新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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幕間~【ムオル北方海域】~

 

 

 

後方に見えていた『世界樹』と呼ばれる太古からの伝説の姿は、カミュ達が森の中へと入った頃から視認する事が出来なくなっていた。カミュのマントの裾を握りながら振り向いたメルエは、その事に対して頻りに首を傾げてはいたが、カミュ達はある意味で納得していた。このような開拓されていない森を歩く人間等は皆無に等しい。この森で生活している動物しか辿り着けないのだろう。以前、<エルフの隠れ里>にカミュ達が辿り着けたように、何か特別な条件が重なった結果、『世界樹』という伝説を目にする事が出来たとしか考えられなかったのだ。

 

「メルエ、後ろを気にし過ぎていると転んでしまいますよ」

 

「…………ん…………」

 

カミュの後ろを歩くサラに注意されたメルエは、素直に頷きを返した後、カミュの歩幅に追いつくように、少し歩く速度を速めた。この森で暮らす魔物達も、『世界樹』に辿り着く事は出来ないのかもしれない。その証拠に、『世界樹』の周辺の森には、不思議と邪気はなく、澄んだ空気が満ちている。魔物の気配も無く、動物達の楽しげな鳴き声が響き、それを喜ぶような木々の囀りが心地良く流れていた。

 

「カミュ、道は解るのか?」

 

「アンタ以外の人間は皆解っている筈だが……」

 

木々が生い茂る森の中で、迷いなく歩むカミュを見ていたリーシャが口を開くが、その心配は簡単に一蹴されてしまう。慌てて前方にいるサラを見るが、サラは困ったような笑みを浮かべるばかり。それは、カミュが正しいとも、リーシャが正しいとも取れるような曖昧な笑みだった。故に、リーシャは釈然としない想いを抱き、その想いをサラへと問いかけてしまう。

 

「サラは道を憶えているのか? こんな同じような木々しかない森の中で、何処をどう進んで来たのかが解るのか?」

 

「いえ、そんな事までは憶えていません。ただ、方角はあの大岩が示してくれていますので、カミュ様が間違っていない事だけは確かです」

 

リーシャの問いかけに答えたサラの言葉は、やはりとても曖昧な物だった。だが、サラの言う通り、『世界樹』の姿は見えなくなっても、四方に見える大岩だけは健在である。森の木々よりも高く聳える大岩は、一行の方向感覚を狂わせる事無く、その場に悠然と聳えていた。その大岩を眺めたリーシャは、『なるほど』と大きく頷き、小さな笑みを浮かべた。自分に方向感覚がないという事を認める事はないリーシャではあるが、周りを見渡せる注意力が足りなかった事は認めたのだ。しかし、心に余裕が出来たリーシャは、余計な一言を溢してしまう。

 

「しかし、毎度思うが、お前は帰巣本能が通常の人間より優れているのではないか? よく、このような森の中を迷いなく進めるものだな」

 

「アンタの方向感覚が壊滅的なだけだ……」

 

そんなリーシャの軽口は、予想以上の痛手を負う事となった。カミュの言っている事も正しくはある。この女性戦士は、ある特殊な方向感覚が備わってはいたが、正常な方向感覚が完璧に欠如していた。その事は、この三年近くの旅で証明されている。それを知らないのは、自覚のない本人だけなのである。故に、リーシャは瞬時に眉を上げ、目を細めるが、カミュの後ろに居たサラは苦笑に近い笑みを浮かべていた。

 

「ですが、リーシャさんの言う事も一理あると思います。いくら目印があるとはいえ、カミュ様の方向感覚は正確無比ですよね。地図もなく歩く事もありますし、地図と言っても大きな物ばかりですから」

 

サラは苦笑を浮かべたまま、リーシャの援護に回る。確かに、カミュの歩行は迷いがない。それが『勇者』の特性なのかもしれないが、旅立った頃から、塔や洞窟など以外では迷った事はないのだ。基本的にリーシャやサラは、カミュの歩む道の後ろを歩いて来た。メルエに至っては論じる必要はないだろう。彼等の道は全てカミュが切り開いて来たと言っても過言ではないのだ。それは、本当に何かに導かれているように。

 

「そうしなければ、生きて行く事が出来なかっただけの事だ」

 

