新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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サマンオサ城⑤

 

 

 

 振り抜かれた斧は、<ボストロール>の振り回す棍棒に弾かれ、その身体を泳がせる。間髪入れずに巨大な拳が唸りを上げ、身を泳がせたリーシャ目掛けて叩き込まれた。

 その拳を受け止めたのは、二重の魔法力を纏わせた<ドラゴンシールド>。

 横合いから出て来たカミュがその拳を防ぎ、吹き飛ばされる。

 スクルトと呼ばれる防御力上昇の魔法を活用して尚、その怪力は脅威に値する程の暴力であった。

 

「グォォォォ!」

 

 そして、再びカミュ達が纏う魔法力の効果が打ち消されて行く。

 戦闘が仕切り直されてから、即座に行使されたサラとメルエのスクルトは、その反対呪文でもあるルカナンによって、搔き消されてしまった。

 いや、正確に言えば、その身に纏う魔法力を打ち消し、更には防具を脆くさせているのかもしれない。その形状が壊れていなければ、時間と共に元に戻って行く物ではあるが、スクルトの効果が無い以上、<ボストロール>の攻撃を受けてしまえば、防具自体が破損してしまう可能性が高かった。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………スクルト…………」

 

 もはや何度目になるか解らないスクルトの詠唱が響き、カミュ達の身体を魔法力が覆って行く。

 忌々しそうに顔を歪めた<ボストロール>は棍棒を振り上げ、足下で動き回る前衛の二人を払うように振り回した。

 自身の目の前を凄まじい風切り音を発して通り過ぎる棍棒を見ても、カミュ達には冷や汗を掻く暇すら与えられない。繰り出される攻撃の回数と速度は、今まで対峙して来た魔物達の中でも上位に入るそれは、彼等の間の会話すら奪い、視線での合図のみでの攻防を余儀無くされていた。

 

「マホトーン!」

 

 スクルトと同様、複数回行使している呪文が唱えられる。

 掌を<ボストロール>へと向けたサラは、自身の魔法力をその魔物の体内へと打ち込んで行くのだが、それが効果を示しているような気配はなかった。

 感触的にそれを理解したであろうサラが悔しそうに顔を歪める。そんなサラの表情を見たメルエが、不安気に眉を下げた。

 

「サラ、その魔法は効かないのではないか?」

 

「いえ、効き難いだけであって、効果が期待出来ない訳ではありません」

 

 <ボストロール>の攻撃を搔い潜って後方に戻って来たリーシャの問いかけに、サラは揺るがない強い口調で答えを返す。

 呪文が効き難い体質という物は存在する。だが、それの多くは、対象が持つ知能に影響される部分が大きい。故に、知能が決して高くはない筈である<ボストロール>には、必ず呪文が効力を発揮するとサラは考えていた。

 世界で唯一の『賢者』であるサラが唱える呪文が効果を示さないという事実が、この<ボストロール>という魔物が只者ではない事を証明しているのだが、それでも尚、サラは自身の考えに確信を持っていたのだ。

 

「ここまで怒りを表に出していれば、ラリホー等は効かないでしょうが、マホトーンならば、逆に効果的な状況だと思います」

 

「なるほどな……ならば、更に苛立たせれば良いのだな?」

 

 サラの言葉を聞いたリーシャは、棍棒の直撃を避け続けているカミュに苛立ちを隠さない<ボストロール>へ視線を移し、その言葉の意図する内容を正確に汲み取って行く。

 リーシャの言葉は、余裕のある人間の言葉のように聞こえはするが、実際には、彼女にもカミュにも余裕がある訳ではない。

 スクルトの加護があるとはいえ、直撃を受ければ瀕死に追い込まれる程の威力を持つ棍棒の脅威は、常に自身の身を脅かし続ける。逆に、カミュ達が振るう剣などは、その巨体に致命傷を与える事は出来ていない。

 だが、その細かな傷が、<ボストロール>という強敵を苛立たせているのだった。

 

「お願いします」

 

「任せろ!」

 

 自身の意図を理解してもらえたと感じたサラは、リーシャへと頭を下げる。それを受け取った女性戦士は、再度<バトルアックス>を大きく振るい、頼もしい笑みを浮かべて前線へと戻って行った。

 サラは『賢者』であるが、『戦士』ではない。

 その手に<ゾンビキラー>という強力な武器を持ってはいるが、その武器で<ボストロール>と対峙出来る程の技量もない。

 中途半端な立ち位置に居る自分の身に対して、歯痒い思いを抱きながらも、彼女は彼女に出来る事を考え、行動していたのだ。

 

「メルエ、大丈夫。不安になる必要など微塵もありません。私達には、私達の出来る事がある筈ですよ」

 

「…………ん………メラミ…………」

 

 前線に駆けて行くリーシャの背中を見つめていたサラは、隣で不安そうに眉を下げていたメルエへと魔法の言葉を投げかける。

 この言葉を発した以上、サラには大きな責任が圧し掛かった。

 メルエに対してだけは、彼女は自身の発言に絶対の責任を負う事となる。

 それが彼女の自信の源である以上、彼女は何があろうと『大丈夫』という状況を作り出さなければならない。

 だが、それは彼女一人では成し得ない事。

 そして、それを件の少女も心得ているのだ。

 

「いやぁぁ!」

 

 メルエが唱えた火球呪文が、カミュを追うように振り上げた<ボストロール>の右腕に直撃する。振り上げる力を増長させるように押し込んだ火球は、そのまま<ボストロール>の上体を後方へと泳がせた。

