闇。
何処までも、闇だった。
暗くて昏くて、それでいて寒さは感じない、漆黒の闇。手元すら見えず、自分が何処にいるのかなんて勿論不明。黒のペンキで塗り潰すよりも混沌とした闇。
完全なる闇だった。
何も無い、何も感じない、何も見えない、何も聞こえない。誰かが光の存在を示唆しなければ極々自然に受け入れてしまいそうな程に完全なる闇。――いや、これはもはや闇というレベルではない。
何処までも続く、凶悪な虚無。
手を伸ばす――本当に手が伸びたかは分からないが、それでも手を伸ばしてみる。当然、何かに触れる感触はない。
何で、自分はこんな所にいるんだろうか。
そんな疑問が逆に浮かばない程、この空間の闇は完全で完璧なものだった。意識だけが取り残されている事が、何よりもの恐怖ではあるのだが。
記憶はある。自分が何者で、意識が途切れるまで何をしていたか――それについての記憶はある。惚れた女の為に強くなると誓った癖に、よくもまぁこんなに簡単にダウンしたものだと肩を竦めたくなる気持ちでいっぱいだ。
……目覚めなければ。
休んでいる暇なんてない。あの怪物が、聖人であると同時に聖母でもあり、更には神の右席という特別に満ちた魔術師が攻めてくる前に、何としてでも聖人の力をコントロールできるようにならなくては。
目を、開く。
感覚だけを頼りに、目を開く。
徐々に光に包まれていき、徐々に光に貪られていく漆黒の闇。
そんな光景を感じながら――そして、その最中に聞こえた言葉を、俺は忘れる事はないだろう。
光が闇を食い潰し、俺を元の世界へと回帰させようと温かく包み込む。
その直後。
闇が消滅する間際、俺は聞いた。
―――俺という『罪』があるかぎり、お前の人生は地獄だよ。
☆☆☆
コーネリア=バードウェイは極限の状態だった。
修行を開始してから約一週間ほどが経過。後方のアックアが学園都市に攻め込むまで、残り三日程というカウントダウン直前の頃。
コーネリアは未だに聖人の力を掌握できていなかった。
「……魔術使用による副作用は当初に比べて小さくなりました。それは能力者であるあなたにとっては快挙です」
豊満な胸の下で腕を組み、褒め言葉を吐く神裂火織。――しかし、その表情は優れない。
それもそのはず。
神裂が好意を抱いているコーネリアは、今にも死んでしまいそうな程に追い込まれているのだから。
全身のありとあらゆるところに包帯が巻かれていて、両の瞳には生気すら感じられない。呼吸もままならないのか喘ぐように何度も咳き込んでいるし、そもそも自分の今の状況が本当に把握できているのかすら怪しい所だ。本当だったら気絶させてでも修行を終わらせるべきなのだろうが、神裂はその選択をできないでいる。
理由は簡単。
惚れた男が死ぬ気で頑張ろうとしているのに、その努力を水の泡にするような行為を行える訳がない――という彼女なりの考えが原因だ。
今にも倒れそうで死にそうで、それでいて消滅しそうなコーネリアに肩を貸す事すらせず、神裂は言う。
「あなたが指定した期限まであまり時間は残されていません。予定通りにあなたが聖人の力を制御できるようになったとしても、後方のアックアとの戦闘に勝利できる可能性は極めて低いでしょう」
コーネリアは喋らない。
喋りたくても、喋れない。
「私個人としてはあなたに無理をして欲しくない。後方のアックアと戦う? バカな話も大概にしろ、とあなたの顔面をぶん殴ってやりたい気持ちで夜も眠れません」
ギチ、という音が鳴った。
それが自分の拳が鳴らした音だという事に、神裂は気づかない。
「予定通りに修業を終えても、かなりの高確率で死ぬかもしれない。―――それでも、あなたは強くなることを望むのですか?」
禁忌だとは分かっている。
強くなることを望む存在に対してそんな事を聞くのは禁忌だと、重々に承知している。救われぬ者に救いの手を、などという大層な魔法名を持つ者としては絶対にやってはならない行いだと、心の底から理解している。
しかし、だからこそ、神裂は聞いたのだ。
死んでほしくないから、好きだから、これ以上傷ついて欲しくないから。
自分勝手だと笑われても構わない。我が儘だと軽蔑されたって怒りはしない。――だって、まさにその通りなのだから。図星も図星なのだから、何も言い返せないし言い返す気もない。
