新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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ランシールの村③

 

 

 

 テドンの村を出発した一行は、闇夜の中、船に向かって歩を進めていた。

 メルエの唱えた<ラナルータ>という神秘によって、朝を夜に変化させられてしまった一行の身体は眠りを欲してはおらず、火を点した<たいまつ>を片手に先頭を歩くカミュを三人が追いかける形となる。最後尾を歩いていたリーシャであったが、一言も口を開く事無く俯いて歩くメルエの傍に寄り、自然と一行が固まって歩く形となって行った。

 明らかな落胆と失望を身体全体で表すメルエの姿に、カミュは何度も立ち止まり、振り向きながら歩いていたのだが、そんなカミュに告げたリーシャの一言が、彼を再び先頭へと向かわせる。

 

『お前と逸れた時の方が酷かった』

 

 リーシャのその言葉には、カミュでは想像が出来ない程の重みがあり、横に居たサラも悲痛な表情を浮かべた。

 その事が、彼女達二人が感じたメルエの状況を明確に示している。あの時のメルエの心は沈み込むどころではなく、完全に壊れてしまっていた。

 何に対しても反応する事無く、食事を取ろうとしても受け付ける事さえ出来ない。今リーシャの手を握るこの小さな身体も、『心』という視認できない曖昧な物の崩壊によって、跡形もなく崩れてしまう所まで追い詰められていたのだ。

 その事をカミュは知らない。いや、その事実を聞いてはいたが、実感は出来ていなかった。

 だが、今のメルエの状況を見て、それでも『大丈夫だ』と答える事の出来る二人を見て、カミュは初めてその時の苦労を知ったのだろう。

 

「おかえり、目的の物は手に入ったのか?」

 

 それから、一夜を明かしたカミュ達は、ようやく船に辿り着く事となる。カミュ達を迎える船員達の笑顔を見たメルエの表情にも若干の明るさは戻るが、それでも笑みを浮かべる事はなかった。

 目的が達成出来たのかを問う頭目の言葉に頷いたカミュは、次の目的地を告げ、それを聞いた船員達はそれぞれの持ち場へと戻って行く。だが、船に乗ってからも笑みを見せず、哀しそうに俯くメルエの姿は、船全体の空気を重く沈ませて行った。

 

「出港だ!」

 

 頭目の声に合わせる掛け声が響き、帆が張られ、錨が上げられる。ゆっくりと浅瀬を離れ始めた船は、テドンの村があった大陸を背に南へと進路を取った。

 いつもの木箱をいつもとは異なる船尾へと置いたメルエは、その上に立ち、離れて行く大陸を眺める。その瞳に浮かぶ物は、やはり『哀しみ』という感情がとても強かった。

 幼い心に刻まれた傷は、とても深いのかもしれない。カミュ達と出会い、感情を持つようになった少女の心は、喜びと楽しみに溢れていた。

 哀しみを哀しみとして感じる事のなかった人形のような心に色を取り戻させたのは、カミュであり、リーシャであり、サラである。それは、何も感じなくなっていた心に、喜怒哀楽という感情を覚えさせた。

 それは、決して喜びや楽しみだけではなく、哀しみさえも運んで来る物でもあるのだ。

 

「メルエ」

 

 一人大陸を眺める小さな身体は、不意に大きく暖かな腕で抱き締められた。

 メルエの姿に一歩も動く事の出来なかったカミュではない。メルエの苦しみと悲しみを理解して、何を言えば良いのか迷っていたサラでもない。顔を上げたメルエの瞳に映ったのは、メルエを母のように愛する女性戦士であった。

 その顔に浮かんでいたのは、優しい笑み。メルエの心も体も全てを包み込むような暖かな笑みだった。

 

「私もメルエぐらいの歳の頃に、父を亡くした。私もメルエのように、父が大好きでな。本当に辛かった……毎日毎日泣いて、父がくれた剣を振ったよ」

 

 リーシャの瞳は、真っ直ぐ大陸へと向けられている。決してメルエと目を合わす事はないにも拘らず、見上げていたメルエの心に、その言葉は真っ直ぐ向かって行った。

 先程までは、誰の言葉にも虚ろであったメルエの瞳はリーシャの顔から離れる事はない。その一言一言を聞き逃さぬように、小さな耳は心地良く響く声を聞き取って行った。

 

「でも……でもな、メルエ。私の父は、この空の上から私を常に見守ってくれていると思うんだ。だからこそ、父に恥じぬように生きて行こうと考え、剣の腕を研き、そして今も旅を続けている。メルエの父君も母君も、同じ様にこの広い空の上から、愛するメルエの事を見守って下さっている筈だ」

 

 リーシャの言葉はメルエの幼い心へもしっかりと届いて行く。リーシャに釣られるように空を見上げたメルエは、流れる雲の上を見通すかのように、透き通った瞳を見せていた。

 昨夜に見た温かな笑みを、そして未だに見た事のない温かな微笑みを見つめるかのようなメルエの瞳を見下ろしたリーシャは、その小さな身体をもう一度抱き締め直す。

 柔らかく、そして優しく、何よりも強く抱き締められたメルエは視線をリーシャの方へ動かそうとするが、それはリーシャによって遮られる事となる。

 

「私はメルエが大好きだ!」

 

 メルエの柔らかな頬に押し当てられたリーシャの頬は、海風に当たっていても尚温かく、メルエの心へと浸透して行った。

 言葉の脈絡はない。

 先程までリーシャが語っていた話と、今高らかに宣言した言葉に繋がりなど見えない。それでも、リーシャの告げた言葉は、この世に普及しているどんな言葉よりも、この幼い少女の心へ響いて行く。

 

「…………メルエも……リーシャ……すき…………」

 

