新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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サマンオサ大陸①

 

 

 

 翌朝、陽が昇ると同時に起床した一行は、眠たい目を擦る最年少の少女の手を引き、再び『旅の扉』へ飛び込み、遠く離れた教会へと戻った。

 早朝という事もあり、朝の祈りを終えていた神父は、祭壇傍にはおらず、一行は祭壇を抜けて、外へと出る事となる。陽が高く昇る前に、ある程度の距離を稼ぎたいと考えていたカミュは、外へ出ると同時に現在位置を確認する為に地図を広げた。

 サマンオサという国は、英雄を一人輩出している国家である。その国章などは、世界中の人間全てが知っている訳ではないが、その名前程度であれば、誰もが一度は耳にした事のある物であった。

 

「山沿いに西へ向かえと言われたな……」

 

「わかってはいるが、周囲が高い山脈に囲まれている……大まかな位置的には、おそらくこの辺りだとは思うが……」

 

 教会を出てすぐ、見えて来た広大な景色の前で、地図を広げたまま立ち尽くすカミュを見て、リーシャが傍に寄って行く。昨日、教会の神父に指示された行き方を言葉にするリーシャであったが、カミュの言う通り、広がる壮大な平原の向こうには、見事な山脈が連なっており、山沿いと言われても、正確な道を把握は出来なかった。

 朝陽を受けた平原は、朝露によって輝きを放ち、その眩しさにメルエは目を覆っている。平原は遙か彼方へ繋がるように遠く北西へと伸びていた。

 平原の道を作るように、北と南には大きな森が茂っており、森の先には高い山脈が連なっている。山脈へ向かって歩く訳ではない以上、平原を歩く以外に方法はないのだが、その平原が余りにも広過ぎるのだ。

 

「山沿いに西とおっしゃっていましたから、この平原を北西に向かって歩いて……ほら、ここを川が流れていますから、橋を見つければ良いのではないでしょうか?」

 

 地図を覗き込んでいたリーシャは、地図の見方が解らない訳ではないが、常日頃から、行く先をカミュに任せて来た経歴がある。ここ三年の月日で最後尾を常にあるいて来た事が災いしていた。

 目を覆っていた手を少しづつどけ、何とか目が慣れて来たメルエの手を引いたサラが、そんなリーシャの横から地図を覗き込み、地図上に記されている川のような図を指差して考えを口にしたのは、リーシャが首を傾げた直後だった。

 

「それ以外はないようだな……」

 

 常に前を歩いて来た青年も、考えは同じであったのだろう。サラの指差す場所を確認し、それ以外に方法が無い事を改めて認識する。

 平原は北から南に長く伸びている、遠く見える山脈の麓にある森にしても、地平線の向こうに見える程度の物で、その場所に辿り着くにも、数日の日数を掛ける必要があるだろう。ならば、方法として、その平原を地図通り、北西の方角へ歩くしか方法が無いのだ。

 

「方角は決まったな。メルエ、行こう!」

 

「…………ん…………」

 

 先程までの考え込むような表情を消し去り、リーシャは手を大きく前へと出す。その手を笑顔で受け取ったメルエは、朝露に濡れる草花のように輝いていた。

 行き先は決まっている。

 そして、その行き方も決まった。

 あとは、その道を歩むだけである。

 

「グモォォォ」

 

 しかし、彼等の歩む道は、常に平坦な物ではない。

 それを示すように、遠く離れた森の方から巨大な雄叫びが平原に轟いた。

 その雄叫びが魔物の物である事は間違いないだろう。それ程近くはない事は、轟いた雄叫びの方向に、魔物の姿が見えない事からも明らかではあるが、それでも、カミュ達の存在に気が付いている事だけは確か。

 魔物の速度は、人間の速度を遙かに凌ぎ、その持久力も人間の数倍の能力を誇る。例え、人間の足で歩いて数日の距離だとしても、魔物の速度では数刻にも値しないという事も充分に有り得るのだ。

 

「カミュ、少し先を急ごう」

 

「わかった。最後尾は任せる」

 

 一固まりで歩いていた一行は、ここまでの旅で慣れ親しんだ隊列へと変化させる。『勇者』を先頭に、『賢者』、『魔法使い』と並び、最後尾を『戦士』が歩む。戦闘時とは異なる隊列ではあるが、これがこのパーティーの最強布陣でもあった。

 一番幼いメルエの歩行速度に合わせながらも、歩く速度を上げ、魔物と遭遇するまでに距離を稼いで行く。カミュは前方へ注意を払い、サラとメルエは左右に注意を払う。そして、最も危険度の高い後方を、人類史上で最高位に立つであろう『戦士』が請け負った。

 

「カミュ、来るぞ!」

 

「メルエ、私の後ろへ!」

 

 徐々に近づいて来る雄叫びの感覚が短くなって行き、その姿が微かに見えて来た頃になって、ようやくリーシャは己の武器である<バトルアックス>を抜く。

 手を繋いでいたメルエを自分の後方へ下げたサラも、<鉄の槍>を抜き、後方へと向き直る。最後に、周囲を注意深く確認していたカミュが、後方から迫る魔物だけである事を認め、己の武器を抜いて、サラとメルエの前へと歩み出た。

 戦闘の開始である。

 

「グモォォォ」

 

 一行の目の前に現れた魔物の数は、二体。

 対になるように、横並びで陣取り、大木のように太い腕を高らかと上げて威嚇行為を取っている。口から剥き出された牙は鋭く、口の中に納まらない程の長さを誇っていた。

 身体全体を緑色をした体毛が覆っており、その体毛は、全ての物を拒絶するように魔物の肉体を覆い隠している。一体が威嚇行為を繰り返す間に、もう一体は一行の逃げ道を塞ぐように後方へと回り込んで行った。

 

「腕力はあるでしょうね……メルエ、<スクルト>を!」

 

「…………ん………スクルト…………」

 

 前方と後方に分かれた魔物を見て、サラはその生態を分析し始める。その魔物の姿は、以前に出会った事のある魔物であり、サラの心にも、そしてメルエの心にも深い傷と、決意を刻みつける事になった魔物であった。

 巨大な猿という表現が、最も適切なのだろう。

 大木のような腕を振り上げ、相手を威嚇するように胸を叩く姿は、通常の人間であれば、萎縮してしまう程の圧力を誇っていた。

 

