新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

103 / 277
ランシール大陸①

 

 

 

 更に数週間の間、カミュ達は海を南下して行く。

 相変わらず、メルエは木箱の上から海を眺め、海鳥の鳴き声に空を見上げていた。魔物の襲来も相変わらずで、多い時には日に数度の頻度。その度に動くのはカミュとリーシャである。

 最初はその事に不満顔であったメルエであるが、最近は魔物が出て来ても杖を構える事さえせず、海を眺めている事もある程だった。

 

「<ランシール>の陸地が見えたぞぉ!」

 

 見張り台から船の先を見ていた男が甲板に向かって叫び声を上げた。その声に、甲板に居た者達の視線が一斉に船の進路先へと向けられる。カミュ達も船首へと移動し、ようやく辿り着いた新たな大陸を目にした。

 

「陽が沈む前には港に着くだろう。アンタ達は下船の準備を進めてくれ」

 

「……わかった……」

 

 頭目の言葉に頷きを返したカミュは、荷物を取りに船室へと向かって行く。それを見たリーシャもまた、目を輝かせて陸地を眺めるメルエの手を引いて準備を急いだ。

 唯一人、サラだけは、小さく見える陸地に何かを感じたのか、暫しの間、船首に残って徐々に見えて来る陸地を眺めていた。

 

 

 

 船を降りたカミュ達は、近場の宿場で身体を休める事にする。宿場と言っても、既に昔の面影はなく、宿屋のように設備が整っている訳ではない。屋根と壁があるだけの馬小屋に似た場所で身体を横たえるだけである。ゴールドを支払う必要はなく、カミュ達の他にも数人の男達が身体を横たえていた。

 

「メルエ、こっちにおいで」

 

「…………ん…………」

 

 宿場の壁付近で動き回る舟虫に興味を示していたメルエを呼び寄せたリーシャは、傍で身体を横にしているサラを一瞥し、苦笑を洩らした。船酔いの経験がないリーシャには解らないが、サラがここまで疲労を露にしている事から、その苦労が理解出来る。

 サラは、基本的に自分の状態を隠す傾向がある。戦いの時も、メルエとは違い、自身の魔法力の残量には見当が付いているのにも拘わらず、それを隠しながら倒れるまで行使していた。倒れるという事実は、メルエもカミュもサラも変わらないのだが、口にしない分、その時の衝撃は大きい。

 静かに眠るサラを見て、リーシャはその辺りも注意して行かなければならない事を自覚するのだった。

 

「カミュ、ここから<ランシール>の村までどのくらいかかりそうなんだ?」

 

「……おそらく、二日程だろう……」

 

 膝の上で丸くなったメルエの髪を梳きながら、リーシャがカミュへと問いかける。その問いに応えたカミュは、<ジパング>の宝剣を横に置き、周囲を注意深く観察していた。

 基本的にこの場所は、人間達が雑魚寝している。その中に女性は一人も見受けられない。若い女性などの旅は、魔物以外にも色々と脅威があるのだろう。リーシャやサラでは、その脅威に屈する事はないといえども、注意をして置く事に越した事はない。特に、彼らの中には幼い少女もいるのだ。

 

「そうか……ん? カミュも眠って良いぞ? お前は船の上では碌に眠っていないからな。見張りなら、私が承ろう」

 

「いや、アンタでは不安だ」

 

「な、何だと!」

 

 一向に眠る様子のないカミュを見て、その胸の内にある警戒感を察したリーシャが気を遣うが、その心遣いは無碍に斬り捨てられる。

 確かに、カミュの言う事も尤もな事であった。リーシャは何度か野営の見張りで眠りに落ちた事がある。例え眠っていたとしても不穏な気配に気付くのであろうが、一抹の不安がある事も事実。特に、今のカミュであれば、一度眠りに落ちれば、深い眠りに落ちる可能性を否定は出来なかったのだ。

 

「……気にする程ではないだろうがな……」

 

「そうだな。だが、サラのような若い女性や、メルエのような幼い子供がいる以上仕方がないだろうな」

 

 先程のカミュの失礼な一言も、その胸の内にある警戒感から来た物であると納得したリーシャは、湧き上がった怒りを抑え、カミュへと答えを返す。その答えを聞いたカミュは、何故か不思議そうな表情を浮かべ、リーシャへと視線を動かした。

 実際のところ、カミュの表情はほとんど変化していない。だが、リーシャには僅かな表情の変化が、何となくではあるが読み取ることが出来ていた。

 

「な、なんだ? 私は変な事を言ったか?」

 

「いや……アンタは若い女性に含まれる事はないのか?」

 

 カミュの疑問。それは、リーシャには衝撃的だった。

 『戦士』として、『騎士』としての誇りを持つリーシャは、戦いの場では女性である事を捨てていたと言っても過言ではない。しかし、日常生活の中では、自身が女性である事を意識しているし、その事実に嫌悪した事もなかった。ただ、カミュ自体がリーシャを女性として見ていたという事に純粋な驚きを見せたのだ。

 少し考えてみれば、過去にそのような小さな配慮がなかった事もない。だが、メルエに対する程の配慮があったとも言えなかった。先程の『アンタでは不安だ』という言葉は、女性であるリーシャを残す事への不安を含んでいたとリーシャは考えたのだ。

 

「な……た、確かに私も女だが……」

 

「まぁ、アンタを女性として考えた者の末路は考えたくもないがな」

 

