「ここがあのハエ女の住処ってか」
柱やアーチの残骸が随所に散り、かつての壮麗さを思わせる名残が、今は無残に崩れ落ちたまま横たわっている。天井の高い大広間を支えていたはずの梁や壁面の彫刻にも幾筋ものひびが走り、光が漏れ込むステンドグラスの一部が割れて、不規則な形の破片を床へ落としていた。
「もっとましな場所は無いもんかね。お祭りなら酒くらい用意しとけってんだ」
遠く、抜け落ちた壁面から入り込む夜風が、割れたステンドグラスの破片をわずかに揺らし、その軋み音が冷たい残響となって耳を叩く。かつてここで響いていたであろう祈りや歌声は、今や幻のように感じられ、ただ荒涼とした静寂だけが廃墟を支配していた。
「サオリ、容態はどうだ?」
「まだ、ふらつく。だが──すぐにあいつらを助け出さなければ」
ステンドグラスから射し込む僅かな紫色の光が、崩れた石材や瓦礫の上にかすかな輝きを投じる。床には薄く埃が積もり、動くたびに細かな粒子が宙を舞って、静かな舞台をさらに神秘的に見せている。
中央の広いスペースにはまだ紋様が刻まれた円形のタイルが残り、そこから祭壇へ続く階段がわずかに傾いている。砕かれた柱や天井の残骸が階段の周囲に散乱し、神聖だった空間を無情に傷つけた痕跡を生々しく伝えていた。
廃墟と化した祭壇の奥、十字の石碑が不気味に浮かび上がっていた。そこへ括りつけられた三人の少女──ミサキ、ヒヨリ、アツコ。その身体には、痛々しいほど鋭利なツタが絡みつき、わずかに血を滲ませている。見る者の心を抉るような惨状に、サオリは唇を噛み、表情を険しくした。
さらに、その奥で指を絡ませ、ステンドグラスに向かって祈りを捧げる敬虔な従者がひとり。
「待っていましたよ、サオリ。おや? あなたはまだ御方の寵愛を授かっていないのですね? そうですか……まだ時間が必要だと」
言葉と同時に彼女はゆっくりと立ち上がり、淑女のような笑い声を響かせる。その姿に、サオリの息はさらに荒くなる。振り返ったその瞳は鋭く光り、獲物を見つけた肉食獣のごとくサオリを射抜いた。
視線が吸い込まれるようで、サオリは瞬き一つ動けない。もし一瞬でも目を離せば、その次の瞬間には首を切り落とされている──そんな根拠のない悪夢めいた幻覚が脳内を浸食し、つい先ほどまで感じていたわずかな気概すら嘘のように消えていく。
──ダメだ。こんなのにどうやって勝てというんだ。ミサキ、ヒヨリ、アツコ……私は、私は……!
自分を奮い立たせる言葉が見当たらなくなったとき、ふっと視界に割って入る大きな影。ホルスターにあるはずの二丁拳銃は握らずに、腕を組んだまま、その男はサオリと従者との間にすっと身体を入れた。
「おやおや、いらしたのですか。てっきり逃げたものかと」
「目ん玉沢山付いてんだから視力は良いと思ったが……もしかして腕の良い眼鏡屋でも探してる最中だったか? なら悪いな、ハエの眼鏡屋なんて心当たりがないもんでよ」
まるで軽口を叩くように言い放つ。彼の言葉こそ飄々としているが、その瞳には徐々に怒りが宿っていく。視線の先には、十字の石碑に拘束された三人のサオリの仲間たち。そして、その傍らには槍に貫かれた片翼が突き立っている。
千切れた羽根から滴る血が、棒をつたって地面にひとつの血溜まりを作っていた。その無残な光景に、ダンテのまなざしはぐっと鋭く、冷たく光る。
「あの子供を弄んだのはてめぇだったのか。よっぽど死にたいらしいな」
彼の内側で何かが軋みをあげ始めたのが、すぐに分かる。はじめは余裕と呼べる軽妙さの中に混じる、小さなトゲ。次いで拳を握り込む際に見せる僅かな震え。
