幸運だった、という他ない。
アックアによって長距離弾道に打ち上げられたコーネリアは幸運にもビルの屋上に落下していた。これが地面だったら確実に死んでいただろう。見るも無残な肉塊へと変貌し、彼の物語はここで終わっていたかもしれない。
しかし、彼は生きていた。
だが、彼は酷く虫の息だった。
生きているのが不思議なくらいで、医者が見たら即入院を言い渡す程に彼は傷ついていた。骨は何本も折れていて、それは心も同様だった。
彼の心は、完全に折れていた。
彼の戦意は、完全に削ぎ落とされていた。
精一杯の反撃と渾身の復活。
その二つを軽くあしらわれ、在ろうことか無に帰されてしまった。この傷では戦う事はおろか動く事すらできないし、そもそも殺されるしか道が無い。今のコーネリアはまさに生きる屍なのだ。
折れた肋骨が肺に刺さっているのか、妙に呼吸がしにくくて仕方がない。口の中は血の味で満たされているし、もう生きている気がしない。実は死んでいますとか言われても普通に信じられるぐらいにはコーネリアは疲弊していた。
今、彼が動かせるのは目と口ぐらいだ。一応、必要最低限の内臓は未だに活動を続けているが、だからといってそれがいつまで保つかは分からない。あと数秒後には心臓が止まってしまうかもしれない。――それが、どうしようもなく怖ろしい。
(……死にたくねえなぁ)
他人事のように、コーネリアはぼんやりと思う。
生まれた時から不幸の連続だったが、それなりに楽しい人生だった。可愛い妹がいて、面白い友人がいて、頼りになる後輩がいて――そして、心から愛した少女がいて。
辛さがほとんどだったが、やはり楽しさも十分に存在した。
だからこそ、こんな所で人生を終わらせる事が、どうしようもなく悲しかった。
(死んだらどうなんのかな。また今回みてえに記憶を引き継ぐとか、そんな奇跡はねえだろうなぁ)
記憶の引継ぎがそう何度も起きる訳がないのは明白だ。誰の仕業かは知らないが、そこまでこの世界が甘くないし優しくない事ぐらいは重々把握している。死んだら次はないのだ。死んだが最後、彼の人生は終わってしまうのだ。
不思議と、涙は零れてこなかった。
その代わり、大量の雨がコーネリアの顔を濡らしていた。
(ごめんな、神裂。お前に頼る事はなかったみてえだ)
愛する少女の顔を、思い出す。
自分のことを何よりも考えてくれていた聖人の少女の事を、思い出す。
もし自分が死んだら、彼女は泣いてくれるだろうか。心の底から悲しんでくれるだろうか。死体を抱いて、遺影に縋って、わんわんと子供のように泣きじゃくってくれるだろうか。
少しだけ、そんな彼女を想像してみる。
数秒で、コーネリアは想像を中止した。
(アイツが泣いてる姿はもう見たくねえなぁ。アイツにだけは、ずっと笑っててほしいなぁ)
それが、彼の唯一の願いだった。
別に、このまま不幸で不遇な人生が続いてもいい。腕を切り落とす事になってもいい。思考能力を奪われてもいい。
ただ、神裂には、ずっと笑っていてもらいたい。
それが叶うのならば、どんな事だってやってやる。
(……そう、だ)
勝てる勝てない、なんて曖昧な事を考えているから駄目なのだ。自分の心が揺らいでいるから、はっきりとした戦いが出来ないのだ。
勝てるではなく、勝つんだ。
勝てないではなく、負けないんだ。
あの少女を、神裂火織を悲しませないために、俺はアックアに勝たなくてはならないんだ。
(……動けなくなったっていい)
既に瀕死を超えている身体に力を込める。
(……考えられなくなったっていい)
がくがくと震える四肢に喝を入れる。
(……みっともなくたっていい)
口に充満していた血を吐き捨て、獣のように四つん這いになりながら、コーネリアは立とうとする。ビルの屋上に足を踏ん張り、最後の力を振り絞って少年は立ち上がろうとする。
骨が、悲鳴を上げていた――しかし、彼は無視した。
身体が、限界に達していた――しかし、彼は無視した。
脳が、警報を鳴らしていた――しかし、彼は無視した。
そして。
そして、そして、そして。
そしてそしてそしてそしてそして。
(今だけは、アックアに勝つ為の力を俺に寄越しやがれ――神様!)