 その隙を見逃さず、カミュは己の剣を真っ直ぐ突き出す。

 突き出された<草薙剣>は<ボストロール>の太腿部分に突き刺さり、苦悶の叫びを上げた<ボストロール>の顔は、苦痛と怒りの色に彩られて行く。

 怒りに支配された<ボストロール>は、棍棒を持つ手をは逆の腕を、まるで虫を追うように振り抜いた。

 

「グギャァァ」

 

 しかし、その腕は対象であるカミュへ届く事無く、横から合わせられた斧によって、深く斬り込まれる。深々と抉った斧によって、<ボストロール>の緑色をした皮膚は切り裂かれ、人外の色をした体液が噴き出した。

 凄まじい叫び声を上げた<ボストロール>の怒りは頂点に達する。その瞳は燃えるように赤く染まり、興奮し過ぎた口元からは大量の涎が零れ落ちて行った。

 それこそ、このパーティーの頭脳であり、この世界で唯一の『賢者』が待ち望んでいた時間。

 メルエを庇うように前へ出たサラは、自身の中に流れる魔法力をその神秘へと変換する為、右掌を前へと突き出した。

 

「マホトーン!」

 

 声を張り上げて叫ばれた詠唱は、言霊となって<ボストロール>を包み込む。

 怒りによって冷静さを失った<ボストロール>の体内へと入ったサラの魔法力は、その魔物が生来持ち得る魔法力の流れを乱して行った。

 サラの発した声量と、目の前で怒り狂う<ボストロール>の姿が、その呪文の成功を物語っており、カミュとリーシャは、戦闘中にも拘わらず、一瞬の間だけ力を抜いてしまう。

 それは、『人』として仕方のない事なのかもしれない。

 だが、魔王からその力を認められる程の存在を前にしてという前提であれば、愚行以外の何物でもなかった。

 

「虫けらが! 死ね!」

 

 気を緩めたつもりはなかっただろう。

 だが、それでもカミュの身体から、本当に僅かな時間ではあるが、力が抜けていた。

 その本当に僅かな隙間を縫うように、<ボストロール>の持つ棍棒が滑り込む。

 罵声と共に振り抜かれた棍棒は、カミュの左側面に吸い込まれ、その身体を吹き飛ばして行った。

 カミュという人間の残像が残る程の速度で振り抜かれた棍棒の威力は、想像に難しくはない。吹き飛ばされた身体は、バルコニーの壁を破壊し、城の外へと投げ出されてしまった。

 

「メ、メルエ!」

 

「…………スカラ…………」

 

 何が起こったのか理解出来ない程の状況の中、最も早く立ち直ったのは、やはりこのパーティーの頭脳であった。

 傍で呆然とする幼い『魔法使い』へと指示を出し、その身を護る魔法力を放出させる。

 今のサラの魔法力では、あの衝撃を殺す事は出来ないという事に、サラ自身が気付いているのだろう。

 外へと投げ出されたカミュを追うように、バルコニーの端へと掛けるサラの後をメルエも追って行く。破壊された壁の部分から階下を見ると、落下したカミュが身動き一つせずに倒れている姿が映った。

 それは、命の危険さえある程の重傷を示唆している。

 

「リーシャさん、私は下へ降ります! メルエと共に下へ飛び下りて下さい!」

 

「な、なに!?」

 

 サラ達の慌てぶりを楽しむかのように、醜い笑いを浮かべる<ボストロール>から視線を外す事無くサラの指示を聞いたリーシャは、驚きに目を見開いた。だが、そんなリーシャの返答を待たずに、自身にスカラを唱えたサラは、バルコニーから城下の庭園へと飛び下りてしまう。残されたメルエは、不安そうに眉を下げて下の階を見つめていた。

 二階部分のバルコニーである。人間が飛び降りて無事に済む高さではない。それでも、世界で唯一の『賢者』の魔法力がその衝撃を緩和させ、サラの身体は無事に庭へと着地した。

 

「メルエ、呪文の詠唱は頼んだぞ!」

 

 遅れて駆けて来たリーシャが、その幼い身体を片手で抱き上げ、バルコニーから外へと飛び込んで行く。突如感じた浮遊感に驚きながらも、世界最高位に立つ『魔法使い』は、即座に二度の詠唱を完成させた。

 魔法力によって護られたリーシャの足は、しっかりと大地を踏み締め、次の行動へ移る為に駆け出して行く。下されたメルエは、倒れ伏すカミュに向かって回復呪文を唱え続けるサラの許へと駆け出して行った。

 

「ベホイミ!」

 

 この場所へ降りて来てから三度目になる回復呪文を唱えたサラの腕から発した淡い緑色の光は、カミュの身体を包み込み、その傷を癒して行く。しかし、サラは傷が癒えて行くその身体を覆っている物に目を留め、厳しく眉を顰めた。

 カミュの身体を護っている筈の<魔法の鎧>は、先日の<骸骨剣士>との戦闘によって小さな穴が幾つも空いていたのだが、<ボストロール>の一撃を受けて、その穴を始点として、かなり大きな罅が入っていたのだ。

 それは、既に鎧という機能を著しく損なっている証拠であり、これから続くであろう、強敵との戦闘に耐え得るだけの防御力をも失っているに等しい形状であった。

 

「…………カミュ…………」

 

「サラ、カミュは無事なのか!?」

 

 近寄って来たメルエの眉は下がりきり、心配そうにカミュを見つめている。上のバルコニーから視線を外さずに発したリーシャの問いかけにも答えようとしないサラの様子に、メルエの表情は更に曇って行った。

 鎧に罅が入る程の一撃は、確実にカミュの身体の内部をも傷つけている筈。その証拠に、腫れが引き始めているカミュの口端から大量の血液が吐き出されていた。

 外傷が癒えても、内部の傷が癒えなければ、『人』は動く事が出来ない。いや、それは『人』に限った事ではないだろう。『エルフ』だろうが、『魔物』だろうが、身体の内部が傷付いていれば、命の灯火は容易く消え失せてしまうのだ。