サオリはその背中に短く声をかけようとしても、言葉が出てこない。ただ、彼の怒りが段々と色濃くなる気配だけが痛いほど伝わってきた。
「お前の目的なんざに興味は無え。だが、今からすぐ死ぬか、それとも俺に遊ばれて死ぬかどっちか選ばせてやるよ」
ダンテは低い声で問う。先ほどまで挑発気味だった口調とは違い、張り詰めた糸のような静かな口調がにじんでいる。マダムと呼ばれる女は、相変わらずステンドグラスに顔を向けたまま、笑みとも嘲笑ともつかぬ表情で言葉を返す。
「ほう、傭兵如きが大きく出ましたね。遊ばれて死ぬのはどちらでしょうか?」
どこか恍惚の混ざる声が回廊に響くたび、ダンテのまなざしは殺気の度合いを増す。微かだった怒りの種は、いまや勢いよく芽を伸ばしているようだった。
彼の足下がわずかに軋むと、ホルスターの拳銃にはまだ手を伸ばさないまま、ゆっくりとベアトリーチェにの方へ進み出る。
「サオリ、ここは俺に任せろ。お前は三人を」
「……でも、ダンテ──」
「気にすんな。俺を忘れたか?」
そう短く言い放つ彼の横顔には、はっきりと怒りが点火した痕跡が宿っている。ベアトリーチェが小首をかしげると、ダンテは軽く息を吐き、ついに片方の拳を握りしめた。
その握りの深さ、そして頬がわずかに引きつる様が、確かに怒りという炎を伝えていた。
──赤黒い稲妻が、彼の全身を仄かに染める。
それに呼応するように、ベアトリーチェの懐から、弱々しい青白い光が仄かに漏れ出した。
「お前の好きにはさせねぇ。子供を踏みにじることが、当たり前だなんて思うなよ」
失われた片翼。その血溜まり。十字に縛られた三人の姿。すべてがダンテの胸に火を灯し、もはや収められないほどの憤怒となって燃え上がる。
ベアトリーチェは嘲るようにかぶりを振って、ステンドグラスの前へとゆっくり回り込む。 その瞳は獣のように細められ、ダンテを挑発するかのように光を宿した。
「ならば試してみましょうか? あなたの怒りが、私の信仰の前でどこまで──」
言い終わるか否か、ダンテは重心を深く落として力を込めた足で地面を踏み締め、一気に前へ踏み込む。まるで空気の隙間を裂くような動きに、ベアトリーチェは反応しきれなかった。
──その拳が、彼女の顎を砕くのにそう時間は掛からなかった。
衝撃音とともに、ベアトリーチェの体は横へ弾き飛ばされる。光景が回転するかのような錯覚に陥りながら、彼女は自分の視点が真横に流れている事実に一瞬呆然とする。壁にぶつかる間際、かろうじて背を丸めて衝撃を逃がそうとするが、その際の痛みで頭が白くなる。
「よくしゃべるハエは、叩き潰してやるしかねぇな。決めたぜ、てめぇが多くの生徒を踏みにじった分、俺が弄んで殺してやるよ。生憎、悪魔には手加減しねぇ文化で育っちまったもんでな」
低いが明瞭な声と、拳を握り締める音が響く。その言葉を背中越しに聞きながら、サオリは後ろで胸を押さえる。
「き、き、貴様ああああぁぁぁぁぁ!!! よくも……よくも!!!」
砕かれた顎を瞬時に再生させながら、ベアトリーチェは憤怒の声を上げる。地面を踏み込み、石畳を派手に陥没させてから弾丸のように跳躍。鋭い爪が容赦なくダンテを狙う。だが、
「一発で終わるわけが無ぇよな」
ダンテはまるでそこにいなかったかのように、一瞬で間合いをずらし、腰を深く落として体をひねる。拳を引き絞ったかと思うと、ベアトリーチェの下腹部へ大きく叩き込んだ。突き上げる衝撃とともに、彼女の身体が軽々と宙に浮く。