<コング>

凶暴な大猿類の魔物の中でも、その腕力や肉体の強靭さは、他の同種とは一線を画す程の物を有す。森の中などに生息する魔物ではあるが、『人』の気配には敏感であり、森を避けるように歩く『人』の気配を感じては襲い、鋭く長い牙によって、その身体を食い千切る。サマンオサ地方の森のみに生息しており、サマンオサ城へ向かう一行は、この平原の道を<コング>に気付かれないように進む事が、暗黙のルールとなっていた。

 

「カミュ!」

 

 <コング>の恐ろしさは、その飛び抜けた腕力だけではない。身体の大きさに似合わない程の俊敏さをも持ち合わせているのだ。

 メルエの唱えた呪文によって、一行の身体をその魔法力が包み込む。膨大な魔法力によって包まれた一行の身体が、神々しい光に包まれた事に反応した<コング>は、力任せにその腕を振るい、先頭に出て来ていたカミュの身体を殴り飛ばした。

 世界最高の『魔法使い』の魔法力に護られているといえども、『魔物』と『人』という種族の壁を超える事は出来ない。<コング>の拳を受けたカミュは、そのまま平原の向こうへと弾き飛ばされ、数度地面を跳ねた後、沈黙した。

 

「マヌーサ!」

 

 前衛の二人が予想を超えた状況に陥った事を察したサラは、自分達の前で今にも腕を振り下ろそうとしている<コング>に向かって呪文を詠唱する。脳神経を狂わせ、幻に包むその呪文の効力は、まだメルエが加入していない<ナジミの塔>にて、リーシャが実証していた。

 今まで見ていた景色とは異なり、周囲を霧に包まれたような感覚に陥った<コング>は、闇雲に腕を振るうが、その腕がメルエやサラに及ぶ事はない。サラの後方へと再び移動したメルエは、サラの指示を待つように、<雷の杖>を握り締めた。

 

「ウホッウホッ」

 

 狂ったように腕を振るう一体とは異なり、先程カミュを吹き飛ばした<コング>は、威嚇するように叩いていた胸の音と叫び声を変化させる。斧を握り締めたリーシャは、転がって行ったカミュが起き上がるのを見て、再び魔物へと視線を戻した。

 しかし、その<コング>の行為は、一行の予想を遙かに超えた物で、彼等はその行為が齎す物に驚く事となる。

 

「…………ふえた…………」

 

「仲間を呼んでいたのですか……?」

 

 狂ったように振るわれる腕を避けていたサラは、後方から聞こえた呟きに、視線を動かした。

 視線の先には、森の方角から徐々に大きくなって来る魔物の姿があり、それが<コング>と呼ばれる種である事は明確。一体の不可思議な行動は、もう一体の同種を呼び寄せる行為であった事に、サラはようやく気付く事となる。

 あの凄まじい腕力と真っ向からぶつかりあっても、『人』という種族であるカミュ達には分が悪い。如何に人類の中で最高位にいると言えるカミュやリーシャであろうと、魔物の腕力に勝てる訳はないのだ。それは、この<コング>だけではなく、アッサラーム近辺で遭遇した、下位種である<暴れザル>だとしても同様であろう。

 鋭い武器や、強固な防具、そして強大な呪文という付加があるが故に、彼等は魔物と対等以上の戦いが出来るのだ。純粋に腕力や持久力だけを魔物と競おうとすれば、『人』である彼等に勝ち目はない。

 

「リーシャさん、カミュ様と魔物の隙を作ってください! 新たに現れる一体は、私とメルエで請け負います」

 

「わかった」

 

 リーシャにサラの考えている事など全てを理解出来る訳がない。

 だが、彼女達は、相手の意図を理解していなくとも、その指示を受け入れる事の出来る経験を積んで来ていた。『信じ合う』という行為は、それ相応の経験と、その時間の中での衝突があってこそ成り立つ物。

 それを彼女達は、積み重ね、そして壊し、再び積んで来たのだ。

 

「メルエ、解りますね?」

 

「…………ん…………」

 

 後ろで杖を握る少女へ顔を向けたサラは、詳細など一切語らず、確認の言葉を告げる。通常の人間であれば、そんな物で全てを把握する事は不可能なのだが、幼い少女と、それを導く者との間には、深く強い絆が築かれていた。

 それは、『勇者』の青年と少女の間に築かれた絆とも、『戦士』である女性と少女の間に築かれた絆とも異なる物。魔法という神秘に重きを置く者達の間に築かれた絆は、その状況に於いて最適な物を、適量の魔法力で行使する事が出来る程の物でもあったのだ。

 

「…………メダパニ…………」

 

 自身の前から保護者が退き、前方の視界が開けたメルエは、迫って来る一体の<コング>に向かって、その手に持つ杖を振り下ろす。メルエの体内で作られた魔法力は、正確に杖へと伝達し、杖の先に付けられたオブジェが神秘へと変換を完成させた。

 目に見えない魔法は、迫り来る<コング>一体を正確に包み込み、その脳神経を着実に蝕んで行く。以前に、リーシャが受けた時と同じように、その場で立ち止まった<コング>を見たサラは、即座に行動に移す。

 

「メルエ、急いで離れますよ!」

 

 呪文の余韻を残すメルエの手を引いたサラは、そのままカミュ達と合流する為に、急いで方向転換を果たす。こちらに向かって来ない状況を見る限り、幼い魔法使いの放った呪文が正確に効果を示した事を意味していたのだ。

 脳神経を狂わされた<コング>が、敵味方関係ない程に錯乱し始める事は、以前のリーシャによって実証されており、その際に傍にメルエやサラがいれば、その矛先が何時向けられても可笑しくはない。故に、このパーティーの頭脳は、その場を離れたのだ。

 

「サラ、どうした!?」

 

「あちらは、魔物同士に任せます。一体ずつ倒して行かなければ、危険が高くなりますので」

 

 突如合流した後方支援組を見て、リーシャは口を開く。既に、カミュは戦線に戻って来ており、今は<コング>の振るう腕を盾で流しながら剣を振るっていた。

 リーシャ達三人は気付いてはいないが、カミュの持つ<草薙剣>には、相手の防御力を低下させるような付加が備わっている。故に、振るわれた剣は、<コング>の硬い体毛を貫き、その身体を傷つけていた。

