ダンテにとって、それは正に信じられない光景だ。何せ、これまで狩る以外の選択肢を持てず、その力に犯された者は意思を持とうが我を失い、欲望の思うがままに生きる。
アズサは正に意思を奪われ、獣と化した。通ずる言葉は鉛玉。
「ぁ……ぅ……」
神々しくアズサを抱えたまま佇んでいるヒフミの両翼は、段々と塵のように空気に消え、みるみる内に巨大な翼は元の大きさに戻り、次第に輝きも収まる。
体を支えていた両足に力が入らなくなったのか、ふらりと倒れそうになったヒフミの肩を支えたダンテは、二人をゆっくりと地面に寝かせ、彼女達の顔を見つめた。
「嘘だろ……はっ、キヴォトスはてんで分からねぇことばかりだ。悪魔になった人間が元に戻るだって? 聞いた事ねぇな」
目元にかかったヒフミの前髪をそっと撫でると、彼女の瞳は薄らと開き、力を振り絞るように静かに口を開く。
「ぅ……だ、先生。ァ、アズサちゃん……は?」
「無事だ。……お前のおかげで元に戻ったぜ。今は隣ですやすや寝てやがる」
「っ……れは、良かった……です」
「お前も目を閉じてろ。大丈夫だ、次は諦めたりしねぇ。絶対に守ってやるから安心してな」
その言葉に安堵したのか、ヒフミは目元に笑みを浮かべ、ゆっくりと夢の中へと旅立つ。
アズサも眠ってはいるが、身体に全くと言って良いほど力が入っておらず、頬をつついても反応は0。それでも少なからず生きている状態に胸を撫で下ろしたダンテは、コハル達に二人の安否を任せ、先程まで背後にいた筈のアリウス達の元へと走った。
瓦礫の隙間から見えた黒帽子の生徒、きっとそれが今回の主犯格だろう。
思わず銃を強く握り締める。
ーー
ーー
「おい、まだ鬼ごっこを続けるつもりか?」
古聖堂の地下──その立ち入り禁止区域の木板を、ダンテは迷いなく蹴り飛ばした。乾いた音と共に板が砕け、破片が宙を舞う。そのまま階段を駆け下りると、眼前には広がる無数の墓標。荒れ果てた石碑が沈黙し、月光の届かぬ闇の中に、名もなき死者たちの影が眠っていた。
マリーの言葉が脳裏をよぎる。
──この聖堂の地下には、かつて大規模なカタコンベが広がっていたと聞いています。
キヴォトス墓地の観光ツアーもしたくとも、禁足地扱いで足の踏み場がない。その禁忌が敵の侵入を許すなぞ皮肉以外のなにものでなく、相変わらず面白い世界だと、彼の口元は吊り上がる。
敵がどこから現れたのかは分からない。だが、これほど臆面もなく墓地の道を突き進んだということは、少なくとも地図を把握しているのだろう。だが、そんなことはどうでもいい。この程度の地形で怯むような男ではない。
何せ、墓地など比較にならないほどの地獄を歩いてきたのだから。
鼻歌が静寂を切り裂く。
リズムを刻みながら、ダンテは軽快な足取りで前進する。生死の境界線が曖昧になったこの地下で、まるで場違いなほど軽やかな旋律。だが、それこそが彼のスタイルだった。
耳を澄ませば、微かに奇妙な反響音が響いている。音の揺らぎを頼りに、彼は一直線にその場所へと向かう。
途中、ユスティナ聖徒会の亡霊たちが道を塞いだ。
──待ち伏せのつもりか?
彼女たちは数百体にも及ぶ兵士の残滓。だが、群れたところで意味がない。ダンテの前では、どれだけの数が集まろうとも、それは単なる蹂躙される側に過ぎない。
亡霊たちもそれを理解しているのか、戦い方が妙に消極的だ。まるで時間稼ぎのように、少数ずつ間隔を開けて出現し、彼の進軍を鈍らせようとしている。
だが、それが通じる相手ではない。
銃を回転させ、くるりと手の中で遊ばせながら、一気に駆ける。
一発。跳弾する弾丸が狙いすましたように亡霊の眉間を貫く。
二発。煙と共に宙を舞い、頭上にいた敵の頭蓋を吹き飛ばす。
三発。足元に着地する寸前、床を蹴り上げ、バク転と同時に撃ち抜く。
曲芸じみた動きに、亡霊たちが困惑する。それを尻目に、ダンテは銃を回しながら愉快そうに笑った。
「家が真横でよかったな? すぐに帰らせてやるよ!!」
地獄の住人のように笑うその姿は、まるで舞台の主演俳優。
戦場を軽やかに跳ね、演じるように敵を撃ち抜く。
たった一人で、群れを圧倒するその姿は、まさしく悪魔も泣き出す男。
「で、餌を振りまいていたのはここにおびき寄せる為か?」
数々の亡霊を蹂躙した先にいたのは、アリウススクワッド。
そして──ひとつの異物。
アリウススクワッドはその人形の影へと隠れ、再び姿を消す。
追いかけようとしたダンテだが、その人形が漂わせる一つの匂いを無視することが出来ず、渋々真正面に立った。
