新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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ジパング④

 

 

 ジパングに伝わる伝承には、少し補足があった。

 

 それは、分家の末裔となった一人の女性の末路。最後の護符となった『般若の面』を彫り、その帰路で魔物と遭遇し、錯乱状態に陥った女性の辿った道のり。

 

 彼女は、錯乱状態に陥りながらも灼熱の洞窟を抜け、外へと踏み出した。

 術者である魔物が存命であった為に、その錯乱魔法は効力を失わず、彼女の脳を蝕み続ける。そのまま、海岸付近へと出た彼女は、たまたま海岸に打ち付けた高波に、その身を攫われてしまった。

 荒れ狂う波に呑まれ、意識を手放した彼女は、偶然にも通りかかった貿易船に救助される。この時代は、まだ『魔王』の影響も少なく、ポルトガを起点として様々な貿易船が旅客船を兼ねて渡航していた。その一つの船に、彼女は救い出された。

 

 救助されて数日、ようやく意識を取り戻した彼女は、周囲を見つめて困惑する。見る物全てが彼女の理解を超えていたのだ。そればかりか、自分が何故ここにいるのかも解らない。いや、まず、自分が何者なのかさえ、彼女には理解できなかったのだ。

 生まれて初めて味わった『恐怖』。術者存命によって、長引く魔法の影響が及ぼした脳への障害。大量の海水を飲んだ事による、一時の心肺停止。それらの要因が全て合わさった事により、彼女は『記憶』という大事な物を失っていた。

 

「……わ、わたしは……」

 

 救助され、意識を取り戻した彼女を襲った『記憶障害』という物は、珍しい物ではなかった。この時代、魔物に襲われ、目の前で人が死んで行くのを見た者などは、自身の心を護るために記憶を封じ込めてしまう事が多く見られたのだ。故に、船に乗る乗員達の多くも、彼女を同情の眼差しで見る事はあっても、奇異の目で見る事はなかった。

 貿易船に救助された彼女は運が良かったのだろう。もし、万が一、客船等を襲う海賊船に拾われていたら、彼女の貞操どころか、命すらも危うい物であったかも知れない。

 

「そう考え込む必要はないよ。色々と手伝ってくれれば、この船が次の国に着くまでの衣食住はこちらで用意するから」

 

「……ありがとうございます……」

 

 船長の言葉に頭を下げたが、彼女の心は不安で揺れていた。貿易船といえども、人命救助によって引き上げた人間をいつまでも船に乗せておく訳にはいかない。必然的に、次の目的地となる場所で彼女は降ろされる事になる。

 自分の住んでいた場所が何処なのかを伝える事ができ、その場所が通り道であるならば、送り届けてくれる事も可能だったのかもしれない。しかし、彼女の『記憶』はないのだ。

 解る事は、彼女の髪の色が、この船に乗るどこの誰とも違うという事だけだった。

 

 そして、船は長い航路と時間を要して、ある国へと辿り着く。それは、皮肉にも彼女の『記憶』の奥底に眠ってしまった生国と同じ、辺境にある島国。

 

 その国の名は『アリアハン』

 

 彼女は、その国の港に着いた時に、積み荷や乗客と共に降ろされた。

 アリアハン側からは、彼女の身柄を保護するために、一人の近衛兵が立ち会う事となる。船長との話で彼女の事情を聞いた近衛兵は、快く身柄を引き受け、アリアハンで暮らす許可を取り付ける。何も憶えていない彼女を気遣って、その近衛兵は、住居の手配から衣食の手配までを行った。

 全てが初めてみる物ばかりだった彼女は、必然的にその近衛兵を頼らざるを得なくなり、近衛兵の方も嫌な顔一つせずに彼女の世話を焼く。

 

 そして、彼女がアリアハンに来て一年が経つ頃には、彼女もようやく笑顔を浮かべるだけの余裕を持つ事が出来るようになった。

 心の余裕は、彼女の心を動かし、近衛兵へ違う感情を持たせて行く。もとより、その近衛兵にはその感情があったのだろう。二人の仲は急速に発展し、彼女がこの島国に辿り着いてから三年も経つ頃には、婚姻の誓いを『精霊ルビス』へ捧げていた。

 アリアハン宮廷で働く学者の中には、彼女の髪の色からその出生地を導き出し、婚姻に反対の意見を出す者もいたが、近衛兵は頑として譲らず、彼女を妻とする。

 

 そして、彼女は近衛兵との間に子を成した。

 珠のように輝く男子。

 記憶を失くした彼女の名は、近衛兵と二人で考えた。そして、その間に生まれた男の子の名は、彼女と近衛兵の名に肖って名付けられる。

 

 その子供は、彼女の出生地である<ジパング>特有の髪色を持ち、父親である近衛兵の剣の才能も受け継いでいた。また、正義感は強く、内に秘めた物が漏れ出しているのではないかと思う程に、人を惹き付ける輝きを持っている。

 それは、『ジパングの太陽』とまで呼ばれた彼女の遥か祖先を彷彿とさせる物だった。

 

 その子の名は『オルテガ』。

 後に、世界中の人間達の希望とまでなる人物である。

 

 

 

 

 

「……ぐっ……」

 

「あっ!? リーシャさん、目が覚めましたか?」

 

 瞼の向こう側から差し込んでくる陽の光に目を開けたリーシャは、身体を起こそうとするが、軋むように重い身体に思わず声を上げてしまう。その声に気付いたサラが、リーシャの枕元に移動し、顔を覗き込んで来た。

 

「……こ、ここは……」

 

「ここは、イヨ様のお屋敷の部屋の一つです」

 

 周囲を見渡すリーシャに苦笑しながら、サラは布の水気を絞り、それをリーシャへと渡す。渡された布で、顔を軽く拭いた後、リーシャはその場にサラしかいない事を不思議に思った。

 

「カミュ様とメルエは食事を取っています。そろそろ戻って来ると思いますよ」

 

「そうか。私は随分眠っていたのか?」

 

 リーシャの問いかけにサラは苦笑を浮かべ、小さく頷いた。

 そして、笑みを浮かべたままに口を開く。

 

「私とメルエは、丸一日だそうです。カミュ様とリーシャさんは、更に一日でした。実は、カミュ様もつい先程、目を覚ましたばかりなのですよ」

 

「ま、丸二日もか!?」

 

 サラの言葉にリーシャは驚きを表す。

 しかし、それも無理はないだろう。サラやメルエは、身体的な怪我などは皆無に等しい。だが、カミュとリーシャ、特にリーシャに至っては、その身を何度も焦がし、何度も傷つけられている。いくらベホイミ等の回復呪文で修復したとしても、身体的な疲労はサラやメルエの比ではない。むしろ、二日の眠りで目を覚ました事の方が驚きに値する事だった。