 飛び散る体液は、『人』の物とは異なり、赤い色をしてはいない。だが、痛みは感じているのだろう。カミュが剣を振るう度に、雄叫びのような叫び声を上げながら苛立ちを露にしていた。

 

「何がどうなっているんだ?」

 

 サラの言葉を聞き、後方へ向けた視線の先でリーシャが見た物は、何とも不思議な光景であった。

 合流した筈の<コング>の巨大な拳が、幻に包まれている<コング>に対して振るわれているのだ。渾身の力を込めた拳は、正確にもう一体の魔物へ貫かれ、その身体を吹き飛ばす。吹き飛ばされた<コング>は、反撃に出ようとするが、その攻撃は容易く避けられ、再び巨大な拳を顔面に受けていた。

 

「三体を同時に相手する事は出来ません。一体に錯乱して貰い、時間を稼いで貰います」

 

 戸惑うリーシャとは異なり、カミュが相手をしている魔物から視線を離さないサラは冷静である。その瞳自体が冷たい決意の炎に燃え、このパーティーを勝利に導く道を模索し続けていた。

 傍に控えるメルエは、カミュが苦戦している魔物に呪文を行使する時を待つように、静かに杖を掲げている。

 この四人は、四人が揃ってこそ、人類最高の戦力となり得るのかもしれない。一人一人が、既に人類の枠を超えた程の力を有してはいるが、それは『人』という種族の中の話。

 『魔物』という人類が敵わない種族に対して考えれば、個の力など中堅の部類に収まる事が出来るかどうかという程度である。だが、この四人が一つに纏まった時、それは『魔族』や『魔物』の王である『魔王バラモス』でさえ対抗出来る程の力となって行くのだろう。

 

「あれが……錯乱した魔物の姿か……闘技場では、あの状態の魔物を戦わせているのだな……」

 

「!!……今は手段を選んでいる場合ではありません。それに、如何にメルエの魔法力といえども、何度も衝撃を受ければ、正気に戻ってしまうでしょう。それまでにこちらの魔物を何とかしないと……」

 

 ロマリア、イシスに設立されていた闘技場や格闘場という場所では、魔物達を戦わせ、その勝者を賭ける事によって娯楽としていた。

 彼等がそれを目にした時、ある者は怒り、ある者は哀しみ、ある者は人間の業の凄まじさに己を見失った。

 魔物という種族は、基本的に同族での争いは起こさない。縄張り等の件で同種族の争いや、食物連鎖の争いはあるだろうが、利権などでの争いを起こす事はない。同じ場所に魔物を集めたとしても、そこに縄張りを作らない限り、争う事はないだろう。

 ならば、何故、闘技場が成り立つのか。

 それは、今、彼女達の瞳に映る光景が、その全てを物語っているのかもしれない。

 

「ルカニ」

 

 呆然とするリーシャの横で、『賢者』の詠唱が響く。大猿の身体を包み込んだサラの魔法力は、その体毛の強固さを削り取って行った。

 その機会を見計らっていたように、<コング>の拳を避けたカミュは、その剣を水平に持ち替え、真っ直ぐ突き出す。体毛という強固な鎧を失ったに等しい大猿の体内に潜り込んだ剣は、その肉体を抉って行った。

 

「グモォォォ」

 

 痛みを吐き出すように上げた雄叫びは、大猿の悲鳴だったのかもしれない。ゆっくりと引き抜かれた剣の後を追うように、<コング>の体液が噴き出した。

 膝が崩れ落ちる時に、最後の力を振り絞って腕をカミュへと振り下ろそうと<コング>が動き出した時、最後の一閃が迸る。呆然自失となっていたリーシャが我に返り、カミュへ攻撃を繰り出そうとする大猿の命を絶ったのだ。

 振り抜かれた<バトルアックス>は、寸分の狂いもなく、<コング>の首へ吸い込まれ、鍛え抜かれた刃は、腕以上に太い首を刈り取った。

 

「あちらも決着が着いたようです」

 

 崩れ落ち、命の灯火を消した<コング>の体躯を見ていたサラは、後方を振り返り、先程まで暴れ狂っていた二体の大猿の内、一体が地に伏して行くのを見て、言葉を洩らす。

 錯乱していた<コング>の拳が、幻に包まれていた大猿の顎に入り、小さな脳を揺らされた大猿は、その巨体を地面へ横たえ、沈黙していたのだ。

 それは、錯乱から覚めないまま、もう一体の大猿を打ち倒してしまった事を示している。<マヌーサ>の影響が消える事無く、打ちのめされた大猿の攻撃は、只の一度も当たる事はなかったのだろう。次なる標的を探し求めるような<コング>の瞳は、未だに正気を取り戻した様子はなく、狂気の色に彩られていた。

 

「あれは、あのままなのか?」

 

「いえ、攻撃する標的を無くすか、何度か衝撃を受ければ、正気に戻ってしまうと思います」

 

 一体の<コング>を葬り去ったカミュは、標的を定め終わったであろう大猿に視線を向け、その状況を作り出した者へ問いかける。

 正直、正気を失った今の姿の方が魔物本来の姿なのか、それとも正気に戻った時の姿が魔物の姿なのかは、カミュ達には解らない。正気に戻ったとはいえ、それは『魔王バラモス』の魔力に当てられ、その影響を大きく受けている姿でもある。

 つまり、本来の暴力性を凶暴性へと変化させた物を、呪文の効力によって更に狂気へと落としてしまっている状態とも考えられるのだ。

 

「来るぞ!」

 

 カミュとサラの会話が続く中、カミュの足下へと移動していたメルエが<雷の杖>を掲げる。そして、リーシャは残った<コング>の動きを見て、戦闘が終了していない事を仲間達に向かって告げた。

 しかし、狂ったような叫び声を上げ、突進して来る魔物に向かって武器を構えたリーシャの動きを、動じる事無く制する者がいた。

 それは、戦闘の非情さを知り、己の力の恐ろしさを学び、そしてその力の使い方を、自らの鏡のような幼い少女から教えられた『賢者』。冷静に周囲を見渡す力を備え始めた人類の光は、前へ出ようとする心優しい女性戦士を退け、一歩前へと踏み出す。