「がっ……ふぅっ……!」
次の瞬間、ダンテはさらに跳躍して上方へと追いすがり、続けざまに二度、三度と腹へ拳を放つ。息ができないほどの連撃を浴び、ベアトリーチェは天井へ突き刺さる勢いで投げ飛ばされた。
「ハッ! まだだ!!」
すかさず天井にめり込む相手の腹を貫こうとする拳が突き抜け、そのまま石材を砕く。ベアトリーチェが悶えるような悲鳴を上げる間もなく、ダンテは体を捻って突き刺した腕を一気に引き抜くと、急降下のタイミングを図って後方へ飛び下りる。重たい足音を立ててサオリの前に着地し、今度は左手で照準を定めるかのような仕草をする一方、右拳を限界まで引いて構えた。
天井から剥がれるように落下してきたベアトリーチェが、わずかに軌道を立て直しながら地面へ着く刹那──ダンテは片足を床に強く踏み込み、自分の身体を弾丸のように加速させて一気に突進。
「うるせぇハエだ。もっと大人しく出来ないもんかね」
重い衝撃音とともに、右の拳がベアトリーチェの顔面を捉える。その威力は凄まじく、宙を切って飛ばされた彼女の身体はステンドグラスまで激突し、砕けたガラス片が降り注ぐ。血と破片が入り混じり、床に煙を上げながら転がるベアトリーチェ。彼女は悔しげに声を振り絞る。
「がぁ……が……ぐ、うぅ、き、貴様……!!! 貴様あああ!!!」
血だらけの唇を歪め、怒鳴り声を上げようとするが、その叫びさえダンテの殺気を煽るだけだ。彼は拳を一度強く握り、開いて確認すると、うっすらと付着した血を振り払うように手首を回す。
「やかましい。今度は何の戯言を抜かすってんだ? ああ?」
鋭く光る瞳に宿った怒りは、まだ冷めてはいない。強烈な一撃の数々を見届けたサオリは、思わず膝に力が入らず、言葉を失っていた。アリウスの全生徒たちでさえ恐れるベアトリーチェが、こうも圧倒的に叩き潰されるとは想像もしていなかったのだ。
「ダ、ダンテ……」
サオリが震える声で名を呼ぶと、ダンテは振り返りもせず、低い声で言った。
「そこの三人を外してやれ。傷の手当てくらいなら出来るだろ?」
振り向いた穏やかな顔にサオリは一瞬反応が遅れたが、すぐに彼の意図を悟ってうなずく。今こそ仲間を救い出す時だ。
一方、ベアトリーチェは砕け落ちたステンドグラスの破片を払いのけながら、歪んだ声で何かを呟こうとするが、そこにダンテが再び瞬時に詰め寄る。拳を突き出すまでの時間が、まるで刹那の閃光のようだ。
「どこの誰から貰ったかは知らねえが、悪魔の力に身を染めた事を後悔させてやるよ」
振り下ろされた拳は容赦なく、ベアトリーチェの胸骨をへし折る。再生能力があるとはいえ、そのダメージは計り知れない。ステンドグラスの隙間から射す淡い光の中、ダンテは容赦のない闘気を放ち続け、まさにぼこぼこに叩きのめす勢いだった。
地面を転がるベアトリーチェに対して、一瞬たりとも逃げ道や反撃の隙を与えない。その激しい攻撃が続くたび、骨の砕ける音や悲鳴じみた呻きがこだまする。サオリは背中越しにその音を聞きながら、何とか拘束された仲間たちを助けるために奔走する。
こうして激烈な戦闘は一方的に進行し、ステンドグラスを鮮血で染めながら、ダンテの怒りは止むことを知らなかった。まるで積年の憤懣すら吐き出すかのように、拳も蹴りも躊躇なく振るわれ、ベアトリーチェの威圧感や狂気を打ち砕き続ける。
「ぐおおおおお!!!!!」
死に間際の悪あがきか、変形した腕で必死に彼を払いのく。
狂気的な笑みのまま、その些細な抵抗を軽々と避けた彼は、再びサオリの前へと後退した。