 

「仕方がありません。それ程に、今回の戦いは厳しい物でしたから……」

 

 目を伏せるように俯いたサラの顔を見て、リーシャも一つ溜息を吐き出す。ヤマタノオロチとの戦いは、まさに『死闘』であった。この四人の中で、誰がいつ死んでもおかしくはない程の戦いだったと言っても過言ではないだろう。

 

「……そうだな……だが、私達の最終目的は『魔王バラモス』。<ヤマタノオロチ>は強敵であったが、『魔王バラモス』はその比ではないのだろうな。まだまだ強くならねばな」

 

「……そうですね……」

 

 未だに力が入りきらない拳を胸で握り、リーシャが言葉を溢す。<ヤマタノオロチ>という強敵を葬って尚、それは自身の未熟さを浮き彫りにさせる物だった。

 

 『自分達の現在の力では、魔王と対峙する事などできない』

 

 それは、リーシャだけでなくサラもまた感じた事だった。そして、それはおそらくカミュも同様だろう。

 確かにヤマタノオロチは、今までの敵とは比べ物にならぬ程の強敵であった。しかしそれでも、世界全土を恐怖に陥れる程の力を有している訳ではない。それもまたカミュ達四人の成長が成せる事だと言う事も理解している。己の力が上がり、それを自覚しているからこそ、相手の力も見えて来るのだ。

 ただ闇雲に『魔王討伐』を叫ぶ者は、もう誰一人いない。

 

 それぞれの想いを胸に押し黙った二人の耳に、襖と呼ばれる部屋の仕切りが引かれる音が聞こえた。そして、引かれた襖の隙間から見えた顔を見て、サラは笑みを溢す。

 

「…………リーシャ!…………」

 

 身体を起こしているリーシャの姿を視界に入れた小さな影は、いつもでは考えられない声量でリーシャの名を叫び、駆け寄って来る。

 藁を編んだ物の敷かれた床に、『蒲団』と呼ばれる綿を入れ込んだ布を敷いて寝ていたリーシャの胸に飛び込んで来た小さな身体をリーシャが受け止めた。

 

「ふぅ……メ、メルエ、急に飛び込んで来ると危ないだろう?」

 

「…………ごめん……な…さい…………」

 

 窘めるようなリーシャの口調に、顔を上げたメルエが眉を下げた。

 そんなメルエに苦笑を浮かべたリーシャが、メルエの髪を優しく梳いて行く。

 気持ち良さそうに目を細めるメルエの姿に、サラは柔らかく微笑んだ。

 

「……起きたのか……」

 

 そんな三人のやり取りを眺めながら、カミュは部屋へと入って来た。リーシャの具合を確かめるように言葉を発するカミュの顔にも、未だに疲労は残っている。その様子を見て、リーシャは不安になると同時に、どこかで安堵した。

 

「カミュ。お前もまだ疲れているんじゃないのか?」

 

「……そうも言っていられないだろう……」

 

 リーシャの問いかけをカミュが否定する事はなく、それを事実と受け止めながらも、このジパングに留まる事を否定した。それを不思議に思ったサラは、カミュにそのままの意味を込めた視線を送る。サラの視線を受け、カミュは一度大きな溜息を吐いた。

 

「アンタは、もう一度バハラタの時のような視線を受けたいのか?」

 

「えっ!? い、いえ! で、ですが、この<ジパング>では、そのような事はないと思いますよ」

 

 カミュの言葉をサラが強く否定するが、カミュは静かに首を横に振る。まるで、『未だに幻想を抱いているのか?』とでも言いたげな瞳に、サラは喉を詰まらせた。

 メルエはそんな二人のやり取りを不思議そうに眺め、リーシャは何か思案するように黙り込む。

 

「そうだぞ、カミュ。もし、バハラタのような事になるとすれば、私達を二日もの間、このような場所で休ませてはくれないだろう?」

 

「……それも、外に出てみればわかるさ」

 

 カミュはそれ以上に話すつもりがないように口を噤んだ。

 意味深なカミュの言葉を聞き、リーシャとサラの表情に影が差す。

 

 『この国の新女王となるイヨに限って、そのような事をする訳がない』

 

 そう考えていたリーシャとサラであったが、カミュの言葉の本当の意味を理解する事はできなかったのだ。だが、カミュが案じているその事柄は、リーシャやサラが考えていた物よりも重く、根強い物であった事を彼女達が知るのは少し後の事だった。

 

 

 

「おお! 皆、意識を戻したのじゃな?」

 

 カミュの言葉の真意を考えるサラの耳に、その新女王となる者の声が届く。メルエが引いた襖は開け放たれたままであり、ちょうどその前を通ったイヨが中の様子を確認して入って来たのだ。

 

「此度は、過分なご配慮を賜り……」

 

 イヨの来訪に気付いたカミュが仮面を被る。

 そのカミュの態度に気分を害したかのようにイヨは顔を顰めた。

 

「よい! そのような仰々しい挨拶はいらぬ。そなた、身体は大事ないか?」

 

「有難きお言葉。未だ多少の感覚のずれはございますが、なんとか」

 

 カミュの言葉を遮るように発したイヨの言葉は、思いのほか厳しい物で、蒲団から身体を起こしているリーシャへと別の言葉をかける。しかし、そのリーシャからも重々しい空気を感じ、イヨはどこかむくれた様に眉間に皺を寄せた。

 

「まぁ、良い。そなた達の仲間という者達も、ジパングに来ておる。後で会うが良かろう」

 

「仲間ですか?」

 

 気を取り直したイヨが発した言葉に疑問を感じたサラが首を傾げる。その様子が可笑しかったのか、メルエも真似をするように、笑顔で小首を傾げた。

 自分よりも幼い少女の姿に微笑みを浮かべたイヨは、もう一度口を開く。

 

「ジパング近郊に停泊していた船があった。不審に思った者がここへと連れて参ったのじゃ。着いたのは昨日じゃが、話を聞いてみると、その船はそなたらの物じゃと言う。相違はないか?」

 

「はい。おそらく、その者達は、私どもの船の乗員かと」

 

 カミュの言葉に満足そうな笑みを浮かべたイヨは、表情を引き締めてカミュの瞳を射抜き、『少し話がある』とその場に腰を落とした。

 そんなイヨの姿に、カミュも仮面をかぶり直し、藁で出来た敷物の上へと座り込む。サラもまた、身を正し、イヨの瞳をしっかりと見据えた。

 

「まずは礼を申させてくれ。この<ジパング>をお救い下された事への感謝、我ら<ジパング>の民一同、生涯忘れません」

 

 カミュの瞳を見据え、イヨは言葉を告げた後、深々と頭を床へと付けた。カミュの瞳が珍しく驚きに見開かれている。イヨの取った行為は、とても一国の女王のとって良い物ではないのだ。しかし、それはイヨの偽らざる本心なのだろう。

