新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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第十一章
戦闘⑦【スーの村周辺】


 

 

 

 目的地も決定し、村を後にした一行は、船の停泊している浅瀬に向かって歩き出した。カミュが船を降りた場所は、リーシャ達がメアリの船を降りた船着き場とは異なり、かなり遠方のようで、そこまでの道を彼等は日数を掛けて歩く事となる。

 村を出て、一度の野営を行い、そして再び歩き出す。その間、天に輝く太陽は暖かな光を大地に注ぎ、地上には穏やかな風が靡いていた。天気の良い平原を歩くカミュのマントの裾は小さな手にしっかりと握られ、その後ろを、笑顔を浮かべた二人の女性が続く。

 

「メルエ、少し歩き難いのだが……」

 

「…………いや…………」

 

 スーの村を出てからも、メルエがカミュの傍から離れる事はなく、マントの裾を握っていたかと思えば、マントの中に入りカミュの足にしがみつく。そんなメルエの行動に、カミュは困り果てていた。

 何度か注意を促すが、その言葉を聞き入れて貰える事はなく、頬を膨らませたメルエに溜息を吐く事を繰り返す。それがリーシャ達にはとても楽しく、今まで以上の和やかな旅路となっていた。

 

「メルエ、離れろ!」

 

「…………!!…………」

 

 しかし、そんな和やかな雰囲気が続く中、突如カミュが声を張り上げる。今までの我儘を叱られたと感じたメルエは眉を下げてカミュを見上げるが、当のカミュの瞳はメルエではなく、遥か前方へと向けられている。それを感じたリーシャは素早くカミュの許へと駆け寄り、メルエをサラへ引き渡した。

 全てを察したメルエも手に入れたばかりの雷の杖を手にし、サラの後方からカミュの見ている方角へ厳しい視線を向ける。

 

「メルエ、何時でも呪文を行使出来る準備を」

 

「…………ん…………」

 

 サラの指示に頷いたメルエの顔には『自信』が漲っている。その顔を見たサラは笑顔で頷きを返した。

 自信を失い、魔法力の制御どころか、魔法の発現も呪文の行使すらも出来なくなったメルエはもういない。ここにいるのは、この世界が生んだ稀代の『魔法使い』であり、世界最高の魔法力と才能を持つ『魔法使い』。サラが最も信頼する神秘の体現者である。

 

「カミュ、あの魔物は眠りの息を吐き出すぞ!」

 

「……またアンタは、眠りに落ちたのか?」

 

 前方から出現した魔物を見たリーシャは、カミュに注意を促すが、それは溜息と共に斬り捨てられる。とても魔物の目の前で繰り広げられるやり取りではない。カミュの呆れを見たリーシャが顔を赤くし、『眠ってはいない!』と叫ぶ声は、魔物が発する雄叫びを搔き消して行く。それ程に、彼らには余裕があるのだ。

 カミュは、ここまでの一人旅の中で培って来た自信が。リーシャやサラは、この呆れた溜息を吐き出す青年との合流による自信の蘇りが。そして、幼い『魔法使い』に関しては、絶対的保護者との再会による安心感と、新たに手にした強力な杖への信頼感が。それぞれの胸の中に蘇った想いが、彼等の心に余裕と強さを取り戻させたのだ。

 

「お前こそ、あの息を被って寝てしまえ!」

 

 そんな心の余裕は、戦闘中にも拘わらず、笑みを浮かべてしまう程の物だった。リーシャが悔し紛れに発した言葉にサラは噴き出し、先程まで厳しい視線を送っていたメルエも頬を緩める。カミュだけは盛大な溜息を吐き出しながら、前方から迫る魔物に向かって駆け出した。

 カミュの手に握られた草薙剣の閃光が迸る。真っ直ぐ突進して来た魔物を避ける素振りも見せずに振り抜かれた剣は、魔物の眉間に吸い込まれ、その頭部を両断して行った。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………ヒャダルコ…………」

 

 断末魔の叫びを上げて倒れ込む一体のビッグホーンの後方から見える数体の魔物へ向かって、メルエの杖が振り下ろされた。

 メルエの身長以上にあるその長身の先にあるオブジェの瞳が光った瞬間、その嘴から魔法力の渦が迸る。瞬間的に冷気によって空気は凍り付き、凍り付いた大気は、数体のビッグホーンを飲み込み、その活動を容赦無く停止させて行った。

 活動を停止させた体躯の内にある内臓をも凍らせて行くメルエの魔法の威力は、そのまま魔物の生命も奪い尽くして行く。

 

「砕くぞ」

 

 カミュへ視線を送ったリーシャは、そのまま手に持つバトルアックスを振り下ろし、氷像と成り果てた魔物を粉々に粉砕する。一体ずつ壊して行くリーシャと共にカミュも剣を振り下ろすが、サラだけは、今見た光景に身体を硬直させていた。

 メルエの魔法の威力を初めて見た訳ではない。それこそ、メルエの氷結呪文の威力は嫌という程に理解をしてはいるし、その恐ろしさも知ってはいる。だが、今見た魔法の光景はそれでも尚、異質と言っても過言ではなかったのだ。

