新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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テドンの村②

 

 

 

 船は真っ直ぐ南へ下り、中央の大陸と東の大陸の境となる半島の間を抜け、右手にムオルの村を見ながら更に南下する。既に、精霊の宿る湖を出てから一ヶ月半が経過する頃、ジパングの町のある小さな島まで船は進んでいた。

 船の位置から見えるジパングの森の葉は青々と茂り、太陽の陽射しを受けて、その輝きを増している。それはまるで、ジパングの町の在り方を示すような輝きであり、リーシャやサラは新たな国主となった自分達よりも年下の少女を思い出していた。

 

「何時か、お前のその剣を返上する為にお伺いしなくてはな」

 

「イヨ様ならば、ジパングの国をより良い国に成さる事でしょう。その時にお伺いするのが楽しみですね」

 

 ゆっくりと過ぎて行くジパングの島を眺めながら呟いたリーシャの言葉は、カミュ達の総意であり、サラもまた同意を示す。

 カミュの持つ<草薙剣>を返上する事が出来る時が何時になるのかは解らない。何年も先になるかもしれない以上、あの時の少女が国主としての威厳を持つ女性へと変貌を遂げた後である可能性は高い。

 それを我が事のように嬉しそうに語るサラを見たリーシャは、優しい微笑みを浮かべ、そんな二人を見ていたメルエも花咲くような笑みを浮かべた。

 

「寄らなくて良いのか?」

 

「大丈夫だ。このままテドンへ向かってくれ」

 

 頭目の問いかけに答えたのはカミュ。

 ジパングの大地を一瞥したカミュの瞳は、船の進行方向である西の海だった。

 彼の胸の内に何があるか解らない。だが、西の海に視線を向ける前に、目を輝かせて大地を見ているメルエの背中で一瞬の間ではあるが止まった事を誰も知らなかった。

 木箱の上に立つ幼い少女の心は今浮き立っている。カミュとの再会を経て、笑顔を取り戻し、新たな呪文を得て、その力をも取り戻した。

 彼女の前に開ける道は、輝いて見える事だろう。だが、その背中に忍び寄る影に気が付いていたのはカミュだけだったのかもしれない。

 

 

 

「陸が見えて来たぞ!」

 

 ジパングを出てから半月。船はようやく『滅びし村』のある大陸を視界に収めた。陽が陰り始めている夕刻ではあったが、カミュ達は小舟に乗り込み、陸地へと向かって行く。陸地に上がったカミュ達は、その場で休憩を入れる事無く、そのままテドンへの道程を歩き始めた。

 普段であれば、サラやメルエの身体を気遣って休憩を取るカミュが、先を急ぐように前を歩く姿を見たリーシャはその事を不思議に思う。だが、あの夜のカミュの口調を知っているだけに、何も言わずその後を歩いた。

 

「カミュ、またあの鎧のお出ましのようだぞ」

 

「メルエ、下がっていましょう」

 

 森を抜け、平原に出る頃には、陽が完全に落ちていた。

 野営地を探す為に歩いていたカミュ達の周囲を悪意が包み込で行く。そして響き始める音は、一行が何度も聞いて来た音。

 金属が擦れ合い、ぶつかり合うような乾いた音を立てて近付いて来る魔物を見たリーシャは、背中の<バトルアックス>を手に取り、戦闘態勢に入った。

 魔法が効かない相手だという事もあり、サラはメルエを後ろへ下がらせる。

 

「慢心するつもりはないが、この敵程度であれば、私かお前の一人で十分だぞ?」

 

「俺が行く」

 

 姿を表した<地獄の鎧>は一体。鎧の中は空洞であり、現世に残る魂だけがその身を動かしているのだが、その本能はとても攻撃的である。

 現世に残った無念を剣によって晴らそうとでも言うように、標的となった者に向かって剣を振るう。元々魂だけであり、肉体への負荷を考える必要がない分、その力は強大であるのだが、リーシャはその相手は一人で十分だと考えていた。

 そして、それはカミュも同様。

 

「メルエ、大丈夫ですよ。カミュ様に任せましょう」

 

「…………ん…………」

 

 <草薙剣>を抜き放ったカミュは、一気に<地獄の鎧>との間合いを詰めた。

 向かって来るとは考えていなかったのか、<地獄の鎧>の反応は遅い。振り下ろしたカミュの剣を盾で受ける暇はなく、肩口を貫き、左半身に亀裂を生じさせた。

 盾を持ち上げる為の左腕を失った<地獄の鎧>など、カミュの剣を捌く事は不可能。次々と繰り出される剣筋を読む事が出来ず、その鎧の傷を増やして行った。

 

「やぁぁ!」

 

 <地獄の鎧>の剣によって弾かれた<草薙剣>を瞬時に戻したカミュは、そのまま<地獄の鎧>の脳天へと剣を振り下ろす。傷ついていた鎧の綻びに入り込んだカミュの剣は、そのまま<地獄の鎧>の被る兜を斬り裂いて行った。

 二つに分かれた兜の下は、予想通りの闇が広がる空洞であり、現世に魂を繋ぎ止める鎧の崩壊と共に溢れ出した魂は、胸を貫くカミュの剣によって、一気に解放された。

 

「よし!」

 

 カミュが一人で<地獄の鎧>を倒した事を我が事のように喜んだのはリーシャ。

 小さく拳を握り締めたリーシャは、傍で不安そうに見つめていたメルエの肩にその手を落とした。

 その手を受けた事によって、カミュが勝利した事を理解したメルエの顔に笑顔が戻る。カミュの許へと駆け出すメルエに苦笑を浮かべたサラも、その後ろに付いて歩き出した。

 

 彼等の力量は確実に上昇している。

 前回の戦いであっても、<地獄の鎧>に負ける事はなかったであろうが、ここまでの圧倒的勝利は有り得なかった筈。それでもカミュは、それを成し遂げた。

 既に人類最高戦力となった彼等は、以前に遭遇した魔物相手に苦戦をする事はないのかもしれない。それ程の力を彼等は有し始めているが、それは、魔物にとっても、そしてそれ以外の生物にとっても脅威となる物なのかもしれない。

 

 

 

 一夜を明かした一行は、再びテドンへの道を歩き出した。

 途中で草花に集う虫達を眺め、目のあった小動物を見つめるメルエを動かす事は容易ではない。その度にサラが苦心し、リーシャが苦笑を浮かべながら窘めるという行為が繰り返された。

 他者との触れ合いを覚え、その楽しさを知ったメルエは、この世界の何もかもが輝いて見えるのかもしれない。だが、そんなメルエの幼い行動に苦笑するリーシャとサラとは異なり、カミュの顔は余り優れなかった。

 

「カミュ、テドンの村は夜にしか活動していない筈だぞ? このまま行けば、夜になる前に辿り着く事になるが?」

 

「あのランプを使うつもりですか?」

 

 陽が真上に昇る頃、サラが見覚えのある景色が広がり始め、その事をリーシャに告げた事で、リーシャはカミュへと問いかける。

 夕暮れ時に辿り着いても、テドンは<滅びし村>の姿のままであろう。カミュの目的は理解出来ないまでも、それが崩壊された村で可能である物ならば、その時に行う事が出来た筈。

 故に、サラは夜にしか行う事の出来ない事をしようとしていると考え、その手段としてあのランプの名を口にしたのだ。

 

「別段、強制的に夜にする必要はない。村の傍で夜になるまで休んでいれば良い」

 

「まぁ、そうだな……」

 

 だが、カミュの返答は極めて当然の物だった。確かに無理に夜にする必要などどこにもない。夕暮れ時であれば、僅か数刻もすれば陽も完全に落ちてしまう。歩き続けている一行が休む時間を作り、陽が落ちるまで待てば良いだけなのだ。

 拍子抜けしたように頷きを返したリーシャの表情が面白かったのだろう。手を繋いでいたメルエは、小さな声を出して笑っていた。

 

 やがて一行は、崩れた木の門が立つ村の入口に辿り着く。陽が落ち始めている事により、薄暗くなり始めたその場所は、全てが血痕ではないかと思う程に真っ赤に染まっていた。

 住処にする事も出来ないカラス達が恨めしそうに鳴き声を上げる中、カミュ達は傍にある木の根元に座り込み、<滅びし村>が活動を始めるその時を待つ事にする。眠そうに目を擦るメルエを横にし、自分の太腿を貸し出したリーシャは、その明るい茶の髪の毛を優しく梳いていた。

