優しいね。うん、私は」
──そんな優しい君を守りたい。
「傷つけさせたくない、させてたまるものか。だから──お別れだね」
「ダメです……また一緒に過ごすんです」
彼女の姿を、目に焼き付ける。
例え人ではない何かに変わったとしても、闇の奥で孤独になったとしても、その光景さえ思い出せば耐えられる。
補習授業部での、決して色褪せる事の無い、煌いた美しい日々。
「楽しかった。生まれ変わるなら、また皆と遊びたい。また海に行って、花火を見て……。皆と、同じ世界の人間として振る舞えるなら、どんなに幸せだろう」
──ありがとう、さようなら。