強大なる覇王、ブラックモナークを抱えたフィオナの森の半分は様変わりした。
中心地である覇王の黒き森(シュバルツバルト・フォン・モナーク)からは巨大すぎるがゆえに常の実体化は成らぬブラックモナークのエネルギーに包まれ、その瘴気は黒き森の外まで流れ出した。
そしてそれは、不死を拒む森の民にとって信じがたいものを産んだのだ。
アザガーストが居なくても、勝手に墓からはいずり出てきた。腐乱死体が、幽霊が。死んで、フィオナの森へと魂を返したはずの者が再び現れ出でたのだ。
それらは……アザガーストの、浮世の命が産んだものとしてはこれ以上はない不死の理論すら超越するブラックモナークの不死のエネルギーに充てられ、より「生命」としての形を盤石にしたそれらは。
喜び勇んで、黒き森へと駆けていった。死なない身になったことを喜んで。
死なないことを祝福し、覇王の配下になりに行ったそれらは。
「多かった」。「多すぎた」。
……不老不死などというばかばかしい概念を妄信していた、フィオナの森全体から見ればほんの一滴ほどの人口しかなかったはずの闇文明の民が浮かれて墓から這い出したには、それは、「多すぎた」。……フィオナの森には、闇文明と自然文明しかいない。フィオナの森に眠っていた命なら、そのどちらかのはずなのに。
あのばかばかしい連中を除けば、死を喜び、死を尊び、再びフィオナの森に還元されることを望んで死んでいった命しか、フィオナの土地には眠っていないはずなのに。
……それから、導きだせることを。自然の民は、信じたくなかった。違う。自分たちは「そんなもの」じゃない。自分たちは、死を恐れない。自分たちは、恩知らずの傲慢じゃない。自分たちは、自分たちが愛し送り出していった魂たちはあんなものにならない。なるはずがない。
それでも、黒き森にはどんどんと闇に染まった魂が集まっていった。
常軌を逸した不老不死への執着心を持つ者を愛したが故に、一つの惑星に顕現し留まったブラックモナーク。彼の目を引いたアザガーストは当然のように、絶対の闇の覇王に寵愛された。彼の狂気の研究を彼がどうなろうとも支え続けたパトロンにして親友、凶星王ダーク・ヒドラも一緒であった。
そして、彼の望みはブラックモナークの絶対の不死の魔力を与えられることで、完全に完成したのであった。
彼と覇王の手にかかれば生命は不老不死の身となれる。それだけの魔術体系が完成した。
闇の民よ、喜べ。不死になりたい者は覇王の黒き森に集まれ。その呼びかけに、フィオナの森中のダークロードが歓喜した。ずっと、ずっと、不死にあこがれ生きてきた魔術師たちは、自分たちのもとに現れてくれたその望みの根源、闇の化身の祝福のもと、死を克服する身体を与えられた。
そこには、不死が生まれた。
ただの外れ値の不死ではない。種族としてごく自然に、不老不死なるものが生まれた。
完全にそうなったダークロードのほかにも、完全適応までは遂げられなかったゴーストにリビング・デッドも、不死の生命体としてはるかに安定した。もはや彼らも、只苦しみ、只嘆くだけ、死なないだけの物質ではなくなっていった。また、覇王から不死を与えられるのみならず魔力を増幅させられたダークロード達は、森中の不死を求める魂を次々に墓場から引きずり出し、また、不老不死化の儀式を実現するために必要な大量の贄を、自分たちを長年散々に嘲笑い迫害した民達から略奪し尽くした。数では圧倒的に自然文明が勝っていようとも、覇王の魔力を与えられた彼らの力は絶大過ぎた。
フィオナの森には、死を無視した黒い国がたちまちのうちに生まれた。
それでいて、世界は崩れなかった。自然は、崩れなかった。
フィオナの森の民はそれを知った。そして、思った。覇王の瘴気が流れる森と、折角自分たちのため現れてくれた森の化身が覇王の怒りの前にあっさり封印されてしまった事実と。次から次に、自分たちの仲間すら、そんなに死にたいなら殺してやると不老不死の逸脱の贄のために奪われ尽くされる毎日と。
それでいて、世界が、時間が、流れ続けることを。
どうして?