 メルエの新たな友となる杖から放たれた魔法力は、瞬時にその形態を神秘へと変化させ、魔物に襲いかかった。それは何も氷結呪文に限った事ではないだろう。火炎呪文だろうと灼熱呪文であろうと、その杖はメルエの魔法力を抵抗なく神秘へと変化させて行くに違いない。まるで、この幼い『魔法使い』の手足となったかのように、その想いを具現化させて行くのだ。

 魔道士の杖と呼ばれる杖は、世界には有り触れた存在。ただ、メルエの魔法力を受け続けて来たあの杖だけは、その存在を変化させ、メルエの膨大な魔法力を神秘へと変化せて行く事が出来た。

 だが、先程目にした光景を見てしまうと、魔道士の杖という存在がメルエにとって如何に頼りない物であったかを理解してしまうのだ。結論から言えば、魔道士の杖を持っていたメルエに対し、『魔法力の調整をしろ』と言う事自体が無謀な事であったという事になる。

 その膨大な魔法力を受け止めて神秘へと変化させる事だけでも魔道士の杖としては奇跡に近い物だったのだ。雷の杖を媒体にして呪文を行使したメルエを見たサラは、それを痛感してしまっていた。

 

「ふぅ……カミュ、船の場所へはまだ掛るのか? そろそろ陽も傾いて来た。まだ歩くのであれば、もう一度、何処かで野営をする必要があるぞ」

 

「そうだな。少し歩き、陽が陰り始めた頃に野営地を決める」

 

 魔物であった氷像を砕き終わったリーシャは、砕かれた魔物の残骸にベギラマを唱え、手を合わせるサラを横目に、カミュへと声を掛けた。確かにリーシャの言う通り、空を見上げると、先程まで暖かな光を注いでいた太陽は、西の空へと移動を始めている。魔物との戦闘は、人間の体力を奪うと同時に時間も奪って行く。メルエの魔法によって瞬時に魔物を駆逐したようにも感じるが、魔物到来から、カミュが間合いを測り、剣を振り下ろすまで、そしてカミュやリーシャを下がらせ、それを確認したサラが間合いを測りながらメルエに呪文行使の指示を出す時間を考えると、それなりの時間を要しているのだ。

 乗り物のないカミュ達の旅は自分の足で歩くしかなく、旅慣れて来たとはいえ、サラやメルエの足を酷使する訳にも行かず、リーシャはその辺りも考慮に入れての提案を行っているのだった。

 

 

 

 一行は、陽が沈み切り、暗闇が支配する中、近くに川の流れる音が聞こえる森の入口で野営の準備を始めた。この川の下流は海へと続いているのだろう。それは、野営を行う事を決めた際にカミュが口にした『船はすぐそこだ』という言葉が示している。船に戻れば、カミュが決めた進路である北へと向かうのだろうが、リーシャはその進路に関して若干の疑問を持っていた。

 

「メルエ、どうしたのですか?」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 感じている疑問をカミュへ問いかけようとリーシャが口を開いた時、傍にいるメルエの様子がおかしい事に気が付いたサラが火に薪をくべながら声をかけていた。

 サラの傍で先程収穫した果物を頬張っていたメルエであったが、何かを嫌がるように顔を顰め、救いを求めるようにサラを見上げている。口にしていた果物はメルエの手の中にあるが、それ以上口にしない様子を見せる事自体、果物好きのメルエにとっては珍しい事であった。

 

「おい、カミュ! お前は腐った果物をメルエに与えたのか!?」

 

「いや……メルエに与える果物は、アンタが厳選していた筈だが」

 

 果物を口にしないメルエの様子を見たリーシャは、その果物の味が悪く、腐ってしまっているのではないかと考えた。だが、カミュの言う通り、果物を収穫して来たのはカミュであるが、その中でメルエに与える物を選んだのはリーシャである。その証拠に、カミュが持っている果物は、メルエの持っている物に比べ、二回りほど小さい物。熟し切れておらず、味も酸味が強い物であった。

 

「メルエ、大丈夫か? その果物が嫌ならば、吐き出しても良いんだぞ?」

 

「そうですよ。『ぺっ』ってしましょう。『ぺっ』って」

 

 メルエ一人が顔を顰めただけで、とんでもない騒ぎである。カミュは一つ溜息を吐き出すが、リーシャやサラにとっては再び襲う不安感を拭えなかったのだろう。カミュは、人形のようになってしまったメルエを知らない。体調を崩したメルエをムオルの村で見た事はあるが、カミュは自分が持って来た果物が腐ってはいなかった事を知っているだけに、『味が気に入らなかったのだろう』程度にしか考えてはいなかったのだ。

 故に、大慌てでメルエに近付く二人を見て、溜息を吐く。二人がメルエを大事に想っている事は知ってはいるが、これ程過保護だとは思っていなかった。

 

「メルエ、水を飲め。水を飲んで、指を喉の中に入れて吐き出せ」

 

 サラが持っていた水を引っ手繰るように奪ったリーシャは、それをメルエの口に向けて指示を出す。だが、嫌がるように顔を背けるメルエを見て、困惑した。どうしたものかとサラへ視線を送るが、サラも同じ様に訳が解らず、首を捻るばかり。顔を背けたメルエは、そのままある一点を見つめ、先程と同じように唸り声を上げ始める。それは、カミュに何かを感じさせるのに充分な行動だった。

 