 

「メラミ!」

 

 完全に正気を失っている<コング>は、その身体能力を武器に、突進してくる事しか戦闘方法を選択出来はしない。何も考えていないかのように、カミュ達目掛けて突進して来る大猿に向かって向けられたサラの指先から、大きな火球が飛び出した。

 それは、ここまでの戦闘の中で、幼い『魔法使い』が要所要所で行使し、このパーティーを救って来た呪文。

 魔法力を有する者の進むべき道を決定する、最下級呪文と呼ばれる<メラ>の上位呪文であり、この世界でも数限られた者にしか行使出来ない神秘。いや、正確に言えば、現在のこの世界で、この呪文を唱える事の出来る『魔法使い』は、数える程しか存在しないのかもしれない。

 

「グモォォォ」

 

 脇目も振らず、真っ直ぐに突進して来た<コング>の力の方向は、カミュ達が待つ一点。その一点から放たれた上位火球呪文は、突進してくる力を利用し、何倍もの力へと変化して行った。

 <コング>の上半身を飲み込む程の火球は、正確にその身体を貫き、着弾と同時に、高熱を撒き散らす。生物の体毛が焦げる臭いが充満し、火炎によって呼吸が出来なくなった魔物の声にならない叫びが轟く。

 

「うおぉぉぉ!」

 

 魔物を苦しめて楽しむ趣味を、彼等四人が持っている訳ではない。活動が止まった<コング>へ突進して行ったリーシャが振り抜く斧が、暴れ狂う大猿の足を抉る。噴き出す体液と共に、支えを失った身体が地へと落ちて行った。

 <メラミ>の炎が薄れ、露になった<コング>の顔面は、目を覆いたくなる程の状態になっており、肌は焼け爛れ、爛れた皮膚は崩れ落ち、呼吸も出来ない程の物。

 そして、魔物という強靭な生物の生存本能だけで鼓動している命の灯火は、最後に振るわれた、神代の剣によって吹き消されて行った。

 

「あの一体は、死んではいないのだろう?」

 

「はい。おそらく失神しているだけだと思います」

 

 二体目の<コング>が倒れ、残る一体は<メダパニ>の影響を受けた大猿に打倒されている。打ち倒されて、大の字で平原に倒れている大猿を見たカミュの呟きに、サラは静かに答えた。

 その答えには、追い打ちをかける必要性を否定する響きが込められている。既に戦闘不能になっている魔物の命さえも奪おうとする者は、この四人の中に一人もいない。無言で視線を合わせた四人は、倒れている<コング>を避けるようにして、再び平原を歩き出した。

 

 

 

 その後の平原の道は、魔物の襲来もなく、一行は順調に歩を進めて行く。

 一度太陽が沈み、野営によって一夜を明かした一行は、太陽が昇ると同時に、再び平原の北西に向かって歩み始めた。

 二日目の陽が高く昇り始め、その陽が西の大地へ落ち始めた頃、カミュ達の頬を湿った空気が触れるようになって行く。

 その湿った風は、海から吹かれる潮風のように磯の香りがする訳でもなく、清らかな風をカミュ達の許へ運び、暫くぶりに漂うその香りに、一行は総じて頬を緩めた。

 

「川が近いようですね」

 

「陽も落ちて来た。カミュ、今日中に橋を見つけて渡るか?」

 

「出来るのであれば、渡っておきたい」

 

 手を繋ぐメルエと視線を合わせるように微笑むサラが、澄んだ香りの漂う元に想いを馳せ、その存在を幼い少女と共に確かめ合う。頬笑みを浮かべる二人を横目に、大地に半分ほど隠れてしまった太陽を見たリーシャが、先頭で地図を見ている青年に問いかけた。

 予想通りの返答だったのか、その答えに頷いたリーシャは、再びサラとメルエを促して歩き始める。

 

「カミュ様、向こうの方に橋が見えますよ」

 

 それ程の時間を必要とせず、一行は流れの緩やかな川に出た。

 川幅はとても大きく、その太い通り道を悠然と水が流れて行く。夕陽の光を受けた水は、赤く輝きを放ち、とても幻想的な光景を醸し出していた。

 川辺に降りようとするメルエを必死に抑えていたサラは、頬を膨らませる少女に苦笑しながら、南の方角で夕日に照らされている一本の橋に目を付ける。

 陽が落ち切り、闇が支配を完了するまでの時間は残り少ない。今からその橋まで歩けば、この幅のある川を渡り切る頃には、完全に夜の帳が落ち切ってしまうだろう。

 

「橋を渡った先で野営を行う」

 

「ならば急ごう」

 

 地図から目を離したカミュの決定に頷きを返したリーシャは、傍で草に付いた虫を眺めていたメルエを抱き上げた。

 陽が落ちるまでの時間が限られている以上、幼い少女の足で歩かせる事は難しいと考えたのだろう。カミュの後をサラが続き、いつもよりも歩調を速めた形で、一行は川沿いを南へと下って行く。

 空の半分が黒く染まり、星々と月の輝きが増して行く頃に橋を渡り始めた彼等は、計算通り、月明かりだけが川の水を照らす時分には、対岸の森の入口へと辿り着いた。

 

「メルエ、それは私の果物ですよ!?」

 

「…………メルエの…………」

 

 焚き火を熾し、森で入手した果実を食していた一行であったが、自分の分の果実を食し終えたメルエが、未だに手を付けていないサラの果実に手を伸ばし、口へ入れる。それに気づいたサラが少女を咎めるが、まるで自分が正当だと主張するように、メルエはそれを急いで口に放り込んだ。

 『ぷいっ』と顔を背けてしまうメルエに憤りを口にするサラを見ていたリーシャが笑みを溢す頃、再び一行の前に不穏な空気が広がり始める。変化に気づいたのはいつも通り、幼い少女だった。

 

「メルエ、聞いているのですか!?」

 

 顔を背け、目を合わせる事さえもしない少女の我儘に堪忍袋の緒を切ったサラは、メルエの顔のある方に回り込み、強引に視線を合わせようとしたが、その頬が膨らんでいない事に気が付き、その目線を追うように森へと視線を向ける。