 呟くように告げられた幼い告白は、その心が動いた事を明確に表していた。

 この言葉を引き出す事は、後ろで見ているカミュにも、サラにも出来なかった事なのかもしれない。『人』として生きる事を許されず、『象徴』としての生き方を刻み込められて来た青年は、親の愛という物を実感した事はない。

 リーシャが語る父親への想いも、メルエが塞ぎ込む原因となった想いも、この哀しい青年には理解が出来ない。

 いや、頭では理解しているのかもしれない。だが、それを心で消化する事が出来ないのだ。

 

 それは、程度の差こそあれ、サラも同様であろう。

 メルエよりも幼い頃に親の犠牲によって生き延びた彼女は、その愛を肌で実感した記憶が乏しい。彼女が両親と過ごした時間は、記憶に残る程の長さはない。

 育ての親であるアリアハン教会の神父に引き取られ、実の親のように愛されては来た彼女は、産みの親を恋しく思う気持ちを理解する事が出来ても、実感する事は出来なかった。

 世界を救う『勇者』として、人類を救う『賢者』として、『人』ではなく『象徴』としての道を歩む二人には、今のメルエの気持ちを動かす事は出来なかっただろう。それは、人類最高の戦力となりつつあるパーティーの中で、最も『人』としての色を残すリーシャだからこその『力』なのかもしれない。

 

「ありがとう。だが、私だけではなく、メルエは多くの人に愛されているんだぞ。父君と母君に愛され、今も見守られている事を、メルエは誇りに思え。そして、いつかメルエがご両親と再び出会える時に、胸を張って笑えるように一生懸命頑張ろうな」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの頬に顔を埋めるように頷いたメルエの呟きは、船を取り巻く風に負けずに、船に乗る全員の耳へと届いて行く。 

 事情を知らないまでも、何かを察して涙ぐむ者、ようやく聞こえた幼い少女の声に笑みを漏らす者、皆様々ではあったが、一様に安堵の空気が船を満たして行った。

 それは、後方で見ていた『象徴』として生きる道を歩んでいる二人も同様である。サラは瞳から次々と零れ落ちる雫を拭いながら、心からの笑みを浮かべ、カミュもまた、小さくあるが、優しい笑みを浮かべていた。

 

「やはり、リーシャさんですね……」

 

「……ああ……」

 

 瞳を拭いながら微笑むサラが溢した言葉は、途中で途切れてしまう。だが、隣に立っていたカミュは、その言葉の続きも理解し、頷きを返した。

 サラが言いたい事は、既にカミュの中でも同様の認識をしていた物。このパーティーの『核』となる者は、あの女性戦士だという事だろう。

 本人は否定するかもしれない。だが、以前ランシールへと向かう船の中でカミュが語ったように、サラもまた、この歪な四人のパーティーの『核』となるのは彼女しかいないと考えていたのだ。

 

 歪な四人を繋ぎ止めたのは、運命なのか偶然なのか解らない出会いをした幼い少女という『楔』なのだろう。

 だが、その後の旅の中で、何度か壊れそうになったパーティーの心を引き戻し、纏めて来たのは、パーティーの中で最も短絡的と思われる女性であった。

 世界を救うと云われる『勇者』ではなく、人類を救うと云われる『賢者』でもなく、皆の心を和ます稀代の『魔法使い』でもない、武器を振るう事しか出来ない『戦士』が、この『人』の集まりを支えている。人類に脅威を齎す『魔王バラモス』にも匹敵する程の戦力を有し始めている者達を、『人』として繋ぎ止めているのは、『人』としての心を残すリーシャなのだろう。

 

「カミュ、少し聞きたい事があるのだが……」

 

 二人が自分の思考に入っている間に、先程までメルエを抱き締めていたリーシャが戻って来た。

 船尾に置いてある木箱の上には、未だにメルエが立っている。小さくなって行く大陸を眺め、時折空へと視線を動かしている姿を見る限り、リーシャの言葉は胸に届いているのだろう。

 昨夜に見た温かな笑みを想い浮かべ、その笑みの行方に視線を向けるメルエの姿は、サラの顔を歪ませる程の哀愁を漂わせていた。

 

「……」

 

「メルエの父親の話を聞く限り、メルエの母親は生まれたばかりのメルエを抱いて逃げている時に魔物に襲われたと考えるのが妥当だろう? 逃げる途中で襲われたのか、逃げた先で襲われたのかは解らないが、それがアッサラーム近郊の森近くだとすれば……」

 

 無言で視線を動かしたカミュの姿に、許可を得たと考えたリーシャは、己の中に湧き上がった疑問をそのまま口にする。

 最後の方は、自信が持てない為なのか、明確に口にしなかったが、メルエがアッサラームで引き取られている以上、あの近くの場所まで母親が逃げた事は正しいと考えるべきである。そして、義母の話の中にあった、劇場前にメルエを置いた者へメルエを託したと考えるのが妥当ではあった。

 もし、母親が劇場前にメルエを置いたとすれば、その傍にメルエの母親の遺体がある筈だからである。

 

「もし……もし、アッサラーム近郊の森付近にメルエの母親が埋葬されていたとしたら……」

 

「そうですね。アッサラーム近郊の森付近で、メルエが『魔法使い』として開花した事も、メルエのお母様のお力があったからかもしれません」

 

 言い難そうに言葉を続けるリーシャを冷たく見ていたカミュの横から、その続きを言葉が紡がれた。

 メルエは、アッサラーム近郊の森から出て来た<暴れザル>という魔物との戦いによって『魔法使い』としての道を歩み始めている。あの時のカミュ達の能力から見れば、圧倒的な暴力と言っても過言ではない程の力の前に、リーシャは気を失い、パーティーは全滅の危機に陥っていた。

 その時に目覚めたメルエの『魔法使い』としての才能は、その近くで眠りに就いていた母親の愛情が支えていたのではないかと、リーシャとサラは考えたのだ。

 

