新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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海賊のアジト③

 

 

 翌朝、最も早くに目が覚めたのは、いつも一番遅くまで眠っているメルエだった。ゆっくりと開かれた瞳の先には、見慣れぬ天井があり、不思議に思ったメルエは、その瞳を数度擦り、身体を持ち上げる。周囲を見渡すように首を回したメルエは、ベッドの上で静かに眠るサラと、メルエの傍で横になっているリーシャを見つけた。

 安堵の表情を浮かべたメルエであったが、部屋を満たす異様な臭いに即座に顔を顰める。くさった死体の時のような吐き気を齎す物ではないが、不快な臭いである事だけは確か。特にメルエは、幼い頃、常にこの臭いと共にあったと言っても過言ではないのだ。

 

「…………いや…………」

 

 彼女の育ての親は、ある時を境に、アルコールに依存する生活を送る事となった。それは、メルエが物心をつける以前の話であり、メルエにとっては、それが全てである。故に、メルエはその臭いが不快な物以外何物でもなかった。

 昨晩は、数多くの料理と、美味しい果実汁の匂いがメルエの鼻を満たし、この不快な臭いを気にする事はなかったのだが、密閉された狭い部屋の中に充満した臭いは、メルエの中にある忌まわしき記憶を蘇らせるような物。必然的に、メルエはその場所を逃げ出す事にした。

 隣で眠るリーシャを起こさないようにベッドから降りたメルエは、そのまま扉の取っ手へ手を伸ばすが、届かない。暫しの間、頬を膨らませ、取っ手を睨みつけていたメルエではあったが、近くにあった小物入れのような箱を扉の前まで動かし、その上に乗って取っ手を握った。

 すんなりと回った取っ手は、押し戸であった為、メルエの体重の移動と共に、前へと開いて行く。箱から飛び降りたメルエは、そのまま扉の外へと出て行った。

 

「…………むぅ…………」

 

 基本的に、メルエが一人で行動する事など有り得はしない。彼女にとって、今では『一人』という事が何よりも恐怖に繋がる物だからだ。だが、今メルエは、一人で誰もいない廊下を歩いている。

 陽の光も未だに大地へ充分に届かない程に朝が早い。薄暗い廊下は、メルエの心に後悔と恐怖を運んで来るのだが、不快な臭いの充満する部屋へ戻る気にもなれないメルエは、『とぼとぼ』と一本道の廊下を進んで行った。

 

「うん? どうした? 随分朝が早いな?」

 

「…………!!…………」

 

 胸の前で手を握りしめたメルエが、周囲を何度も確認しながら前へ進んでいると、突如横から人影が現れた。驚いたメルエは身体を跳ねらせるが、その手にいつもある杖はない。対抗する術を持たないメルエは、その人影に怯えるように後ろへ下がり始めた時、差し込んで来た陽の光で、その姿の全貌が露になった。

 それは、昨晩、サラと対峙していた人間。メルエの大事な人を虐める者達を束ねる者。メルエに向けられた言葉は、とても柔らかく暖かな物であったが、メルエは眉を顰め、その人物を睨みつける。

 

「そんなに怖がらなくても良いぞ。俺は、お前に何もしはしない」

 

「…………トルド………いじめる………だめ…………」

 

 警戒心を露にするメルエに苦笑を浮かべた大柄な女性は、胸の前で手を振って、敵意がない事を示そうとするが、もう一歩後ろへと下がったメルエは、昨晩口にした言葉を再度その女性に向かって口にする。

 メルエは、昨晩の宴会と言っても過言ではない勝負の決着を見ていない。途中で眠ってしまったメルエにとって、このメアリと呼ばれる女性は、未だにトルドの夢を邪魔する者なのだ。

 

「ああ、そうか……お前は眠ってしまったのだったな。安心しろ、俺はサラと約束した。お前の大事な人間に危害は加えない。それは、お前とも約束しよう。名前を教えてくれるか?」

 

「…………メルエ…………」

 

 メルエの言葉を聞いたメアリは、最後には幼い少女が眠っていた事を思い出す。そして、もう一度昨晩口にした言葉をメルエに向けて発した。そして、自身が血の盟約よりも堅い約束を交わす相手の名を問いかける。

 暫しの間、メアリを睨みつけていたメルエであったが、小さく、呟くように自分の名前を口にした。それは、メルエがメアリの話す内容の半分程は理解した事を示している。

 

「メルエか……良い名だ。ではメルエ、俺の名はメアリだ。俺は、メルエの大事な人間の夢を邪魔しない事を、今ここでメルエに誓おう。これは、サラとではなく、俺とメルエの約束だ」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの短い人生の中で、数が限られている『約束』が今交わされる。メアリは気付いていないだろうが、メルエにとっての『約束』とは、メアリが考えている物以上に重く、固い物を意味するのだ。

 それは『絆』と言っても過言ではない物なのかもしれない。大きく頷いたメルエの瞳が真剣な物である事を感じたメアリも大きく頷きを返す。

 

「それにしても、朝が早いのだな。ちょうど俺も目が覚めてしまったところだ。一緒に、朝食でも食べに行くか?」

 

「…………ん…………」

 

 メルエは、メアリの言葉に頷きを返すが、その手を取る事はなかった。表情にも未だに笑顔を浮かべはせず、何処か警戒を持っている事を示唆している。メルエに取って、『約束』とはとても重い事は前述で述べている。しかし、それをメアリも同様に考えているとは思っていないのかもしれない。