 少し慌てたリーシャの視界に、口端を上げたカミュの顔が映る。『からかわれた!』という想いと共に、リーシャの頭に血が昇って行った。

 色恋とは無縁でここまで生きて来たリーシャは、男女の駆け引きなどは全く理解出来ない。しかし、それは目の前で口端を上げているカミュも同様であろう。

 アリアハンを出た頃では考えられない会話。それは、彼等がここまで歩んで来た旅路で培って来た物。

 相手の心を見ようともしなかったリーシャではない問いかけに、それに対して斬り捨てるだけであったカミュの対応でもない。それは、彼等二人だけの話ではないだろうが、この二人の心の距離が縮まっている事もまた事実であった。

 

「……アンタは休め。ここから<ランシール>までの道中では、アンタに見張りを頼む」

 

「ぐっ……わかった」

 

 口元を戻したカミュの表情を見て、リーシャはしぶしぶ頷きを返した。既に外は闇の支配が進み、カミュの顔をはっきりと認識する事は出来ない。その瞳の鋭い光が、リーシャに向けられた後、警戒するように動いて行く。

 メルエを抱き抱えるように横になったリーシャは静かに瞳を閉じて行った。

 

 

 

 翌朝、船から数人の船乗りが降りて来るのを待ち、カミュ達一行は船着き場を出て、平原を南西へと向かって歩き出す。いつも通り地図を持ったカミュを先頭に、メルエの手を握ったサラ。その後ろを、物資を持った船員達。そして、最後尾にはリーシャが歩いていた。

 

「メルエちゃんも普通に歩くのだね」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの後ろを歩く船員達の一人が、それ程遅くはない速度で歩くメルエに感嘆の声を上げ、それに対して誇らしげに胸を張るメルエを見たサラが優しく微笑む。もしかすると、船員達の中では、メルエは戦闘などが出来ないと考えられているのかもしれない。自分達と同じように、カミュ達にとってもマスコット的な存在として同道していると思っている者もいるのだろう。

 

「あまりメルエを軽視していると、度肝を抜かれるぞ」

 

「えっ?」

 

 そんな船員達の心を察したのだろう。リーシャが苦笑を浮かべながら船員達に忠告を施す。カミュの有する<ライデイン>という魔法を間近で見ている彼らであれば、メルエの魔法を見ても恐怖に駆られる事はないだろうが、メルエに対する態度が小さくとも変化してしまう事をリーシャは恐れたのだ。

 

「……下がっていろ……」

 

 メルエの真価が発揮される場面は意外に早く到来した。立ち止まったカミュが船員達に声をかけ、背中に差している<草薙剣>へと手を伸ばしたのだ。

 それが示すものをリーシャとサラは素早く理解する。緊迫した空気にメルエも杖を手に持ち身構えた。その姿を見た船員達は、若干の驚きを表すが、すぐに指示通り後ろへと下がる。

 

「四体か……カミュ、どうする?」

 

「……初めて遭遇した魔物でもない筈だ」

 

 遭遇した魔物は<ゴートドン>。バッファローと山羊の亜種である。カミュの言うとおり、以前、<テドン>周辺で遭遇した事がある魔物。

 <マッドオックス>の上位種である魔物であるが、それ程の差はない。今のカミュ達から見れば、苦労をする相手でもないのだ。

 

「…………メルエ………やる…………」

 

 カミュの言葉に頷いたリーシャが斧を構えた時、前回<ゴートドン>を撃退した少女が口を開いた。杖を持ち、見上げるようにカミュへと向けられた瞳には強い光が宿っている。

 それは、自分の力を誇示する為のような物ではない。それがカミュにも理解は出来た。

 

「……いや……メルエは俺達が獲り逃がした魔物から彼等を護ってくれ」

 

「…………むぅ…………」

 

 しかし、カミュは何かを訴えているメルエの瞳から視線を外し、静かに首を横に振る。それがメルエには不満で仕方がない。

 頬を膨らませるメルエを無視するように、カミュはサラへと視線を送った。その瞳の持つ意味を理解したサラは、カミュへ向けて一つ頷きを返す。

 

 メルエであれば、<ゴートドン>を一掃できる事は知っている。それはカミュだけではなく、リーシャもサラも同様。

 ならば何故、メルエに魔法を行使させないのか。それは、先程リーシャの胸に湧き上がった小さな不安が示していた。

 メルエは、基本的に船の上では魔法を行使しない。時折行使する<ヒャド>系の魔法も、サラの指示通りに威力を調整した物であった。それは、船という移動手段を傷つけない為という理由の他に、もう一つの理由があるのだ。

 

 『尋常ではないメルエの魔法力の漏洩』

 

 それをカミュ達三人は恐れていたのだ。

 カミュならば良い。どれ程に強力な魔法を行使しようと、彼は『勇者』であるのだ。

 『勇者ならば、このくらいは当然』、『<人>の救世主である勇者なのだから、敵になる事はない』。そういう先入観がある以上、多少の恐怖が残っても、船員達が離れて行く事はないだろう。

 サラは『賢者』であり、神魔両方の魔法を行使しても『魔道書』の魔法に関しては、未だに修行中である。その種類は多くとも、威力に関しては『人』の枠を超える事はなかった。

 

「メルエ、カミュ様達に任せましょう? ここから二日間も歩くのです。メルエの体力や魔法力は残しておかないと。いざという時にカミュ様やリーシャさんを護れませんよ?」

 

「…………むぅ…………」

 

 しかし、今むくれている幼い少女は別である。彼女の正確な歳はカミュ達にも解らない。出会ってから一年を経過してはいるが、生まれてからそれまでに何年を過ごして来たのかを知らないのだ。