「何もかもを死んだ人間の手柄にされては、本人の努力が無駄になる。アンタは、あの時のメルエの必死な姿を見ている筈だ」

 

 しかし、リーシャ達の考えは、目の前に立つ青年によって、冷たく斬って捨てられる。確かに、あの時のメルエは必死に杖を振っていた。

 皆が寝静まるのを待って、森の奥へ一人で赴き、大木に向かって何度も何度も杖を振るう。それこそ、自分の中にある魔法力が尽き、意識を失うまでの間、杖を投げては拾いを繰り返していたのだ。

 その姿をリーシャもしっかり目撃している。いや、最初から最後まで見守っていたと言った方が正しいだろう。

 

「いや……すまない。確かにあの時のメルエは努力していた。だがな、カミュ……それでも私は、メルエが多くの愛情に護られていたのだと信じたい。そうでなければ、メルエが余りにも不憫だ……」

 

「リーシャさん……」

 

 謝罪の為に下げられたリーシャの頭が上がる事はなかった。

 呟くように告げられた言葉と共に、数滴の雫が甲板へと落ちて行く。乾いた甲板に沁み込んで行く雫は、リーシャの『人』としての感情。自分の身に起きた事を正確に理解出来ず、それでもその温もりを忘れる事が出来ないメルエの頬に触れた時、リーシャは感極まっていた。

 健気に空を見上げるメルエの前で涙を見せる事は出来る訳もなく、その感情を抑えに抑え、ここまで持たせていたのだ。

 その感情が堰を切ったように溢れ出す。吐き出された言葉は、サラの胸に突き刺さり、先程まで凍り付くような瞳を向けていたカミュの表情にも変化を及ばせた。

 

「メルエがこれまで生きて来た時間は、とても苦しく辛い物だったと思う。だが、それでもメルエが生きて来れ、私達と出会う事が出来た事、そしてこの辛く厳しい旅の中でもメルエが笑えている事は、多くの出会いと、大きな愛情があったからこそだと信じたい。メルエは、様々な人達の想いに包まれて生きて来たのだと誇らせてやりたいんだ……」

 

 顔を上げたリーシャの瞳からは、涙が溢れている。この三年近い長い旅の間で、これ程感情を露にするリーシャを、カミュもサラも初めて目にした。

 元々感情豊かな人物ではあったが、他人の前で涙を見せるような事は一度たりともなかった筈。そんな人物が初めてカミュ達に見せた涙が、自分が妹のように愛する少女の為である事は、本当にリーシャらしいとサラは思っていた。

 

「……すまない……言葉が過ぎた」

 

「カミュ様……」

 

 そんなサラの想いも、横にいる青年が素直に謝罪を口にした事で、溢れ出してしまう。視界が一気にぼやけて行き、目の前に立つリーシャの姿が歪んで行く。慌てて目元を拭うが、一度溢れ出した感情は、サラの意志とは関係なく、次から次へと溢れては零れ、甲板を濡らして行った。

 言葉を紡ごうと口を開くが、何故か声にならず、最後は口元さえも抑えなければ、嗚咽が漏れてしまう程になる。それでもサラは顔を上げ、未だに空を見上げては大陸を眺めるメルエの背中へと視線を向けた。

 

「そ、そうですね……メルエは沢山の人達に見守られて生きて来たのですね。私達は、メルエを大事に想って来た人達から、その『想い』を託されたのかもしれません」

 

「……私もそう思う」

 

 必死に紡ぎ出した言葉にリーシャが同調する。静かな風が流れる甲板に、温かな空気を運んで来る。それは、メルエの生還を喜ぶ『想い』の欠片なのかもしれない。数多くの『想い』に導かれた少女は、今は自分を何よりも大事に考えてくれる三人の傍にいる。

 今自分の頬を撫でる風は、次代へと繋がる『想い』の受け渡しなのかもしれないと感じたサラは、不意に口を開いた。

 

「もしかすると、メルエをお母様から託されたのは……いえ、これは推測ですね」

 

「ん? 何だ、サラ? 最近のサラは、大事な事を言い淀む癖があるな」

 

 不意に口を吐いた言葉は、理性を取り戻したサラ自身によって留められる。『賢者』となり、以前よりも自身で考える事を優先するようになったサラは、リーシャの言う通り、自分の中で納得してしまうようになっていた。

 自分の中で消化し、自分の中で解決してしまう。一人で答えを出せる事を安直に口にしないようになったと言った方が良いだろうか。その為、失言は減ったが、周囲には釈然としない想いを残してしまう結果となってしまっていたのだ。

 

「い、いえ……これは、本当に推測での話ですし、安易に話して良い物でもないと思いますので……」

 

「そうか? まぁ、サラがそう言うのならば、深くは聞かない事にしておこう。だが、何時かは話してくれるのだろう?」

 

 先程まで涙で濡れていた瞳は既に乾き、訝しげに見つめるリーシャの視線を避けるように首を背けたサラは、言い訳のような言葉を発する。

 それは、他人が聞けば、とても納得が行かない程の苦しい物ではあったが、リーシャは深く追求する事も無く、サラが自分の中で結論が出た時にでも話してくれるのだろうと受け入れた。

 その問いかけに頷きを返したサラを見て、リーシャは優しく微笑み返す。

 

「……話したところで、アンタに理解できるかどうかは解らないがな……」

 

「なに!? ど、どういう意味だ!」

 

「ぷっ!」

 

 しかし、そんな和やかな空気は、口端を上げた一人の青年の呟きに吹き飛ばされる。どう考えても、カミュの言葉が本心ではない事を理解しているサラは思わず噴き出し、瞬時に血を登らせたリーシャが噛みつくように声を荒げた。

 『人』の心の機微だけは、卓越した理解力を示すリーシャだが、この青年のからかいだけは、その言葉自体を鵜呑みにし、激昂する。それがサラには可笑しくて仕方がなかった。

 カミュへと詰め寄るリーシャの背中を見ながら、消え行く大陸を船尾から見つめるメルエの許へサラは移動して行った。

 