 

「カミュ様、この村に何があるのですか?」

 

「カミュ、言いたくはないが、今日のお前は少しおかしいぞ?」

 

 メルエの寝息が聞こえて来る頃、太陽の尻尾は大地へと消え、周囲を闇の支配が進み始める。その時、サラがようやくこの場所を訪れた目的をカミュへと問いかけた。

 彼女なりに色々と考えていたのだろう。最近のサラは、まず自分で考えるという行為をするようになった。

 以前に、カミュに指摘された事があるのだが、『解らない事はカミュへ』という考えを未だに捨てないリーシャとは異なり、サラは自分で考え、それでも回答が出ない時にカミュを頼るという事に変化していた。

 

「アンタにだけは、その言葉を言われたくはないな……」

 

「ぶっ!」

 

「サラ……そういえば、最近はしっかりとした鍛錬が出来ていなかったな……」

 

 だが、そんなサラの真剣な問いかけは、彼女が敬愛する姉のような存在と、信じる『勇者』という存在のやり取りによって霧散してしまう。何処となくカミュを案じるような優しさを滲ませたリーシャの言葉は、カミュの溜息混じりの返答よって滑稽な物になってしまったのだ。

 思わず噴き出すサラを一睨みしたリーシャの発言が、サラの時間を止めてしまう。最近では、その力量の上昇から、リーシャと行う鍛錬に付いて行けるようになっていたサラではあるのだが、過去の苦い経験は抜けてはいないのだ。

 

「わ、私は大丈夫です! そ、それよりも、ここへ訪れた理由です。カ、カミュ様、何故テドンに来る必要があったのですか!?」

 

 もはや、先程までの余裕などない。声を荒げて問いかけるサラの姿に、カミュは一歩身体を後ろへと引いた。

 カミュを怯ませる程の迫力を持つサラに、リーシャも怒りの鉾を納める。身動ぎするメルエの背中を優しく撫でながら、リーシャは先日聞けなかったカミュの本音が聞けるのではないかと耳を傾けた。

 雰囲気が和らいだ事に汗を拭いたサラもまた、静かにカミュを見つめ、一つ溜息を吐き出したカミュは、小さな呟きを洩らした。

 

「……はっきりとは言えない……だが……」

 

「……メルエか?」

 

 言い難そうに口を開いたカミュの視線の先には、静かな寝息を立てる幼い少女。

 その視線を見たリーシャは、ようやくカミュの心が見えた気がした。 

 だが、そんな二人のやり取りはサラへは届かない。全く理解出来ないと言っても過言ではないやり取りに首を傾げる事しか出来なかったのだ。

 それでも、リーシャが納得した以上、それ以上追及する事はサラの本意ではない。後は、自分でもう一度考えてみる事なのだから。

 

「わかった。サラ、行けば解るさ」

 

 サラへ向けられたリーシャの顔は笑顔。

 不思議な想いを抱きながらも、サラはリーシャの笑顔に曖昧な笑みを浮かべる事しか出来なかった。

 リーシャには解っているのだ。

 カミュがあのような表情をする時は、何かを恐れている時である事を。

 それでも、彼の大切にしている少女の為にも、その場所へ行かなければならないという事を理解しているからこそ、この場所まで来たのだろう。明確な答えが出て来ていないのも真実と考えて間違いない。

 只々、妹のような少女の為に、彼は既に滅びてしまった村へと向かうのだ。

 

「もうすぐ、陽が暮れますね」

 

「そうだな。おい、メルエ。そろそろ起きよう」

 

 三人が話している間に、太陽の半分以上が大地へと沈んで行っていた。

 リーシャの膝の上で眠っていたメルエは、軽く揺り動かすと目を覚ます。未だに眠そうに目を擦っているが、見上げた場所にあるリーシャの笑顔を見て、小さく微笑んだ。

 目の前に見えていた崩れた木の門が、闇に溶けるように消えて行き、強固な門へと変貌して行く。何度見ても慣れぬ神秘に驚きながらも、リーシャとサラは次々と灯り始める村の明かりに目を細めていた。

 

「……行くぞ……」

 

 完全に村の姿を現したテドンを確認したカミュは、剣の鞘を背中に背負い直し、振り返りもせずに立ち上がる。サラがその後を続き、その手をメルエが握った。

 カミュの不安が何かを理解できていないリーシャは、何があっても動じないと心に決め、<滅びし村>の門を潜って行く。

過去の扉を開くように。

 そして、未来へ続く懸け橋を渡るように。

 

「ようこそ、テドンへ」

 

 村の門を潜るとすぐに、近くに居た村人から声を掛けられた。

 時間が繰り返されている村ではあるが、夜の間だけ時間は進んでいる。歓迎の言葉を掛けた人間は、カミュ達の容姿を覚えていたのだろう。久しぶりに出会った友人への挨拶のような言葉を交わし、そのまま村の奥へと歩いて行った。

 リーシャもサラもこの神秘を目の当たりにするのは初めてではないが、何度見ても慣れぬ光景に唖然とした表情を浮かべる。その様子が可笑しかったのか、メルエは柔らかな笑みを浮かべ、サラの腰に抱き付いた。

 

「カミュ、何処へ向かうんだ?」

 

「あっ!? メ、メルエ、行きましょう」

 

 時が動き出したリーシャが、テドンの村の何処へ向かうのかを問いかけるが、何も語らずに歩き出したカミュを見て、サラは慌ててメルエの手を取る。カミュは何処へ視線を動かす事無く、唯一点を見つめて歩を進めていた。

 その場所をここにいる誰もが知っている。特にメルエにとっては、不思議な感情を持って見上げていた建物であった。

 何故自分が気になるのかが解らない程に曖昧な物ではあったが、その建物は、何故かメルエの心を縛りつけていたのだ。

 

「メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 その建物の戸の前に辿り着いたカミュは、その戸に掛けられている金具を叩く事無く、メルエの名を呼ぶ。通常であれば、他人の家屋へ訪れた際には必ず金具を叩き、仮面を被るカミュにしては珍しい行為。だが、リーシャもサラも、そんなカミュの行動を咎める事はなかった。

 ここに来て、ようやく彼女達はカミュの目的を理解する事となる。

カミュはこの建物を訪れる為だけにテドンへ来たのだ。

 以前に<闇のランプ>を使い闇に覆われたテドンを『試したい事がある』という言葉と共に歩いたカミュは、この建物の戸に<魔法のカギ>を差し込んだ事がある。

だが、あの時、どんな鍵をも開けてしまうと信じていた<魔法のカギ>では開かない扉を見て、カミュは『いずれ、この村に再び訪れる時が来る』という言葉を残した。

 それが、<最後のカギ>を手にした直後に、最優先事項としてカミュが考えていた事なのだろう。

 

「入るぞ」

 

「えっ!? 勝手にですか!?」

 

 乾いた音を立てて開場された扉のノブに手を掛けたカミュの言葉に、サラは我に返った。

 <最後のカギ>と呼ばれる神秘的な道具の力に驚愕していたサラにとって、他人の家屋へ勝手に入ろうとするカミュもまた、驚愕の対象であったのだ。

 だが、その言葉を無視するようにノブを回したカミュは、そのまま建物の中へと入って行く。サラの手を離したメルエがその後を続き、そしてリーシャも中へと入って行った。

 取り残されたサラは、自分の中にある罪の意識を抑え込み、三人の後を追う事となる。

 

 

 

「ようこそ。待っていたよ」

 

 建物の中に入ってすぐ、広い居間が広がっていた。

 暖炉には暖かな火が熾されており、蝋燭などによって、部屋の明かりも灯されている。そんな居間の中心にある机は、数人の家族が共に食事をする事が出来るような大きさを持っていた。

 そして、その机の傍にある椅子は三つ。大きな大人用の椅子が二つに、子供用のような小さな椅子が一つ。小さな椅子は、最近作られた物なのか、他の二つよりも新しく、綺麗な木目を晒している。

