市庁舎の1階部分の床には一部浸水があったようだ。
木材は半ば腐ってめくり返っており、ただ歩くだけでもぶよぶよしていて気持ち悪い。
俺は湿気を吸ってしわくちゃになった張り紙の一枚を剥がして手で伸ばしてみた。
そして、そこに書かれていた英語の文章を読んで眉をひそめた。
「我が神を讃えよ」「終末は近い」
以前にネバダの砂漠で見た文言とほぼ同じだ。
発電所にこんな怪しい張り紙があるのもたいがい酷いと感じたが、今度は市庁舎だ。なお酷い。
「ここって市庁舎だろ。そこに所属している連中が堂々と得体の知れない神を讃えるってどういう状況なんだ」
「それだけ内部に何者かが入り込んでいたということだろう。明らかにこのフィラデルフィアでも何かが行われてたんだろう」
建物に入った直後だというのにもうろくな予感がしない。
ただ、ここまで真っ黒だと途中で帰るわけにはいかない。
せめて、この町で何が起こったのかくらい確認したい。
1階事務所はさすがに状態が酷すぎたので、上層階に向かうことにした。
目指すは、重要そうな資料が集まっていそうな市長室だ。
階段を上っていく途中、妙なものを見つけた。
絨毯が敷かれた床に付着した泥の跡を見る。
「先客がいたみたいだぞ。靴の跡が残っている」
「靴跡があるということは最近の話か?」
「最近だろうな。ここに付いてる砂粒は、水没した1階のあちこちにあった泥と同じだ」
「水没後に誰か来たのか。だとすると誰が?」
「ニューヨークとフィラデルフィアは比較的距離が近い。多分、ニューヨークの位置にあるセレファイスの住民が偵察に来たんだと思う」
「タイミングはいつ頃だと思う?」
「そんなに時間は経っていない。おそらく運営が撤退しての、この2か月ほどだろう」
乾燥している泥や、絨毯の凹み方からして、そこまで時間は経っていないというのは分かる。
具体的な月日までは分からないが、少なくとも一年は経過していなさそうだ。
足跡は市長室の方に続いていた。
市長室の扉は半開きのままなので、室内に何者かが侵入した可能性は高い。
「中には誰もいない……と思う」
まずはエリちゃんの耳を頼りにする。
誰かが潜んでいれば、その呼吸音すら聞き分けられるくらいだ。
なので、エリちゃんがいないというならば、中には誰もいないのだろう。
「念のために、まず俺が扉を開けます」
「その前に鳥に先行偵察をさせる」
鳥を1羽放ち、室内に侵入させようとする。
だが、扉の前で、何か見えない壁のようなものに阻まれ、鳥は消えてしまった。
もう1羽、別の鳥を向かわせるが、やはり扉の目の前で見えない壁に激突し、一瞬青白い粒子を散らした後に消滅してしまう。
ただ、消滅時に粒子がまき散らされたことで、一つ分かったことがあった。
再度鳥を1羽向かわせる。
ただし、今度は速度を出さない。
飛行はさせず、床をゆっくりと歩かせて移動させる。
すると、扉から50センチほど離れた場所で全く進めなくなった。
鳥は消えずに、ただ進めないだけだ。
「人間の目には見えない壁がある。さっき、鳥が粒子を吹き出して消えたのは、硬い何かに勢いよく当たったせいだ」
改めて使い魔状態に切り替えた鳥の視点で確認すると、扉の前に何やら光のカーテンのようなものが広がっていた。
さらによく見ると、床には光の線のようなものが引かれている。
不可視の壁は、そこから天井に向けて立ち上っているようだった。
「カーター、魔術的な観点からのコメントを頼む。俺たちには見えない壁があるみたいだ」
「何かの防御魔術だな。中に誰かを入れたくないのか、それとも中から何かを出したくないのか」
カーターはそう言うと扉へ近づいていく。
不可視の壁に軽く手を触れるが、パントマイムでもしているかのように、そこから進むことはできないようだ。
体重をかけて身を預け、マイケルジャクソンばりの斜め立ちをしてもビクともしない。
鳥の視点なしで見ると、カーターが高度なバランス運動をしているようにも見える。
「今年の忘年会の余興は決まったな。景品はいただきだぜ」
「冗談はさておき、その壁をどうするべきだと思う? 破るか無視するか」
「そうだな……」
カーターはしゃがみ込み、不可視の壁が出ている床の線に顔を近づけた。
軽く人差し指の先でなぞった後に、メモ帳を取り出して当てるという恒例行事を行う。
「術の発動から2週間ってところか。オレたちがここで何もしなくとも、来月のどこかのタイミングでは消えそうではある」
「そんなことまで分かるのか?」
「無限に続く術なんてないからな。自然エネルギーを利用するのでなきゃ、定期的に術師が掛け直さなくちゃならない」
「あんた、見た目は魔法使いタイプじゃないのに、なんでそんな理論に詳しいんだ?」
アルフが不思議そうにカーターに尋ねた。
「にわかだけど、本職みたいなもんだからな」
「実戦タイプじゃなくて学者タイプってことか」
「その認識で構わない」
埃をはたきながらカーターは立ち上がった。
「何かを封じている場合も、どのみち来月にはエネルギー切れで解放される。一時的に侵入させたくないだけならば、オレたちが立ち去れば術者の目的は果たされる」
「解放しましょう」
モリ君が即断した。