 

 

 船はテドンのあった大陸が見なくなる頃から、進路を南東へと変更し、約半月の時間を掛けてランシール大陸へ到着した。

 以前に船を下りていた船員達の言葉を受け、大凡の村の場所を把握した頭目は、村から最短距離となる場所へ船を停める。船着き場ではないその場所からは、小舟を使って上陸するしかなく、数度の往復を経て、今回も船員達の数人をランシールへ連れて行く事となった。

 

「カミュ、速度に気をつけろよ」

 

「わかっている」

 

 以前訪れた時とは別の船員達を連れたカミュ達一行は、通常の半分ほどの速度で南へ歩を進め、ランシールの町を目指す。船員達は、基本的に上陸する事はない。食料の調達や物資の売却などで、近場の集落へ行く時は常にカミュ達と同道していた。

 海の男達とはいえ、彼等も人間である以上、揺れぬ大地は心地良く、カミュ達と共に上陸する事を楽しみにしている者達も多いのだ。

 その順番は、頭目が決める事が常ではあるが、その競争率は高く、船員達の中でその為の駆け引きが行われる程の物だった。

 

「メルエ、行きますよ」

 

「…………ん…………」

 

 海岸の砂浜の上で動き回る小動物を見ていたメルエは、サラの呼びかけに応じ、その手を握って歩き始める。メルエの表情は、テドンの村を出た頃のように沈んだ物ではなくなっている。

 だが、それでも、誰の心をも和ます花咲くような笑みは、未だに鳴りを顰めていた。

 笑顔を浮かべないメルエの手をしっかり握ったサラは、精一杯の笑顔を見せる。その笑みを見たメルエもまた、サラの手を握る力を強めた。

 

「カミュ!」

 

「ああ」

 

 船員達を挟みながら縦に繋がった一行は、順調に南へと歩を進める。その途中に東側に見えた森が近付いて来た時、最後尾を歩くリーシャが先頭のカミュへと声を上げた。

 既に気が付いていたのだろう。カミュは背中の剣に手を掛ける。森の中から見えた影は、以前に遭遇した事のある魔物。山羊とバッファローの間の姿をしている<ゴートドン>と呼ばれる魔物であった。

 見える影は四体。四体の魔物が、森の影からカミュ達を注視ながら身を顰めている。

 一行の間に緊張が走るが、それは前に出たカミュが背中の剣から手を離した事によって霧散して行く事となった。

 

「カミュ、どうする?」

 

「別段、相手をする必要はない」

 

 背中の剣から手を離したカミュを見たリーシャは、行動自体を問いかけるが、それに対する答えは、とても魔物を倒す『勇者』とは思えない程の物。だが、もう一度森へ視線を向けたリーシャは武器から手を離し、船員達を促して南へと移動して行く。サラもメルエの手を引いたまま、カミュの横を通って歩を進めて行った。

 森の中からカミュ達を見ていた<ゴートドン>達は、何処か怯えた雰囲気を出している。四体が固まっているのは、攻撃する為ではなく、自分達の身を守る為のようであり、何時でも逃げ出せるようにしているようにさえ見えた。

 

 全員が自分の横を過ぎた事を確認したカミュは、森の方角から視線を外す事無く、少しずつ後ろへと後退して行く。その間も<ゴートドン>は動きを見せる事はなく、カミュ達の方角を見つめたまま、森の影でその身を寄り添っていた。

 以前であれば、この行動は考えられなかったのかもしれない。カミュ自体は、以前と同様の行動をしただろう。いや、カミュの行動も変化している筈。以前のカミュであれば、他人の身を護るように行動をしていたかどうかは定かではない。それに加え、リーシャやサラがその行動を許す事もなかった。

 それにも拘わらず、全員が同じ意志の下、同じ行動を取っているという事を不思議に感じている人間が誰もいないという現状がとても奇妙な物なのかもしれない。

 

 

 

 そのまま南へ進んで行った一行は、陽が暮れた事を機に野営を行う事にした。

 近場の森の入口で焚き火を熾し、その周囲に座り込んで食事を始める。船から持って来た干し肉を炙り、森の木々から採取した果物を並べる。真っ先に果物へ手を伸ばしたメルエの姿に全員が微笑みを浮かべ、小さな笑みを浮かべたメルエは、果物を口へと放り込んだ。

 この辺りまで歩いたメルエは、ようやく小さな笑顔を取り戻して来ている。

 大きな空の下、広い平原を歩く内に、心の中に溜め込んでいた感情は、少しずつ外へと出て行ったのかもしれない。

 懸命に生きる小さな命へ目を向け、短い生涯を彩るように咲き誇る花々の香りを嗅ぎ、再び感情を取り戻したメルエは、嬉しそうに果物を頬張りながら、ふと視線をカミュの後方へと向けた後、再び果物に口を付けた。

 

「カミュ、何処へ行くんだ?」

 

 メルエの口周りに付着した果汁を布で拭き取っていたリーシャは、不意に立ち上がったカミュに視線を向けて問いかける。その言葉に明確な返事をせず、サラへ一度視線を向けたカミュは、そのまま森の外へと出て行った。

 視線を向けられたサラも、カミュに向かって頷きを返した後、その後を追って森の外へと出て行く。残されたリーシャは、メルエや船員達をこの場所に残す事は出来ない為、この場を立つ事は出来ない。不機嫌そうに厳しく目を細めたリーシャは、二人が消えて行った森の出口を睨みつけていた。

 

「カミュ様、魔物ですか?」

 

「ああ」

 