「魔物か!?」

 

「…………くさ……い…………」

 

 このパーティーの中で魔物の気配に一番敏感なのがメルエである事は、誰一人として疑わない。何度もこのメルエの不思議な感覚によって、彼等は窮地に陥る事無くやり過ごしているのだ。故にこそ、カミュは背中の剣を抜き放ち、メルエの視線の先に厳しい瞳を向けて身構えた。

 カミュの素早い動きに、リーシャとサラもようやく自分達の考えが勘違いであった事を悟る。各々の武器を手にし、暗闇の支配する森の奥へと視線を動かした。

 

「カミュ様、メルエの言葉からして……まさか、あの……」

 

「……腐乱死体だろうな」

 

 カミュの問いかけに答えたメルエの言葉は、以前に聞いた事のある物であった。それは、カミュが瀕死になる程の火傷を負い、そしてサラが初めて本気でメルエを叱ったあの時。ランシールへと向かう途中の野営中に遭遇したシャーマンという魔族が召喚した腐った死体との戦闘中にメルエが発した言葉なのだ。

 それが意味する事は唯一つ。再びこの夜の森を、あの腐乱死体が彷徨っているという事だろう。

 魔物は近年、その狂暴さを増してはいる。その為、『人』は生活の基盤である集落を離れる事が出来なくなっていた。だが、数十年も昔となれば、話は別である。この未開の地に等しい大陸は、自然が溢れている。自然が溢れているという事は、その中で暮らす動物達の数も多いという事。何も『人』を食すのは、『魔物』だけではない。魔物となっていない、自然界の動物達も肉食の者達は存在するし、そういう動物達は元来臆病である。自分達の住処に近付く未知なる者を排除しようと威嚇し、それでも立ち去らなければ襲いかかる。森の中で倒れる者は、何も『魔物』に襲われた者達ばかりではないのだ。

 毒蜘蛛に刺され命を落とした者もいるだろう。毒を持つ蛇に噛まれて死んだ者もいるだろう。蛭などに血を吸われ動けなくなった者もいただろう。そんな形で命を落とした者は、その後、世界を覆う『魔王バラモス』の魔力の影響を受け、再び彷徨い始めるのだ。

 

「うっ!」

 

「…………うぅぅ…………」

 

「カミュ、ごほっ……来るぞ!」

 

 漂い始めた死臭は、森の奥から一行の鼻を衝く。サラは口元を押さえ、メルエはサラの腰元にしがみついた。バトルアックスを構えたリーシャは、咽るような腐敗臭に口元を押さえながらも、カミュへと激を飛ばす。

 しかし、相手が腐乱死体である以上、カミュやリーシャの直接攻撃は通用しない。いや、通用するしないの問題ではなく、只々腐敗臭を撒き散らすだけの意味のない行為となってしまうのだ。

 

「ベギラマ」

 

 前へ踏み出す事を躊躇するリーシャの腕は、突然逞しい腕に引かれる。その腕の持ち主よりも後方へ下がらされた後、その持ち主は別の手を掲げ、詠唱を紡いだ。

 呟くような詠唱の後、その掌から熱風が迸る。周囲の木々に燃え移らないようにと配慮した灼熱の炎は、カミュ達と腐乱死体を遮るように炎の壁を造り、微かに見え始めていた異形を覆い隠して行った。

 

「一度、森の外へ出る」

 

「わかった」

 

 炎の壁といえども、カミュの放つベギラマでは、時間稼ぎ程度にしかならない。それは、以前に経験済みである。いずれは超えられる壁の前で待つよりも、森の外という広い場所へ出て迎え撃った方が良い事は明白であり、それを理解したリーシャは斧を手にしたままカミュの後を続き、サラは腰にしがみ付くメルエを促し、森の外へと飛び出した。

 

「ふぅ」

 

 森という、所謂閉鎖された空間ではなく、満面の星空が広がる解放された平原で思い切り息を吸い込んだリーシャは、再び斧を構え直し、森の入口へと視線を戻す。新鮮な空気を吸い込んだメルエは、安堵の息を吐き出し、その視線を森の入口にではなく、傍に立つサラへと向けた。

 一か所に固まる一行は、皆森の入口を見てはいるが、互いの声が聞こえない訳ではない。故に、この後に発するメルエの言葉に、驚愕の表情を浮かべる事となる。

 

「…………あたらしい………おぼえた…………」

 

「ふぇっ!?」

 

「なに!?」

 

 メルエが魔法を行使する上で、独断で行使出来る場面というのは限られている。メルエの能力の高さを危惧しているサラによって、その力の恐ろしさを教えられたメルエは、以前とは違う意味で、その言葉をサラへ向けて発していたのだ。

 だからこそ、サラは一行の中でも最も驚愕しているのだろう。あれから、メルエの魔法契約の際にはサラが同席するようにしている。ただ、メルエの精神の成長が未熟で契約出来なかった物に関しては、すぐに再契約の場を設けてはいない。だが、メルエは『賢き者』となる才能も有している者であり、一度見た魔法陣を再度描く事など造作もない。故に、一人で契約の儀式を行う事も可能ではあるのだ。

 

「メ、メルエ? まさかとは思いますが、あの呪文の契約を済ませてしまったのですか?」

 

「…………ん…………」

 

