小鳥が囀る静かな午前中。青々とした空の奥に浮かぶ天空の輪を、メイド服を着た黒髪の長い女の子はただただ見つめていた。いや、この場合物思いに耽っているというのが正解だろうか。手に持ったモップはいつの間にか地面に転がり込んでいるが、当然彼女は気付かない。
それは何故か。地面に落ちたモップよりも、先程シャーレにて行われていた一つの出来事が、自らの存在意義のひとかけらを奪いそうになっているからだ。
「アリスは、アリスは……」
心に任せ、背中に浴びた先生の声を無視し飛び出してきた彼女。それがあまりにも初めての体験で、この後の展開をどう処理しようか答えが見つからない。
口を結び、目元を目一杯閉じながら、彼女はひたすらに考え込む。
結果から考えれば、大好きな先生の負担が減る事はとても良い事だ。ただそれだけ、それだけなのに、どうしても自身の感情が介入してしまい、頭の中身が整わないのだ。
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朝、日の出が出る前から彼女の日常は始まる。
その日はいつものミレニアムの制服ではなく、いつぞや手に入れたメイド服。そのメイド服を着る時は決まっていて、ある時はエージェントを装った潜入任務。またある時は舞踏会の催しに、またある時はシャーレの当番の時だ。
長い長髪を後ろに結び、モップとバッグとゲーム機を携え、食パンを口に咥えながらせっせと通学路の反対側へと歩き出す。
最近ではモモイにミュージックプレーヤーを持たされており、専ら通学中でも音楽は欠かせない。それまでゲームの効果音やオープニングの8bit曲しかしらなかった彼女だが、これを機にと、様々な音楽を聴き始めている。
その中での彼女のお気に入りの曲は、彼女自身を形作る事となったゲーム「Kivotos May Cry」に収録されている「Kivotos Never Cry」だ。
オルガンと聖歌が響く中、浮き出るように静かに湧き出てくるベースのリズム、脳内を湧きだたせるシンバルのクラッシュ音は足取りを軽やかにし、一気に身体中のギアを上げていく。そして何より特徴的なのが、囁くようなウィスパーエフェクトから入るボーカルの声だ。ミドリ曰く、ボーカルを募集したらゲヘナのとある生徒が開口一番に依頼を受けてくれたらしい。
「朝からルンルン気分です!」
駅に到着すると、慣れた手つきで首から下げているICカードをタッチ。改札口を通り階段を降りると、そこにはリニアモーターカー。ミレニアム屈指の速度を誇り、それでいて快適。少し前にシャーレの外郭地区まで開通したことから、当番の時はいつもこれに乗って移動しているアリス。
ダンテがいるシャーレまではたったの一時間だ。その間にアリスは列車内にある売店へと足を運ぶ。その売店ではキャンディーやアイスクリーム。唐揚げや菓子パンなど、およそ列車の中とは思えない程豪華で、ここで皆に内緒でキャンディーを頬張るのを密かな楽しみとしている。
「甘いです! ……ふふ、今日はダンテにもお土産として買っていきましょう! お掃除した後は一緒にキャンディを舐めながらゲームで盛り上がる姿が目に浮かびます!」
お世辞にも綺麗な部屋とは言えない程、いや、はっきり言って汚いという言葉しか浮き出てこない程ダンテのシャーレの仕事場は荒れに荒れ切っている。いくつも積み重ねられたピザの箱、そしてまるでトランプタワーの如く積み上げられたガラスの容器に、テーブルの上に置ききれない空き缶と空き瓶。
彼曰く、掃除はもう限界だと自信が叫びたくなった時がタイミングだそうだ。
アリスが所属するゲーム開発部も様々な物がごちゃごちゃしていて整理されているとは言い難いが、それでもお菓子の袋や弁当の容器などはきちんとゴミ箱に入れられている。たまに溜まることもあるが、乙女の名に恥じないくらいには掃除は行き届いているのだ。
だからこそ、アリスはシャーレの当番の日が楽しみになっている。
ミレニアムの事件以降、アリスにとってダンテはとても心強い大人の男性であり、好意と尊敬が入り混じった存在。どんな難事件も解決し、自分も含めた他の生徒達を導く姿はとてもかっこいい影を浮き立たせ、側から見れば完璧とも言える。
一見近寄りがたい体格と風貌。そして輝く銀髪と赤の服装は威圧感を醸し出し、並の生徒では話しかけることすら躊躇う。だがアリスにとっては、その見た目と中身の差がとても可愛らしく感じるのだ。
きっと、他の生徒達は知らない。
彼がモモイと明け方まで格闘ゲームに励み一勝も出来なかったことや、ミドリに人生ゲームでボコボコにされたこと。そしてネルに格闘ゲームで勝利して空に向かって勝利の咆哮を上げたこと。