 メルエが眺めている先は、森の中とはいえ、その先には先程渡って来た幅の太い川が流れている。森の入口で野営を行っている一行の耳に、今でもその流れる音は響いており、静まり返った闇の中で、その音だけが聞こえていると言っても過言ではないだろう。

 

「カミュ様、リーシャさん、戦闘の準備を!」

 

 メルエが人の話を聞かずに目線を固定する時に起こる出来事は一つ。

 それは、『人為らざる者』の襲来。

 それを経験則で理解しているサラは、メルエの叱責を後回しにして、前衛となる二人に戦闘準備の指示を出した。

 そこは、二人も心得ている。何の疑問も挟む事無く、即座に武器を構え、メルエが見つめる森へと身構えた。

 

「キシャァァァ」

 

 メルエを立ち上がらせ、自分の後ろへと移動させ終えたサラが、<鉄の槍>を手に取った時、森の中からゆっくりとその影は登場する。

 長い首を伸ばすように一行へ向けたその影は、焚き火の炎によって徐々にその姿を露にし、一行の前に全貌を現した。

 魔物の数は全部で三体。前衛の二人の前に二体と、後方支援組の二人の側面から一体。いずれも同様の姿をした魔物であり、同種の物と考えられた。

 

「龍種か!?」

 

 その魔物の姿、特に首から上は、リーシャが勘ぐってしまう程の姿。龍種と見えるようなその姿は、長い首を持ち、巨大な口の奥には、全てを噛み砕きそうな程の細かな牙が並んでいる。真っ赤な鬣のような物を頭部から首に掛けて蓄えており、今にも噛みつきそうな程に開かれた口の牙を月明かりが照らし出していた。

 だが、リーシャの言葉が断定的でなかったのは、その魔物の首より下がとても龍種の物ではなかったからである。その身体は、前衛の二人よりも大きくはあるが、龍種と呼べる程の巨大さではない。何よりその背には、怪しく光る甲羅のような物が備わっていたのだ。

 

<ガメゴン>

サマンオサ地方では、龍種の劣化種と考えられている。長い年月をかけて、龍種が劣化して行き、亀との亜種が誕生したという説が有力となっており、その寿命も亀と同様に長い生物と云われている。巨大な甲羅を背負い、通常の武器での攻撃は無効とされ、一般の人間では傷一つつける事が叶わない。また、亀の亜種とはいえども、その行動速度は素早く、逃げようとする人間達に回り込み、その退路を塞いでしまうのだ。

 

「メルエ、危ない!」

 

 その異様な様相に気を取られていたサラは、側面から出て来た一体の行動に反応するのが若干遅れてしまった。

 一体の<ガメゴン>の首が、幼い少女目掛けて伸ばされる。サラの反応は間に合わず、前衛の二人は気付くのが遅れた。

 だが、襲いかかる首を避けるように顔を覆ったメルエの左腕には、バハラタで購入した神秘の盾が装着されている。<魔法の盾>と呼ばれるその盾は、幼い少女の体に合わせるように、その形態を変化させていた。

 その盾が、まるで主を庇うようにその形態を変化させたのだ。

 

「バギマ」

 

 乾いた音を立てて弾かれた<ガメゴン>の首は、目標を失ったように動き回っていたが、その首に向かって唱えられた真空呪文によって、首筋を何度も切り刻まれて行く。

 本来であれば、上位の真空呪文といえども、<ガメゴン>は成す術なく受ける事はなかったのかもしれない。だが、この魔物の瞳に映った幼い子供によって、予期せぬ反撃を受け、大きな隙が出来てしまったのだろう。

 

「ギシャァァァ」

 

 巨大な叫びを上げ、首を下げた<ガメゴン>は、その首を甲羅の中へと仕舞い込もうとする。それを許す程、サラという『賢者』は甘くはなかった。

 サラの持つ<鉄の槍>が、甲羅に潜り込む首を追って突き出される。首と一緒に仕舞い込まれる手足の支えを失い、地面に甲羅だけが残される中、突き出した槍の穂先が、甲羅の中の首筋へと吸い込まれて行った。

 再び上げられた叫び声ではあったが、肝心の<鉄の槍>が甲羅から抜けない。何かに引っ掛かってしまったように、抜き出す事が出来ない武器を必死に動かそうと力を込めるが、サラの力だけでは少しも動きはしなかった。

 

「きゃぁぁぁ!」

 

 無理に引き抜こうとしたサラの身体が後方へと吹き飛んだ。

 基本的に、サラの持っている<鉄の槍>は頑丈な武器ではない。何処の国にもある、一般兵士などに支給される、ごく普通の槍なのだ。

 <鉄の槍>という名称は付いているが、実際に鉄の部分は穂先だけであり、柄の部分は木で出来ている事が多い。一般的に、獲物の長さによって、振り回すには相当な訓練が必要な武器でもあり、柄の部分までを鉄製にすると、自在に振り回す事が出来なくなる可能性があるからである。

 力の強い者の中で、槍を好んで使う者は、そのような特注品を作成する事もあるが、一般的に流通している槍製品は、サラの所持しているような物が多いのだ。

 そして、ここまでの数年間の旅で徐々に劣化して行った柄の部分は、無理な力で引いた影響と、<ガメゴン>の顎の力の影響によって、柄の根元から砕けてしまう。サラの手元には、僅かな長さの柄が残るだけだった。

 

「…………ヒャダイン…………」

 

 向ける対象を失ったサラの力は、後方へと反転し、尻餅をつかせてしまう。その隙を見逃さず、再び手足を出した<ガメゴン>は、首を伸ばしてサラへ襲い掛かるのだが、それを幼い『魔法使い』が黙って見過ごす訳はない。

 紡がれた詠唱は、少女の持つ巨大な杖に魔法力を流し込み、氷結の神秘を生み出して行く。一気に下がった気温が、その魔物の最後を示していた。

 吹き抜ける冷気は、伸ばされた<ガメゴン>の首を包み込み、それを甲羅の中に戻す暇を与えず、細胞までを凍りつかせて行く。サラを仕留める為に、口を大きく開いたまま、<ガメゴン>の顔面と首が氷像へと変わって行った。

 

「メルエ、ありがとうございます」

 