 恐ろしい物でも見たように目を見開くサラの問いに、メルエは満面の笑みで頷いた。本来であれば、この行為自体がサラとメルエの約束を破った物ではあるのだが、サラはメルエが契約を済ませてしまった呪文の目星がついている為、心底驚き、そしてその才能に慄いた。

 サラが思い至った呪文は、メルエの歳を考えれば、決して手に入れる事が出来ない程の高度な物。『悟りの書』という古の賢者が残した遺産の中に記載されている魔法の一つである。

 

「だ、駄目です! あ、あの呪文をこんな場所で行使してはいけません。ここで行使すれば、森に住む動物達や花々、そしてその花々に集う虫達の住処を奪ってしまいますよ。メルエの大好きな、あの動植物達を哀しい目に合わせるつもりですか?」

 

「…………だめ…………」

 

 我に返ったサラは、嬉しそうに自分を見上げるメルエを窘める。サラの予想通りの呪文だとすれば、カミュやリーシャが考えるよりも更に恐ろしい結果になることが考えられた。

 魔道士の杖を媒体としていたメルエの魔法でも規格外だったのだ。それにも拘らず、新たな杖は、まるでメルエの魔法力を知っていたかのように、その力を如何なく発揮させ、神秘へと変化させて行った。そこに無駄な物は何もなく、メルエの規格外の魔法力は全て、魔法という神秘へと変換されて行くのだろう。そうなれば、メルエの放った魔法は、この場所を変えてしまう程の威力を誇る筈。それをサラは心から畏れたのだ。

 

「サラ、もう来るぞ」

 

 サラとメルエのやり取りを聞いていたリーシャは、漂い始めた腐敗臭と死臭に顔を顰めながらも注意を促す。リーシャの言葉通り、月明かりに照らされた森の入口から数体の蠢く影が現れた。

 瞬時に濃くなる不快な臭いは、メルエの表情から笑顔を消し、一行の間に緊迫した空気を醸し出す。重い荷物を引き摺るような、地面を擦る音が周囲に響く毎に、その腐敗臭は濃くなって行き、メルエは杖を持ったままサラの腰に顔を埋めてしまった。

 

「私が呪文を行使してみます。初めて行使する魔法ですので、メルエのような威力は期待できません」

 

「……わかった」

 

「後は任せろ!」

 

 腰にメルエをつけたまま、サラはその手を森の入口へと向ける。サラの言葉を聞く限り、それは『魔法使い』であるメルエが既に何処かで行使している魔法なのだろう。だが、魔法の才能の塊であるメルエに比べれば、その威力は数段落ちる筈。しかも、初めて行使する魔法であれば、当然であろう。

 故に、カミュとリーシャは、呪文の行使が成功した後の行動を考えて頷きを返した。

 

「ヒャダイン!」

 

 腐敗臭が鼻を突き、吐き気を抑えきれなくなった頃、サラの呪文の詠唱がようやく完成した。それは、メルエの得意とする氷結呪文の中でも『悟りの書』に記載されている魔法の一つ。世の中の『魔法使い』と呼ばれる者達が持つ『魔道書』に記載されたヒャダルコという氷結系最強の魔法よりも一段上の呪文である。

 いつの間にか『魔道書』の呪文の契約を飛び越え、サラは『悟りの書』の呪文の契約を済ませていたのだ。

 サラの手から迸る冷気は、森の入口から出て来た影に襲いかかる。大気を凍らせる程の魔法力は、先頭を切って森を出て来た腐乱死体の身体を凍らせて行く。纏わりつく冷気は、腐敗しきった肉を凍らせ、氷の中へと閉じ込め、そして、それでも前へ進もうと足掻く腐乱死体の活動を停止させた。

 

「カミュ! 先に行く!」

 

 カミュの名を叫んで走り出したリーシャは、息を止め、凍りついた腐乱死体に一撃を加える。表面の氷を突き破ったバトルアックスは、そのまま腐乱死体の身体を両断した。メルエの行使するヒャダインよりも数段落ちる威力ではある為、腐乱死体の芯までをも凍らせる程の威力はない。

 いや、この呪文自体は芯まで凍らせる程に威力を誇る物なのであるが、メルエの物に比べると、サラが行使した場合、どうしてもその速度が劣ってしまうのだ。故に、魔法の効力が表れてすぐに振われたリーシャの戦斧は、凍り始めた腐乱死体を斬り刻む形となった。

 

「くそっ! どけ!」

 

 二体の腐乱死体を斬り飛ばしたリーシャは、横合いからの体当たりによって吹き飛ばされた。余程の者の力でなければ、リーシャの身体が揺らぐ事はない。不意を突かれた為か、それともその者の力量が同等の物であった為か、リーシャの身体はある程度の距離を飛び、倒れ込んだ。

 そして響く苦悶の声。それは、先日合流したばかりの『勇者』と呼ばれる青年の声だった。急いで声の方角に視線を向けると、そこには数体の腐乱死体に囲まれたカミュの姿が映る。攻撃を受けた為か、右腕を抑え、持っていた剣を取り落としている。そして、立ち上がったリーシャの目に、再度の攻撃を受けていないにも拘らずに膝を着くカミュの姿が飛び込んで来た。

 