 

「イ、イヨ様! いけません。この国の主たるイヨ様が、そのように軽々しく頭を下げてはいけません」

 

「軽々しくなどない! 妾にとって、この<ジパング>は命そのもの。それをお救い下された方々に頭を下げて何が悪い!」

 

 イヨを窘めようとしたサラは、その心を聞き、言葉を失ってしまう。軽々しく考えていたのはサラの方だったのだ。

 『王』という者にサラが抱いていた幻想。それは、根底から崩れて行く。しかし、それは決して悪い方へではなかった。

 

「イヨ殿、お顔を上げて下さい。『当然の事をした』とは言いません。我々も必死でしたから……しかし、イヨ殿の想いを聞き、今は『良かった』と感じています」

 

「……リーシャさん……」

 

 そんなイヨに声を掛けたのは、メルエを胸に抱いたリーシャだった。柔らかく慈愛に満ちた笑みを浮かべ、まっすぐにイヨの瞳を見つめている。その視線を受け、イヨはもう一度頭を下げた。

 

「な、なんだ、カミュ!? わ、わたしは何か変な事でも言ったか?」

 

「……いや……すまない」

 

 余程驚いたのだろう。先程イヨへ向けた瞳以上に、『驚愕』という二文字に彩られた表情を浮かべていたカミュを見てリーシャはどこか不安げに尋ねたが、我に返ったカミュは、そんなリーシャに軽く頭を下げた。その様子に、サラも表情を変化させ、笑みを溢す。

 

「そなた達に何か礼をと思ったのじゃが、今のジパングには、何もありはせぬ。何の役にも立たぬかもしれぬが、これを受け取っておくれ」

 

「……これは……?」

 

 カミュ達の前に差し出された物。

 それは、敷物に包まれた球状の物だった。

 メルエの拳の中にもすっぽりと収まりそうな程の大きさの珠。

 神秘的な輝きを放ち、淡い紫色の光沢を持っていた。

 

「遥か昔から、ジパングの国主の家系に受け継がれていると云われている物じゃ。謂れなどはもはや解りはせぬ。だが、妾が持つよりも、そなたらが持っていた方が良いような気がするのじゃ。それにの……今、そなたが手にした時、その珠の輝きが増したように見えた」

 

「……カミュ様、これはもしや……」

 

 サラの言いたい事は理解できていた。カミュは自分の手の中にある、紫色の輝きを放つ球を見つめる。吸い込まれそうな程の深い輝きを放つこの球が、おそらく『オーブ』と呼ばれる物に違いはあるまい。

 ダーマ神殿にて教皇が口にした言葉。

 『精霊ルビスの従者を蘇らせる』と言い伝えられている物。

 

「…………きれい…………」

 

「こら、メルエ!」

 

 いつの間にかカミュの手の中を覗き込んでいたメルエをリーシャが窘める。それでもメルエはカミュの手の中にある球を嬉しそうに見つめていた。

 そんなメルエの表情に苦笑を浮かべたカミュは、紫色に輝くオーブをメルエへと手渡す。

 

「メルエのポシェットの中に入れておいてくれ」

 

「…………ん…………」

 

 カミュから『オーブ』を受け取ったメルエは、満面の笑顔を浮かべ、ポシェットの中へと仕舞い込む。そして、代わりに取り出した物を持って、イヨの前に歩み出た。

 

「ん?……何じゃ?」

 

「…………ん…………」

 

 急に近付いて来たメルエに戸惑うイヨの前に差し出された掌の上には、先程イヨが譲渡した珠よりも小さな青い石の欠片が乗っていた。

 それを目にしたサラは微笑み、リーシャは苦笑を浮かべ、カミュはあからさまに顔を歪める。

 

「これはまた、何やら神秘的な輝きを持っておるの?」

 

「それは、『命の石』の欠片です。メルエが、自分にとって『大事な人』に手渡す物なのですよ」

 

 メルエから手渡された石を不思議そうに見つめるイヨに、サラは言葉を掛けた。それは、ここまでメルエがその石の欠片を渡した相手を考えると、自然に出て来る答えだった。

 サラの言葉を聞き、イヨは自分の前で微笑む少女に暖かな笑みを浮かべる。

 

「そうか……有り難く頂戴する」

 

「…………ん…………」

 

 軽く頭を下げるイヨに、メルエは小さく頷いた。リーシャの下へと戻って行くメルエに向けられていたイヨの優しい瞳が、再び引き締められる。そのままカミュへと向き直ったイヨは、何かを決意したように、重い口を開いた。

 

「そなたは………そなたは妾と同じ国主の血を継いでいる者なのじゃな?」

 

「……は?」

 

「えっ!?」

 

「なにっ!?」

 

 意を決したように口を開いたイヨの言葉に、カミュは意表を突かれたように言葉を失い、サラとリーシャは衝撃の告白に驚きの声を上げた。しかし、イヨの瞳は真剣そのもので、とても冗談を言っている様子など欠片もない。

 

「それは、どういう事なのでしょうか?」

 

 言葉を失っているカミュに代わってサラがイヨへと問いかける。サラの問いかけに賛同するように、リーシャも少し身を寄せて来た。

 一度瞳を閉じたイヨは、天井を眺めた後に、視線をカミュの傍らに置いてある物へと動かした。

 

「その剣じゃ」

 

「えっ!?」

 

 その場にいた全員の視線が、カミュの横へと置かれた剣へと向けられる。

 それは、カミュが斬り落としたヤマタノオロチの尾から出て来た剣。

 ここまで装備していた<鋼鉄の剣>を失ったカミュが、灼熱の洞窟から運び、オロチとの再戦の際に握っていた剣だった。

 

「……この剣が、何か?」

 

「妾も実物を見た事がない故に、真偽を確かめる事は出来ないが、おそらく、その剣の名は『天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)』であろう。我がジパング創世の際に、初代国主が神より賜った宝剣と伝えられておる」

 

「えっ!? そ、そのような凄い剣なのですか!?」

 

 神から賜った宝剣。それは、サラにとってみれば、雲の上の武具であった。

 『精霊ルビス』の更に上に存在する創世の神。

 『もしかすると、この異教の国の神も、元を辿れば一つなのではないか?』という疑問がサラの中には生まれていた。

 

「……見た事はない?」

 

「うむ。その宝剣はな……遥か昔に失われた物なのじゃ」

 

 イヨの言葉の一部が気にかかったカミュの問いかけに、イヨは一つ頷いた後、静かに口を開く。その間、誰も口を挟む者はいなかった。

 

「洞窟の中で話したが、我がジパングに伝わる『鬼』の話がある。その『鬼』がその時代の国主であった事も話したな?」

 

