新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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第十二章
閑話~【不思議な泉】~


 

 

 

 船に戻ったカミュ達は、何度も見る神秘に口を開けたまま驚きを表す船員達の姿を見る事となった。

 小舟で近付いたカミュ達が何かをしているという事は確認できたが、その後に起こった現象は、彼等の常識を覆す程の物。突如として現れた大地に降り立ち、空洞へと入って行ったカミュ達が戻って来た時、再び神秘を目の当たりにし、彼等は言葉を失くしてしまったのだ。

 

「テドンへ向かってくれ」

 

「はっ! テ、テドンだな!……いや、少し待ってくれ。この場所が、お嬢ちゃんの言うようにこの辺りだとするならば……少なくとも、テドンまでは二か月近くかかるぞ。食料をもう少し補給しておきたいな……」

 

 カミュの指示で我に返った頭目は、現状の位置から渡航期間を割り出し、現在の船の備蓄などを擦り合わせる。この場所からテドンへ向かうのであれば、南に下りムオルやジパングを通って行く事になるのだが、一度も町や村へ寄らずに行くとなれば、食料などが足りないと考えていた。

 カミュの表情を見ると、ゆっくりと移動するつもりはないように見える。故に、頭目はその提案を行ったのだ。

 

「おそらく、この浅瀬がこの辺りだと思いますので、少し東へ行けばスーの村があった大陸に出ますね。ちょうどアープの塔の北辺りでしょうか?」

 

「そうだな……悪いが、一度食糧調達を行っても良いか? 実は、先日の嵐で積み荷の大半を海に落としてしまっているんだ」

 

 地図を覗き込んだサラが船の航路を割り出すと、それに同意した頭目は、カミュに許可を申請する。先日、嵐に巻き込まれ、船員が一丸となって対処した際に、船の重みを減らす目的で積み荷を海に落としていたのだ。

 その事に気が付いていなかったのはカミュ達だけであり、船員達は皆、食料を節約しながら行動していた。

 カミュは一度溜息を吐き出し、頭目の目を見て口を開く。

 

「アンタ方は、共に旅をする者達だ。食料がないのなら、そう言ってくれ。アンタ達が空腹に耐える必要は何処にもない」

 

 カミュ達へ食料を回し、自分達は何処かによる際に調達しようとでも考えていたのだろうが、それに対し、カミュは怒った。

 その時口にした言葉にサラは驚き、リーシャは暖かな笑みを浮かべる。カミュは明確に船員達を『仲間』として認めていた。

 それが何故かとても嬉しく、リーシャは隣にいるメルエと共に笑みを強くする。そして、確定された進路は、彼等の進むべき道となった。

 

「帆を張れ! 東へ向かうぞ!」

 

 頭目の指示に動き出した船員達は、一斉に掛け声を上げ、各々の持ち場へと散って行く。船は輝き続ける陽光を浴び、帆一杯に風を受けて、大海原を西へと掛けて行った。

 再び動き出した船に喜んだメルエは、いつものように木箱の上に乗り、踊る風を頬に受けて微笑む。海鳥達の鳴き声に耳を澄ませて目を瞑り、輝く波飛沫を被っては笑みを溢していた。

 

「ふふふ。どんなに強力な魔法を使おうと、メルエちゃんはメルエちゃんだな」

 

「ああ。あの姿を見ると、死んだ娘を思い出すよ」

 

 メルエの姿を見た船員達の呟きを聞いたリーシャとサラは、お互いに微笑み合い、喜びを分かち合う。メルエを強力な『魔法使い』としてではなく、メルエ個人として見てくれているという事実に、リーシャとサラは安堵の想いを吐き出したのだ。

 彼女達の懸念はメルエの能力の高さ、その力の強さにあった。だが、二人の心の中で僅かに残っていた不安を、船員達は明るい声で吹き飛ばしてしまう。

 

「メルエの魔法に関しては、サラに任せたぞ。カミュもそう考えている」

 

「えっ!? は、はい! 頑張ります!」

 