「…………ん…………」

 

 凍り付き、活動を停止させた<ガメゴン>の首を砕き、完全に息の根を止めたサラは、危機に適切な対応をしてくれたメルエに謝礼を述べる。

 しかし、満足そうに頷いたメルエが、視線を動かした事によって、まだ戦闘が終了していない事を思い出し、前衛二人が戦闘を行っている現場へと駆け出した。

 

「カミュ、この甲羅は厄介だぞ!」

 

「首を伸ばした所を狙え!」

 

 前衛二人の戦闘は、苦戦を強いられていた。

 呪文が行使できるとはいえ、カミュが行使できる攻撃呪文は、それ程多くはない。

 空に浮かぶ月がくっきりと見えている以上、彼が持つ最強の攻撃呪文の行使も不可能であり、メルエやサラも行使できる灼熱呪文しか行使出来ないのと同義なのだ。

 必然的に剣や斧での物理的な攻撃しか方法が無い。しかし、<ガメゴン>という魔物が背負う甲羅は、彼等の想像以上に強固であり、剣や斧では傷一つ付ける事は出来なかった。

 

「カミュ様、リーシャさん、息を止めて下さい!」

 

「!!」

 

 次の攻撃に備えて武器を握り、真っ直ぐ伸ばされた一体の<ガメゴン>の首目掛けて、それを振るおうとした瞬間、二人の耳に後方からの叫びが届いた。

 考える暇などない。

 瞬時に行動を停止し、息を止めた二人の前から、<ガメゴン>が吐き出した息が噴きかかる。

 息を止めている時間は、激しい行動をしていた二人には限られた物であり、後方へと飛んだ彼等は、待っていた後方支援組と合流する形で息を吸い込んだ。

 

「眠りの息か?」

 

「おそらく、脳神経を狂わせる<甘い息>だと思います」

 

 振り返る事無いカミュの問いかけに、サラは静かに答える。ここまでの魔物との戦闘で着実に積み上げられた経験は、彼等の戦闘の幅を大きくしている事は確実であり、それは、カミュと共に『頭脳』としての働きを見せる『賢者』の視野も広くしていた。

 先程、<甘い息>を吐き出した<ガメゴン>は、忌々しそうに一行を睨みつけ、今にも襲いかかって来そうな素振りを見せてはいたが、残るもう一体は、サラとメルエによって葬り去られた同種を見て、何やら思案するように様子見を貫いている。

 

「カミュ、このままでは埒が明かない。私があの魔物の前面に出よう。私目掛けて伸ばして来る首を、お前が剣で薙いでくれ」

 

「……わかった」

 

 ここまで、かなりの時間を要していた。二人で二体を相手していた為に、隙を作り出す事は出来なかったが、一体が様子見を貫いている以上、一体を二人で相手する事が出来るようになる。それであれば、リーシャの話す行動も可能となるのだ。

 更に言えば、今は後方支援組も合流した。

 万が一、もう一体が動き出したとしても、彼女達であれば、牽制の意味も含め、魔物を足止めしてくれるという信頼も、リーシャの言葉に組み込まれていたのだ。

 それを感じ取ったカミュは、一拍の時間を要してから、静かに頷きを返す。

 

「行くぞ!」

 

 いつもとは異なり、リーシャの掛け声によって駆け出した二人は、それぞれの役割を果たす為に動き出した。

 女性戦士が振り被った斧は、避ける為に一度首を引っ込めた<ガメゴン>の上を通過し、強かに甲羅を叩く。硬い岩に金属をぶつけたような音が響き、弾かれた斧の重みで踏鞴を踏んだリーシャの身体が泳いだ。

 再び、首を出した<ガメゴン>は、態勢を崩したリーシャに襲いかかるが、それこそ、彼等が待ち望んだ瞬間でもあった。

 

「やあぁぁ!」

 

 気合いの声と共に横合いから振り下ろされた剣は、正確に<ガメゴン>の首を切り落とした。

肉を切り裂く音と、一拍遅れて轟く体液が噴き出す音。

 先端の重みを失った首は、蛇のようにのた打ち回り、体内の体液を吐き出した後、地面へと静かに横たわる。沈黙した甲羅を付けた魔物の身体から零れる液体が、月明かりで照らされた地面の色を変えて行った。

 

「残るは一体……」

 

 一体の止めをカミュへ任せ、手の空いていたリーシャは、残る一体の<ガメゴン>に視線を向けて、武器を構え直す。鋭い視線を向けられた魔物は、一度身体を振るわせた後、意を決したようにリーシャへと行動を開始した。

 重い甲羅を背負っているとは思えない速度で迫る<ガメゴン>に、リーシャは意表を突かれる。速度を上げて迫り来る魔物は、リーシャの身体を食い破るように口を大きく開いた。

 

「…………メラミ…………」

 

 しかし、その魔物の行動は、日中に幼い少女が見た光景に酷似していた。

 大猿が突進して来る姿を見ていた少女は、その大猿に対応するために起こした姉のような女性の行動も目にしていたのだ。

 相手が突進して来る速度と力を、逆に利用した攻撃方法。

 それの有効性を理解した彼女は、幼いとはいえ、やはり世界最高の『魔法使い』なのだろう。そして、それを即座に実行に移せるという事も、彼女が世界最強の『魔法使い』である事を示していた。

 

「キシャァァァァ」

 

 人類最強の『魔法使い』が放つ特大の火球を顔面に受けたガメゴンは、巨大な叫び声を上げて突進を急停止させる。如何に劣化した龍種とはいえども、その肌を覆う鱗は龍種の物に近く、火炎や吹雪のような物には耐性を持っている筈なのだが、人類の枠を逸脱し始めた者の放つ火球呪文は、その理屈を捩じ伏せる程の威力を示した。

 それでも、龍種は龍種。

 火球は<ガメゴン>の甲羅に燃え移る事はなく消滅して行く。振り払うように首を振っていた魔物の顔面は焼け爛れてはいるが、<コング>程の被害はなく、その瞳は怒りと憎しみに燃えていた。

 

「メルエ、下がって!」

 

「キシャァァ」

 