聖なる存在を模したかのように、金色の環が背後に燦然と輝く。放射状に伸びた意匠はまるで神々の権威を象徴するかのようでありながら、そこに宿る気配は、あまりにも歪で禍々しい。
その姿はヒトの形をしていながら、ヒトではない。
痩せこけた腕は異様に長く、関節の曲がり方はどこか奇妙だった。指先は細くねじれ、まるで何かを弄ぶかのように微かに蠢いている。まるで存在そのものが、現実に適応しきれていないかのように、光と影の中で微かに揺らめいていた。
──顔は、無い。
黒い虚無がフードの奥にぽっかりと開き、その深淵の暗がりは覗き込んだ者を引きずり込むかのような錯覚を抱かせる。そこには何も映らない。ただ、底知れぬ闇がぽっかりと口を開け、見る者の精神を蝕もうとしていた。
その異質さの正体。
まさに──悪魔そのもの。
「ここに来てまさか悪魔野郎がいるなんてよ。はっ! どうしてすぐに来てくれなかったんだ!? 俺は早くお前に逢いたかったんだぜ!? つれない事言うなよ……俺とお前らの仲じゃねぇか。ま、折角の再会だ。鉛玉の一発くらいお見舞いしてやろう……と、そんな時間はねーんだ」
恐らく誰が見ても、この二つの力がぶつかり合えば、地面は砕け、辺り一面は焦土と化すと思うはずだ。
が、展開はその観客席にいる誰もが予想に反する結果で終わりを告げる。
「早く戻って色々な奴らを安心させなきゃいけねーんだ。悪いが、一撃で終らせてもらうぜ」
何もないはずのその口元。
見えざる虚無の深淵に、確かにダンテの拳が突き刺さっていた。
不可視の領域が砕け、亀裂が奔り、空間そのものが引き裂かれていく。
悪魔が哭く。
それはこの存在が、この世界に降り立って数分、初めて発した悲鳴だった。
産声ではなく、悲壮な悲鳴。
背後の輝く環は、まるで悪夢の終焉を示すかのように軋み、徐々にその輝きを失っていく。
「悪ぃな、俺はお前たちの存在がどうしても許せねぇんだ。生まれ変わったら猫にでもなって舞い戻って来てくれよ? ミルクくらいなら出してやる」
拳が突き抜ける。
崩壊の予兆が、世界を満たしていく。
虚無は、今まさに消滅しようとしていた。
「さて、あいつらにも色々聞きたい……逃げ足の速い奴らだ。どこに隠れたのかもわかりゃしねぇ。ま、またその内会うだろ」
ーー
ーー
「先生!! ダンテ先生を見ませんでしたか!?」
エデン条約事件から二日後。
阿慈谷ヒフミは未だ入院中の身にも関わらず、トリニティ校内を走り回っていた。
それもそのはず、目を覚ました矢先の出来事。たまたま病院内の廊下で「補習授業部」という単語が耳に入ったヒフミは、こっそりとその音の出所まで足を運ぶ。その先には、仕事中にも係らず、噂話をする救護騎士団の生徒達。
ヒソヒソ……ねぇ聞いた? 補習授業部にいた先生、ついに先生を退職するんだって。
ヒソヒソ……ああ。そもそもエデン条約が締結するまでって約束だったんだろう?。
ヒソヒソ……らしいね。でもさ、エデン条約は締結してないじゃん。
ヒソヒソ……だからって、期間を延ばしたりしないでしょっ! 噂によると、なんかゲヘナからお誘いがあったらしいよ。
ヒソヒソ……はぃい!? 待ってそれ流石にやばくない!?
ヒソヒソ……うん、聖園ミカを一撃でやっつけたのが本当なら、相当やばいよ。
ヒソヒソ……なんか、あの入院してるヒフミって子の言葉にショック受けてたみたい。
ヒソヒソ……何それどこ情報?
ヒソヒソ……シスターフッドの生徒が言ってたの。なんだっけ、えっと確か能が無いのかって。
ヒソヒソ……あの子結構過激だね!? ご飯持っていくとき気を付けよう……。
ヒフミは思わず両手で口を覆った。
エデン条約の襲撃や、あの事件のきっかけや真相。そんなものはどうでもいい。大切な友人を助け出す事が出来たこと、それが一番重要なのだ。
だが、状況は綱渡りのように不安定で、ひとつでも選択肢を間違えればアズサは死んでいただろう。
自分のせいで先生が傷ついたという事実に、彼女は思わず唇を噛みしめる。
確かに、あの時は感情の高ぶりが抑えられなかった。目に見える世界全てが訪れる運命に抗おうともせず、ただ運命を受け入れ暴力で解決しようとするその光景に、反逆をせずにはいられなかった。 それが正しいかどうかなんて、考える余裕すらなかった。ただ、あの場で立ち止まることだけは、絶対にできなかったのだ。
それでも、あの先生の事が嫌いになる訳ではない。言葉にできない、説明のつかない何か。ただ漠然と、ずっと傍にいてほしいと願ってしまう、この感情の正体は。
──行かなきゃ!