「ゆ、ゆ、許さない……!! お前だけは……絶対に!!!!」
声はひどく掠れ、しかし殺気をまるで揺るがせることなく宿している。ダンテは挑発気味に両手を広げ、わざと大きな隙を晒してみせた。まるで彼女をあざ笑うかのような余裕がそこにある。
「へぇ、許さなかったらどうするんだ?」
その言葉がベアトリーチェの神経を逆撫でする。筋の通らぬ圧倒的な力の前に絶望しながらも、彼女はなお鋭い目つきで睨み返す。勝算など無いと悟りつつも、敵意は決して消えない。
月光に照らされたステンドグラスが仄白く反射するなか、ベアトリーチェは懐から試験管を四本取り出した。ガラス越しに見ると、闇夜の光をかすかに受けて、禍々しい色を帯びている。
「ぐっふふ、ぐふっ。私にはまだ……御方の寵愛があります」
その声と同時に、ステンドグラスに映る彼女の姿が震えるかのように歪んだ。まるでその人影が動いているかのごとく、怪しい影のうねりがガラス面に現れる。
ベアトリーチェは一息に、試験管の中身を飲み干した。スクワッドやアズサに飲ませたという御方の血。それを己に投入する。すると、彼女の身体はごく短い間の痺れを経て、膨れ上がるように変容を始めた。
「あ……あぁ……っ!」
月光を透過するステンドグラスの柄が、背後のベアトリーチェのシルエットと重なり、彼女の輪郭を見えづらくする。その代わり、頭頂部へと奇怪な花のような突起が芽吹く様子が、場を打ち壊すような圧倒的気配とともに視界へと迫ってくる。
ぎりぎりと骨のきしむ音が周囲に響き、彼女の肌が変色し、傷や痛みすらもかき消すほどの強大な力がそこに凝縮されているのが見てとれた。
「成程、ハエから花が咲くとはね」
呆れ混じりにダンテが低くつぶやく。先ほどまで散っていた彩色ガラスが足元を転がり、光の反射が幾重にも閃いては彼女の輪郭を照らし出す。
ベアトリーチェはきしむ息を吐きながら、まるで花弁のような部分を頭に咲かせた異形の姿のまま、盛大に笑う。闇の奥底から響いてきたかのようなその声は、悪魔の叫びのごとく反響した。
「ま、あの程度だと拍子抜けだからな。だが──本格的に悪魔に力に頼るのなら、俺も容赦はしねえ」
ダンテの眼光に宿る怒りと殺気は、すでに満ちきっている。ほんの数分前までは余裕を見せていた彼でさえ、目の前の異形を前に、口元を引き結ぶ。
一方、サオリは今にも倒れそうな身体を支えながら、悲鳴にも似た息を飲む。ミサキ、ヒヨリ、アツコを案じつつも、目の前で変貌するベアトリーチェの圧に反射的に後ずさった。
ステンドグラスは、もはや割れかかったガラスを透過しながら、ベアトリーチェの狂気と合わせてさらなる怪しさを醸しだしていた。十字架のモチーフさえ歪んで見えるような光の屈折が、その変身をまるで祝福するかのようにきらめく。
ベアトリーチェの口もとからは不気味な涎のような液が垂れ、笑みとも苦痛ともつかない表情が混在している。
「ゆ、許さ……いぎっ……!!!」
彼女が口を開くたびに身体の組織が再構築され、言葉が上手く発せられない。
手にした銃を握り込んで、ダンテは再び地面を踏み込み、ほとばしる怒気とともに突進の姿勢をとった。ステンドグラスに映る影が、さらに禍々しい怪物へと変わりゆくベアトリーチェを照らし、深紅の血と歪んだ光だけが廃墟を染め上げる。
破壊と殺戮を司る悪魔へと変異を続けるベアトリーチェ──その光景は、すでに人の理解を超えていた。
「いぎっ……あぁ、殺してあげますよ。無残に」
──あの先生のように!!!
