新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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浅瀬の祠

 

 

荒れ続ける海原を渡り続けた船は、夜が明けると共に収まり始めた雨と風によって静まりを見せる海を漂う事となる。夜通しの作業に疲れ果てた船員達は、甲板の到る所で眠りに就いている。雨雲は西の空へと移動したようだが、厚い雲は健在で、東の空から昇っているであろう太陽の顔は見えない。船の上は火でも熾さない限り、夕暮れ時と変わらぬ程の明るさしかなかった。

 

「…………むぅ…………」

 

「メルエ、起きたのか? 皆疲れているから、静かにな」

 

そんな中、目を擦りながら船室から出て来たメルエは、頬を膨らませながらリーシャへと近付いて来る。眠そうに目を擦っているメルエが不満そうに頬を膨らませている事に首を傾げたリーシャは、泥のように眠る船員達を気遣うが、その行動がメルエの幼い心に火を点けてしまった。嫉妬に近い炎を宿した瞳をリーシャに向け、更に頬を膨らませたメルエは、『ぷいっ』と顔を背けてしまう。

 

「どうした? 何かあったのか?」

 

「…………みんな……いなかった…………」

 

何に不満を持っているのかが解らないリーシャが、顔を背けたメルエに目を合わせるように屈みこんで尋ねると、頬を膨らませていたメルエは、不満そうに小さな呟きを洩らす。昨夜早めに就寝したメルエは、揺れの収まった明け方に目を覚ましたのだが、隣で寝ていた筈のサラもおらず、周囲を見回してもリーシャの姿もない事で不安になったのだろう。この様子では、隣にあるカミュの部屋も訪れたに違いない。全員がおらず、いつもならば声が聞こえる筈の船内が静まりかえっている事に相当怯えてしまったのだ。

 

「…………メルエ……ひとり……いや…………」

 

「そうか……すまなかったな。夜は少し大変だったんだ。おいで、メルエ」

 

その怯えは、すぐに表情に出る。先程まで不満そうに膨らませていた頬を萎ませ、不安そうに眉を下げたメルエは、震える声で懇願を溢した。それは、幼い怯えと共に、少女の切実な願いが込められていた。もはやこの幼い少女にとって、リーシャ達三人と離れる事は耐え難い物なのだろう。カミュと一度逸れてしまった事のあるメルエにとって、今度は自分が皆と逸れてしまうのではないかという恐れは、常に心の中にあったのかもしれない。それを理解したリーシャは、メルエの我儘だと叱る事をせず、謝罪の言葉を述べた後、メルエを呼んで強く抱き締めた。

 

「私達はメルエを一人にはしない。だが、それは甲板で眠っている彼等も同じ想いなんだ。メルエと私達が離れ離れにならない為に、昨夜の嵐を必死に乗り切ってくれた。だから、今はゆっくりと休ませてやってくれ。そして、彼等が目を覚ましたら、メルエからもお礼を言うのだぞ」

 

「…………ん…………」

 

メルエを抱き締めたリーシャは、表情を和らげたメルエの瞳を真っ直ぐと見つめ、昨夜遭遇した難所を話し出す。メルエが知らないという事で、船員達の努力が無になる訳ではない。だが、彼等が必死の想いで戦い続けた心の中に、自分自身の命の他に、他者への想いがあった事も事実であろう。故に、リーシャはその想いをメルエに伝えたのだ。孤独という恐怖から解放されたメルエの瞳は、様々な物を映し出し始めている。甲板で眠っている人間達の表情は、濃い疲労の中にも達成感が溢れていた。満足そうに眠る彼等の表情が、メルエには眩しく映った事だろう。小さく頷きを返したメルエは、もう一度リーシャにしがみついた。

 

「風は収まって来たが、まだ強いな……帆を張るのは危険だろう」

 

「今、どの辺りの海なのかは把握できますか?」

 

一人目を覚ましていた頭目が風の具合を見ながら、空を見上げている。その横に居たサラは、現状の場所を把握する為、問いかけるが、頭目は表情を顰め、小さく首を横へ振った。大まかな位置は解るようだが、それも大凡の範疇であり、詳しい場所までは解らないと言うのだ。風が弱まり始めた頃に帆を張り、方角を定めて進むしかないのだろう。幸い、上陸した大陸で食料は多分に補給してある為、長い航海も可能である。故に、サラは雨で濡れた身体を拭いているカミュへ視線を移した。

 

「風が収まり次第、南の方角へ向かってもらう」

 

「わかった。船員達が目を覚ます頃には風も収まっているだろう。それまで舵だけで南へ進路を取っておく。暫くはゆっくりしていてくれ」

 

視線を受けたカミュは進路を口にし、それに頭目が答える。カミュやリーシャも夜通し船員達の手伝いをしていたのだ。疲れは溜まっている事は間違いない。だが、それはこの頭目も同様であろう。いや、手伝いしかしていなかったカミュ達とは、その疲労度合は別格の筈だ。サラは心配そうに頭目の瞳を見つめるが、そんなサラの表情を見た頭目は、豪快に笑い声を発した。

 

「大丈夫だよ。俺達のような海の男は、こんな事には慣れている。新人以外の船員達も、すぐに目を覚ますさ」

 

一晩徹夜をした程度で参る程、海の男は軟ではない。今は疲労と達成感で脱力している船員達ではあるが、船が動きを始める頃には、再び全員が一丸となって動き出すのだろう。それは、頭目の笑みと声に表れていた。その豪快な笑い声はとても頼もしく、サラも思わず笑みを浮かべてしまう。一つ伸びをした頭目は、舵のある方へ歩き出し、その背をカミュ達全員が見つめていた。

 

「本当に頼もしい仲間に恵まれたな」

 

「そうですね」

 

リーシャが呟いた一言は本心の物であろう。彼等は船を手に入れるまで四人だけで旅を続けて来た。いや、メルエと出会うまでは、個々人で旅をして来たと言っても過言ではないのかもしれない。旅を重ねる毎にその絆を深め、ようやくパーティーとして機能するようになった頃に、彼等は船という移動手段を手に入れたのだが、彼等四人では満足な船旅は出来なかったであろう。元カンダタ一味の船員も含め、この船に乗る全員の力がなければ、彼等の船旅は出港直後に終わっていたかもしれない。

 

それを理解しているのは、リーシャやサラだけではない。舵の方へと歩いていた頭目の後を追うように歩き出した小さな影がそれを証明していた。揺れる船上を『とてとて』という覚束ない足取りで歩いて行く幼い少女は、舵を握った頭目を見上げて、花咲くような笑顔を向ける。そんな幼い少女の視線に気付いた頭目が下を見ると、メルエは肩から掛けているポシェットへと手を入れていた。