子供っぽい顔を見せたと思ったら、方や戦闘になれば踊るような振る舞いで自立型ドローンを白と黒の双銃で蹴散らし。迷った生徒の前では膝を着き、同じ目線で話をしてくれる。
大人というのがどんな存在か未だ知らぬアリスは、他の大人が全員彼みたいな人だったらどんなに素敵かと、夢想をしたくらいだ。
その姿は、まるで「Kivotos May Cry」に出てくるデビルハンターのトニーそのもの。父親から受け継いだ熱き魂で悪を挫き、母親から受け継いだ愛を持って大切な人間を守る。
悪魔でありながら人間になろうとした悪魔は、人間よりも人間臭く、その豊かなキャラクターがどこか彼の姿と重ね合うのだ。
そう、まさにゲームの主人公のような完璧な人物。
だが、そんな完璧だと思った彼にも弱点があった。
「まずはシャワー室のお掃除から始めて、その後はゴミを捨てて、床を拭いて……。洗剤は使い切ってないですからまだ買い足しはしなくても大丈夫……ですよね! ダンテのことですからきっと以前アリスが置いた位置から動かしてなさそうですし! あ、それでしたら一緒にゲームをやる時間が増えますね!」
そう、彼の弱点とは「日常生活全般」である。
食べる物は専らピザとストロベリーサンデー。時々思い出の味とドリアを食べたり、ルミが送ってくるピザ味の肉まんを食べたりと、とにかく偏食を極めている。
ゴミ捨ての朝に起きたことも、そもそもゴミ袋に容器を詰めている姿さえ、今の所キヴォトスの生徒は誰一人見たことがないほどだ。
以前ネルとトキが当番に付いた日は、あまりの惨状に空いた口が塞がらなかったらしい。トキはダンテと遊んでばかりで掃除を手伝わず、ネルは色々と恩があるからと、殆ど一人で掃除をしただけでその日の当番を終えたと、タンコブ頭のトキが語っていたのを思い出す。
「ふふ、楽しみです!」
目的地の駅だ。駅員の放送が鳴ると、我先にと扉の前まで急ぎ、待機。扉が開いた瞬間飛び出すように出て階段を駆け上がる。改札を抜けてまっすぐ歩くと、いつもの公園とその奥にある細長いビルが現れた。その光景を見る度に胸が高鳴る。そして隠すことの出来ない口元の緩みを自身でも知覚しつつも、早く会いたいと小走りに駆け上がる。
シャーレのエントランスカウンターにセキュリティキーをかざすと、エレベーターは自動的に動作し、来客をもてなすように瞬時に扉が開く。アリスは慣れた手つきでボタンを押し、上昇するエレベーターに揺られ鼻歌。
「ふんふ〜ん!」
エレベーターの扉が開いた瞬間に駆け足でシャーレの部屋まで行き、勢いのままノックもせずに扉を開く。
きっと、そこには自分が手助けしなければならない惨状が目の前に広がっているのだろうと信じて疑わなかった彼女は、一瞬目を見開いた後、これは現実なのだろうか、夢ではないのだろうかと疑ってしまう光景に出会くわす。
「あ、あれれ……? どうして……おかしいです!? 部屋中がピカピカになってます!?」
ピザの箱どころか、テーブルの上には紙屑一つなく、ましてやチリすら見当たらない。そして水垢の後もない床に、窓ガラスに至っては乾拭きもしたのか太陽の光が水の中のコースティクのように乱反射し、光芒を差している。甘ったるい缶ジュースの匂いもしなければ、フローラルの香りが部屋中を覆い尽くすその様はまさに清潔と言わんばかりの様子だ。
──もしかしたら。アリスの頭の中で仮説が過ぎる。
あまりにも部屋を汚しすぎて大家さんから追い出された可能性。でもここの主人はダンテだ。それか彼が一生懸命片付けたという説は? これに関しては絶対に無いと断言するアリス。それこそ天変地異ものだからだ。
目元がぐるぐると渦を巻き、頭から湯気が立ち上る中、その答えは忽然と目の前に現れる。
「ピーー、ガガガ、ライキャク、ライキャク」
無機質な機械音声がアリスに向かって放たれる。そこにいたのは、これまた無機質な合成金属を纏った機械だった。
足元は4輪のタイヤを付け、手元は人の手を模倣した指先。胴体は太く、関節部分がそれぞれ剥き出しになっている。その中心にはミレニアムのマークが掘られており、どこで作られたかは一目瞭然。
「だ、誰ですかあなたは!?」
「ピーー。オンセイヲ ジュシン ヘントウ シコウ チュウ ……ワタシハ オテツダイ ロボット。ダンテ ピザ クイスギ シヌ」
「お手伝いロボット!? それにピザを食べすぎてダンテが倒れる訳ありません!!」
すると、背後の扉が開く音が鳴った。
「よ、アリス。どうだそいつは?」