 そして、それは、カミュをこのような姿にした魔物であろうと例外ではない。

 

「ぐへへへ」

 

 おぞましい程に醜悪な笑みを浮かべ、リーシャの倍もある巨体が、上のバルコニーから飛び降りて来る。

 その巨体が落ちて来るのであれば、落下地点に居れば踏み潰されてしまう事は確定事項である。

 そして、その落下想定地点には、未だに意識の戻らない『勇者』と、それを治療する『賢者』、そして眉を下げたまま、不安そうに胸の前で杖を握る幼い『魔法使い』が固まっていた。

 少し離れた場所で<ボストロール>を警戒していたリーシャは、自分の迂闊さを悔やみながらも、必死に対処策を考えようと知恵を絞る。しかし、そのような時間の猶予は、僅かも残されていなかった。

 そして、誰もが絶望の淵に落ちてしまうその時、小さな呟きが夜の城下に木霊する。

 

「…………イオラ…………」

 

 誰がそれを予想出来ただろう。

 誰がそれを確信出来ただろう。

 絶望に顔を歪めるリーシャも、唱える回復呪文を停止させてしまう程に恐怖したサラも、そして、勝利を確信したような下衆な笑みを浮かべた<ボストロール>でさえも、その幼い少女が動くとは思ってもみなかった。

 上から落下して来る巨体の方へ視線を向ける事もなく、世界最高位に立つ『魔法使い』は、己の背丈よりも大きな杖を振ったのだ。

 それは、まるで木の葉を払うかのように。

 五月蠅い虫を手で払うかのように。

 

「ぐぉぉぉぉ」

 

 凄まじいまでの爆発音が、闇に包まれた城下に轟く。同時に、瞬時に昼へ戻ってしまったかのような光が、城下にある庭を輝かせた。

 重力に従って落下して来た<ボストロール>の巨体は、突如現れた圧縮された空気の解放によって、真横へと吹き飛ばされたのだ。

 サマンオサという軍事国家が誇る城壁に叩き付けられた巨体が、その城壁の石壁を破壊して行く。砂埃と、爆発による煙に巻かれた巨体は、完全に横たわり、その場で沈黙する。

 その呪文は、<ヤマタノオロチ>と呼ばれる、太古から生きる生物の首をも消し飛ばす程の威力を秘めた魔法を生み出す。

 圧縮した空気を瞬時に開放し、その力を持って全てを爆発させる呪文。

 『人』が持つ『魔道書』と呼ばれる書物に記載された、人類最高の破壊力を持つ呪文であった。

 

「メ、メルエ……」

 

 回復呪文を停止させてしまう程の衝撃を受けていたサラは、悠然と立ち上がる幼い少女の背中に、何か得体も知れない恐怖を感じていた。

 まるで、手の届かない場所に行ってしまうように遠くなるその背中に手を伸ばそうと、その身を動かしかけた時、再び時は動き出す。

 

「許さぬぞぉぉぉぉ!」

 

 凄まじい声量で叫ばれた人語は、闇に包まれた空気をも震えさせる程の物。通常の人間であれば、それに恐怖を感じ、足も身も竦んでしまうであろう。

 だが、この<ボストロール>という愚かな魔族が相手をしているのは、この世界で生きる『人』という種族の中でも飛び抜けた力を持つ四人であり、今、この魔族の怒りを再燃させた者は、その中でも更に異端と言っても過言ではない少女。

 

「…………イオラ…………」

 

 舞い上がる砂埃が地へと落ち、<ボストロール>の身体が月明かりに映ると同時に、再び呟くような詠唱が轟く。

 人類最高位の爆発呪文を受けて尚、その五体が満足に動く<ボストロール>という魔族は、あの時の<ヤマタノオロチ>よりも耐久力は強いのかもしれない。

 それでも、その身体は無傷ではなかった。

 緑色の皮膚は焼け爛れ、体液が滲むように腫れ上がった顔面は、先程以上にこの魔族の醜さを際立たせている。

 その<ボストロール>の目の前で、再び空気が圧縮されて行く。

 解放されるその時を待つかのように、その度合いを高めて行く空気は、対象の顔面の前で今まさに弾けようとしていた。

 

「があぁぁぁ!」

 

 しかし、その圧縮された空気は、開放するよりも先に振り抜かれた棍棒によって霧散して行く。

 怒りによって吊り上がった<ボストロール>の瞳は、目の前に立つ、自分の膝ほどしかない少女へと注がれた。

 圧倒的な怪力によって、自身の放った魔法が理不尽に消されてしまったにも拘わらず、その少女もまた、怒りに燃えた瞳を向け、<ボストロール>を見上げている。それは、更に<ボストロール>の怒りを増長させた。

 見下し、蔑んでいる『人』という種族の中でも、更にひ弱な幼子によって傷つけられたという事実を、<ボストロール>は素直に受け入れる事が出来ない。視界が赤に変わってしまう程の怒りに任せ、振り上げた棍棒をその少女へと振り下ろした。

 

「…………イオラ…………」

 

 しかし、それは、再び唱えられた呟きによって妨げられる。

 瞬時に圧縮された空気は、<ボストロール>が振り下ろそうとした棍棒を対象として弾け飛んだ。

 凄まじいまでの爆発音が轟き、<ボストロール>の持つ棍棒が後方へと弾き返される。

 込めた力が反対方向へ振られた事で、メルエの三倍もあろうかという巨体もまた、後方へと弾かれた。そのまま<ボストロール>は、地面を揺らす程の振動を立てて、後方に尻餅を着いてしまう。

 

「メ、メルエ……」

 