『それは、精霊ルビス様のお導きなのかも』と淡い考えを持っていたサラの思考は、小さく呟いたカミュの言葉で打ち壊された。カミュの生い立ちをサラは詳しく知らない。だが、ここまでの旅の中で、彼が真っ当な幼年期を過して来てはいない事を察する程度の関係を築いては来た。故に、その小さな呟きの中に、自分では想像すらも出来ない過去がある事を理解してしまうのだ。それは、後方にいたリーシャの苦い表情を見て、確信へと変わって行く。何も言わなくなった二人を無視するように、カミュは再び森の中へと入って行った。

 

 

 

一晩を森で明かし、再び北方に位置する場所に聳える大岩に辿り着いた時、一行は一度休憩を入れる事とした。大岩を背に全員が座り込み、メルエが小さな口で水筒の水を飲む。木々が伸ばす枝に茂る葉が直射日光を防ぎ、森の中は比較的気温が低めであった。一つ息を吐き出したリーシャは、メルエの傍に座り込み周囲へ視線を向ける。その時、何故か気になる物を視界に入れてしまった。一か所に視線を固定するリーシャを不思議に思ったメルエは、リーシャの前へと回り込み、その方角へと目を凝らす。

 

「…………いし…………?」

 

「ああ、只の岩だよな?」

 

リーシャが視線を送る西の方角に大岩とまでは行かないが、メルエの背丈よりも大きな岩が数個転がっていた。何故、それが気になるかがリーシャにも解らない。その岩が以前ここを通った時に存在していたかも解らない。そのような岩があったような気もするし、全く無かったような気もする。唯一つ言える事とすれば、小首を傾げていたメルエの興味も失せる事無く、その岩を未だに眺めているという異様な空気が流れている事だけ。

 

「…………うご……いた…………?」

 

「なに!?」

 

カミュとサラは二人のそんな行動を気にもしていなかったが、メルエの呟きに反応したリーシャの叫びを聞き、視線を動かす。そこには、三つの岩が見えるだけ。距離的に言えば、決して近い訳でもないが、目を凝らして見る程遠くもない。そんな変哲もない光景を不思議に思ったカミュとサラは、立ち上がったリーシャが抱き抱えるメルエへと視線を移した。

 

「サラ……岩が勝手に動くという事は有り得るのか?」

 

「えっ!? どういう事ですか?」

 

メルエと共に前方に見える岩から視線を外さずに声を出すリーシャの言葉がサラには理解出来ない。突然言い出した素っ頓狂な物事を理解出来る程、サラの頭は常に柔軟な訳ではないのだ。どれ程の不可思議を目の当たりにし、どれ程の神秘を体感しようとも、彼女の基礎となるのは、幼い頃から培って来た『常識』である。生物ではない岩が勝手に動くなど、彼女の人生で一度たりとも見た事もないし、聞いた事もなかった。

 

「…………また………うごいた…………」

 

「カ、カミュ、生きている岩というのは存在するのか?」

 

「生きている溶岩や、生きている氷も存在した。生きている岩があっても不思議ではない」

 

混乱するリーシャとサラを余所に、再び告げられたメルエの言葉は、カミュに臨戦態勢を取らせるに足りる言葉であった。リーシャの問いかけに答えたカミュの言葉通り、彼等は溶岩の洞窟で動く溶岩を見た事もある。永久凍土が広がる島で動く氷を見た事もある。だが、それは全て生物の中でも凶悪な部類に入る存在ばかりであった。その分類は『魔物』。故に、カミュは背中から剣を抜き放ち、メルエを抱くリーシャの前へと踏み出した。

 

「えっ!? ほ、本当に動いていますよ! こっちに来ます!」

 

カミュが戦闘の意思を示した事を察したのか、微かな動きしか見せなかった三つの岩は、一気にカミュ達との距離を詰め始める。『ごろごろ』と重々しい音を立てながら迫り来る岩を目の当たりにしたサラは、恐怖に引き攣らせた表情を浮かべ、数歩後ろへと下がった。メルエは興味深そうに岩を眺めていたが、カミュの行動で我に返ったリーシャが地面へと下した事で、その岩を見る事が出来なくなり、軽く頬を膨らませている。

 

「カミュ、あれは魔物なのか?」

 

「『人』ではない事だけは確かだ」

 