彼女の長い腕が、ダンテに襲い掛かる。
──その瞬間。
ベアトリーチェの懐に隠れていた一つのカードが。
青白い輝きを放ち、辺り一帯を染め上げた。
「……これは」
彼の声は段々と時の狭間へと消え、辺り一帯がゆらりとうねりを上げる。
ベアトリーチェの動きは止まり、背後にいたサオリの声も時空の狭間へと溶ける。
その光景に疑問が浮かぶ彼。だが──その感覚だけは、どこか……覚えがあった。
ーー
ーー
波打ち際には打ち上げられた古い板やイスらしき残骸が散らばり、かつて、そこにあった誰かの名残を想起させた。
波が寄せるたびに潮がその破片を洗い、淡い泡が砂浜を薄く白く染めては、すぐに溶けるように引き返していく。
遠くの海は濃い群青から薄紫への色彩を描き、空との境界を曖昧に溶かし込み、水平線近くの雲は淡いピンク色に染まっていた。砂浜自体は日光と潮風に揉まれたのか、少し色あせた灰色に見え、足跡が風にさらされるように薄らと形を崩している。
傾きかけた陽の光が海面を照らすと、漣がほんのりと輝き、波間に一瞬だけ光の煌めきが生まれる。打ち寄せる波音が規則的に鼓膜を打ち、空にはほのかな茜色が広がりつつあった。そうした光景が、散らかった椅子や板との対照を際立たせ、寂寥感にも似た穏やかな静けさを漂わせていた。
波打ち際からほんの数歩先、いつのまにか漣に意識を奪われていたダンテは、背後から聞こえるすすり泣きの声にハッと我に返る。穏やかな海と空の狭間で、いま彼が立っているのは、どこまでも続く水平線のほとり──砂浜の世界。
視線を海から背後へ戻したとき、淡い桃色の朝日が二つの影を優しく包みこんでいるのが見えた。海と空の境界線に溶けるような光が、その影たちを静かに照らしていた。
青を基調としたセーラー服に膝丈より少し短めのスカート。大きなリボンが無邪気な雰囲気を醸し出すその少女は、顔をくしゃくしゃにして大粒の涙をこぼしながら、もう一人の影を必死に抱きしめている。相手は、夢の中で見た薄色のグレーのスーツをまとった人物。少しだらしのない胸元とは裏腹に、優しげな表情で少女をしっかりと支え、まるで愛しく想う人を扱うかのように深く抱きしめている。
風に煽られる髪の合間から見えるその面差しは、優しい声とともに少女を包みこみ、暖かさすら漂う。
小さな身体を震わせて泣くアロナの頭を、ゆっくりと撫でてやりながら、何か囁いているのだろう。はっきりと聞こえないものの、その囁きは朝日の柔らかい光と相まって、切なさと穏やかさを同時に運んでくるようだった。
ダンテはその光景を静かに見つめ、どこか切なくなる。視界の端には、遠くの波打ち際で漂う淡い水霧がかすかにきらめいている。そこからこの二人を照らす日の光は、恋焦がれた二人の再会を祝福するかのように感じさせた。
足元に広がる砂浜がしっとりとした黄金色を帯び、風が吹くたびに繊細な粒子が光を反射してきらりと舞う。アロナのすすり泣く声が、ちぎれるように海風へ溶けていく。スーツの人物がやわらかく落とす声と手のひらの感触だけが、今は彼女を現実につなぎ止めているように思えた。
ダンテはそれ以上踏みこむこともできず、ただ立ち尽くし、この静かな、けれども深く心に響く光景を目に焼き付ける。
「ひぐっ…えぐっ…う、うぅ……せ、先生……アロナは……アロナは……先生を……守れ、なっ……なくて……っ!」
「アロナ、泣かないで! 君は頑張ってくれたよ。私の方こそごめんね、寂しかったよね」
「ひっ……ひっく……せ、先生……あ、アロナは……私……私が……先生を……守れなくて……っ!」
「ごめんねアロナ。ずっと……苦しかったよね。私が弱いから、アロナを悲しませた」
「ちっ、違っ……違います……っ! せんせいは! ……強い人なんですっ!」