 それでもメルエの姿を見る限り、彼女の歳が二桁に届いていない事は間違いないだろう。そんな幼い少女があの威力の魔法を唱えた時、通常の者であれば、声を失う。そして、未知の者として恐れる筈。

 <ジパング>での戦闘では、民達の心はカミュ達への恐れよりも、<ヤマタノオロチ>が倒れた事への歓喜と、その事による国主への疑惑が勝っていた。

 皇女であるイヨに関しては、既に心は決めていた為、カミュ達への恐れを抱く事はなかっただけなのだ。

 もし、ここでメルエが『悟りの書』に記載されている魔法を行使した場合、船員達がメルエに向けている視線が変化する可能性を捨て切れない。それは、カミュやリーシャにとって耐えられない事だった。

 他人からの好意を知ったメルエは、その視線の変化をどう感じるだろう。哀しみ、苦しみ、涙するかもしれない。

 そんな可能性を幼いメルエは気付かないのだ。むしろ、『皆に褒めて貰う為に魔法を行使する』と意気込んでいるのかもしれない。故に、その可能性を考慮に入れる事は、保護者であるカミュやリーシャの仕事であった。

 

「カミュ、来るぞ」

 

 リーシャの呟きと共に、バッファローの角を前面に押し出した<ゴートドン>が駆け出して来る。<ゴートドン>の数は四体。その全てが一斉にカミュ達へと向かって来たのだ。

 <鉄の斧>を構えたリーシャが待ち構えるようにサラの前に立つ。その姿を確認したカミュは、<草薙剣>を掲げ、猛然と<ゴートドン>へと突進して行った。

 

「ブモォォォォォ」

 

 先頭で駆けて来た<ゴートドン>の角を<鉄の盾>で受け流したカミュは、そのまま<草薙剣>を振り下ろした。

 カミュの手と一体化したように抵抗なく滑る<草薙剣>は、決して細くはない<ゴートドン>の首に吸い込まれ、一瞬の内に胴体から斬り離してしまう。その光景を見た後続の魔物達は驚きで足を止めてしまった。

 

「いやぁぁぁぁ!」

 

 <草薙剣>の斬れ味に若干の驚きを見せたリーシャであったが、そこは『戦士』。一瞬の内に意識を切り替え、足を止めてしまった<ゴートドン>目掛けて斧を振り下した。

 鋭い角と角の間にある眉間に突き刺さった<鉄の斧>は、深々と脳を抉り、魔物を地へと沈める。

 

「ラリホー」

 

 人々が恐れる魔物といえども、<ゴートドン>程度では、世界最強の種族である『龍種』を打倒したカミュ達の敵にはならなかった。

 瞬きをする間に斬り伏せられた同族を見て固まってしまっている<ゴートドン>に向かって詠唱されたカミュの呪文は、魔物達の脳神経を確実に蝕み、その意識を刈り取って行く。

 

「Zzzzzz」

 

 大きな音を立てて、地面へと崩れて行った二体の<ゴートドン>は、そのまま眠りについてしまった。

 血糊を振り払い、剣を鞘へと納めたカミュは、後ろで唖然としている船員達へ視線を送り、再び歩き出す。未だに頬を膨らませていたメルエは、カミュの許へと駆け寄り、そのマントの中へと潜り込んでしまった。

 

「さあ、行きましょう」

 

「あ、ああ」

 

 カミュ達の圧倒的な強さを目の当たりにした船員達は、サラの促しに小刻みに首を縦に振る。彼等も船上での戦いを目撃はしていた。しかし、船上では剣を振るう回数の少なかったカミュやリーシャの動きに改めて驚いていたのだ。

 

「リーシャさんも行きましょう」

 

「そうだな」

 

 斧を背中にかけたリーシャへサラの促しが響く。その声に軽く頷いたリーシャであったが、何かを思い、小さな微笑みを浮かべた。

 微笑みを浮かべながら向けたリーシャの視線の先には、横たわる<ゴートドン>。眠りに落ちているだけで、決して命を失っている訳ではない魔物。

 船員達の中の数人の心にも、同じような疑問があるのかもしれない。

 

 『何故、魔物をそのままで放置しておくのか?』

 

 それは、以前のサラであれば許す事の出来ない行為。そして、リーシャもまた、そんなカミュの行為を糾弾した事があったのだ。

 しかし、今のサラは、魔物を起こさないように歩いている。

 まるで、その命を尊ぶように。

 

「変われば、変わるものだな……」

 

 既に魔物の脇を通り過ぎたサラの背中を見つめながら、リーシャは独り言のような呟きを洩らした。その呟きは誰の耳にも届かず、吹き抜ける風に乗って霧散して行く。

 空を見上げると、太陽は真上を過ぎ、前を歩くカミュの方角へと傾きかけていた。リーシャの目に映るその光景は、まるでカミュが太陽へ向かって歩いて行くように見える。太陽に吸い込まれて行くように。

 

 

 

 一行は、その後何度かの戦闘を繰り返しながら、真っ直ぐ西へと歩み続ける。その間の戦闘でもメルエの魔法の出番はなく、メルエの頬は常に小さく膨らんでいた。

 夜の帳が下り始めた頃に、近場の森の入口で野営を行い、陽が昇ると同時に再び歩き始める。そして、船着き場を出てから二日目の太陽も陰りを見せ始めていた。

 

「カミュ、今日はここまでにしよう」

 