カミュ達との距離を一定距離まで縮めた三つの岩は、再び沈黙した。目の前に整然と並ぶ岩を見たリーシャは、その存在を理解出来ず、問いかけを口にするのだが、リーシャ同様にその存在を理解出来ていないカミュの答えは、至極当然の物しか返っては来なかったのだ。攻撃しようにも、何であるのかさえも解らず、動く事は出来ない。三つの岩もカミュ達へ何を仕掛けて来る事も無く、只そこに佇んでいるだけ。奇妙な空気が流れて行く中、両者は全く動く事はない。

 

「ひっ!?」

 

そんな時間が流れて行く中、岩を凝視していたサラは、突如回転をした岩に声を発し、そしてそこに浮き出した物を見て、息を飲んだ。前へも後ろへも動く事無く、その場で回転した岩の中心に浮き出た物は、間違いなく目と口。逆三角の目は凶悪的な光を宿しながら、カミュ達を嘲笑うかのように歪み、笑みを浮かべるように開かれた口からは、何を食す為にあるのか歯が並んでいる。とても、生物とは思えない程の凶悪的な表情は、生理的に拒絶を示してしまう程に醜く、サラだけではなくメルエも表情を歪めていた。

 

「カミュ、行くか?」

 

「……いや……少し様子を見る」

 

<バトルアックス>を握り、何時でも攻撃に移れる態勢を整えたリーシャは、横にいるカミュが動かない事を感じ取り、促すように問いかける。しかし、返って来た答えは、リーシャの予想とは大きく外れた物であった。予想外の答えにカミュを凝視していたリーシャであったが、一歩下がったカミュを追うように自分も後方へと下がり始める。パーティー全体が少しずつ下がる中、岩達は動きを見せる事はない。まるでカミュ達の様子を見ているように、凶悪な笑みを浮かべたまま反応を示す事はなかった。

 

「……走るぞ……」

 

「に、逃げるのか?」

 

「得体が知れませんね……その方が賢明かと」

 

岩との距離は徐々に広がるが、岩の方は一向に動きを見せない。ある程度の距離が空いた事を確認したカミュは剣を鞘に納め、メルエを背負うように抱き上げた。カミュの言葉を聞いたリーシャは、疑問に思う。カミュが魔物を見逃した事は何度もある。だが、逆に逃げ出した事は皆無に等しいのだ。以前に<くさった死体>という凶悪な臭気を撒き散らす魔物と遭遇した時に逃げ出した事はあるが、あの時とは状況が異なっている。それでも、『賢者』であるサラがカミュの意見に同意した事で、リーシャもそれを受け入れる事にした。

 

「行け!」

 

頷いたサラとリーシャを見たカミュは、少し強めの指示を出す。カミュの声と同時に振り返りもせずにリーシャとサラは北東へ向かって駆け出した。それから遅れる事無く、カミュもまたメルエを背負ったまま同じ方角へと駆け出す。森の木々を縫うように走り出した背中には、岩と岩が擦れ合う笑い声のような音が響き渡っていた。

 

 

 

「追っては来ていませんね」

 

森を北東に向かって駆ける中、後方を振り返ったサラは、溜息と共に動かしていた足を緩めて行く。その言葉通り、最後尾を走っていたカミュの後方に魔物らしき姿は見えない。下り坂にでもなっていない限り、あれ程の大きさを持つ岩が転がる速度を速められるとも思えない以上、危険は過ぎ去ったと考えて差し支えはないだろう。故に、サラに続きリーシャも速度を緩め、最後尾のカミュは後方を警戒しながらもゆっくりとメルエの身体を地面へと下した。

 

「…………むぅ…………」

 

しかし、地面へと下されたメルエは、『まだ背負われていたい』と意思表示するように頬を膨らませる。何かにつけてメルエを抱き上げてくれるリーシャとは異なり、カミュがメルエを抱いたり背負ったりする事は少ない。久しく味わっていなかったカミュの背中を堪能していたメルエとしては名残惜しいのだろう。自分の傍から離れようとしないメルエに困惑するカミュを見たリーシャとサラは小さな苦笑を浮かべた。

 

「ほら、行こう」

 

「船ももうすぐですよ」

 

差し伸ばされたリーシャの手を握ったメルエは、サラの言葉に頷きを返す。一息吐いたカミュは、再び先頭に立ち、船を停泊させた北東へと歩き始めた。陽は西の空へと移動を始めており、船に辿り着く前に陽が暮れてしまう可能性は高い。それを考慮に入れ、メルエの手をサラへと譲ったリーシャは、枯れ木を集めながら歩いていた。

