「ここがアリウス旧校舎だ。地下に聖堂に通ずる秘密通路がある。バシリカまで一直線、1番の近道だ」
かつて荘厳だったと思われる建造物は、崩壊の爪痕を大きく残していた。正面には幾重もの尖塔が連なり、精緻な彫刻が施された扉口が今も形だけはとどめているが、壁の一部は大きくえぐれ、内部の構造がむき出しになっている。
周囲の地面は瓦礫が散乱し、石畳が大きく亀裂を走らせており、歩くたびに砕けた破片がぐらりと揺れた。正面左手には、かろうじて点灯している街灯があり、かすかな灯火が砕けた石材や歪んだ柱の影を長く伸ばしている。
窓枠は至るところで砕け落ち、風を通す空洞だけが残る。有無を言わさずに打ち捨てられたかのように、落ちかけた建材や傾いた尖塔の残骸が、建物全体に不安定な印象を与えていた。扉付近の石段もところどころ砕け、隙間からわずかに漏れる光が、かつての煌びやかな姿をかえって際立たせるようだった。崩れた礎石の合間には薄い水たまりがにじみ、沈黙した廃墟の寂寥感をさらに強めている。
「旧校舎ね。昔は栄えていたのか?」
「それは分からない。だが、この建物にはバシリカまで伸びる一本の道がある。つまり、それなりに重要な建物だったのだろうな」
「大昔の話って訳か。お前が子供の頃からずっと変わらないのか」
「ああ、それに旧校舎に入る物好きもいなかったからな。そもそも取り壊す余力すらアリウス自治区には無い。ずっと……同じだ」
「じゃあ、明日から変わるかもな」
「明日? 何故?」
「そりゃあ、あんな糞みてぇな大人がいなくなれば環境は良くなるだろうよ」
「……ふっ、先生は前向きな人なのだな」
「ちげーよ、お前が暗すぎるだけだろうが。もっと明るく振る舞おうぜ? 折角舞踏会に誘わ……おっと、不躾な発言が出そうになったぜ」
「……気にしなくていい。私は皆が助けられるのなら誰が何を思おうが構わない」
サオリは辺りに警戒しながらも、ゆっくりと扉を開く。
差し込んだ月光の明かりを頼りに校舎内のいくつかの扉を開くと、そこには古びた大きなハッチが埃を被っていた。所々が錆て腐食し、その隙間から鋭利な風の音が鳴り響く。
取手を持ち何度か力を入れても動かなかったが、ダンテが変わって思いっきり引っ張ると、まるで新築の出来立てのドアのようにスムーズに蓋が開いた。最後にはバキっと取手が砕けてしまったが、彼は言い訳がましく肩を竦むだけで気にしない素振りをする。
「弁償は辞めろよ? 先生の給料何て多くないんだからよ」
「ここまで来て弁償など要求するはずがないだろう。というか、そこまでの力があっても給料は安いのか。アリウスの外は想像したよりも世知辛いのかもしれない」
真っ暗闇の階段を駆け下りる。
重厚な円柱がいくつも並び、先へと続く回廊はまるで闇を抱え込むかのように奥深く延びている。高い天井には複雑なアーチが組まれ、壁面には精緻な装飾が残るものの、ところどころひび割れや剥がれが見られ、かつての壮麗さに陰りを帯びていた。
床は幾何学模様のタイルが敷き詰められ、薄明の中にほのかな光沢を宿しているが、破片や埃が散らばっていて、人が長い間足を踏み入れていない静寂を如実に物語っている。
列柱の影には微かな光芒が漂っているようで、動くたびに濁った空気が微細な粒子を揺らし、薄い霧のような色彩を醸し出している。その静まり返った空間で、足音がほんのかすかな反響となって耳に返ってきた。
コツリ──コツリ。
足音は三つ。そして通路の奥から覗かせる一つの影。
どこから漏れているのか判別出来ないその光芒に、一人の人物が映し出された。
「……やっぱりここから行くんだね」
彼女の声は乾いて掠れていた。長い桃色の髪はところどころ擦り切れ、瞳の光は黒ずんだまま何も映していないかのよう。瞼の下には涙の痕が何重にも残り、苦悩と疲れが刻み込まれているようだった。