 グリンラッドの横穴の中で、吹雪を見ながらカミュと語り合った事をリーシャはここで口にした。

 抱えた不安を払拭するような一言を放ったカミュの表情を、リーシャは今でも鮮明に憶えている。

 幼いながらも人類最高の『魔法使い』となったメルエの隣で眠るサラへ視線を動かし、信頼を表すように呟かれた言葉。その時の胸に湧き上がる歓喜の感情は、今でもリーシャの胸を震わせるのだ。

 サラという『賢者』ではなく、サラという人物に向けられた信頼を、リーシャはどうしても伝えたかった。

 

「陽が暮れる頃には大陸も見えて来るだろう。食料の調達などは夜が明けてからになるだろうから、アンタ方も今日はゆっくり休むと良い」

 

「俺達よりも皆の方が休息は必要な筈だ」

 

 空を眺めた頭目は、カミュ達へ休息を促すが、カミュはそれを柔らかく断った。

 確かに、船員達の全員が嵐の時から碌な休息を取ってはいない。あの嵐を乗り越えた後、この浅瀬へと向かう中、交代制で休みを取っていたようではあるが、それでも睡眠時間は短い筈だ。

 それを知っているカミュは、船員達の休息の方を優先させるべきだと考えていた。

 

「そうだな……私達は陽が暮れる頃まで休ませて貰おう。大陸が近付いたら、錨を下せるような場所まで行った後、夜の見張りなどは私とカミュに任せて、皆は身体を横にした方が良いだろうな」

 

「ありがとうよ。今回は好意に甘えさせて貰うとするよ」

 

 カミュの言葉に同意を示したリーシャの提案を頭目は素直に受け入れる。明るい表情をしている船員達も、見え隠れする疲労の色を出し、どこか安堵の表情を見せていた。

 方向性が決定した船は、真っ直ぐ東へと進み、順調に波を割って行く。相変わらずメルエは笑顔で海を眺めており、それにサラが付き合う事にして、カミュとリーシャは船室へと入って行った。

 頭目の言葉通り、船は陽が沈み切る前に大陸の影を捕捉する。計画通り、錨を下ろした後、カミュとリーシャが夜の見張りを行い、船の全ての人員が眠りに就いた。

 鎮まる船の上で星空を見上げながら潮風を受けていたリーシャは、少し思考の海へと落ちて行く。

 それは、先程に目的地を告げたカミュの事。

 そして、その目的地の事であった。

 

「カミュ、一つ聞いても良いか?」

 

 そして、前方を見ていたカミュの背中に問いかける。

 振り返ったカミュの顔は、闇に隠れて見えない。表情が見えなくとも、その表情が出会った頃のような冷たい物ではない事をリーシャは知っていた。

 彼もまた、この旅で大きく成長をしている。いや、それはリーシャやサラから見た『成長』であって、本来であれば『変化』と言った方が良いのかもしれない。

 

「何故テドンへ向かうんだ? 私にはテドンへ向かう意味が解らないのだが……」

 

「アンタが解る事は、これまでに有ったのか?」

 

 純粋な疑問として口にしたリーシャの言葉は、カミュの純粋な疑問を持って返された。

 本当に不思議そうにリーシャを見つめるカミュの視線は、リーシャの怒りの熱を抑えてしまう。『馬鹿にされている』と感じずにはいられないが、カミュとしては『そんな部分も含めてリーシャ』という想いもある事が解ってしまうのだ。

 自分を侮っていると怒る事も出来るが、何故か自分を認めてくれているという喜びもある。

 自分でも消化しきれない思いが交差する中、リーシャは鋭い視線をカミュへと向ける事しか出来なかった。

 

「テドンには、気になる所がある。それだけが理由だ」

 

「……気になる事?」

 

 鋭い視線を受けていたカミュは、一つ溜息を吐き出し、そこへ向かう理由を呟いた。

 だが、それはとても簡潔である代わりに、疑問を解消してくれる物でもない。全く解らない答えを受けたリーシャは、首を捻る事しか出来ず、その先を語ろうとしないカミュを見て、問い質す事を諦めた。

