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ネールは、食堂でそわそわしていた。
イサクが今回の報告をしていた食卓には、今、4人しかいない。イサクとアンネリエとネールと、領主アルビン。その4人だけだ。
……まず、ランヴァルドはここに来なかった。しょうがないと思う。ランヴァルドは今、ご飯が食べられないのだから。そんなランヴァルドを誘う方がどうかしていると思う。ネールは憤っている。
それから、イサクがランヴァルドとネールのことを褒めてくれていたあたりで、領主夫人が『気分が優れないので』と出ていった。……ネールはこの人がちょっと嫌いなので、別にご飯を食べなくてもいいよ、と思う。
それで……その後は、ネールには難しい話が続いていた。
イサクは、今のファルクエーク領の状況を心配していたみたいだった。詳しいことはよく分からないけれど……領主アルビンが、ちょっと気まずそうにしていたのは、分かった。
それから、オルヴァーも。
……オルヴァーは結局、『母上の様子を見てきます』と、退席した。そうしてこの食卓には、4人だけになってしまったのである!
食卓には食後の甘味が出されていた。さくさくのパイの間に煮たベリーと滑らかなバターのクリームが挟まっていて、とても美味しい。美味しいのだけれど……これをランヴァルドと一緒に食べたかったな、とネールは思う。
……そう思い始めたら、ネールはなんだか、ランヴァルドに会いに行きたくなってしまった。
今、ランヴァルドはどうしているだろう。お部屋に居るのだとは思うけれど……ご飯も碌に食べずに、昼間だってずっと具合が悪そうにしていたのに、今、ランヴァルドはどうしているだろうか。
「おや、ネールさん。もしや、マグナス殿のことが気になりますかな?」
そうしていたら、イサクがそう、声をかけてくれた。なのでネールは、こくこくこく、と頷く。その通り!ネールはランヴァルドのことが気になる!
「そういうことでしたら……失礼、領主アルビン殿。こちら、英雄ネレイアはランヴァルド殿のことが気になるようで……退席させていただきますが、よろしいですかな?」
「え、ええ……こちらこそ、妻と息子が、申し訳ない」
「いえいえ。お気になさらず。そこはお互い様、ということで……ささ、ネールさん。どうぞ行ってきてください」
イサクとアンネリエがにっこり笑いかけてくれるので、ネールは笑って椅子から降りて、ぺこん、とちゃんとお辞儀をしてから退室する。ステンティールで教えてもらったことを、ネールはちゃんと覚えているのだ!
ネールがてくてくと長い廊下を歩いていると、ふと、向こうの方から話し声が聞こえてくる。
……なんだか、喧嘩しているような声だ。ネールは『どうしよう』と少し悩んでから……ちょっと脇道に逸れて、気配を殺して、大きな鉢植えの影に隠れていることにした。体が小さなネールは、すっぽりと物陰に隠れてしまえるのだ。
そうして隠れていると、話し声がはっきりと聞こえるようになってくる。
「母上もそのようにお思いなのですか!?俺は領主に相応しくないと!?」
「いいえ。口さがない者達が何を言っていたとしても、次期領主はあなたよ」
「では何故、兄上にその話をなさっていたのです!?兵士達の嘆願でもあったのでは!?」
「そんなことは無いわ。兵こそあなたの味方でしょう」
……話している声には、聞き覚えがある。オルヴァーと、領主夫人だ。
けれど、2人とも声に落ち着きが無い。努めて声を潜めてはいるのだろうけれど、それでも、鋭い囁き声はネールの耳までよく届く。
……そして。
「……何をしに、あの人は戻って来たのですか」
オルヴァーの、低い呟き声が廊下に落ちた。
「ファルクエークが一番大変な時に突然逃げ出しておいて、今更、何を……」
暫く、どちらも何も言わない。足音も止まる。ネールはドキドキしながら、ただ、微かな呼吸の音を聞いていた。
「……あの頃はあなたにも本当に苦労を掛けたけれど、もうあの人には関係の無いことよ。もう二度と、ここへは戻らないと約束させたから」
それから静かに発された領主夫人の声を聞いて、ネールは、ひゅ、と息を吸い込む。
……ランヴァルドは、二度とここへ戻らない?
ここが、ランヴァルドのお家なのに?