 静かに語るイヨの言葉に、カミュ達全員が頷きを返す。

 それを確認したイヨは、再び口を開いた。

 

「その国主である女性は『鬼』となり、単身であの洞窟へと向かった。その宝剣は、その時に手にしていた物じゃと伝えられておる。言い伝え故に、その剣が宝剣なのかどうかは定かではないが、言い伝えの一部に『鬼となった女王は、神から賜った天叢雲剣でヤマタノオロチを封じた』とある」

 

「……だから、尾の中に?」

 

 イヨの話を聞き終わったサラは、頭の片隅にあった『何故、あの剣がオロチの体内にあったのか?』という疑問が氷解した。

 オロチを封じる楔であったのが、今、カミュが手にしている剣だとすれば、その体内から出て来た事も、『般若の面』と共鳴しオロチの身体を弾き返した事も理解が出来る。

 

「……では、この剣はお返し致します」

 

「いや、良い。そなたが持っておれ」

 

 手元にあった剣を引き寄せ、イヨの前へと差し出したカミュを制する言葉が掛る。

 『神から賜った宝剣』となれば、国宝と言っても過言ではないだろう。それをカミュが持っている事に関し、了承を出すイヨの考えがカミュ達には解らなかった。

 

「ですが……」

 

「良いのじゃ。妾は言った筈じゃぞ? 『見た事はない』と。妾が見た事がないと言う事は、この国の人間全員が見た事はないという事。言い伝えには、オロチを封じた『天叢雲剣』という物が存在するが、そなたが手にしている物がそれだとは誰にも断定は出来ぬ」

 

 イヨの顔には、年相応の無邪気な笑みが浮かんでいた。悪戯を思いついたような、それに驚く相手を見て喜ぶような無邪気な笑み。それは、カミュとリーシャの表情を驚きに変え、メルエに笑みを浮かべさせるには充分な物だった。

 

「それでも、これがジパングの国宝の可能性がある以上、イヨ殿がお持ちになっておくべきでは?」

 

 静けさが広がる一室で、口を開いたのはリーシャだった。国に仕えていた者から見れば、『言い伝え』と呼ばれる王族の系譜はとても重要な物であり、他国の者が侵してはいけない禁忌であるのだ。

 故に、リーシャは口にした。しかし、そんなリーシャの言葉にも軽い笑みを浮かべたイヨは、少し考えるような素振りを見せた後、口を開いた。

 

「ふむ。そうじゃな……ならば、これならどうじゃ? その剣の名は、『天叢雲剣』という物ではなく、そなたが手にした別の剣。そうじゃな……そなたが妾を護るために、庭の草を薙ぎ払った剣故に……『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』というのはどうじゃ!?」

 

「いえ……どうじゃと言われましても……」

 

 珍しくカミュが戸惑っている。その様子と、面白い事を見つけたように輝くイヨの瞳を見て、リーシャとサラは忍び笑いを溢し始めた。

 メルエはそんな和やかな雰囲気に笑みを浮かべ続け、カミュだけはすぐに表情を隠すように消して行く。

 

「もはや決めた事じゃ。お主の持つ剣の名は『草薙剣』。それはそなたが手にした剣。もし、その剣よりも優れた物を手にした時にでも、妾の許へ返しておくれ」

 

「……お気持ち、有り難く」

 

 恭しく剣を頭上に掲げたカミュは、座ったままイヨに向かって頭を下げた。

 アリアハンを出る時に国王から支度金を下賜された時にも、ロマリア国王からうろこの盾を下賜された時にも、カミュはここまで恭しく礼を述べた事はない。それ程の、イヨの心を重く受け止めたのだろう。サラは、そう考えた。

 

「しかし、本当に国主様しか扱う事は出来ないのでしょうか?」

 

「ふむ。妾も初めて見た物であるからの……真偽は解らん」

 

 そんなカミュ達のやり取りを余所に、リーシャはイヨが口にした言葉の中身が気になっていた。リーシャが何に疑問を持っているのかが理解できないメルエは、リーシャとイヨを見比べて小首を傾げている。

 

「カミュ、その剣を少し貸してくれ」

 

「……リーシャさん……」

 

 今までの話で、国宝級の宝剣である事を聞いていた筈のリーシャが軽々しく手を伸ばす姿を見て、サラはその図太い精神に感動すら覚えてしまった。カミュも同様だったのか、軽い溜息を吐き出した後、剣の柄を握り、リーシャへと手渡そうとする。

 

「!! 痛っ!」

 

 しかし、その剣は、リーシャの手には渡らなかった。リーシャの手に触れるか触れないかの場所で、それを拒むかのように床へと落ちたのだ。

 

「リ、リーシャさん! どうしたのですか!?」

 

 まるで自らの腕を護るように抱えたリーシャの姿に、サラが慌てて問いかける。唯触れただけにも拘らず、リーシャの手は暫しの間、意思が通じない物と化していた。

 

「……わからない……しかし、私は、その剣に拒まれたようだ……」

 

 自身の手は、痺れたように全く言う事を聞かない。触れただけでこうなのだ。もし、無理やり握り込んでいたら、リーシャの手は生涯動かなくなっていたのかもしれない。

 リーシャは、脂汗が滲む自分の顔を心配そうに見つめるメルエの頭に、正常な手を乗せて笑顔を作った。

 

「ふむ。やはり、国主の血筋が影響するのか……」

 

「カミュ様のお婆様は、ジパングの国主様の血筋の方なのですね……!! そ、そういう事は、カミュ様とイヨ様はご親戚になるのですか!?」

 

 剣を眺めながら呟いたサラの言葉に、イヨは驚いたように振り向き、そのイヨの顔を見て、サラはもう一度驚きの声を上げた。

 二人の驚きの意味合いはかなりかけ離れているように思えるが、視線はカミュへと向けられていた。

 

「そなたの祖母はジパングの者じゃったのか!?」

 

「……ええ……」

 

 カミュの頷きにイヨは目を見開き、そして何かを思案するように瞳を閉じた。サラは、親戚筋となる二人を交互に見比べながら、事の成り行きを見守る。メルエはリーシャの腕の中で首を傾げ、未だに手の痺れが抜けないリーシャは、静かに話に聞き入っていた。

 

「しかし、妾の祖母に姉妹がいたという事は聞いた事がないの……」

 

 イヨの呟きに誰も答える事はできず、カミュが何故、ジパング国主の血を引くのかという事は結局結論が出る事はなかった。

 

 その後、イヨの命を受けた侍女が、リーシャの分の食事を部屋まで運び、それを食し終えたリーシャが立ち上がった事により、一行は屋敷を出る事になる。だが、歩き出そうとしたカミュの足を、リーシャの言葉が止めた。

 