「……わかった……」

 

 進行方向の大地に太陽の半分が入り込んでしまった頃、最後尾を歩いていたリーシャがカミュへと声をかける。一度地図へと視線を落としたカミュではあったが、後方を歩く船員達の表情を見て、首を縦に振った。

 慣れない徒歩での移動で、船員達の顔には疲労が浮き出している。眠そうに目を擦っているメルエの姿も決断の要因の一つであろう。

 

「では、その木々の根元で火を熾そう」

 

「メルエ、行きましょう?」

 

「…………ん…………」

 

 サラの伸ばす手を握ったメルエが歩き出すのを見て、船員達に安堵の表情が漏れる。小さな溜息を吐き出したカミュが船員達の後ろを歩き始めた時、カミュの視界の端に奇妙な影が映り込んだ。

 それは、リーシャが入って行った森の木々の隙間。瞬時に警戒感を露にしたカミュが背中の剣を抜き放つ。

 

「魔物か!?」

 

 剣を抜き放つ音を聞いたリーシャがメルエを庇うように前に立ち、背中にある<鉄の斧>を手に取った。

 ようやく落ち着けると安堵していた船員達の身体が固くなるのを見て、サラがそれを落ち着かせるように前に出る。先程まで眠そうに目を擦っていたメルエも杖を手に取り、カミュが剣を構える方向へと身体を動かした。

 

「キィィィィ」

 

「え!?」

 

 警戒感を露にした一行の前に奇声を上げて出て来たのは、一体の魔物。いや、見た目であれば魔物ではなく『人』に限りなく近い。

 顔の部分に奇妙な仮面を着け、手を大きく空へと掲げている。身体は藁のような物を纏っており、周囲の人間を煽るように身体を揺らしている。その奇妙な姿にサラは驚き、素っ頓狂な声を上げた。

 

「サラ、油断するな! 何をして来るか解らないぞ!」

 

「は、はい!」

 

 気を緩めてしまいそうになるサラに向けてリーシャの檄が飛ぶ。瞬時に心を立て直したサラが相手の出方を探るように鋭い視線を魔物へと向けた。

 手を天に翳すように掲げる姿は、何かに祈りを捧げているようにも、カミュ達を威嚇しているようにも見える。言語を話さず、次第に距離を詰めて来る辺り、『人』ではないのかもしれない。それでも、万が一にも『人』であったらと、サラは動けずにいた。

 

「それ以上近寄るな!」

 

「キィィィィ」

 

 リーシャも同じ思いだったのだろう。

 アリアハン大陸で遭遇した<魔法使い>ならば、魔物討伐で何度か遭遇した事がある。アッサラームで戦った<ベビーサタン>は見るからに魔族である事が理解出来た。しかし、目の前にいる魔物は、一見すれば奇妙な姿の『人』なのだ。

 故に、リーシャは威嚇の為に<鉄の斧>を振い、もう一度距離を取る。しかし、言葉を理解出来ないのか、魔物は奇声を上げながら、また一歩足を踏み出した。

 

「ふん!」

 

 その踏み出した一歩は、このパーティーのリーダーである青年の胸の内にある安全圏を越えてしまっていたのだ。

 手にした剣を袈裟斬りに振り下ろし、カミュは目の前に迫る魔物を斬りつける。<草薙剣>という、ある土地での宝剣は、痛みすら感じない内に目の前の魔物の肩から胸にかけてを浅く抉った。

 

「キィィィィィ!」

 

 魔物の叫び声と共に、斬り口から体液が噴き出す。カミュの動きを見て、踏み出しを躊躇した為、魔物の傷は死に至る物ではなかった。

 それでも重症である事に変わりはない。蹲るように膝を折る魔物の姿に、サラは追い打ちの魔法を唱える事を躊躇した。躊躇するサラの後ろに控えていたメルエは、その攻防が見えてはいない。

 

「&=%$」

 

 追い討ちをかけて来ないカミュ達を嘲笑うかのように、その魔物は傷口に手を当て、何かを唱える。その奇声は先程の物とは違い、明らかな呪文の詠唱だった。

 翳した二の腕までを淡い緑色の光が包み込み、噴き出していた体液を止め、傷口を塞いで行く。

 

「ベ、ベホイミですか?」

 

「ちっ!」

 

 魔物が『経典』に記載されている呪文を行使する姿は何度も見て来た。しかし、サラはその光景が何度見ても慣れない。ただ、その驚きの内にある内容は、以前とは異なっているのだが、サラ自体はそれに気が付いていなかった。

 

「キキィィィィ!」

 

 舌打ちと共に再度駆け出したカミュの剣先が届く前に、その魔物は呪文の行使とは異なる奇声を上げる。一瞬、状態異常を来す魔法かと身構えたカミュであったが、カミュやリーシャ等に変化は見られない。

 その短い空白の時間が、形勢を大きく変化させた。

 

「うっ!」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 呆然としていたリーシャの鼻に突き刺さる異臭。それは、何度か嗅いだ事のある臭い。その悪臭を憶えていたメルエは、サラの背中に顔を埋めてしまう。何かから逃れるようにしがみ付くメルエを見たサラは、周囲を警戒し始めた。

 

ズズッ

 

ボコッ

 

 一度後ろに飛び下がったカミュは口元を押さえながら前方に視線を送っていたが、それは予想外の場所から現れた。

 カミュ達が野営を始めようとしていた森の奥から響く何かを引き摺る音と腐敗臭。それは、これから何がカミュ達の目の前に現れるのかを明確に示していた。

 

