古びた廃虚の中に佇む蝶番が、辛うじて支えている木造の扉の先には擦り切れ、錆に塗れた机。月日が経ち、歴史に忘れられた出で立ちの机の上に置かれた幾つもの画面から漏れる現代の光は、その者の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。静寂を打ち破る打鍵音。苛立ちとも取れる指の焦燥は臨界点に達したのか、口元に運ばれる一本の煙草に火を灯した。深く息を吸い吐いたその白い煙は風に揺られる事無く宙に溶け、淡いブルースクリーンの採光を可視させる。
画面に映し出されたリード線を矢印でなぞる。その先に書かれてある「ATRAHASIS」という難題に、その者は本日何度目かと数えるのも馬鹿らしくなるほど、頭を抱えていた。
何度も何度もハッキングを試み、死に物狂いで慣れない力を使い、必須条件である「権限」をも手に入れたというのに目的の塔の出現は叶わず、また振り出しに戻る結果。もしかしたら……前提条件を間違えていたのか、それともまだ何か足りない「鍵」でもあるのか。
軍服に身を包み、気怠そうに煙を消す彼は、無言で首を振った。
御主の寵愛を使役し、剰え失敗などしようものなら罰などでは済まない。死に行く先でも地獄のような苦痛が待ち構えていると思うと、背筋が凍る。
裏でカイザーを裏切り仕える主を見定めた彼は、それでも前向きな思考に陥るしか手は無かった。降臨の儀式を成功させるということは彼にとっての使命。世界の理を「アリウスの魔女」から告げられた彼は、これからの身の振る舞いを考える事になった。それはこの世界の「絶対者」が入れ替わるという事、そしてこの神秘が跋扈している世界が、新たな力によって塗り替えられると言う事実。その証拠に、彼女から与えられた血液を体内に取り込んだその時、自身の第六感……いや、七感が冴えわたった。
蠢く力を試したいと、衝動に駆られた彼はそこら辺にいた生徒数人を血祭りにあげるほど痛めつける。
それまでキヴォトスの生徒に手も足も出なく、己に力を嘆くことしか出来なかった彼が、初めて力に喜びを感じた瞬間であった。
これが御主の寵愛ならば、その右腕になればどれだけの「愛」を傍受出来るか想像すら困難だ。欲に抗えぬ彼は彼女より先に御主をこの地に降臨させると、躍起になる。
だが、現実はまだまだ残酷であった。
「くそ、彼女と連絡さえ取れれば……一体何故返信を寄越さない。返信はその日の内にするもの。社会人の常識だというのに」
そんな苛立たしくしている彼の元に、ひとつの影が入り込もうとしていた。
静かなノック音が響く。いつもと変わり映えしないその丁寧で規律に溢れた音が鳴り終わると、丁寧な挨拶の元、静かにゆっくりと扉が開かれた。
「黒服か。急な来訪だな。一通事前に連絡を寄越してくれればストロベリーサンデーでも用意してやったというのに」
「これはこれはお構いなく。私も早急に言伝でご報告しておきたい事がございまして。電子の海に記録が残ると厄介なのでこの通り直接お伝えしに参った次第です」
「なるほど。待て、その前に煙草を一本吸わせてくれないか? それとも急ぎか?」
「いえいえ、切羽詰まっておりませんのでごゆっくりと。ではアイスブレイクといきましょうか」
無造作に口に咥えた一本……着火したライターをゆっくりと近づけると、肺いっぱいに煙を吸い込み、徐に吐き出す。
「そういえば、彼女が言っていたな。本来の世界の私は煙草など吸わないと」
「ベアトリーチェが? ほぅ、興味深い内容ですね。私も元の世界と何かが違ったりするのでしょうか」
「お前達ゲマトリアは生徒を実験台にする極悪の集団だったと聞く。だが、この世界ではその片鱗すら見せていない」