「カミュ。私も、少し聞きたい事があるのだが?」

 

「……なんだ?」

 

 リーシャの言葉に振り返ったカミュは、その表情を見て瞳を細める。カミュを見つめるリーシャの瞳は真剣な色を宿しており、これから話す内容は、誤魔化す事を許さない物である事を物語っていた。

 

「オロチとの再戦の際、何故、あの魔法を使わなかったんだ?」

 

「……リーシャさん?」

 

 リーシャの纏う不穏な空気を感じたサラも振り返る。怒気を含んだような言葉は、『誤魔化しは許さない』という事を告げていた。

 サラは、何故リーシャが怒りを露にしているのかが理解できない。

 

「あの時、空は見えていた筈だ。洞窟内でお前が言った言葉は理解できた。だが、その空の下で魔法を行使しなかったのは、お前の小さな意地のせいか?」

 

 しかし、次に繋がれたリーシャの言葉に、内に秘めた想いを理解する。

 それは以前、ムオルの村でカミュに向けられた怒りの瞳。カミュの中の意地に近い物を優先させ、仲間の命を危険に晒したのではないかと憤るリーシャの心。

 

「リ、リーシャさん」

 

 サラはその言葉の奥底に、リーシャの期待も含まれている事を察した。

 リーシャが憤る理由は『仲間』。そして、リーシャはそれを押し付けではなく、カミュの心の中にも存在している事を『期待』しているのだろう。

 

 『お前は、メルエやサラを仲間として思っていないのか?』

 

 そんな言葉が、リーシャの言葉の内に潜んでいるのではないかとサラは考えていた。そして、それが決して見当違いな物ではないという事は、リーシャの瞳の中に宿る『怒り』の感情以外の物が雄弁に物語っている。

 

「カミュ!」

 

「……あの魔法は、『雷』を使役する物であって、支配する物ではない」

 

 もう一度カミュの名を叫んだリーシャに向かって深い溜息を吐き出した後、カミュは何やら意味の深い言葉を呟いた。その言葉の意味をリーシャは理解する事が出来ない。

 『なに!?』という言葉と共に、疑問符が浮かんでいそうな表情を浮かべ、その真意を探ろうとするが、それ以上口を開こうとしないカミュを見て、メルエのように『むぅ』と唸ってしまった。

 

「それは、あの魔法は、そこに雷が存在しなければ行使できないと言う事ですか?」

 

「……ああ……」

 

 むくれてしまったリーシャの代わりに、サラがカミュへと真意を問い質す。カミュの短い言葉の中にある物を拾い集め、それを提示した。そんなサラの推測に、カミュは静かに頷きを返す。

 

「どういうことだ、サラ!?」

 

「えっ!? あ、はい。つまり、あの魔法は、カミュ様の上に雷雲が存在する事が条件で、そこにある雷をカミュ様の魔法力によって操るという物だという事です」

 

 サラの説明にもどこか納得がいかない様子のリーシャは、難しく眉を顰め、カミュとサラを交互に見比べる。イヨは、先程までの緊迫感を急速に失ったやり取りに頬を緩め、リーシャの傍から離れたメルエと共に微笑み合った。

 

「むぅ……良く解らないが、本当に行使出来なかったのだな?」

 

「……ああ……」

 

 静かに頷くカミュの瞳を、暫くの間、睨むように見ていたリーシャは、ようやくその瞳を緩める。

 カミュが嘘を言っていない事を理解したのだろう。満足そうに一つ頷くと、リーシャはメルエの手を取り、部屋を出て行った。

 

「あれ? リ、リーシャさんを先頭にしては駄目ではないですか?」

 

「…………」

 

 真っ先に出て行ったリーシャの背中を見ていたサラが今気付いたかのように声を上げ、振り向いたカミュは、眉間に皺を寄せながら溜息を吐き出す。その二人の様子が可笑しく、イヨは噴き出してしまった。

 

 

 

 前を歩いていたリーシャの姿を確認した時は、既に屋敷の奥へと行ってしまった後だった。

 手を繋ぐメルエの顔が不安で歪んでいるのが見え、サラも溜息を吐き出す。イヨの案内により、ようやく玄関に出た頃には、メルエはカミュのマントの中へと移動していた。

 

 外に出た瞬間、サラは驚きに目を見開く。

 後ろから現れたリーシャも同様に目の前に広がる光景に驚いていた。

 唯一人、カミュだけは、その光景を目にしても表情を変えない。

 いや、むしろ表情を失くして行った。

 

「民達にそなたらが目を覚ました事を告げておったのじゃ」

 

 最後に出て来たイヨの言葉通り、屋敷の外にはジパング中の民達が押し寄せていた。

 自国を救った英雄を見る為なのか、それとも自国の新女王となったイヨを祝う為なのか。もしくは、それとは全く違う理由なのか。

 

 民達の表情には様々な物が見えていた。その中にはサラが恐れるあの表情を浮かべる者も確かにいる。大半の者はカミュ達に眩しそうな笑顔を浮かべているが、中には何かを思いつめているような表情を浮かべる者もいるのだ。

 

「これが、そなた達は救ってくれたジパングという国の姿だ」

 

 しかし、民達の笑顔に隠れたその暗い影がイヨには見えてはいない。

 この国を覆っていた闇が晴れた喜びと、民達の心に落ちていた影が晴れた喜びに、イヨは晴れやかな笑顔を浮かべていた。

 

 民達は喜びの笑顔を浮かべるが、誰一人としてカミュ達へ歓声を上げる者はいない。何かに遠慮するように言葉を飲み込んでいた。

 静けさが広がる屋敷の前に、イヨは少し首を傾げるが、その静けさはどこからともなく聞こえて来た、たった一言によって脆くも崩れ去る。

 

 『ヒミコ様がオロチだったと言う事は、イヨ様も化け物じゃないのか?』

 『最初からオロチと組んでいたんではないのか?』

 『イヨ様も、いつか<ヤマタノオロチ>になるのではないか?』

 

 イヨの耳の横を一陣の風と共に運ばれて来た会話。それは、イヨという人間の時を止め、その太陽のような笑みを消して行く。

 耳を疑うような小さな囁きは、静寂が広がる広間の中を駆け巡った。

 

「……まずいな」

 

「なに? どういうことだ、カミュ?」

 

 先程とは打って変わって騒々しくなり始めた広間を見て、カミュの顔が歪む。その言葉に反応を返したリーシャの声にも、カミュは眉間に皺を寄せるばかりで何も言葉を発しない。まるで何かに身構えるように立つカミュを見て、サラも不安を募らせた。

 

「痛っ!」

 

「あっ! イヨ様!」

 