 メルエが約束を交わす人間は、メルエが信用をした人間達ばかりであった。カミュやリーシャ、そしてサラは当然。他に言えば、メルエの唯一の友人であるアンとその父親であるトルド。そして、一国の王として変貌を遂げたアンリである。その全てがメルエとの信頼を構築してから約束を交わした。

 だが、メアリは違う。信頼を構築する為の『約束』であった為に、メルエの中では他の人間達とは少し異なっていたのだ。

 

 

 

 昨晩宴会を開いた場所は、綺麗に整頓され、その隣にある幾分か小さな部屋には、テーブルと椅子が設置されていた。

 メアリは、その内の一つの椅子にメルエを座らせ、手を叩いて従者を呼び寄せる。間髪入れずに入って来た従者へ食事の用意をするように告げると、従者は頭を下げて、部屋を後にして行った。

 

「ん? メルエ、何か気になる物でもあるのか?」

 

 出て行った従者を見送り、メアリがメルエへと視線を戻すと、椅子に座ったまま、メルエはある場所へ視線を向けていた。

 メルエの座高ではテーブルから顔が出るぐらいで食事が出来るような態勢ではない。その事実に頬を緩めたメアリであったが、一点を見つめるメルエの瞳に疑問を感じ、メルエの視線の先へと目を向けた。

 

「ああ、あれか。あれは、かなり前の戦利品でな。最後に残った海賊団との決戦の際に頂いたお宝だ。大した価値はなさそうだが、あれ程に綺麗な球体は珍しい」

 

 メアリはメルエの視線の先にあった物を見て、一人昔を思い出していた。

 魔物の横行が激しくなる中、海賊達の縄張り争いや利権争いは苛烈を極めて行った。規模の大きな海賊団は小さな海賊団を吸収し、その規模を更に大きくして行き、勧告を受け入れない海賊団は戦いによって淘汰され、その数を大幅に減らして行く。そんな中、最後に残ったのが、メアリ率いる海賊団と、もう一つの海賊団が残ったのだ。

 最後の争いを行ったのが、十年近く前。既に棟梁という地位に立っていたメアリは、部下を動かし、己も武器を振って、その海賊団を海の藻屑へと変えて行った。その時に相手方の船にあった宝の内の一つなのだ。

 

「…………」

 

「おいおい」

 

 宝の話をメルエへ話したメアリは、視線を戻すが、その視線と合わないようにメルエは『ぷいっ』と顔を背けてしまった。明らかな拒絶を示すメルエの態度に、メアリは溜息を吐き出す。先程は、笑顔をこそ見せないまでも、自分の瞳を見てしっかりと頷いてくれたにも拘らず、『それとこれとは別』とでも言うように、拒絶を示すメルエの姿は、向かうところ敵なしのメアリでも困惑してしまう程の物だった。

 

「メルエ、ここにいたのか……良かった。探したぞ」

 

「…………リーシャ…………」

 

 そんなメアリへ救いの手を差し伸べる声が部屋に響く。部屋の入口から堂々と入って来たのは、昨日メアリを力で捩じ伏せた女性戦士だった。

 メアリを一瞥したリーシャは、そのままメルエへと近付き、椅子から降りたメルエを抱き上げる。嬉しそうにリーシャへ抱き付くメルエを見て、メアリはその信頼関係を羨ましく思った。

 メアリにも多数の部下がいる。その中には、メアリを信頼し、絶対的な忠誠を誓っている者もいるだろう。しかし、これ程までの親愛を持って接する人間がいるかと問われれば、答えは『否』である。

 どれ程信頼関係を積み重ねても、メアリと海賊達は、棟梁と部下という関係を崩す事はない。それが当然の事であり、疑問に思った事も不満に思った事も無い。だが、目の前で無条件の笑みを浮かべるメルエを見ていたメアリは、自分でも理解出来ない『淋しさ』に襲われていた。

 

「一人でいなくなっては駄目だろ? 何かあったら、私を起こせ」

 

「…………ごめん………なさい…………」

 

 抱き上げている反対の手で、メルエの頭を軽く叩いたリーシャの顔に浮かんでいるのも笑顔。それに謝罪の言葉を述べているメルエの顔も笑顔。そんな二人の姿を見ていたメアリは、自分の口元にも自然と笑みが浮かんでいる事に気が付いた。

 自分の奇妙な変化を楽しむように一度口元を触ったメアリは、二人の間に割って入り込む。

 

「随分早く起きていたんでな。朝飯でも一緒にどうだと俺が誘ったんだ」

 

「昨晩あれだけ食べて、もうお腹が減ったのか?」

 

 横から掛けられた言葉を聞いたリーシャは、驚きに目を丸くして抱き上げているメルエへ視線を戻した。当のメルエは、悪びれる様子も無く、首を縦に振っている。昨夜の宴会の中で、出された料理を黙々と食べていたメルエは、相当な量を口にしていた。

 そして満腹感と睡魔に負けて、リーシャの膝の上で眠ってしまったのだ。そんなメルエが、起きて間もない時間にお腹が減るという事がリーシャには信じられなかった。

 

「まぁ良いじゃないか。もうそろそろ食事の用意もできる。それよりも、お前からもメルエに言ってやってくれないか……俺がいくら言っても、メルエが俺の言う事を信じてくれないんだよ」

 

「それだけの事をして来たんだ、当たり前ではないのか? メルエが許す筈がない」

 

 困ったような表情を浮かべるメアリを、リーシャは好意的な笑みで迎えた。『彼女は、海賊の棟梁という枠で収まる人物ではない』というのが、昨晩感じたリーシャの感想である。

 これまでの海賊行為が無になる訳ではない。何人もの人間を殺め、数多くの物資を略奪して来たのだろう。それでも、彼女の人と成りは、リーシャが未来を見てしまう程の魅力を有していた。