「もし凶悪な敵が封じられているならば、解放されたら迷惑するのは周りの住人です」
「ここから一番近い町はセレファイスだけど」
「どの町もです。俺たちならば十分に戦えるだけの能力はあると思います」
「その場合も、俺が事前に言った条件は覚えてるよな」
「もちろん。スキルでなんとか対処できなければ逃走でしょ。それを踏まえた上です」
モリ君は一度不可視の壁の前に歩み寄り、そして俺たちの方を振り返った。
もし戦闘になった場合どうするのか、参加者を募るつもりだろう。
「不可視の壁を壊すのは俺だ。攻略チームから抜けるわけがない」
「じゃあ直接戦闘するのは私ね」
俺とエリちゃんの2人が真っ先に参加宣言をした。
「冗談じゃない。危険なんて真っ平だ」
「そうよ。余計な戦闘は避けて進むのが賢い生き方ってものよ」
アルフとティナは辞退。
まあ、何が起こるか分からないので当然だ。
「非参加者はワシが守ろう。他には誰が参加する?」
「僕も参加します」
ここでレルム君が参加表明した。
小学生が手を挙げたことで、アルフが気まずそうな顔をしているが、魔法使い系はフィジカルの関係で、咄嗟の場合に対応が遅れる可能性が高い。
避けてもらう方がありがたいといえばありがたい。
「カーターは少し後ろに下がっていろ。レルム君も少し後ろで待機」
「はい、分かりました」
不可視の壁を崩すのは簡単だ。
床に引かれた線が基点となって不可視の壁が発生しているのならば、バルザイの偃月刀で上書きしてやればいい。
この短剣は、魔法陣を上書きするという点では無類の強さを発揮する。
モリ君が槍を構えながら前に出た。
その陰に隠れるようにして、俺はしゃがみ込んで、床に描かれた線を短剣で斜めに切り裂いた。
静電気が弾けるような衝撃と一瞬の放電の後、不可視の壁は消え去った。
「じゃあ扉を開けます。いいですね」
防御スキルを使えるモリ君が扉を開いた。
室内はかなり荒らされていた。
机の上に積まれていただろう書類はひっくり返されて床に散乱している。
キャビネットに収められていたであろうファイル類や書籍も雑に投げ出されている。
誰かが室内で何かをやって、何かを持ち去ったであろうことは一目で分かった。
人はもちろん、何か敵らしい存在はいないようなので、とりあえず安心ではあるが。
「注意しろよ、何か潜んでいるかもしれない」
「分かってます」
カーターが警告したのを受けて、まずはモリ君とエリちゃんの2人が室内に入る。
部屋の中を見回した後にモリ君が手招きをしたので、俺とカーターの順番で入る。
「レルム君は念のため扉の手前で待機」
「僕も入って調べたいんですけど」
「そこまで大きな部屋じゃないから、あまり大人数が入ると前衛が動けなくなるだろ」
諭すとレルム君も分かってくれた。
邪魔者扱いしているわけではなく、レルム君の電撃はある程度離れた場所から放つ方が有利だからだ。
雷と同じ速度で敵に命中するし射程も長い。
相手の動きが少々速かろうが関係なく迎撃できるからだ。
「とりあえず床に落ちた資料を調べてみよう」
「こんな状態で何か残っているとは思えんが」
「それでも、何か残っているかもしれない。1943年10月の日付の書類が残っているか調べてくれ」
ヒントになりそうなのは、マインガルの発電所にあったテスラコイルを使用した装置だ。
あれと同じような実験が、フィラデルフィアで行われたと考えると、似たような記録が残っているかもしれない。
ネバダの砂漠に飛ばされた軍の施設は破損が酷く、旧市庁舎の資料は少なかった。
新市庁舎の方には何か残っているかもしれない。
偉い人からの指令書や実験の数値データ、資金の流れなどは全部飛ばす。
どうせ読んだところで、何も分からない。
だが、不自然なほどに何も見つからない。
1943年9月までの書類はあるのに。10月になってからの書類が全く存在していない。
「もしかして、事故が起こったのは9月の話なんじゃないですか?」
「いや、そこの壁にかかっているカレンダーは11月だろ」
机の近くには壁掛けのカレンダーが11月を示していた。
そこにはいくつか書き込みがある。
部屋の主は、カレンダーにスケジュールを書き込むタイプだったらしい。
なので、何か書き込みがあった10月のカレンダーは、この部屋を荒らした犯人が引っ剥がした。
もしくは、11月が近いので10月のカレンダーを部屋の主が早めに剥がした。
どちらの場合でも、この部屋が放棄されたのは10月末の可能性が高いということだ。
その時、視界の隅で何かの陰が動いた。
不思議な感覚だった。
肉眼では視認できるのに、脳ではそいつの形状が何なのかを全く認識できない。
形は骨格だけの蝙蝠に無数の角張った鉄パイプが生えたような構造をしていた。
生物のようにも機械のようにも見える。
全身のシルエットは直線のみで構成されている異様な風体なのだが、なぜか曲がって見えるというギャップに不快感がある。
1体のはずだが、像がブレて3体にも5体にも見える。
あれを直視してはいけない……。
これは人間には認識できない別次元の存在だ……。
《気付かれる前に逃げて!》
突然に
《あれはティンダロスの猟犬。時空の荒野を最も速く走るもの。あらゆる鋭角から出現できる時空の番犬》
(時空の番犬?)