 呆気に取られたような表情を浮かべたのは、何も<ボストロール>だけではない。後方でその戦闘を見ていたリーシャも、回復呪文を再開していたサラも、その幼い妹のような少女の姿に目を丸くしていた。

 先程まで不安そうに眉を下げていた筈の少女は、静かな怒りをその身に宿し、自分よりも強大な敵に向かって揺らぐ事無く立っている。

 それがどれ程の事なのかを理解出来るのは、この場に二人しかいないだろう。

 

「ぐぉぉぉぉ!」

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 物思いに二人が更ける中、戦闘は続く。

 怒りに狂う<ボストロール>が叫び声を上げて立ち上がったと同時に、再び<雷の杖>を掲げた幼い『魔法使い』が呟くような詠唱を完成させた。

 杖の先から迸る熱気が、夜の闇を斬り裂き、昼のような明るさを運んで来る。真っ赤に燃え上った炎は、<ボストロール>の巨体を飲み込み、城壁周辺を全て炎の海へと変えて行った。

 劈く様な叫び声が響き、その魔物の叫びを聞いていたリーシャとサラは、『人』としての本能の為に身体を硬直させる。歴戦の勇士達でさえも、そのような状況へと落とされる程の光景だった。

 全ての時が止まってしまったかのように静けさが戻る中、月の光と、燃え盛る炎だけがサマンオサ城を照らし出す。

 その場で動ける者など、誰一人としている筈もなかった。

 

「があぁぁぁぁ!」

 

 静けさが広がる城下に轟いた怒声。

 それは、一行の前で広がる炎の海を斬り裂く様に現れ、視認出来ぬ程の速度でその手に持つ凶器を振り抜いた。

 誰一人動けはしない。

 呆然と炎の海を見つめるリーシャも、その横で幼い少女を畏怖の瞳で見つめていたサラも、そして呪文を行使した先を見つめていた当のメルエも。

 無情な程の暴力は、炎を生み出した幼子へと真っ直ぐ向かって来る。絶望も感じる暇さえもない速度で迫る棍棒は、幼子の小さな身体が弾け飛ぶ未来を作り出すだろう。

 誰も動く事の出来ない、この闇の世界では。

 

「ぐぼっ」

 

 しかし、彼等を見護る『精霊ルビス』という精霊は、そのような未来を運んで来る事はなかった。

 呆然と見ていたメルエの身体は遠く彼方へ叩き出され、<ボストロール>の振るった凶器は、代わりの物体を再び殴り飛ばしたのだ。

 この場で動けた者。

 いや、正確に言えば、動ける筈の無い者が動いた。

 それは、『精霊ルビス』の加護を最も受けし者。

 世界の加護を受け、世界で生きる者達の救世主となるべく為に生きる者。

 

「カミュ様!」

 

 殴り飛ばされた青年は、地面を数度跳ねた後、再び動かなくなる。先程、回復呪文を途中でサラが止めてしまった為、彼は全快してはいなかった。

 回復し切れていないカミュが、動ける事自体が異常なのだが、その彼が再び<ボストロール>の圧倒的な暴力を受けたという事が、一行の頭の中に『勇者の死』という事態を連想させてしまう。

 彼女達は、この世界で生きる誰よりも、この捻くれた青年を『勇者』であると信じている。

 サマンオサという大国に新たに誕生した英雄である、サイモンの息子であろうと、『勇者』という括りでは括る事など出来はしない。

 彼女達にとって、『勇者』と名乗る事が出来る者は、カミュ唯一人なのだ。

 

「ぐおぉぉぉ!」

 

 勝ち誇るように雄叫びを上げた<ボストロール>ではあるが、その外見に余裕など微塵もない。

 天へと掲げられた手に持つ棍棒は所々が欠け、体中の皮膚は火傷で覆われている。顔面は皮膚が焼け爛れ、皮膚の奥にある肉が溶けかけており、だらしなく垂れ下った舌からは、止め処なく涎が零れ落ちていた。

 その身体を見れば、<ボストロール>自体が満身創痍である事が解る。メルエという稀代の『魔法使い』が放つ爆発呪文を受け、更には灼熱系の最高位呪文である<ベギラゴン>の炎に飲まれたのだ。実際に考えれば、今も尚、活動を止めていない事自体が信じられない物であった。

 

「…………カミュ…………」

 

 サラに遅れてカミュの許へと辿り着いたメルエの表情は、先程までとは異なり、眉を下げて不安そうな物。サラが畏怖を感じたような厳しさは欠片もなく、絶対の守護者である青年の身を案じる幼い少女そのものであった。

 再び身動き一つしない青年へと視線を落したサラは、その姿に息を飲む。

 彼の身体を護っていた<魔法の鎧>は、もはや鎧としての機能を果たす事はないだろう。『人』として、決して細くはない腕はあらぬ方向へ曲がり、支えている筈の骨が折れている事を示している。左半身は、『人』の物であると思えない程に腫れ上がり、内部からの出血が酷いのか、紫色に変色していた。

 それでも、その胸は僅かに上下している。

 それは、彼が生きようとしている証。

 その微かな鼓動を感じたサラは、瞳に強い光を点した。

 

「心配はいりません。カミュ様は必ず戻ります。メルエ、貴女にはまだやる事がある筈ですよ」

 

「メルエ! 私にスカラと、バイキルトを!」

 

 不安そうに見つめるメルエに厳しい言葉を投げかけたサラの声を追うように、メルエの後方から一番上の姉の声が轟く。

 三人を護るように、<ボストロール>の前に立ち塞がる戦士の背中は、とても大きく見える。それこそ、メルエの瞳には、<ボストロール>の巨体をも凌駕する程の大きさと、全てを包み込む安心感を備えているようにさえ見えていた。