 森の外へ出たサラは、月明かりの下で剣を抜き放ったカミュを見て、周囲を警戒し始めた。

 あのパーティーの中で自分を選んだという事がサラの中で魔物の襲来を決定付けていたのだ。

 カミュが何かを話すとしたら、相手はリーシャだろう。だが、魔物と戦うとなれば、前線で剣を振るう二人で戦うよりも、前線のカミュと後衛のサラである方が都合が良い。

 カミュがメルエを戦場へ連れ出す事は考えられない為、何時でも呪文が詠唱出来るようにサラも身構えていたのだ。

 

「キキィィィ」

 

 身構えたサラの前方に奇妙な人影が出現した。月明かりに照らされたその顔には、奇妙な仮面が着けられており、踊りを踊るかのように身体を揺らすそれもまた、以前に遭遇した事のある者。死者に祈りを掲げ、その死体を蘇らせる事の出来る『魔族』。

 <シャーマン>と呼ばれるその魔族は、戦闘意志がなかったかのようにカミュ達の前で様子を窺っていた。

 逃げる隙を窺うように見ている<シャーマン>に向かってカミュが駆け出す。既に抜かれている<草薙剣>の剣速は、ランシール大陸でも上位に位置する魔族の想像を超えていた。

 

「キキィィィ」

 

 人語を話す事の出来ない魔族の悲鳴が月夜の平原に木霊する。カミュの剣を完全に避ける事の出来なかった<シャーマン>の片腕が宙に飛び、体液が激しく噴き出した。

 尚も追い打ちを掛けようと剣を振り被ったカミュの耳に、先程とは異なる<シャーマン>の叫びが轟く。それは、以前にも聞いた事のある叫び。安寧を求めて地の底で眠る者達を呼び覚まし、再び現世を彷徨わせる呪いにも近い雄叫びが轟いた途端、カミュの足を掴むかのように地面から腕が飛び出した。

 

「ちっ!」

 

 盛大な舌打ちをしたカミュは、地面から飛び出した腕を避けるように後方へ飛び、口元を押さえるように手を翳す。瞬時に周囲を支配する程の腐敗臭が平原に広がり、暗闇の中で次々と死者が目を覚まして行く。地面から現れる死者の来訪を防ぐ方法はなく、目に染みる程の腐敗臭が完全に周囲を支配するまで、カミュは身動きをする事が出来なかった。

 その間に魔物達の布陣は完成し、カミュは腐敗臭によって溢れ始めた涙で視界がぼやけ始める。

 

「カミュ様、私が呪文を行使します。長引かせれば、こちらが不利です」

 

 しかし、後方から轟いた指示は、とても的確で、とても頼もしい物だった。

 声を出す事の出来ないカミュは、一度横へ逸れた後、腐敗する肉の塊に向かって猛然と駆け出す。不意を突かれた<くさった死体>は、カミュの方へ手を伸ばすが届きはしなかった。

 一瞬の隙を突いたカミュの突進を後押しするように、後方からこの世界で唯一の『賢者』がその力を解放させる。

 

「ヒャダイン!」

 

 吐き気を抑え切れない程の腐敗臭ごと包み込むように、周囲の気温が一気に下がって行った。

 凍り付く空気は冷気となり、カミュを追うように移動を始めていた<くさった死体>の傍を吹き抜けて行く。吹き抜ける際にその身体をも凍りつかせて行く程の冷気は、腐乱死体全てを包み込み、神経さえも腐り果てた体内をも凍り付かせて行った。

 腕を伸ばした姿のまま固まるように凍り付いた腐乱死体を抜けたカミュは、余波を受けて冷たくなった剣を真横に振り切る。冷気を纏った剣は、予想外の出来事に呆然としていた<シャーマン>の胴を斬り裂き、その体躯を真っ二つに分けた。

 

「ベギラマ」

 

 何が起きたのかも理解しないままに絶命し、大量の体液を出す魔族の死体に向けて翳したカミュの掌から熱風が巻き起こる。地面に着弾した熱弾は炎の海を作り出し、魔族の身体を焼いて行った。

 戦闘の終了を迎え、自分の放った<ベギラマ>による熱で身体を覆う氷を溶かしたカミュは、後方に聳える氷像を一体ずつ壊して行く。崩れ行く腐乱死体であった物は、芯まで凍り付いてはいないが、砕く事の出来る程の物になっていた。

 

 それは、サラの成長の証なのかもしれない。

 メルエのように、媒体となる武器で変化する程の魔法力を有している訳ではないが、彼女は世界で唯一の『賢者』である。メルエさえいなければ、この世界で最高の呪文使いと語り継がれる程の実力を有しているのだ。

 魔法力の成長は、その保有者の心の成長に直結している。契約した時に、その魔法の威力は決定してはいるが、自信の成長と共にその力は変化する。<ヒャダイン>という魔法の立ち位置は変わらない。<ヒャダルコ>よりも上位の魔法ではあるが、メルエのように溶岩さえも凍り付かせる程の威力をサラが発現出来る事はないだろう。

 それでもその凍結速度などは変化していた。それは、補助呪文に特化したサラだからこその成長なのかもしれない。

 その精度を高め、緻密性を増して行く。

 見た目の激しさを持つメルエとは違う、サラの特色。

 それが、今回の戦闘で色濃く表れていた。

 

「ベギラマ」

 

 全ての氷像を砕き終えた後、サラが詠唱した灼熱呪文によって、現世を彷徨っていた魂は煙と共に天へと還って行く。胸の前で手を合わせ、祈りを捧げるサラの行為を邪魔する事も無く、カミュもまた、立ち上る一筋の煙を見上げていた。

 

 

 

「カミュ、サラと何処へ行っていたんだ!?」

 

 戦闘を終え、二人が野営地へ戻った頃には、焚き火の周りに居た船員達は既に就寝していた。眠りに就く船員達が寒さに凍えないように火をくべていたリーシャの膝の上では、メルエが眠そうに目を擦っている。