 

案の定、船に辿り着く前に陽は落ち、森の中で一晩を明かしたカミュ達は、陽が昇ると同時に歩き出し、すぐに潮風の香りを嗅ぐ事となった。海へと出たカミュ達の視界に停泊している船が見える。空には太陽を覆い隠す程の雲が広がり始め、周囲を黒く染め始めている。小舟にメルエとサラを乗せ、カミュとリーシャが海へと押し入れた。空模様と同様に波も荒く、大きく揺れる船の上でサラは口元を押さえる。久しく気にする事が無くなっていた『船酔い』の症状が現れ始めたのであろう。顔を青く変化させるサラを、メルエが心配そうに見つめる中、一行は船へと乗り込んだ。

 

「少し荒れそうだ。このまま出港するか?」

 

「どうした方が良い? 船の事に関しては指示に従う」

 

乗り込んだカミュの傍に近付いて来た頭目は、上空に広がる黒雲を見つめながら口を開く。それに対し、カミュは敢えて逆に問いかけた。この大海原に浮かぶ一隻の船の上では、誰が最も頼りになるのかを彼は知っているのだ。魔物と遭遇すればカミュ達一行で対処が出来る。だが、天候による時化等の場合、カミュ達がこの船の中で最も役には立たない人間となる。故に、全ての指示に従うという意思表示をしたのだ。

 

「今夜は陸地に近い入り江で錨を下ろし、夜を明かそう。明日になれば、海も落ち着きを見せる筈だ」

 

「わかった。よろしく頼む」

 

今にも雨が降り出しそうな空を見上げながら方針を打ち出す頭目に、カミュは静かに頷きを返した。カミュ達の旅が急ぎの旅である事は間違いがない。だが、今船を出せば、船に乗る全ての人間の命が危ぶまれる。一度陸地に程近く、波も比較的緩やかな入江で船を泊める事となった。予想通り、太陽は完全に雲に覆い隠され、周囲を暗闇が包み込む。船が錨を下ろした頃には、細かな雨が甲板に降り注ぎ始めていた。

 

「今夜は動けない。皆、船室で休んでいると良い」

 

「何かあったら、すぐに私達を呼んでくれ」

 

「メルエ、行きましょう?」

 

「…………ん…………」

 

雨が降り出した事によって、頭目はカミュ達に船室へ移動するように指示を出す。船を停泊している以上、この場所で魔物が出て来なければ、カミュ達に出来る事など何も無い。疲れを取る為に横になっておく方が良いという事を誰しもが理解していた。故に、カミュはその提案を受け入れ、リーシャやサラも大人しく船室へ入る事を承諾したのだ。暗闇に覆われ、周囲の景色が見えなくなった事で、メルエも素直にサラの手を握り、船室へと入って行く。全員が船室へ消えて行った事を確認した頭目は、この先の状況などを予測し、船の損傷を防ぐために様々な指示を船員達へ飛ばして行った。

 

 

 

船室のベッドの中に入り、どれ程の時間が経っただろう。サラは、自分の身体を襲う不快感に目を覚ました。停泊している船の揺れは、それ程の物ではない。だが、目を覚ましたサラが感じている揺れは、ベッドにしがみ付いていなければ落ちてしまいそうな程の物。サラの横で眠っているメルエは、目を覚ます気配はないが、隣のベッドで眠っていた筈のリーシャの姿は既になかった。サラは、メルエを起こしてしまわないようにベッドを抜け出し、甲板へ出る為に船室を後にした。

 

「帆を外せ! 風で開いてしまったら、支柱ごと折れちまうぞ!」

 

「舵が利かねぇ!」

 

船の大きな揺れで何度も身体を打ちながらも甲板へ出たサラは、自分の顔に打ち付けられる大粒の雨と、身体ごと吹き飛ばされそうな風の中で、大声を張り上げながら駆け回る船員達の姿を見る。その中には、カミュやリーシャの姿もあり、船員達の指示を受け、物を運んだりしていた。周囲は夜の闇に閉ざされており、何も見えない。だが、サラの胸に襲いかかる違和感だけは、それが間違っていない事を示していた。

 

「船が流されている……」

 