彼女は制服に着替え、走り出す。
連絡用のスマートフォンはあの事件で壊れてしまった。だから、自らの身体を動かして会いにいくしか方法は無い。
未だ体の不思議な疲れは取れず、眩暈がする。
だがそれ以上に、会いたい。会って謝って、またいつもみたいにお話したいという普遍的な欲求が、彼女を突き動かした。
ヒソヒソ……で、そのやばい先生はいつ辞めるの?
ヒソヒソ……とりあえず、この事件を解決したらだって。
ヒソヒソ……何それ、結構いるじゃん!
校舎内、そして別館と、彼女は走り回った。
あまりにも重たい身体。膝と肺から悲鳴が聞こえるが、それでも彼女は止まらなかった。
──ヒフミさん!? まだ寝てない──え、ええ。先生はピザ屋さんに行くと。
──ちょっとヒフミ!? まだ病院にいないとダメじゃない!?
──うふふ♡ 先生なら運動場で生徒をしごいてましたけど♡ それはもう激しく♡
次々と寄せられる目撃証言を頼りに、彼女は校舎を走り回る。
しかし、どこにもいない。先生の姿はどこにも見当たらない。
このままでは、心臓が先に悲鳴を上げてしまうかもしれない。
ついに、彼女の足が限界を迎えかけた。
耐えきれず、廊下の水道へと手を伸ばし、身体を支える。
全身を覆う熱に、冷たい金属の感触が染みる。
乱れた呼吸を整えながら、彼女は俯いた。
額に滲む汗を拭い、もう一度だけ、彼女は顔を上げる。
まるで、その視線の先に、答えが待っているかのように。
──階段を駆け上がり、扉を開く。
空気が入れ替わろうと内側に風が舞い込み、彼女の髪をかき上げる。
そこは、普段は足を踏み入れることの無い、とんがり屋根に囲まれた屋上。
その隅で、ひっそりと学園を見渡す一人の影。
「せ、先生……いました。探しましたよ」
彼女の声に、その影は反射的に振り返った。
陽光に照らされた銀髪が、淡く輝きながら揺れ、その下にあるのは、相変わらずの鋭い眼差し。
黒のタイトなTシャツは、彼の鍛え抜かれた肉体の輪郭を際立たせている。
腰には、かつて自分たちが贈った二丁の銃が揺れ、煤にまみれたブーツが地面をしっかりと踏みしめていた。
胸の奥に巣食っていた焦燥感、不安感、それらが一瞬で霧散する。
まるで強風にさらわれた枯葉のように、どこか遠くへと消え去った。
息が詰まるほど緊張していたはずの肺が、急に膨らむような感覚に満たされた。
もう、どこにも走らなくていい。
彼は、ここにいる。
彼女は静かに歩き出した。
その歩みは、躊躇いを乗せたものではなかった。
陽光に祝福されたように、風が彼女の髪を撫で、淡い制服の裾をふわりと揺らす。
その佇まいに、彼は思わず目を見開いた。
そっと、彼の片方の手が、柔らかな手に包まれる。
温かく、震えていて、それでも確かな力が込められている。
「先生……あの時は、ごめんなさい」
彼女の声は、風に溶けるように優しく響いた。
「私は酷いことを言ってしまいました。先生はずっと、私たちのことを助けてくれていたのに。私……」
言葉が詰まり、喉が震える。
でも、どうしても伝えなければならなかった。
──舞台の上で、華麗に舞うテンガロンハットの相棒。
教室で、生徒たちよりも低い点数を取って、いじけたように窓の外を見つめる子供みたいな顔。
真夜中の街で、テロリストを瞬時に叩きのめし、アズサの葛藤に寄り添った大人の顔。政治よりも目の前にいる彼女達を大事にしてくれた。
そして──。
絶望的な状況の中、ニヒルに口元を吊り上げ、たったひとりでアリウスの生徒たちを相手取る頼もしい背中。
彼が、ここにいたから。
今、自分は太陽の下で、心地よい風を感じることができている。
数多の選択肢があったはずだ。
もしあの時、誰かが違う道を選んでいたら、この世界は全く違ったものになっていたかもしれない。
けれど、その全ての可能性の中で、彼が戦い守り抜いてくれたから、こうしてここに立っていられる。
──今、確かに存在する日常の奇跡。
だからこそ、その奇跡を守ってくれた大人に、彼女はただ、ただ、心の底から謝りたかった。
「本当に……ごめんなさい」
そして──
「ありがとうございます、先生」
瞳の奥に映る彼の顔は、変わらず、強くて、少し照れくさそうだった。
「え? 昔も同じ言葉を言われたから気にしてた……ですか? わ、私が先生を殴るだなんてそんなことするはずがありません! うぅ……いじわる言わないでください!」
これにて第三章は終わりです。
次回からトリニティ編は最終章になります。
ついに、悪魔が出てきてしまいましたね! ですが、まだどれも純粋な悪魔ではないのです。
純粋な悪魔も……出て来ますよ!