おかしい。こんなことは、世界の破滅にも等しいはず。あんなものが認められるはずはないのだ。不自然が起こってしまえばそれはもう世界は世界のていを成さなくなるはずなのだ。それだけのことが起こったはずなのだ。
ならば世界は破滅していいはずなのに、なぜか、今日もまた日が昇る。どうして? 今日もまた花が散ったあとに実がなる、どうして? 夏が終わって秋が来る、どうして?
どうして、ここまで狂ってしまった世界が、終わらないの? どうして、世界は彼らに懲罰を与えないの?
彼らは、苦しんだ。彼らは、悩んだ。常識を覆されてしまったからには、狂い死ぬか、考えて結論を見つけるほかはなかった。
そして、自然の民は、結論を見つけてしまった。
ああ、そうだ。世界は壊れていないから破滅していないのだ。なぜ壊れていないか? それは、あれらはいずれ死にゆく者たちだからだ。自分たちの正しさの前にあれらはいずれ消えるから、世界は壊れることを早計と判断し、あの穢れを受けて尚生き続けているのだ。
ならば、応えなくてはならないだろう。苦痛に耐えてそれでも自分たちを信じてくれる、この大自然に。
闇の化身と言う覆しようのない不死そのものの力を前にして手も足も出ない、それでも、それでも、皆が有限の命の輪廻を愛し生きていたと、それは素晴らしいものだったと信じたい自然の民は、覚悟を決めた。
自分たちが、正さねばならないのだ。何をしても。それが、自然に生きるという事。
覇王ブラックモナークと言うあまりの外れ値を敵に回した彼らには狂うか考えるかしか与えられていなかった。
そして彼らは……そう、おそらく。
考えぬいた末に狂った。
そこに生まれたのはおそらく、アザガーストと何ら変わりはないのだ。死の苦痛が怖いという単純な理由で狂気的に「生」を愛した彼に対して、自然の民たちは。
全てはただただ、誰もが得をして、誰もが損をして、誰もが森に生かしてもらう代わりにいつかは死んで、誰もがそこそこに幸せに回りゆく無邪気で豊かな森を愛したいというだけで。そんな……それだけではとても責められない、森への愛のために、彼らは。
「死の概念の狂信者」と化した。
●
護りの角フィオナすら失った森の中で幕を開けたのは、後世には語られぬ、狂乱の時代だった。ブラックモナークを肯じぬ民はこぞって、不死の否定のために動いた。
彼らは闇の民に「教え込んだ」。「死ぬことの素晴らしさ」を。
覇王の力を得たダークロード達は確かに強大であった。だが。強大を凌駕するものこそが、狂気であった。……ブラックモナークほどの存在を呼び込んだのが生のための狂気であるように、ブラックモナークの配下をも襲い得るのは、死のための狂気であった。
フィオナの森中で、狂乱のダークロード狩りが同時多発的に巻き起こった。もともと中心地に住んでいなかった者、墓場から仲間を増やしに黒き森から出てきた者、ダークロード達は狂気の故に無尽蔵の力を宿した自然の民に捉えられ、「死の世界に戻され、救われた」。
なにも、残酷なことをするわけじゃない。憎むべきは不老不死と言う逸脱をしてしまったダークロードだけだ。森に魂を還元しない卑怯者だけだ、あとは見逃してやる。自分たちは奴らほど悪どくはない。
不老不死の道に行ってしまったダークロードとて、蔑むものではないのだ。彼らはある種、哀れなのだ。彼らを、森に引き戻してやるのだ。森は、優しいから。森は、間違った魂でも戻ってくることを望んでいるから。ブラックモナークという間違いではなく、本当に優しい森に彼らが帰るために、死が恐れでないことを教えてやらねばならない。不老不死のばかばかしさを教えてやらねばならない。だから一切の自由を奪い、死も同然の永遠の苦痛に放り込み、自らの魔力をもって不死を放棄させるのだ。そう……それこそ、闇と自然と分かれてはいても、同じ森に棲んでいた者を救う慈悲の道、正義の道、これは、正しいこと。
ああ。ところで不死などは望まない、ちゃんと森の民として正しいダークロードと、只の嘘つきの違いはどう見分ければいい? それは実に簡単だ。
死ぬまで攻撃して死なないのが、正すべきダークロードだ。
誰もがそう信じて疑わなかった、疑いたくはなかった。正気を取り戻せば、そこにあるのはブラックモナークと言う覆し難い絶望だから。
それから愛を守るには、正気など、捨てるほかはなかった。
血が流れた。争いは激化した。自然の民も闇の魔術師からの反抗を、復讐を受けて次から次へと死んでいった。その恨みが、その怨念が、また自然の民を戦いに駆り立てた。
狂乱の時代を産んだのは何か?