サラの呟きは、激しい雨によって即座に搔き消される。怒号が飛び交う甲板では、大きく揺れる船の進路を安定させようと、全員が必死になっているのを察する事が出来た。それが示す事は、この船が錨を下していた場所ではない海原を漂流しているという事。夜半から強まりを見せ始めた雨と風は、頭目の予想をも遙かに超えた物だったのだ。

 

「サラ、起きたのか!? メルエはどうした!?」

 

「まだ眠っています。それよりも、これはどういう事ですか?」

 

「雨と風によって荒れ狂った海の影響で、錨が外れた」

 

サラの存在を確認し近寄って来たリーシャの問いかけに対して手短に答えたサラは、現状を問いかける。その問いは、サラの横を駆け抜けようとしていた船員の一人が答えを出してくれた。昨夜、この船を停泊させた場所は、陸地に程近い場所にある入江。整備された船着き場や、国家の港のように設備が整っている訳ではない。錨を下ろしてはいたものの、荒れ狂う海の動きで、その錨が海底で外れてしまったのだ。錨を下ろしたままでは船も危ういと判断した頭目は、錨を上げ、荒れ狂う海原へと船を出す。そして、現在の状況という訳なのだ。

 

「私に出来る事は!?」

 

「何も無い! 邪魔にならないように船室に入っていてくれ!」

 

状況を把握したサラは船員に問いかけるが、サラの投げかけを聞く事も無く、船員は持ち場へと戻って行く。代わりに答えたのは、帆を外し終えた頭目であった。冷たいようにも聞こえる言葉ではあったが、それが事実である事も否定はできない。自分の不甲斐無さに唇を噛み締めるサラであったが、同じようにカミュやリーシャも何も出来る事はないのだ。

 

「しかし、メルエはよくこんな揺れの中で熟睡出来るな……揺り籠でも思い出しているのか?」

 

「メルエは、揺り籠など憶えていない筈だが」

 

緊迫した甲板に、何処か間の抜けた会話が流れる。サラの傍に移動していたリーシャの呟きにカミュが答えたのだ。世間一般で、赤子を揺り籠に入れ、軽く揺らしながら母親が家事をする事などがある。首の据わった赤子をあやすのに、適度な揺れは適していた。故に、アリアハンでもそれは当然の物であり、メルエのような幼子の体内にその記憶があるのではとリーシャは考えたのだ。しかし、赤子などを傍で見た事のないカミュは、至極当然の事を口にする。

 

「当たり前だ! 私だって揺り籠で揺られた記憶などない! 潜在的に残っている記憶があるのではないかと言っているだけだ!」

 

リーシャとて、メルエがはっきりと記憶している等思ってはいない。ただ、体内に残る記憶が安心感を与えているのではないかと考えているのだった。それがカミュには解らない。大粒の雨が顔面を強打する甲板の上で、カミュは訝しげな表情を見せていた。そんな二人のやり取りは、サラに笑みと心の余裕を取り戻させる。雨は勢いを増し、船の揺れは立っているのが厳しい程。座り込みそうになる程に大きく揺れる甲板の上で、暗闇を吹き飛ばすような笑みをサラが浮かべ、それを見た船員達の心にも余裕が生まれた。

 

「ふふふ。メルエも揺り籠で揺られた事はあったのでしょうかね?」

 

微笑むサラを見たリーシャも、釣られたように笑みを浮かべる。この場所に居なくとも、彼女達の心を和ませるのは、あの幼い少女なのだろう。今も尚、ベッドの中で熟睡しているであろうメルエの寝顔を想像した二人は微笑み合い、再び荒れ狂う海原と向き合う。風は横殴りの雨を運び、目を開いている事さえ辛い程まで強まっている。それでも、余裕を取り戻した歴戦の者達の心を折る事など出来ない。各々の持ち場で奮闘する船員達の口元にも小さな笑みが浮かんでいる事がそれを証明していた。

 

「こんな程度の時化は、何度も経験している。この船ならば、苦も無く乗り切って見せるさ!」

 

雨によって濡れ切った顔に満面の笑みを浮かべた頭目は、頼もしい言葉を大きく発した。その声に呼応するように、船員達からも声が轟き、船員達の一人一人が各々の持ち場で、その力を如何なく発揮し、難局を乗り切る為に奮闘する。そして、船は真っ黒な海へと吸い込まれて行った。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今回はかなり短めです。
次話は少し長くなりそうでしたので、キリの良い所で区切りました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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