新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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グリンラッド

 

 

 

ルザミを出たカミュ達は、戦闘を行う事も無く、一夜を明かした後、船へと戻った。頭目へ目的地への方角を伝え、船は進路を南へと取る事となる。朝陽が昇り、心地良い風が帆に力を与え、真っ直ぐ南へと進み出した船の上では、再び訪れるであろう寒波への対策を取っていた。寒さを防ぐために、船員達の手には手袋が嵌められ、薄手の上着を羽織る準備を始める。

 

「寒波に襲われるまで、数週間程掛かると思われます。肌寒く感じたら、皆さん上着を羽織って下さい」

 

サラの指示を受け、船員達は頷きを返した。海の上に関しては船員達の方が詳しくはあるのだが、この世界の果てに近い部分に恐れを抱いている船員達は、サラの指示を素直に受け入れる。上空を見上げれば、穏やかで暖かな風が吹いているのだが、ここまでの航路を考えると、この先で『雪』が降る程の寒さになる可能性を誰もが否定できないのだ。

 

「カミュ!」

 

「わかっている」

 

船員達がそれぞれの持ち場で懸命に動き回っている最中、リーシャが突然声を発した。その言葉に頷いたカミュは、背中の鞘から剣を抜き放つ。リーシャの視界の先に船に這い上がろうとしている貝がいくつも映ったのだ。徐々に甲板へと上がって来る貝は、十匹前後。炎を使って焼き殺す訳にも行かない為、貝が甲板へ上がり切るまで待つ以外に方法はなかった。

 

「メルエ、上がって来る貝に<ヒャド>を放てますか?」

 

「…………ん…………」

 

だが、じっと待つ事を選択したカミュやリーシャとは異なり、サラは甲板へ上がって来る貝の数を減らすという選択肢を取る。メルエと共に左右へ分かれたサラは、船の側面に貼り付く貝へ<ヒャド>の行使を始めた。的確に行使された冷気の塊は、貝を直撃するが、まるでその貝の部分に防がれたように霧散して行く。驚きを表すサラであったが、メルエの方へ視線を向けると、護衛の為に付き添ったカミュの横で<ヒャド>を行使しているメルエは、幾つかの貝を凍りつかせ、海へと落としていた。

 

「あの貝殻は、魔法への耐性もあるようですね」

 

「そうか。無理をせず、甲板へ上げろ。後は私達の役目だ」

 

自分の護衛の為に傍にいたリーシャへ状況を告げると、リーシャは<バトルアックス>を持ち、サラを後方へと下げる。呪文が効かない可能性がある以上、ぎりぎりまで魔法を行使する必要性はない。よくよく見れば、一度遭遇した事のある魔物である事が解る。一年以上前にムオルという小さな村で遭遇した事のある貝を被ったスライムのような魔物。<スライムつむり>と呼ばれる、海岸などに生息する魔物だ。もしかすると、ルザミの海岸を出る際に、船底に着いていたのかもしれない。

 

「メルエも下がれ」

 

「…………ん…………」

 

数体の<スライムつむり>を撃退していたメルエであるが、自分の魔法が効かない相手がいる事で『むぅ』と頬を膨らませていた。そんなメルエの腕を引き、後方へ移動させたカミュは、手に持った<草薙剣>を軽く一振りし、船上に顔を出した<スライムつむり>を弾き飛ばす。カミュの一振りで貝を割られた<スライムつむり>は、中身の胴体ごと真っ二つに切り飛ばされ、海へと落ちて行った。

 

「苦労する程の硬さではないようだな」

 

カミュの行動を見たリーシャは、以前ムオルで対戦した時に感じた硬さを感じない事で斧を構えて駆け出した。以前は、サラの<ルカニ>という呪文の助けを借りて倒した相手ではあったが、あの頃とは武器も、それを使いこなす技量も格段に上がっている。それを理解したからこそ、リーシャは真横に斧を薙いだのだ。一閃する<バトルアックス>は貝を粉々に粉砕し、スライムのような身体を海へと叩き落とす。瞬く間に数を減らして行く<スライムつむり>を見た船員達は、再びそれぞれの持ち場に戻り、船の進路の確保を始めた。

 

「これで最後だな」

 

飛び込んで来た<スライムつむり>を遙か彼方の海まで弾き飛ばしたリーシャは、一息吐き出す。船員達も普段の業務に戻っているし、そこに焦りなどは全く感じられない。この船の船員達も、既に数え切れない程の戦闘をこなして来ているのだ。自分達が苦戦するような魔物達であっても、カミュ達『勇者一行』がいれば、苦戦などする筈がないという安心感を持ち始めている。海の魔物達は限られている為、<大王イカ>などと遭遇しない限り、それ程脅威とは感じないのかもしれない。

 

船はその後も、何度かの魔物との遭遇を経て、数週間の旅を続けた。徐々に下がる気温の中、メルエだけはそのままの姿で船から見える景色を眺めている。いつもと同じ服装で、いつもと同じ木箱の上に立ち、いつもと同じ波打つ海を眺めているのだ。何がそれ程に楽しいのかをリーシャやサラには理解出来ないが、海を眺め、その上空を飛び回る海鳥達を眺めているメルエの表情は常に笑顔であった。

 

「メルエ、もうそろそろ寒くなり始めましたから、こちらに来て何かを羽織りましょう?」

 

「…………いや…………」

 

冷たい風が吹き抜けて行くのを感じ、風で髪が靡いているメルエを呼んだサラは、返って来た拒絶の言葉に驚いてしまう。『むぅ』と頬を膨らませ、首を横に振るメルエに驚きながらも苦笑を浮かべたサラは、メルエが立っている木箱へと近付いて行った。海風が冷たく、空を飛んでいた海鳥達の姿も疎らになっている。そんな中でも、海を眺める事に固執するメルエは、近付いて来た事サラを眉を下げて見上げるのだった。

 

「メルエは寒くないのですか? ほら、こんなに風が冷たくなって来て。メルエの頬も手も冷たくなってしまっていますよ」

 

「…………さむく………ない…………」

 

メルエの頬に手を当てると、やはり長時間の間冷たい風に晒された事によって冷え切っている。それでも眉を下げながら海を眺めるメルエを見て、サラは首を傾げた。おそらく、メルエは上着を着たくないと言っている訳ではないのだろう。実際に身体は冷え切っているが、寒さを感じていないのかもしれない。別段、身体が雨で濡れている訳でもなく、衣服が波飛沫で濡れている訳でもない。単純な気温の低下と、風の冷たさを『寒い』とは感じていないのかもしれないとサラは考え、そこまで思考が進み、初めて目を見開いた。