 カミュの中で確定していない疑問がテドンに残っているのだろう。それが自分の中で推測が出来ない程に曖昧である為、簡単には口に出来ないのだ。

 

「まぁ、いい。お前がそう言う以上、あの場所に何かがあるのだろう」

 

 カミュの姿に無理やり納得したリーシャは、そこに何かがあるのだろうと考える。

 カミュは基本的に無意味な場所へ向かう事はない。その判別は、アリアハンを出た当初から比べれば、とても柔軟な物になってはいるが、それでも彼が必要性を感じない場所へ向かう事はないだろう。

 だとすれば、テドンに何かがある事はほぼ間違いはない。リーシャのような『戦士』は、その道が誤りでない限り、彼等と共に歩むだけなのだ。

 

「テドン次第ではあるが、その後はランシールへ向かう」

 

「あの神殿か?」

 

 テドンの内容を語る事をしなかったカミュではあるが、その後の目的地に関して問うリーシャの言葉には素直に頷きを返した。

 『古の賢者』と謳われる者が封じた神殿への扉は、彼等が手にした<最後のカギ>でなければ開錠する事は出来ない。それは、その場所に何かがある事を示している事と同意なのだ。

 彼等の歩む道筋は、<最後のカギ>と呼ばれる神代の道具によって、何通りにも分かれて行った。

 今までは、細い糸が繋がる一本の道を歩んで来た彼らであるが、これからはいくつもの情報を合わせ、最適な場所へと向かう必要がある。カミュの中では、<サマンオサ>という名の国を訪れるよりも、それらの方が優先順位は高いと事なのだろう。

 

「わかった。まずは明日の食糧調達だな」

 

 しっかりと頷きを返したリーシャは、再び視線を真っ黒な海へ向けた。

 風も穏やかであり、波も高くはない海の静かな音が心地良く耳へと響く。小さな波に揺れる船は、この船に乗っていた全船員とサラやメルエを揺り籠のように包み込み、優しく揺らし続けるのだった。

 

 

 

 翌朝、メルエが起床するのを待って、船員達と共に陸地へと上がって行ったカミュ達は、果物や木の実を取る船員達とは別に獣などを狩る。狩られた獣は、船員達の手によって燻され、燻製にされて保存された。

 ある程度の食料を取った船員達はそのまま船へと戻り、カミュ達は暫しその場所を探索する事にする。森の中へと入ったカミュ達は、生き物を見ては立ち止まるメルエを促し、奥へと進んで行った。

 

「カミュ、そろそろ一度休憩を取らないか?」

 

 陽が真上を過ぎる頃、後方から掛った言葉にカミュは頷きを返す。

 そこは、木々が生い茂る森を抜けた場所。目の前には大きな湖が広がり、湖畔を流れる風が心地良い涼しさを運んで来ていた。

 湖の周囲には草花が咲き誇り、甘い匂いを虫達へ向けて放ち、誘われた虫達は、甘い蜜という恩恵を受ける代わりに彼等の子孫を運んでいた。

 その景色に誰よりも魅了されたのはメルエ。

 穏やかな生命の営みは、彼女にとって魅力的に映り、目を輝かせて駆け回る。

 

「あっ!? メルエ、勝手に行っては駄目ですといつも言っているでしょう!」

 

 嬉しそうに駆け回るメルエに苦笑を浮かべながらも注意を忘れないサラは、その後を追いかけるように駆け出した。

 魔物の気配を感じない事を確認したカミュとリーシャも二人の後を追って歩き出す。メルエは、自分を追って来るサラを見て、湧き上がる楽しさを抑える事が出来ず、まるでサラから逃げるように草花の間を縫って駆けていた。

 

「もう! メルエ、待ちなさい!」

 

