収穫祭の魔女   作:れいてんし

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第58話 「三匹の狸」

 夜はすでに深く、既に23時になっていた。

 

 それでも衆議院議員の市ヶ谷秀介(いちがやしゅうすけ)の執務室にはまだ灯りがともっていた。

 

 義父である東啓一郎(あずまけいいちろう)の後押しを得て、若くして政界で頭角を現した男。

 

 同期の議院と比べても頭一つ抜けており、10年後には要職に就くのは間違いないと噂されている。

 

 だが、それだけにこなさなくてはならない仕事の数も多い。

 

 秘書にも自らの身体にもかなりの負担をかけていることは承知しているが、それでも止まるわけにはいかない。

 

 すっかり温くなったコーヒーを口に含み、手元の書類を仕上げにかかる。

 静かな室内にノートパソコンの乾いた打鍵音だけが室内に響く。

 

 その静寂は慌ただしさが混じるノックで破られた。

 返事を待たずに慌てた様子の秘書が飛び込んでくる。

 

「こんな時間に何だ?」

「警察から。東啓一郎氏の件について可能な限り早くお話を伺いたいそうです」

 

 市ヶ谷は画面から目を離し、一度目を休めるために指でまぶたを押さえた後に眉を顰めた。

 

 東家は妻の実家。

 当主の東啓一郎は義父であり、恩人であり、政治の師匠でもある。

 

 ただ、彼の前時代的な政治信条とは相容れないものがあり、今では盆と正月に「親戚」として挨拶をするだけの関係だ。

 

 義理の兄である東啓太郎(あずまけいたろう)にいたっては結婚式以降は十数年以上一度も会話をしていない。

 

 ただ、それでも血縁という関係は切れないようで、今回のように東家関係のことで市ヶ谷に連絡が入ることは何度かあった。

 

「マスコミならともかく、警察から連絡となると無視というわけにはいかんだろうが」

 

 市ヶ谷はノートパソコンの右下に表示されている時計に目を向けた。

 

「もう23時だぞ。こんな時間に連絡を掛けてくるとは流石に非常識だ。もう就寝したので明日の朝に再度連絡を寄越せと伝えておけ。スケジュールは空けてやると」

 

 冷ややかに言い放つ市ヶ谷。

 

 しかし秘書の表情はどこか硬く、声も震えていた。

 

「ただ、先方は『誘拐』の可能性について申しておりまして……もしや昨秋の事件と何か関係があるかと――」

 

 市ヶ谷は衝動を抑えきれずに立ち上がった。

 

 市ヶ谷理乃(いちがやりの)は昨秋から姿を消した愛娘だ。

 

 忙しい中、娘には精一杯の愛情を注いできたつもりではある。

 幼いころから学業はもちろん、ピアノに英語、乗馬に華道など、どこに出しても恥ずかしくないよう淑女教育を施し、そのためには金は惜しまなかった。

 

 東家がキリスト教と関わりが深いこともあり、学校は中高一貫の伝統あるミッション系の女学校に通わせた。

 

 だが、ある日、何の前触れもなく理乃は忽然と姿を消した。

 

 娘は反抗期などなく従順に育った娘だ。

 奉仕活動とかいう下らないことに無駄金を使った時に叱ったくらいでそれ以外は真面目で大人しい娘だった。

 

 両親共に忙しいため、あまり構ってはやれなかったが、その分、小遣いは十分に与えて不自由はさせていなかった。

 

 当然生活に不満を持つはずもなく、家出などはするはずがない。

 

 自分には政敵だけではなく利害関係者が多い。

 

 進めている政策で損失を被る連中が略取または誘拐という強硬的な手段に出た可能性は十分ありうる。

 

 警察の捜査に加え、いくつもの興信所に依頼をかけて国内外にまで手を伸ばして調べさせたが、娘の痕跡すら掴めなかった。

 

 年末にはついに霊能力者というオカルトにまで縋ったこともある。

 

 だが返ってきたのは

 「娘はペルーに住んでいる。結婚して子供もいる。周りには友人も多く幸せに暮らしている」

 という荒唐無稽な与太話だ。

 

 16歳の娘を何だと思っているのか?