 

「それよりも、私の方も聞きたい事がある。食事の席で聞かせて貰いたい」

 

「聞きたい事? ああ、まぁ良いが……」

 

 先程までの笑みを消し、真剣な表情に戻ったリーシャの姿にメアリは首を傾げる。メアリには、リーシャの疑問という物が想像できなかった。

 だが、抱き上げていたメルエを椅子に下ろし、自分も一つの席に腰を下ろしたリーシャを呆然と見つめていたメアリは、何かに諦めたように溜息を吐き出し、リーシャ達の対面に腰を下ろす事となる。

 

 

 

 食事はすぐに揃えられた。昨晩のような豪勢な物ではないが、メルエの瞳を輝かせるには充分な威力を誇る。香ばしい香りを放つ焼き立てのパン。産み立ての卵を焼いた物。魚のすり身を丸めた物を入れたスープ。

 そのどれもが暖かな湯気を立ち昇らせてメルエの前に並べられている。目を輝かせていたメルエは、まるで許可を貰うようにリーシャへと視線を向け、それに対してリーシャが頷いた事で、フォークのような物を料理へと伸ばして行った。

 

「ふふふ。ゆっくり食べるんだぞ」

 

「……それで、俺に何が聞きたいんだ……?」

 

 料理を口に運ぶメルエを穏やかな笑顔で見つめていたリーシャは、静かにカップを傾けながら問いかけるメアリへと視線を動かす。湯気の立ったカップを傾けるメアリの瞳は、まるでリーシャを窺うような光を放っていた。

 その瞳を見たリーシャは、佇まいを正し、一口スープを口へ運んだ後、その口を言葉を発する為に開き始める。

 

「昨晩の事は、改めて礼を言わせて貰う」

 

「礼を言われる憶えはないな。あれは、俺がサラに負けたんだ。『賢者』と名乗る一人の人間が掲げる大望に、俺は白旗を上げたに過ぎない」

 

 頭を下げるリーシャに対し、メアリは表情を崩さずに口を開いた。リーシャの礼に照れている訳でもなく、謙遜をしている訳でもない。心からメアリがそう考えている事がリーシャにも理解出来た。

 だが、それがリーシャの表情を更に固くする。表情を引き締めたリーシャにメアリの首は再度傾いた。

 

「その事だが、サラが『賢者』である事や、昨晩サラが語った思想を口外しないで欲しい」

 

「ん?……理由を聞いても良いか?」

 

 リーシャの口から出た言葉の意味がメアリには理解出来ない。彼女は海を渡り、数多くの大陸に上陸して来た。その中で、情報を収集し、自分達の行動の指針として来たのだ。故に、『人の口に戸は立てられない』という事を肌で感じ、理解もしている。だからこそ、メアリはリーシャの要望に疑問を持ったのだ。

 

「あの思想は、お前だからこそ受け入れる事が出来たのだろう。通常の『人』であれば、その思想に恐怖を抱き、憎しみを抱く。『人』にとって悪である『魔物』に慈悲を向ける存在としてな……そして、私はサラを傀儡にはしたくない……」

 

「なに?」

 

 メアリは、リーシャの言葉を半分程しか理解出来ない。『傀儡』という言葉に秘められた意味は、彼女達が共に歩む『勇者』と呼ばれる青年が口にした物。世界中の『人』という生物に祭り上げられ、自身の意思を無視されて旅を続ける青年。それは今も変わらないのかもしれない。だが、時折見せるようになった表情の変化や感情の起伏が、彼の心の変化を物語っているようにリーシャは感じていた。

 

 そんな青年がアリアハンという出生地を旅立つ頃に纏っていた物。

 それは、『孤独』と『諦め』。

 そして、何よりも強い『怒り』と『哀しみ』。

 

 それら全てをサラが背負う事になってしまえば、おそらくサラは持たないとリーシャは考えている。あれはカミュという人間だからこそ、耐え得る事が出来た物なのかもしれない。彼は、幼い頃からの生活の中で、完全に人生を諦めていた。

 何もかもに絶望し、全てを諦めというフィルターを通して見ていたのだ。だが、サラは違う。育ての親からとはいえ、確かな愛情を受けて育ち、周囲の人間から孤児として疎まれていたとはいえ、『人』の中で彼女は過ごした。

 そんな彼女は、『賢者』として、『人』の傀儡となる事実に押しつぶされてしまう危険がある。だが、サラの成長がその危険性に勝るとはリーシャも思っているが、それは今ではない。今はまだ無理なのだ。

 

「酔っていたとはいえ、サラは初めて自分を『賢者』と名乗った。サラの中でその覚悟を確立している事の証拠だとは思う。だが、まだ駄目なんだ……まだ……」

 

「ふぅん……良く解らないが、サラが『賢者』だと言う事を吹聴しなければ良いんだな? わかった、部下達にも厳しく言っておく」

 

 メアリは、何処か納得がいかない様子ではあったが、リーシャの願いを快諾する。リーシャがここまでの表情を浮かべている姿を見た以上、メアリにとって理由はどうでも良かったのかもしれない。もう一度カップに入った飲料を口に運んだメアリは、一息ついた後、顔を上げたリーシャに視線を戻した。

 

「俺はサラに負けたんだ。そのくらいの事なら聞くよ。それで……お前の聞きたい事というのはそれの事なのか?」

 

「いや、そうではない。今、お前が言った事なんだが……昨晩から不思議に思っていたのだが……『サラに負けた』と言うが、随分と潔いのだなと思ってな」

 