 その瞬間、何処からともなく飛んで来た小ぶりの石が、イヨの額に命中した。軽い音を立てて地面に落ちた小石には、赤い血液が付着している。声を上げたサラがイヨを見ると、その額から赤い血液の筋を作ったイヨが、色々な感情を混ぜたような哀しい表情を浮かべていた。

 

「あの()を返せ!」

 

「化け物!」

 

 群衆の中から飛び出した小さな狂気は、笑顔を見せていた民の心の奥に今も残る負の感情を揺さぶる。飛び出した感情を抑制する事など出来る訳もなく、周囲の負を巻き込み、次第に雪崩のように襲いかかって来た。

 イヨやカミュ達に目掛けて投げつけられる石はその数を増し、叫ばれる言葉はその辛辣さを増して行く。怒号となった言葉は、カミュ達がオロチを倒した時の歓声を上回り、年老いた者達の抑制の言葉は搔き消されてしまった。

 カミュ達が目覚めるまでに二日以上の時が経過していた。その時間は、オロチの恐怖から解放された喜びを民達に与えると共に、皮肉にも考える時をも与えてしまったのだ。

 喜びを感じる反面、オロチの犠牲になった者達がいない事を嘆く時間も出来てしまう。

 

 『何故、あの娘が生きている内にガイジンは助けてくれなかったのだ?』

 『何故、ヒミコがオロチだったのだ?』

 『何故、イヨが生贄となった時にオロチは倒されたのだ?』

 

 そんな疑問は、彼等の中にある暗い影を大きくしてしまう。

 自分達が国主として信じていた者への疑惑。

 それは、時間と共に大きくなり、たった一つの小石によって爆発した。

 

「カ、カミュ!」

 

「カミュ様!」

 

 しかし、民達の爆発した感情は、彼等が今まで見た事もない程に強靭な青年の、凍てつくような瞳によって急停止する。

 イヨを飛び交う石から護るように掲げられた盾は、オロチとの戦いの凄まじさを色濃く残し、その隙間から見える瞳は、民達が『化け物』と罵るオロチを前にした時のように冷たい。

 

「……良いのじゃ……これも、妾と母上の不甲斐無さが招いた物。民達の怒りは尤もな事なのじゃ」

 

「……イヨ様……」

 

 カミュの背中に護られたイヨは、顔を落とす。

 自分に言い聞かせるように呟く言葉に、サラは表情を歪めた。

 『何故、これ程に国を想っている者が辱められなければいけないのか?』

 それは、サラの心に憤りを感じさせる程の物だった。

 

「……それは違うな……」

 

「!!」

 

 しかし、そんなイヨの言葉は、未だに民達に冷たい視線を向けたままの青年によって全面的に否定される。

 イヨの顔が跳ね上げられ、自身の前に立つ背中を見つめた。カミュの視線に圧された民達の喧騒は消え、先程以上の静けさが広間を支配している。呟くようなカミュの言葉が、広間に木霊した。

 

「アンタの母親がいたからこそ、この国の民は生きていられる」

 

「な、なんじゃと……?」

 

 盾を下げたカミュの口から飛び出す言葉に、全員の瞳が集中する。民達の視線を無視するように、カミュはその中にある推測と呼べない確信を話し出した。

 

「何も、『鬼』となったのは伝承に残る女王だけではない。アンタの母親である『ヒミコ』もまた、この国に生きる者達の為に『鬼』となり、あの洞窟へと向かった筈だ」

 

「母上が!?」

 

 カミュの顔には、既に仮面などない。口調もリーシャ達と話すような口調に戻っている。それは、大事な話をする価値のある相手と認めた証なのかもしれない。

 そして、それを理解しているからこそ、リーシャもサラも、カミュの話を止めようとは思わなかった。

 

「ジパングという国を護る為に、何よりもアンタという娘の為に、アンタの母親は『鬼』となってオロチと対峙した筈だ。この国の行く末をアンタに託して」

 

「…………」

 

 サラは、カミュの話す内容に、この国の『王』の強さと優しさを見た。

 しかし、その隣に立つリーシャの表情は、話が進むにつれ厳しい物へと変わって行く。まるで睨みつけるようにカミュを見つめるリーシャの瞳は細く、何かを言いたげに口を開きかけては閉じると言う行為を繰り返していた。

 

「じゃが、オロチは生きていた。例え、『鬼』となっても、民を護れてはおらぬではないか!?」

 

 カミュに護られるように後ろにいたイヨが、カミュの前に回り、その瞳を見上げ、感情を吐き出す。それは、民と同じようにイヨの中に溜まっていた負の感情。

 『鬼』となったとはいえ、民達を傷つけた事に変わりはない。それでは国主としての責務を全うした事にはならないのだ。

 

「アンタは、あのオロチの姿を見て、何故この国が瞬時に滅びなかったのかと疑問には思わなかったのか?」

 

「な、なに!?」

 

「はっ!」

 

 冷たい視線を民達から外し、イヨの瞳を見下ろしたカミュが、憤るイヨに対して疑問を呈す。それに対し、意表を突かれたイヨは目を丸くし、サラは何かに思い当たった。

 サラの考えている通りの物だとすれば、カミュがこれから語る内容は、このジパングを揺らす程の事実。

 

「オロチが何故、喰らった女王の姿に化け、生贄を一人ずつ要求して来たのか。何故、あれ程の力を持った生物が、この国に生きる人間を滅ぼさなかったのか。その答えは、アンタの母親にある」

 

「ど、どういう事じゃ!?」

 

 カミュの話している内容が解らないリーシャの瞳は、先程と同じように細く研ぎ澄まされ、サラは次の言葉を待つように息を飲む。

 周囲の喧騒が消え、怖い程の静けさが広がっている事に怯えたメルエが、サラの腰に手を回していた。

 

「『鬼』となったアンタの母親との戦いで、オロチはそこまで弱っていたのだろう。それこそ、自身の力だけでこの国の民達を喰らい尽くす自信が持てない程にな」

 

「!!」

 

 一つ息を吐き出したカミュは、もう一度イヨの瞳を見つめ、自身の考えを語り続ける。その言葉は、不思議な力を持ち、狂気に満ちていた民達の顔からそれらを吸い取って行った。

 

「女王との戦いにより、オロチは瀕死の状態にまで追い詰められた筈だ。俺達の時とは違い、首や尾は健在だったのだろうが……だが、オロチを封じ込めた伝承に残る女王と、アンタの母親には決定的な違いがある」

 

「……な、なんじゃ……」

 

 イヨの顔からも『憤怒』という感情は消え、静かにカミュの話に問いかけを投げる。それに応えるかのように、カミュは背中の剣を抜き放った。

 民達が息を飲む音が周囲に響き渡り、緊迫した空気が流れる中、イヨだけはその剣に目を奪われる。

 それは、初代国主の時代に神から賜った宝剣。

 この地に暮らす民達を護る為に与えられた武器。

 『天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)』と伝えられる、国主の『覚悟』の証であった。

 