コーネリア=バードウェイは、確かに立ち上がっていた。その二本の脚で、彼はしっかりと立っていた。
誰が何と言おうと、これが最後の反撃だ。これ以上は、彼の身体は動かない。
能力が発動するのか聖人の力が発動するのか。その二つの選択は彼にはできない――いや、選択なんてする必要が無い。
どっちも使う、使ってみせる。
聖人を抑え込む力? そんなものは根性で制御してやる。
抑え込まれた聖人の力? そんなものは意地で解放してやる。
そして、最後の反撃は始まる。
コーネリア=バードウェイはビルの屋上から地面まで荊を伸ばし、それを命綱の代わりにして地面に降り立ち、血塗れの状態でこう咆哮した。
「決着着けてやんよ、後方のアックアぁあああああああああああああっ!!!!!」
☆☆☆
アックアは純粋に驚いていた。
自分の名前が聞こえてきた方に急ぎで駆け付けた彼は血塗れで瀕死だというのに反撃の意志を失っていないコーネリアに、純粋に驚いていた。
驚くと同時に、感心していた。称えていた。讃えていた。
ここまで諦めずに自分に向かってくる存在は、生まれて初めてだったからだ。かつての戦友・騎士団長も、流石にここまでとはいかなかった。――だからこそ、アックアでありウィリアム=オルウェルでもある彼は純粋にコーネリアの事を称賛していた。
金属棍棒を影の中に仕舞い込み、アックアは言う。
「……勝つ算段は固まったのであるか?」
「うだうだ考えるのはもうやめたんだ。死なない覚悟でお前をぶっ飛ばす」
「死ぬ覚悟はない、と?」
「俺が死んだら悲しむ奴がいる。そいつらを泣かせたくねえから、俺はお前と戦うんだ」
「やはり貴様は面白いな、コーネリア=バードウェイ」
だからこそ、私の標的と成り得るのかもしれない。
「覚悟は良いか? 我が標的」
「お前が来ねえならこっちから攻めるだけだ」
やり取りは、それ以上必要なかった。
近くの水溜りに一滴の雨が降り注ぎ、小さな水音が鳴る。
それを合図として、二人の男の姿が掻き消えた。
聖人の身体能力を駆使しての、高速機動型戦闘。常人が追い付ける世界ではない――そこは、コンマ何秒かの戦場だ。
アックアが砲弾のような拳を放ち、コーネリアは寸での所でそれを回避。返す刀で顎にアッパーカットを決めるが、アックアはそれを真正面から顎で受け止める。流石に重傷なのが災いしたか、コーネリアの一撃がアックアの脳を揺らすまでには至らない。
「ッ」
「ッ」
言葉はない。ただ、短い息遣いだけがそこには在った。
コーネリアの黒い装備にアックアの拳が突き刺さるが、コーネリアはそれを避ける事無く正面で受け、彼の腕をがっしりと両手で拘束した。流石のアックアもこれには驚いたか、行動に一瞬だけ迷いが生じてしまう。
そこを、コーネリアは突いた。
一瞬のチャンス。
そこを見逃すことなく、コーネリアは聖人の力を解除すると同時にアックアの服から荊を生やし、彼の肌に絡ませる。『荊棘領域』によって生やされた荊はアックアの聖人と聖母の力を完全に抑え込み、次の瞬間にはアックアの膝を地面に崩れ落としていた。
アックアの動きが止まったところでコーネリアは荊を更に伸ばし、アックアの全身を完全に拘束する。イエス・キリストが十字架に張り付けられた伝説の様に、アックアはその強固で頑強で屈強な肉体を完全に縛り付けられていた。
予想通り、勝負は、十秒とかからなかった。
しかし、予想に反し、勝負の女神はコーネリアに微笑んでいた。
「……ぎ、ィ……」
敗北を喫したアックアの前で、コーネリアが膝をつく。そして口から大量の血液を吐き出し、苦しそうに顔を歪める――しかし、アックアから目を離す事はしない。
勝負は決した。
コーネリアが最後まで諦めなかったからこそ実現した、まさに奇跡的な逆転勝利だった。
「……まさか、貴様がここまでやるとはな」
苦しそうに顔を歪めながら、アックアは言う。
正直なところ、この勝負はアックアの負けだ。それは認めざるを得ない事実である。――だが、コーネリアが意識を失った瞬間、アックアは元の力を取り戻してしまう。そうなれば、アックアは逆転勝利を実現させることができる。
しかし、コーネリアは既に限界だった。
それは当然の事で、彼は動けているのが不思議なほどの重傷を負っているのだ。いつ意識が飛んでしまってもおかしくない状況で、その証拠に、コーネリアの目の焦点は徐々に合わなくなってきていた。
コーネリアが気絶するまでの、ひと時の勝利。
それはあまりにも脆く、そしてあまりにも短時間だ。せっかく命がけで手に入れた勝利は、今まさに撤回されようとしていた。
――されようとしていた、はずだった。
「今回は、私の負けだ。ここで貴様が倒れたとしても、大人しく引き下がる事にするのである」
「…………」
コーネリアは、答えない。
目を開けているのがやっとだから、彼は答えられない。
「二週間待つ」
アックアは荊に抑えつけられたまま、それでもコーネリアを真っ直ぐ見つめる。
「それまでに、その聖人の力と異能の力を制御し、強くなれ。二週間後、貴様と相対した時――その時は、初めから一切の容赦なく貴様を叩き潰す事にしよう」
「……礼なんて言わねえぞ」
「私としても礼なんて望んではいないのである」
コーネリアとアックアの視線が交錯する。
「良い戦いであった、我が標的。次に戦う時が楽しみである」
「そうかよ。俺ァ二度と戦いたくねえがな」
それが、最後のやり取りだった。
数秒後にはコーネリアの意識は完全に落ちていて、荊から解放されたアックアは同じく学園都市に攻め込んでいる仲間――ヴェントの回収へと向かっていた。
戦いは、終わった。
しかし、この戦いこそが新たな戦いの幕開けであると、コーネリアは沈み行く意識の中で唯一確信していた。
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