「リーシャさん! カミュ様を下がらせて下さい! メルエ、呪文の準備を!」

 

「…………ん…………」

 

 僅かな空白な時間を作ってしまったリーシャは、珍しく張り上げたサラの声に我に返る。理由は解らないが、カミュが何らかの不具合に陥った事だけは確かであろう。このままでは、腐乱死体に囲まれたカミュがその餌食になってしまう事は明白。リーシャはバトルアックスを握り締め、腐敗臭を吸い込まないように息を止めて駆け出した。

 サラの後方では雷の杖を握ったメルエが、サラの指示を待っている。この分では先程サラが制した呪文を行使する可能性もあるだろう。そうであれば、あれ程にサラが怖れた威力を誇る物である以上、カミュやリーシャが巻き込まれる恐れさえも出て来る。

 

「やぁぁぁぁ!」

 

 リーシャは、大きく斧を振り抜き、カミュに一番近い腐乱死体を斬り飛ばした。腐敗した肉と、腐り切った体液が周囲に飛び散る。しかし、それがリーシャの身体に届く前に、彼女は膝をついていたカミュの腕を掴み、強引に立ち上がらせた。

 立ち上がったカミュを抱えたリーシャは、近寄る腐乱死体の一体をバトルアックスで突き飛ばし、一気に後方へと下がる。

 

「カミュ様をこちらに! 腕を見せて下さい!」

 

「どうだ!?」

 

 引き摺られるようにサラとメルエの場所へ戻されたカミュの腕を見るなり、サラの表情は曇った。その表情を見たリーシャは、カミュの状態を問いかける。その際に鼻に入る不快な腐敗臭など、今起こった不測の事態に比べれば、気にする程の事ではないのだろう。じりじりと近付いて来る腐乱死体達へ視線を向けたまま、リーシャは再度バトルアックスを構え直した。

 

「これは……一度キアリーを唱えます。リーシャさん! 相手は毒を持っているようです。メルエ、覚えた呪文ではなく、ヒャダインの詠唱準備に入って下さい!」

 

 カミュの腕の状態を見たサラが、その後の対応の指示を出す。立て続けに出された指示は、それぞれの役割を考え、それぞれの能力を発揮させる為に必要な物であった。それを感じたリーシャとメルエは、嘔吐感を抑えながらも、しっかりと頷きを返す。

 カミュの腕は、只の切り傷とは異なり、変色した形で腫れ上がっていた。余計な成分が体内に入り込み、カミュの身体が拒絶反応を示している事は確かである。紫色に変色した右腕は、既にその機能を失い、だらしなく垂れ下がっていた。

 

「キアリー」

 

 それを毒性分の影響と判断したサラは、『経典』に記載されている解毒呪文の詠唱を始める。『僧侶』として駆け出しの者がホイミ等の次に覚える回復呪文の一つ。初期の魔法ではあるが、『僧侶』として成長して行く為には必ず通らなければならない呪文である。教会の主として『司祭』や『神父』となる者は、この呪文の確実な詠唱が出来なければならず、若手の登竜門的な物であった。

 柔らかくカミュの腕を包み込んだ光は、カミュの身体に巡り始めている毒性分を体外へと弾き出す。紫色に変色していた腕は、その色を取り戻し、腫れも引いて行った。

 毒が抜けて行った事を確認したサラは、ベホイミの詠唱を行い、カミュの傷口を塞いで行く。その間も、迫り来る腐乱死体との距離を広げる為に、一行は徐々に後退を余儀なくされていた。

 

「アレに近付く事も危険だ。あの腐乱死体の吐き出す息にも毒が混じっている可能性が高い」

 

 身体から毒性分が抜けたカミュには、状況を把握し、それを警告する余裕が生まれている。カミュの言葉によって、直接戦闘が主流であるリーシャに出来る事は限られて来た。

 もしかすると、腕を傷つけられたカミュは、その時点では毒を受けていなかったのかもしれない。腐乱死体が息を吐き出すというのも可笑しな話ではあるが、実際に腐乱死体の口から毒の籠った空気が吐き出されているのも事実なのだろう。

 

【毒毒ゾンビ】

毒を受けた事によって死に至った人の成れの果てと云われている。その身体に毒を宿し、打撃によって付けた傷口から大量の毒を流し込み、その者を死に至らしめる。また、その体内に入った毒は、身体全体からも外へ放出されており、近くにいる者にも徐々に毒が回って行く事もある。<くさった死体>と同様に、死者が魔王の魔力を受けて、この世を彷徨うようになった物であり、その身体は朽ち果て、腐りきっている。その為、辺りに死臭と腐敗臭を撒き散らしながら新鮮な肉を求めて彷徨い歩いているのだ。

 

「良いですか、メルエ? 今のメルエは、以前のメルエと違います。自分の力と、その雷の杖を信じて。ヒャダインはメルエの身体が覚えているでしょう? あの魔物達だけを凍らせるように放つのですよ」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの治療を終えたサラは、杖を握って立つメルエの傍に近寄りその後ろから指示を出す。メルエと杖の関係について理解したサラの指示は、メルエならば必ず出来るという信頼の言葉だった。

 大きく頷いたメルエを見て、カミュとリーシャは道を開ける。目の前の景色が開けたメルエは、一歩足を前に踏み出し、不快な臭いに顔を顰めながらも、自分の背よりも高い杖を前に突き出した。