 二人の様子を見る以上、眠らずにカミュ達を待っていたのだろう。二人の帰還に気付いたリーシャが叫び、その叫び声を聞いたメルエが目を見開き、小さな笑みを漏らした。

 

「何か言え! 何処へ行っていたんだ!?」

 

 メルエの小さな笑みに心が和んだのも束の間、再び轟くリーシャの叫びに、カミュは大きな溜息を吐き出し、サラは苦笑を浮かべる。カミュは焚き火を挟んだリーシャの対面に座り、背中から剣の鞘を外し、サラはそのままリーシャの傍によって、微笑むメルエに笑みを向けた。

 だが、先程まで笑みを浮かべていた筈のメルエは、サラが近付いた事によって、眉を顰め、身体を逃がすように仰け反り始める。不思議に思ったサラであったが、次に発したメルエの一言が時を凍らせた。

 

「…………サラ………くさい…………」

 

「ふぇ!?」

 

「何!? お、おい、カミュ、お前はサラに何をしたんだ!?」

 

 嫌そうに顔を顰めたメルエが発した言葉にサラは驚き、リーシャは動揺を示す。逃げるようにリーシャの膝元から降りたメルエは、助けを求めるように、対角線に座るカミュの許へと掛けて行った。

 メルエが離れてしまった事で我に返ったリーシャは、何かを恐れるかのように疑問を口にし、その顔にも徐々に怒りが漲って行く。再び深い溜息を吐き出したカミュではあったが、自分の許へと駆け寄って来たメルエの表情を見て、何度目になるか解らない溜息を吐き出した。

 

「…………カミュ………くさい…………」

 

「カミュ!」

 

 カミュの目の前で顔を顰めて立ち尽くすメルエの言葉が、リーシャの怒りの鎖を引き千切る。

 抑えていた感情は月夜の下で爆発し、周囲で眠っていた船員達をも叩き起こす程の炎を吐き出した。

 リーシャを宥め、事情を説明する為に奮闘する役目を押し付けられたサラはの悲痛な叫びは、死者さえも呼び起こす程の物だったのかもしれない。

 

 

 

 

 翌朝、再びランシールへ向かって歩き出した一行は、陽が暮れる頃にはランシールの村の門をくぐる事が出来た。

 宿屋で一夜を明かし、久々に暖かなベッドで眠る事の出来た一行は、陽が昇ると同時に町の外へと出る事となり、同道して来た船員達は、物資の補給と交易をする為に村の中を歩く事となり、カミュ達とは別行動となった。

 

 船員達と別れたカミュ達は、そのまま村の入口の門付近にある民家の横を抜け、村の北側にある開けた場所へと出る。以前に訪れた時と同じように暖かな陽射しが差し込み、青々と芝生が広がる場所。

 村の喧騒は遠のき、小鳥達の囀りが聞こえ、咲き誇る花々には色とりどりの虫達が飛び交っている。今まで押し殺していた笑みを開放するかのよう笑顔を浮かべたメルエが、その芝生を駆け出した。

 

「ふふふ。メルエ、そんなに走ると転んでしまいますよ」

 

 駆け出したメルエは、芝生に降り注ぐ暖かな陽射しを目一杯受け取るように手を広げ、くるくると回りながら楽しそうに笑っている。久しぶりに見たメルエの笑みに、サラも笑顔を見せ、楽しそうにその行動を窘めていた。

 リーシャは、自分の隣に立つ青年の表情を確認し、そして優しい笑みを浮かべてメルエを見つめる。サラの窘めにも笑顔で頷いたメルエは、芝生に影を作る神殿の傍に立つ大きな木の付近で飛び跳ねる生物を目にした。

 

「…………ぷるぷる…………」

 

 芝生を飛び跳ねる生命体を見つけたメルエは、そのまま一目散にその場所へ駆け寄り、生物と目を合わせるように屈み込む。飛び跳ねていた小さな生物は、その透き通るような青い身体を震わせ、恐る恐るという様子でメルエへ視線を向けた。

 そこで目にした笑みを浮かべるメルエの姿に安堵したのか、解り難い程に些細な表情の変化をさせ、青く透き通る身体を嬉しそうに震わせる。震えるその身体を触るように指を伸ばしたメルエも笑顔を向け、久しぶりの対面を果たした。

 

「あれ? 戻って来たの? <最後のカギ>は見つかったの?」

 

「…………ん…………」

 

 身体を触るように伸ばされたメルエの指を受け入れながら、太古の生物である<スライム>は、メルエに続いて近付いて来た三人に向かって問いかける。

 神代の道具と考えられる程の力を持つ<最後のカギ>という物の情報をカミュ達に与えたのは、この太古の生物であり、最弱の魔物でもあったのだ。

 <スライム>の問いかけに答えたのは、先程まで青く透き通る身体を触っていたメルエであった。

 肩から下がったポシェットに手を入れ、誇らしげに取り出した物は、小さな銀色に光る鍵。

 正確には、鍵とは言えない形をした物ではあったが、メルエの表情を見た<スライム>は、それが<最後のカギ>であると確信した。

 

「よかった……やっぱり、君達は『賢者』の言う通りの人間だったんだね」

 

 身体を震わせた<スライム>は、遠い昔に聞いた名称を口にした。

 その敬称は現代の物ではない。現代に残る唯一の『賢者』であるサラを指す言葉ではなく、『古の賢者』と呼ばれる先代の者を指す事をこの場所に居る誰もが知っていた。

 <スライム>の言葉の中に自分が興味を示す言葉がなかったメルエは、相変わらず<スライム>の身体を突くように触れている。別段嫌がる素振りを見せない<スライム>は、眩しそうに四人の姿を見上げていた。

 

「そうだな。何と言っても、サラは『賢者』の名を継ぐ者だからな」

 

「えっ!? 君も『賢者』なの?」

 

「…………むぅ………メルエも…………」

 