 そんな三つある椅子の内の一つ、大人用の椅子に座ってカミュ達の方へ視線を向けていた男性が徐に口を開いた。

 

「……待っていた?」

 

「あ、あの、申し訳ございません。住まわれている方がいらっしゃるとは知らず、勝手に入ってしまいました」

 

 そんな男の言葉にカミュは訝しげに眼を細めるが、最後に入って来たサラは、人が住んでいた事に驚き、反射的に頭を下げてしまう。確かに、この状況ではカミュ達が悪であろう。他人の住処に許可なく立ち入ったのである。しかも、施錠してあった扉を無断で開錠してとなれば、言い逃れなど出来る筈がない。

 だが、そんなサラの謝罪を聞いた男性は、柔らかな笑みを浮かべて、首を横へ振った。

 

「僕は、君達を待っていた。いや、正確に言うのならば違うのかな……」

 

 男性は、カミュ達を待っていたと口にした後、少し困ったような表情を浮かべ、小さく溜息を洩らす。その言葉の意味をリーシャもサラも理解出来ない。何が『違う』のかが解らないのだ。

 それが『待っていた』という事に対してか、それとも『君達』という部分に対してなのか。

 首を捻るリーシャの横で、カミュだけは真っ直ぐ男性の瞳を見つめていた。

 

「……おかえり……メルエ」

 

 暫しの空白の時間の後、男性は意を決したように口を開く。その言葉にリーシャとサラは目を見開き、突如名を呼ばれたメルエは、カミュのマントの中へと隠れてしまうが、唯一人、カミュだけは静かな瞳を浮かべ、男性を見つめていた。

 男性の言葉の中に出て来た名は、彼等がロマリアの森で出会い、共に旅をし、誰よりも大事に思う者の名。この村で知る者などいる筈のない名であり、同じ名を持つ者がこの世界に居るとは思えない珍しい名でもあった。

 

「メルエ」

 

「…………」

 

 カミュのマントの中へ隠れてしまった幼い少女を見た男性は、苦笑に似た哀しい笑みを浮かべる。その顔を見たカミュはマントを開き、中にいるメルエを促した。

 それに驚いたのはメルエであろう。絶対的な保護者であるカミュが、安全な場所へと逃げ込んだ自分を晒すとは思わなかったのだ。だが、不安そうに眉を下げたメルエに向かってカミュが向けたのは、優しげな笑みだった。

 その笑みは、この三年近くの旅の中でもリーシャやサラでさえ見た事のないような物。心からの安心感を与えてくれるような、正に『月』が照らすような優しい光であった。

 

「カミュ、どういう事だ……?」

 

 堪らず問いかけるリーシャの言葉に応えずに、カミュはメルエの小さな背中を軽く押し出す。カミュの笑みを見たメルエは、先程まで下げていた眉を上げ、真っ直ぐ男性へと視線を移した。そして、そこで不思議な光景を目にする。その男性が浮かべている物も、メルエがこれまで見た事のない優しい笑みであったのだ。

 それは、この幼い少女が依存するカミュやリーシャ、そしてサラとも異なる笑み。それが何かをメルエは理解出来ないのだが、それでも何故か無条件で自分を包んでくれるようなその笑みに、心が温かくなって行く。

 そして、怯えるように進めていた歩は、小さな変化を起こした。

 

「おかえり……おかえり、メルエ。本当に、よく……よく生きていてくれたね」

 

「…………むぅ…………」

 

 自分の近くへ寄って来る小さな身体を、男性は待ち切る事が出来なかった。

 椅子を蹴るように立ち上がった男性は、そのままメルエを抱き締める。強く、優しく、そして暖かく包まれたメルエは、何が何やら理解出来ず、唸るような声を上げるが、その男性のすすり泣く声を聞き、唸り声を止めた。

 不思議と嫌ではないその温もりに、メルエは瞳を閉じる。瞳を閉じた瞬間に吸い込まれてしまうような感覚を覚えたメルエは、何故か込み上げて来る喜びに戸惑っていた。

 

「カミュ、説明してくれ」

 

「……おそらく、メルエの本当の父親だ」

 

「えっ!? ど、どういう事ですか?」

 

 もはや、懇願にも近いリーシャの問いかけに、カミュは静かに答えを口にする。それを聞いていたサラでさえも驚愕するその事実に、リーシャは驚きの表情と、声にならない喜びに震える事となった。

 このテドンにいる以上、目の前の男性は死人である。夜が明けて、太陽が昇れば、この場所は只の廃屋となる事をリーシャもサラも知っていた。

 故に、メルエの本当の父親がここにいる神秘よりも、その哀しみが彼女達の胸を襲っていたのだ。

 

「昼にこの場所を訪れた時を憶えているか?」

 

「ああ、お前がすぐに出て来た時の事か?」

 

 長年の募る想いを吐き出すようにメルエを抱き締め続ける男性を見つめながら、カミュは静かに語り出す。リーシャは、カミュの言葉を聞き逃さぬように耳を傾け、既に涙腺が崩壊し始めたサラは、霞む視界を何度も擦り、カミュへと視線を移した。

 一度目にテドンを訪れた時、カミュは廃屋となったこの場所を一人で入っている。その時の事を言っているのだろうと考えたリーシャは、小さく頷きを返した。

 

「あの時、壁に血文字が残されていた。それがこの家の住人が書いた物なのだとしたら、ここへ夜の内に来るべきだと考えた」

 

「それが、メルエの事だったと言うのか?」

 

 リーシャの問いかけは、小さな頷きによって返された。 

 その内容こそ、カミュは口にしない。それを口にしても仕方がないと思ったのか、それとも口にするのも憚る程に凄惨な物だったのかは解らない。だが、それをカミュが口にしない以上、リーシャ達が知る必要がない物であるのだろう。

 だからこそ、リーシャとサラは何も言わず、抱き合う二人を静かな優しい瞳で見つめるのだった。

 

「君達にもお礼を。メルエを護ってくれてありがとう」

 

「いえ。私達がメルエと出会ったのは、二年程前です。それまでは、アッサラームの町で暮らしていたようです」

 

 ようやく顔を上げた男性の謝礼に対して口を開いたカミュの言葉は、リーシャとサラを再び驚愕の淵に落として行く。

 アッサラームの町でメルエが受けた物は、虐待と言っても過言ではない。いや、虐待としか言いようがない物である。最後には奴隷として売り飛ばされたメルエからしてみれば、本当にカミュ達こそが保護者であり、あの義母には恨み以外を持っていないかもしれない。

 それでも、カミュは何の躊躇いも無く、アッサラームにいた事を口にしたのだ。

 

「アッサラームに……? そうか、彼女は辿り着けなかったのか……だとすれば、彼女もまたあの時に……。アッサラームでメルエを育ててくれた人にも感謝をしないとな」

 

「…………」

 

 カミュの言葉で、男性は自分の妻の最後を悟ったのであろう。とても哀しい瞳を見せ、呟くように懺悔を洩らす。しかし、すぐに抱き締めていたメルエの瞳を見て、優しげな笑みを浮かべた。

 最愛の娘を育ててくれた人間に対して感謝する事は当然の事なのだろう。だが、その言葉を聞いたメルエの表情は、氷のように冷たい物へと変わっていた。

 この男性は、決して思考が遅い方ではない。この小さな村で新たな事業を立ち上げ、それによって富を築く事が出来た可能性を持つ者。

 故に、メルエのその瞳を見て、大方の事は察したのかもしれない。

 

「メルエ、そこでどんな事があったのかは解らない。だが、こうして私達が出会えたのは、メルエが生きていてくれたからだ。僕は、僕と彼女の宝とまた出会える事が出来る機会を作ってくれた物全てに感謝しているよ」

 

 先程まで冷たかったメルエの瞳は、困惑の色に変化して行く。メルエはまだ、この男性が自分にとって、何であるのかを理解していない。いや、例え理解していたとしても、愛情と言う物を知らないメルエに父と母という概念はないだろう。

 そこに見える物は、自分に対しての好意のみ。自身に笑みを向けてくれる者を無条件で信じ込む幼い心だからこそ、この男性をまずは受け入れたに過ぎないのかもしれない。

 

「そうだ! メルエの誕生日を祝っていませんでした」

 