「最後に放つべき、オロチを封じる一撃の為の武器がない。それは致命的な物だった筈だ。だが、確かにすぐには癒えない傷を与えていた。その傷を癒し、自身の復活の為に、オロチは生贄を要求し、力を取り戻していたのだろう」

 

「……はは…うえ……」

 

 剣を鞘に納めたカミュは、一度後ろに控える三人の仲間達へと視線を移し、再びイヨを見つめる。既に、イヨにはそのカミュの瞳を受け止める力は残されていなかった。

 それでも瞳はカミュから離す事が出来ない。カミュの瞳に映り込む自身の姿が、愛して止まない母親の姿へと変化して行く。

 

「もし、先代女王様のお力がなく、ヤマタノオロチが完全な状態であったのなら、我々にオロチを倒す事が出来たかどうか解りません。我々が成した事は、弱ったオロチに止めを刺しただけです。この国を護ったのは我々ではなく、貴女の母君であられる『ヒミコ』様なのでしょう」

 

「……あ…あ……」

 

 イヨの瞳から、ここ数年間溜め込んでいた物が流れ落ちる。どれ程に哀しくとも、どれ程に悔しくとも、決して人前で見せないと誓った少女の想いが、心に巣食う全ての物を溶かし出したかのように止めどなく流れ落ちた。

 

 最後にイヨに向けられたカミュの言葉は、仮面を被った物ではない。敬意を払うべき相手に向けられた言葉。

 この国を想い、心を捨ててまで立ち向かった女王への敬意。

 決して勝てる相手ではない事を知りながらも、最後まで諦める事なく立ち向かった、本当の『勇者』に向けられた敬意。

 

 それは、イヨだけではなく、狂気に歪み始めた民の心にも響き渡る。息が詰まるような静寂が支配する中、お互いの顔を見比べながら、民達の顔から迷いが消えて行った。

 

「その者の言う通りじゃ! お前達は、イヨ様のお心を疑うのか!? 自らを生贄として捧げ、助けに向かった我ら民の死に、心を捨てて『鬼』となろうとさえしたイヨ様のお心を!」

 

 静けさを破ったのは、一人の老人の声。それは、カミュ達がこの国に入った時の生贄であった『ヤヨイ』と呼ばれる娘の祖父であり、イヨを救う為に灼熱の洞窟内にまで入って来た者達の一人。

 先程までの狂気に搔き消されていた老人の声は、カミュという一人の青年によって作り出された瞬間的な隙間に入り込む。それは、民達の心に残る、誇り高きジパングの魂に火を灯した。

 

「イヨ様はヒミコ様のお心を継がれるお方。イヨ様という太陽がある限りジパングは沈まぬ。そして、その太陽を支えるのが我ら民の使命ぞ!」

 

 老人の言葉に反応を返したのもまた、年老いた男性。ヒミコという女王と共にこの国を盛り立てて来た者達。

 身近にいた女性を失った若者達の心は直ぐには癒えないだろう。それでも、彼らには前へと進める力がある。色々な犠牲の上に立ち、イヨと共に国を造って行くのは、彼らのような若者なのだ。

 

「さぁ、イヨ様」

 

 民の皆が戸惑いの表情を浮かべる中、サラがイヨの背中を押した。

 今、ここで必要なのは、老人達の言葉ではない。

 この国の新たな国主として立つ、イヨという太陽の言葉なのだ。

 

 一歩下がったカミュの横にリーシャが立つ。

 その表情は未だに厳しさを残し、カミュを細めた瞳で射抜いていた。

 

「皆の者……済まぬ」

 

 サラや老人達の期待と反し、イヨは民に向かって深々と頭を下げた。

 老人達の顔にも、落胆に近い感情が浮かび始める。

 しかしそれは、顔を上げたイヨの表情を見て消えて行った。

 

「ヤマタノオロチはもうおらぬが、犠牲となった者達は帰りはしない。だが、妾は生きておる! ならば、妾は犠牲となった者達の為にも、どれ程の困難があろうとこの国で生きるしかない!」

 

 誰もがイヨの言葉に聞き入っていた。

 カミュのような『勇者』の言葉ではない。

 それでも、不思議と心に染み渡る言葉。

 それこそが、『王』の能力なのかもしれない。

 

「妾は、母上のような力を持ち合わせてはいない。妾には皆が必要なのじゃ。妾と共に、この国で生きてはくれぬか?」 

 

「……イヨ様……」

 

 言葉を区切り、民を見渡すイヨの瞳には懇願のような色はない。それは、民の心を確信している訳ではなく、例え賛同を得る事が出来なくともこの国で生きて行く『決意』に漲っていた。

 

「このジパングを導く事の出来るお方はイヨ様以外おられません」

 

「そうですぞ。我らは常にイヨ様と共に」

 

 一人、また一人と民達がイヨの下へと跪く。

 その表情の裏には、様々な想いがあるだろう。

 それでも、全ての民達の顔には『希望』の色が見える。

 この国の行く末への『希望』。

 自身の未来への『希望』。

 

 『哀しみ』は決して消える事はない。

 それでも、彼等の前には未来への道が続いている。

 決して、平坦な道ではないだろう。

 様々な困難が待ち構えているだろう。

 

 彼等の中に残る負の感情はどこかで暴発する可能性もある。

 しかし、それでも彼等は前へと進むのだろう。

 イヨという、太陽の指し示す未来へと。

 

「……良かったですね……」

 

 その光景を見て、サラは涙ぐむ。バハラタの悪夢が過ったサラの思考は、良い意味で裏切られた。それは、大きな商業都市と、小さな島国の違いなのかもしれない。

 この小さな島国で寄り添うように生きて来た民だからこそ、相手の心情を慮り、それを察する事によって円滑な関係を築いて来たのだ。

 不満がない者などいる訳がない。それでも、同じように母親を失ったイヨの心を知り、自身の哀しみを閉じ込める。

 それがジパングの美徳であり、誇りでもあった。

 

「……何かあるのか?」

 

 民達とイヨの姿に目を奪われていたサラの後方で、新たな火種が燃え上がっていた。いつまでも自分を睨んでいるリーシャに、カミュが視線を向けたのだ。

 それが開戦の合図だった。

 

「カミュ……お前は……あれ程にヒミコ殿のお心を察していて尚、オルテガ様を憎むのか?」

 

「!!」

 

 静かに開いたリーシャの口調は、カミュを問い詰めている。その言葉を聞いたカミュの瞳を細められ、表情が能面のように失われて行った。

 サラの傍を離れていたメルエが心配そうに二人を見上げる中、リーシャの口が再び開く。

 