「カミュ!」

 

 リーシャの叫びと共にもう一度後方へ飛んだカミュの元居た場所から湧き出して来た腕は、肉が腐り落ち、骨が見え隠れしている。

 バハラタ地方で何度か遭遇した<腐った死体>。

 それが地面の中と森の中から一体ずつ現れたのだ。

 

<シャーマン>

下級から中級に位置する魔族の一つ。古くは異端者が魔に落ちたとも云われているが、真相は定かではない。

『人』がこの世界に生まれた頃、まだ国という概念はなかった。ただ、『人』が集まれば、その方向性を示す人間が必要である事に変わりはない。その頃に神の言葉を聞き、天候すらも動かす事の出来る者が<シャーマン>と呼ばれ、『人』の行動の指針を示していた。

だが、次第に『人』は数を増やし、世界を広げ、そしてそれを纏める国が出来上がる。教会ができ、エルフ等から教えられた『精霊ルビス』という存在が世界に広まると、神や『精霊ルビス』から『人』の守護という命を受けた者は王族となり、<シャーマン>という存在は薄れて行く事となったのだ。

 

「キィィィ」

 

 <シャーマン>の合図と共に、二体の<くさった死体>はカミュ達へと近付いて来る。まるで<腐った死体>を盾にするように後ろへと下がった<シャーマン>には剣が届かない。魔法による一掃をするにしても、メルエはサラの背中に顔を埋めたまま。

 徐々に近づく<腐った死体>の腐敗臭と死臭が、カミュやリーシャの意識を奪って行った。

 

「うおぇ」

 

 漂う悪臭に嗚咽を漏らしたのは、カミュ達の後ろに控えている船員達。初めて見る動く腐乱死体は、船員達の精神を崩壊させるだけの威力を誇っていた。

 腐り落ちている肉や、こぼれ落ちそうな眼球。言語を失ったような呻き声。その全てが夜の闇と相まって『恐怖』へとすり替わって行くのだ。

 

「カミュ、燃やす事は出来ないのか!?」

 

「……俺の持つ<ベギラマ>程度では、足止めにしかならない……」

 

 近付く<腐った死体>牽制しながら叫ぶリーシャに返って来た答えは、期待していた物とは異なった。

 確かに、カミュは<ギラ>の上位魔法である<ベギラマ>を習得している。おそらく『賢者』となったサラも既に習得しているだろう。しかし、カミュの言うとおり、カミュやサラの<ベギラマ>では、『人』を燃やす事は出来ても、元『人』である魔物を燃やし尽くす事は出来ないのだ。それが出来るのは、このパーティーで唯一人。

 

「…………うぅぅ…………」

 

「駄目だ。ここでメルエに頼る訳にはいかない。何とかならないのか?」

 

 リーシャの視線の先には、サラの背中に顔を埋めながら唸る幼い少女。

 既に世界最高の『魔法使い』となった彼女であれば、<くさった死体>どころか、その後ろで奇妙な動きを繰り返す<シャーマン>すらも消滅させる事が出来るだろう。だが、リーシャはそれを容認出来ない。

 メルエに無理をさせたくないと言う想いとは別に、哀しい想いもさせたくはないのだ。

 

「……わかっている……だが、あの腐乱死体だけを葬った所で、何度も呼び出されては堪らない」

 

「くそ!」

 

 手を伸ばして来た<くさった死体>の腕をリーシャは<鉄の斧>で斬り落とした。瞬時に広がる腐敗臭。既に血液ではなくなった腐った体液が飛び散り、その悪臭を撒き散らす。

 口元を押さえ、目が涙で潤んで行く事を抑えきれない一行は、また一歩と後ろへと下がってしまう。それは、<シャーマン>との距離が広がってしまっている事を意味していた。

 

「わ、わたしが<ニフラム>を唱えてみます。『人』であったとは言え、生を失った者。二体同時には厳しいかもしれませんが、何とかしてみます。その隙にカミュ様達は、あの魔物を!」

 

「……わかった……」

 

 <ニフラム>という魔法の本来の使用方法は、彷徨う死者の強制昇天。問答無用で天へ還す手段なのである。その魔法が、教会の僧侶を僧侶とする物でもあるのだ。

 『人』として苦痛の中で死を迎え、本意ではなく魔物となったであろう<腐った死体>をそのような形で葬る事に抵抗があるのだろう。サラの表情は若干の陰りを見せていた。

 その微かな変化を見逃さないカミュが小さく頷きを返し、リーシャへと視線を送る。そして、リーシャも頷きを返した。

 

「行くぞ、カミュ!」

 

 カミュとリーシャが同時に<シャーマン>へ駆け出した。動きが緩慢な<腐った死体>の横をすり抜け、リーシャとカミュが<シャーマン>へと肉薄する。その瞬間、カミュ達の後方で聖なる光が夜の闇を明るく照らし出した。

 

「ニフラム」

 

 片手を天に掲げたサラの詠唱が響き、二体の<腐った死体>の周囲を円で囲むように光が浮き上がる。緩慢な動きしか出来ない<腐った死体>はその光から逃れる事は出来ず、徐々に光が天に昇るのと共に、身体の一部も粒子となって天へ還って行った。

 既に腕が粉のように消え、頭の半分も消え始めているが、二体同時に昇天させる負担は大きいのであろう。サラの顔は苦痛を感じているように歪んでいた。

 

「やぁぁぁぁ」

 

「キィィィ」

 