「人聞きが悪いですねぇ。私達はあくまでも真理の探究。己が思う真理を追っかけているに過ぎません。実験はその副産物でしょう」
「つまり、別の方法で真理を探究すると?」
「いえ、私達は見届けることにしたのです。あぁ、マエストロやゴルゴンダはまだ探求出来る部分がある筈だと声を大きくしていましたが、心が折れかけています。同じく傍観者になるのも時間の問題でしょう」
探求、真理、そして傍観者。
ゲマトリアという謎の組織に首を傾げたい彼だが、寵愛の協力者として下手に介入する訳にもいかず、その正体不明の人物の声に耳を傾ける事しか出来ない。それでもこの者……黒服は不気味だ。丁寧な口調の裏に隠れる冷徹さ、そしてゲマトリアに隠された数々の兵器を流暢に扱うその様はまるで魔法使いだ。先日見たあのスーツケース型の兵器を、今でも忘れる事無く彼の脳裏に焼き付いている。黒服曰く、666種の形態に変化出来るという物らしいが、あのベアトリーチェでも全くと言っていい程扱えないらしい。彼は今その兵器に熱を注いでいるそうだ。
「お前達は一体、何を傍観するというのだ」
一体、何を。
その問いに、黒服は口元の笑みを抑える事が出来なかった。腹を抱え、俯くという彼の行動に怪訝な顔を隠し切れなかった彼は、思わず灰を地面に落とす。
「クックック……。そうですね、正直言うと私も探求したい事が山々なのです。が……キヴォトスに舞い降りたその者のおかげで計画が全て台無しになった。と言うべきでしょうか。あれを敵に回すのは流石に自殺行為ですからねぇ。傍観と言うよりも、正確には手が出せないと言うべきでしょうか」
「何? それは誰の事だ」
「結論を申しますと……シャーレの先生です」
「ふ、何を言うかと思えば。シャーレの先生はベアトリーチェに殺されたではないか。いや、確かシャーレの先生になる前に消し去ったと言うべきか。それとも何か? また新しいシャーレの先生でも就任したというのか?」
「どうでしょうか。今ここで何かを言っても無駄でしょう。ちなみに、ベアトリーチェはそれこそカイザーPMCの者ではないかと最初は疑いを持っていました。恐らく、出し抜くならあなたではないかと疑ったのでしょう」
「馬鹿な事を……仮に、連邦生徒会がシャーレの先生を誰かに任せたとしてもだ。それがカイザーのPMCだとしても、所詮テクストを持ってない存在。我々の敵ではないのでは?」
吸い殻を無造作に灰皿へと投げ捨てた彼は、再び椅子に座り画面と向き合う。
返信が来ないメールボックスに再び目を向けながら送受信ボタンを数回押し、溜息を吐いた。
「アイスブレイクは終わりだ。本題を言いたまえ」
「そうですね……ええ、ベアトリーチェが討たれました」
ーー
ーー
朝の街路に木漏れ日がちらちらと揺れ、ほのかな金砂を撒いたように舗道を染めている。そこを、淡いブロンドの女子生徒が軽やかな足取りで進んでいた。任務用としてしか着る機会のないミレニアム制服を今日は珍しくまとい、アイロンの線まで端正なまま。豊かな胸元で詰められた第一ボタンは悲鳴を上げそうに張りつつも、当の本人は気に掛けるふうもない。揺れる葉陰からこぼれる陽光に手をかざし、瞬く光彩を楽しみながら、彼女はバス停へと小走りに歩みを伸ばしていった。
いつもなら登下校を共にする褐色の子は療養で休校。他のメンバーも同じ……部長だけは松葉杖を着きながら意地でも登校するという気合を見せたが、それもこれも溜まりに溜まりまくった遅刻やさぼりが原因で、これ以上の欠席は危ないという事情があった。最初は一緒に介護しながらと提案したが「下手に事件に巻き込まれそうで嫌だ」と突っぱねられ、頬を膨らますことになる。