彼らは、好きだった。皆で落ち葉を集めて肥やした土が、若芽を芽吹かせるその様が。そんな森で生きる生活が。
ただそんな愛のために、狂乱の時代が生まれた。
その狂乱が、ブラックモナークに次ぐ最強級の闇を産ませてしまうとも知らずして。
●
後世には名も残らぬ某所。
その土地に住むダークロードの一族は、覇王の魔力の洗礼を受け切らぬうちに不老不死を否定する魔術師たちに急襲を受けた。
森の摂理を、森への愛を裏切られ汚された恨みと、森の同志たちを殺され侮蔑された無念のままに叩き込まれた魔力は、彼らの身体を、彼らの魂を崩壊させた。死を拒んで死にたくない、とあえぐ彼らに、あらん限りの怨み辛みを魔術師たちは浴びせかけた。そんな自分勝手なお前たちのために果てていった仲間を返せ、家族を返せ、元通りの森を返せ。
ブラックモナークなどいない森を返せ、と。
既に不死になりかけていた身体。簡単には死ねず、だからこそ怨嗟の言葉を浴びて、苦しみ、苦しみ、苦しみぬいて一人一人死んでいった。
そんな中でも。
ある一家だけは、中々死ななかった。異常に高い魔力を宿す彼らに待っていたのは、魔力をもって絶対的に縛り上げたうえでの生き埋めだった。いつしかそれが、死なないダークロードへの一番の処刑法と化していた。
身動きもできず、苦痛しかない場所。そしていつか、普通に死すれば帰る筈だった場所。そこに、送ってやるだけのこと。森を拒んだ彼らに、それでも森は変わらずお前を抱いてくれると知らせる慈悲の行為。
無駄に生きたいという命には過ぎた望みを捨てれば、そこで眠りにつける。それだけのこと。最後の家は、体力の全てを奪い去られて埋められた。森に帰った正しい命として埋められた。ブラックモナークと言う逸脱から救われた命として埋められた。
だが。
想定していないことが起こった。
その家の一人娘。ただでさえ強い魔力を宿す家の中でも、彼女が持っていた魔力は、規格外の一言だった。
彼女は、あまりに純然たる闇の魔術師に相応しかった、彼女は黒き森でブラックモナークの力を直接浴びる事なくして、すでに風に乗って流れるその瘴気を吸うだけで、その完璧な不老不死に影響されていたのだった。それほど、闇そのものの化身に存在しているだけで呼応できるほどの才能の持ち主が彼女であった。
魔術師たちは見た。
彼女の家族は全て、生きるのを諦めた中で。細い身の体力を全て奪われていながらも、生きて土から這い出てきた姿を。
その娘はもう身動きもとれなかったが、魔術師たちにとっても最早打つ手などなかった。
どうすればよいのだ。これ程までやって絶対に死なない命に、どう命の尊さを教えればよいのだ。
彼らは、一つの道を見出してしまった。
彼らは、動けぬ娘、その頭から地面に流れる銀髪を、乱暴に掴んだ。
「(……なにが、起こっているの?)」
息も絶え絶えの中、獣人の魔術師たちが自分を取り囲むのが、彼女には見えた。
「(やめて)」
彼女はもう、殺されなかった。
殺されることは、放棄された。そうだ、本質は殺すことそのものではないのだから。自然の民たちは決して、殺戮の快楽のためこれを成したわけではないのだから。
「(離して)」
不老不死と言う間違いに幸福を見出してしまったダークロードと言う愚かで哀れな種族。それに、有限の命の尊さを教えられればそれでよいのだ。ブラックモナークと言う呪縛から解き放ち、彼らを自然の命に返す救済を成せれば手段は何でもよいのだ。
「(……妾、の)」
どんな種族も、女ならば、我が子を愛するだろう。我が子の持つものは、愛するだろう。