 下げていた眉を上げ、再び<雷の杖>を手にしたメルエは、指示された二つの呪文を唱える。

 

「サラ、その馬鹿を頼んだぞ」

 

 身を挺してでも幼い少女を護り通した者に対しての言葉としては、余りにも辛辣な言葉をリーシャは呟いた。

 だが、リーシャは許せなかったのだ。

 何時でも自分の身を一番下に置く、この青年の考えを。

 そして、その行動を目の前で見ておきながら、何も出来なかった自分自身を。

 それは身勝手な怒りでありながらも、その身を焦がす程の怒り。

 静かに佇むその背中が、先程のメルエ以上の畏怖を覚える程に、静かな怒りを表している。

 

「はい。全力を尽くします」

 

「メルエ、援護を頼むぞ」

 

「…………ん…………」

 

 これこそが、『勇者一行』と呼ばれる所以なのかもしれない。

 『人』という種族は、弱く脆い。それは、何も体格的な問題でも、身体能力的な問題でもない。『人』という種族が、多種族よりも最も脆いと考えられる部分は、その『心』の在り方。

 一人一人の力は弱く、群れを成さなければ生活は出来ない。集団でなければ、外敵にも対抗出来ず、逆に言えば、群れを成せば何処までも残虐になれる程に、心が弱いのだ。

 そんな『人』の弱さを、彼等は何度も見て来た。

 だが、その中にも時折見せる『人』の強さがある。

 その『人』としての強さは、常に持っている事など出来ない物であり、それは歴戦の勇士達でも同様であった。

 気弱になる時もあるだろう。恐怖に身を竦ませる時もあるだろう。絶望の淵に立たされ、未来への希望を失う時もあるだろう。

 それでも、彼等は前へと歩み続ける。

 仲間を信じ、仲間から信頼されている自分自身を信じ、己を鼓舞し、仲間を奮い立たせるのだ。

 それこそ、『勇者』の証。

 『英雄』とは、誰しもが認める強者。

 『勇者』とは、誰も知りえない強者。

 

「ぐおぉぉぉ!」

 

 もはや、先程まで口にしていた人語を発する程の余裕はないのだろう。魔物特有の雄叫びのような叫び声を上げた<ボストロール>は、狂ったように、その手にある棍棒を振り回す。

 その一撃を受ければ、後方で意識を失っている青年のように、身体の骨さえも砕けてしまうだろう。

 だが、目の前の空気さえも切り裂くような攻撃を目の当たりにしても、<バトルアックス>を担いだリーシャは、身動き一つしない。

 彼女には、恐れる理由が無いのだ。

 

「…………ボミオス…………」

 

 彼女には、彼女が持ち得ない魔法力を持つ仲間がいる。

 彼女が持ち得ない知恵と、彼女では辿り着けない思考を持つ仲間がいる。

 彼女はただ、己の出来る事をやるだけなのだ。

 

「いやぁぁぁ!」

 

 メルエの放ったボミオスによって、その動きが緩慢になった<ボストロール>の一撃を搔い潜ったリーシャは、その手に持つ斧を真横へ一閃する。

 月明かりを受けて輝く刃先は、<ボストロール>の腰元を抉り、深々と斬り裂いた。

 噴き出す体液と、轟く悲鳴。

 地震のような地鳴りと共に、<ボストロール>の巨体が片膝を地面へ落とす。それでも尚、棍棒を持たない腕を振る事で、リーシャを弾き飛ばそうと試みるが、その隙を与える程、勇者一行の『魔法使い』は甘くはない。

 

「…………イオラ…………」

 

 凄まじい爆発音が轟き、<ボストロール>の左腕が弾かれる。爆発の衝撃を逃がす程の思考は、この魔族には既になく、まともに爆発を受けた左腕の肉が弾け飛んだ。

 爆煙が消えた頃に見えた<ボストロール>の左二の腕は、肉が削げ落ち、骨が見えている。もはや、先程までのような素早い動きを、この腕が行える事はないだろう。それ程の凄まじい怪我を負いながら尚、空気が震える程の雄叫びを上げ、棍棒を持つ手を振るう<ボストロール>は、魔王から声を掛けられるだけの存在だという事を示していた。

 

「おりゃぁぁ!」

 

 片膝を着き、左腕さえも損傷した<ボストロール>に向かって、リーシャがその斧を振り下ろす。斧は、垂れ下った左腕に突き刺さり、その肘よりも先を斬り落した。

 重量感のある音を響かせて落ちた腕と、肘先から噴き出す体液。

 夜の闇を劈く叫びが響き渡ると同時に、リーシャの身体が真横へと吹き飛ばされる。リーシャの斧が振り下ろされると同時に、<ボストロール>は棍棒を振り抜いていたのだ。

 地面を数度跳ねた後に転がって行ったリーシャではあったが、それでも世界最高位に立つ『魔法使い』の魔法力に護られた身体は無事であった。

 全身に擦り傷のような痕は残るが、カミュ程の重症ではない。左半身も腫れ上がる事はなく、立ち上がったリーシャは、再び<ボストロール>に向かって斧を構えた。

 

「…………ヒャダイン…………」

 

 人類最高位に立つ『魔法使い』とはいえ、メルエとて無尽蔵に魔法力を有している訳ではない。ここまでの戦闘で数多くの呪文を行使して来た幼い少女の体内に眠る魔法力にも陰りが見え始めていた。

 彼女が持つ氷結系での最強呪文は、万全の状況で放つ時よりも、幾分か威力は弱まっている。

 それは、立ち上がろうとした<ボストロール>の下半身を狙ったヒャダインが明確に物語っていた。

 体内の組織さえも凍り付かせる筈のメルエの氷結系呪文は、完全に凍り付かせる前にその効力を失ってしまう。凍結時間が掛かり過ぎている為、無理やり立ち上がろうとした<ボストロール>の下半身を完全に凍り付かせる事が出来ずに霧散してしまったのだ。