そう、約束させた?……ランヴァルドの、お母さんが?
「……あの人は、戻ってくる気があったのですか?」
「さあ……分からないわ。けれど、戻ってこない理由はあるようだったから……」
また、2人は歩き出す。ネールが居るところを通り過ぎて、食堂の方へ戻っていく様子だった。
……ネールはただ、縮こまっていた。2人の足音が廊下の曲がり角の向こうまで行ってしまっても、まだ、縮こまっていた。
ネールは、自分のお父さんとお母さんのことを思い出していた。
「ネール、お前……そんなところで何してるんだ」
そうしていると、ふと、大好きな声が降ってくる。ネールがはっとして顔を上げると、そこには大好きな藍色の目があった。
……けれど、ネールの喜びはしぼんでしまう。だって……ランヴァルドの顔は疲れ切って見えて、どうにも、見ていて辛いほどだったから。
「もうじき春だとはいえ、まだまだ雪が降ってるんだぞ。こんなところに居たら風邪ひくだろ」
ランヴァルドはそう言って、ネールをそっと引っ張り上げる。ネールの心配より、自分の心配をした方がいいような人が、そんなことを言うものだから……ネールはどうしていいのか分からない。
「あー……俺は水を飲みに行くところだったんだが。一緒に来るか?」
だが、ランヴァルドにはやることがあるのだ。ならばネールはそれに従うのみである。ネールはこくこくこくこく、と頷いて、ランヴァルドの冷えた手を握り、早速、歩き出す。……が、水飲み場がどこかは分からないので、結局、苦笑するランヴァルドに手を引かれて歩くことになってしまった。
……それから、ランヴァルドは厨房へ行って、そこで水がたっぷり入った水差しとグラスのお盆を貰っていた。厨房の人は、『お部屋までお持ちしますよ。ついでに軽食はいかがですか?』と言ってくれたのだけれど、ランヴァルドはやんわりとそれを断っていた。
だが結局、厨房の人は『でしたら林檎だけでも』と、林檎が入った籠を一緒に持たせてくれた。ランヴァルドは受け取ろうかどうしようか、迷っていた様子だったので、それはネールが受け取った。
……そしてネールは、決意したのである。
「……ネール。お前がやりたいことは、よーく分かった。うん。分かったから……あの、気持ちは嬉しいんだが、そうぐいぐいやられると、食うものも食えないんだぞ」
ということで、ネールはランヴァルドの口に、切り分けた林檎をぐいぐいやっている!
これがネールの使命なのだ。ヘルガにお願いされた以上、ネールはランヴァルドに何か、食べさせなければならないのである!
林檎の庭でヘルガに教えてもらったように皮を剥いて櫛切りにした林檎を、ぐいぐいぐい、とやれば、ランヴァルドは観念して、いくらか食べてくれた。だが、それ以上を食べようとはしてくれない。
「あー……ありがとうな、ネール。うん……」
……もっと、食べてほしいのに。ネールが代わりに食べて、それがランヴァルドのお腹に入るのなら、いくらでもネールが食べるのに。
ランヴァルドは青ざめた顔で、無理をして笑顔を作っている。
ああ、ネールは、こんな風に無理をしてほしいわけじゃないのに。ただ、ランヴァルドが健康で、幸せでいてくれたら、と思うのに……。
ネールは無力である。どうしてこんなにも、ネールは無力なのだろう。
「そろそろ部屋に戻った方がいいぞ。アンネリエさん達も心配するだろ」
ランヴァルドはそっとネールを帰そうとしてくるが、ネールは首を横に振る。ネールは何かしたいのだ。ランヴァルドのためにできることは、何だってしたいのだ。なのに……。
「……すまない。少し、一人になりたいんだ」
……ランヴァルドにそう言われてしまったら、もう、ネールはここには居られない。
ネールがランヴァルドにしてあげられることは、何も無いのだ。
とぼとぼ、とネールは部屋を出る。ランヴァルドのお部屋を出て……ぽたぽたと涙を廊下に零しながら、自分のお部屋へと歩いていくのだった。
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神は居ない。ランヴァルドの望みは叶わず、すぐに朝が来るでもなく、目が覚めずにいられるでもなく、ただ眠れないままゆっくりと朝を迎える羽目になった。