それを通じて、知ればよいのだ。命は、有限に消えゆくからこそ尊いことを。
「(この身体を、勝手に、いじらないで)」
……娘の視界はその時、孤独と絶望に真っ暗闇に染まった。視界だけではない。五感の全てが、闇に包まれた。彼女はもう、自分が何をされたか認識していなかった。
娘は、妊娠した。彼女を拘束する魔術師たちはそれを喜んだ。その身体に宿ったのが不死ならぬ獣人の子であることを、彼らは知ったからだ。
無知で愚かで迷った小娘。母となり、その子を愛し、その子を愛することで有限の命の美しさを彼女が知れば、それでよい。それを通じて不老不死などと言う概念のばかばかしさを知れれば、それでよい。
……もし、万が一、我が子すら愛せない冷酷の愚者がダークロードと言うのなら……それもまた、良いだろう。
そうなれば彼女は、愛せぬ存在を身に宿した生き恥を抱えて生き続けるのだ。何百年も、何千年も。不老不死とは一度生き恥を抱えれば死んだほうがましなほどの苦痛にあえぎ続ける事と同義と知り、やがては死を望むだろう。同じことだ。不老不死のばかばかしさを教えられるならば同じことだ。
踏みにじられた自然の民。彼女を身ごもらせたのが、何の汚い情であるものか。それはただ純粋に森を愛したビーストフォークの無念と怨念。無念と怨念の結晶の誕生が嬉々として望まれる中で。
彼女は、何も見えていなかった。何も聞こえていなかった。自分の口に放り込まれるものが無事子を産ませるために与えられる食物なのか拷問のために与えられる汚物なのかも理解できてはいなかった。何の匂いも、何の味も、彼女には感じられなかった。
何をされても、何も感じられなかった。
仲間を全て奪われ隔てられた孤独。
自らの身体と誇りを嬲られた絶望。
それらから生まれた暗い闇が、それを彼女に与えた世界から彼女を隔てていた。彼女を、彼女を害する世界から守っていた。いつしか彼女には、その事実が認識できるようになっていた。
これは、只の闇ではないと。ただの自分の現実逃避ではないと。この闇は、意志を持つ何かしらであると。
『お前は誰?』
口を開く気にもなれないほど絶望しきった彼女は、ただ心のうちのみで、その闇と会話した。
『貴女が呼び寄せた者です。貴女を守る闇です。それ以外に、私は何でもない』
……その言葉が。
最強の闇が、最初にあげた産声だった。
『私は、何でもないのです。ただ、貴女のお傍におります。貴女が、私を呼んだから』
それは、ひたすらなる闇。
彼女の強力な魔力によって顕現した、彼女を、彼女を孤独と絶望のどん底に追いやった世界から守るための闇そのものの魔物。
彼女は、それと心で語り続けた。
別段、知っていた。それで何が変わるわけでもない。
親は、仲間は、戻ってこない。獣人たちはきっとまだ自分を拘束している。自分が望まずして孕んだ子供は勝手に育ち続ける。何が変わるわけでもない。
『……私は、何も、できないのです』闇もそれを分かっていた。悔しそうに闇はある日言った。
『私は、貴女を、あの連中の怨念から隔てる事しか出来ないのです。何でもない身の上では』
そう。その闇はずっと守ってくれた。けれども童話の騎士のように、彼らを斃してくれるわけではなし。月日は流れる。粛々と、怨念の結実たる子供の誕生のために。闇は、それを消してはくれない。それだけの力はそれにはなかった。闇にできるのは、只娘の隣にいて、直視すれば不死の身を恨むほどの現実を見せずにいてくれることだけ。彼女の受けた苦痛は、孤独は、絶望は、闇は何も根本的に解決はしてくれない。