 

「メルエ、下がれ!」

 

 『むぅ』と頬を膨らませるメルエに向かって振り上げられた棍棒を見たリーシャは、力の限りその名を叫ぶ。

 自身の名を聞いたメルエは、その場を離れる為に駆け出した。

 もし、メルエが自身にスカラを唱えていたとしても、<ボストロール>の一撃に耐えられるという確証はない。普段からその身を鍛え続けているリーシャやカミュだからこそ、魔法力によって緩和し切れなかった衝撃に耐える事が出来るのだ。

 スカラやスクルトといった防御力向上の呪文は、カミュが唱えるアストロンのような絶対防御の呪文ではない。魔法力によってその身を包み込み、外部からの衝撃を緩和したり、鋭い刃先の軌道をずらしたりする効力があるだけなのだ。

 それは、元々体力や筋力が無い人間にとっては、気休め程度の物にしかならない。高所からの落下の際に、必ず誰かがメルエを抱き抱えていた事からも、それが理解出来るであろう。

 

「ぐっ……」

 

 少女と棍棒の間に身を滑り込ませたリーシャは、サマンオサで購入した<ドラゴンシールド>を真横に掲げた。

 そこに襲いかかる衝撃は、彼女の予想をはるかに超えた物。メルエのという稀代の『魔法使い』の魔法力に護られて尚、その衝撃はリーシャに苦悶の表情を浮かべさせる。

 盾を貫通したかのような衝撃はリーシャの内臓まで届き、その体躯を横へと弾き飛ばす。宙に浮いた感覚を味わいながらも、彼女は何とか<バトルアックス>を地面へ引っ掛け、何とか態勢を立て直した。

 

「なっ!?」

 

 しかし、態勢を立て直し、再び<ボストロール>へ視線を向けたリーシャは、自分の目に飛び込んで来た光景に絶句する。

 既に目の前には、棍棒を振り上げた<ボストロール>が迫っていたのだ。その棍棒は、正確にリーシャ単体に狙いを定めており、残すは、その凶器を力任せに振り下ろすだけ。

 そんな絶望的な状況の中、彼女を動かしたのは、『戦士』としての本能なのか、それとも『人』としての本能なのかは解らない。だが、彼女は再び頭上に<ドラゴンシールド>を掲げた。

 

「がはっ!」

 

 遙か上階から落とされた岩でも受け止めたかのような衝撃に、人類最高位に立つ『戦士』の膝が折れる。頭上に掲げた盾を握る腕は、痺れたように痛んでいた。

 自身の怪力によって身体を沈めた人間を見ても、もはや笑みを浮かべる余裕さえない<ボストロール>は、その棍棒を矢継ぎ早に振り下ろし続ける。

 重量感のある音を響かせ、まるで木に釘を打ち付けるように振り下ろされる棍棒は、リーシャの身体を地面へと沈めて行った。

 盾を持つ腕の骨は既に折れてしまっているかもしれない。

 身体を支えていた足の骨も折れているかもしれない。

 衝撃と振動を受け続ける内臓は、大きな損傷を受けているかもしれない。

 しかし、霞んで行く視界の中で尚、リーシャは盾を掲げて耐え続けた。

 

「…………メラミ…………」

 

 耐え忍んだリーシャが待っていた声が、闇の城下に響く。

 呟くような詠唱が聞こえたと同時に、霞むリーシャの視界に真っ赤な炎が映り込んだ。

 魔法力の残りを叩き込んだような火球は、正確に<ボストロール>の顔面を打ち抜き、焼け爛れた肌を更に焼いて行く。苦悶の叫び声を上げた<ボストロール>は、リーシャへの攻撃を止め、自分の顔面を覆う炎を振り払うように右手を払い続けた。

 ようやく、続いていた攻撃が収まった事で、リーシャの身体はその場で横へと倒れ込む。正直に言えば、彼女は意識を失っていて尚、その盾を掲げ続けていたのだ。

 

「ぐおぉぉぉ!」

 

 火球の炎によって呼吸を乱された<ボストロール>は、怒りの雄叫びを上げて、再び棍棒を振り上げる。

 倒れ込み、身動き一つしないリーシャは、その棍棒を受ける態勢にはなく、今まともに受けてしまえば、その身体は原型を留めない程に潰されてしまうだろう。

 だが、それを許すようなメルエではない。

 

「…………イオラ…………」

 

 振り降ろされた棍棒は、その途中で凄まじい爆発に巻き込まれる。

 幼い少女が持つ魔法力も残り少ない。それでも彼女は、己の出来る事をするのだ。自分の大好きな者達を護る為に、彼女は己の力を最大限に使いきる。

 それは、サラという、姉であり、友であり、ライバルである者と交わした約束。

 

 振り降ろされた棍棒は、倒れ伏したリーシャを叩き潰す事はなかった。

 <ボストロール>の持つ巨大な棍棒といえども、元を質せば、所詮は木製である。何度と受け続けた、世界最高の『魔法使い』が放つ呪文や、世界最高の『戦士』が放つ攻撃によって、限界を迎えていたのだ。

 イオラの爆発が、その棍棒を根元から消し飛ばしていた。

 手に持つ柄の部分を残し、弾け飛んだ木片だけが、意識を失っているリーシャの上に降り注ぐ。

 

「ぐぬぬぬ……ぐおぉぉぉ!」

 