 サラとメルエの足の長さはかなりの差がある。それはそのまま駆ける速度に比例する筈なのだが、小さな身体を駆使して草花の間を縫って走るメルエをなかなか捕まえる事が出来ない。

 少し声を荒くしたサラの声を聞いても、振り返ったメルエの顔は満面の笑顔。

 しかし、そんなメルエの逃避行も、彼女が逃げる道を誤った事で終止符を打つのだった。

 

「カミュ、魔物の気配はないが……何かに見られているような気がしないか?」

 

 メルエが向かったのは、湖の中心へと伸びる大地。その湖は綺麗な円形をした物であったが、まるで中央へ向かう必要があるかのように、一本の道が作られていた。

 いや、正確に言えば道と言うよりも只の大地ではある。獣も通らないのか、草花は何に邪魔される事無く太陽に向けてその葉を伸ばし、足の踏み場もない程に咲いていた。

 メルエは、そんな花々を折らないように慎重に足を伸ばしていた為、後ろから来たサラに捕まってしまう。捕まってしまったにも拘わらず、笑みを崩さないメルエに溜息を吐き出したサラは、自分が立っている位置を確認する為に顔を上げた。

 

「綺麗ですね……」

 

「美しい湖だな。それよりも、サラを困らせては駄目だぞ」

 

 メルエを下ろしたサラは、目の前に広がる湖の幻想的な美しさに感動してしまう。

 陽光を受けて輝く湖は、穏やかな風を受けて波打ち、その輝きの色を何度も変化させていた。

 到着したリーシャもその美しさに同意した後、サラの傍に立つメルエの額を軽く叩く。目を瞑ったメルエだったが、衝撃が軽かった事で、再び笑みを浮かべた。

 四人は、湖の中心付近の大地に座り、休憩を始め、先程作ったばかりの燻製された肉を頬張りながら水を飲み、軽い談笑を繰り広げた。

 

「メルエ、何を見ているのですか?」

 

「…………これ…………」

 

 休憩に飽き始めたメルエは、座り込んでいた大地へ視線を送り、ある地点を『じっ』と見つめている。それに気が付いたサラは、メルエの横から同じ場所を覗き込み、何を見ているのかを問いかけると、メルエは地面を指差し、自分の見ていた物を逆にサラへと問いかけた。

 その様子から、メルエが初めて見る物だという事が解り、改めてメルエの指差す場所へ視線を送ったサラは、地面の中から顔を出す物を見て、表情を変えてしまう。

 

「こ、これはですね……み、『ミミズ』という……ああ、にょろにょろと……」

 

「なんだ? サラは『ミミズ』が苦手なのか?」

 

「…………サラ………だめ…………?」

 

 表情を引き攣らせたサラは、メルエの傍から徐々に離れて行く。その様子を見たリーシャは、サラの意外な弱点に笑みを溢し、メルエは小首を傾げた。

 地面から顔を出した『ミミズ』は、その奇妙な身体を動かし、再度地面へと戻ろうとするが、その目論見は幼く小さな手によって遮られる事となる。メルエは地面から出て来た物体に興味を示し、その身体を指で摘み上げたのだ。

 『うねうね』と動く生物を興味深そうに見つめ、笑みを浮かべた後、それをサラの方へ持ち上げる。

 

「に、苦手ではありませんよ。ひゃあ! メ、メルエ、こっちに持って来ないでください!」

 

 全ての生物の幸せを願う『賢者』が、特定の生物に苦手意識を持つという事も可笑しな事ではあるのだが、『人』である以上、生理的に苦手な物がいても仕方がないだろう。メルエが摘み上げた生物が顔面に近付いている事に気付いたサラは大きく仰け反り、そのまま距離を取ろうとする。

 だが、そんなサラの行動を面白い物と認識したメルエのしつこさをリーシャは気付いていた。

 小さく笑みを作ったメルエは、立ち上がって距離を取ったサラを追いかけるように『ミミズ』を摘んだまま歩き出す。

 

「メルエ、怒りますよ! もう、止めて下さい!」

 

「…………ふふ…………」

 