彼はそっと撫でていた手を止めて、彼女の両肩に優しく触れる。揺れ動くアロナの瞳を真っ直ぐに見つめながら、震える声で唇を開いた。
──アロナの笑顔が見たいな。
涙でくしゃくしゃになったアロナの顔に光が差し込む。彼が静かに微笑むと、その笑みに釣られるようにアロナの心もほどけていき、しゃくり上げるような息が徐々に落ち着いてきた。鼻をすすりながら、彼女はわずかに上目遣いで彼を見上げる。その姿に、彼はさらに穏やかな笑みを返す。
涙が一つ、また一つ頬を伝うと同時に、アロナは小さく鼻をすすり、やがて声を詰まらせながらも泣き止む。彼女の胸にあった重たい感情が、優しい手のぬくもりとその視線の力で少しずつほどけていくようだった。
満足げにうなずいた彼は、静かに振り向き、今度はダンテへと視線を移す。周囲の静寂のなかで、二人の間にどこか温かな空気が流れ始めていた。
「ねえアロナ、あの人の事を教えてくれないかい?」
「ひっく……あ、あの人はダンテ先生……です!」
「どんな人なのかな?」
「ダンテ先生は……強くて、ずぼらで……でも、生徒に寄り添える……優しい人」
「そうだね、うん、だからこそ彼に任せたい」
彼はアロナの手を握りながら、静かに歩き出した。
その一歩一歩が、切なく砂浜に足跡を付けながら、ダンテの前へと足を踏みしめる。
「あなたに……お願いしてもいいかな。アロナは手の掛かる子だけど、とても無邪気で可愛くて、絶対に守りたいんだ」
「お前……。ああ、任せろ」
先生は──ゆっくりと手を差し出した。
ダンテは戸惑うように一瞬だけまぶたを下ろすが、次の瞬間、切なさを噛みしめるようにその手を握り返す。しっかりとした温もりが、二人の間にわずかな息をもたらした。
そんな二人を見つめながら、アロナはじっと唇を結んでいた。瞳はどこか浮かない光を帯びながらも、もう片方の手を静かにダンテへ差し出す。微かな震えの走るその細い指先に、ダンテはためらわず手を伸ばし、しっかりと握りしめた。
わずかに漏れる寂しげな息遣い。けれど、指先から伝わるかすかなぬくもりが、三人の交差する手元にひそやかな絆の光を灯しているようだった。砂浜に吹く涼やかな風がその光景をすり抜け、どこか切ない静寂の中、彼らの手は固く結ばれたまま動かなかった。
「──誇り高き魂だ。私は間違ってなかった。それだけで安心だ! きっと、あなたになら任せられる」
──だから。
まばゆい光が辺り一面を包み込む。
光は彼らの身体を浮かび上がらせ、柔らかな世界から彼らを解き放つ。
──最後の願いを、言葉に乗せながら。
生徒たちを……よろしく、お願いします。
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キヴォトスに舞い降りた悪魔は、その力の一端を顕現させる。
石造から模造された一振りの剣は、天を舞い、地へと突き進む。
深紅の稲妻を帯びたその反逆の剣──リベリオンは、彼の呼応に応じ、その姿を魔剣士の前へと現した。
赤い稲妻はけたたましい雷鳴を轟かせ、同時に現れた深紅のコートを纏った彼の手中に納まると、鍔が開き、髑髏の口は彼の力を叫ぶように解放される。
その剣の一振りは、彼女の腕を切り裂くと、辺り一面に鮮血を巻き散らした。
「があああああ!? き、貴様いつの間に……な、何者だ!? お前は何者だ!?」
ゆらりと舞うように、剣に付着した血を一振りでそぎ落とすと、彼は気だるそうにその大剣を肩に担ぎ、標的を見据える。
「俺は──魔剣士スパーダの息子にして、悪魔狩人。そして──」
風が巻き起こる。
深紅の稲妻に煽られた大気が渦を巻き、心の中にある炎は更に燃え盛る。
彼はそっと目を閉じ。
その灼熱の舌で、轟雷と共に。剣を天に突きあげ……。
自身の役割をその胸に焼き付け。
今こそ彼は、己の名をこの世界──キヴォトスに刻み込む。
──シャーレの先生、ダンテだ!!!!