 

「…………ん…………」

 

「なんだい?」

 

笑みと共に差し出された小さな手から受け取った物は、青く輝く石の小さな欠片。雲の隙間から僅かに差し込む陽光に輝く石は、頭目の手を青く染め上げている。掌が見える程に透き通っているようで、何か吸い込まれるような神秘的な曇りも見せるその石に魅入られた頭目は、暫しの間、その石を凝視してしまった。何かを護るように輝き、何かを決意するように燃える石。その輝きは、『人』である己が矮小な存在であるかのように錯覚してしまう程に神秘的な物であった。

 

「…………ありが……とう…………」

 

手に置かれた石に魅入られていた頭目は、自分の目の前で可愛らしく頭を下げるメルエの姿に驚きを表す。この船が無事なのは、自分達だけの尽力だと言うつもりはない。だが、船の素人がいる中で、ここまで無事故で船を航海させる事が出来ているという自負もあった。礼を求めるつもりは全くないが、それを言われても当然という想いがあったのも事実。しかし、いざ目の前で幼い少女にそれを言われてしまうと、誇らしいというよりも戸惑いの方が勝っていた。

 

「いやいや、メルエちゃんが礼を言う必要はねぇ。こちらこそ、こんな綺麗な石をありがとう」

 

「…………メルエも……護る…………」

 

自分の顔の前で大袈裟に手を振って、メルエの礼を固辞する頭目は、次に飛び出したメルエの言葉を聞いて更に驚く事となる。メルエの言葉を正当に解釈すると、メルエは頭目を始めとする船員達に護られたと考えている事が解る。その礼として、感謝の言葉と共に石を渡し、自分の想いを伝えているのだ。そんな幼い誓いは、荒くれ共の多い海の男達の心に直接響いて行く。何時の間にか目を覚まし始めていた船員達の表情は、何か複雑な物。嬉しいような、恥ずかしいような、それでいて誇らしいような、哀しいような想い。

 

「ありがとう。俺達もメルエちゃん達を必ず目的地に送り届ける。俺達を信頼してくれてありがとう」

 

逆に感謝の言葉を述べる頭目の瞳には、雲の隙間から差し込む陽光によって光る物が見えていた。起き上がり、甲板に座っている船員達の顔も笑みに変化して行き、皆の笑顔を見たメルエも花咲くような笑みを浮かべる。太陽の光が乏しく、雲が空を覆う海の上で、この甲板だけは幼く小さな太陽の頬笑みで照らし出されていた。

 

メルエが送った『命の石』の欠片は、その後、この船の護り石として代々受け継がれて行き、この船がその役目を終えるその時まで、船と共に大海原を駆け抜けて行くのだが、それはまた別のお話である。

 

 

 

風は、太陽が真上を越えて西の空へ移動を始めた頃になっても弱まる事はなかった。雨は本降りになる事はなかったが、波は高く、帆を張る事が出来ない。暫しの間、舵を切る事だけで方向を変えていた船ではあるが、西に傾く太陽が放つ最後の輝きで雲が真っ赤に染まる頃になって、ようやく風と波が弱まり始めた。畳んでいた帆を広げ、大きな風を受けた船は、先程までとは異なる速度で海原を走り始める。雲は未だに多くはあるが、雨は降っていない為、メルエはいつもの木箱の上に立って、波打つ海原を眺めていた。そんな時、メルエが不意に小さな呟きを洩らす。隣にいたサラがその呟きを聞き逃さず、遙か海の先を見つめるメルエの横顔を見つめた。

 

「メルエ? 何か見えるのですか?」

 

「…………うた…………?」

 

メルエの視界の先には海しか見えない。しかも、陽も陰りはじめ、雲によって光も遮られている為に尚更である。だが、南東の方角を凝視して目を離さないメルエを不審に思ったサラは小さく尋ねるだが、それに対して返って来た答えは、サラの予想とは掛け離れた答えであった。視線を海から離さないまま、メルエは小さな呟きを洩らす。それは、サラがメルエと出会って一年も経たない頃に教えた一つの言葉。ノアニールの村で、外を駆け回る子供達を寂しそうに見つめていたメルエを見たサラが、自分が幼い頃に寂しさを紛らわせる為に行っていた行為。そして、それを教わったメルエは、海を眺めている時や、森を歩いている時に常に口ずさむようになっていた。

 

「歌ですか? 風の音しか……あれ?」

 

「…………うた…………?」

 

メルエの言葉を聞いたサラは耳に意識を集中する。当初は海を吹き抜けて行く風の音しか入って来なかったのだが、集中して行くにつれ、その風に乗って、聞いた事もない歌声のような物が聞こえて来た。不思議に思って表情を変えたサラの方へ視線を動かしたメルエは、確認するように小首を傾げる。自分に『歌』という存在を教えてくれたサラならば、その真偽が解るのではないかと考えたのだろう。

 

「どうした?」

 

「風に乗って、何か歌声のような物が聞こえて来るのです」

 

「…………メルエ……きいた…………」

 

二人のやり取りが何処か可笑しい事に気が付いたリーシャが近寄り、サラはメルエとの会話にあった事をそのまま告げる。メルエも『自分が見つけたのだ』とでも言うように、どこか誇らしげにリーシャへと告白していた。そんなメルエの頭に一度手を置いたリーシャは、甲板中央で頭目と会話をしているカミュへと視線を移す。リーシャの耳にはサラやメルエの言っているような歌声が聞こえる訳ではないが、二人が嘘を吐く訳がない以上、このパーティーの先導者である青年の意見を聞く必要があると考えたのだ。

 

「サラとメルエは、歌声が聞こえると言っている」

 

「……歌声……?」

 

「はい。はっきりとした物ではないですが、そのような物が南南東の方角から聞こえて来ます」

 

リーシャに呼ばれたカミュは、その内容を聞いて首を傾げる。この広い海原に響き渡るような歌声があるとしたら、それは直接脳に響いて来るような神秘的な物か、それとも直接神経を侵して来る悪意的な物のどちらかだろう。故に、カミュは顔を顰めた。確証がない以上、その場所へ近付く事の危険性を考えると、無暗に動く必要はないと考えていたのだ。

 

「おい! 波が無いのに流されているぞ!」

 