 逃げ出すサラに、それを追いかけるメルエ。 

 その幼い指先には、『うねうね』と動き続ける生物。

 それは、カミュやリーシャにも笑みを浮かべさせる程の和みを運んで来た。追われるサラからすれば、堪った物ではないのであろうが、リーシャの笑い声が響く中、メルエは追い続ける。

 様々な色に輝く湖は、そんな二人を優しく見つめていた。

 

「あっ!?」

 

「…………ぶっ…………」

 

 そんな和やかな時間が流れていた湖畔に、奇妙な声が響く。いつの間にか、湖の中央に伸びる大地の先端に辿り着いていたサラが足を止めた事によって、追っていたメルエがサラにぶつかってしまったのだ。

 メルエを制止しようと振り向いたサラの腹部にぶつかったメルエは奇妙な声を上げ、摘んでいた『ミミズ』を地面へ落とす。地面に辿り着いた『ミミズ』は、この機会を逃すまいと、必死に土を掻き分けて土中へと戻って行った。

 

「ああ……」

 

 メルエの手から離れた『ミミズ』と同様に、メルエがぶつかった衝撃で、サラの背に括りつけていた<鉄の槍>もサラの背を離れて落下してしまった。

 しかし、その落下場所は『ミミズ』とは異なり、地面ではなく湖。

 水音を立てて湖中へと消えて行く<鉄の槍>を見たサラは、何処か間の抜けた声を上げる。同じように、落下して行く槍を見ていたメルエは眉を下げ、怯えた表情をサラへと向けていた。

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

 自分が悪い事を理解しているのだろう。メルエは小さく頭を下げ、上目遣いでサラを見上げる。メルエの表情を見たサラは、溜息を一つ吐き出し、もう一度湖へと視線を戻した。

 既に<鉄の槍>が消えた場所の波紋は消え、湖は静けさを取り戻し始めている。サラの横にはいつの間にかリーシャが来ており、カミュもまたこちらへと歩み寄って来ていた。

 

「仕方ありません。私の持っている<鉄の槍>で良かったです。これがカミュ様の<草薙剣>であったのなら、イヨ様に顔向けできなくなってしまいますから」

 

「サラ、済まない。私もメルエへ注意をしておくべきだった」

 

 サラの諦めにも似た笑みを見たリーシャは、はしゃぐメルエを注意しなかった自分にも落ち度があると謝罪を口にする。それにもサラは首を横へと振った。

 確かに、サラの言う通り、湖に落ちたのが<鉄の槍>であった事は不幸中の幸いだったと言えるだろう。

 カミュの持つ<草薙剣>は、ジパング国の至宝と言っても過言ではない程の剣。

 現国主であるイヨの好意により借り受けている物であり、何時かは返上しなければならぬ物でもある。それを湖の底へと落としてしまえば、イヨという大器の顔を潰してしまう事にもなり、それはカミュ達全員の願う物ではない。

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

「大丈夫ですよ、メルエ。でも、『ミミズ』を持って追いかけて来るのは、もう止めて下さいね」

 

 事の重大さを理解したメルエは、再度小さく頭を下げ、涙を浮かべた瞳を伏せた。

 そんなメルエの帽子を取って屈み込んだサラは、あの魔法の言葉を口にする。メルエに取って、誰のどんな言葉よりも信用度の高い言葉。サラの口にする『大丈夫』という暖かな言葉を受け、メルエはサラの胸に飛び込んだ。

 飛び込んで来たメルエに注意する事を忘れなかったサラの言葉に、胸の中で頷いたメルエは、小さな啜り泣きを始める。先程までの和やかな空気とは毛色は異なるが、穏やかな空気が流れる中、再び時は動き出した。

 

「お、おい、カミュ……」

 