 思うように行かない苛立ちに、歯軋りするような表情を浮かべた<ボストロール>は、何度も柄の部分を地面へと打ちつけ、それを後方へ放り投げた。

 人間の倍もある体格を持つ魔族が所有する棍棒の柄は、後方の城壁を壊し、凄まじい破壊音を響かせる。肘先を失っている左手も同時に天に突き上げた<ボストロール>は、怒りに燃えた瞳を幼い少女へと向けて、巨大な雄叫びを上げた。

 攻撃の矛先が自分に向かった事を理解したメルエは、何とかその場を離れようと踵を返すが、ボミオスの効力が残っていて尚、<ボストロール>の行動の方が早かった。

 

「…………」

 

 敵に背を向けて逃げ出すメルエの前に、跳躍した<ボストロール>が着地する。

 地響きが鳴る程の振動に、尻餅を着いてしまったメルエの瞳に、巨大な右拳を握り締めたまま、それを振り上げる<ボストロール>が映り込んだ。

 もはや逃げ場はない。

 今更スカラを唱えようとも、幼い少女の身を守る事は出来ないだろう。

 攻撃呪文を唱えようにも、尻餅を着いたメルエは、<雷の杖>を手放している。

 媒体を使用せずに魔法を行使する事が出来る程、今のメルエは冷静ではなかった。

 

「ぐおぉぉぉ!」

 

 勝利を確信したかのような雄叫びを上げた<ボストロール>は、振り上げた拳を勢い良く振り下ろす。棍棒という重りを外した拳は、先程より速度を速めて繰り出された。

 確実に命を奪い、その身体の形状さえも奪い尽くす程の拳は、眉を下げて呆然と見つめるメルエの上へ落ちて行く。

 数多くの『想い』によって護られて来た少女の命が消え去りそうになったその時、彼女が待ち続けた声がサマンオサ城下に響き渡る。

 

「イオラ!」

 

「アストロン」

 

 拳を振り下ろす<ボストロール>の目の前で巻き起こる爆発。

 それに遅れるようにして響いたのは、この世で『勇者』と呼ばれる者にしか行使出来ない、絶対防御を誇る魔法の詠唱。

 下げていた眉が上がり、口元に笑みが浮かぶ頃には、メルエの意識は刈り取られ、その身体を無機質な物質へと変化させて行く。視界を遮られた<ボストロール>の拳が幼い少女を襲った時、その身体は何物も受け付けない鉄へと変化していた。

 

「ぐぎゃぁぁぁ!」

 

 棍棒ではなく、素手でそれを殴り付けた<ボストロール>の拳が砕ける。皮膚の下にある骨が、自身の力の反動を受け、砕けてしまったのだ。

 悲鳴のような雄叫びを上げる<ボストロール>の身体が、後方へ一歩二歩と退いて行く。それを待っていたかのように、鉄と化したメルエの前に出て来たのは、己の身を守る筈の鎧さえも満足に装備してはいない青年。

 この世界を救うと云われる、『勇者』である。

 

「アンタは、あの馬鹿の治療を頼む」

 

「ふふふ。大丈夫です。おそらく、カミュ様程の重症ではない筈ですので」

 

 『勇者』の後方へ移動した『賢者』は、彼の口から出た言葉に一人微笑んだ。

 それは、近くに倒れ伏す『戦士』が先程口にした言葉。

 まるで聞いていたのではないかと思う程に、全く同じ内容を口にする二人が、サラには何故か微笑ましく感じたのだ。

 彼女の言うように、リーシャの状態は、先程のカミュに比べれば、まだ軽症の部類に入るだろう。この世で唯一の『賢者』であれば、瞬く間に治療を終える事が出来る筈なのだ。

 <ボストロール>からすれば、何度叩き続けても、怪我さえも残さずに立ち上がる者達は脅威であろう。一撃で息の根を止めない限り、何度でも立ち上がり、自分に向かって来る。そんな相手に恐怖を覚えない方が可笑しいというものだ。

 

「ですが、これ以上は、私の魔法力も持ちません。リーシャさんの回復後は、補助魔法も攻撃魔法もそれ程行使する事は出来ませんので」

 

「わかった」

 

 しかし、彼等も『人』である以上、その貯蔵にも限りがある。幾ら力量を上げたとはいえ、その魔法力が無尽蔵になる訳ではない。

 それは、メルエという稀代の『魔法使い』も、世界で唯一の『賢者』であるサラも同様であった。

 リーシャの方へと走って行くサラの背中を見る事無く、カミュは右手に持つ剣を一振りする。

彼の身を護る鎧は既にない。

 もう一撃、彼が<ボストロール>の拳を受けてしまえば、この戦闘は<ボストロール>の勝利で終わってしまうだろう。

 それでも、彼は立ち向かわなければならない。

 己の信じた仲間達が繋いでくれた機会を逃さぬ為にも。

 

「やあぁぁぁ!」

 

 轟く叫びは、その手に持つ剣に力を与える。

 直前に罹けられていたバイキルトによってその鋭さを増した<草薙剣>は、荒れ狂う<ボストロール>の太腿へと突き刺さった。

 二度目となる刺し傷は深く、その剣の刀身の大半が、その足へと突き刺さっている。砕けた拳の痛みに叫ぶ<ボストロール>は、更に押し寄せた痛みに、悲鳴を大きくした。

 振り払うように出された右腕を搔い潜り、突き刺さった剣を抜き放ったカミュは、そのまま太腿を薙ぎ払う。空気をも斬り裂くような一閃は、太腿を深々と斬り裂き、雨のような体液を降らした。

 

「ぐおぉぉぉ!」

 