つまり、久しぶりの一人の時間という訳だ。
時刻は既に10時を回っている。一般的な女子高生にとってはそれは遅刻だというのだが、今日の彼女は……いや、いつも彼女は気分屋な所があるが、今日に至ってはその気分やな所に拍車が掛かっており、いつもは寄らない洒落たカフェ。そして公園で遊ぶ子供達に紛れ込むなど突拍子もない行動が続き、今に至る。
流石に昼までには到着せねばと、意気揚々と足を速めるアスナの前に、ひとつの影が遮った。
その影は軍服を身に纏い、両手を背中に組みながら堂々と威圧感を隠す様子もなく、まるで彼女がここに来る事を最初から把握していたような振舞だった。
正面から見つめられる視線に段々と足取りを落とした彼女は、遂に彼の前で歩を止め、向かい合う。
「急にすまない。君が一之瀬アスナかな?」
「ん? そうだよ? 誰?」
「誰……か。ここでは名を明らかに出来ないが、私はカイザーの者だ」
「カイザー……!?」
C&Cのブリーフィングで告げられたコインの聖遺物という異物──その事件よりも前に噂になった、剣の聖遺物の強盗事件とミレニアムへのハッキング。首謀者はカイザーだという事実がC&Cの任務で明らかとなり、その事件を担当したのもアスナ達だ。だからこそ、余計に胸に落ちる不穏な影。思わず辺りを見回し他に仲間はいないかと索敵するアスナを見て、目の前の軍服の者は両肩を竦ませ、両手を肩まで上げあくまでも敵意はないというポーズ。
「警戒するのも無理はない。何せあの博物館での事件の首謀者は我々カイザーなのだからな」
「へぇ、認めるんだ」
「ああ、私達……いや、正確には私だな。私はある目的があってあの聖遺物を集めている」
「目的? ふーん、私に言った所でどうしたいの? お話終わっちゃったらあなたを拘束するけど?」
「理解している。だが、最早にっちもさっちもいかなくなってしまってね」
不気味に佇むその者に警戒を強めるアスナだが、同時に違和感も感じ始めていた。
武器も、部下さえおらず。あまりにも無警戒なその姿。キヴォトスで銃を持たないとどうなるか、当然知っている筈だ。
「もし、君が納得しないのならば私を逮捕してくれても構わない。ああ、好きにすればいい。……その代わり、私の話を聞いてはくれないか?」
「話? うーん……聞くだけだったらいいかも」
「ありがとう。よかった、君は私の相手をしてくれるんだな。よし、ならば着いてきたまえ」
「着いていく? どこに?」
彼が指さした先に見えたのは、塀に囲われた小さな建物だった。二階建ての躯体は、かつて白一色だった外壁が煤けて灰色に変わり果て、長く打ち捨てられていた廃墟を無理やり改修したような痛ましい風情を漂わせている。
黙って歩き出した彼を放っておくことなど出来ず、慎重に後から付いていくアスナ。まるで人払いでもされたかのような静けさに不気味さを感じたが、それよりも剣の聖遺物の事件の首謀者と言い切ったこの者の真相が最優先だと判断せざるを得ない。
ネームプレートすら剥げ落ちたその門を潜ると、その先には古めかしくも清潔に清掃された玄関。まるで学校のような沢山の靴箱が彼女達を迎えると、彼は「ここからはスリッパを履いてくれ」と彼女の足元に丁寧に差し出した。
「薬品の匂いがする」
「当然、ここは病院だからな」
「病院?」
「知らないか? 怪我や病で苦しんでる者を救う所だよ。おっと、ここでは銃を下ろしてくれないか?」
「……分かった」
「救う」という響きにわずかな疑問を覚えながらも、そこが病院であることには違いないらしい。切れかけの蛍光灯が天井でまばたきし、疲れた革張りのソファが薄い影を落とす。静寂だけが満ちた廊下を、彼の背中を見失わぬよう足早に進むと──その奥で、小さな影がこちらへ駆けて来るのが目に入った。