腕はだらりと下がり、まるで何かに抗うことをすっかり諦めてしまったかのよう。歩みもぎこちなく、足元が定まらないまま三人の足音のもとへ進んできた。壁面をかすめるように置かれた微かな光に、その姿が浮かびあがり、通路全体に沈黙が深く染み渡る。
「聖園ミカ……! 今はお前の──あっぐっっあ゛あ゛あ゛」
サオリが膝から崩れ落ちると、途端に荒い息が唇を伝い、口もとから鮮やかな血がとめどなく溢れ出した。驚いて駆け寄ったダンテは、彼女の肩を支え、どうにか仰向けに寝かせようとする。だが、サオリはその腕を必死に掴み、力いっぱい握りしめた。
「──ぐぅぅぅ……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
苦悶の叫びが回廊の静寂を切り裂く。サオリは身体を激しくのたうち回し、地面を拳で叩いて砕きながら、何かに必死に抗おうとしているようだった。ダンテはその痛ましい光景に眉を寄せつつも、彼女の暴れる四肢を全力で押さえ込む。
しかし、サオリの状態は尋常でなく、力の入った腕と脚は混乱のまま地面を削り続ける。これ以上騒げば彼女の身体が持たないと判断したダンテは、意を決してサオリの腹部に一撃を入れた。
「悪いな」
短い呟きとともに、サオリの呼吸が一瞬で乱れ、酸素を取り込めなくなった彼女は、膝から崩れた体勢のまま意識を手放した。まるで深い眠りに落ちるように動きを止めるサオリを見下ろし、ダンテはかすかに奥歯を噛む。血が散らばる床に張り詰める静寂の中、彼はまだ微かに上がり下がりするサオリの胸の動きを確認しつつ、苦い表情で彼女を抱き直した。
「ミカ、こっちに来てくれ」
「へ? え……い、一体何が」
言われるがままにミカはサオリの元へと駆け寄る。その顔を見て険しい顔を表に出したが、復讐対象の様子を間近で見ても手を出す素振りを見せない。
「ミカ、まだサオリが憎いか?」
その問答に一瞬の躊躇いを見せるミカだが、すぐにいつもの彼女の表情に戻ると、こくりと頷いた。
「そうか。まぁ、俺は復讐は何も生まないって台詞は言わねぇよ。俺も……復讐の為に生きてきた身だからな」
「先生が? ……そうなんだ」
「邪魔をする気はさらさら無い。だが、サオリは殺させねぇし、ミカも人殺しになんかさせねえよ。お前にそんなの似合わねぇからな!」
「似合わないって……先生、私の事何も知らない癖に。私は魔女だよ?」
顔を俯かせ、唇を噛み苦い表情をする彼女の肩に、そっと彼の手が置かれる。
──だから、もっとお前を知る機会を、俺にくれよ。
見上げたその視線の先には、いつものニヒルな顔の彼ではなく。
あの観覧車で見せたような、優しさを含んだ余裕のある大人の男性の笑み。
我儘な自分を素直に受け止めてくれて、ほんの少しの時間だったけど、新しい世界を見せてくれた。
退屈なひと時から、嫌な顔をせずに外に連れ出してくれた大きな手。
学内からこそこそと抜け出す時のあの無邪気で仔猫みたいな笑顔。
大好きなショッピングにも連れてってくれて、普段着ることの無いお洋服を選んだ。
ゲームセンターで恥ずかしい思いもさせられたけど、その時の胸の高鳴りを忘れる事は無い。
──私が? 私は……本当にいいのかな。
段々と、彼女の瞳に輝きが灯される。
「ミカ、まずは──」
ダンテがそう口にした瞬間、甲高い亡霊の叫び声が辺りを切り裂いた。
思わず二丁の拳銃をホルスターから引き抜き、その声のする方へと銃口を向ける。
彼の視線の先には無数の青白い影。その背後で、やたら背丈の大きい修道服を纏った存在が一体。
廃墟の回廊を背に、彼女は静かに佇んでいる。全身を覆う漆黒のボディスーツは、まるで艶のある革で作られたかのように光を反射し、そのフォルムを余すところなく際立たせていた。胸元から腰、そして四肢にかけて繋がる金具やベルトのような装飾が、どこか機械的で冷ややかな印象を与える。