 とてもまともに聞いていられるものではなかった。

 

 その娘に続いて今度は義父の失踪である。

 無関係とは言い切れない。

 

 しかも、わざわざ深夜に連絡してきてすぐに会いたいとは余程の事態が発生しているのだろう。

 

「すぐに連絡を取れ。0時に会うと伝えろ」

「明日は9時から懇親会が予定されておりますが」

「ナポレオンは3時間しか眠らなかったというぞ」

「違います。ナポレオンが睡眠時間を削ったのは戦地での話で、それでも会議の間などには仮眠をとっていたそうです。睡眠不足はパフォーマンスの低下に繋がると」

「その雑学クイズは私にどんなメリットがある? そういう話をしているんじゃない!」

 

 市ヶ谷が怒鳴りつけると秘書は慌てて飛び出していった。

 

「ナポレオンはちゃんと寝ていたのか……」

 

   ◆ ◆ ◆

 

 秘書に連れられて応接室に警察が入ってきた。

 

 1人はベテランであろう老人。

 続いて40代の目つきの鋭い男。

 

 最後の1人は……女だ。

 

 老人は醸し出す雰囲気からただ者ではないのは分かるが、高齢で現役の捜査員とは思えない。

 

 政治家に会うということで体裁を整えるために駆り出された顔役の役職者であって、実際に仕切るのは壮年の男だろう。

 

 女もメモを取らせるためとかに連れてきたサポーターであり、実際の捜査員ではないかもしれない。

 

蘆名(あしな)と申します。今回は市ヶ谷先生にお会いするということで失礼のないよう同行いたしました」

 

 精悍な老人が名乗った。

 

「見たとおりおいぼれでして、現場からは引退しており、故に信楽のタヌキの置物だとでも思ってください。説明はこちらの八頭からいたします」

 

 こんな凶暴そうなおいぼれタヌキがいてたまるか。

 

 最初の2人は動物にたとえるなら(ひぐま)と狼。

 狸は一番最後の娘だ。

 

 名刺の肩書きを読むと元警視庁の刑事部部長、現相談役とある。

 この肩書きだけで怯える人間も多いだろう。

 

 続いて40代の男も名刺を渡してきた。

 

 名刺によると男は八頭黎人(やずれいと)

 こちらの肩書きは警視庁捜査一課となっていた。

 

 政治家がらみだと二課が動くイメージだが、実際に動いているのは一課。

 やはり義父も娘と同じく誘拐されたのか?

 

 市ヶ谷は立ち上がり、一礼する。

 

「こんな時間に……事情が事情とはいえ、ご苦労なことです」

 

 社交辞令の挨拶を交わしながらも、胸の奥では別の思考が渦巻いていた。

 

 義父に一体何があったのか?

 娘の行方不明と無関係ではないのか?

 

 市ヶ谷のそんな心境を知ってか知らずか、八頭は一呼吸おいてから低い声で切り出した。

 

「東啓太郎氏と懇意にしている宗教法人の事務所に、本日、家宅捜索が入りました。市ヶ谷議員もご存知の団体かと」

 

 東家が明治以来、特定の宗教団体と親密であることは知っていた。

 

 市ヶ谷が義父と距離を置いた理由も、信条の違い以上に、その執着があったからだ。

 

 もしその関係が報道されれば、たとえ義理とはいえ親子である自分に火の粉が降りかかるのは避けられない。

 

「その団体については承知している。だが、私と直接の関係はない」

「それはわかっています。本題に入る前提としてお伝えしました」

 

 市ヶ谷は眉をひそめ、机に置いた手をわずかに握り込む。

 八頭は表情を崩さぬまま、言葉を重ねた。

 