 

「メルエ、おでこを出して! 頭が痛くなってはいないですか!? 身体がだるくはないですか!?」

 

「…………むぅ…………」

 

周囲の気温の変化を感じない程に身体が火照り、熱を持っているのだとしたら、以前と同じように病気を患っているのかもしれない。故に、サラは大慌てでメルエの身体を確認して行く。おでこに手を当て、身体の不調を感じていないかを問いかける。そんな二人のやり取りを聞いていたリーシャもまた、慌ててメルエの傍へと駆け寄って来ていた。だが、身体中を触られ、状態を確かめられている事に、メルエは軽く頬を膨らませる。

 

『体調が悪いと感じたら、必ず告げる事』

 

リーシャと交わしたその約束は、メルエの頭にしっかりと刻まれており、その約束を破る事などするつもりのないメルエにとっては、サラの行動が自分を疑っているように感じてしまったのだろう。頬を膨らませたメルエは、リーシャが慌てて近付いて来るのを見ると、尚一層厳しい瞳をサラへと向けた。サラとして見れば、純粋にメルエを心配しているのであって、メルエを疑っている訳ではないのだが、メルエの身体が無事である事を単純に喜び、そしてメルエへ軽く謝罪を告げる。

 

「メルエは大丈夫なのか?」

 

「はい。熱なども無いようですし、メルエも体調は悪くないと言っています。もしかすると、メルエは寒さに強いのかもしれませんね。身体が濡れでもしない限りは、上着を羽織る必要はないかもしれませんが、万が一を考えて、厚着をしておきましょう?」

 

「…………ん…………」

 

サラの答えに安堵の溜息を吐き出したリーシャは、小さく頷くメルエを見て、その頭を優しく撫でつけた。リーシャの言葉を聞き、純粋に心配してくれている事を理解したのだろう。木箱の上から降りたメルエは、サラとリーシャと共に甲板の中央へ移動し、毛布のような物に包まって、リーシャの膝の上に腰かける。船がゆっくりと揺れながら南へと進み、張詰めた冷気によって空気が澄み始めた頃には、メルエは小さな寝息を立てていた。

 

 

 

「陸地が見えたぞ!」

 

船は更に一週間程の航海を経て、大きな島へ辿り着いた。その島は、船の上から全体を見渡せる程小さくはない。カミュはルザミで聞いた内容を思い出し、出来るだけ西側へ上陸できるように頭目へ言葉をかけた。船は島沿いに西へと進み、上陸が出来そうな場所を見つけ、停泊させる為に錨を下ろす。陽が落ち始めている事から、船で一泊してから上陸する事となり、冷たい風と、空を覆う厚い雲の中、一夜を明かした。

 

「メルエ、勝手に動き回っては駄目ですよ」

 

翌日、島へ上陸したカミュ達であったが、一面が雪と氷に覆われた大地を見て、改めてこの島の異様さを感じていた。そんな三人とは異なり、メルエだけは『雪』の存在に目を輝かせ、手袋を嵌めた手を雪深くに入れ、雪を掬っては上空へ放り投げている。雲の隙間から見える太陽の光を受けて輝く結晶は、メルエの上から舞い降り、メルエ自体を輝かせているようにも見えた。そんな無邪気なメルエの姿に一行の心は和らぎ、島を南へと歩き始める。

 

「しかし、本当に氷に覆われた島なのだな……これでは陽が暮れた際に休む場所などないのかもしれないぞ?」

 

「薪はいくらか持って来ている。三日以内に辿り着ければ、問題はない筈だ」

 

カミュを先頭に歩き出した一行であったが、見渡す限り雪原という光景に圧倒されていた。風が吹く度に、粉のような結晶が飛び、太陽の光を受けて輝く大地が神秘的に見えはするが、身体に感じる寒さは、今まで感じた事のない程の物。カミュ達は念の為に、鎧や法衣の上に毛布を掛けてはいるが、それでも身体の芯へ響く程の風に身を縮める他はない。唯一人、幼い少女だけは、まるで遊び場を見つけたかのように『雪』を触り、頬を赤くしながらも笑顔を浮かべていた。

 

カミュは、ルザミにいた学者に地図上へ印を付けて貰っており、その場所を目指して歩いているのだが、今までと異なり、周囲が完全に見渡せる程の平原という事もあってか、進行速度が上がらない。太陽も雲に隠れている時間が長く、方角を特定するのは容易な事ではなかった。休む場所も見付けられないまま歩き続けた一行は、太陽の輝きが西の空へ移動した頃、ようやく洞穴のような横穴を発見する。

 

「カミュ、一度この辺りで休もう。正直、そろそろ寒さも限界だ」

 

「わかった」

 

リーシャの提案を受け、カミュは洞穴へ入って行く。魔物や凶暴な動物の棲み処ではない事を確認し、他の三人が入って来た時には、既に薪が敷かれ、火が熾されていた。メルエの濡れた手袋を乾かしながら、その身体を温めて行く。船から持って来ていた干し肉などを炙り、口に入れていた一行の目に外の景色が映り込む。

 

「随分暗くなって来たな」

 

「そうですね……あれ? 『雪』が降って来たのでしょうか?」

 

リーシャの言葉に頷いたサラは、暗い空からひらひらと舞い散る白い粉を見つけ、横穴の外へと顔を出した。サラの予想通り、それは船上で体験した『雪』と呼ばれる物。雨のように地面を叩きつけるような音がする訳ではない。だが、とても静かに舞い落ちる雪は、確実に雪原へと降り積もり、その嵩を増して行った。

 

「メルエ、眠っても良いですが、火の傍でですよ?」

 

「…………ん…………」

 

自分の傍で船を漕ぎ始めたメルエを見て、サラは苦笑を浮かべる。小さく頷いたメルエは、持っていた毛布を被り、サラの傍で眠りに就いた。静かに舞い落ちる雪は、とても小さく、神秘的な音を立てて、地面に降り積もって行く。何年も、何十年も、いや何百年もの間、この土地にはこのように雪が降り積もって来たのであろう。真っ白な雪原に静寂が広がり、天から舞い落ちる小さな結晶達だけが、この場所も、その音も支配して行く。小さく、静かな音を聴きながら、サラも静かに瞳を閉じた。

 

 

 