「ん? お、そうだな。確かに、私達とメルエが出会って二年が過ぎたな。よし、私が料理を作ろう。今日は盛大に祝おう」

 

 二人の対話を聞いていたサラは、話題を変えるかのように、一際大きな声で提案を口にする。それを聞いたリーシャは、サラの思惑を理解し、優しい笑みを浮かべながら腕を捲った。

 ジパングからランシールへと向かう船の中でサラとメルエの誕生日を祝ってから既に一年が過ぎようとしている。ランシールからエジンベアへ向かい、そこでカミュ達は予想だにしなかった危機を迎えた。

 その危機を乗り越え、ようやく<最後のカギ>を手にする頃には、時間もまた進み、アリアハンを出発してから三年近くの月日を経過させていたのだ。

 

「お父様も一緒にメルエを祝ってあげて下さい」

 

「…………???…………」

 

 サラの提案と招待を受けた男性は、一瞬顔を歪める。その様子と、サラの言葉の意味が理解出来ないメルエは、小さく首を傾げていた。

 愛する娘の誕生日を祝う事が出来なかった自分を悔やんでいるのか、それとも成長した愛娘の姿を実感したための感動の為なのかは解らない。だが、顔を上げた男性の目には涙が溢れ、満面の笑みを浮かべながら、サラとリーシャへ向けて大きく頷きを返したのだった。

 

「よし、では私は村で食材を買ってこよう」

 

「えっ!? この村の食材で調理するつもりですか?」

 

 『父』という言葉を理解出来ないかのように、不思議そうに首を傾げるメルエを見ながら、リーシャは荷物を置いて外へ出ようとする。それに驚いたのはサラだった。

 確かに、このテドンは<滅びし村>。

 朝になれば、全ての建物は崩壊し、泉は毒沼と化すような村の中で売っている食材を調理して食す事が、果たして安全なのかと問われれば、サラは否としか答える事が出来ない。

 『誕生日を祝おう』と提案したのはサラであるが、その食材や料理にまで気が回らないのは、料理をした事のないサラならではの事であろう。

 

「今更何を言っている? 以前にこの村を訪れた際に、サラだって宿屋で食事をし、湯浴みもして眠っている筈だぞ。それに、今サラが着用している<魔法の法衣>とて、この村で購入した物だろ?」

 

「そ、それはそうですが……」

 

「ああ、やはりそれは<魔法の法衣>なのか……懐かしいな」

 

 リーシャとサラのやり取りに笑みを浮かべるメルエの頭を優しく撫でていた男性は、サラの着用している法衣を見て、懐かしそうに目を細める。

 この法衣は、彼の妻であり、メルエの母親である女性が作成した物。

 それを男性の口から聞いたカミュ達は、その数奇な結びつきに素直に驚いた。彼等が出会った全ての人が彼等の旅と繋がっている。そう信じてしまうような事実に、サラの胸の中に湧き上がったのは喜びであった。

 

「メルエのお母様は凄い方なのですね。このような特殊な法衣を編む事が出来る方など滅多にいませんよ」

 

「…………???…………」

 

 だが、サラが発した賞賛の言葉も、メルエには届かない。いや、届かないのではなく、理解出来ないのだ。

 こう考えると、メルエはあの義母の事も母親として認識していなかったのかもしれない。ただ、同じ家で暮らす者。絶対的な権力者であり、逆らう事が出来ない者。そういう認識でしか、あの義母を見ていなかったのだ。

 哀しい事ではあるが、それが事実なのだろう。

 

「しかし、料理の方は大丈夫なのかな?」

 

「私は料理が得意なんだ」

 

「調理という得意分野を取ったら、只の乱暴者にしかならないだろうな」

 

「ぶっ!」

 

「…………リーシャ………ごはん……おいしい…………」

 

 哀しそうに眉を下げたサラを見たメルエの父親は、話題の方向を変える。その言葉を聞いた各々が、それぞれに勝手に言葉を発した。

 自分の特技を誇るリーシャに対し、本心とは思えないカミュの皮肉。

 それに対して噴き出してしまったサラに、我関せずと自分の想いを口にするメルエ。

 それは、先程までの微妙な空気を瞬時に変化させて行く。まるで昔からの知り合い同士であるかのような和やかな空気に父親の顔にも笑顔が浮かんだ。

 

「そうか、メルエは彼女と同じだね。彼女も料理が好きと言うよりも、美味しい物を食べるのが好きだったから」

 

「…………ん………リーシャ………おいしい…………」

 

「メルエ、その言葉だとリーシャさんを食べてしまったようですよ」

 

「メルエは私を食べるのか!?」

 

 何とも言えない不思議な空気が流れる中、リーシャとサラはテドンの村へと買い物に出かけ、必然的に家屋の中には、カミュと父親とメルエの三人となった。

 カミュから口を開く事はない。父親の膝の上に乗ったメルエは、満面の笑みを浮かべながらカミュを見ている。カミュがここを訪れた理由は、情報収集のためではなく、メルエのこの笑顔が見たかっただけなのかもしれない。

 静かに過ぎて行く時間の中で、メルエの髪を優しく梳いていた父親が口を開いた。

 

「君達は、旅をしているのかい?」

 

「……はい……」

 

 カミュの方へ視線を向ける事無く呟かれた父親の問いに、カミュは少し間を空けてから口を開く。

 カミュ達の旅は『魔王討伐』の旅。

 カミュの言葉を借りるならば、それは『死』への旅。

 『魔王バラモス』の討伐を目的にしてはいるが、過去の歴史を顧みると、それが現実的ではない事は、この世界の誰もが知っている筈なのだ。

 そのような旅にカミュ達は幼い少女を同道させている。それを知った時、父親としては何を想うのかをカミュは危惧したのかもしれない。

 

「もう僕達はメルエを護ってあげる事は出来ない……本当に悔しい事だけどね。僕に出来る事は、君達を信じて、メルエを託す事だけだ。僕と、僕の妻の宝物を護って貰う事をお願いしても良いかな?」

 

 その言葉通り、愛娘を宝物のように大事に抱いていた父親の言葉に、カミュは少し間を空けた。

 自身の身体が滅び、どのような神秘なのかは解らないが、奇跡的に娘の身体を抱いているだけの人物の心の中を満たす想い。それはカミュには計り知れない物であったのだ。

 悔しそうに顔を歪め、それでも娘の幸せを願う父親。そんな家族の愛を彼は知らない。

 カミュという個人の幸せを願われた事など、彼には経験がないのだ。どんな時も、誰と接した時も、彼個人を見ていた者はいなかった。

 『世界の平和』、『英雄の遺志を継ぐ事』、『英雄の忘れ形見としての責務』、そんな見えない重圧を生まれた時から背負わされた彼は、生まれたその日から個人ではなかったのかもしれない。

 『人』ではなく、只の『象徴』としての日々。

 それは、彼の心を氷のように凍らせ、鉄のように固めてしまった。

 

「……私達と旅を続けると言う事は、命の危険があると言う事でもあります。ですが、例え私の命が死を迎えたとしても、メルエだけは護る事をお約束します」

 

 だが、その頑なな心も、この三年近い旅の中で変化している。彼をカミュという個人として見る者の登場。それが彼を本当に少しずつ変化させて行った。

 その一石となったのが、父親に抱かれて幸せそうな笑みを浮かべる少女。彼女がカミュを『象徴』として見た事はなかった。

 一人の人間として相対し、まるで兄や父のような愛情を向ける。彼を失いそうになった時は声を上げて泣き、彼と逸れてしまった時は心を壊してしまう程に思い悩んだ。

 そんな少女に誘われるように、彼の周りにいた者達も、只の同道者から、必要不可欠な『仲間』へと変化して行く。その全てが、『人』として生きて来なかった者を、本当の『人』へと変貌させたのだ。

 

「ありがとう。だが、『命に代えても』は駄目だよ。それでは、メルエは幸せになれない。困難な願いだと言う事も解っているが、君もあの子達もメルエと共に生きてくれなければね」

 

 今度こそ、カミュは言葉を失ってしまった。

 父親の願いは実現困難な物と言っても過言ではない。彼等の目標は、『人』では敵わない程の圧倒的な力なのだ。

 彼らよりも経験を持った者達が数多く挑み、それでも志半ばで散って行った程の大望。誰しもが願い、誰しもが夢見る世界は、カミュ達にだけは訪れる事がないのかもしれない。それ程の旅の中でも『生きろ』という言葉に、カミュは答える事が出来なかった。