 それは、湖の中央付近に現れた。

 突如湖上に浮かび上ったそれは、徐々にカミュ達へと近付き、大地と湖の境まで来た後、カミュ達と同じ場所まで浮上する。

 その姿は、女性としか認識できない姿。

 人型の陽炎のように揺らめく姿は、それが肉体を持っていない事を示している。

 魔物とも精霊とも言えるそれに、カミュは思わず剣へと手を伸ばすが、それは見えない何かによって止められた。

 力強い圧力のような物に止められたカミュの手は、背中の剣に届く事無く、下へと落ちる。

 

「心配する事はありません。私はこの湖の精。貴方達に危害を加えるつもりはありません」

 

「……湖の精霊様ですか?」

 

 揺らめく女性は口を開く事無く、言葉を放った。

 それは、耳で聞くというよりも直接的に脳が理解すると言った方が良い物。通常ならば、畏怖さえも感じる程の力ではあるが、ここまでの旅で何度も不可思議な現象を目の当たりにし、神や精霊の力の助力を得て来たカミュ達は、何処か素直に納得できる物であった。

 その証拠に、サラは湖の上に浮かび上がった揺らめく人影に、その正体を問いかける。『精霊』という物は、ルビス教の中で最も高位に立つと云われている存在。

 その中でも最も高位にいるのが、『精霊ルビス』となるのだ。

 

「この湖は私自身。貴方達は、先程何かを落とされましたか?」

 

「も、申し訳ありません。精霊様とは存じず、誠に失礼な事を……」

 

「…………おとした…………」

 

 サラの問いかけに微笑みを浮かべるように答えた精霊と名乗る者は、異なる問いかけをカミュ達へと投げかける。サラはその問いかけを聞いていないように、自分の非礼を謝罪する為に屈み込んだ。

 胸の前で手を合わせ、顔を上げないように精霊へと言葉を発している最中、それは遮られた。

 サラの隣に立っていたメルエは、先程の自分の罪を告げるように口を開く。ルビス教も、精霊も知らないメルエだからこそ、その不思議な人影に声を発する事が出来たのだろう。事実、リーシャとカミュは、揺らめく女性を唖然と見つめる事しか出来ていなかった。

 

「メ、メルエ、いけません。こちらに座って!」

 

「…………むぅ…………おとした…………」

 

 精霊という高位に位置する者に対する度重なる非礼をサラは恐れている。元々は熱心な『僧侶』であるサラにとって、精霊という存在は、敬うに値する存在であった。

 それは、一国の王など足下にも及ばない者であり、絶対の存在と言っても過言ではない者。

 だが、その価値観は幼い『魔法使い』には通用しない。

 先程の自分の罪は認めてはいるものの、それを正直に口にしたにも拘わらず、サラに叱られた事がメルエは納得がいかないのだろう。頬を軽く膨らませ、もう一度湖の精霊を見上げたメルエは、同じ言葉を口にした。

 

「良いのですよ。少し、お待ちなさい」

 

「ふぇ!?」

 

 頬を膨らませるメルエの姿に微笑んだように見えた精霊は、脳に響く言葉を残した後、そのまま湖中へ消えて行く。突如消えた人影にサラは驚き、奇妙な声を上げて、周囲を見回していた。

 メルエは、湖中へ消えた人影を追うように、湖を覗き込み、小さく首を傾げる。その頃、ようやく我に返ったリーシャもサラと同じように膝を折ったが、カミュは相変わらず立ったままであった。

 

「貴方達が落とした物は、これですか?」

 

 それ程時間を掛けずに戻った精霊は、カミュ達に向けて両腕を突き出す。その腕には、一本の硬い木で出来た棒が乗っていた。

 それは、この世界では<ひのきの棒>と呼ばれる武器。いや、正確には武器とは呼べない程の代物である。只、檜の木を削って棒状にした物であり、子供などの力のない者が持つ遊び道具のような物であった。

 それを差し出された一行は、暫しの間何を言われたのか理解が追い付かない。そこでも、真っ先に動いたのは幼い少女であった。

 

「…………ちがう…………」

 

「……そうですか……では、少しお待ちなさい」

 