翌朝、サラが目を覚ますと、そこは別世界だった。昨夜から降り出した『雪』は、未だに天から止め処なく舞い落ちて来る。そして、昨夜とは異なり、それは静かな音ではなく、轟音となって雪原を吹き荒れていた。横穴から外の景色を確認する事は出来ない。横殴りに吹きつける風は、空から舞い散る雪も、雪原に積もっている雪も区別が出来ない程に舞い上がらせ、叩きつけるように吹き飛ばしていた。

 

「カミュ、今日は動けないのではないか?」

 

「ああ。だが、薪にも限りがある。視界が良くなったら、南へ向かって歩くぞ」

 

横穴の入り口では、外の様子を見ていたカミュとリーシャが今日の行動を話し合っている。リーシャは、この吹雪で視界も限られた中を歩く事が逆に危険になると考えていた。だが、カミュの言い分も尤もで、火を熾す為の薪の数量が限られている以上、ここで立ち往生をしていれば、それこそ凍死を待つだけなのである。故に、リーシャはしっかりと頷きを返した。

 

「サラ、メルエは起こすな。出発するまで体力を温存させ、この風が落ち着いたら、一気に南へ進む」

 

「はい」

 

振り返ったリーシャは、サラが目を覚ましている事に気が付き、未だに眠りに就いているメルエについて指示を出した。幼いメルエの体力は、その身に宿る魔法力によって支えられていると言っても過言ではない。つまり、元々の体力は皆無に等しいのだ。膨大で強力な魔法力を有している代わりに、メルエは年相応の体力しか持ち合わせてはいない。如何に寒さに強かろうと、この横殴りの吹雪の中を歩くのは、かなり厳しい事である事は明白であった。

 

「少し治まって来たか?」

 

「そうですね。前方が見えて来ました」

 

「メルエを起こしてくれ。メルエを背負って出るぞ」

 

暫しの間、洞窟内で様子を見ていた一行であったが、風が静まり、雲の切れ間から太陽の陽射しが差し込み始めるのを見て、『勇者』が動き出す。洞窟の入口に積もる雪を焚き火へ放り込み、鎮火させた後、既に準備済みの道具を抱え、洞窟の入口に立った。歩む速度を考え、幼いメルエはリーシャが背負う事となり、毛布で包むようにメルエを背負ったリーシャは、右手で<バトルアックス>を握り、それを自身を支える杖のように使って歩き始める。メルエが持つ<雷の杖>は、そのままメルエの身体に括りつけてある。メルエの身体に括りつけていれば、その重みも感じないだろうという理由であったが、既に主を定めた<雷の杖>が、その仲間達の手を拒絶するかどうかは定かではない。

 

「行くぞ」

 

カミュの呟きに似た指示を受け、リーシャとサラはしっかりと頷きを返す。メルエだけは、未だに夢の中を彷徨っているのか、一度頷きを返した後、リーシャの背中で再び瞳を閉じてしまった。昨夜の寒さから、メルエの体調を心配したサラが熱などの状況を確認はしたが、その心配はなく、一行はそのまま雪が舞う雪原へと足を踏み出す。風は穏やかになったとはいえ、横殴りである事に変わりはない。真横から吹きつける風は空から舞う雪と、降り積もった雪を舞い上がらせ、カミュ達の側面に容赦無く当てて行った。

 

「カミュ、方角は解るか?」

 

「微かに見える光があの辺りですので、今は南西に向かっている事は間違いないとは思いますが……」

 

「大丈夫だ。毛布を被り、手や身体を濡らすな。メルエの身体も気を付けてやってくれ」

 

先頭を歩くカミュへ問いかける声は、かなりの声量を誇る。横殴りの風と、視界を奪う雪が、全ての音源を奪ってしまうのだ。リーシャの問いかけに空を見上げたサラは、雲の隙間から見える微かな太陽の光を確認し、現状歩いている方角を導き出す。まるで、『アンタに心配されるとは心外だ』とでも言うように溜息を吐き出したカミュは、リーシャの背中で『うとうと』しているメルエを見て、毛布をかけ直すように指示を出した。雪は水分を多く含んでいるようには見えない程の粉のような物であるが、身体に降り積もれば、体温によって溶け、身体を濡らして行く事は明白であり、それによって体温を奪われて行く事を恐れたのだ。

 

「視界が悪いですので、出来るだけ纏まって歩きましょう」

 

「そうだな」

 

振り向いてリーシャに声を掛けるサラの睫毛には、既に粉雪が付着し始めている。僅か一か月前には、この『雪』という存在自体を知らなかった者達が、『雪』の恐ろしさを肌で感じ始めている。今は常に前へと進んではいるが、この場所に留まり、腰を下ろしなどしてしまえば、数刻の内に雪に埋もれてしまうのではないかと思う程に、舞い落ちる雪の量は多いのだ。それは、『人』では太刀打ちの出来ない『魔物』という物と戦いを続けて来た歴戦の者達さえも恐怖に陥れる程の脅威。自然という名の暴力をその身に受け始めた彼等の心は、知らず知らずの内に焦りを生み出していた。

 

「待て! それ以上進むな!」

 

「ふぇ!?」

 

その焦りはサラという頭脳の心をも蝕んでいた。地図を見ながら、そして後方の仲間達を気にしながら進んでいたカミュを、いつの間にかサラは追い越していた。固まって歩いていた筈なのだが、叩きつけるように顔に当たる雪を避けるように、俯きながら歩いていたサラは、カミュより二歩程前に出てしまったのだ。そして、その数歩が、カミュの叱責を受ける理由となる。カミュの怒鳴り声に顔を上げたサラの目の前に巨大な氷の腕のような物が立ち塞がっていた。

 

「サラ!」

 

「ちっ!」

 

メルエを背負っている為に走り出せないリーシャは、サラの名前を叫ぶ。大きな舌打ちをしたカミュがその目の前を疾走して行ったのは同時だった。サラの目の前に出現した太い腕のような氷の塊は、そのまま正面からサラを殴りつける。横殴りの風を切り裂くような唸り音が響き、その巨大な氷の拳は、サラの身体に直撃したように見えた。

 

「ぐっ」

 

しかし、その拳はサラの身体の目の前に立った者を弾き飛した。拳が迫ったその瞬間、サラの身体は大きな力で後ろへと引かれ、今までサラがいた場所には、先程彼女を叱責した青年が躍り出たのだ。前に出たカミュは、盾を掲げる暇もなく、<魔法の鎧>を装備した胴体にその拳を受ける。自分の胴体と同じ程の太さを持つ腕を受けたカミュの身体は、後方へ弾き飛ばされ、数度跳ねた後、リーシャの足下へ転がって行った。