 

「大丈夫。君達ならば、大丈夫だ。君達は、色々な想いに護られているのだから」

 

「…………メルエ………だいじょうぶ…………」

 

 父親の口から出た魔法の言葉を、メルエは笑顔で繰り返す。サラがメルエに告げる魔法の言葉は、メルエの中にある不安と恐怖をいつも払拭してくれた。だからこそ、不安そうに顔を俯かせたカミュに対し、メルエは口を開いたのだ。

 『不安になる必要はない』、『恐怖を感じる事はない』と。

 カミュからすれば、何が『大丈夫』であるのかが全く理解出来ないだろう。だが、父親の言葉の中にあった一言は、この長い旅の中でカミュが何度も経験している物でもあった。

 認めたくはない、認める訳にはいかないが、それでもそれを否定する事が出来ない現象。それを彼は何度も経験して来た。

 

「……命ある限り、努力してみます……」

 

 それがカミュの精一杯の答えだったのかもしれない。父親の願いは、それを受け入れ、全面的に約束できる物ではない。だが、それでも前を向き、それに向かって歩む事を誓ったのだ。

 それは、カミュの心の明確な変化だった。

 今までは、どれ程仲間達を頼もしく思っても、どれ程にメルエを大事に想っても、彼の中では何れ訪れる『死』と言う物は、避けられない物であったのだろう。だが、それは今この時から、抵抗なく受け入れる事の出来る物ではなくなった。

 

「良い鶏肉があったぞ。結構な量を買って来たから、色々と料理ができそうだ」

 

「メルエの好きな果実も沢山買いましたよ。果実汁も作りましょう」

 

 カミュの返答に対して満足そうに父親が頷いた時、カミュの後方にあった扉が勢い良く開いた。

 両手に抱えた食材を誇るように見せる二人に父親は微笑み、カミュは溜息を吐き出す。サラが抱き上げた果物を見たメルエの瞳は輝き、父親の膝の上から降りてサラの持つ果物の一つを両手で受け取り、嬉しそうに微笑んだ。

 食材の調理を始めたリーシャの足下で果物を齧りながら動き回るメルエを優しげな瞳で見守る父親の姿は、サラにとっては何処か懐かしく、そして何処か寂しい物であった。

 

「そうだ。食事が始まる前に、これを君達へ渡しておこう」

 

「……これは……」

 

「緑色のオーブですか?」

 

 部屋の中を鶏肉が焼ける良い香りが広がって行く中、父親は不意に思いついたように、懐から小さな珠を取り出した。

 机の上に置かれた球は、メルエの小さな掌にも納まる程の大きさ。淡い緑色に輝くその珠は、カミュ達が見て来た色違いの物と同様の物だった。

 それを手にしたカミュは、暫しその珠を見つめ、再び父親へと顔を戻す。

 

「それは、僕の妻の祖父から預かった物。もしかすると、君達に必要な物ではないかと思ってね」

 

「メルエのお母様のお爺様?」

 

 父親の言葉に返したサラの言葉は、どこか間の抜けた物だった。

 つまりは、メルエの母方の曾祖父と言う事なのだろうが、それを疑問に思うサラの気持ちは、特別可笑しな物ではない。ここまでの話しで、メルエの母親の事に触れたような会話はあった。

 だが、その祖父という話が出たのは初めてである。更に、この時代となれば、祖父という存在が生存している者というのは、数が少なくなっている。

 『人』の寿命というのは、多種族に比べて本当に短い。ましてや、このような時代ともなれば、成人を迎える事も無く命を終える者も多く、天寿を全うする者の方が少ないのだ。

 

「ああ。僕もよく解らないのだが、彼女はとても高貴な血を継いでいるらしい。そのお爺さんも不思議な空気を纏っている人でね。でも、お爺さんは『呪われた血』とも言っていたな……もしかすると、没落した王家の出だったかのかもしれないね」

 

「メルエは、王族だったのですか!?」

 

「…………メルエ………おう……ぞく……ちがう…………」

 

 メルエの母親やその祖父について語る父親の言葉に、サラは驚きの声を上げてしまった。しかし、その言葉を聞いたメルエは、『むぅ』と頬を膨らませ、否定の言葉を口にした後、『ぷいっ』と顔を背けてしまう。

 幼いメルエには王族という言葉の意味が理解できていないのだろう。何か、自分を別の物に変えてしまうようなサラの口ぶりが気に入らなかったのかもしれない。

 そんなメルエの姿に、台所から料理の皿を持って来たリーシャは苦笑を洩らした。

 

「そうだな。メルエはメルエだ」

 

「…………ん…………」

 

 再び父親の膝の上に乗ったメルエは、リーシャに向けて微笑んだ後、手にしていた果物を頬張る。いつもならば、他者の傍にいるよりもカミュやリーシャの傍にいたがるメルエが、この時は父親の傍を離れなかった。

 言葉の示す意味を理解せずとも、彼女はこの男性を保護者として認識したのだろう。絶対的な保護者であり、無償の愛を与えてくれる人間として。

 

「何にしても、これで二つ目のオーブか……」

 

「えっ!? 三つ目ですよ」

 

「…………みっつ…………」

 

 メルエの母親とその祖父についての話が一段落したところで、カミュは<グリーンオーブ>を手にしたまま、言葉を洩らす。しかし、カミュの認識とサラ達の認識は異なっていた。数が一つ異なっているのだ。

 不思議な事を言い出したとでも言いたいようなサラの表情に、メルエも同調する。自分の肩から掛けられたポシェットの中に入っている二つのオーブを机の上に出すメルエの行動を見たカミュは、若干の驚きを表情に出した。

 

「私達がお前と逸れた際に、その<レッドオーブ>を手に入れたんだ」

 

 台所から何品目目になるか解らない料理の皿を持って来たリーシャは、机の上に置かれたオーブを除けるように皿を置く。良い香りが立ち上る料理の数々に、先程までオーブを見ていたメルエの視線が固定された。

 嬉しそうに微笑むメルエの頭に手を置いていた父親も、その表情を見て笑顔を浮かべる。カミュの持っていた黒胡椒の粒を使った鶏肉料理は、香ばしい香りを発し、そこにいる全員の食欲を刺激していた。

 

「その辺りの詳しい話は後だな」

 

「そうですね。メルエの曾お爺さんが、何故オーブを持っていたかを考えても、今の私達には解らないでしょうから」

 

 メルエの誕生を祝う席で、しかもこれ程の豪勢な料理が並ぶこの時間に、そのような堅苦しい話をする事は無粋である。それは、ここにいる全員の総意であった。

 三つのオーブをメルエのポシェットへ入れさせ、全員が席に着く。子供用の席にメルエを座らせようとしたが、それを嫌がるメルエを見て、全員が笑い声を上げた。

 足りない椅子は、傍にあった物で代用し、全員が揃ったのを確認したリーシャが、開会の言葉を口にする。

 

「今日の料理は自信作だ。では、メルエをこの世に生んでくれたご両親へ感謝を。そして、メルエと父君との再会を祝して!」

 

「おめでとう、メルエ!」

 

 リーシャの掛け声を機に、全員が杯を天へ掲げる。

 この世にメルエという少女を送り出してくれた神と精霊への感謝の為。

 そして、優しく強い、この少女を誕生させてくれた両親への感謝の為。

 何より、ここまでメルエが生きて来るために護ってくれた様々な出会いへの感謝の為に。

 杯がぶつかる乾いた音が、広くはない部屋に響き渡る。皆の笑顔に囲まれたメルエは、心からの喜びを示すように、花咲くような笑顔を浮かべていた。

 祝宴はたくさんの笑顔を生み出す。中心にいる少女の笑みが伝わったかのように、皆が笑い、皆が喜ぶ。カミュでさえも優しい笑みを浮かべ、料理を口にしながら、皆の話に耳を傾けていた。

 メルエと出会ってからの様々な出来事は、サラの口から、時にはリーシャの口から語られ、それを聞いている父親は、涙を浮かべながらも笑みを作り、笑っては泣き、泣いては笑う。