 そんなやり取りの中、まるで自分の事を誇るように、リーシャがサラの肩に手を置く。『賢者』となったサラを誇りに思っている事は事実なのだろう。その事を<スライム>相手であれば口にしても構わないとも思ったのかもしれない。

 だが、そんな紹介の仕方をされては、黙っていない者がいる事をリーシャは失念していた。

 照れくさそうに微笑むサラの姿を恨めしそうに見上げた少女は、<スライム>の身体から手を離し、<スライム>とサラの間に割り込むように立ち上がる。まるで、『サラではなく、自分を見ろ』とでも言うように、<スライム>の視界を遮るメルエの姿に一行は苦笑を浮かべるしかなかった。

 

「メルエは、まだ『賢者』ではないだろ?」

 

「…………むぅ………リーシャ………きらい…………」

 

 メルエを窘めるように口を開いたリーシャを恨みがましく見上げたメルエは、そのまま『ぷいっ』と顔を背けてしまった。

 顔を背けると同時に、メルエの首から下がっている小さなオカリナが乾いた音を響かせる。しかし、顔を背けた先に居たサラの姿を見て、再び顔を背けるメルエの姿が、全員の顔に久しぶりになる心からの笑みを浮かばせた。

 

「それは何?」

 

 一行が笑みを作る中、自分の目の前で乾いた音を立てた物に興味を示した<スライム>がその口を開く。<スライム>の視線は、目の前に立つメルエの首元から下がる物に固定されている。

 『カラカラ』と鳴りながら揺れるそれは、カミュ達が旅の途中で手に入れ、それを使う事が出来る者の首に下げた物。

 <スライム>が自分へ視線を戻した事で笑顔を戻したメルエは、首から下がるそれを手に持って、もう一度屈み込んだ。

 

「…………ふえ………メルエ……ふく…………」

 

「ふえ?」

 

 それを<スライム>に見せるように突き出したメルエは、無い首を傾げるような表情を浮かべる<スライム>に笑顔を向け、それを口元に添える。幾つもの穴に小さな指を当て、息を吸い込んだメルエが『山彦の笛』と呼ばれる楽器を演奏し始めた。

 <スライム>の身体のように透き通った音が神殿の傍にある芝生に響き渡り、曲を奏でて行く。

 その曲はとても短く、とても単純な物。

 だが、それでも心に沁み入るような物であり、先程まで聞こえていた小鳥の囀りさえも、曲の邪魔をしないように鳴りを顰めていた。

 メルエという哀しい過去を持つ少女を想う者の一人が、彼女に唯一教えた曲。

 公に贔屓を出来ない状態にあった劇場の中で、それでも何かしらの事をと考え、与えた技術。それは、まるでその者の想いを乗せているかのように暖かく、そして優しい。

 リーシャの言う、メルエを見守って来た者達の想いが込められた曲は、聞く者達の心に静かに沁み渡り、そして消えて行った。

 

「す、すごいね!」

 

「…………ん…………」

 

 <山彦の笛>を吹き終わったメルエの口が歌口から離れる前に、<スライム>は感動を身体全体で表現する。嬉しそうに飛び跳ねる<スライム>を見たメルエは、満足そうな笑顔を浮かべて大きく頷いた。

 メルエの奏でる曲に聞き入っていたカミュ達も、そんなメルエ達のやり取りを微笑ましく見つめる。だが、そんな幸せな時間の中に居た為か、メルエの曲が終わっても小鳥達の囀りが戻らない事に誰一人気付く事はなかった。

 

「えっ!?」

 

「こ、これは?」

 

 不意に耳に聞こえた音に、サラは弾かれるように顔を上げる。その音は、サラの耳だけではなく、この場に居る全員の耳に届いていた。

 リーシャはその音の発信源を確かめるように首を巡らし、カミュはその音が何であるのかを確かめるように目を閉じる。

 

 それは、先程メルエが奏でた曲。

 <山彦の笛>から全員の心に届いた曲。

 メルエを想う者達の『想い』の込められた曲。

 

 メルエが<山彦の笛>から口を離している事から、発信源がメルエである筈がない。しかも、聞こえて来る音は、カミュ達がいる場所よりもかなり遠い場所から発せられているように微かな響きを持っていた。

 音が鳴り終わった事を確認したカミュが静かに目を開く。

 見つめる先にあるのは、芝生に影を作るように聳える神殿。

 カミュと同じように、この場所に居る全員の瞳が、神殿の入口にある巨大な門へと向けられていた。

 

「この先にオーブがあるのですね」

 

「……行くぞ……」

 

 神殿の奥から曲が戻って来たという事が示す物は唯一つ。

 『精霊ルビス』の従者を復活させると伝えられる六つの珠の内の一つが、この場所に眠っているという事。

 <山彦の笛>という道具の効力を初めて体験した一行ではあったが、これ程明確に同じ曲が返って来たという状況で、その伝承を疑う事はない。

 歩き始めたカミュの後ろをメルエが歩き、神殿を見上げていたサラが続く。興味深そうに飛び跳ねていた<スライム>までもが加わった一行は、神殿への入口を塞ぐ巨大な門の前に移動した。

 

 巨大な門の横にある勝手口のような小さな扉の前へ歩いて行ったカミュがメルエを呼び寄せ、<最後のカギ>を受け取る。鍵穴に差し込んだと同時に乾いた音が響き、数十年閉じられていた扉は呆気なく開錠された。

 長年閉じられていた扉は、カミュが力を込める事によって重苦しい音を立て始める。ゆっくりと押し開かれて行く鉄扉の隙間からカビ臭い臭いが吹き抜け、興味深そうに覗き込んでいたメルエは顔を顰めた。

 完全に開かれた扉の中へとカミュが入って行き、後方で飛び跳ねている<スライム>に別れを告げたメルエ達三人が後に続いて中へと入って行く。

 