 リーシャの疑問はそれだった。メアリ程の人物を棟梁とする組織である。一筋縄ではいかない者達の集合体であろう。更に言えば、メアリは女性。リーシャにとっては悔しい事であるが、現代は男社会と言っても過言ではない。

 女性が要職に就く事は皆無に等しく、例え上官に任命されたとしても、部下達が命令を聞かず、任務を全う出来ずに解任される事が多い。そんな時代の中、メアリという女性は、数多くの荒くれ者を束ね、組織として成り立たせている。その魅力と、それに伴う実力は、リーシャ達には及ばずとも、世界でも有数の物であろう。あの大盗賊であるカンダタにも劣らない物なのかもしれない。

 それ程の力を有するメアリが、『賢者』と名乗りはしても、只の若い女性に膝を折る事を良しとするだろうか。リーシャからすれば、答えは『否』であった。故に、リーシャは昨晩から疑問に思っていたのだ。しかし、そんな疑問を発したリーシャは、メアリの顔が笑みを浮かべているのを見て驚きを示す事となる。

 

「あははは。そうだろうな。お前がそう思うのも無理はない。どこから語れば良いか……まず、お前達が世界を救う『勇者一行』であったと言う事からか……」

 

 笑みを浮かべていたメアリは、快活な笑い声を発した。突然の笑い声に、口に物を運んでいたメルエは、驚いてフォークを取り落としてしまう。喉を詰まらせてはいないらしいが、傍にあった果実汁を口に運び、『ほぅ』と一つ息を吐き出す姿に、メアリの笑みが柔らかい物へと変わって行く。そして、そんなメルエから視線を戻したメアリの言葉は、リーシャの予想とは違った物であった。

 

「世界を救う等と馬鹿げた事を言う人間達だ。一度会ってみたいと思っていたが、出て来たのは女だらけ。その内一人はメルエのような幼い少女。初めは馬鹿にしているのか、それとも偽物なのかと思った」

 

 メアリの抱いた感想は、決して間違った物ではないだろう。カミュという『勇者』がいなければ、リーシャ達三人は只の旅行者と違いはない。各々の胸に秘めし想いはあれども、それを示す方法がない。そして、世界屈指の力を有しているとはいえ、リーシャ達の見た目は『勇者一行』とは思えない物。屈託なくそれを語るメアリに対し、リーシャは怒りを表す事はなかった。

 

「だが……癪ではあるが、お前の斧を受けた時にそれが真実である事を理解した。ならば、次の疑問が湧いて来る。何故、そのような者達がここへ来る事になったのか。しかも、肝心の『勇者』様を放ってだ」

 

「そ、それは……」

 

 次に発したメアリの言葉の前半部分に笑みを浮かべていたリーシャであったが、真顔に戻ったメアリの言葉に息を飲んだ。

 確かにリーシャ達は『勇者』であるカミュとの合流を後回しにした。リーシャは、当初はカミュとの合流を最優先に考え、ロマリアへ戻る事を提案していたが、海賊達の話を聞いた後、船の進路を真っ先に指示したのもまた、リーシャである。

 

「だからこそ、疑問に思った。お前達が『勇者一行』であるのならば、それは国家の狗ではないかとな。国家の命を受けて『魔王討伐』という物へ旅立つ者ならば、その可能性は高い。そういう者達から見れば、俺達のような海賊は害としかならぬ故、殲滅の対象となろう。もし、そうであるならば、敵わないまでも命続く限り抗おうと考えていた」

 

「うっ」

 

 もはや、リーシャに声は出せない。一つ一つが尤もな疑問であり、尤もな言い分なのだ。

 リーシャはアリアハン国の宮廷騎士という誇りを捨ててはいない。未だにアリアハン国王の命を名誉な物と考えているし、その命を遂行する為に旅を続けてもいる。だが、国家の狗と罵られれば、憤りを感じもするのだ。

 アリアハンで宮廷騎士として生きていた頃に『狗』と呼ばれようとも、それに対して怒りは覚えても反論する事はなかっただろう。だが、今は反論したい想いを抑えるのに必死だった。それが、リーシャの変化でもあるのかもしれない。

 

「だが、サラは俺の描く未来を理解するだけではなく、それを認めもした。初めは、口だけの同意かとも思ったが、サラは俺よりも更に先の未来を見せてくれた。それがどれ程の事なのかは、お前には解らないだろうな……」

 

「なに!?」

 

 言葉を詰まらせていたリーシャは、メアリの最後の言葉に何かが含まれていた事を敏感に感じ取り、目を怒らせて顔を上げる。そこには、何処かで見た事のあるような、口端を上げてリーシャを見つめる顔があった。

 しかし、その視線は不意にリーシャの隣にいるメルエの方へと動き、そしてもう一度、リーシャへと戻った時には、先程と同じような真剣な物へと変化する。

 

「俺は驚いたよ。俺達のような海賊が、全ての海の真の支配者となる。そんな夢を見られるとは思わなかった。だが、驚いた反面、疑問と不安は強くなる。何故、世界を救うと謳われる者達が俺達にそんな話を持ちかけるのか。罠ではないかとな」

 

「そんな訳がない!」

 

 サラの『想い』を知り、サラの『願い』を知り、サラの人間性を知るリーシャにとって、メアリの疑問は尤もな事であると同時に、許せぬ物でもあった。サラがどれ程に悩み、苦しみ、泣いて来たかを知るリーシャは、真剣なサラの想いを否定される事が許せない。

 サラという人物がどれ程の覚悟を持って、メアリと対峙していたのかをリーシャは知っている。故にこそ、リーシャは声を荒げたのだ。隣で話に興味を示していなかったメルエは、不思議そうに小首を傾げていた。