 そんな楽しい一時は、永遠に続くかのようだった。

 

 

 

 しかし、楽しい時は、やがて終わる。

 食卓に並んだ数多くの料理が無くなる頃、父親の膝の上で笑っていたメルエは、ゆっくりと舟を漕ぎ出す。

 既に意識はこの場所にはないのだろう。大きく揺れ、意識的に頭を戻しても、すぐにまた頭を揺らし始めていた。

 幸せな時程早く終わるのかもしれない。メルエが眠ってしまった事によって、明るく楽しい祝宴は終わりを告げた。

 

「君達には本当に感謝しているよ。あの珠は、私の願いを聞き遂げてくれた。もう一度メルエに会わせてくれた。あの珠と君達には、何度感謝の言葉を言っても限がない」

 

「オーブが願いを叶えてくれたのですか?」

 

 メルエを抱き締めながら、父親は深々とカミュ達へ頭を下げる。だが、父親の言葉に、サラは疑問を投げかけた。

 『精霊ルビスの従者』を蘇らせると云い伝えられているオーブが、個人の願いを聞き入れるという事を不思議に思ったのだろう。だが、サラの隣にいたリーシャは、その言葉に納得したように何処か感激したような表情を見せていた。

 『人』の願いを聞き入れるオーブとその恩恵を受けてこの場に存在する死人。それは神や精霊と『人』を結びつける。それが、人類最高峰の実力を有する者達ばかりが集まったパーティーの中で、一際『人』としての部分を残すリーシャだからこその想いなのかもしれない。

 

「僕は、確かにこの場所で死を迎えた筈。その時に考えていた事は……メルエの事だけだった。メルエの母親である彼女の事でも、自分の事でもなく、『メルエの幸せ』と『もう一度メルエと会いたい』という事だけだったと思う。そして目が覚めた時、またこの場所にいた……」

 

 父親の独白にリーシャは声を詰まらせた。

 亡き父親の面影を見たのかもしれない。

 リーシャの母親は、彼女が物心の付く前にこの世を去っている。彼女が憶えているのは、父親の顔だけなのだ。

 厳しくはあったが、自分を愛してくれていたと自信を持って誇る事の出来る父親もまた、『もう一度リーシャに会いたい』と考えてくれたのだろうかと感じ、熱い想いが胸を襲ったのだろう。

 

「……『呪い』に近いな……」

 

「カ、カミュ様!」

 

 しかし、リーシャとは異なった感想をカミュは持っていた。それは、個人の願いを聞き届けるというよりも、ある意味で呪詛に近いというのだ。

 確かに、この父親の想いに反応したオーブがこの村を夜の間だけ蘇らせていたとすれば、この村で生きて来た人間は、あの凄惨な記憶を失う事が出来る代わりに、永遠とこの村に縛りつけられ、その魂を昇華する事が許されない物となった。

 更にその呪いは生者にも及ぶ。

 この父親の願いによって蘇った村は、ある特定の出来事が起きない限り、その呪いを解く事が無くなったのだ。

 それは、彼が望んだ事の一つである『メルエともう一度会いたい』と言う物。それによって、この世界で生きる『メルエ』という少女の人生にも影響を与えてしまったのかもしれない。

 名はその身体を縛る物。

 その名を持つ者は、その名によって縛られる。名によって、この世界で生きる為の存在を確定させるのだとすれば、その存在はその名前のみによって認識される事になるのだ。

 それは何も他者からの認識だけではなく、自己の認識においても変わりはない。

 

 つまり、今眠りについているメルエがこの場所に辿り着いたのは、只の偶然などではなく、<グリーンオーブ>によって導かれたという事になる可能性が高いのだ。

 それは、幼い少女が辿って来た苦しみも哀しみも、そして何よりカミュ達との出会いもまた、偶然ではなく必然であったという事になる。

 もし、この父親がそのような事を願わなければ、このオーブがそれを受け入れなければ、メルエには今とは異なった人生が待っていたのかもしれない。

 それを『呪い』と言わずして、何と言えば良いのか。

 

「そうだね。この村の人々も、そしてメルエも、僕の勝手な想いによって辛い思いをさせてしまったのかもしれない。君達があの珠を持ってこの村を出れば、この村に掛けられた呪いも解けるだろう。そして、皆も天に還る。もう二度と、この村が夜に灯りを灯す事はないだろうね」

 

 寂しそうに、そして何かを後悔するように目を伏せ、優しくメルエの頭を撫でる父親の姿は、カミュの名を叫んだサラの胸を痛めた。

 何故、魔物がこの村を襲ったのかは未だに解らない。この父親の言うように、メルエの母親が高貴な存在であったとしても、この世界に数多くの国家が存在し続けている以上、この村だけが襲われる理由はないのだ。

 それ以外に何かの理由がある筈。サラの胸に、再び疑問が湧き上がるが、その疑問は小さく消えて行く。サラの中で、その謎は既に謎ではないのかもしれない。

 

「カミュ、私はメルエとの出会いを『呪い』とは思わない。だが、もし私とメルエとの出会いを、あの<グリーンオーブ>が導いてくれたのだとしたら、私はその事を心から感謝する」

 

「わ、わたしもです」

 

 幸せそうに眠るメルエを見ていたリーシャは、誇らしげに胸を張り、晴れやかな宣言を告げる。そんなリーシャの言葉を聞いたサラは、頼もしさを感じながら優しい笑みを浮かべて同意を示した。

 例え、この村の住人達の安寧を邪魔する『呪い』だとしても、『メルエ』という名で縛られた少女との出会いを悲劇とは思わない。例え、幼い少女の人生が今よりも幸せな物だったとしても、今この時にメルエと共にいられる事を幸福と感じている。

 そう、彼女達は胸を張って宣言したのだ。

 

「ありがとう。君達と共にメルエが歩める事を、僕も嬉しく思うよ」

 

 二人の宣言を胸の奥へ納めた父親は、代わりに溢れ出す涙を抑える事が出来なかった。

 止め処なく零れ落ちる涙は、嗚咽を呼び込み、父親はメルエの髪に顔を埋めてしまう。カミュはそれ以上、何も言う事無く、天井へと顔を向けた。

 優しい笑みを浮かべたままのリーシャは、机の上に並べられていた空の皿を手に取り、台所へと向かって行く。目に浮かぶ涙を拭っていたサラもまた、リーシャを手伝う為に何枚かの皿を手にとって台所へと消えて行った。

 

 

 

「すっかり遅くなってしまったね。まだ宿屋には入れると思うから、君達は宿屋へ向かうと良い」

 

 この家屋は陽が昇れば崩壊してしまう。屋根は落ち、壁は崩れ、人一人が中に入る程度の隙間しかない。

 その家で眠ってしまえば、次の日の朝、カミュ達の身体が無事であるかどうかも分からない。以前にこのテドンを訪れた時のカミュ達は、そのような事を深く考えもせず宿屋に宿泊したのだが、この村の昼間の惨状を見た今では、あの宿屋以外で眠る事など出来はしなかったのだ。

 

 リーシャ達の後片付けも終り、皆が居間に集まるのを見た父親が別れの言葉を口にした。

 眠るメルエを抱き上げ、その寝顔を愛おしそうに眺めた後、メルエの身体をリーシャへと託す。まるで娘の全てを託すかのような儀式を受けたリーシャは、厳しく顔を引き締め、大きく頷きを返した。

 父親はカミュ達三人に深々と頭を下げ、感謝を示し、再び上げた表情には、哀しみや後悔は見えない。

 そこにあるのは喜びと希望。

 娘に出会う事が出来た喜びと、娘の未来への希望を見た父親の顔は、雲一つない青空のように晴れ渡っていた。

 

「さあ、行きなさい。君達が歩む先には、希望に満ちた世界が広がる筈だ。メルエを……メルエをよろしく」

 

「はい!」

 

 未練を失くした父親の存在は、先程までとは異なり、とても希薄になっている。大きく返答を返したサラが深く頭を下げる頃、軽く頭を下げたカミュは既に外へと出ていた。

 カミュを追うようにサラが走り去った後、リーシャに抱かれたメルエの髪へと伸びた父親の手は、もうその髪を梳く事は出来なかった。

 歪む顔を見せぬように顔を俯かせた父親に頭を下げたリーシャは、メルエを強く抱きしめながら、扉の外へと出て行く。ゆっくりと閉じられて行く扉の向こうで、満面の笑みを浮かべた父親が手を振り、そして溶けて行った。