「直接の因果関係が立証されたわけではありません。ただ、家宅捜索とほぼ同時刻に啓太郎氏が病院へ運ばれました」

「病院に? 理由は何だ」

「現在は精密検査中です。見た目に外傷はないようですが、結果が分かるのは明日になるでしょう」

「義父はどうだ」

「東啓一郎氏……あなたの義父にあたる方の所在が確認できていません。昨年の娘さん失踪事件との関連性も考慮し、略取、誘拐の可能性を含めて捜査しています」

「だからこの時間に駆け込んできたのか……スピード勝負というわけだな」

 

 義父の顔が脳裏に浮かぶ。

 頑固で、時代錯誤。

 平成どころか、昭和の亡霊のような男。

 

 だが、妻の肉親であり、平凡な家庭に生まれた自分を拾い上げ、議員にまで押し上げた恩人でもある。

 

 八頭は手元の資料を一瞥し、視線を市ヶ谷に戻した。

 

「ただ、我々としては啓一郎氏が自主的に避難した――そちらの可能性も考えています」

「つまり、義理の息子である私を頼ってここに来ているのではないか、と?」

 

 市ヶ谷は椅子の背にもたれ、鼻で笑った。

 

「要するにこう言いたいんだろう。義父は宗教団体の共犯者として警察を恐れ、逃げ出した。そして私がそれを匿っている、と」

「……申し訳ありません。我々も僅かな可能性があれば確認せざるを得ませんので」

「馬鹿な。私は議員だ。警察に睨まれるような真似をする理由がどこにある」

 

 声には確信を込めたつもりだった。

 だが「もしや」という疑念は拭えない。

 

 義父が関わっていた宗教団体は、実質カルトだ。

 

 現役時代から資金提供などの便宜をはかっていた可能性は高いし、それが露見すれば自分もマスコミの格好の餌食になる。

 

「承知しました。あくまで可能性の確認です。否定されるのであれば、その言葉を信じます」

 

 市ヶ谷は口を閉ざし、カップに口をつけた。

 

 何故こんな時に熱いコーヒーを入れたのか?

 冷えた一口なら、まだ冷静になれたものを。

 

「義父は収益物件として葉山にリゾートホテルを持っている。誘拐事件ではなく、義父が警察のつきまといから身を隠すならば、まずそこだろう」

「他には? たとえば議員が別荘などをお持ちでは?」

「私の資産はすべて公開している。この自宅以外に不動産はないことが分かるはずだ。他にはせいぜい学生時代から趣味で持っているヨットが一隻あるくらいだ」

「ヨット? それはエンジン付きですか」

 

 不意に、別の声がした。

 

 これまで空気のように存在感を消していた同行の女が、初めて口を開いた。

 

「キャビンを備えて、エンジンと帆の併用で長期航海も可能なヨットも有るとか」

「誤解するな。エンジン付きではあるが小型艇だ。外洋には出られない。東京湾の内側を慎重に動かして屋形船替わりに使うのがせいぜいだ。確かに義父にはエンジンキーのスペアを渡してはいるが」

「なら、三浦の先の岩礁くらいなら到達できる……と。どこの港に停泊中です?」

「横浜だ。民間用のヨットハーバーを借りてそこに置いている。利用料も都内の駐車場と料金は大差ない」

「東啓一郎氏の自宅にも近いと」

 

 市ヶ谷は思わず机に置いた手を固く握りしめた。

 

「まさか私のヨットで義父が逃走しているとでも? あの人には免許も技術もない」

「我々は事実の可能性を確認しているだけです。逃走の手段に使えるとは思っていません。ただ、任意の調査として確認させていただきたい」

 

 八頭が女の言葉を引き取った。

 

「外から見て、動かされた形跡がないかを確認するだけです。もし港に無ければ窃盗として処理します」

 

 市ヶ谷はここで冷静に考え直した。

 