 

「わかっている……今はわかっているさ。だが、あの時は突如として持ち掛けられた甘い話だ。だからこそ、真意を確かめようと思った」

 

「それが……飲み比べだと言うのか?」

 

 激昂しかけるリーシャを手で制したメアリは、空になったカップを近くにいた女性従者に手渡し、新たに注ぎ込まれる暖かな飲み物を眺めながら、リーシャに向かって一つ頷いた。そして、注がれた物を軽く口へ流し込み、もう一度口を開く。

 

「人は酒が入れば、本音を話す。胸に秘めた物であっても、酒という魔力に取りつかれ、自身が気付かない想いまでも口にするものさ。だからこそ、酒を飲ませた。俺が酒の飲み比べで負ける訳がないという前提の物だが、お前達が純粋な『国家の狗』なのか、それとも不本意ながらも旅を続けている者達なのか知る為にな」

 

 メアリとサラは、船の護衛に関わる利権について話していた。国家の為に動く者達であれば、それを餌に海賊を根絶やしにする算段があるのかもしれない。逆に、国家に不満を持つ物であるのならば、その提示と引き換えに、利権の一部を要求し、メアリの仲間として生きる事を選ぶつもりかもしれない。そのようにメアリは考えていたのだ。故に、提案をして来たサラを飲み比べの相手として指名した。

 

「だがな……参ったよ。本当に、心の底から参った。自分の考えの浅はかさと、自分の器の底を感じたよ。俺の質問の意図をサラは理解していたのだろうな……それでも尚、あの答えを口にした。ならば、サラの提案も、そのまま受け入れるべき物だと感じたし、そうなるべきだという事も理解したんだ」

 

「そうか……」

 

 もう一度、カップの飲み物を口にしたメアリは、苦笑のような笑みを浮かべて、数回首を横に振る。その姿を見たリーシャも、同じような笑みを浮かべ、溜息を一つ吐き出した。

 『メアリは勘違いをしているかもしれない』とリーシャは考える。あの時のサラは完全に酒に飲まれていた。まともな思考が出来る状態ではなく、メアリの質問の意図を探る余裕などもなかっただろう。それ程までに考えが巡るのならば、あの場で『賢者』である事を口にする事は、逆になかったのかもしれない。

 

「まぁ、あの様子だと、昨晩の事は憶えていないかもしれないがな」

 

「……おそらくな……」

 

 だが、溜息と共に吐き出されたメアリの言葉が、リーシャの考えが杞憂であった事を示していた。メアリも昨晩のサラの状態を正確に把握してはいたのだ。

 それでも尚、サラの言葉は、サラの心の中にある本心であると信じたのだろう。それは、サラだけの言葉ではなかったからかもしれない。

 

「しかし、嫌でも思い出してもらわなければ、俺が困る。あの提案を受け入れる以上、知りませんでしたでは困るからな」

 

「まぁ、それは大丈夫だろう」

 

 もう一度上げられたメアリの顔は、晴れやかな笑顔だった。そんな表情につられて、リーシャも柔らかい笑顔を浮かべる。しかし、そんな二人の柔らかい空気は、先程まで首を傾げながら二人を見ていた者によって打ち砕かれる事となった。

 

「…………サラ………いじめる………だめ…………」

 

「な、なに!? そんな事はしないぞ。俺は、ただな……メ、メルエ、少し待ってくれ!」

 

 頻りに出て来るサラの名前を聞いていたメルエは、リーシャとメアリの会話内容が全く理解できていない。だが、笑みを浮かべながらサラの名を口にするメアリを見て、何か不穏な空気を感じ取ったのだろう。『むぅ』と頬を膨らませて自分を睨むメルエの姿を見たメアリは、慌ててカップを置き、両手を軽く振りながら弁解を始めるが、メルエの瞳が和らぐ事はなく、困ったように眉を下げてしまった。

 

「ふぅ……まるでアンを相手にしているようだな」

 

「アン?」

 

「…………アン…………」

 

 メルエの厳しい視線を受けたメアリは、溜息と共に興味深い名を口にした。その名はメルエもリーシャも何度も聞いた事のある物。メルエがこの世界に生まれ落ちて初めてまともに接する事が出来た同年代の少女の名。そして、メルエが解放した哀しい『エルフ』の子の名。故に、疑問のように聞き返すリーシャとは違い、メルエの瞳は哀しみと懐かしさの色を湛えていた。

 

「うん? お前達もアンを知っているのか?」

 

「いや。おそらく、お前が知っている『アン』という人物と、私達が思い浮かべている『アン』は同名の別人だ」

 

 リーシャとメルエの反応に首を傾げたメアリは、その人物を知っているかどうかを問いかけるが、それに答えたリーシャの言葉に、視線をメルエへと移す。メルエの瞳は、何とも言えない色を宿しており、その瞳を見たメアリは、哀しそうな笑みを浮かべた。

 メルエの心にある『アン』と自分の心にある『アン』が同じ結末を辿っている事を理解したのだ。

 

「そうか……メルエの知っている『アン』も、もうこの世にはいないのだな……」

 

「…………アンと………メルエ………おともだち…………」

 

 メルエの心を察したメアリは、少し目を伏せ、小さく呟きを洩らす。その呟きを聞いたメルエが小さな笑みを浮かべながら、はっきりと宣言する言葉は、静かな部屋に響き渡った。

 目を伏せていたメアリは、顔を上げてメルエに向かって微笑みを返す。何かを思い出すような笑みは、リーシャの心に何処か哀しい風を運んで来ていた。

 