 首を横へと振って否定を示すメルエを見た精霊は、再び湖へと帰って行く。そこは、カミュやリーシャの入り込む隙のない空間であった。

 メルエの横で跪いていたサラも、消えては浮かび、浮かんでは消える精霊の姿を呆然と眺める事しか出来ないでいる。だが、メルエだけは再び湖へ入って行った精霊を待つように、その場でしっかりと立っていた。

 

「では、貴方達が落とした物は、これですか?」

 

 再び戻って来た精霊は、もう一度メルエの前に腕を差し出す。

 次に腕の中にあったのは、とても立派な斧。いや、斧と呼ぶには余りにも恐ろしい程の物であった。

 その装飾は禍々しく、<バトルアックス>とは異なり、両刃の斧であるが片刃は小さく、大きな刃の部分は相手を一刀の元に切り捨てる事が出来る程に鋭く輝いている。刃と刃の間にある柄の部分の頂点には、牛のような角と顔を持つが、牙がその口から飛び出ているオブジェが装飾されていた。

 メルエの持つ<雷の杖>の先端に付けられているオブジェと並び称する事が出来る程の禍々しさ。まさしく『魔人』の首と言っても過言ではない物が装飾された斧は、現世の者が作成した物ではない事を証明していた。

 

「そ、その斧は……」

 

「…………ちがう…………」

 

 精霊の腕の中にある斧の素晴らしさを理解したリーシャが、思わず手を伸ばしかけた時、一歩前に立っていたメルエが再び口を開く。その声によって我に返ったリーシャは恥ずかしそうに手を下げ、その手をメルエの肩に置いた。

 武器としての様相と威圧感は、今のリーシャの手には余る程の物。

 その素晴らしさを理解するリーシャの心にあるのは、只の憧れに近い物であり、決してそれを自在に操れる自信に裏付けられた物ではなかったのだ。

 

「そうですか。ならば、そこでもう暫くお待ちなさい」

 

 首を横に振って、真剣な瞳で自分を見つめるメルエの視線を受けた精霊は、先程までとは全く異なる笑みを浮かべた。

 それは、カミュ達全員が視認できる程の暖かな微笑み。

 今まで揺らいでいた人影は、肉体を認識出来るのではという程にしっかりと色を成し、精霊の微笑みは湖を更に輝かせ、周囲の花の蕾を開花させる。

 輝くような笑みを浮かべた精霊は、メルエに一度大きく頷いた後、再び湖中へと消えて行った。

 

「では、貴方達の落した物は、この<鉄の槍>ですね?」

 

「…………あった…………」

 

 最後に微笑みと共に差し出された物は、メルエの探し求めていた物であり、サラの武器であった<鉄の槍>。

 精霊の笑みにも負けぬ程の満面の笑みを浮かべたメルエは、<鉄の槍>を受け取ってそれを抱き締めた。

 そして、その槍をサラへと持って行く為に駆け出し、すぐ傍にいるサラへと差し出す。どれ程に強力な武器よりも、一般兵士が持つような槍が、メルエが一番欲していた物だった。

 それ程に、メルエは罪の意識を持っていたのだろう。

 

「良かった。私は、貴方達が嘘を吐くのではないかと心配していました。『人』の心も、まだまだ大丈夫ですね」

 

「せ、精霊様、ありがとうございました」

 

 メルエの差し出した槍を手に取ったサラは、再び深々と頭を下げる。その頭上から掛る精霊の言葉に、サラはもう一度感謝の意を表した。

 言葉は悪いが、精霊はサラ達を試していたのだ。

 何度も往復するように、異なる物を持って来ては、その心を問う。

 初めは、誰しも持つ事の出来る物。二度目は、誰もが見た事のない神代の武器と思われる物。

 欲の強い人間であれば、二度目の物を自分の物だと訴える人間もいただろう。だが、メルエは即座に首を横へ振った。

 その行為を精霊は褒め讃えたのだ。

 

「貴方達のその心を讃え、この<ひのきの棒>も差し上げましょう」

 