 ヨットで逃げるより、車で高速を飛ばした方がはるかに速い……意固地になる理由はない。

 

 何もやましいところなどないのだから、警察には協力的であると示した方が良いだろう。

 

「構わん。だが、あくまで協力だ。私や家族を疑うための口実にするつもりなら、承服はできない」

「承知しました。後ほど確認させていただきます」

 

 八頭は資料を閉じ、声の調子を変えた。

 

「それはそれとして」

 

 市ヶ谷は眉を上げた。

 

「娘さんについて、新しい情報が入りました」

「なにっ」

 

 義父の行方に傾いていた精神が一気に揺り戻された。

 

「詳しくはこちらの加古川から話をさせます」

 

 女は加古川稲美(かこがわいなみ)と名乗った。

 

「確証たる証拠はありません。しかし、ペルーで娘さんを見かけたという証言があります」

 

 突然に飛び出した「ペルー」という国名が更に混乱が増す。

 

 九州の八千代とかいう霊能力者が言っていたことと一致しているのはどういうことだ?

 まさかあの占いは合っていたというのか?

 

 期待してはいけない。

 だが、拒むこともできない。

 

「それは……確かなのか」

 

 加古川は視線を逸らさず、静かに首を振る。

 

「証言のみで物証はなく、裏付けも不十分です。しかし、無視できない程度には一致する点がありました」

「……そんなもの、結局、何もわからないと言っているのと同じだ。進展が有ってから報告をするべきだろう」

 

 加古川は否定も反論もせず、ただ頷いた。

 

「議員。日本各地で相次いでいる集団失踪事件についてはご存じでしょう」

「集団失踪?」

 

 そこまで詳しくは知らない。

 新聞で少し記事を読んだ程度だ。

 

 所持品などを残して突然に人間が謎の失踪を遂げる。

 

 入院中の患者や少年院に収容中という状況から姿を消した例もあるという。

 

 半年で約50人。

 年間では100人近く、この5年で500人近くがそうやって消えているとか。

 

「調査中につき、まだ公開出来る情報はさほど多くはありませんが、娘さん……理乃さんもそうやって消えたうちの1人のようです」

 

 集団失踪?

 

 市ヶ谷の胸に、嫌なざわめきが広がるが、加古川は気にする様子もなく更に続けた。

 

「先日、ある失踪者の遺品を両親のもとへ返しました。最初は激しく責められましたが、最後には納得していただけました。確かに生きた証を受け取ったと」

「遺品? 今、何故そんな話を――」

 

 それ以上は続けられなかった。

 

 集団失踪者の遺品を手にしているということは、警察はある程度被害者の居場所の検討が付いており、数人と接触しているということの証明だ。

 

 娘の新情報と告げられた直後にこの遺品の話。

 

 警察は証言しかないと言いながら、結局は遺品を遺族に返すことを前提に動いている。

 真相に迫った情報をまだ隠し持っていて、あえて伝えていないということだ。

 

「――娘はもう帰ってこない、そう言いたいのか」

 

 加古川は市ヶ谷の質問には答えず、おかしな行動を取り始めた。

 喉のあたりに手を当ててあー、うーなどと声のトーンを変えながら唸り始める。

 

「汚いし、毎日が辛くてつまらないし、クソみたいな人間ばかりだらけ。くだらない」

 

 単体だと意味不明。

 

 だが、市ヶ谷には娘……理乃の声真似だと気付いた。

 奇声はそのための予備動作か。

 

 だが、そのセリフは……

 

「娘がそんなこと言うわけないだろう! 幼い頃から汚いものには触れさせず、淑女教育を施して育て上げてきたんだぞ!」

「私はまだ何も説明していないのですが、突然どうされました? 無限列車編ですか?」

「それは叱りつけた私に対しての娘の反論だ!」

 

 市ヶ谷は思わずソファーから立ち上がり……自分が何を言ったかに気付いて改めて座り直した。

 