一晩で大分憔悴したが、まあ、それも今日までのことと思えば、思い出したくない諸々をなんとか意識の外に押し出せる。
……後は、ファルクエークを出て、王都かどこかで自棄酒でもするか、とランヴァルドは心に決めた。強い酒を浴びる程飲んでしまえば、眠ろうとせずとも意識を失うことができる。……いつぞやのように、当面はそんな具合になるかもしれない。
まあ、自棄酒は今晩以降の楽しみにとっておくしかあるまい。今はただ、ファルクエークを辞すことだけを考えるべきである。
「此度は助力に感謝いたします。おかげで我らがファルクエークは生き永らえました」
「いえ、いえ。こちらこそ、貴殿らを助けることができてよかった」
領主アルビンとイサクが話すのを横目に、ランヴァルドはふと、ネールの様子を見る。
……今回、獅子奮迅の活躍を見せてくれたネールだが、そのネールの表情が、浮かない。
流石にこれは自分のせいだな、とランヴァルドは反省する。……昨夜は、ランヴァルドにも余裕が無かった。その分、王都までの道中はネールを構ってやるべきだな、と思う。
なら今からやっておくか、と、ランヴァルドはネールの頭をもそもそ撫でる。すると、ネールは、『ぴゃっ』と音がしそうなほどの勢いで顔を上げ、そして、まじまじとランヴァルドの顔を見つめ……ふや、と笑った。
可愛い奴め、と思いつつもそもそ頭を撫でてやると、ネールはなんとも嬉しそうにランヴァルドの脚にきゅうきゅうくっついてくる。撫でてやっただけでこれなのだから、昨夜、もう少しなんとかしてやれればよかったのだが。
そうして、イサクと領主アルビンの話も終わり、さて、馬車へ乗り込むか、というところ。
「兄上」
意を決したような表情で、進み出てくる者がある。オルヴァーだ。
なんとなく、何を言われるか想像がつくような、つかないような、そんな気分でランヴァルドはオルヴァーを待ち受け……。
「……剣を」
差し出された手を見て、『ああ、やっぱりな』という気分になる。
「それは、ファルクエークのものです」
一瞬、ランヴァルドの内側で強く感情が渦巻いた。それの正体が何かもよく分からなくなるほどに強く、強く。
……憎悪、であるはずだ。『恥知らずめ』と罵ってやりたいような、『この剣一本あったところで、ファルクエークの治世が良くなるわけでもあるまいに』と嘲笑ってやりたいような、そんな気持ちだ。
だが、本当に?
今、それら憎悪に塗れた悪態の1つも吐けないのは、何故だ?
……ランヴァルドは、何か口を開こうと思った。或いは、剣を放ってやってもいいはずである。何か動け、と思うのだが、どうしていいものやら、自分でもよく分からない。
だが。
……きゅう、と。
ネールが、ランヴァルドの腰に……否、剣に、抱き着いていた。きゅう、きゅう、とくっついて、剣をオルヴァーの目から隠すかのようにしてしまう。
更に、ネールはその大きな海色の瞳で一生懸命、オルヴァーを睨んでいるのである!
オルヴァーは、唖然としていた。ランヴァルドも、ぽかん、としていた。だが、ネールは一生懸命、全身を使って主張しているのだ。『あげない!』と。
……そんなネールを見て、ランヴァルドは唐突に理解する。
『俺はこれを渡したくなかったんだな』と。
……ネールは尚もきゅうきゅうとランヴァルドにくっついている。そんなネールを見ていたら、ランヴァルドは何やら、ようやく体が動くようになってくる。
「……オルヴァー」
ランヴァルドは、弟の目を見た。母譲りの、濃いグレーの瞳だ。やはり、よく似ている。
「俺は」
だが。
ランヴァルドが言葉を発するより先に、けたたましく蹄の音が聞こえる。
「領主様!領主様!ご報告が!」
……その場にいる全員が厭な予感を覚えながら、近づいてくる蹄の音と、その早馬に乗った兵士の言葉とを聞いていた。
「北より、魔物の軍勢が押し寄せております!」
無言で、ランヴァルドは駆けた。イサクの護衛の兵士が使うはずだった馬に飛び乗ると……叫ぶ。
「ネール!来い!」