「私もアンとは友だな。メルエとは少し違い、『戦友』となるのかな。いや、『好敵手』という奴だろうか。何度も争い、何度も酒を酌み交わした。俺と同じように女のくせに海賊などをやっていてな。力も強く、団を率いる統率力もあった。海賊団の棟梁となったアンとは、何度も戦ったよ」

 

 メルエの言葉は、メアリの心に何かを運んで来たのだろう。懐かしむように虚空を見上げたメアリの瞳は、在りし日のアンという海賊の姿を捉えているのだろう。先を促す事も出来ず、リーシャとメルエは、メアリの姿を見つめる事しか出来なかった。

 

「『ボニー海賊団』を率いたアンは、その後も刃向う海賊どもを蹴散らし、大きくなって行く。俺がこの『リード海賊団』を引き継ぎ、海で戦闘を繰り返した先にあったのは、大きくなった二つの海賊団の未来という難題があった」

 

「最後に残ったのが、女性が率いる二つの海賊だったのか」

 

 この世界には、海賊という者達は数多くいた。それこそ、リーシャが生まれた頃には、魔物よりも海賊の脅威の方が強かったのだ。海を渡る貿易船は、各々に傭兵を雇い、裕福な国家では、国の護衛団を付けて貿易を行ってもいた。

 それ程の海賊団が、魔物の脅威が高まって行く中、数を大幅に減らして行く。強者が弱者を喰らい、更に肥大して行った。そして、行き着いたのが二つの海賊団の対峙だったのだろう。

 

「ああ。俺とアンは、その辺りの男連中に負けるような者ではなかったからな。だが、それが仇となった……お互い、自分の力を誇る者同士の対立だ。どちらかがどちらかの下に就く事を良しとせず、お互いの理想を貫く為に何度も戦った。知り尽くした相手との戦いは数年にも及んだが、俺は何とか競り勝ったんだ」

 

「…………アン………は…………?」

 

 昔語りをしていたメアリは、間髪入れずに入ったメルエの問いかけに言葉を詰まらせる。苦しそうに顔を歪めたメアリは、重苦しい溜息を吐き出し、もう一度注がれた飲み物を一気に飲み乾した。リーシャはメアリが纏う雰囲気に口を閉ざし、メルエはその空気を物ともせず、メアリを見つめる。静かな時間が流れる中、メアリはもう一度口を開いた。

 

「……俺が、この手で殺したよ……」

 

「…………!!…………」

 

「そうか」

 

 重苦しい空気が支配する部屋に響いた言葉も更に重い。既にメアリの傍にいた従者は後方へと下がり、部屋の空気はメアリ達三人が支配していた。メアリの独白が響いた時、メルエの瞳が見開かれる。メルエに取って、『人殺し』という行為は、未だに禁忌とされていた。

 サラという心の師から教わり、リーシャという保護者に護られていたメルエは、その教えを信じているのだ。故に、カミュが盗賊達を殺した時に、あれ程の悩みを抱える事となった。

 カミュだけが禁忌を破り、その存在を否定される事をメルエは認めない。故に、メルエはその覚悟を胸に宿したのだ。『自分が禁忌を破る事があっても、カミュ達を護る』という尊い想いは、今もメルエの胸の中に宿っている。だが、それを目の前で優しげな笑みを浮かべていたメアリが行っていた事に衝撃を受けたのだ。

 メルエは、海賊という団体の知識がない。彼等が何をして生活をしているかなど興味も無く、知る必要もないのだろう。

 

「最後の最後、アンを殺す時に、奴と話をした。俺には俺の理想もあったが、アンにもアンの理想があったよ。サラが言っていた俺の描く未来は、アンと俺の理想の掛け合わせなんだ。俺達は、お互いに今のままの海賊では成り立って行けないと言う事を理解していた。だからこそ、違う道を辿る為に海賊を一つにしようとしたんだがな……良くも悪くも、俺とアンは似ていたのかもしれない……」

 

 その言葉を最後に、メアリは小さな苦笑を浮かべ、机の上でカップを弄り始めた。彼女の中に残る罪悪感は、誰にも癒す事は出来ない。只の敵ではなく、『好敵手』とも『戦友』とも言える人間を殺してでも、彼女は前へと踏み出した。

 意見が食い違っていた訳でもない。見ている先が異なっていた訳でもない。それでも、お互いに譲れない物があったのだろう。

 一際大きな溜息を吐き出したメアリは、『じっ』と自分を見つめるメルエの視線を避けるように立ち上がる。リーシャがメアリへ掛ける言葉など見つかる訳がない。重い沈黙の中、メアリは机を離れ、部屋の壁際へと歩いて行った。

 

「これは、アンの形見だ。アンを殺す直前に、アンの理想と共に俺が受け取った物。それを俺はメルエへ託そう。メルエとの約束の証として。そして、俺がアンと交わした約束を成し遂げるという誓いとして」

 

「そ、それは……」

 

 壁際で立ち止まったメアリは、先程メルエがじっと見つめていた物へと歩み寄り、それを掴み取った後、メルエの掌へと落す。それは、メルエの掌に収まる程の大きさをした球体。燃えるように赤く輝くその球体は、以前リーシャも見た事のある物に酷似している。色こそ違えど、それは、メルエのポシェットに入っている物と同じ物である事は、リーシャでも理解出来た。

 

「俺はメルエとの約束を守る。だから、メルエも俺と約束してくれ。『サラを支える』と」

 

「…………ん………やくそく…………」

 