「この国と娘を案ずるヒミコ殿の心と、この世界と息子を案じるオルテガ様の心の何が違うと言うんだ!?」

 

「……アンタに何が解る……」

 

 もはや、カミュの凍りつくような瞳に怯むリーシャではない。

 彼女にとってカミュは、『仲間』であっても、『恐怖』の対象ではないのだ。

 故に、彼女は引き下がらない。

 

「お前こそ、ヒミコ殿の何が解っていると言うのだ!? ヒミコ殿のお心とイヨ殿のお心の全てや、それを取り巻く過去が解っているとでも言うつもりか!?」

 

「……」

 

 カミュがオルテガという名の父親に持つ感情はリーシャには解らない。その感情の裏に潜む、カミュの苦悩や憎悪を知る事も出来ない。

 しかし、それはカミュも同じ。ヒミコとイヨの間にあった事や、このジパングの過去等を彼が知る事は出来ないのだ。

 それでも彼は、イヨに向かってヒミコの想いを語った。それは今、リーシャがカミュに向かってオルテガについて語る事とどれ程の差があると言うのか。それをリーシャはカミュに問いかけていた。

 

「えっ!? あ、あれ? お二人とも、何をなさっているのですか!?」

 

 リーシャの剣幕に驚いたメルエに袖を引かれたサラが、ようやく自分の後ろで繰り広げられている攻防に気がついた。

 リーシャは激昂しているように見えてはいるが、それ程の声を発していなかったのだ。それは、一つに纏まり始めたジパングを考慮したのだろう。それでもメルエを怯えさせ、唯一の味方であるサラを呼びに行かせる程の怒気を孕んでいた事に変わりはない。

 

「カミュ。お前も、もう解っている筈だ」

 

「……ちっ……」

 

 サラが駆け寄った時にもう一度開いたリーシャの言葉を聞き、カミュは舌打ちをして背中を向けた。

 この問題になった時、カミュは以前のように踏み込んで来る足を払う事が出来なくなって来ている。カミュはその事を忌々しく思っていた。彼にも、リーシャの言葉に強く反論できない理由が解らないのだ。

 

「もう、お前がそれを認めるだけなのだぞ?」

 

 背中にかけられる言葉は、先程とは違い、優しく暖かな物だった。

 それがまた、カミュの心を苛立たせる。

 全てを理解し、全てを包み込むような空気を持つ人間を彼は知らない。

 

「おお!」

 

 そんな異様な雰囲気を纏った四人に駆け寄って来る者達がいた。大きく手を上げ、笑みを浮かべながら近づいて来る者達の顔は、数日ぶりに見る船の乗員達だった。

 屋敷の中でイヨが話した通り、彼らもまた、この国を訪れていたのだ。

 

「あれ? 船の方は大丈夫なのですか?」

 

「おお! 必要最低限の人間は残して来たからな」

 

 サラの問いに応える頭目の後ろに何人かの乗員達が駆け寄って来る。その面々は両手に持ちきれない程の荷物を持ち、ふらふらと頼りない足取りで歩いていた。

 

「それは何だ?」

 

「ん? おお。珍しい国に上陸できたからな。色々と仕入れようと思ってよ。しかし、この国は<ゴールド>の貨幣が使えないんだな? 物々交換という方法になっちまったから、大した量は仕入れられなかったけどよ」

 

 カミュ達の下に辿り着いた男達の抱える荷物に興味を示したメルエが、持ち物を覗き込み、苦笑を浮かべた乗員達が荷物を地面に下ろした。その中には、<ジパング>特有の食料や反物などが入っている。

 この<ジパング>に武器屋などはない。基本的に自給自足の国なのであろう。故に、貨幣の感覚もなかった。

 

「結構、良い値で売れると思うぞ。アンタ達にも分け前はあるからな」

 

「えっ!?」

 

 頭目の言葉に、先程までの攻防を忘れたかのように、カミュ達は揃って驚きの表情を浮かべる。実際、頭目が何を言っているのかが理解できなかったのかもしれない。

 思わず声を上げてしまったサラに視線を移した頭目が、笑顔を浮かべながら口を開いた。

 

「ははは。何を驚いているんだ? アンタ方がこの場所に連れて来てくれたんだ。分け前を手に入れるのは当然だろう? それに、俺達だけでは航海すらも危ういしな」

 

「しかし、良いのか?」

 

 笑顔を浮かべているのは頭目だけではない。後ろに控える乗員達も、カミュ達の顔を見て笑顔を見せている。つまりは、そういう事なのだろう。

 それは、あの船に乗る船員の総意という事になるのだ。

 

「まぁ、分け前はそれほど多くはないだろうが、受け取ってくれ」

 

「……有り難く……」

 

 些細な断りを入れる頭目に、カミュは頭を下げた。

 カミュ達の旅には、ゴールドがあって困る事はない。町などでの宿泊費や食費。更には、新たな武器や防具など、使う場所はいたるところに存在するのだ。

 

「さて……名残惜しいが、行くとしよう」

 

「…………ん…………」

 

 先程までのカミュへの怒りを忘れてしまったかのように、リーシャはメルエの手を取ってカミュへと視線を向けた。後方では、未だに民達に囲まれながら泣き笑いのような笑みを溢しているイヨが見える。

 

「そうですね。ここからは、イヨ様のお仕事です」

 

「……ああ……」

 

 振り返ったサラの言葉にカミュも一つ頷き、船員達と共に集落の出口へと歩き出す。この国に訪れる事は今後ないかもしれない。

 いや、カミュの持つ剣の必要性がなくなった時、それを返上する為に訪問する事はあるだろう。その時に、この国はどのような国へと変化を遂げているのか。

 サラは、それがとても楽しみだった。

 

 

 

 民と共に生き、民と共に死す。

 そんな女王が統べる国。

 世界中を探しても、このジパングのような国は存在しない。

 強い魂と、輝く誇りを持つ民が住まう国。

 異教徒の国と蔑まれながらも、人はその国を『日出る国』と称す。

 

 先代女王が楔を打ち込み、勇者一行によって倒されたヤマタノオロチの遺骸は、灼熱の洞窟の入り口付近に埋葬され、そこには小さな祠が建てられる。

 その後、ジパングでは、当代女王によって他種族の住処を無闇に荒らす事は禁じられ、『人』の領分をはみ出さぬように文化を進化させて行く。

 

 時は流れ、ヤマタノオロチを埋葬した場所に立つ祠は、『産土神』の住まう場所として語り継がれて行った。

 ジパングという小さな島国を護る、強き者が眠る場所。

 長きに渡り語り継がれて行く祠には、毎年、鬼となった女性の面が捧げられていた。

 

 それは、また、別のお話。

 

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

これにて第八章は終了となります。
次話は、勇者一行装備品一覧を更新し、遂に第九章です。
頑張って参ります!

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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