 

「サラ! 早く戻れ!」

 

「は、はい!」

 

自分の身に降りかかった出来事に呆然としていたサラは、リーシャの声で我に返り、<鉄の槍>を一振りし、リーシャ達の許へ戻る。即座にカミュの容体を見ようと屈むが、その手を払いのけるように立ち上がるカミュを見て、サラの心は完全に立ち直った。再び前方へ視線を送ると、まるで雪原から身体が生えたような物が三体。片腕を雪原から伸ばし、顔のような部分には怪しく光る二つの光源が見える。吹雪で視界が悪い中でも視認できる程に、その怪物達の身体は氷の輝きを放っていた。

 

<氷河魔人>

以前に遭遇した<溶岩魔人>と同様、本来命が宿っていない物が『魔王バラモス』の魔力によって命が吹き込まれた魔物。大地を覆う分厚い氷が命を持ち、人型の身体を形成する。全てを凍らせる程の冷気を有した拳は、触れた者の身体を凍りつかせる程の威力を誇り、周囲を満たす雪を纏い、吹雪を起こして対象の身体を凍りつかせる。

 

「カミュ、鎧が凍っているぞ!?」

 

「鎧だけだ。身体に異常はない」

 

リーシャはメルエを下ろし、起き上がったカミュの身体を見て声を上げた。<氷河魔人>の拳を受けたカミュの胴は、氷を付着させていた。吹きつける雪が凍った訳ではない。拳を受けた部分から弾けるように氷が付着しているのだ。それは、首筋の方まで広がってはいるが、カミュの言葉通り、それは首を捻る事で砕け落ちる程の物だった。剣と斧を構えたカミュとリーシャではあったが、この<氷河魔人>という魔物に物理攻撃の効果があるのかどうかは怪しい。故に、無暗に踏み出す事が出来ず、<氷河魔人>の方も、様子を窺うように、行動を起こす事はなかった。

 

「カミュ様、申し訳ありませんが、一度あの魔物へ剣を振って下さい。出来る事ならば、あの魔物達を一か所に集めて貰いたいのです。その後はすぐに、この場所へ戻って下さい」

 

「……どうするつもりだ……」

 

先程の失態があった為か、珍しくサラの指示にカミュが疑問を発した。最近はサラの指示を拒むような事をして来なかったカミュではあったが、剣を振るうだけで、相手を叩けという物ではない事が疑問を持たせたのかもしれない。<氷河魔人>の拳の恐ろしさを理解出来ないサラではない以上、そこに何らかの思惑があると考えたカミュは、視線を<氷河魔人>から離す事無く、サラへ問いかけたのだ。リーシャもまた、サラへ視線を送る。雪が降りしきるこの雪原で<バトルアックス>を握る手も、手袋を嵌めているとはいえども悴みを見せている。何度も振るえる程の余力はないだろう。リーシャとしても、その事実を把握しているだけに、サラへ視線を送る以外になかったのだ。

 

「メルエ、起きていますか? メルエの新しい魔法、行けますね?」

 

「…………ん…………」

 

心外だと言わんばかりに頬を膨らませたメルエは、しっかりと頷きを返す。リーシャの背中から降ろされたメルエは、目を擦りながら『ぼぅ』としていたが、カミュが弾き飛ばされた瞬間、その目は覚醒された。しっかりと開かれた瞳は『怒り』と『想い』の炎を宿している。握られた<雷の杖>にもメルエの感情が乗り移ったかのように熱が籠り、舞い落ちる雪を溶かしていた。

 

「頼むぞ、メルエ。行こう、カミュ!」

 

「……ああ……」

 

サラの言葉とメルエの瞳を見たリーシャは、吹雪を吹き飛ばす程の笑みを浮かべた。まるでパーティー全員を照らし出す太陽のような微笑みは、サラとメルエの自信と誇りを後押しし、その行動を支えて行く。一つ頷いたカミュと息を合わせたかのように駆け出したリーシャは、近づいて来る邪魔者を排除するように振られた<氷河魔人>の腕を避け、<バトルアックス>を振り下した。

 

「盾を掲げろ!」

 

「くっ!」

 

乾いた音を立てて<氷河魔人>の頭部に弾かれた斧は、リーシャの身体を泳がせる。態勢を崩しかけたリーシャに後方から駆けて来たカミュの檄が飛び、慌てて盾を掲げた。間一髪のタイミングで掲げられた<魔法の盾>に、もう一体の<氷河魔人>の腕が襲いかかる。態勢を崩していたとはいえ、彼女は『戦士』。魔物の渾身の一撃であろうと、不意を突かれない限りは吹き飛ぶ事はない。踏鞴を踏むように数歩下がったリーシャであるが、追い打ちをかけるように近付いて来た<氷河魔人>の腕を<バトルアックス>を振るう事で押し返した。

 

「どけ!」

 

リーシャの斧によって、<氷河魔人>の身体の一部であった氷が周囲に飛び散る中、横合いから飛び出して来たカミュが<草薙剣>を振り下ろす。神代から存在する神剣と伝えられるその剣は、リーシャの斧によってひび割れた氷の身体に止めを刺した。カミュの剣を受けた<氷河魔人>の腕は、瞬時にひびが広がり、腕の付け根の部分から砕け散る。腕を失った<氷河魔人>は、言葉にもならない奇声のような音を発し、雪原へと崩れ落ちた。

 

「一体はやったか?」

 

「……いや……」

 

雪原へ崩れ落ちた<氷河魔人>を見て、一体を仕留めたと考えたリーシャは、傍にいるカミュへ言葉をかけるが、視線を動かそうとしないカミュによって、その希望は打ち砕かれる。残りの二体がカミュ達を襲う為に近付いて来る中、先程<氷河魔人>が崩れ落ちた雪原の氷に変化が見えたのだ。再び盛り上がった氷は、徐々に腕の形を形成し、他の二体が集った頃には、完全に元の形を形成し終えてしまった。

 

「カミュ、これは私達では相手が出来ないぞ」

 

「そんな事は初めから解っていた筈だ」

 