そんな四人の会話に割り込んで来るような叫びが、突如甲板に響き渡った。振り返った先では、舵を握る船員が慌てふためいている。風を受けている筈の帆はしっかりと南へ向かって広がっているのだが、横波が無いにも拘らず、船は東の方角へとまるで引き摺り込まれるように流され始めていた。船体に揺れはなく、船自体が自我を持っているかのように南南東の方角へと動き始め、北からの風を帆に受けている事もあり、その速度は加速して行く。

 

「何かに呼ばれているのでしょうか?」

 

「性質の悪い物でなければ良いのだがな」

 

先程の歌声と船の異変にサラは何かを感じていた。だが、生来の気質という部分なのか、それはとても善意的な物。それに対して、カミュが持った物は悪寒に近い物だったのかもしれない。船の進路先である南南東へ視線を送りながらも、その言葉はとても厳しく、サラやリーシャの気持ちをも引き締めて行く。唯一人、聞こえて来る音に耳を澄ませているメルエだけは、何処か期待を込めた瞳を大海原へと向けていた。

 

 

 

船は真っ直ぐ南南東へと進み、一晩が明け始める頃には、誰の耳にも歌声とは言えない奇妙な音を聞き取れるようになる。それは、歌声とは程遠い、奇怪な音。まるで悲鳴のようにも聞こえる。遠く離れた場所では魅力的に聞こえた音が、近づく程に不快な音へと変化した事にメルエは眉を顰めていた。相変わらず船の舵は利かず、真っ直ぐ音源へと向かっている。

 

「あれは、陸か?」

 

「何かいますよ……えっ!? 人魚!?」

 

前方に見え始めた陸地のような黒々とした場所に、人影のような物が見えた事に気が付いたサラは驚きの声を上げた。この世界では伝説の一つとされている『人魚』という存在。魔物が蔓延る海の中にいる癒しのような存在であり、その姿は美しい女性の物だと云われていた。上半身は美しい女性の姿で下半身は魚の尾びれがあり、鱗に覆われた姿。陸地や岩場で身体を休めながら、美しい歌声で謳うと伝えられていたその存在をサラは書物で読んでいたのだ。

 

「あれは陸地ではない! おい、あれは浅瀬だ! 錨を下せ! 座礁するぞ!」

 

「野郎ども! 帆を畳め! 錨だ、錨を下せ!」

 

人影の見える陸地を眺めていたリーシャとサラの目を覚ますような声が後方から聞こえた。リーシャ達の後ろから前方を見ていたカミュが、その陸地と思われる黒い部分が何なのかを把握し、大声で頭目へと指示を出す。それを聞いた頭目の行動は早かった。急ぎ帆を畳み、畳み終えると同時に錨を海へと落とす。海底の岩に引っ掛かった錨は、船の速度を急速に下げ、そのまま急停止させた。人影がはっきりと見える程に近付いていなかった事も幸いし、船は浅瀬に乗り上げる前に停止し、難を逃れる事になる。

 

「あれは、貝なのか?」

 

目の前に見える物は、浅瀬の岩場にびっしりと張り付いた貝の群れ。黒々としたその貝は、遠目からはまるで大地のように見えていたのだ。そして、サラが人魚と考えていた者の姿も浮き彫りになる。それは、美しい女性とは程遠い醜い姿。下半身は伝説の人魚と同じ鱗を持った尾びれが付いてはいるが、上半身は化け物に近い。人魚という美しい物ではなく、半魚人と表現した方が良いだろう。一度遭遇した事のある魔物は、彼等を誘うように奇怪な音を発しながら船を誘導していたのだ。

 

「船を旋回できるか?」

 

「いや、風向きからして急旋回は無理だ」

 

状況を変化させようとしたカミュではあるが、頭目の言葉に覚悟を決めた。背中の鞘から<草薙剣>を抜き放ち、前方の岩場から船に移り始めている貝達へ視線を向ける。黒々とした貝を背負ったそれは、明らかに魔物。以前に遭遇した事のある<スライムつむり>に酷似してはいるが、その体躯の色が異なる事から別種である事が解る。リーシャも<バトルアックス>を手に取り、前方に構えを向けた。

 

<マリンスライム>

その名の通り、海に生息するスライム種である。<スライムつむり>のように貝を背負って身を守っているが、上位種とも言っても過言ではなく、その強固さは<スライムつむり>の比ではない。また、自己防衛本能が強く、強固である貝を更に硬くする事もあり、通常の武器では破壊できない事もあると云う。岩場などに張り付き、船底から甲板に浸入して『人』を襲う事がある魔物である。

 

「ピィ―――――」

 

甲板に上がって来た<マリンスライム>が奇声を発した後、甲板にいる全ての<マリンスライム>の身体が輝き出す。その輝きが<マリンスライム>が背負う貝を包み込むように護り、その守備力を大幅に上げて行った。既に振り抜かれていたリーシャの<バトルアックス>は、一体の<マリンスライム>の貝に弾かれ、身体ごと後方へと下がる。渾身の一撃ではないが、<スライムつむり>を一撃で真っ二つに出来るリーシャの攻撃を弾くとなれば、それ相応の強度を誇るのだろう。だが、そんな魔物の思惑を許し続ける程、このパーティーは甘くはない。

 

「ルカナン」

 

後方に下がっていたサラの詠唱と同時に、再び<マリンスライム>達が背負う貝が輝き出した。この旅で何度もこの『賢者』が行使して来た呪文。相手の装備品を脆くさせる事の出来る『教典』に記載された呪文である。おそらく<スクルト>だと思われる呪文によって大幅に強度を上げていた<マリンスライム>の貝は、再びその強度を下げ、元の強度へと戻って行った。

 

「カミュ!」

 

「わかっている」

 

魔物の身に何が起きたかを瞬時に判断したリーシャが声を発した時には、既にその横をカミュが駆け抜けていた。距離を詰めたカミュは<草薙剣>を振り抜き、背負う貝ごと魔物の身体を斬り捨てる。戻す剣で、横に居た<マリンスライム>をも斬り、瞬時に二体の魔物を液体へと還して行った。甲板に上がって来ていた<マリンスライム>の数は多くはなく、次々とカミュとリーシャの武器の錆へと変わって行く。その状況に驚いた数体の魔物は、海の中へと帰って行く物まで出て来ていた。

 

「あの岩に張り付いている数が船に上がって来ては対処が出来ません。メルエ、あの岩場に向けて<ベギラゴン>を放てますか?」

 

「…………メルエ………できる…………」

 