 

 

 

 

 テドンの村に朝陽が差し込むと共に、村は<滅びし村>として真の姿を見せ始める。人々の姿は村の大地に溶けて行くように消え、建物は時間を超過したかのように瞬時に倒壊して行った。

 倒壊し果てた宿屋で目を覚ましたリーシャは、砕けた壁の穴から入る陽光を眩しそうに手で遮る。埃っぽい部屋に眉を顰めながら、身に掛かっていたボロボロの毛布を取り、立ち上がったリーシャは一つ伸びをした。

 そして、視界の端に入ったベッドを見て、深く吸い込んでいた息を更に飲み込んでしまう。咳き込むように息を吐き出したリーシャは、そのまま隣のベッドで寝ていたサラを文字通り叩き起こし、宿屋を飛び出して行った。

 

「カミュ様、メルエがいなくなってしまいました!」

 

 宿屋の出口へ向かったリーシャとは逆に、サラは隣の部屋の扉を叩く。中にいる人物は既に目を覚ましていたのだろう。旅支度を整え終えていた姿で出て来たカミュは、サラの言葉を聞いて宿屋の出口へと駆けて行く。その後を追うように、サラも寝間着から着替え外へと飛び出した。

 

 彼らには、一つの『恐怖』があった。

 昨日の父親の話の通りだとすれば、<グリーンオーブ>がこの村の現象を作り出していたとしたら、その『呪い』の中心であるメルエも共に連れて行ってしまうのではないかという『恐怖』。

 アリアハンを出たばかりのカミュ達ならば、そのような恐怖は笑い飛ばす事が出来ただろう。だが、彼等はこの三年に及ぶ旅の中で、多くの不可思議な現象を目の当たりにして来た。

 それらは全て、カミュだけではなく、『賢者』となったサラでさえも理解出来ない物ばかり。故に、彼等はその不可思議な現象へ『畏れ』を抱いてもいたのだ。

 

「メルエ!」

 

 カミュとサラが宿屋の表に出ると、決して広くはない村であった場所に、リーシャの悲痛な叫びが響き渡っていた。

 カミュ達もリーシャと合流し、村の全てを歩き回る。だが、時間を掛けてカミュ達三人が辿り着いた場所は、当たり前の場所であり、まず真っ先にそこへ行かなくてはならない場所であった。

 倒壊した壁には大きな穴が空き、扉は破壊されて中の様子がよく見える。崩れた屋根が床へと落ち、陽光が四方八方から入り込んでいる。

 そんな場所にメルエは立っていた。

 

「メルエ、心配したのだぞ!?」

 

 リーシャが真っ先に駆け寄り、その小さな背中を抱き締める。しかし、自分を後ろから抱き締めるリーシャの存在に気付かないかのように、メルエは唯一点を見つめていた。

 その場所は、昨夜メルエの誕生日を祝った場所であり、メルエにとって新たな保護者が現れた場所。

 理由は解らなくとも、心が温まり、安心感に満たされて行く胸がメルエを突き動かしていたのかもしれない。改めてその場所が何処なのかを理解したリーシャとサラは、何かに耐えるように顔を歪めた。

 

「メルエ、行きましょう。お別れを言って……メルエ?」

 

 メルエの傍に屈み込んだサラは、メルエに向かって言葉をかける。既にあの父親はここにはいない。陽が昇ってしまったこの村には、生き物達の息吹は皆無なのだ。

 永遠の別れとなるメルエとその父親の事を想い、絞り出すように出した言葉にもメルエは反応を返さない。そして、メルエはその手に握っていた自分の背丈以上もある杖を天に掲げた。

 行動を起こしたメルエを見たサラは、一瞬首を傾げるが、何かに気付いたように目を見開き、メルエの行動を止めようと動く。

 だが、それは既に遅かった。

 

「メ、メルエ、その呪文は駄目……」

 

「…………ラナルータ…………」

 

 止めに入ったサラを遮るようなメルエの詠唱が太陽の輝きを奪って行く。メルエが天の支配者である太陽に向けて掲げた<雷の杖>のオブジェの嘴から闇が吐き出されて行った。

 <闇のランプ>が灯した闇のように濃い闇が空を覆って行く。輝いていた筈の太陽はその支配権を失い、瞬時に世界を染め上げた闇は空に巨大な月を浮かび上がらせた。

 目の前に広がった不可思議な現象にリーシャが唖然と空を見上げる。

 

「こ、これは夜なのか……」

 

「……はい……『悟りの書』に記されていた呪文で、<ラナルータ>と言います。私には契約さえ出来ない物でしたが……」

 

 リーシャの呟きにサラが答える。既に周囲は夜の闇が支配していた。

 村の建物は全て昔のままに戻り、家屋の全てに生活の灯りが灯っている。全てが元通りに復元された村の中で笑みを溢しているのは、杖を掲げていた少女だけなのかもしれない。

 悲痛の表情を浮かべたサラの言葉の意味が理解出来ないリーシャは呆然と周囲を見回し、その言葉の意味を理解したカミュは、苦しそうに眉を顰めた。

 

<ラナルータ>

魔族が生み出した闇の道具と同じような効果を生み出す呪文。いや、正確に言えば、その認識は間違っている。魔族が己の時間を取り戻す為に作り出した<闇のランプ>。それに対抗する物として存在したのがこの呪文であるのだ。今となっては誰が編み出したのかは解らない。それが『人』なのか、『エルフ』なのか、それとも『魔物』なのかは誰にも解らない。解っているのは、その契約方法が『悟りの書』と呼ばれる『古の賢者』の遺産に記載されているという事だけ。その呪文は、太陽が輝く昼間を瞬時に闇で包み、闇が支配する夜を瞬時に太陽の輝きで満たすという相反する効果を兼ね備えていた。

 

「あっ! メルエ!」

 

 カミュ達三人が現状を飲み込めないまま立ち竦む中、笑みを浮かべていた少女は、再び復元された建物の扉へと駆けて行く。サラの制止する声に見向きもせず、扉の前に辿り着いたメルエは、肩から下げているポシェットの中へと手を入れ、小さな鍵を取り出した。

 それは、この世界のどんな鍵をも開けてしまうと云われている神代からの道具。懸命に背伸びをしたメルエは、<最後のカギ>と呼ばれる世界に一つしかない鍵を鍵穴に差し込み、その手を軽く回す。乾いた音を立てて開場された扉のノブに手を伸ばし、懸命に引っ張ろうとするが、どれ程懸命になろうとも、メルエの背丈が届かなかった。

 

「…………!!…………」

 

「……行ってみろ……」

 

 メルエの行動に顔を俯かせていたリーシャとサラを余所に、そのノブを握るメルエの手に乗せられたのは、無骨で大きな手。

 幼い少女をここまで護り、少女の心の中で絶対の強者として君臨して来た者の手。

 合わせられた手がノブを回し、扉を開く。開け放たれた扉の奥を見つめながら、カミュは自分を見上げているメルエを中へと誘い、それを見て『ぱっ』と輝くような笑みを浮かべたメルエは、家屋の中へと駆けて行った。

 

「……カミュ……」

 

「メルエには酷だが、もうあの父親はここにはいないだろう。例え世界を闇が支配したとしても、あの父親はこの場所に蘇る事はない。呪いの解けたこの村に……蘇る者達がいないようにな」

 

 心配そうに近寄って来たリーシャにカミュは小さな呟きを返す。

 カミュの言う通り、闇が支配し始めた村に建物は蘇っていたが、昨夜までいた村人達は一人も姿を現してはいなかったのだ。

 メルエの父親の願いを聞き入れたオーブの呪いは、この村で生きていた者達の無念をも汲み取り、この村を再生していた筈。

 だが、呪いの元となる父親以外の村人達の記憶は、村で生活していた頃までの物であり、魂にまで刻まれた筈の無念は表に出ていなかった。

 地上に残る無念は、オーブによる呪いによって吸い取られ、呪いが切れたのと同時に天へと還ったのかもしれない。

 