じりじりと距離を縮めて来る<氷河魔人>達を見て、リーシャが<バトルアックス>を握る手に汗が滲み出る。以前に遭遇した<溶岩魔人>などと同様、『魔王バラモス』の魔力を受けて命を宿した核のような物を破壊しない限り、この魔物を滅ぼす事は出来ないのかもしれない。それを感じたリーシャは、珍しく弱気の発言を洩らした。初めて見る魔物の形態ではない。だが、彼女の中にも旅の中で数多くの魔物を打ち滅ぼして来た自信がある。それが揺らいだ瞬間だった。そんなリーシャの悲哀は、旅立つその瞬間から共に歩んで来た『勇者』によって一蹴される。『俺達だけで旅を続けて来た訳ではないだろう?』と。

 

「カミュ様、リーシャさん! 下がって!」

 

カミュの言葉を裏付けるような指示が、彼等の後方から響いたのは、リーシャが不敵な笑みを浮かべたその時であった。全ての<氷河魔人>はカミュとリーシャの正面に位置している。それは、このパーティーの頭脳が考えていた構図と寸分も違わない。牽制の為にそれぞれの武器を振るった二人は、彼等が愛し、最も頼りとする『魔法使い』が待つ場所へと駆け出した。

 

「メルエ、良いですね。カミュ様達が左右に分かれたら、あの呪文を!」

 

「…………ん…………」

 

カミュとリーシャが自分達の許へ向かって来るのを見たサラは、隣で自分の背丈よりも大きな杖を握る少女に声をかける。自分の魔法の威力と脅威を学んだ幼い少女は、その被害が大事な人間に及ばないように、カミュとリーシャが魔法の道を開いてくれるまで、静かにその身の内に宿る魔法力を溜めて行った。指示を出したサラでさえも驚きの表情を向けてしまう程、その小さな身の内で渦巻く魔法力は強大な物。これから唱える呪文の脅威が滲み出たのではないかと思う程、それは静かで、不気味な物だった。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………ベギラゴン…………」

 

カミュとリーシャが左右に分かれ、<氷河魔人>とメルエを結ぶ直線の道が開ける。それを確認したサラが、最後の指令を与えた時、世界最高の『魔法使い』が宿す魔法力が、一気に解放へ向かった。杖の先にある不気味なオブジェを真っ直ぐ<氷河魔人>へ向け、メルエの小さな口から呟きのような詠唱が響き渡る。詠唱と同時にオブジェの瞳が怪しい輝きを放ち、オブジェの前に大きな魔法陣が浮かび上がった。

 

今までの呪文行使でこのような現象が起きた事はない。メルエが唱えた呪文でも、サラが唱えた呪文でも、そしてカミュが『勇者』にしか行使出来ない呪文を行使した時でもだ。だが、今、メルエの杖の先に浮かび上がった魔法陣は、サラが『悟りの書』の中で見た物と寸分も違わない。メルエと共に契約をしようと描いた魔法陣。『悟りの書』にしか記載されていない、『古の賢者』が残した遺産。

 

<ベギラゴン>

その名の通り、灼熱系呪文である<ギラ>系の最強呪文。その灼熱の炎は全てを飲み込み、全てを燃やし尽くす。炎の海を作り出すというよりは、もはやそれは炎の壁に近い。『古の賢者』と呼ばれし者達の中で、その呪文との契約を成功させた者は、その威力を恐れ、『悟りの書』へ封印した。長い年月の間、『賢者』と成った者だけに伝えられ、表の世界に出て来る事はない。だが、例えそれが流出したとしても、この呪文を契約出来る者は皆無に近い物であっただろう。

 

「このような呪文が存在するのか……」

 

「……」

 

杖の先の魔法陣から発せられた物は、<ベギラマ>の時のような光弾ではない。メルエの杖の先から出た物は既に燃え盛る火炎であった。もはや、リーシャやカミュの瞳には燃え盛る炎しか見えない。彼等の横顔を叩きつけていた雪も風もない。吹雪など疾うの昔に消え失せた。そこにあるのは炎の壁。以前に死闘を繰り広げた<ヤマタノオロチ>の吐き出していた火炎も霞んでしまう程の炎が視界を支配していた。炎の壁は消える事がないのではないかと感じる程、長期に渡って燃え盛っている。その間、パーティーの誰もが言語を失ってしまったかのように、呆然と波打つ炎を眺めている事しか出来なかった。

 

「……これが……ベギラゴン……」

 

どれ程の時間が経ったであろう。炎の壁が終息して行き、周囲の雪すらも溶かしていた温度が下がり始めた頃、メルエの隣に立っていたサラは震える声を溢した。サラの両手は小刻みに震えている。圧倒的な力を目の当たりにし、その驚愕が恐怖へと摩り替ったのだろう。炎が消え、再び周囲を風と雪が満たした時、サラの視界に映る前方の景色は一変していた。

 

「大地が見えるぞ」

 

「万年氷さえも溶かすのか……」

 

氷が無いのである。カミュ達が<氷河魔人>と戦闘を行っていた場所を覆っていた氷が全て溶けていた。常に降り続ける雪が凍り、本来の大地を分厚い氷が覆っていたのだが、それが溶け、黒い土が見えている。氷が溶けた事によって見えた地面は、カミュ達が立っている場所と比べ、数段下に位置している。それ程の氷を解かす程の威力を誇る呪文をカミュもリーシャも見た事はなかった。

 

「…………ん…………」

 

「えっ!? あ、は、はい……」

 

呆然と佇むサラの横から声が掛り、目の前に小さな頭が飛び出て来る。いわずと知れたメルエの頭である。『褒めて欲しい』という感情を剝き出しにして差し出された頭であるが、現状を飲み込み切れていないサラは、返答に窮した。そんなサラの様子を見て、メルエは『むぅ』と頬を膨らませる。メルエからしてみれば、『サラの指示通りに呪文を行使した』と言いたいのだろう。味方に被害を与えた訳でもなく、魔物だけを完璧に打倒したにも拘らず、褒め言葉を発しないサラを見て、メルエはむくれたのだ。

 

「メルエ、大丈夫か?」

 

頬を膨らませるメルエに近付いて来た手が、メルエの身体を確認するように触れ、そしてその小さな身体ごと持ち上げる。強力な魔法を行使したメルエの身を案じたリーシャが、その身体に被害が出ていないかを確認していたのだ。抱えられたメルエは、リーシャの第一声も褒め言葉でなかった事に、尚一層と頬を膨らませる。そんなメルエの幼い行動に、リーシャは苦笑を浮かべ、その頭に掛かる雪を払いのけながら、優しく撫でつけた。

 

「そんな顔をするな。良くやった、メルエ」

 

「…………ん…………」

 