甲板に上がって来ていた魔物を駆逐した事に息を吐き出したカミュやリーシャとは異なり、このパーティーの頭脳は一つ先の危険性を考慮に入れていたのだ。浅瀬の岩場に張り付いている貝の数に脅威を感じたサラは、未だに岩場の上からこちらの様子を窺っている<マーマンダイン>に注意を向けながらも、その貝を一掃する方法を考えていた。今のメルエであれば、船に被害を出す事無く灼熱系呪文を行使出来るだろうとサラは考えている。それに加えて、<グリンラッド>の永久凍土を溶かす程の熱量を誇る<ベギラゴン>であれば、岩場に居る魔物全てを一掃出来ると考えたのだ。そして、そのサラの考えは、自信を持って頷きを返したメルエの表情で確信に変わった。

 

「皆さん、後方へ下がって下さい。メルエ、船首へ移動しますよ」

 

「おい、二人だけでは危険だ。私も行くぞ」

 

船員達を後方へ下がらせたサラは、<鉄の槍>を構えながら船首へと移動しようとする。だが、『賢者』となり、並の戦士よりも力量を上げているサラとはいえ、装備している武器は一般兵士と変わらぬ<鉄の槍>。防御力に優れる<マリンスライム>の貝を突き破る事など不可能に近い。故に、リーシャはサラを追って船首へと駆け出した。カミュは船底から昇って来ようとする少数の<マリンスライム>を駆逐する役目を引き受け、船員達を庇いながらも剣を振っている。彼は、もはや『勇者』として担がれるだけの存在ではない。仲間を認め、仲間を信じる事で旅を続けて来た真の『勇者』としての変化を始めているのかもしれない。

 

「サラは、メルエを護れ! あの半魚人が動き出したら注意しろ!」

 

「はい。メルエ、良いですね? もし、船に被害が出そうになっても、私が氷結呪文を唱えます」

 

「…………むぅ………メルエ……できる…………」

 

先頭に立って進むリーシャは、何体かの<マリンスライム>を斧で弾き飛ばし、斬り捨てて行く。リーシャに護られるように進むサラは、槍を構えながらもメルエに指示を繰り返すのだが、その言葉は稀代の『魔法使い』の自尊心を大いに傷つける物であった。まるでメルエが失敗する事が前提のように話すサラへ鋭い瞳を向けたメルエは、頬を膨らませ、相棒である<雷の杖>を高々と掲げる。そんなメルエの姿に苦笑を浮かべたサラは、小さく謝罪をしながらも、以前見た<ベギラゴン>の威力を思い出し、密かに氷結系呪文の準備を始めていた。

 

「サラ! ここからなら可能か!?」

 

「はい! メルエ、行きますよ!」

 

近付く程に脳へと響く奇妙な音は大きくなり、リーシャとサラも叫び合うように会話を繰り返す。そして、船首に居た<マリンスライム>を海へと還したリーシャが発した言葉を合図に、サラとメルエが前面に躍り出た。サラの指示にしっかりと頷きを返したメルエの杖が前方に見える岩場に向けられる。自分の内にある魔法力へと意識を沈め、必要な魔法力を自ら引き出すように放出し始める。メルエを包み込むように漏れ出した魔法力は、同じく魔法に重きを置くサラでなくとも視認できる程に凄まじい。だが、他者を護る事を目的とした魔法力は、とても暖かく、優しい物にも感じた。それが、この幼い『魔法使い』の成長を示しているのだろう。

 

「メルエ!……あっ!?」

 

「キエェェェェ」

 

魔法力の準備を完了させたメルエに指示を出そうとしたサラは、前方にある岩場の変化に気が付く。岩場の頂点に居た<マーマンダイン>が奇声を上げたのだ。その奇声と同時に岩場に張り付いていた貝達が一斉に船に向かって跳びかかって来る。メルエの膨大な魔法力に反応したのか、それとも単純に身の危険を感じたのかは解らない。だが、メルエが呪文を行使する前に魔物達は行動を起こそうとしていた。だが、それは全てにおいて遅過ぎる。人類最高の『魔法使い』を前にした只の悪足掻きに過ぎなかったのだ。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

跳びかかって来る貝達目掛けて振われた<雷の杖>の先に魔法陣が現れ、そして膨大な魔法力が神秘へと変換される。全てを飲み込む程の火炎が、まるでオブジェの嘴から吐き出されるように吹き出し、大海原を火の海へと変えて行った。跳び出した貝は全て炎に飲み込まれ、影すらも残らぬ程に燃え尽き、岩場に張り付いていた残った貝もまた、炎に巻かれて行く。海水を浴びても消えぬ火炎は、岩場の生命全てを飲み込み、その狂暴な牙を司令塔である<マーマンダイン>へと伸ばした。海へと逃げようとする<マーマンダイン>の行く手を塞ぐように回り込んだ火炎は、魔物を追い詰めるように触手を伸ばし、やがてその身体をも喰らって行く。

 

「何度見ても……恐れの感情しか湧かないな」

 

「この火炎を魔物が行使する時、私達は生きていられるのか?」

 

岩場の全てが燃え尽き、その脅威が消えて行く頃に、ようやくカミュが口を開いた。リーシャも自分の身体が細かく震えている事に気付き、その胸の内にある不安を吐き出す。確かに、メルエが行使出来る呪文を魔物が行使出来ないとは限らない。いや、むしろ本来は魔物が持つ力ではないかとさえ考えてしまう。メルエが稀代の『魔法使い』である事は、カミュもリーシャも理解している。そして、この呪文が『悟りの書』に記載されており、サラもそれを見ている以上、何時しかサラも行使出来るようになるのだろう。だが、その力は異常なまでに強力である。

 

そして、それはカミュ達だけではない。歴戦の者達であるカミュやリーシャでさえ恐れを抱くのだ。カミュ達のような異質な存在と旅をしているとはいえ、通常の『人』である船員達は、尚の事であろう。カミュ達の後方に控える船員達の中には、腰が抜けてしまったように座り込んでいる者までいた。それ程に衝撃的な光景であったのだ。歳が二桁になるか否かの少女が、全てを飲み込む程の炎を生み出す光景は、生物としての潜在的な恐怖を浮き彫りにさせる。

 

「…………ん…………」

 

しかし、そんな周囲の視線に気付く事が出来る程、メルエは経験を積んではいない。好意的に見てくれていた者の視線が異なる物へ変化したという経験をした事がないのだ。彼女の周りには、全て敵意に満ちた視線しかなかった。まるで存在する事を否定するような冷たい眼差し。それは、彼女の心を凍らせ、失わせて行く。だが、そんな少女の全てを照らし出してくれる優しい光を受け、愛情を受け、喜びを知り、心を取り戻した彼女にとって、笑顔をくれる者は、永遠に笑顔をくれる者となって行った。『護ってくれる者を自分も護る』という彼女の誓いは、そんな想いが根底にあったのだ。

