感幸して、こころを結ぶ──3/4オンスのフィルムメモリ── 作:弦巻こころ被り辛すぎ丸
例えば、駅前ビルの隙間から望む山峰の色相を描けたとして。
例えば、コンクリの亀裂から覗く雑草の葉脈を辿れたとして。
例えば、広場中央の彫刻から噴く飛沫の輪郭を捉えたとして。
眼前の景色にフィルムが反応しなければ、そこに像が結ばれることはない。
その程度のことを理解する頃には、二ヶ月という月日が過ぎ去っていた。
世間よりも敏い二つの目は、世界のあらゆる事象を余すところなく網膜に写し、タイムレスに脳へと伝達してくるが、それはどこまで行ってもただの視覚情報でしかなかった。
駅前を行き交う人の移り変わる表情を逃さず、周期的に切り替わるデジタルサイネージの内容を覚え、大通りを駆け抜ける車のナンバーを全部足し算する余裕だってあった。
だけど、それも結局は情報として認識ができるだけで、そこに何かしらの感情が湧き上がることはない。二つのレンズはあらゆるものを捉えていながら、胸の奥のフィルムは光を焼き付ける様子がなかった。
カメラを持ち上げる素振りもないまま、かれこれ一時間以上駅前のベンチに座り込んでいる。
電源すら入れてないのだから、仮に何かを見つけても撮りようがなかったが、それでも入れようという気がしなかった。
──被写体が見つからねぇ……。
人間の感受性とは、つまりカメラにおけるISO感度だ。
感度の低い人間は何を視界に写したところで、目の前の景色に反応することはない。フィルムは真っ暗なままで、素子は黒以外を認識しない。
過ぎゆく時間の中で、感情の揺れ動く瞬間を捕まえることができない。全ては走り去る姿の痕跡だけで、その輪郭をなぞることすらできやしない。
写真とは、光との反応によって生まれた色模様に過ぎないが、それがどのような模様を描くかは撮影者の技術と判断に委ねられる。取るべき瞬間を見つけることができない人間には、シャッターを切ることはできない。撮りたいものがあるから人はカメラを構えるし、なければ何も残そうとはしない。
カメラを手に取って約二ヶ月。週末になる度に外出しては、日がな一日ベンチに座り込んでぼんやりとしている。
「はぁ、見つかんねぇ……」
電源の落ちたデジタル一眼レフを持ったまま、恋焦がれた少女みたいに待ち続けている。
ただひたすらに、自分が欲して止まなくなるような、そんな運命を。
──何を探しているの?
するりと思考に入り込んできた言葉に、改めて考え込む。
何を探しているのだろう。それは、当然このレンズで見つめたいと思えるものだ。
何を待っているのだろう。それは、当然このフィルムに焼き付けたいと思えるものだ。
何を望んでいるのだろう。それは、当然この自分自身を──
「──笑顔にしてくれるもの、とか?」
二ヶ月前、高校の図書室でとある写真集を見つけた。世界中を旅しながら、人や景色の写真を撮り続けたという内容で、時折写真家本人のコメントが載った作品だった。
地域や時期だけで分けられた無秩序な写真集の巻頭には、こんな一言が書かれていた。
僕は、時のあわいに消えるはずの幸せを手に入れた。
日常には、いろんなことがあふれている。だけど、そのすべてが、どこか物足りなかった。
楽しいも、嬉しいも、幸せも知っているはずなのに、周囲とはどこか違うようだった。その感情が表に発露するほどの熱量がなかった。理解はできるが、どこか色褪せているような気持だった。
「俺の楽しいと、みんなの楽しいって、何が違うんだろうな」
それが知りたくてカメラを手に取った。幸せを手に入れたという言葉に縋った。ファインダーを覗いてみれば、この目では見えなかった何かが手に入るかもしれないから。
だけど蓋を開いてみれば、二ヶ月が経ったところで一枚も撮ることはできない、シャッターの閉じ切った自分がいるだけだった。
「そりゃ、気に入らなかったら消せばいいだけ、ってのは分かってるんだけどな」
だが、どうでもいいものを撮ろうとは思えない。指が錆びついているように固まって、目の前のそれを理由もなく撮ることを拒む。
乱雑に撮ってしまえば、それはただ闇雲に指を動かすだけの作業になって、望んだ幸福を捕まえられなくなる気がした。
欲しいのは写真でも、その技術でもない。
心揺れて欲しいと願う、一瞬の内に消えてしまうかもしれない、流星のような何かだけだった。
「だから、待ってるんだ。見つかるのを」
じっと座って、寒さに震えて、いつか訪れる春を待つように。
──待ってるの? 探しに行くのはどう?
その言葉に少し考えて、無理だろうと首を振る。
確かにそうしようと思って外に出たけど、結局今の今まで何一つ見つからなかった。
そもそも、探そうにも姿が分からない。
それがどのような形をとっているのか、何一つ知らなかったし、手がかりだってなかった。ただ暗闇をさ迷うように這いつくばって手を伸ばすしかないが、それで見つかるとも思えなかった。
「──大丈夫よ!」
だが、脳裏に浮かぶ声は、不安な感情を吹き飛ばすように力強くそういった。
「一人じゃ見つからないかもしれないけど、私が一緒に探すもの! きっと見つかるわ」
「……ん? 私?」
猫背気味だった体が跳ね上がる。
そこで、ようやく先ほどまでの声が、意識の外からやって来た誰かによるものだと気が付いた。
我に返って勢いよく振り返ると、人の姿が目に入る。
「はじめまして!」
視界に映るのは、冬の冷たい光を照らす明るいレモン色の髪と瞳。
そして、フィルム全てを白く塗りつぶさんとばかりに輝く表情。暖かそうな赤いセーターに、ニット生地の帽子を被っている。
初めて出会った少女は、素早く正面に回り込むと、左腕をつかんで手を引いてくる。首からストラップを下げているカメラが宙で跳ねて、空いてる右手で勢いよくキャッチする。
目の前の少女が誰で、何が起きているのかが全然分からない。ようやく何かに出会えたのだという、運命的な考えすらも浮かんでこなかった。
「笑顔を探しているんでしょう? 私が一緒に探すわ!」
「ちょ、ちょっと!?」
「大丈夫よ。一人じゃ見つからなくても、二人ならきっと見つかるわ!」
「いや、そうじゃなくて……!」
右手でカメラを抑えながら、左手を引かれたまま走り出す。
前のめりに飛び出した勢いで電源ボタンに指が当たる。
パイロットランプが静かに光り、カメラが短い電子音を鳴らした。
4話くらい想定です。