 そして、その恩賞として、一度目に差し出した物を与えようとする。

 その腕の中には硬い木で出来た一本の棒。<ひのきの棒>と呼ばれるアリアハンでさえ販売している武器であった。

 雲の上の存在である精霊から差し出された物を見上げたサラは、その身体を畏怖と感動によって震わせ、腕を動かす事が出来ない。リーシャもそれと同様であったが、カミュは自分に与えられた物ではない為、微動だにしない。

 そして、そんな不思議な空気を破ったのは、やはり幼い少女であった。

 

「…………いらない…………」

 

「ふぇ!? メ、メルエ!?」

 

 創造の神の下に居る者として、とても高位な存在である精霊から差し出された物を断る少女。

 その図式は、傍に居たサラだけではなく、リーシャとカミュの身体も凍らせた。

 時が止まってしまったかのように固まった空気は、差し出されたままになっている<ひのきの棒>を眺めていたその少女がもう一度口を開いた事によって動き出す。

 

「…………メルエ………いらない…………」

 

「ふふふ、そうですね。貴女には既に必要のない物でしょう。解りました。では、旅路の安全を祈っています」

 

 もう一度首を横へ振ったメルエを見た精霊は、柔らかく包み込むような微笑みを浮かべ、メルエの頭を撫でるように触れて行った。

 湖の精という存在とは思えない程にその手は暖かく、メルエは気持ち良さそうにその手を受け入れて微笑む。メルエの頬からその手が離れると同時に、目の前にいた精霊の姿が湖中へと消えて行った。

 まるで溶けるように消えて行く姿を、サラは複雑な想いを持って見送る事となる。

 

「私達『人』は、八百万の神々に見守られているのですね」

 

「湖にも、この木々にも神や精霊が宿っている。この世界は素晴らしいな」

 

 再び静けさを取り戻した湖畔で呟いたサラの一言は、ルビス教の教えというよりは、ジパングに伝わるような神教に近い物であった。

 その考えにリーシャは同意を示す。

 森の木々や花々、大きな岩や流れる川、そして目の前に広がる湖や船を浮かべる海原にも宿る神や精霊。それはこの世界を優しく見守り、そこで暮らす者達を導いて行く。

 その導きを受ける事が出来る者は少ないかもしれない。それでも、そこに神や精霊は確かに宿っているのだ。

 それを実感したサラは、リーシャの言葉に満面の笑みを持って頷きを返した。

 

「戻るぞ」

 

 湖を見つめる二人の後ろから冷静な言葉が掛かる。その声を聞き、メルエが真っ先にその者の許へと歩み寄った。

 その青年は、この全世界で生きる者達の中でも最も神や精霊の導きを受ける者なのかもしれない。二人は振り向き様に頷きを返し、カミュの後を追って船への道を歩き始めた。

 

 

 

「おお、お帰り。さあ、テドンへ向けて出港だ!」

 

 船に戻った彼等を待っていた頭目が、船員達へと大きく指示を出す。雄叫びのような声を発する船員達が錨を上げて帆を張って行った。

 海面を流れる大きな風は帆に集まり、巨大な船体を突き動かして行く。ゆっくりと海原を進み始めた船は、南西へと進路を取り、既に滅びて失われた村へと向かって行った。

 

 神や精霊の導きと加護を受ける者達は、その加護が届かずに滅びた村へと向かう為に歩み出す。

 その場所に何があるのかを朧気ながらも理解しているのは、カミュ唯一人。

 『賢者』となったサラにも、昨夜にカミュと語ったリーシャにも解らない。

 それでも<滅びし村>へと彼等を導いたのは、神なのか精霊なのか、それとも、その他の見えない力なのか。

 各々の胸に色々な想いを抱きながら、彼等は海を渡って行った。

 

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

次話は少し暗く重い話になると思いますので、息抜きという訳ではありませんが、閑話を挟ませて頂きました。正直、登場させる必要のない場面でもあると思いましたので、幕間ではなく、閑話とさせて頂きました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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