 

「メルエ、流石です。船には傷一つ付いていません。この船に居る全ての人は、メルエが護ってくれたのですよ。頭目さんとの約束は守れましたね」

 

そして、そんな幼い少女の誓いは、少女を導く一人の『賢者』によって護られる。恐怖を感じる程の力は、決して『暴力』ではない事を声高々に宣言したのだ。志のない力でない。メルエが力を振るう時、それは彼女の誓いを遂行する時だけ。彼女が大切に思う者達を護る為だけに振われる力は、襲いかかる『暴力』に対抗する為の力。『人』はそれを『英雄』と称した。

 

「ありがとう、メルエちゃん。メルエちゃんが俺達を信頼してくれているように、俺達もメルエちゃん達を信じているよ」

 

「…………ん…………」

 

サラの思惑は、頭目の一言によって完成する。強大な力に対する恐れが無いとは言わない。メルエの頭を撫でようとする頭目の手は、小刻みに震えている事からもそれが解った。だが、自分の身体を蝕む『恐怖』は、カミュ達に向けて持っている『信頼』の強さに比べると、小さな事であったのだ。ポルトガ港を出港して一年以上の月日が流れている。たかが一年と他人は言うかもしれない。だが、この一年は、彼等のような海の男達でさえ、今までの人生にも勝るとも劣らない程に濃密な時間であった。

 

「やはり、『魔王バラモス』を討伐出来るのは、アンタ達しかいない。最後の最後まで、俺達は付き合うぞ」

 

カミュ達一行の力の一部を船員達よりも先に見た事のある七人の決意が揺らぐ事はない。元カンダタ一味であった彼等は、今になって、何故カンダタが自分達を逃がす時にあのような事を口にしたのかを理解する。カンダタは『俺達のような盗賊が生きていける時代は終わる』と言った。それは、単に盗賊が討伐される事だと考えていたのだが、違っていたのだ。カミュ達の成長を見たカンダタは、この世の根本的な変化の未来を見ていたのだろう。

 

「ふふふ。カミュ、私達が震えている場合ではないようだ」

 

「……そうだな……」

 

船員達の表情や声は、無理やり繕っている物ではない。『恐怖』という感情を抑え込んでいるのかもしれないが、それは、この場を取り繕うだけの物でない事ぐらい、リーシャやカミュにも理解出来た。彼等はメルエを、そしてカミュ達三人を心から信じてくれている。それを理解したリーシャは微笑み、カミュもまた小さな笑みを浮かべた。

 

「カミュ様、もしかするとここが……」

 

「ああ、そうだろうな」

 

船員達からのお褒めの言葉を嬉しそうに受けているメルエを優しく見つめていたカミュの傍に近付いて来たサラは、前方に見える岩場を眺めて口を開く。表情を戻したカミュは、サラと同様に岩場へ視線を移し、その考えに同意を示した。リーシャは何の事を言っているのかが解らず首を傾げるが、カミュは船室へと一人戻って行く。

 

「船を少し後方へ動かせますか? あの岩場から少し離れた場所で停泊していて欲しいのですが……」

 

「あの浅瀬に降りるのか? 見た所岩場しかないようだが……」

 

カミュが船室へ消えた事を確認したサラは、船を動かすように頭目へ言葉を投げかける。頭目や船員達からすれば、この小さな岩場に何があるとも思えない。船が座礁しないように、すぐに離れて欲しいと言うのならば解るが、この近くに停泊して欲しいという事が不可解なのだ。上陸できるような陸地がある訳ではない。カミュ達の考えが解らない頭目は、釈然としない想いを抱く事となる。

 

「私達は小舟で浅瀬に近付きます。私やカミュ様の考えが正しければ、このままでは船が陸地に乗り上げてしまう可能性が出て来ます。錨が下せる限界付近で待機して頂く方が安全だと思います」

 

「陸地?……まぁ、嬢ちゃんがそう言うのなら……」

 

釈然としないままであるが、頭目はサラの言葉に頷きを返した。カミュが戻って来る前に錨を上げ、帆を張らずに注意深く浅瀬から離れて行く。錨が海底に掛る限界の場所でもう一度錨を下ろし、小舟を海に浮かべた。船室から戻って来たカミュは革袋を担いでおり、カミュに気付いたメルエを裾に付けながら、小舟へと乗り込んで行く。サラの引き続きリーシャも小舟に乗りこみ、四人は岩場の見える浅瀬へと近付いて行った。

 

「カミュ、ここで何をするつもりだ?」

 

「リーシャさん、<スーの村>で話す馬を憶えていますか?」

 

「…………エド…………」

 

浅瀬に近付き、漕ぐのを中断したカミュは、後方に置いていた革袋を手に取った。何をするのか疑問に思っていたリーシャではあるが、当初の目的地がこの浅瀬であった事を思い出し、すぐに納得する。カミュが再三目的地を告げていたにも拘らず、いざその場所に着けば、目的を忘れてしまう事自体リーシャらしいと言えばリーシャらしいのだが、納得顔をしているリーシャにカミュは軽く溜息を吐き出した。

 

「カミュ様、岩場近くに<渇きの壺>を入れた方が良いかもしれませんね。この小舟であれば、陸に乗り上げたとしても、海まで運ぶ事は可能ですから」

 

「わかった」

 

カミュが袋から取り出した物は、<エジンベア>という大国で入手した<スーの村>の至宝。『海の水を干上がらせる』とまで云われる神秘の宝物である。それを取り出し、海面に入れようとしたカミュであったが、サラの忠告を受け、再び船を漕ぎ始めた。先程までびっしりと貝が張り付いていた岩場は、焦げ付いた色を残しながらもその場に存在している。岩場の南側に回り込んだカミュは、そのまま岩場近くの海水に<渇きの壺>を沈めて行った。

 

「ふぇっ!?」

 

「メ、メルエ、しっかり掴まれ!」

 

カミュの手から<渇きの壺>が離れ、その姿が海の中へと消えた瞬間、地響きのような音と共に海面は大きく波打ち始める。慌てて小舟の淵にサラはしがみ付き、リーシャは傍にいたメルエを抱き抱えた。海水が大きく引き始め、岩場の下の大地が顔を出し始める。草も木も生えておらず、海藻が波打っていた大地が見えた時、カミュ達の乗っていた小舟は海に浮かんではいなかった。カミュ達の周りを満たしていた海水は何処かに吸い込まれてしまったかのように消え失せ、代わりに土色をした地面の上に船は鎮座していたのだ。