 腐乱死体がその身体を引き摺る音も、その身体から発する不快な死臭も消え失せる。全ては幼い少女が発する膨大な魔法力によって虚空の彼方へと消え失せた。

 

「…………ヒャダイン…………」

 

「!!」

 

 雷の杖の先にあるオブジェの瞳が光り、桁違いの魔法力が神秘へと変化されて行き、そして周囲の温度を消滅させた。毒毒ゾンビを飲み込むように吹き荒れた冷気は、巨大な氷の牢獄を作り出す。太古の龍種が吐き出す火炎をも防いでいた冷気がその力を強めて吹き荒れたのだ。

 既に命無き者といえども毒毒ゾンビからすれば堪った物ではない。氷の牢獄は一体残らず飲み込み、腐りきった肉体を壊して行く。壊死と表現するのが妥当なのだろうか。凍りついた毒毒ゾンビの身体は、カミュやリーシャが砕きに行く前に自壊して行った。

 余りにも凄まじい光景。氷像と化した物が自然に砕けて行った。それ程までに強力な呪文の威力を見せられたカミュ達は、一同呆気に取られる事となる。

 確かにメルエは、魔法を調節していた。冷気の影響を受けたのは、毒毒ゾンビのみ。あれ程の威力を見せるのであれば、冷気の通り道にいたカミュやリーシャの身体にも影響があって然るべきなのだが、彼等の身体に違和感など何もない。冷たい空気が通り過ぎたかと思えば、目の前にこの光景が広がったのだ。彼等は、改めてこの幼い『魔法使い』の規格外な力を認識する事となった。

 

「ベギラマ」

 

 真っ先に立ち直ったのは、この幼い『魔法使い』に魔法という神秘を与えた青年であった。砕け散った肉片を燃やし尽くす為に、周辺を灼熱呪文の詠唱によって焼き払う。

 意に反して現世を彷徨い歩いていた肉体と魂が煙となって天へと還って行き、夜の闇が支配する天への道は、優しく輝く月の光が照らし出し、『人』であった無数の残骸から立ち上る煙は、一筋の光の道を天へ向かって昇って行った。その道を無意識に眺めながら、リーシャとサラは我に返って行く。

 

「…………メルエ………できた…………?」

 

「はい。良く出来ました」

 

 上目遣いで自分を見上げて来るメルエの頭を優しく撫でたサラは、優しい笑みを浮かべながら、天へと視線を戻した。頭に乗る柔らかな手に目を細めていたメルエは、暫くその感触を楽しんだ後に、別の人間の足下へと移動する。バトルアックスを背中に納めたリーシャは、足下で期待に満ちた瞳を向ける少女に苦笑し、既に帽子を脱いでいる頭を優しく撫でつけた。

 サラもリーシャも、メルエと言う幼い『魔法使い』の行使する呪文の威力を目の当たりにする。だが、それでも彼女達の想いは変わらない。メルエがどれ程の者であろうと、自分達に向かって『褒めて欲しい』と頭を突き出す姿が、メルエの本質である事を彼女達は知っているからだ。

 メルエは見た目同様に子供なのである。その性質は凶悪な物でもなく、残酷な物でもない。まだ、世界と言う未知の物に興味を示しているだけの幼子なのだ。時に『純真』という物は残酷になるのだが、それも彼女の傍にサラやリーシャがいれば問題にはならない。ただ、それだけの事である。

 

「野営地に戻るぞ。腐敗臭が残っているだろうから、場所を変える必要がある」

 

 それは、剣を鞘に納め、森へと向かって歩き出した青年も同様であろう。彼にとって、メルエは護るべき者であって、恐れる者ではないのだ。彼女がどれ程の魔法を行使しようと、どれ程の威力を示そうと、それに対して恐れを抱く事はない。以前のように、その力を与えてしまった事への罪悪感を覚える事はあるだろうが、それを悔やむ時期は疾うに過ぎ去っていた。

 

「しかし、メルエのヒャダインを見てしまうと、私が行使したヒャダインは別物ですね。本当に私はヒャダインを行使したのでしょうか?」

 

「ふふふ。それは、サラの目がメルエの魔法に慣れてしまっただけだぞ」

 

 いつもと変わらぬやり取りが、彼女達の心に余裕を取り戻させる。立ち上る煙に向かって手を合わせていたサラが、先程メルエが行使した魔法を思い出し、一人悩むように顔を顰めた。

 しかし、そんなサラの疑問は、メルエの手を引いて歩き始めたリーシャによって一蹴される。魔法力を放出する事が出来ないリーシャから見れば、サラの疑問は馬鹿げた物だった。

 メルエに比べてしまうと、サラの攻撃魔法は見劣りしてしまうが、決してサラの魔法力が少ない訳でも、質が悪い訳でもない。むしろ、この世界の中で考えれば、既にサラは世界で二番目の魔法力を所持していると言っても過言ではない。世界で唯一の『賢者』となったサラの魔法力は、カミュと同様異質な物。『魔道書』の呪文も『教典』の呪文も契約が可能であり、更に『悟りの書』に記載された呪文まで行使出来る。どれ程にメルエが優れた『魔法使い』であろうと、その点で言えば、サラの方が上なのである。