けれども娘には徐々に、それしきがどうだ、と思えた。
この世で大抵幸せと定義されるものを揃え、生まれてから死ぬまでその状態で生き続ける者であろうとも、夏の暑さにはうだり冬の寒さは身にこたえるものだ。その程度ではないのか。生きるのだから苦痛など時にはあって当然ではないのか。自分の身に起こったことなど、ある年の冬が酷く寒かった、その程度と同列の話でいいのではなかろうか。
自分の身が幸か不幸かを定義するにあたり重要なのは、苦痛の季節が巡る年月の中でもこれがあれば幸せなものがある事か否かのはず。何がないかではなく、何があるかでいいはず。
今の自分が果たして、それを持たぬものであろうか。問題は、そこでしかないはず。
……ある日、彼女は結論を出した。
『卑下するでない。お前は、存在してくれた。それがお前の成した事。妾に、生き続けることを苦痛でさせなくした。それは十分な行動であるはずだ』
ある日、彼女は闇にそう言った。
闇は答えた。
『……私に、価値があるのですか』
『ああ。お前は、優しい。お前は、何もないものではない』
なにも、感じない。すべての五感が分からない。自分の腹がどうなっているのかも分からない彼女は、闇に言った。
お前がいるから、自分は不幸ではないと。
そんな彼女に、闇は呻いた。
『……嗚呼。私は、何かでありたい。何かになれれば、貴女をきっと真にお守りできる。何か……私は、私が何であるのか、わからないのです。私は自分が何であるから、貴女をお守りしたいのでしょう。独りぼっちの貴女の御心を。踏み躙られた貴女の御身を』
静かな闇は、そう嘆いていた。その無念はまた、彼女に生きる心を灯した。全てを失ったと思った生に、その闇のことを考える意義が産まれたからだ。この者は、何であるか。なんでもない者がなぜ、自分の心を救ったか。なぜ、自分のもとに現れたのか。ただの無価値が、そんなことをするものだろうか。
それのみと共に居ることで満たされ、彼女はやがて、誰から言われたわけでもなく思った。
『そうだ、わかった。お前の正体が』
孤独と、絶望の極致の故産まれた闇の魔物を、彼女はある日定義した。
『お前はきっと、孤独と絶望の化身だ。孤独と絶望、そのものだ』
孤独と絶望の体現。それがきっとお前の正体であると、彼女は自分からすべてを奪った世界からひたすら自分を庇う闇にそう告げた。
『だって、お前はこんなにも慈悲深いもの』
孤独と絶望の化身。……裏を返せば、それは。
『お前は「孤独と絶望のうちにある者の隣に、それでも絶対に居続ける者」なのだ』
彼女は、深い闇をそう言った。
お前は、この世で一番、孤独と絶望に苦しむものに寄り添える存在。孤独と絶望のうちにある者であっても、いや、そんな者なればこそ絶対的にそれと無縁にはならないのは、そんな存在の傍らに最後に残るのは、孤独と絶望と言う概念そのもの。
この世全てから誹られた者を最後に一人にしない、最後の命綱。真っ暗な闇の慈悲の魔物。孤独と絶望の化身。
『それが、お前だ』
彼女は、深い闇をそう定義した。
『……そう、ですか』
それが正解であったか? 不正解であったか? そんなことは誰にもわからない。何の意味もないからだ。
だが、それは見出した。勝手に見出した。そう。それで十分、全て勝手で十分だった。
『わかりました。きっと、私はそうであるのです。私は、貴女に寄り添う、孤独と絶望の化身。私を呼び寄せた貴女がそう思うのだから、そうでしょう。そうで在ります』
その瞬間。
『貴女と共に在ります。私はもう、何でもできる』