 娘が言うはずのないセリフを吐いて家を飛び出そうとした……そのことはどこにも公表しておらず、知っているのは市ヶ谷とその妻、そして理乃本人だけのはずだ。

 

「娘に会ったのか?」

「証拠はないと申し上げました」

 

 どうやってなのかは分からない。

 だが間違いない。

 

 この加古川という女は間違いなく娘と最低一度は会話をしている。

 

 証拠がないということは、あまり公言は出来ない非合法のブローカーなどの取りなしなのかもしれない。

 

 会話も電話やネット通話などを使用しており、直接は会っていない可能性もある。

 

 しかし少なくとも娘は生きている。

 僅かだが希望は出てきた。

 

 最初にこの女はペルーという国名を出した。

 地球の裏側だが行けなくはない。

 

「他には……娘は何と?」

「この国は良いところだよ。日本ほど文明は進んでいなくても、みんな自然体で生きている。世界はそんなに汚くなかった」

「国の感想はいい。家族へのコメントなどはないのか?」

「私達はこちらで幸せに暮らすからさ」

 

 市ヶ谷は顔を背けた。

 言葉の意味が分からぬわけはない。

 

 微妙に似ていないモノマネではあるが、間違いなく娘からのメッセージだ。

 

 声を荒げぬように何とか言葉を絞り出した。

 

「確かな証拠を提示されるか、私の目で事実を確認するまでは何も信じない。そんな空虚な報告など信じない。素人の宴会芸など尚更だ」

「もちろんです。これは証拠のない不確かな証言です」

 

 感情を乱さず淡々と返す加古川を見て市ヶ谷も冷静さを取り戻せた。

 

 ここで焦っても何の意味もない。自分の浅さが露見するだけだ。

 

「承知しました。確かな証拠を含めた続報があれば、改めてご報告に伺います」

「……こちらも失礼した。義父の件も含めて進捗が有れば報告いただきたい」

 

「承知しました。確かな証拠を含めた続報があれば、改めてご報告に伺います」

「……こちらも失礼した。義父の件も含めて進捗があれば報告いただきたい」

「ご息女が集団失踪に巻き込まれた件についてですが」

 

 ここで、これまで置物のように沈黙していた蘆名が、おずおずと頭を下げて口を開いた。

 

「我々も集団失踪については本格的に解明と解決に取り組みたいと考えています。ですが現状、各地で散発的に起きているだけと扱われ、都道府県警同士で十分な連携が取れていないのです」

 

 蘆名が合図すると、八頭が鞄から分厚い資料を取り出した。表紙には赤く部外秘の印。

 

「議員に国会で声を上げていただければ、我々は横のつながりを持ち、もっと効率的に動けます」

「それを私にやれと?」

「既に起きてしまった事件は戻せません。しかし、次の被害者を防ぐ可能性は高まります。ご検討を」

 

 市ヶ谷は黙って資料を受け取り、数枚をめくった。

 事の経緯や展望が丁寧にまとめられている。

 

 ページ番号が不自然に飛んでいる箇所、黒塗りの多い部分――まだ公開できない情報なのだろう。

 

 昨日今日に即席で作成した資料とは思えない。

 公開するタイミングを見計らっていたのだろう。

 

 大量失踪事件について真摯に取り組んでくれそうな議員や官僚に会える機会を。

 

「まさかとは思うが義父の件も娘の件も、この提案をするための前振りか?」

「失礼ながらおっしゃる通りです」

「狸め!」

「それは最初に申し上げた通り信楽の狸でございます」

 

 老獪とはこのことだ。

 何を言ってものらりくらりとかわしてくる。

 

 政界の大物や官僚と同じだ……否、元警視庁の役職者ならば警察と言っても実質は官僚のようなものだ。

 

「こんなものが通るか! と普段なら切り捨てるところだが、内容くらいは読んでやる」

 

 ただ、一つだけ。黒塗りがわざと外された箇所が目に飛び込む。

 