 メルエと視線を合わせるように屈み込んだメアリは、その瞳を真っ直ぐと見つめ、メルエと約束を交わす。また一つ、メルエにとって重い約束が交わされた。

 相手が真剣である以上、メルエもその約束を真剣に受け止め、受け入れる。掌に入った赤く輝く球体を握り締め、メルエはもう一度、強く頷きを返した。

 その様子を見たメアリは、表情を笑顔に変え、メルエの頭を優しく撫でつける。先程までなら、触れさせてもくれなかったメルエが、気持ち良さそうに目を細めてその手を受け入れる姿は、メアリの心に暖かな風を運んで来た。

 

「しかし、流石は『勇者一行』様だな。サラも然り、メルエも相当な物だ」

 

「そうだろう? 私の自慢の妹達だ」

 

 メアリの感想を聞いたリーシャは、まるで我が事のように胸を張り、誇らしげに言葉を発した。『妹達』という言葉を発しているが、誰がどう見ても血が繋がっているようには見えない。リーシャという人物と僅かな時間しか共にしていないメアリでさえも、血が繋がっている姉妹を『魔王討伐』の旅へ駆り出すような人物には見えなかった。となれば、旅の途中で出会った者同士が、『魔王討伐』へ向かう事になったのだろうとメアリは考えていたのだ。

 

「そうだな。肝心の長姉は、頭の方は少し残念なようだがな」

 

「な、なんだと!?」

 

 先程の重苦しい空気を捨てたメアリの口端は、何処かで見た形になっている。それを敏感に感じ取ったリーシャは、先程受け取った誓いの証をポシェットに仕舞い込んだメルエが、小さな種を取り出そうとしているのを見咎め、厳しい視線をメルエへと送った。

 種を取り出し、リーシャへ視線を向けたメルエは、ぶつかったリーシャの瞳を見て、『いそいそ』と種をポシャットへ戻して行く。その様子がとても可愛らしく、メアリもリーシャも思わず笑みが零れてしまう。微笑ましい雰囲気にも拘わらず、メルエは頬を膨らまし、『ぷいっ』と顔を背けてしまった。

 

「利口であれば、あそこで俺に斧を振るう事はないだろう。サラがいなければ、あの場で戦いが始まっていた事は明らかだぞ。お前は、本当に俺達を殺す気があったのか?」

 

「ああ。そのつもりだった」

 

 冗談めかして問いかけるメアリの言葉に、リーシャは真面目な顔を作って頷いた。その顔に偽りはなく、その瞳は『決意』と『覚悟』という炎を宿している。それを見たメアリは、一瞬驚いた顔を見せるが、呆れたように溜息を吐き出した。

 メアリも、リーシャの心は理解しているつもりだった。リーシャにとって、サラやメルエという人物は何よりも大切な者達なのだろう。それを理解していて尚、メアリの考えが甘かった事が証明された瞬間でもあった。

 

「……そうか……やはり、お前は交渉事などで前に出る事は止めた方が良い。それでは、サラの考えや、『勇者』と呼ばれる者の考えなどを崩壊させる事になる」

 

「うっ……」

 

 自信に満ちて答えたリーシャであったが、思い当たる節がある分、言葉に詰まる。カミュという『勇者』は、リーシャが交渉事に出張る事を禁止し、つい数週間前には、物事を託す事を諦めたばかりなのだ。

 メアリの言っている事は的を射た物ではあるが、それでも何とか反論しようと上げたリーシャの瞳に、少し表情を固くしたメアリが映った。

 

「それとも、お前達と共に旅する『勇者』とやらも、只の筋肉馬鹿なのか?」

 

 だが、次に発したメアリの一言が、何故かリーシャの心に燻る怒りに火をつけた。火が点った怒りは、そのまま一気に燃え上がり、リーシャの表情を真っ赤に染め上げる。急に表情を変えたリーシャを見たメアリは、何が起こったのかを理解出来ず、慌てて身構える事となった。

 

「馬鹿にするな! サラがあの理想を掲げるまでにどれ程の苦しみや悩みを抱えたと思っている!? そのサラを導いたのは誰だと思っている!? カミュがいなければ、サラはあの理想に辿り着くどころか、『賢者』になる事も出来ず、この旅を続ける事さえもなかったかもしれない。お前が馬鹿に出来る者ではない!」

 

「い、いや、少し待て……」

 

 突如叫ばれた怒声に、メアリは驚きよりも戸惑いよりも、恐怖に近い感情を抱いてしまった。それ程に、リーシャの剣幕は激しかったのだ。リーシャと剣を交え、その力量を理解したとしても、メアリは堂々とリーシャ達と対峙していた。そんな彼女が恐怖を抱く程の剣幕。それが如何程の物かが理解出来るだろう。

 

「私達三人は例外なく、あの『勇者』に導かれている。カミュにその気はないかもしれないが、私達はカミュの背を見て歩いて来た。お前達と相対してみて、私達三人が如何にカミュによって護られて来たのかを実感したさ。『私達の前にはカミュがいる』。それが知らず知らずの内に、当たり前の事になり、絶対の安心となっていた」

 

 先程までの怒りを消したリーシャは、静かに独白を始める。『酒でも飲ませてしまったか?』と考えたメアリであったが、『怒りで冷静さを失ったリーシャが思わず漏らしてしまった本心なのかもしれない』という考えに到達する。その予想が間違っていない事の証明に、リーシャの言葉は後ろに行けば行く程に小さくなって行った。

 

「『勇者』の名はカミュと言うのか。そうか……お前の想い人か?」

 

「な、なに!? ば、馬鹿な事を言うな!」

 