顔にはガスマスクが装着され、無表情のレンズがこちらを見据えているようで、人間味を感じさせない。
「なんだあれは?」
「……あれは、聖女だ」
意識を取り戻したサオリが、ゆっくりと身体を起こす。けれど足元はおぼつかず、痛む片腕をもう一方の手で支え込むようにして、今にも吐きそうに背中を震わせている。
「ちっ、ここに来て邪魔者かよ。あいつらの相手くらい屁じゃねえが、流石に時間が掛かっちまうな」
そう呟くダンテの視線の先には、深い闇をたたえた回廊の奥。その場に踏み入り、神々しさに似た異様な雰囲気を纏う聖女らしき存在。どこか幻想的な光に照らし出されるシルエットを見て、ダンテは眉をひそめる。
そのとき、彼の前へとゆっくり歩み出したのはミカだった。片手に銃を握りしめ、もう片方の手を軽く垂らしながら、両翼を勢いよく広げる。まるで天から裁きを下す天使にでもなったかのように、彼女は静かに息を吸い込んでいる。
その姿に思わず目を奪われたダンテは、刹那の間、声を失った。胸中に去来するのは、今まで見たことのないミカの表情と気迫だ。亡霊が呻くように動く音さえ、背景のノイズに溶けるほど、彼女の背には力が宿っていた。
「先生、急いでるんでしょ? 私、実はこう見えても結構強いんだよ? だから──ここは私に任せて」
ミカは小さく振り返りながら言う。その瞳には、痛みや迷いが、鋭い決意に変化してきた形跡がある。周囲の微かな光が彼女の髪を淡く揺らし、両翼がわずかな風を巻き起こした。ダンテはしばし言葉を失ったが、やがて真剣な表情で頷いた。
時間はない──しかし、彼女の背に託せるものがあるなら、残すべき言葉は信頼でしかない。
ダンテは急いでサオリを背負い、ミカに背中を向けて声を放つ。
──サオリも、時間の問題だった。
「ミカ、無理すんなよ! 必ず助けに戻る、それまで……耐えろ!!」
ーー
ーー
様々な銃弾を華麗に避けるミカだが、全てを捌き切れる訳ではない。
飛びのき、天から撃ち尽くすその弾丸の隙間から、亡霊たちの果ての無い銃弾が彼女に向かって降り注がれる。身体を捩り、掠る程度には避けられるものの、その僅かなダメージは疲労の蓄積を促進させ、彼女の体力を確実に奪っていく。
「うう……痛い、疲れた。あー……もう、傷だらけ」
投降された手榴弾を打ち返すと、その奥で亡霊の叫び声が空気に溶ける。だが、その更に奥から新たな亡霊達が湧き、またもや彼女の周囲を囲むように散乱する。
「流石にこの陣形は不味い」
最後のスモークグレネードで周囲を充満させながら、ミカは急いで隣にあった扉を開いた。
長く伸びた石造りの柱が左右にそびえ立ち、天井へと続くアーチの曲線はどこまでも高く、神聖な空気を湛えている。正面には巨大なステンドグラスが連なり、淡い紫の光が満ちると、床や壁面に複雑な模様の陰影を落とす。
「ここは、聖歌隊室?」
辺りを見回す。
そこにはオルガンに楽譜、そして蓄音機。
長年放置されていたからか、所々錆があり、楽譜は長い年月をそこで過ごしたからかボロボロで、オルガンに至っては鍵盤が数か所へこんでいた。
「……そっか、そうだよね、アリウスも私達と同じ授業を受けていたはずだもの。えーっと? これはこうして……動かないかぁ。ま、仕方ないよね」
愛おしくその蓄音機を撫でながら、少しの間、記憶に想いを向ける。
「私、どうしてあの時先生に会いに行ったんだっけ。アズサちゃんがアリウスだって言う必要はなかったのにさ。大人って珍しいから、どんな人なんだろうって好奇心が湧いたのかも。それなのに、あの先生ったらピザしか言わないんだもん」
──じゃあさ、もし私がすっごく悪い事とかしちゃってたら、ダンテ先生はどうする?