 

「こ、これは……」

 

カミュ達四人は、この旅の中で数多くの神秘を見て来た。だが、何度見ても神秘という物は、『人』の頭では理解が追い付く事はない。目の前で起こった奇跡に誰一人声を出す者はいなかった。まるで浮かび上がって来たかのように表れた大地は、いつの間にか顔を出した太陽の恵みを受けて輝いている。そして、その小さな島と言っても過言ではない大地の中央にぽっかりと空いた空洞から、夥しい海水が溢れ出していた。

 

「カミュ、ここに<最後のカギ>があると言うのか?」

 

「あるとすれば、あの空洞しかないだろうな」

 

溢れてくれる海水の勢いが弱まって行く中、空洞の入口を見つめながら呟いたリーシャの疑問は、即座に肯定される。確かにカミュの言う通り、この小さな島には、空洞以外に何も無い。海水に浸かっていた大地に木々が生えている訳はなく、島の端など動かなくとも見渡せる。しかし、<渇きの壺>という道具を使う場所がこの浅瀬で正解であったとすれば、<最後のカギ>という物がここにあると言う事になるのだ。細い情報の糸を手繰って来た結果、辿り着いた場所はこの浅瀬なのである。

 

「海水が出終わったら、行ってみましょう」

 

「全ての海水が吐き出されるとは思えないな。カミュ、小舟を持って行くか?」

 

「いや、大丈夫だろう」

 

噴き出す海水の量が減り、今や流れ出ているような物に変わっている。それを見たサラが真っ先に小舟から降り、大地へと足を下ろした。海水に浸かっていた大地は多分に水分を含んでいたが、柔らかいというだけで踏み締める事が出来ない訳ではない。サラに続いてカミュも小舟を下り、メルエを抱き抱えて降りたリーシャは、小舟を木などに結ぶ為の縄を持ちながら船ごと移動する事を提案するが、それはカミュによって却下された。

 

「メルエ、離れては駄目ですよ」

 

「…………ん…………」

 

大地に下されたメルエは、海藻の隙間から出て来た小さな蟹を見つけ、その後を追って行こうとするが、それはサラによって止められる。眉を下げて頷くメルエの手を引いて、サラは空洞の方へと歩き始めた。カミュは小舟の近くに落ちていた<渇きの壺>を拾い上げ、小舟の中へ戻した後に空洞へ歩く一行の先頭へと立って歩き始める。空には太陽が顔を出し、今までの鬱憤を晴らすかのような眩い光を大地へと降り注いでいた。

 

 

 

「メルエ、滑るぞ」

 

「気を付けて下さいね」

 

「…………ん…………」

 

空洞の中へ入ると、緩やかな下り坂になっており、岩で出来た床は海水と藻のような物で滑りやすい物となっていた。手を握りながら進むメルエも、注意深く足を進め、一行と共に奥へと進んで行く。今まで海水が満ちていた為に、奥へ進めば進む程潮の匂いが強くなっている。床には何匹かの魚が住処を奪われ、その身体を跳ねさせていた。その様子を見たメルエの眉が哀しそうに下がり、救いを求めるようにサラを見上げるのだが、魚を救う事が出来ない事を理解しているサラは、静かに首を横に振るのである。

 

「カミュ、ここは何だ?」

 

魚や海藻達の住処であった通路を暫し歩くと、その先には広い空間が広がっていた。端が見えない程の広さではないが、王宮の謁見の間と同程度に広い空間は、未だに海水が満ちており、カミュやリーシャの腰よりも高い位置で波打っている。吐き出し切れていない海水が満ちたその場所は、不思議な雰囲気を漂わせており、それは神聖な物に似た厳粛な物であった。

 

「魔物等の気配はありませんね。あの先に階段のような物が見えますが……」

 

「カミュ、メルエは私が担ごう。あの場所へ行ってみるのだろう?」

 

「ああ」

 

サラの言葉通り、この空洞には魔物の気配など微塵もない。もしかすると、海水に浸かっている時も、この空洞は何かに護られていたのかもしれない。だからこそ、この空洞に近づけない魔物達が、空洞のある大地に残る岩場に集っていたのだろう。海水で満ちた空間の先に、上へと向かう階段のような上り坂が見えていた。手を握っていたメルエを担ぎ上げたリーシャは、そのまま肩車のようにメルエを担ぎ、カミュへ先を促す。頷きを返したカミュは、そのまま海水の中へと入って行った。

 

「ひゃあ!」

 

「サラ、歩けないのならば、泳いでも良いんだぞ」

 

カミュに続いて入って行ったサラの背丈は、リーシャやカミュよりも低い。自分の胸近くまである海水が、先頭のカミュが歩く度に波打つ事で、顔面に海水を被ってしまうのだ。冷たい海水が顔にかかる事で悲鳴を上げたサラをからかうように声を発するリーシャを軽く睨んだサラは、その言葉を無視して先へと足を踏み出す。踏み出した足に、海水の中を泳ぐ魚達が触れ、再び声を上げるサラを見たメルエもまた、笑みを溢していた。

 

「ほら、見えるか? メルエの好きな魚が泳いでいるぞ?」

 

「…………おさ……かな…………」

 

魔物の気配が一切無い事が、リーシャやサラの心に余裕を持たせる。カミュが先頭を歩いている以上、何か異変があればすぐに対応できるという絶対的な安心感も原因の一つなのかもしれない。少し屈んだリーシャの頭を両手で掴むメルエは、透き通った海水の中で元気に泳ぎ回る魚達を見て、笑みを浮かべていた。サラとは異なり、腰の上程までの海水しか感じていないリーシャには、身体にも余裕があるのだ。顔面に押し寄せて来る海水を、胸の所で防ぐ為の防波堤を持たないサラは、前へ進むだけで精一杯なのであった。

 

空洞の入口から繋がる通路と直線上に見えていた上り坂のような階段へは、一人を除いて苦労する事無く辿り着く。水の抵抗を受けながらも階段へ上がったカミュは、サラの腕を取って階段へと上げ、最後にリーシャの腕を取る為に手を伸ばす。驚いたような笑みを浮かべながら見たリーシャは、海水が上がっていない階段部分へメルエを下ろした後、しっかりとその手を握り返した。

 

「この先に<最後のカギ>があるのでしょうか?」

 

「何にせよ、行く以外に選択肢はない筈だ」

 