 過失ではない。

 目を向けさせるための幼稚な仕掛け。

 

「異世界」

 

 何が異世界だと思ったが、何かの隠語なのかもしれないと市ヶ谷は考えた。

 

 分厚い資料に目を通せばそこは分かるだろう。

  

 その時、市ヶ谷の目の前を青白く光る粒子で構成された鳥が横切った。

 

 見間違いだろうと顔を上げると、加古川と名乗った女の周囲に5羽の鳥が羽を一切動かすことなく空中に浮遊していた。

 

 突然に違和感が押し寄せてきた。

 

 眼前で起こっている現象だけではない。

 

 女……まだ中学生くらいの制服の少女が警察と一緒にやってきていることや、その違和感に今までまるで気付かず会話していたこともだ。

 

「その鳥は……いや、お前は何者だ?」

「私も狸なのかもしれません。ですが……」

 

 加古川はここで一度言葉を切った。

 

 その直後に3羽の鳥達が融けるように消え、代わりに光の軌跡で複雑な幾何学模様が宙に浮かび上がった。

 

「この現象を信じるか否かの判断は議員に任せます」

 

 市ヶ谷はその幾何学模様に触れるが何の感触もない。

 ただ、その圧倒的な存在感は理解出来る。

 

 夢や幻、トリックなどではない。

 本物の魔法だ。

 

 異世界とやらが存在するかは不明だが、魔法の類の不思議な現象は存在しており、娘はそれに巻き込まれた。

 

 目の前の狸どもはそう言った魔法的な事件の調査を行っており、その被害者の気持ちが分かる自分に協力しろと呼び掛けている。

 

「すぐに判断出来ることではない。書類を吟味した上で後日改めて連絡しよう」

 

   ◆ ◆ ◆

 

 市ヶ谷議員宅をでてようやく一息付けた。

 

 今回の訪問は市ヶ谷議員が別荘などを持っていないかの確認と、アデレイドについてを伝えるだけのつもりだった。

 

 最後に蘆名さんと八頭さんが急に出してきた書類は俺に取ってもサプライズだった。

 

 そのおかげで無駄に疲れることになったが結果だけ見れば成功かもしれない。

 

「あの書類は最初から用意していたのですか?」

「反応を見て何パターンか書類を用意していました。もちろん出さないという選択肢も有りましたが、彼ならば大丈夫でしょう。娘のために動いてくれるはずです」

 

 八頭さんが一仕事終えたとばかりに満足した顔で俺の方に缶コーヒーを投げてきた。

 

「しかしヨット絡みで聞かれていましたが、三浦の海上に何があるのですか?」

「海底遺跡が存在する可能性があります。学校地下の遺跡がなくなった以上は頼れるのはそこくらいかと」

 

 折戸教授からいただいた情報によると東京湾第三海堡。

 その下の海底に遺跡があるかもしれないという話だ。

 

「しかし議員が所持していたのはヨットで潜水艇ではない。どうやって海底の調査を」

「須磨さんが監視していたのに議院宅から啓一郎氏が消えた件について考えていました。候補は2つ。教団の能力者が逃げるための能力を持っていた」

「能力とは?」

「姿を消す能力、もしくはテレポート……瞬間移動です。どちらも異世界で同様の能力を見ました。その上で考えたんです。姿を消してもミイラという大きな物を担いで逃げ出すには大変だろうと」 

「それでテレポートだと」

「神父は消えて旧校舎の遺跡はもう使えない。そんな中、教団が新しい能力者を増やしたところ、待望の瞬間移動能力者が生えてきた」

  

 瞬間移動能力があれば船の上から海底の遺跡内へドローンなどを送り込める。

 

 内部に海水がなく空洞ならばそのまま探索も可能だろう。

 

「ならばどうする? 我々には瞬間移動能力はないぞ」 

「なので、海上で勝負を決めます。連中が海底遺跡へ入る前に」

 

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