「カイザーのおじちゃん! 帰って来たんだね!」
「ははは、おじちゃんじゃなくてお兄さんだろう? どうだ容態は」
小柄な少女だった。身体のあちこちを包帯が白く巻き取り、片目も厚い布で覆われている。視線がアスナに向いた途端、少女は怯えたように軍服の影へ身を隠した。
「ねぇ……おじちゃん、あの人銃を持ってる……」
「大丈夫だ。あのお姉ちゃんは決して人を傷つけたりしない……なぁ?」
思わぬ怯えに面食らったアスナは、両手で構えていた銃を慌てて背中へ回し、しゃがんで少女と同じ高さになる。太陽のような笑みをつくり、そっと手を振った。
「怖くないよ! ごめんね、驚かせて」
「ううん、いいの。ただ……私……銃が怖いだけ」
「とりあえず病室に戻りなさい。後で甘いお菓子を持って行ってやろう」
「ほんと!? うん! おとなしくしてるねっ!」
女の子は小走りで廊下を走り、すぐ横になったドアの向こうへと消えていった。その様子を見て軍服の彼は「やれやれ」と立ち上がり、アスナの方に振り返る。
「見ての通りだ。銃は慎んでくれるとありがたいがね」
「う……うん」
「どうした?」
「えっと、ここは?」
「ふん、何度も言わせないでくれ、病院だ」
「それは分かる。でもあなた達カイザーがどうしてこんな慈善事業を?」
「慈善だと? 言葉に気を付けることだな。力を持つ者は弱き者を救わねばならない。それとも、C&Cには人を救うなどの教義は持ち合わせていないのかね」
鋭い語気が薄暗い廊下に反響し、静寂を刃のように裂く。思わず肩を震わせたアスナは、にじむ蛍光灯の下で視線を足もとへ落とした。
相手は敵──そのはずだった。だが、弱者を救うという言葉は真っ直ぐで、否定し難い重みを帯びて胸に刺さる。
自分は今、何と戦っているのだろう。
答えの出ない問いが頭を巡り、唇は固く結ばれたまま動かなかった。
「まぁいい。付いてきたまえ」
突き当りを曲がり階段を上った先には、一階と同じようにいくつもの部屋の扉が整然と並ぶ。
その一室を丁寧に開く彼の姿は、患者を労わる医療従事者のようだった。
同じくその扉を抜けると、そこには全身の包帯から血を滲ませている患者が一人。小さな頭部の耳は潰れ、黄金色の毛並みは赤く染まり、呼吸も荒々しい。
「まずい、悪化しているな。今すぐ治療を施そう」
彼が手を伸ばした先には、壁に立て掛けられた一本の剣──紛れもなく博物館から奪われた聖遺物だ。柄を握った瞬間、刀身は淡い薄紅の光を灯し、その輝きは脈動するように強さを増していく。
ゆっくりと患者の胸許へ刃をかざすと、光は一気に広がり、まるで繭のように人影を包み込んだ。
たった今まで血で濡れていた包帯は徐々に赤を失い、荒かった呼吸も静かな寝息へと変わる。淡い光が収束したとき、病室には安らかな寝顔と、剣先に残る微かな赤い残光だけが静かに揺らいでいた。
「見せるのが一番早いと考えたが、このように誰かの苦しみを伴うのはあまり良い気分ではないな」
「ね、ねぇ……! どうして剣で治療出来るの? あと、ここまで酷い病ならきちんとした総合病院に──」
「他の病院では治療できないと見捨てられた者達だ。私がそれを考えなかったと思うか?」
「で、でも。どうして剣で治療なんて……」
「おかしいのは理解している。だが、これでしかこの者達を救う事など出来ない。私はな、あのミレニアムの天才二人が解読出来なかったこの剣の力を解読したのだよ」
「……嘘」
「じゃあ、今の現象をどう説明する?」
「それは……」
「……ふむ、まぁいい。荒唐無稽なのは私も理解している。だから──これから私が話すことは……ミレニアムの闇だ」