不思議な空間を改めて振り返ったサラが口にした言葉は、カミュによって即座に修正される。何があるのかは解らないが、確かに行く以外に選択肢はない。彼等がえて来た情報を紡ぎ合わせると、この場所に<最後のカギ>という神秘が眠っているとしか考える事は出来ない。そして、それが確信出来る程の情報を積み上げて来たという自信もある。彼等の旅は、そのような何本もの細い糸を繋げながら手繰って来た結果なのだ。

 

「行くぞ」

 

革袋から取り出した<たいまつ>に火を点けたカミュの声にリーシャとサラが頷きを返し、四人は階段を上って行く。太陽の光が届かない空洞の中で、<たいまつ>に灯された小さな光が徐々に上へと移動して行った。階段は長い物ではなく、すぐに開けた場所へと出てしまう。拍子抜けする程に身近な階段の先へ<たいまつ>を向けたカミュの後ろから、驚きの声が上がった。

 

「……玉座……ですか?」

 

「いや、それ程高貴なものではない。だが、かなり高価な物だろうな」

 

カミュが灯りを向けた場所には、一つの椅子が置かれていたのだ。いや、実際には置かれていたのではなく、岩のような床に施工されていると言った方が正しいのかもしれない。床と一体になっている椅子は、サラが勘違いしてしまったように、国王が座す為に作られた玉座と呼ばれる物に良く似ていた。だが、宮廷騎士であったリーシャが言うように、一国の国王が座る物としては、少し物足りない。長い間海水に浸かっていた事によって、装飾や色が剝がれてしまった事を差し引いても、そこまでの高貴性を感じなかった。

 

「お前達は……何者だ?」

 

「ひゃあ!」

 

その時であった。突如として椅子に座るような姿をした人間が浮かび上がり、声を発したのだ。椅子の背が透けて見える程に淡い身体を持ったその人物は、この世の者ではない事が推測できる。人物が突然現れた事と、その者の生命が既にない事を理解したサラは、大きな叫び声を上げて飛び上がり、即座にリーシャの後ろへと隠れてしまう。リーシャの隣にいたメルエは、サラの行動を面白がり、いつもの口癖を呟くのだった。

 

「私は……古を語り伝える者……イシス砂漠の南……ネクロゴンドの山奥にギアガの大穴ありき……全ての災いは、その大穴よりも(いづる)ものなり……」

 

「……ギアガ……」

 

カミュ達が素性を答える前に、椅子に腰かけるように映る人物は、一行を見回した後、再び口を開いた。自らを『古を語り伝える者』と称するその人物は、カミュ達には理解出来ない内容を語り出す。ネクロゴンドという単語はカミュもサラも憶えてはいる。『魔王バラモス』と呼ばれる諸悪の根源が城を構える場所として伝えられている場所。彼等はテドンの村でも、ルザミでもその名を聞いていた。

 

「この座の下を……調べてみるが……良い」

 

一行へ視線を送っていたにも拘らず、一行の存在を無視するかのように話を進めて行った人物は、最後にその言葉を残し、虚空へと消えて行った。話の内容をしっかり聞き取ったカミュ。内容の半分ほども理解出来ないリーシャ。真っ青な顔色をして上の空のサラ。話自体に興味も示さず、その存在にしか興味を示していないメルエ。四者四様の表情と感情を浮かべ、不思議な時間は過ぎ去って行った。

 

「はっ!? な、なぜ、このような場所に……ここは海に沈んでいた筈なのに」

 

「…………あわ……あわ…………」

 

暫しの間、誰もいなくなった椅子に視線を向けていた一行であったが、我に返ったサラが震えた声を上げた事によって、メルエも起動を開始する。もはや、しつこさを感じる程に口にして来た言葉を口にするメルエの表情は笑顔。幼いメルエにとって、どれ程叱られても、それは面白い物として認識されており、強く叱られなくなった今となっては、口にする事を躊躇う必要もなくなっていたのだ。しかし、そんな幼い油断は、帽子を取られた頭の上に落ちて来た拳骨によって粉砕する。

 

「メルエ、それは口にしては駄目な事だと教えた筈だぞ!」

 

「…………うぅぅ…………」

 

何時もなら苦笑を浮かべながらも注意するリーシャであったが、今回はサラの動揺を鎮める為に敢えてメルエを叱りつけた。拳骨を頭に受けて叱られたメルエは、涙目で唸り声を上げる。だが、上目遣いで見上げたリーシャの瞳が厳しい事を確認したメルエは、逃げるようにカミュのマントの中へと隠れてしまった。そんなやり取りがサラの心を正常な物へと戻して行く。動揺を抑え込むように深呼吸をしたサラの表情は、青褪めたままではあるものの、『賢者』の物へと戻っていた。

 

「もしかすると、大昔はここまで大陸が繋がっていたのかもしれない。そして、この場所はこの近辺の領主が暮らしていた可能性もある」

 

「では、今の方は領主であった方だと……?」

 

メルエをマントに匿ったカミュは、一つの仮説を口にする。カミュ達が生まれるよりも遙か以前は、この場所が大陸の一部であったという物だった。それが長い年月を経過する中で海面が上がって行き、海の底へと沈んだと言うのだ。それはかなり強引な仮説ではあったが、海の底へ沈んでいた大地に人工の物がある以上、即座に否定出来る物ではない。故に、サラはその仮説を前提に自分の考えを口にした。

 

「それはないだろう。もし、カミュの言うようにこの場所を領する者がいたとすれば、その者はここが海に沈む前に脱出しただろうからな」

 

「では……あの人は……」

 

「あれが誰であるのかは問題ではない筈。あの霊魂が語った内容の方が重要だ」

 

サラの疑問を否定したのはリーシャ。だが、そんな二人の疑問は、カミュにとって些細な事であった。重要なのは、先程伝えられた情報。多くの謎が散りばめられた内容の中で、今試す事の出来る物は一つ。カミュは、二人を振り返る事無く、目の前にある椅子の下部へと近付いて行く。探るような手つきで床と一体になった椅子を調べて行き、ある一点に目を止めたカミュは、マントの中に隠れたままの少女へと声を掛けた。

 

「…………ん…………」

 

カミュから声を掛けられたメルエは、肩から掛っているポシェットへ手を入れ、金色に輝く小さな鍵を取り出す。<魔法のカギ>と呼ばれるそれを受け取ったカミュは、椅子と床を繋ぐ台座にある小さな鍵穴に差し込んだ。小さく乾いた音が響き、台座に装飾されていた小さな引き出しが開かれる。その中へと手を入れたカミュは、とても小さな何かを取り出した。