ようやく聞く事の出来たお褒めの言葉に、メルエは笑みを浮かべる。二人のやり取りを見ていたサラも自我を取り戻し、メルエの傍に寄って労いの言葉をかけた事で、メルエの機嫌も持ち直した。だが、メルエの放った<ベギラゴン>は、<氷河魔人>がいた場所の氷を溶かし、地面を剝き出しにしてしまった為、再び歩き出す事になったカミュ達は、迂回せざるを得ない事となる。灼熱系最強の魔法の威力の爪痕を横目に眺め、サラは自分の背中を流れる冷たい汗に気付かないふりをするのが精一杯だった。

 

風が穏やかになる事はなく、雪は飽きもせずに降り続く。横殴りの風が吹雪を呼び、雲に隠れていた太陽が西へ傾いた事によって、体感温度は更に下がって行った。これ以上の強行的な進行は不利である事を感じた一行は、昨日のような洞穴を探しながら歩き、周囲が完全に闇の支配下に置かれる頃にようやく昨日よりも小さな横穴を発見する。自然が造り出した雪の洞穴は、四人も人が入れば窮屈になる程小さく、火を熾す訳にも行かない。仕方なく、メルエとサラは毛布に包まり身体を横たえ、カミュとリーシャは毛布を被って、交代で見張りを行う事となった。

 

「カミュ……メルエはどこまで強力な呪文を行使出来るようになるんだ?」

 

「さぁな……メルエの魔法の才能に関しては、既に俺の理解の範疇を超えている。あの雪原でメルエが行使した灼熱呪文の契約方法など、俺には読めない」

 

メルエとサラの寝息が聞こえて来た事を確認したリーシャは、剣を抱えたまま横穴の外を見ているカミュへ問いかける。だが、そのリーシャの問いかけは、明確な答えを受け取る事は出来なかった。カミュの理解が及ばない程の才能。確かに、『悟りの書』に記載されている呪文は、サラとメルエ以外にカミュも見る事が出来た。だが、『魔法使い』でも『賢者』でもないカミュが見える契約方法は数が限られており、その数も決して多い訳ではない。いや、ほんの一部しか見えないと言っても過言ではないのだ。故に、先程メルエが行使した<ベギラゴン>という灼熱系最強呪文は存在自体を知らなかったのだろう。

 

「だが、心配する必要はないだろうな」

 

「何故だ?」

 

カミュの答えを聞いたリーシャは眉を顰め、その表情を苦痛に歪めた。それは、自身の身体の痛みが原因ではない。メルエという大事な妹の将来を憂いた為に出た表情。それが理解出来たカミュは、小さな笑みを浮かべ、本当に小さな呟きを溢す。風の音が届かない洞穴の中では、そんな小さな呟きもリーシャの耳にしっかりと届いた。呟きを聞き取ったリーシャは、その真意を問う。だが、それは言葉ではなく、静かに動かされた視線によって答えを示される事となる。

 

「サラか?」

 

「呪文に関して、メルエが最も信頼しているのはこの『賢者』だ。コイツがいる限り、俺達が呪文に関してメルエを心配する必要はない」

 

メルエの隣で眠るサラへ視線を送ったカミュは、リーシャの問いかけに静かに頷き、その考えを言葉にする。その言葉を聞き終わったリーシャは、自分でも何故か解らない程の笑みを浮かべていた。自分で自分の感情を把握できないというのも可笑しな話ではあるが、リーシャは自分の胸に湧き上がる喜びが大きい事に驚いたのだ。抑え切れない笑みを隠すように、リーシャは神妙な口調で言葉を繋げる。

 

「しかし、強力な呪文を使えば使う程……メルエから普通の暮らしは遠ざかって行くぞ?」

 

「アンタは、ずっとメルエと一緒にいるのではなかったのか?」

 

しかし、そんなリーシャの照れ隠しは、即座に壊された。メルエが落ち込む度に告げていた言葉をカミュが発したのだ。その言葉は、何故か、リーシャの心に悔しさよりも嬉しさを湧き上がらせる。メルエと共に生きて行く事は、既にリーシャの中で重荷になる物ではない。本当の妹のように、そして娘のように、あの少女を愛し始めているリーシャにとって、その言葉は、これから長く続く幼い少女の歩む道の傍らに自分がいるという未来を確定させる物。それをカミュという人物から問われた事が、リーシャは嬉しかった。

 

「そうだな……うん、そうだったな。私は常にメルエと一緒だ。メルエが成長し、自分の力で生きていけるその時まで、私はメルエと離れるつもりはない」

 

「わかっている」

 

リーシャの宣言に対し、静かに目を瞑ったカミュは、一つ頷きを返す。その反応がリーシャの心を更に熱くし、自然と瞳から雫が零れ落ちた。それを隠すように慌てて顔を下げたリーシャは、カミュに背を向けて目元を拭う。この時点でも、リーシャには自分が何故泣けて来たかは理解できていないだろう。自分の宣言を聞き、それが然も当然の事とであると言うように頷きを返すカミュを見て、自分を理解してくれる者の存在に感極まったのかもしれない。それ程の長い時間を彼女達は共に歩いて来たのだ。

 

「カミュ、先に休め。最初の見張りは私がしよう」

 

「交代まで起きていてくれよ」

 

目元を潤ませている事を隠すように顔を背けていたリーシャは、そのままの姿で見張りを買って出る。苦笑を浮かべながら皮肉を返して来るカミュの声を聞いても、リーシャは笑みを浮かべてしまった。毛布に包まり、膝を抱えるようにして眠りに就いたカミュを確認し、リーシャは洞穴の外へと視線を移す。先程まで激しく吹き荒れていた風は収まりを見せ始め、空から舞い落ちる雪だけが静かに大地を白く染めていた。

 

 

 

翌朝、天井から滴り落ちた滴を顔面に受けたメルエが、驚いて目を覚ました時、他の三人の準備は既に終わっていた。洞穴の入口から見える外の景色は、昨日とはまた一変しており、風も無く、舞い落ちる雪も無く、眩いばかりの太陽の光が大地に積もった雪に反射し、世界を輝かせている。初めて見た輝く世界に、メルエも瞳を輝かせ、毛布を持ったまま入口へと駆け出した。

 

「起きたか? カミュ、メルエも起きた。出発だ」

 

「わかった」

 