ただ、コーネリアが好きだから。
好きな男に死んでほしくない思っているだけだからこそ、神裂はあえて自ら禁忌を犯すのだ。
「…………」
虚ろだったコーネリアの瞳がグルリと動き、神裂に向く。
ボロボロな、それでいて傷だらけな顔をくしゃりと歪め―――可能な限りの笑顔を浮かべながら、コーネリア=バードウェイは言った。
嬉しそうに、言いやがった。
「望むよ。俺はもっと強くなりたい。アックアに勝つ為なのは当然だけど、俺は、手に届く範囲だけでいいから、自分が手に入れた幸せを護り抜く為に強くなりたい。レイヴィニアを護りたい、パトリシアを護りたい、上条を護りたい、友達を護りたい――そして何より、お前を護れるようになりたいんだ」
意識は半分ほどしかないのだろう。素直じゃない彼の口から、本心と思われる言葉がつらつらと並べられる。もし完全に意識が戻っていたとしたら、ここまで素直に自分の本意を話す事はしないはずだ。
つまり、これがコーネリアの本気。
彼が強くなることを諦めない、本当の理由。
それは奇しくも、異能を打ち消す右手を持つとある少年の信念と酷く似てしまっていた。
「……………………………………分かり、ました」
重い沈黙、昏い静寂。
自分の心の中で葛藤し、討論し、決着し。
泣きそうになりながら、実際に目尻に涙を浮かべながら、神裂火織は儚げな笑顔を浮かべ――
「こうなったら死ぬまで付き合ってあげますよ、クソ野郎」
――バカな少年を抱き締めながら、そう言った。
☆☆☆
聖人としての力がある事は知っていたさ。
知っていたけど、俺にはどうする事も出来なかったんだ。だって俺に干渉する力はない。そもそもの話、俺という『罪』が『コイツ』本来の力を抑え込んじまっていたんだから、どうする事も出来ねえのは当然だ。俺に干渉する術はない。俺が出来るのはあくまでも二つの行為だけ。
『コイツ』に最悪な力を与え、
『コイツ』に最良な知識を齎す。
俺が出来る事なんてそれぐらいがせいぜいだ。どうすれば『コイツ』が強くなれるのか、その答えを知ってはいるけど、その答えを『コイツ』に伝える事は不可能だ。
世知辛いよな、こういうのって。
でも、よく考えるまでも無く、死者が生者に干渉するなんて重罪も重罪、絶対に有り得ちゃダメな事なんだ。
……そろそろ、潮時だと思う。
楽しくもクソも無かった人生の次に、楽しすぎて毎日が面白すぎる人生を経験する事が出来た。
俺の意識じゃないけれど、あくまでも『コイツ』の意識下における人生ではあったけれど、漫画や小説を読んで得る事が出来る感傷と似たものがあるけれど、
最高に楽しかったとは思う。
だから、そろそろ、俺の時間は終わりにしなければならない。
云わば、ここは死と生の狭間―――魔神オティヌスが上条当麻に突き付けていた幾千億の位相と同じ種類の空間だ。俺に彼女の様な力はないけれど、一人だけ―――『コイツ』だけを俺が干渉できる空間に引っ張り出す事ぐらいは出来るはずだ。
その為に必要な段階は、あと一つだけ。
『コイツ』が聖人としての力を制御できる事は大前提。俺という存在が齎した最悪で最低で最弱な力を完全に制御する事も当然大前提。
その全てを行え。
その全てを達成した先の、大きな試練。
後方のアックアとの戦いの中―――もしそこで本当の本当に死にそうになって、意識が途切れてしまった、その瞬間。
そのたった一度の瞬間こそが、俺の最後のチャンスだ。
謝罪はする、お礼も言う、一発殴られる覚悟もできている。
最良の知識と最悪な力を失う事にはなるけれど、それでもこれが最善の選択だから、何をされても俺の意志が揺らぐことはない。……まぁ、揺らぐも何も、俺自体が意志みたいなもんだしな。
だから、コーネリア。
コーネリア=バードウェイ。
俺という『罪』を知らない内に背負わされていたお前に贈る、俺からの最後のプレゼント。
お前に枷として絡みついている二つの荊をお前から奪っちまう事にはなるけれど、その時――俺とお前が面を合わせて話せるたった一度の機会が来た時、どうかそのプレゼントを受け取って欲しい。
お前から枷を奪うという、矛盾したプレゼントを――――。
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次回もお楽しみに!