 

「それは……」

 

「<最後のカギ>なのか?」

 

カミュが取り出した物は、鍵とはとても思えない姿をしていた。鍵穴に差し込む部分は奇妙な曲線を描いているが、その先は直線。<魔法のカギ>の形も奇妙な物ではあったが、この鍵と比べると、まだ鍵としての様相を持っていたと感じる程に異質な物。そして何よりも一行を驚かせた物が、その鍵の取っ手の部分に成されている装飾であった。

 

「…………これ…………」

 

それは、カミュのマントから出て来たメルエが突き出した杖にも施されている物。眼球を模ったようなオブジェであった。それがこの鍵の取っ手部分に存在していたのだ。<雷の杖>に施された装飾と同様の物がある。奇しくもその事実が、この鍵が<最後のカギ>と呼ばれる物である事を明確に示していた。『古の賢者』が過ごしていたと考えられる場所にあった杖と、『古の賢者』が封印した物と考えられる鍵に共通した装飾。それは、驚きを表わしていたサラの頭に一つの答えを導き出させた。

 

<最後のカギ>

古代より伝わる道具であり、どのような鍵も難なく開錠してしまうと云われている。その起源は不明で、この世が創造された時より存在するとも考えられており、神が創ったとも、精霊ルビスが創ったとも考えられる神秘であった。その姿はとても鍵とは思えない物であるが、この世界には存在しない特殊な金属で出来ており、差し込んだ鍵穴に合わせて変形をし、瞬く間に開錠してしまう神秘に相応しい物である。

 

「では……あの方が『古の賢者』様……」

 

「さあな。それを確認する方法がない以上、考えるだけ無駄だ」

 

先程まで確かに見えていた人物が、自分の探し求めていた者である可能性に気付いたサラは、改めて身体を震わせた。先程とは異なる震えはなかなか治まる事はなく、青白かった顔は気持ちの高揚によって赤みを帯びて来る。カミュの言葉は正論ではあるが、その言葉はサラには届かない。熱を持った瞳を再び椅子へと向けたサラは、胸の前で手を合わせ、深い祈りを始めた。

 

「出るぞ」

 

祈り続けるサラから視線を外したカミュは、振り返る事無く下の広間へと歩き始める。再びメルエを肩車の形式で担いだリーシャは、サラの肩に手を置き、先を促した。瞳を開けたサラは立ち上がり、一度椅子に向かって深々と頭を下げ、リーシャの前を歩き出す。カミュやリーシャは、先程の人物が『古の賢者』であるかどうかが解らないが、サラは小さな確信を持っていた。先代の『精霊ルビスと人間を繋ぐ者』が、自分達を精霊ルビスへと導いてくれているのだと。

 

 

 

行きと同じ道を辿ったカミュ達は、魔物の気配など皆無である空洞を抜け、外へと足を踏み出した。既に太陽が真上を越え、西の空へと移動を始めており、雲の晴れた空からは太陽の強い光が降り注いでいる。小舟へと戻ったカミュ達は、サラとメルエを小舟に乗せ、リーシャとカミュで岸近くへ運び出した。海水に船を浮かべ、カミュとリーシャも乗り込む際に、再び彼等の前に神秘が姿を現す。

 

「なんだ!?」

 

自分の座る場所を確保しようと、カミュが<渇きの壺>を持ち上げると同時に、壺の口から大量の海水が噴出し始めたのだ。まるで、吐き出す機会を待っていたかのように空高くに噴き上げた海水は、暖かな日光を受けていた大地に降り注ぐ。噴出する海水の力で大地から離れて行く小舟。噴出する海水によって姿を隠して行く大地。それは、『人』の思考では消化する事が出来ない程の摩訶不思議な現象であった。

 

見る見る内に、大地は海水に覆い隠され、海の底へと沈んで行く。カミュ達が乗る小舟が頭目達の待つ船の傍まで流された頃には、<渇きの壺>を投げ入れる前と同じような岩場しか見る事が出来なくなっていた。神秘としか表現できない光景に、誰しもが口を開く事が出来ない。<渇きの壺>を持っていたカミュでさえ、その壺の口から海水が噴出し終わっても尚、呆然と岩場を見詰める事しか出来なかった。

 

「…………なく……なった…………」

 

そんな中、最初に口を開いたのは、不思議な現象に目を輝かせていたメルエであった。彼女にとって、不可思議な現象は驚きや恐怖よりも、単純な興味しか湧かないのかもしれない。感動とも言って良い感情を顔全体で表すメルエが、岩場を見ながら笑みを浮かべる。そんなメルエの言葉に、ようやく他の三人が再起動を果たした。

 

「驚く事ばかりで、思考が追い付きません」

 

「私も同様だ。しかし、これで<最後のカギ>は手に入った。カミュ、まず何処へ向かうつもりだ?」

 

未だに驚愕を顔に張り付けていたサラは、岩場を眺めながら口を開く。リーシャはそんなサラに同意しながらも、強引に思考の方向を転換させた。<最後のカギ>を入手すると言う事が、優先順位として一番高かったのだ。それが果たされた今となっては、その後に入手した数多くの情報が仇となる。どれから手を付けるべきなのかがリーシャには判断出来なかった。故に、この旅の指針を決めて来た青年に問いかける。『自分達は何処へ向かえば良いのか?』と。

 

「……テドンへ向かう……」

 

そして、その答えは少しの思案の後、明確な言葉を持って告げられる。しかし、その目的地は、リーシャにとってもサラにとっても予想外の場所であった。<滅びし村>と称される村。魔物によって滅ぼされ、今尚その事に気付いていない者達が暮らす村。<最後のカギ>という情報を最初に聞いた場所でもある。だが、リーシャもサラも、何故その場所に再び向かう必要があるのかが理解出来ない。それでも、カミュがこう言う以上、そこに目的があり、それを変更するつもりがない事は理解出来た。一度頷きを返したリーシャは、顔を青くしているサラへ視線を送り、サラが小さく頷きを返したのを見て、もう一度カミュに向けて頷きを返した。

 

 

 

『古の賢者』が残した<最後のカギ>は、当代の『賢者』が属するパーティーの手に渡された。数十年ぶりに地上へと現れた神代の道具が、彼等を何処へ導き、何を成させるのか。それは、今はまだ誰も知らない。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

前回の活動報告で長くなるとは掻きましたが、ここまで長くなってしまうとは思いませんでした。
もし、長過ぎるとお感じになられたとしたら、大変申し訳ございません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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