自分の隣に来たメルエに気付いたリーシャが、輝く雪原に向けて声をかける。真っ白な雪の大地の上で地図を広げていたカミュは、一度顔を上げた後、大きく頷き、洞穴へ戻って来た。それぞれの荷物を持ち、リーシャが再びメルエを背負うように屈むが、そんなリーシャを無視するようにメルエは白く輝く大地へと足を踏み出してしまう。カミュよりも前へ出てしまったメルエを見て、リーシャとサラは苦笑を浮かべ、カミュは静かにメルエの傍へ近付いて行く。大地と比べても遜色ない程に輝く笑みを浮かべているメルエが、カミュのマントの裾を握った事で、一行の出発準備は全て整った。

 

穏やかな陽の光を受けた雪原は、昨日まで降り積もった雪を少しずつ溶かして行き、幼いメルエの足を何度も掬い上げる。何度も雪の上に転がる自分の姿も、メルエにとっては楽しくて仕方がないのだろう。その度にマントを引っ張られ、体勢を崩しかけるカミュにはいい迷惑であろうが、顔やマントに雪を付けて微笑むメルエの姿は、戦闘などで荒む一行の心を和ませるのに充分な物であった。

 

 

 

「カミュ様、雪の量が少なくなって来ています」

 

「そうだな……少し払うと、土が見えるぞ」

 

陽が真上を過ぎた頃、一行の足下に微妙な変化が見えて来る。足下を覆っていた分厚い氷は徐々に薄くなって行き、次第に雪の下に土の色が混じるようになって行った。茶色く変質した雪は、見た目が汚く、それを見たメルエは哀しそうに眉を下げている。更に歩いて行くと、足下の雪は太陽の陽射しを受け続けていた事によって溶け、前方には土色の大地と、緑色の木々、そして淡く輝く芝が見えて来た。

 

「ここがグリンラッドにある、草花が咲く草原なのか?」

 

「おそらく……しかし、今朝見ていた景色とここまで違う場所が広がっているとは、見てみなければ信じる事など出来ないでしょうね」

 

草原と言っても過言ではない場所を見たリーシャは感嘆の声を上げ、サラも信じられない物を見たように驚きを露にする。その場所には木々の葉も青々と茂っており、小さな花々も太陽の光を受け、輝くように咲き誇っている。後方を見れば、遙か遠くに深い雪原が広がり、前方を見れば見渡す限りの緑が広がる。そのような景色を彼等は一度も見た事がなかった。平原の先には森があり、草花に集う虫達は、花々の香りを一行へと運んで来ている。鳥の鳴き声まで聞こえるその平原に、先程まで眉を下げていたメルエの瞳に輝きが戻って行った。

 

「メルエ、一人で行っては駄目ですよ!」

 

虫達に誘われるように駆け出すメルエを見て、サラは慌ててその後を追って行く。苦笑を浮かべたリーシャとカミュは、ゆっくりと平原へと足を踏み入れた。澄み切った空気や、肌を刺すような寒さも無く、香しい程の草の香りと、生き物達の生命の息吹が感じられる平原。その前方に広がる小さな森の中に、話に聞いていた『偉大な魔法使い』の住処があるのだろう。見渡す限りの平原には、人が住むような住居はなく、それ以外には考えられない景色だった。

 

森に入った一行は、小さな森であった為、ゆっくりと探索を続けた。森がある以上、薪の心配も無く、食料の心配もない。例え陽が暮れてしまったとしても、この場所で野営を行えば良いのだから、時間を気にする必要もないのだ。だが、そんな考えも杞憂に終わる。森を探索始めて数刻が立ち、太陽が西の大地へと傾き始めた頃、彼等の視界に、一軒の家屋が見えて来た。その家屋の煙突からゆっくりと空へ煙が立ち上っている事から、住人がいる事は確かである。玄関先まで移動したカミュは、小さな金具を叩いた。

 

「どなたじゃ?」

 

暫しの後、ゆっくりと開かれた扉は、僅かな隙間しか作らない。警戒するように開かれた扉の隙間から、年老いた男の声が掛った。隙間から覗く瞳へ軽く頭を下げたカミュは、自分達の素性を話し、この場所を訪れた経緯を話し始める。カミュが話し終わるまで、扉をそれ以上開こうとはしなかった男であったが、全てを話を聞き終わると、ゆっくりと扉を開いた。

 

「入るが良い。この場所に『人』が尋ねて来るなど、何年振りかの……」

 

中へとカミュ達四人を誘いながら、男は懐かしそうに言葉を洩らす。男の容姿は、声を聞いた事で予想していた通りの年齢相応の物。齢六十を過ぎていると思われる長命の老人であった。だが、その姿は何処にでも存在するような、年齢相応の姿であり、とても『偉大な魔法使い』と語り継がれるような雰囲気など有してはいない。サラは建物の中に視線を巡らせながらも、少し首を傾げた。

 

「ふむ。何時の頃か、この辺りで海賊同士の争いがあった頃以来じゃな」

 

「海賊同士の争い……メアリ達の事か?」

 

「おそらくは……」

 

カミュ達へ椅子を勧めた老人が洩らした言葉にリーシャが反応する。海賊同士の争いと聞き、リーシャが思い当たるとすれば、以前出会ったメアリと、その親友であるアンとの最終決戦であったのだ。問いかけるリーシャに向かって頷いたサラは、建物の中にある本棚などへ視線を巡らせていた。サラは海賊の話よりも、この場所が気になっていたのだ。サラは、『偉大な魔法使い』は『古の賢者』だと考えている。だが、目の前に座る老人からは魔法力を感じる事はなく、とてもではないが『古の賢者』だとは思えない。だが、言伝えがある以上、この場所が『古の賢者』の暮らしていた家である可能性は捨て切れなかった。故に、スーの村にあった隠れ家のように、何か特別な書物等がないかと考えていたのだ。

 

「貴方は、ここで暮らしているのですか?」

 

「ん? 十数年前からここで暮らしてはおるが?」

 

各人がそれぞれの考えに陥っている間に、カミュは老人へと問いかけを発した。カミュから見ても、この老人に異常性は見受けられなかったのだろう。故に、この場所で長く暮らしているのかと問いかけたのだ。だが、その問いかけに老人は迷いなく答えを発した。十年以上も前から、この極寒の地にある不思議な場所で暮らしていると言うのだ。ならば、スーの村に伝わる『偉大な魔法使い』というのも、この老人である可能性が出て来る。

 

「まぁ、それ以前はエジンベアで暮らしてはいたがの。この場所に来てからは、わし一人じゃ」

 

「エジンベアから?……この家は、貴方が建てられたのですか?」

 