「……あの時、私の中には悪魔がいた。目を背けられない悪魔が。その悪魔を──退治して欲しかったのかな」
──やっぱり、まずはビンタだな。
──場所が変わっただけでやること変わってないじゃん!? 怖っ!
「叱られたかった。そして──救って欲しかった。ずっと暗闇を彷徨ってた。誰か……物凄く強くて、素敵な人が、私にも手を差し伸べてくれないかなって」
だから──。
「私は、あの歌が詰まらなかったのかも。そんなハッピーエンドなんて……私には振り向く筈がないから。内なる悪魔に背を向けれず、ずっと見つめ続けた私は──魔女になった」
扉が破られ、黒煙と共に亡霊達の叫びが室内にこだまする。
──これは、赦しの歌。
「今の私なら……それは願いだね」
廃墟と化した回廊に、トリニティ学園で讃美歌として歌われている旋律がか細く響きはじめる。
それはミカの唇から漏れる、どこか切なくも祈りにも似た歌声だった。敵わないと分かっているのに、彼女はまるで自分を鼓舞するように──あるいは、他者の幸せを願うように、一節ずつ紡ぎ出していく。
──僕が君を呼ぶ声を聞いて。君を暗闇から引き戻すよ。
かつてトリニティ学園で皆とともに歌った、神聖な響き。その懐かしい調べが、いまは荒れ果てた回廊にこだましている。だが、シスターの亡霊たちは無数の憎しみを宿した瞳を、容赦なくミカへ向けていた。
ミカの瞳は翳りを帯びているが、その奥底には揺るぎない決意が潜んでいる。いつか、あの学園で耳にした穏やかな日々の記憶を思い返すかのように、彼女は痛みをこらえながらも銃を構えた。
──悪魔の罪深き声が聞こえたら、いつも背中を向けるんだ。
胸の奥からこみ上げるかすかな震え。それは後悔の残滓かもしれない。だが、ミカの足はわずかに前へと踏み出す。自分がどれほど傷つこうとも、誰かの幸せを守るために。
シスターの亡霊たちは、低くもつれるような声で何事かを呟きながら、一斉に手を伸ばしてくる。まるでミカの身体ごと飲み込もうとするかのような動きに、彼女は一瞬目を見開いたが、すぐに意を決して銃口を向け直した。
──風に向って君は行く、それでも私は願ってる 君の魂が、君を故郷へ導いてくれることを。
「だから私の贈り物を君に託すよ。君だけの庭を育てて。そして、そこに花が咲くのを見守っていて」
声は弱々しく震え、息は乱れている。それでも歌は止まらない。まるで、これが最後の祈りであり、最後の希望であるかのように、ミカは息絶え絶えに歌いつづける。
亡霊たちが牙をむき、断罪を告げるかのように狂気を研ぎ澄ます。ミカは引き金にかけた指に力をこめる。どれだけ多勢であっても、ほんの少しの間だけ足止めできれば──そんな儚い期待が彼女を支えていた。
18話の「聖園ミカ」のミカの胸中はこんな感じでした!
回収するのに時間が掛かりましたね。