「うわぁぁぁ」

 

 カミュ達が中へと入ると、そこは別世界であった。

 <ダーマ神殿>を彷彿とさせるようなステンドグラスを経由した、色とりどりの陽光が床へと降り注いでいる。ステンドグラスに描かれた絵画が影を成し、床の上を闊歩しているかのように映し出され、神殿全体を神秘的な色に染め上げていた。

 サラが感嘆の声を上げ、メルエが息を吐き出していると、神殿の中央から奥へと伸びるように敷かれた真っ赤な絨毯の横にある燭台に火が灯る。

 まるでカミュ達の来訪を待っていたように、歩くカミュ達の先を照らすように順々に灯されて行く燭台を見たリーシャとサラは、その不可思議な現象に驚きを表した。

 

「よく来たカミュよ!」

 

 赤い絨毯の上を真っ直ぐ歩き、神殿の奥へと向かっていたカミュ達は、神殿全体に響き渡る声に足を止める。急な声に驚いたメルエは、最も安全な場所へと潜り込み、カミュ達三人は声のした方を凝視した。

 徐々に灯って行く燭台の火が周囲を明るく照らし出し、ステンドグラスから舞い降りる陽光も加わり、神殿の奥に立つ影を浮かび上がらせる。その者の姿が見えて来るに従って、カミュは瞳を細め、サラは言葉を失ったように立ち尽くした。

 

「カミュと共に歩む者達も御苦労であった」

 

「あ、貴方は……」

 

 神殿の奥へと続く通路を護るかのように立つ者は、人間の姿をした一人の男性。

 カミュ以外の三人に視線を巡らせたその男性は、リーシャの姿に微笑み、サラの表情を見て微笑み、そして最後にカミュのマントの隙間から覗いている幼い少女の瞳を見て、柔らかく微笑んだ。

 サラは、その男性の姿を見た事があった。いや、サラだけではなく、この場に居る全員が、その姿を目にした事がある。今よりももっと朧気に揺れる陽炎のような物であったが、確かに目の前に立つ男性の顔と同じ人物であったのだ。

 だが、それを問いかけるサラの言葉は、男性によって遮られた。

 

「この先の道は、『勇気』と『決意』が試される道。この先へは一人でしか行く事は出来ない。カミュ、覚悟は良いか?」

 

 男性が横へと移動した事によって、奥へと続く通路が露になる。暗い闇に包まれた通路の奥を見る事は出来ず、奥から吹いて来る冷たい風が、人間の心の中にある不安を増長させて行くかのようだった。

 言葉を遮られたサラも、まるで吸い込まれてしまいそうな通路の奥に視線を奪われている。

 

「カミュ」

 

「行くしかないだろうな」

 

 『一人で行かなければならない』というのであれば、それが出来るのはこのパーティーの中で彼以外にはいない。

 リーシャでは、呪文を行使出来ない以上、怪我の回復などの方法はなく、命の危険が高い。例えメルエが膨大な魔法力を有していたとしても、回復呪文は行使出来ず、更には魔法の効力が無い魔物に対しては無力になってしまう。

 最後にサラであるが、呪文に関しては回復と攻撃の両方を行使する事が出来るし、その呪文の数もパーティー内で最も多い。武器を扱う事も出来はするのだが、その武器が頼りなく、その力量もカミュやリーシャには遠く及ばない。魔法が効かない複数の魔物と対峙した際、サラではその魔物達を武器だけで駆逐する事はまず不可能であろう。故に、必然的にカミュが残るのだ。

 

 それ以外にも理由はあろう。

 目の前に立つ男性は、カミュの名前しか口にしていない。

 世界的な『勇者』として旅するカミュではあるが、数十年の間も閉鎖されていた神殿の中に居る男性が知っている筈はないのだ。

 それでも、カミュだけの名を呼び、リーシャ達に語りかける事無く、この奥へ行くかどうかをカミュのみに尋ねている。それは、この場所へ行く事が『勇者』としての使命であるかのように感じる物でもあった。

 男性とカミュとの間だけに流れる空気は他の誰も介入する事は出来ない。リーシャはそう感じていた。

 

「ならば、こちらへ」

 

 カミュの答えを聞いた男性は、カミュを誘うように通路の奥へと歩いて行く。男性の姿が闇に溶けて行った事を確認したカミュは、マントの中でしがみ付くメルエを優しく離し、リーシャへと託した。

 もはや、リーシャやサラには口にする言葉はない。しっかりとカミュの瞳を見つめ返したリーシャが一つ頷くき、カミュもまた、小さく頷きを返した。

 

「…………カミュ…………」

 

「心配するな……すぐに戻って来る。鍵の掛かった扉があった時の為に、<最後のカギ>を貸しておいてほしい」

 

 不安そうに見上げるメルエの頭に手を置いたカミュは、メルエと目線を合わせるように屈み込み、小さな微笑みを浮かべる。月のように優しい笑みは、不安に圧し潰されそうになるメルエの心に柔らかな光を降り注いだ。

 小さく頷いたメルエは、ポシェットの中に手を入れ、先程仕舞ったばかりの鍵を取り出し、カミュの掌の上に置く。優しく撫でるように動かされた手を、目を細めて受け入れたメルエを残し、カミュは通路の奥へと消えて行った。

 

 カミュの姿が完全に闇へと溶けて行ったと同時に、リーシャ達の周囲が暗くなる。いや、実際に陽光は今も尚、眩いばかりの光を神殿内に注ぎ、燭台に灯された炎は赤々と燃えていた。

 それでも、たった一人の青年が消えたという事実が、光を一つ奪ってしまったのかもしれない。

 

「…………カミュ…………」

 

 音と光が消えた神殿の中で、幼い少女の呟きだけが虚空へと消えて行った。

 

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

遅くなってしまいましたが、更新させて頂きました。

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