 メルエも『悟りの書』に記載されている呪文の幾つかは契約が出来た。だが、『悟りの書』の残りの呪文や『教典』に記載される呪文などは、行使はおろか契約すら出来てはいないのだ。

 

「攻撃呪文では、メルエに分がある。だが、サラの唱えたヒャダインも、私から見れば充分に脅威だぞ? ヤマタノオロチとの戦いの時に、サラのヒャダインがあれば、私もカミュも火傷を負う事など皆無だったかもしれない」

 

「す、すみません」

 

 世界中を探しても、『魔道書』に記載された呪文の全ての契約を済ませた者など皆無に等しい。つまり、このパーティーにいる二人が頂点に君臨する者達なのである。まず第一に、ヒャダインを行使出来る者はいない。そして、リーシャの言葉通り、サラの行使したヒャダインは、ヤマタノオロチ戦でメルエが行使した物とそれ程大きな差は見受けられなかった。

 つまり、今のサラならば、溶岩が流れ出る灼熱の洞窟の中で、溶岩魔人を溶岩ごと凍らせる威力を発揮出来るという事になる。雷の杖という新たな杖を手に入れたメルエの魔法の威力によって、目が曇ってしまっているが、サラの成長も著しいという事だろう。

 才能という点では、サラはメルエの足元にも及ばない。だが、その魔法力の性質に関しては引けを取る事はないのだ。魔法という神秘に対して疑問を感じ、その在り方さえも考える。それがサラと言う『賢者』であった。

 故に、感覚で呪文を行使している節の強いメルエよりも、同じ呪文であれ、サラの方が高度なのだ。ただ、高度な完成度を誇る魔法が必ずしも威力ある物ではない。サラが雷の杖を持ったとしても、先程メルエが行使したようなヒャダインを行使出来るかというと話は別である。サラの呪文一つ一つは契約をした段階で完成され、それを行使しているに過ぎない。故に、媒体が何であれ、その呪文の効力も威力も変化はないのだ。

 

「…………あたらしい………の…………」

 

「メルエの新たな呪文は、必ず行使する時が来ますよ。ただ、あの魔法は少し……いえ大分威力が強すぎますので、時と場所を考えましょうね」

 

 先程まで満足そうに目を細めていたメルエであるが、リーシャの手を握って歩き出す頃には、新たな呪文の行使が出来なかった事に肩を落としていた。そんなメルエに苦笑を洩らしたサラは、その呪文が及ぼす影響を考え、その行使する時期を考え始める。だが、どれ程に考えても適した場所などないのではないかと言う結論に達してしまうのだが、それを隠してメルエに笑い掛けた。メルエは不承不承に頷きを返し、リーシャと共にカミュの後を追って歩き出す。

 カミュの想定通り、戻った野営地には、所々に腐肉の破片が散らばり、腐敗臭と死臭に満ちていた。メルエは火の傍に近寄ろうともせず、サラの腰元に顔を埋めて、サラさえも近づけさせない。仕方なくカミュとリーシャで荷物を運び、野営地の場所を移動させた。

 移動した場所で火を熾すとすぐに、メルエはサラの傍で丸くなって寝息を立て始める。暫くぶりの徒歩での旅と呪文の行使が、メルエの小さな身体に疲労を残していたのだろう。カミュのマントを剥ぎ取ったリーシャは、それをメルエに掛け、その髪を柔らかく梳いて行く。月明かりが木々の隙間から覗く中、薪が燃える音と、三人の柔らかな笑みが零れていた。

 

 

 

 翌朝、いつもより早起きしたメルエの食事を済ませた一行は、朝陽が顔を出したと同時に船が見える浅瀬へと歩き始めた。陽が昇る程に気温は上昇して行くが、メルエはカミュの傍で笑顔を作っている。カミュ達と旅が出来る事、再び魔法が発現した事、自分の唱えた呪文が誰も傷つけなかった事、それら全てが嬉しく、世界が輝いて見えているのかもしれない。そんな穏やかな旅路は、船に辿り着くまで続けられた。

 

「おお! お帰り! 会えたのだな。メルエちゃんもお帰り! 皆、三人の帰りを待っていたんだぞ!」

 

 船に上がったと同時に頭目に抱き上げられたメルエは、困ったような表情を浮かべた後、船員達の顔を見て笑顔に変える。頭目の言葉が真実である事の証明に、船員達の顔には、例外なく笑みと満足感が滲み出ていた。

 カミュと共に旅を続けていた彼等は、心底三人の身を案じていたのだろう。実は、船が大きく見え始めた頃から、その歓声はリーシャ達の耳にも届いていたのだ。何処か気恥ずかしく、それでいてこれ以上ない程の喜びを感じる歓声は、サラの瞳に涙を滲ませる程の物。まるで、そこが自分達の帰る場所であるかのような感覚に陥る事が、リーシャやサラには何故か嬉しかった。

 

「お帰りなさい」

 

「元気そうで何よりだ」

 

 次々とリーシャ達三人へ近付いて来た船員達が、口々に言葉を掛けて来る。その言葉は、飾りでも社交辞令でもない。心底、彼女達の身を案じ、その無事を喜んでいる事が解る程の物。故に、リーシャ達は一人一人の手を取り、その言葉に感謝を示す。サラなどは、もはや涙を拭う事さえ諦めていた。