 後方の光を感じたリーシャは、<鉄の斧>を振り抜く。予想以上に素早い<シャーマン>は、その斧を辛うじて避ける事に成功した。

 しかし、攻撃はそれだけではない。避けた方向には既にカミュの<草薙剣>が斬り込まれていた。

 

「キィィィィ!」

 

 苦悶の声を上げた<シャーマン>の二の腕から下が宙に舞う。脇腹にも大きな切り傷を作り、体液が周囲に飛び散った。

 息も吐かせぬ攻撃は尚も続く。リーシャの斧は腕を押さえる<シャーマン>の胴を横薙ぎに斬りつけた。しかし、その完璧な間合いは、予想外の<シャーマン>の動きで空を斬る事となる。

 腕を失い、後方へ下がろうとした<シャーマン>が足をもつらせて転倒したのだ。

 突然消えた敵にリーシャの斧は空を斬り、相手を確認する為の空白の時間が生まれる。その僅かな時間は、<シャーマン>に回復と召喚の時間を与えてしまった。

 

「キキィィィ!」

 

 既にサラの唱える<ニフラム>によって二体の<腐った死体>は天に召された。周囲の瘴気すらも浄化するような聖なる光によって、悪寒を覚える程の悪臭も共に消え失せている。

 そこに再び叫ばれた奇声。

 再び漂い始める不穏な空気と悪臭。

 それは、カミュとリーシャの顔を後悔で歪ませ、サラの顔を苦悶で歪ませるには充分な物であった。

 

「くそっ! カミュ、あの魔物を先に倒さなければ、永久的に呼ばれ続けるぞ」

 

「わかっている……ちっ!」

 

 リーシャの声に頷いたカミュの足下から飛び出してくる腕。それは、『人』の成れの果てである魔物の再登場を意味していた。

 この時代、『人』はあらゆる所で生を終えている。魔物に襲われ命を落とした者。食料がなく行き倒れ、そのまま餓死してしまった者。中には、盗賊等と争い命を落とした者もいただろう。

 そういう無念を持った死体を再び現世に呼び戻す術を<シャーマン>は持っているのだ。

 

「カミュ様、もう一度ニフラムをとなえ………リーシャさん、下がって!」

 

 <シャーマン>とカミュ達の間に割って入って来た二体の<腐った死体>は、カミュ達へとゆっくりと近付いて来る。

 再び<シャーマン>との距離を離されたカミュは盛大な舌打ちをし、リーシャは斧を構え直した。後方では、先程行使したばかりの強制昇天呪文の再行使を提案するサラの声が聞こえていたが、その言葉は途中で焦燥感に駆られた忠告に変化する。

 不思議に思い振り返ろうとしたリーシャの腕は強い力で引かれ、そのまま横倒しで押し倒された。

 

「…………ベギラマ…………」

 

 リーシャを押し倒した青年の背中を熱風が吹き抜ける。リーシャの髪の毛を焦がす程の熱量。リーシャの顔のすぐ傍にある端正な顔は苦痛に歪み、その身に纏っている鎧に触れる事が出来ない程の高熱を宿して行った。

 

「うぁうぅぅ」

 

「キィィィィィ」

 

 カミュ達の上を吹き抜けた熱風は<腐った死体>の身体に衝突した瞬間に弾け、周囲を炎の海へと変えて行く。

 瞬く間に二体の腐乱死体を飲み込んだ炎の波は、後方で唖然としていた<シャーマン>をも飲み込み、その身体を焼き尽くして行った。

 メルエは、テドンで<マジカルスカート>を購入してから、灼熱呪文を行使した事はなく、<ヒャド>系の氷結呪文や<メラ>系の火球呪文のみを行使して来ていたのだ。

 船という移動手段を持ったカミュ達にとって、メルエの誇る灼熱呪文は脅威に値する程の威力。例えメルエが氷結呪文の方を得意としていたとしても、サラやカミュの魔法では足元にも及ばない事は事実であるが故に、船上で行使する機会はなかった。

 ジパングに於いても、相手が溶岩の洞窟にいた以上、<ベギラマ>等の呪文に効果が出るかも怪しかった為、サラはメルエに指示を出さなかったのだ。

 

「おお……」

 

「凄い……」

 

 暫くの間、森には炎が燃える明かりが闇を退け、生きている者が燃える不快な臭いが漂う。静けさが支配する森の入口で、燃え盛る炎の音だけが響く中、カミュ達の戦いを呆然と見ていた船員達が各々の感想を小さく口にした。

 彼等の顔に浮かんでいるのは様々な感情。それは、カミュやリーシャ、そしてサラが恐れていた感情も隠れていたのかもしれない。だが、それをサラが確認する時間は与えられなかった。

 

「サラ! 早くカミュの治療を!」

 

「は、はい!」

 

 前方で上に乗るカミュを動かし、身体を出したリーシャが、カミュの容体を見てサラを呼んだのだ。

 メルエの放つ灼熱呪文をまともに受けた訳ではない。だが、規格外の『魔法使い』が放つ魔法は、その余波だけでも『人』を死に至らしめる力を有していた。

 カミュの背中は、未だに赤く変色した鎧で焼け爛れているだろう。これが、魔法にも耐性を持つ<魔法の鎧>でなかったとしたら、彼の背中を護る鎧は溶け、そのまま熱風を地肌に浴びていたのかもしれない。

 

「…………カミュ…………」

 