老人の口から出た思わぬ国名に、カミュは思わず問い質してしまった。ルザミにいた者も、異端の者としてあの場所へ追放されてしまっている。ならば、このような氷に閉ざされた島へ一人で来た老人も、何らかの理由でエジンベアから追放されてしまった可能性が高い。もしそうであるならば、この場所へ一人で辿り着き、このような家屋を建てるには、それなりの技能と力が必要となるのだが、この老人にそのような力があるとは思えなかった。

 

「いや、わしがここへ来た時、既にこの家屋はあっての。中には何もなかったのじゃが、わし一人が住むには充分な物じゃった」

 

「何もなかった……ですか」

 

老人の回答に、サラは思わず肩を落とした。サラが追っていた『古の賢者』と伝えられる者の情報はこのグリンラッドで途切れている。つまり、この場所で新たな情報が手に入らなければ、『古の賢者』の足跡が途絶える事となってしまうのだ。既に『悟りの書』を手にしているサラにとって、『賢者』として手に入れる物などないと言っても差し支えはないのだが、サラは新米の『賢者』として、歩き始めたばかりである。先代の『賢者』から学ぶべき事は多くあり、尋ねたい事、相談したい事は星の数ほど存在しているのだ。故に、彼女は肩を落とす。自分の道標を見失ってしまったかのように。

 

「サラ、落ち込む事ではないだろう? サラはサラなりの『賢者』を目指せば良い。私が信じている『賢者』は、サラだけだ」

 

「リーシャさん……」

 

肩を落とし、落胆を明確に示すサラの肩に温かな手が添えられた。それは、『賢者』としてではなく、『人』としてのサラを導く大きな手。何度も支えられ、何度も突き放され、そして何度も包まれた事のある、大きく暖かで厳しい手。顔を上げたサラは、自分が着用している法衣の裾を握る小さな手にも気が付いた。自分の心を、そして自分の価値観を変えて行く一石となった小さな手を持つ少女は、心配そうな瞳をサラへと向けている。『どこか痛いのか?』、『具合が悪いのか?』と問いかけるような瞳は、サラの胸を熱くさせる。何度も迷い、悩み、苦しむサラの心を、それでも前へ向かせてくれるのは、紛れもなく彼女達の心であろう。サラは滲んで来る視界を振り払うように、顔を上げた。

 

「お主達は、『変化の杖』という物を知っておるか?」

 

「変化の杖……いえ、存じ上げておりません」

 

後方の三人のやり取りを見ていなかったかのように、老人はカミュへと問いかける。その内容は唐突な物ではあったが、老人の表情を見る限り、老人の中では先程の話とこの問いかけは繋がっているのだろう。老人の問いかけの中にあった杖の名を復唱したカミュは、静かに首を横へ振り、否定を表した。完全な否定を受けても、老人に落胆の表情はなく、小さな笑みを浮かべ、再びカミュへと視線を戻す。

 

「そうか……『変化の杖』という物は、何にでも化けられると伝えられる杖じゃよ。噂によれば、サマンオサ王が所有しておると言われてはおるがな」

 

「そのような物があるのですか?」

 

伝承とはいえ、老人の話す『変化の杖』という物の効果は、本当に常識を逸脱している。杖が齎す効果というのである以上、それは衣服が変わる程度の物ではないのだろう。その使用者の根底から他の物へ変化させるのであれば、それはダーマ神殿の教皇が持つ能力に近い物なのかもしれない。そんな事を考えながら、驚きを口にするサラの横で、カミュもまた、驚きを露にしていた。だが、二人の様子とは異なり、何やら思い悩む者が一人。

 

「サマンオサ?……サマンオサ! 思い出したぞ!」

 

突如として声を上げたのは、一人何かを考えていたリーシャ。自分の頭の中に仕舞い込まれていた情報を引き出した事が嬉しかったのだろう。その歓喜の声は大きく、サラの足下にいたメルエの身体を軽く跳ねらせる程の威力を持っていた。一気に自分へと集まる視線を感じ、流石のリーシャも恥じたのか、顔を赤くして口を閉ざす。その様子を見たカミュは、彼女が思い出した事をこの場で聞く事が得策ではない事を悟り、無視するように老人へ視線を戻した。

 

「サマンオサへは、ここから南へ向かった先の祠近くにある<旅の扉>で行く事が出来るらしい。ただ、その<旅の扉>は、鍵を掛けられた場所にあるとも云われておってな……」

 

「……鍵……」

 

カミュの視線を受けた老人は、サマンオサという場所へ行く為の情報を口にするが、ここで再び出て来た『鍵』という単語にカミュとサラは眉を顰めた。その鍵が<魔法のカギ>で開ける事の出来る物であれば問題はないが、<最後のカギ>が必要な物であれば、今のカミュ達はサマンオサへ行く方法がないという事になる。<最後のカギ>という物を『古の賢者』が所有していたという事は事実であるが、その鍵でなければ開けられない錠を『古の賢者』しか作る事が出来ないかと言えば、そうではない。どんな目的があるのかは解らないが、サマンオサは、外からの来訪も、中からの脱出も許さなかったという事になる。

 

「貴重な情報をありがとうございました」

 

「いや、良い。ただ、お主達がもし『変化の杖』を手に入れたのなら、一度で良いからわしにも見せておくれ」

 

会話を終了する為に頭を下げたカミュに向かって、老人は軽く手を振る。そんな老人の別れの言葉に、サラは苦笑を浮かべるしかなかった。老人の過去に何があったのかは知らないが、この老人は心の底から『変化の杖』という物を欲しているのかもしれない。柔らかな笑みを浮かべて手を振る老人に向かって、自分の足下で手を振るメルエを見ながら、サラはそう考えていた。

 

老人の家から出た一行は、陽の陰りを見て、森の中で一晩を明かす事にする。穏やかな太陽の陽射しが隠れた事で、多少の気温低下はあるが、枯れ木も充分にあり、凍えるような心配はなかった。薪を敷き詰め、火を熾し、木々の実や小動物を焼いた物を食した後、一行は眠りに就く。静かな風が木々を揺らす音と、夜行性の鳥達の鳴き声が響く中、夜は更けて行った。

 

 

 

『偉大な魔法使い』が住むと云われていた場所には、エジンベアから流れ着いた、常人である老人が住んでいた。『古の賢者』に関する情報は途切れてしまったが、新たな場所を示す情報を得た一行は、再び長い旅路を歩み出す。

 

 

 




読んで頂きありがとうございます。

今回もかなり長い物になってしまいました。
というか、戦闘が長過ぎましたね。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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