 目標を唯一人の少女へと移した<ガメゴン>は、巨大な口を開き、首を伸ばして襲いかかって来る。即座にそれに反応したサラは、メルエの腕を引き、自分の許へと引き寄せた。

 先程までメルエが居た場所で閉じられた<ガメゴン>の口が牙の合わさる乾いた音を立て、サラの背筋に冷たい汗を走らせる。あの場所にそのままメルエがいたのならば、その幼い身体は、無残に食い千切られていただろう。

 メルエ自体が反応できなかったのだから、彼女が着ている<みかわしの服>と同じ素材のアンの服が反応を示す訳がない。メルエのマントの端が破れた事がそれを物語っている。正に間一髪という具合の物であった。

 

「…………むぅ…………」

 

「下がっていろ!」

 

 自分の呪文が思った程の効力を見せず、その敵が自分に襲い掛かって来た事が、幼い少女の誇りを傷つける。頬を膨らませたメルエは、恨みがましい瞳を<ガメゴン>へ向けるが、彼女以外の三人には、先程の攻撃がこの魔物の最後の悪足掻きである事が理解出来ていた。

 既に<ガメゴン>は虫の息であり、メルエへの攻撃が、文字通り最後の灯火だったのだろう。ぐったりと首を横たえる<ガメゴン>に、再度攻撃する余力は残っていない筈だ。人類最強の『魔法使い』の放った中級の火球呪文は、それ程の威力であった。

 

「!!」

 

「リーシャさん!」

 

 頬を膨らませたメルエの前に躍り出たリーシャが、ぐったりとした首に<バトルアックス>を振り下ろすと、<ガメゴン>は生存本能を剝き出しにし、首を甲羅へと仕舞い込んだ。

 二度三度と甲羅に振り下ろした<バトルアックス>が、乾いた音を立てて弾かれる。もう一度振り下ろされた斧が弾かれ、リーシャの身体が泳いだ時、引っ込めていた<ガメゴン>の首が伸び、彼女の目の前で口を開いた。

 それが何の合図なのかを理解したのは、身体を泳がせたリーシャの名を叫んだサラだけではない。傍で隙を見ていたカミュはその首目掛けて剣を持って駆け寄っていたが、瞬時にその呼吸を止める。

 だが、気が付いたもう一人の行動は異なっていた。

 

「…………ヒャダイン…………」

 

 リーシャに向かって伸びた首目掛けて振られた<雷の杖>から神秘が解き放たれる。禍々しいオブジェの瞳が怪しく光り、その嘴から全てを凍らせる程の冷気が放たれた。

 真っ直ぐ<ガメゴン>へ向かって吹き抜ける冷気は、大気中の水分を凍らせ、魔物へ襲い掛かる。成長したメルエによって調整された氷結呪文は、その密度を凝縮させ、先程まで燃え盛っていた焚火の炎さえも凍らせて行った。

 調整したとはいえ、人類最高の『魔法使い』が行使した氷結呪文は、強力過ぎたのだ。

 元来、メルエは火球呪文や灼熱呪文よりも、氷結呪文を得意としている。その威力は凄まじく、最下級の氷結呪文である<ヒャド>でさえ、受けた者の内部を凍らせる程の威力を誇る。それは、正しく脅威以外の何物でもなかった。

 

「なっ!?」

 

「ちっ」

 

 一体目の<ガメゴン>を倒した時には、攻撃対象である魔物と、保護対象であるサラとの距離が離れていた。

 だが、今は、メルエと魔物の延長線上から少し外れた場所にリーシャがいる。それは、メルエの強大な魔法力の餌食になる程の距離だったのだ。

 ランシールの時にカミュを襲ったベギラマと異なる点は、メルエがしっかりとその事を認識し、意識的に呪文の力を調節しているという点。彼女の成長が、他の三人が考えている以上の幅を持っていたという点。そして、何よりも、巻き込まれそうになっている女性戦士に魔法力が無いという点の三点だった。

 メルエが意識を持って呪文を行使しているのが、何よりも彼女の成長なのだが、そんな心の成長は、皮肉にも幼い少女の魔法力という最大の武器も成長させていたのだ。

 更に大きくなって行く彼女の魔法力は、自身が考えていた以上の効力を生み出し、護りたいと考えていた者までも巻き込む事になる。

 

「べ、ベギラマ!」

 

 だが、そんな悲劇を、この『賢者』が容認する訳はない。誰よりも自分自身の力が生み出す脅威を考え、誰よりもその恐ろしさを知る彼女は、その事を認識し始めている少女の心を傷つける訳にはいかないのだ。

 大地に氷の柱を作り上げる程の威力を誇る<ヒャダイン>の風に向かって上げられた掌から、木々を焼く程の熱風が吹き荒れる。冷気が通った道の横からその流出を防ぐように熱の道を作り上げ、冷気を相殺して行った。

 

「カミュ様、リーシャさんを早く!」

 

 熱風は、確かに冷気を相殺している筈だった。

 だが、サラは声を張り上げ、息を止めていたカミュへ指示を出す。

 サラは知っているのだ。

 自身の魔法力が生み出す神秘では、メルエという最高の『魔法使い』が生み出す神秘に対抗する事が出来ないという事を。

 メルエが行使した<ヒャダイン>という氷結呪文に比べ、サラの行使した<ベギラマ>という灼熱呪文が見劣りするという部分を差し引いたとしても、その威力には雲泥の差があった。

 灼熱系には三段階の階級が存在する。既にメルエが契約を済ませ、行使もしている<ギラ>、<ベギラマ>、<ベギラゴン>の三種。

 それに対し、氷結系の呪文は、今の段階で既に三階級が存在していた。メルエが得意とする<ヒャド>、<ヒャダルコ>、<ヒャダイン>の三種である。だが、未だに『悟りの書』に浮かび上がってはいないが、サラはその上の呪文の存在を予測していた。

 つまり、氷結呪文は四段階の四種。

 

「くっ!」

 

「ベギラマ」

 

 サラの予想通り、<ヒャダイン>の冷気は、彼女の発した<ベギラマ>の炎を飲み込んで行く。燃え広がる前に炎ごと凍結させるように蒸発を繰り返し、最後には炎を消し切ってしまう。