 先程感じた恐怖が消え去ったメアリの心には、リーシャをからかうだけの余裕が見受けられる。それは、言葉が表わしており、受けたリーシャの慌てぶりもそれを証明していた。

 先程とは異なった剣幕で怒鳴るリーシャには、メアリも恐怖は抱かない。むしろ笑いが込み上げて来るような慌てぶりに、メアリの口端はその角度を上げて行った。

 

「あはははは。図星か? そうか、お前のような筋肉馬鹿でも、恋心という物は持っているのだな。一度会ってみたいな、そのカミュという『勇者』に」

 

「違うと言っているだろう! 何故、サラもお前も、他人の話を聞かないんだ!? 色恋など、考えた事もない! 私は騎士であり、『魔王』を倒す為に旅する戦士だ。そのような事は世界が平和になってから考える」

 

 散々怒鳴り散らしたリーシャであったが、最後には疲れ切ったように椅子の背もたれに背を預けた。リーシャとしては、本心でそのような事を考えた事はないのだろう。彼女自身が色恋などを経験した事も無く、その感情を理解も出来ない。

 故にこそ、そう答えているのだが、実は対しているメアリに関しても、色恋を経験した事はなかった。そのような二人がその事に関して話していたところで、何の答も出て来る訳がない。

 

「ほぉ……ならば、世界が平和になった時には考慮の余地があると言う事か。よし、お前達が『魔王討伐』を果たした暁には、カミュとやらを俺の前に連れて来い! 祝言を挙げてやる!」

 

「だから、違うと言っているだろうが!」

 

 もはや、部屋の中は混迷を極めている。先程までの重苦しく、難しい空気は疾うの昔に消え去っていた。新たに部屋を満たして行くのは、何とも不思議な空気。それを敏感に感じ取ったメルエは、メアリとリーシャのやり取りを微笑みを浮かべて眺めていた。

 メルエは交互に首を動かしていたが、そんな二人に割って入るように口を開く。その言葉が、リーシャとメアリのくだらないやり取りを停止させてしまう。

 

「…………メルエ………カミュ………すき…………」

 

 自分の想いを告げるように、二人を見上げていたメルエは、笑顔のままで衝撃的な一言を口にする。ただ、リーシャにとっては解り切った事であり、メルエが抱く想いが、色恋とは関係のない物である事も理解していた。

 だが、メアリは違う。突然告げられた告白に、今度はメアリが戸惑う番だった。

 

「な、なに!? メ、メルエもなのか?」

 

「ふふふ。メルエの『好き』は、お前が考えている物とは違うぞ」

 

「…………メルエ………リーシャも……サラも……すき…………」

 

 戸惑うメアリの姿に、リーシャは微笑みを溢し、そんな二人を笑顔で見つめていたメルエは、自分の胸にある想いを誇らしげに告げる。その告白は、どこか暖かな空気を運ぶ物で、メアリの頬も自然と緩んで行った。

 メルエの無邪気な好意は、聞く者達の心を癒して行く。それは幼い子供が持つ特有の力なのかもしれない。

 

「そうか……メルエは好きな者達と一緒で良いな。俺の事はどうだ?」

 

「…………むぅ…………」

 

 微笑みを浮かべたメアリは、ついつい余計な質問をしてしまう。『このような幼い少女に無邪気な好意を向けられたら、どれ程に幸せだろう』という想いが、メアリの口を開かせてしまった。

 だが、メアリの期待とは裏腹に、メルエは困ったように眉を顰め、その首を傾げてしまう。本気で悩んでいる事が解る為、尚更メアリの心を傷つける。既に嫌われてはいないのだろう。だが、『好きか?』と問われれば、答えられない。まだメアリはその程度の存在なのだ。

 

「あははは。土台無理な話だ。私達とは違い、お前はメルエと共にした時間も短く、トルドというメルエの大事な者を困らせたのだからな」

 

「そうだな。だが、俺はメルエとの約束は守るぞ。その時は、メルエの心の中に俺も入れてくれるだろう?」

 

「…………ん…………」

 

 困った表情のメルエと、哀しそうに目を伏せるメアリの姿をリーシャは微笑ましく見ていた。笑い声と共に、刺々しい物ではない言葉を発し、そんなリーシャの想いを理解したメアリは、メルエと目を合わせて、先程の誓いを再度口にする。暫しの間、考え込んでいたメルエは、眉を戻し、小さな笑みを浮かべながら頷きを返した。

 

「さて、飯も食ったし、そろそろ出港の準備でも始めるか。まぁ、おそらくサラは、今日一日はベッドと厠の行き来で陽が落ちるだろうから、出港は明日になるな」

 

 大きく伸びをしたメアリが口にした通り、今日一日のサラは酷い頭痛と吐き気に襲われ、動く事もままならないだろう。そんなサラの様子を思い浮かべたリーシャは、苦笑を浮かべ、『何か消化に良い物を持って行ってやろう』と考える。メアリが何について言っているのか解らないメルエは、小首を傾げながらリーシャを見上げていた。

 

「…………サラ………だめ…………?」

 

 そんな可愛らしい問いかけに、目を合わせたリーシャとメアリは、部屋に響くような笑い声を上げ、メルエの瞳を白黒させる。昨夜とは異なった空気で満たされた部屋では、メルエ以外の人間全てが、柔らかな笑みを浮かべていたのだった。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

実は今回の話は、二通りの構想がありました。
皆さまお気づきかもしれませんが、それは『アン』という人物についてです。
途中までは、もう一つの方を描いていたのですが、それを描き終わった際に、こちらの方が私の描く世界観にあっているような気がして、変更いたしました。
皆様がどうお感じになられたか気になりますが、もう一つの方は、いずれ何処かでご披露が出来たらと思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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