 倒れ伏すカミュと、それを治療するサラを見たメルエは、倒れている青年の名前を口にしながら、『とてとて』と駆け出した。メルエが近付くと、サラはカミュの鎧に<ヒャド>を唱え、その熱を冷やしている。

 冷やし終えてから鎧を取り、背中を見てサラは息を飲んだ。

 カミュの背には、大きな一筋の傷があった。それは何かで斬りつけられたような物であり、その塞がり具合を見れば、近年で出来た物ではないだろう。かなり昔に付けられた傷。

 傷が深かった為なのか、それとも治癒魔法が未熟だった為なのか、その傷跡は青年の背中に色濃く残っていた。

 

「ベホイミ」

 

 既に治っている傷跡を消す事は出来ない。サラの唱える淡い緑色の光は、カミュの背中を包み込み、火傷によって爛れた皮膚を再生して行く。だが、大きな一筋の傷跡だけは修復されなかった。

 暫し、その傷跡を見ていたリーシャとサラであったが、近くに寄って来たメルエに気付いたサラは、表情を引き締め、メルエに厳しい視線を送った。

 

「メルエ! 何故、私の指示を待てなかったのですか!?」

 

「!!!」

 

 突如ぶつけられたサラの激昂。それは、メルエにとって初めての物。

 以前、リーシャが<メダパニ>に罹ったダーマ周辺でも、サラの厳しい叱責を受けた事があるが、あれは怒りではなく、注意であった。

 今のサラの顔に浮かぶのは、明確な『怒り』。

 これ程の怒りをカミュ以外にぶつけるサラをリーシャも未だに見た事はないのだ。

 

「サ、サラ……」

 

「リーシャさんは黙っていて下さい! メルエ、答えなさい! 何故、あの時に<ベギラマ>を唱えたのですか!?」

 

 サラを止めるように口を開いたリーシャの言葉は、最後まで紡がれる事無く、サラによって押し込められてしまう。

 メルエに向かって告げられた言葉は命令形。それは、この旅に出てから初めて聞いたサラの口調。どれ程にカミュへ憤りを感じていても、どれ程の罵声を浴びせられても、サラは一度たりとも口調を崩した事はない。

 それが、サラの怒りの度合いを示していた。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 感情的になっているサラを止める事は、リーシャにも難しい。そして、サラが感じている怒りの内容にも気が付いているだけに、リーシャは止める事が出来なかった。

 初めて見るサラの剣幕にメルエは怯え、俯きながら唸り声を溢す。手には既に<魔道士の杖>はなく、その両手は<テドン>で購入した<マジカルスカート>が皺になる程に握り締められていた。

 

「メルエ!」

 

「…………くさ………かった…………」

 

 再度上げられたサラの声に、既に涙声になってしまったメルエの小さな呟きが零れた。その言葉を何とか聞き取ったサラとリーシャは、呆れたように顔を歪ませ、そして再び表情を引き締める。

 臭いに我慢出来なかったメルエは、サラの<ニフラム>によって臭気までも浄化されたあの短い時間で詠唱を始めていたのだろう。そこで再び悪臭の原因が登場した事によって、その詠唱を完成させてしまった。

 しかし、それはサラにとって許してはいけない行為だった。

 

「わかりました。ここから先、メルエの魔法を禁止します。カミュ様には、私の方から話しておきます」

 

「サ、サラ」

 

「!!…………いや…………」

 

 リーシャは驚いた。まさか、サラがこのような言葉を発するとは思わなかったのだ。

 カミュがメルエに通告する事はあった。しかし、サラがここまで傲慢な物言いをした事はこの旅の中で一度もない。

 メルエの魔法を禁止する資格があるかどうかという問題ではなく、メルエという幼い少女への愛情がサラの物腰を柔らかくしていたからだ。

 

「メルエ……メルエの魔法は、魔物だけではなく、大事な人の命さえも奪ってしまう可能性がある事を知ってください。それを理解出来まで魔法を行使する事は禁止します」

 

「…………いや…………」

 

 真っ直ぐ見つめるサラを見たメルエは、『ぷいっ』と顔を背けてしまう。

 カミュやリーシャに言われたのならば、メルエは自分の行為の中にある非を感じ、素直に頭を下げたのかもしれない。だが、良くも悪くもサラはメルエにとって一番近い位置にいる姉なのである。故に、顔を背け、反抗の意思を示した。

 

「……メルエ……メルエは今、カミュ様を殺してしまうところだったのですよ? メルエはカミュ様が死んでしまっても良かったと言うつもりですか?」

 

「…………いや…………」

 

 諭すような口調に変わったサラの方へ視線を戻したメルエは、小さく否定の言葉を溢して俯いてしまう。そんなメルエの傍に近寄ろうとしたリーシャは、再び足を止めてしまった。

 実は、何度かリーシャは仲裁に入ろうとしていたのである。しかし、その度にサラの強い視線を受け、その足を止めるしかなかったのだ。

 

「メルエには、何度も話した筈です。<ヤマタノオロチ>と戦っていた時も、メルエは自分の行使する魔法の強さを見ていたではありませんか? メルエが持つ魔法の才能を疑った事はありません。船の上では魔法力を調整して船に被害が出ないように<ヒャダルコ>を唱えていた筈でしょう?」

 

「…………むぅ…………」

 

 魔物を倒した筈なのに責められている事にメルエが頬を膨らませる。メルエも心の中では理解しているのだろう。後方からのメルエの魔法に関しては、何度かサラの注意を受けた事がある。それは少しずつではあるが、メルエの心の中でしっかりとした形を作り始め、理解をし始めているところだった。