 それでも弱まりを見せる冷気は、リーシャの身体全体を凍らせる事はなく、<魔法の盾>を持つ左腕の一部に氷を付着させるのみだった。

 不測の事態に備え、念を押してカミュが<ベギラマ>を唱える。冷気を遮断するように作られた炎の壁は、リーシャの腕に付着した氷を溶かして行く。

 

「いやぁぁぁ!」

 

 自分の横で小さくなるメルエを見て、思考を巡らせていたサラであったが、リーシャの雄叫びに顔を上げた。<ベギラマ>の炎が収まりを見せると同時に、炎の壁を割って、リーシャが飛び出したのだ。

 <バトルアックス>を両手で振り上げ、体重を乗せて振り下ろされた斧は、冷気によって身動きが出来なくなった<ガメゴン>を甲羅ごと叩き割る。先程まで、固い甲羅に弾かれていた斧ではあったが、度重なる衝撃に耐えかねた甲羅が悲鳴を上げていたのだ。

 小さく入っていた亀裂は、渾身の一撃を受け、砕け散る。

 陶器が割れるような、派手な音を立てて砕け散った甲羅を抜け、<バトルアックス>が突き刺さる。護る防具を失った<ガメゴン>は、凍りついて行くその体内に金属製の刃を受け、断末魔の叫びを上げる間もなく絶命した。

 

「ふぅ……メルエ、大丈夫か!?」

 

 斧を抜き取り、一息吐いたリーシャは、即座に、最愛の妹の心を案じて視線を移す。振り返った先で、幼い少女の肩を抱く様に立つサラの姿を見たリーシャは、彼女が強く頷きを返すのを見て、その後の事を全て彼女に任せる事にした。

 サラが立ち位置を変え、回り込むようにメルエと視線を合わせようとするが、幼い少女は哀しそうに眉を下げ、顔を俯かせている。恐怖を感じていたのかもしれないと考えたリーシャは、カミュを誘って、メルエの許へ急いだ。

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

 しかし、心配して近寄った二人の考えは、的を外していた。

 全員が揃った事に気が付いたメルエは、小さな声で謝罪を口にしたのだ。

 眉を下げ、瞳に涙を溜めたメルエが、小さく頭を下げる。その姿を見たカミュは眉を顰め、リーシャは驚きに顔を硬直させてしまった。

 だが、そんな二人とは異なり、先程メルエの心を救う為に奔走した『賢者』は、優しい笑みを浮かべてメルエを見つめる。慈愛と誇りを湛えるその笑みは、幼い少女の心に生まれた罪悪感を霧散させて行った。

 

「何を謝る必要がありますか? 誰もメルエを責める人間などいません。あの時、あの場所で、メルエは的確な呪文を行使したのです。今回は、メルエの心の成長の度合いを把握し切れていなかった私の責任です」

 

「…………サラ…………」

 

 柔らかな笑みを向けて、自分の正当性を唱えるサラを見て、メルエは瞳に溜まっていた涙を溢す。

 メルエなりに、ここまでの旅で何度も考えて来たのだろう。

 『自分の力は、大切な者達を護る力』

 『その力の脅威を理解し、行使する場面を考える』

 サラから学んだ一つ一つの事柄を考え、どのようにすれば良いのかを、この幼い少女は、一生懸命考えていたのだ。

 だが、そんな考え抜いた結果は、自分の唱えた呪文によって大好きな者達を危険に晒してしまう事だった。その事実が、幼い心を蝕んでいたのだろう。

 そんな迷いは、考える事を教えてくれた大好きな者であり、先程の危機を救ってくれた大好きな者によって晴らされる。

 

「今回で、メルエの魔法力が以前よりも更に強まった事を知りました。メルエもそれが解ったでしょう? 今度は大丈夫です」

 

「…………ん…………」

 

 視線を合わせ、ゆっくりと語るサラの声が、メルエの心に沁み込んで行く。

 最後に同意を求めるように向けられた瞳を見た少女は、小さな笑みを浮かべ、しっかりと頷きを返した。

 彼等は、既に押しも押されぬ『勇者一行』へと変貌しているのだ。

 アリアハンを出た頃は、国命を受けたカミュという存在がありはしたが、『魔王討伐』を志す者達というだけの存在だった。それは、少し以前に溢れていた自称『勇者一行』と何も変わる事はなかったのだ。

 だが、彼等は様々な出来事に遭遇し、それを乗り越える事によって、成長し続けて来ている。その成長の度合いは、『人』としての枠を逸脱する程の物であり、これから先の成長の結果を予測する事は、『人』としての常識を持つ者達には困難であった。

 それでも、サラはメルエに『次は大丈夫』という魔法の言葉を伝えた。

 それは大きな自信が見えると同時に、大きな覚悟をも示している。

 サラは、メルエに『大丈夫』と伝えたその瞬間から、それを『大丈夫』にしなければならない責任を負うのだ。それを彼女も理解しているし、それを実行する事こそが彼女の誇りであり、自信でもあった。

 

「そうだな……私は、サラの事も、メルエの事も信じているぞ。メルエなら、絶対に大丈夫だ!」

 

「…………ん…………」

 

 大きく頷く少女の姿を見たリーシャは、満足そうな笑みを浮かべる。

 予期せぬ魔物との戦闘を終え、予想以上に更けてしまった夜を感じた一行は、野営地を移動した後、すぐに眠りに就く事となった。

 

 

 

 彼等にとって未開の地であるサマンオサという地には、彼等が遭遇した事もない強力な魔物が生息している。

 魔王の力の影響を強く受けているのか、それともこの地が魔物に力を与えているのかは解らない。魔物達の力が昔から強かったのか、ごく最近に強まったのかも解らない。

 もし、この地に生息する魔物が、昔から強力な物だとすれば、この地で英雄と謳われた者の力は、『勇者』と称するに値する物なのだろう。

 それ程の者を輩出した国家が、何故国交を閉じたのか。

 その国家は、何故それ程の者を追放したのか。

 深まる謎を解く鍵となる城は、目の前まで迫って来ている。

 新たなる『勇者』を迎える国家が、どのような反応を示すのか。

 それを知る者は、まだ誰もいない。

 

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございました。

次話こそ、必ずサマンオサ城内に移ります。
城まで行くかな……町で終わらないように頑張ります。
なかなか辿り着かない物語ですが、気を長くお読み頂ければ嬉しいです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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