相変わらずの爽やかな銀色の髪に、ニヒルとは程遠い穏やかな微笑み。そして温かい手のひらで彼女の肩に手を置き、もう片方にはいつものピザの箱。そこには、彼女が会いたがっていた大好きな先生の姿があった。
思わず彼の懐まで飛び込み抱擁した後、密着した顔だけを動かし顎を上げる。
「うわーん! ダンテ、あれは一体なんですか!? どうして部屋がこんなに綺麗になってるんですか!?」
「あ、あれか? へっ、いいだろう?」
そのままアリスの肩を寄せ、ソファに向かい彼女を座らせると、ダンテは目の前に大きなピザの箱を置く。「見てな」とジャケットを脱ぎ適当に床に投げ捨てる。
すると、ロボットは流暢に移動し、腰を曲げ器用に服を持ち上げると、隣にあったラックに一ミリのズレも無くこれまた器用に服を掛ける。
「以前リオが当番に来た時にな、あまりにも非効率的だとか言ってこれを作ってくれたんだ。ま、ちょっとばかし口は悪いが、そうプログラムされたのなら仕方ねぇ。返答に意思も感じねぇが、黙れっつったら黙る。これでもうユウカに怒られずに済むし、部屋も常に綺麗だしで大助かりだ」
「ジブン デ ヤレ。ココマデ ヘヤ キタナイ サイノウ。ピザ クイスギ シヌ」
「ほらな? 口悪いだろ?」
「ま、待ってくださいダンテ! 部屋の掃除なら私がいつだって出来ます!」
勢いよく立ち、モップを片手に床を見るが、恐らく自身で掃除した時よりもピカピカで綺麗になってる床を見て、このまま自分がやればただ汚れるだけだと自信を無くすアリス。しかもご丁寧にワックスも施されており、ここまでの技術は彼女にはない。
「おい、胡椒持って来い」
「ピーー。オンセイヲ ジュシン ヘントウ シコウ チュウ …… コショウ モッテ クル シネ」
「さって、朝のピザタイムだ。おい、その間お前は黙ってろよ」
「ピーー。オンセイヲ ジュシン ヘントウ シコウ チュウ …… チンモク」
そうしてダンテが朝ごはんを頬張ってる間に、アリスは居住区やカフェなど、シャーレの至る所を細かく見て回った。
「どこも綺麗です……ピカピカです……」
シャワー室は水垢の一つもなく、蛇口まで丁寧に磨かれており、新居と言っても過言ではない。
仮眠室もシーツは洗い立ての洗剤の香りを醸し出し、シワの一つもなく整えられている。枕も丁寧に並べられており、人の痕跡すら窺わせないその仕立ての技術に、敗北という文字が浮かび上がる。
「アリスの介入の余地がありません……」
トボトボと廊下を歩き、いつものオフィスへと入る。すると、ピザを食べ終わったダンテはのびのびと背筋を伸ばし、食後のストロベリーサンデーを口に運んでいた。当然、ピザの箱は既に片付けられており、その様子を見たアリスは自身の胸元を握り込む。
「アリス、もう掃除は必要ないぜ。もうお手伝いしなくていいんだ。最高だろ?」
「……ダンテ、アリスじゃ、アリスじゃダメなんですか? もしかしてお掃除が下手で、迷惑を掛けてましたか?」
「そんなことないさ。でも、こいつが全部やってくれるんならそっちの方が楽だろ? 掃除はもう必要ないぜ」
最後のバニラを一気に口の中にかけ込み、落ち着いた彼は瞼を閉じ、その余韻に浸る。
「だからなアリス、これからは一日中ずっとお前とゲームが出来るんだ。それかどこかに遊びにても行くか? レトロゲーム博物館に行ってみたいとかこの前言ってたよな。ま、その前に……この前のアクションゲームの続きを──ん? アリス? おいアリス? どこに行ったんだ?」
忽然と姿を消したアリス。
ダンテは部屋中を見回したが、どこにも彼女の姿はない。
「なんだなんだ? 今回はかくれんぼか? しゃーない付き合ってやるか」
既に、シャーレから出たアリスに気づかず、ダンテはお昼過ぎまで彼女を探す羽目になるのであった。
ーー
ーー
ミレニアムにて。
──掃除はもう必要ない。
──掃除はもう必要ない。
──掃除はもう必要ない。
──お前はもう必要ない。
脳内の言葉を解釈し、ショックの余り勝手に言葉が書き換えられるアリス。
自分は役に立ってる。憧れ、尊敬してやまないヒーローである先生に必要とされる状況に喜びを感じていた彼女だが、ダンテの「お前はもう必要ない」という言葉は(言ってないが)彼女の心に深い切り傷を付けた。
「アリスは……必要なかったんですね」
落胆し、顔を俯かせながら歩いていると、目の前の人影に気づかずそのままぶつかり、尻餅を着く。
「ってぇな、ちゃんと前向いて歩けって……アリスじゃねぇか。ん? おい、どうして泣いてるんだ? ……おいアリス、誰にやられた!?」
「ネル……先輩。……んん、んー……うわぁぁぁぁーーん……!」