 これ程までに自分を心配してくれる仲間達がいると言う事実が、この『賢者』を更なる高みへと連れて行くだろう。泣きながら微笑むサラの顔は、リーシャにそう思わせる程に美しく、そして晴れやかであった。

 

「北へ行くのか?」

 

「ああ。この大陸の北に『グリンラッド』という島があるらしい」

 

 落ち着きを取り戻した船の上で、カミュ達は頭目と今後の方針を話し始める。陽も傾いて来ている為、出港は明日に回し、その行動方針を先に決める事にしたのだ。リーシャ達と逸れたカミュは、その間、このような形で船の進路を決めて来た。

 カミュと頭目で地図を広げ、その場所場所の情報を考えながら、リーシャ達が行きそうな場所に目星をつけて移動する。その繰り返しの末、最後に向かったのが、このスーの村であったのだ。

 

「本当は、アープの塔という塔へ行きたい。この大陸の西側にあると言われているが、険しい山が多く、北へ行ってからの方が良いだろう?」

 

「塔?……塔なら、ここからでも見えているぞ?」

 

 カミュの考える方針を聞いていた頭目に、リーシャが言葉の補足をする。カミュの言葉だけでは、その場所へ向かう理由などは全く解らない。故に、リーシャが内容を補足したのだが、それはカミュ達四人の予想外な答えとなって返って来た。

 頭目の指差す方角へ首を動かすと、沈み行く太陽の光を受けて、真っ赤にそびえ立つ建造物が微かに見える。スーの村からでは険しい山脈に邪魔され、影も形も見えなかった塔ではあったが、この船の停泊している浅瀬からであれば、山脈も途切れ、平原の向こうに高い建造物が微かに見えていたのだ。

 

「カミュ、どうする?」

 

「ここからでも見えると言う事は、それなりの高さを持っているという事でしょうね」

 

 塔であると思われる物を視界に納めたリーシャは、方針の変更があるのかどうかをカミュへ問いかけ、サラはその容貌から、塔の内部の構造の予想を口にする。皆が西の大地を眺める中、メルエは甲板の縁に木箱を置き、その上に立って西の大陸へ目を凝らした。

 それぞれがそれぞれの方法で眺める西の大地は、平原と森が広がる有り触れた大地でありながらも、燃えるような夕陽の輝きを受け、神秘的な色を演出している。

 

「塔へ向かう」

 

「解りました」

 

「そうか。よし! ならば、今日は湯浴みをして、ゆっくり休む事にしよう」

 

「…………ん…………」

 

 暫しの間、夕陽が沈み行く姿を見ていたカミュは、振り返ってリーシャ達三人に視線を送り、方針の変更を告げた。その答えに大きく頷いたサラは、再び塔へと視線を戻し、リーシャはメルエの傍によってその髪を優しく梳く。気持ち良さそうに目を細めたメルエは小さく頷きを返し、笑みを溢した。

 方針は決まった。次の目的地はグリンラッドと呼ばれる北の大地ではなく、スーの村でアープの塔という名で伝わる内海を望む場所にそびえる塔となる。

 『古の賢者』が残したと考えられる書物の中にあった山彦の笛という宝物が眠る可能性のある塔。カミュ達が探し求める『オーブ』を手にする為に必要な物でありながらも、全てが謎に包まれている山彦の笛という物を求めて、彼等は小さく見える塔を目指す。

 

「スーの村という場所には、何か特産品があったか?」

 

 目的地が決まったカミュ達に頭目が唐突な質問をぶつけた。彼等とて、カミュ達がいない間に船で呆けている訳ではない。今は、この船の中に元カンダタ一味幹部の者達もおり、特産品や食料を調達して船に戻る事も、余程距離がない限りは可能である。ポルトガ等で仕入れた物を売却し、新たな物を仕入れる事も彼等の重要な仕事の一つなのだ。

 『目立った物はないが、食料などは充実していた』というリーシャの言葉に笑顔を作った頭目は、明日からの仕入部隊の選別を始めた。道中を心配するカミュの解り辛い言葉に苦笑しながらも、元カンダタ一味を中心とした部隊を作成し始める。何を言っても聞かない事を察したカミュは、スーの村では言葉が伝わり辛い事と、エジンベアの物は持って行かない事などの注意点を告げるに留まった。

 陽が完全に落ち切り、暗闇が支配する頃には、メルエとサラは自室で眠りにつき、明日の仕入部隊もまた、充分な休息を取る為に合同の仮眠室へと消えていた。今日も優しく輝く月明かりの下、西の大地を見つめるカミュは、一人、小さな達成感を胸に抱きながら、新たな目標に向かって目を細める。

 

 『古の賢者』が世間から隠した笛。

 その笛を手に入れる事によって、収集を容易にすると云われている『オーブ』。

 世界に六つある『オーブ』を捧げる祭壇。

 その祭壇へ『オーブ』を捧げる事によって、蘇る従者。

 

 それらが全て、彼等が歩む旅路に影響を及ぼす物となる。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今回は予約投稿となりますが、今週の木金はお盆休みを頂きますので、物語を進めて行きたいと思っています。なるべく早く更新できるように描いて行きますが、よろしくお願い致します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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