《危険だから早く!》
もう少し詳しい説明を聞きたいところだが、ラヴィの焦りようからして、よほどのことなのだろう。
カーターが前に話していた、犬のようで犬じゃない強力なモンスターとはこいつのことかと理解できた。
その猟犬が動いた。
咄嗟に反応できたのは俺とモリ君。
そして――
「危ないっ!」
――猟犬の速度に対応して、最初に動けたのはエリちゃんだけだった。
狭い室内にもかかわらず、足を大きく振り回す蹴りを何もない虚空に向けて放った。
蹴りは青白いスキルの残光と共に、恐ろしいほどの速度で飛び掛かってきた猟犬を吹き飛ばした。
壁際に置かれていた棚類が豪快に音を立てて破壊される。
やや遅れて、室内に暴風と爆音が吹き荒れた。
「全員、この部屋から出て! みんながいるとまともに戦えない!」
残念ながらエリちゃんの言うとおりだ。
俺の目には何かが急に襲ってきたことしか認識できていない。
カーターに至っては、状況を理解しきれていないのか、呆気にとられた表情のまま固まっている。
俺も、ランクアップ時にオウカちゃんの能力が混じっているおかげでかろうじて反応できただけだ。
「みんな、部屋からすぐに出て!」
エリちゃんが叫ぶと同時にまたも嫌な気配がした。
目では捉えきれないが、何かが高速で俺に迫っている。
殺気だけを頼りに、バルザイの偃月刀を抜いて振り払った。
自分でも会心の一撃に近い。
オウカちゃんの剣術を利用した神速の迎撃だ。
それでも、フィジカルの差は埋めがたい。
猟犬の高速移動に力負けして短剣が宙に弾き飛ばされ、振動で手がビリビリと震える。
短剣の刃の一部が欠けたようで、金属片が床に落ちた。
だが、手ごたえはあった。
猟犬は毒々しい色の体液をまき散らしながら、部屋の隅へと飛んだ。
宙に舞っている短剣は鳥に回収させる。
「モリ君、ここはエリちゃんに任せて逃げるぞ!」
警告のために振り返ると、モリ君は左肩から血が吹き出してうずくまっていた。
「ギリギリ避けたはずなのに……」
俺が切り払ったはずなのに、その一瞬後に空中で体勢を立て直し、ついでに近くにいたモリ君に飛びついたようだ。
恐ろしく動きが速い。
プロ野球の豪速球や新幹線などの生易しい速度ではない。
目でも影を捉えられないほど速い。
狭い室内ですらそれだ。
これが、十分な助走を取って加速できる屋外ならば、どれだけの速度に達するのか。
このまま逃げ出したいところだが、この速度の相手では、無防備な背中を見せたらすぐに襲われるのがオチだ。
逃げることに意味は感じられない。
むしろ逃げたところで、負傷しているモリ君がピンチになるだけだ。
「モリ君を置いて逃げられる訳ないだろ!」
俺は箒と短剣を両手に構え、エリちゃんと共にモリ君を庇うように立った。
幸いなことに、エリちゃんだけならばなんとか対応できている。
俺の目には速すぎて全く見えないのだが、移動の予想はできる。
極光は光速。扉の前で待機しているレルム君は雷速で攻撃を当てられる。
たとえ相手が音速だろうが超音速だろうが、敵の位置さえ絞り込めば、こちらが一方的に攻撃できる。
倒せない相手ではない。
「調査は後回しだ。全員でこいつから切り抜けるぞ」