 身体を支える足の筋でも斬り裂かれたのだろう。堪らずに膝を着いた<ボストロール>は、空気までも震える叫びを発する。

 しかし、悲痛にも聞こえる叫びを聞いて、その身を同情する者など誰一人としていない。無情なまでの一太刀が、<ボストロール>の腹部を襲った。

 瞬時に距離を詰めたカミュが、その剣を振り下ろしたのだ。

 サラの唱えたバイキルトと、<草薙剣>が元より持つ付加によって、その一閃は、<ボストロール>の硬い皮膚を斬り裂いて行く。

 噴き出る体液と、見える臓物。

 苦悶の叫びを上げた<ボストロール>との戦いは、終盤に差し掛かっていた。

 

「ちっ!」

 

 それでも、その魔族は、ここまで遭遇したどの魔物よりも上位に入る者。

 世界を恐怖に陥れる『魔王バラモス』自らが、この場に派遣した者。

 例え『勇者』といえど、一人で打倒する事など出来ない。

 腹部から流れる体液を更に噴き出させ、<ボストロール>は右腕を振り上げる。その拳の骨は既に砕け、本来の破壊力を生み出せはしないだろう。それでも、この魔族の誇りと、怒りと、命を乗せた拳は、『勇者』一人程度であれば、この世から消し去る事は可能であった。

 これが、『勇者』一人との戦いであれば。

 

「…………イオラ…………」

 

 後方から響く呟くような詠唱は、正確に<ボストロール>の顔面を打ち抜いた。

 彼の目前ではなく、顔面を中心に爆発した魔法は、この頑強な魔族の意識を奪う程の威力を誇る。僅かな時間ではあるが、意識を失った<ボストロール>の巨体は後方へと崩れ始める。

 振り返ったカミュは、<ボストロール>同様に、地面へ膝を着く少女の姿を見た。

 彼女もまた、その体内に宿す魔法力を使い果たしたのだろう。それは、これ以上の戦闘が不可能である事を示していた。

 

「うおりゃぁぁぁ!」

 

 その事実を悟ったのは、何もカミュだけではない。

 後方へと倒れて行く<ボストロール>の意識が戻り、咄嗟に自身の巨体を支えようと、その右腕を地面へ伸ばした時、『勇者』と共に歩み続けて来た『戦士』が戻って来た。

 腹の底から吐き出すように発せられた雄叫びと共に、その一閃は<ボストロール>の右腕を襲う。地面へ着けようとしていた右腕は、<バトルアックス>と呼ばれる戦斧によって、手首から先を斬り飛ばされた。

 支える筈だった掌を失い、その巨体は崩れるように倒れ込む。地響きによる振動がカミュ達を揺らす中、雲が晴れた空から、月明かりが戦闘の終焉を彩った。

 

「カミュ!」

 

 復活を果たした女性戦士の声が轟き、その声にカミュが答える。

 猛然と走り出した青年の背中を月明かりが押して行く。

 まるで後光を背負うように駆けて来るカミュを見たリーシャは、小さな笑みを浮かべ、サマンオサの夜明けを感じていた。

 

「ルカニ!」

 

 全ての仲間が揃う時、彼は真の『勇者』となる。

 誰も見てはいない。

 誰も聞いてはいない。

 そんな戦いの中でも、彼の背中は、三人の仲間達が見つめている。

 その瞳は、何時しか彼に力を与える光となり、勇気を与える光となった。

 このサマンオサの全てを変える、歴史の一太刀が、夜の闇を斬り裂く。

 

「ぐおぉぉ……」

 

 <ボストロール>の断末魔の叫びは、最後まで発せられる事はなかった。

 地面へと倒れ伏した魔族の首は、『賢者』の唱えた防御力低下の効力を受け、『勇者』の放った一閃によって斬り落とされたのだ。

 両腕を失って尚、立ち上がろうと身体を起こしかけていた巨体が、完全に地面へと沈む。先程までよりも大きな振動が地面を揺らし、轟音となった地響きが轟いた。

 

 

 

 先程までの喧騒が消え失せ、静寂がその場を支配する。

 恐怖に慄き、身を震わせる女子供を護っていたアンデルは、静まり返った城外の空気に、巨大な魔物と勇者一行との戦いが終幕した事を悟った。

 隣に立つ筆頭大臣へ視線を送ると、彼もまたその事実を悟ったのか、静かに一つ頷きを返す。

 それでも、その幕が勇者一行によって降ろされた物であるとは限らない。

 ゆっくりと城門へと近付き、静かにその門を開いたアンデルは、そこから見える幻想的な光景に息を飲んだ。

 

「勇者とは……ここまで、ルビス様に愛された者であるのか……」

 

 アンデルの横に立つ大臣もまた、その景色に息を飲み、続いて溢れ出す、理由も解らない涙に戸惑いを見せる。

 それ程に、その光景は幻想的な物であったのだ。

 

「英雄と……勇者か……」

 

 アンデルの瞳には、夜の闇が支配する城下の庭の中で、一筋の月明かりが映り込んでいた。

 まるでその一点だけを照らすように、このサマンオサを救った『勇者』だけを月明かりが照らし出していたのだ。

 アンデルの瞳には、アリアハン国が『勇者』として送り出した青年の背中だけが見えている。静かな、そして優しい月明かりを一身に受けたその青年は、この世の守護者である『精霊ルビス』の愛をも一身に受けているようにさえ映った。

 その青年を護るように、徐々に姿を現す者達は、彼と共に歩む同道者達。

 一人、また一人と青年に近寄る彼女達も、月明かりが優しく照らし出す。

 それは、『精霊ルビス』の愛のような月明かりなのか、それとも月のような青年が放つ優しい光なのか。

 アンデルは、溢れ出る涙を拭う事無く、その光景を無言で見つめ続けた。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

これにて、ボストロール戦終了となります。
この回は、ドラクエⅡの「戦い」の音楽が皆様の頭の中で流れていれば嬉しいです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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