「メルエは大丈夫でしょうか……ようやく出会えたお父様なのに……」

 

 家屋の中へと入ったメルエはまだ出て来ない。中にいる筈の父親を捜し回っているのかもしれない。

 村の状況を見る以上、カミュの言う通り、村の住民達は誰一人として蘇る事はないのだろう。しかし、あの幼い少女は、生まれて初めて味わった本当の肉親の暖かさを求めて駆け回っている。

 何故、これ程に心が温まるのかをメルエは理解していない筈。それでも、メルエは初めて味わった心地良い感覚を求めるのだ。

 

「……私達は、メルエの家族にはなれないのか……」

 

「……リーシャさん……」

 

 メルエと出会ってから二年以上の時間は、確かに心の絆を作ったとリーシャは考えていた。

 リーシャはメルエを妹のように愛していたし、メルエも自分を慕ってくれていたと思っていたのだ。だが、そんなリーシャ達が築いて来た時間は、初めて出会った父親の温もりに負けた。

 亡くなった父親を愛するリーシャは、メルエのその気持ちが痛い程に解る。だが、それでも哀しみとも悔しさとも言えない想いは拭えない。それは、ここまで常に全員の心の主柱となって来た強き女性の心の叫びだった。

 

「アンタが弱音を吐くとは珍しいな。メルエはアンタの娘ではなかったのか?」

 

「えっ!?」

 

「む、むすめではなく、妹だ! 私はメルエのような歳の子供がいる年齢ではない!」

 

 しかし、そんな女性戦士の心が弱る事を許す程、この世界の『勇者』は優しくはない。口端を上げたカミュの言葉に、先程まで意気消沈の面持ちをしていたサラまでもが顔を上げた。

 リーシャもまた、顔を赤く上気させ、咄嗟に反論を口にしてしまう。その反論が面白かったのか、カミュは再び口端を上げた。

 このようなやり取りも久しぶりであり、二人の様子を見たサラの心にも余裕が生まれる。

 

「そうなのか? アリアハンを出てから三年近くなる。アンタも歳を取った筈だ。そろそろメルエの母親でも遜色ないのではないか?」

 

「なに!? 私が歳を取るのと同じように、メルエも歳を取るだろう! それに、まだ三年しかたっていない!」

 

「ふふふ」

 

 もはや先程までの憂鬱な雰囲気は払拭されていた。そして、雰囲気が一変した三人の許へ、こちらも雰囲気が一変した少女が舞い戻る。先程まで満面の笑みを浮かべていたその顔は、哀しみと困惑に彩られていた。

 家屋の中の全てを探し回ったのだろう。それでも昨夜見たあの優しい顔をした男性は見つからなかった。

 『もう一度頭を撫でて貰いたい』、『もう一度膝の上に乗せて貰いたい』、『もう一度暖かな腕で抱き締めて貰いたい』と、メルエは一人きりで探し続けたのだ。

 だが、奇跡は一度しかないから奇跡なのである。

 

「メルエ、おいで」

 

「…………うぅぅ………ぐずっ…………」

 

 手を広げるリーシャをすり抜けて、メルエはカミュの腰に抱き付いた。

 行き場を失った腕を下ろしたリーシャは、恨みが多分に込められた視線をカミュへと送る。先程までリーシャをからかうように口端を上げていたカミュも、メルエの突然の行動によって困惑していた。

 それがリーシャの怒りの炎を多少なりとも鎮めるが、それでも、先程までの掛け合いの怒りがまだ残っている。

 

「カミュはメルエにとって叔父になるのかもしれないな」

 

「ぶっ!」

 

 意趣返しのように言葉をぶつけるリーシャに、サラが思わず噴き出した。

 サラはその言葉の内容に噴き出した訳ではないのだろう。メルエが腰にしがみ付く事で困惑顔をしたカミュを見て抑えていた物が、その緊張感のない言葉で溢れてしまったのだ。

 今度はカミュがリーシャを睨む事になるのだが、それは自分を馬鹿にされた事への怒りではない。今も尚、腰へしがみつくメルエの事を考えずに言葉を洩らしたリーシャへの怒り。

 

「メルエ……メルエの父君は天に還られた。何度も言うが、私はこの先も常にメルエと一緒だ。今は辛いだろう。哀しいだろう。私では父君の代わりにはなれないかもしれない。だが、私もメルエを自分の家族のように愛すると誓う」

 

「メルエは、私にとっても妹同然ですよ。私はいつも一人でしたから……メルエのような妹が出来た事が本当に嬉しかった。私もメルエとずっと一緒です」

 

 カミュの腰にしがみ付いていたメルエが涙で満たされた瞳を上げ、自分を優しく見下ろすリーシャを見た。

 その横には、同じように優しい瞳でメルエを見るサラの顔。二人が話す言葉は、メルエ心を暖かく包み込むような物であり、その瞳もまた、メルエの全てを包み込むような暖かさを有している。

 二人を見上げたメルエの身体は、リーシャの暖かな腕によって抱き上げられた。

 

「私もメルエより少し小さな時に父を失った。いや……メルエの方が私よりもずっと辛いだろうな。だがな、メルエは父君と母君の愛によって護られている。今までも、これからもだ。メルエは、あの強く優しい父君と、同じように強く優しい母君を誇りに思え」

 

「…………ぐずっ…………」

 

 自分の瞳を真っ直ぐ見つめるリーシャの瞳を見ていたメルエは、そのままリーシャの肩に顔を埋める。そのまま、すすり泣くような呻き声を発し、静かな涙を溢した。

 リーシャの手が優しくメルエの背中を叩く。

 『とんとん』と緩やかなリズムで叩かれ、背中から沁み込んで来る暖かさがメルエの心を落ち着かせて行く。溢れる涙は未だに止まる事はなく、それでもメルエの心は温かみで満ちて行った。

 

「メルエがご両親といつかまた出会えるその日まで、メルエの笑顔は私が護ろう。メルエは私の家族だ」

 

 リーシャの肩の上で小さく首を縦に振ったメルエは、もう一度リーシャに抱き付き、そしてそのまま眠りについてしまった。

 心に沁み込む温もりは、メルエを優しい眠りへと誘って行ったのだ。

 メルエの小さな寝息が聞こえても、リーシャはメルエの背中を優しく叩き続ける。

 その心から哀しみや苦しみを追い出すように。

 そして、その心に愛を注ぎ込むかのように。

 

「そうしていると、本当にメルエのお母様のようですね」

 

「サラまでもか!?」

 

 メルエの横顔を眺めながら、優しく背を叩くリーシャの姿は、サラの中に残る母親の姿そのものであった。

 それを思わず口にしてしまうのだが、それを言われた本人はその言葉を許す事はない。メルエを起こさぬように、そして背中を叩く手を止めず、サラへ厳しい視線を送った。

 その視線に身体を跳ねさせ、サラは嫌な汗を掻く。逃げるように後ずさるサラを、メルエを抱いたリーシャが一歩一歩追って行った。

 

「……行くぞ……」

 

「は、はい!」

 

 二人のやり取りに関心を示さず、カミュは踵を返して闇の支配するテドンの出口へと向かって歩き出す。救いの手を差しのべられたかのように、サラはその言葉に反応し、カミュの後を追った。

 眉を吊り上げていたリーシャも、苦笑と共に溜息を吐き出し、メルエを抱いたまま歩き出す。そして、全員がテドンの村の門を潜り終えると、村はその役目を終え、静かに崩れ始めた。

 

 <滅びし村>と呼ばれながらも、夜に蘇る村に掛かっていた呪いは解かれる。

 有りし姿へと戻り、暗く淀んだ空気が村を支配して行った。

 だが、この村に生きていた者達の魂は、その淀んだ瘴気によって彷徨う事はないだろう。

 全ての無念を吸い込まれ、天へと還った魂は、この地に留まる事はない。

 止まっていた時間は正常に動き出し、テドンの村は静かに闇へと溶けて行った。

 

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

描き終わってから気付きましたが、とんでもなく長くなってしまいました。
テドンはいつも長くなってしまいます。
区切る所を考えると、どうしてもこれを二話に分けるのは難しかったので、こうなってしまいました。
読み辛く感じてしまったとしたら、申し訳ありません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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