闇は、何でもない存在でなくなった。それは初めて、彼女でない者に語りかけた。それだけの力を得たのだ。
『この方を蝕む穢れの嬰児(みどりご)、我が受肉の贄となれ』
初めに娘の身に戻ったのは、触覚……いや、自分の身体の感覚だった。
不思議に、腹がへこんでいた。その中にあった何かが消えてしまったように。
次に戻ったのは嗅覚。何か、不思議に生臭い……空気全体が生臭く染まってしまったのが舌からすら感じられるよう。
次に、耳が聞こえるようになった。だが彼女がそうなった頃にはその場に響いていた音は……悲鳴は、敵意は、命乞いは、最早耐える寸前であり。
そして最後に、目が開けた。
闇が、肉の身体を持ってそこに居た。
血まみれの世界。全て死した獣人達。中でも最後に恨み骨髄に念入りに殺されたように見える青い体毛をした犬の獣人。それと酷似した顔をした、肝を食いちぎられた早産児の死体のようなもの。
その中に。
獣の顔をしていれど、その身に纏う力から、明らかにそれはビーストフォークではないと……獣人の身体を仮に借り物質世界に顕現しただけの身と物語る「何者か」が立っていた。
娘は、その彼をじっと見つめた。初めて見るその姿は、どう見ても、見覚えのあるものであった。
その視線を感じ取ったか。……すべてが息絶えた空間で、獣頭の悪魔はちゃぷ、ちゃぷと血の海を歩んで彼女のもとに歩み寄り、跪いた。
要求されたわけでもなかったが。
流れるように、彼女は手を差し伸べた。彼は、その手を静かに取った。
「……名を」
話す様までも、獣の顔でありながら、それは明らかに獣ではない生命体のようだった。
「貴女の名をお聞かせ下さいませぬでしょうか。この口で、貴女の名を呼ぶことを認めては下さいませぬでしょうか」
……暗闇の世でただ二人なら、呼び合う名などいらなかった。片や世界に生まれ、片や世界に戻り、名を必要とした彼はそう問うた。
「《邪姫グレゴリア》と申す。……お前に、名はあるか」
「ありませぬ」
「そうか。然らば妾が与えて進ぜよう。《バロム》……そう、お前は、バロム」
「身に余る光栄を賜り、恐悦至極に存じます。……グレゴリア様。わが麗しの女主人(ミストレス)」
そう言って、悪魔は娘の手に一つ、キスを堕とした。血みどろの産屋で、悪魔と娘はたった二人きり、見つめ合って微笑み合った。
それこそが闇の世界に名を轟かせる最強の悪魔、バロムがこの世に生まれ出でた瞬間であった。
ちゃぷり、と、産屋の床を響かせ、よろけるようにグレゴリアはそれでも起き上がり、産屋の外へ出んとした。
「……行くぞ、バロム。黒き森へ……覇王ブラックモナーク様の元へ」
「はい、グレゴリア様」
子を宿さぬ女になぜ産屋が要るものか。バロムに支えられ外へ出たグレゴリアを、外界は拒みはしなかった。瘴気の混ざった風が、彼女の美しい銀髪を揺らした。
※お詫び
前数話のあとがきにも書きしつこいようですが、当小説はバロムの章の設定を意図的に無視して書いております。
本来はあの魔誕物語を経てバロムと言う概念が生まれえるようになったのでしょうが、この世界線だと世界単位で初のバロムはこの産まれ方をしたという事にしてください。
バロメアレディを忘れてこういう事をしているという事は本当に一切ない特殊世界線です。
グレゴリアはバロム初出の4弾のロゴマークをつけていて4弾闇の顔役としてバロムとお似合いだと思っていたので、当作品の基礎構想を練った2018年時点ではバロムのヒロインにしたかったのです。せめて自己満足で形にすることはお許しください。