 だが、如何せんメルエは幼い。ようやく心を開く事ができ、我儘も言い始めたこの少女は、サラの叱責を素直に受け入れる事が出来なかった。

 

「メルエは今後、ますます強力な魔法を覚えて行く筈です。今のままでは、カミュ様だけではなく、リーシャさんや私までを巻き込んでしまう可能性だってあるのです。以前のように、魔法でメルエの身体が傷つくのなら私が癒します。ですが、メルエの魔法でカミュ様やリーシャさんの命が危ぶまれたり、メルエ自身の命が危機に晒されるのだとすれば、メルエと一緒に旅する事は出来ません」

 

「!!」

 

「サ、サラ……」

 

 明確な言葉を発したサラをリーシャとメルエは驚いた顔で見つめていた。サラの瞳は真っ直ぐにメルエに向けられている。その視線を受けたメルエは、一瞬眉を下げたのだが、すぐに頬を膨らませた。そして、再び『ぷいっ』と顔を背けてしまう。

 まるで『サラに言われる筋合いなどない』とでも言うように顔を背けたメルエを見て、サラは大きな溜息を吐き出した。

 

「……そうですか……メルエには解って貰えないのですね。その様子では、カミュ様やリーシャさんが何故メルエを戦いに参加させなかったのかという理由も分からないのでしょうね……」

 

「サラ、それは……」

 

 ここでようやくリーシャは口を開いた。カミュやリーシャの考えていた事をサラが理解していた事にも驚いていたのだが、『賢者』と呼ばれるサラが気付いていない訳がない。だが、それをメルエに求めるのは余りにも酷であろう。

 『それはメルエに解る訳がない』

 その言葉を発しようとしたリーシャの口は半ば強制的に閉じられる形となる。

 

「マホトーン」

 

 メルエの頭に翳された手から発したサラの魔法力が、メルエの身体を包み込む。その魔法の名前と効力は、リーシャだけではなくメルエも知っていた。

 魔法を封じる魔法。その魔法に彼等は何度も苦しまされた。

 敵の使う<マホトーン>によって魔法を封じられたメルエは戦闘では何も出来ず、ただ戦闘を行うカミュ達三人を眺めている事しか出来なかった。行使出来るのにカミュの指示で出来ないのではなく、物理的に行使する事が出来ないようになるのだ。

 それを理解したメルエの顔が『恐怖』で青ざめて行く。

 

「…………いや………いや…………」

 

「メルエは、今回の事を少し考えて下さい」

 

 サラの纏う<魔法の法衣>を掴んだメルエは、懇願するようにサラを見上げる。しかし、サラの口から返って来た言葉はとても冷たく、メルエを突き放すような物だった。

 いつもと違うサラの態度は、メルエが持っていた余裕を全て奪い取って行く。

 

『むくれていれば、許してくれる』

『リーシャがきっと助け舟を出してくれる』

『嫌いと言えば、サラは慌てる』

 

 そんなメルエの考えは跡形もなく砕け散った。

 何がこれ程サラを強硬にしたのかは解らない。だが、メルエの瞳を見つめるサラの瞳の中に『怒り』や『憎しみ』等の負の感情は見えて来ない。それを感じたリーシャは、このやり取りを仲裁する事が不可能である事を知り、会話の方向を変えて行く事にした。

 

「ここで野営が出来ない以上、場所を変えよう。もう完全に陽は落ちた。気温が落ちる前に火を熾そう」

 

「そうですね」

 

 リーシャの提案を受け入れたサラは、メルエの手を優しく解き、未だに意識を失っているカミュの状態を確認する為に座り込んだ。掴む対象を失ったメルエの手は虚空を掴み、その瞳には大粒の涙が溢れ出す。

 実際、<マホトーン>の効力はそれ程長くは続かない。行使した魔物が滅すれば、その効果も薄れる。だが、サラを殺す訳にはいかない以上、メルエは永遠に効力が続くのではないかという不安を感じていたのだった。

 

「ほら、メルエも行くぞ。カミュは私が運ぼう」

 

 促されたメルエが、救いを求めるようにリーシャを見上げるが、その視線から逃げるようにカミュの許へと歩いて行ったリーシャを見て、メルエの瞳には『絶望』が深く刻まれた。

 味方がいない状況など、カミュ達と出会ってからメルエは味わった事がない。アッサラームの町で生活していた頃は、逆に味方など誰一人としていなかった。しかし、皆がメルエを可愛がり、誕生日まで祝ってくれた事にメルエは甘えていたのかもしれない。

 初めて覚えた甘えと我儘。それは、何時でも笑顔を向けてくれていた優しい姉によって打ち砕かれ、母のように慕う女性によって投げ捨てられてしまった。

 

「メ、メルエちゃん。さぁ、行こう」

 

「…………ぐずっ…………」

 

 だが一方で、この問題が勃発した事によって、良い方向に転がった事柄もあった。

 船員達はしょんぼりと俯くメルエを見て、『恐怖』のような感情を抱く事はなく、むしろ『憐れみ』に近い感情を有していたのだ。可愛いマスコット的な存在であるメルエが、強く叱られ涙を流している姿は彼等の父性に火を点けたのかもしれない。

 

 ランシール大陸は完全に闇に支配された。

 彼等の目指す<ランシール>という村は、まだ見えない。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

ようやく新章も第二話です。
やはり、どうしても目的地に着くまで二話程かかってしまいますね。
これが冗長的とご指摘を受ける部分なのでしょうね(苦笑)

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。