新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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グリンラッド②

 

 

 

 ポルトガの港は賑わいを見せていた。

 西からの新たな荷を積んだ船が続々と入港して来るからである。

 『トルドバーク』という新たな町との交易額が最も大きいのは、言わずと知れたポルトガ国であり、いくら護衛団へ昇格した海の覇者達に守られると言えども、魔物が蔓延る海を渡って遠く離れた国家へ荷を運ぶには、人間の力は非力過ぎるのだ。

 故に、最も近場にあるポルトガへ立ち寄り、荷をある程度軽くしてから、少し離れた場所へ航海するという手法を取る商団が必然的に多くなる。その為、ポルトガの活気は日を追う毎に増して行き、全盛期には及ばずとも、カミュ達が最初にこの城下町を訪れた頃の数倍の人口に膨れ上がっていた。

 

「それで、次は何処へ向かうんだ?」

 

 エルフの隠れ里からルーラによってポルトガへ戻ったカミュ達は、船の整備を終えていた船員達によって迎え入れられる。その船員達の顔を見ると、新たな場所へ向かう事の出来る喜びに満ちており、そこには不安の欠片さえも見る事は出来なかった。

 船員達の誰もが、自分達の旅が死の危険と隣り合わせである事を自覚している筈である。だが、商人とは異なり、貿易の利益ではなく未知の場所へ向かう事に喜びを感じる彼等は、紛れもなく海の男達なのだろう。

 

「バハラタの北、ロマリアの東に位置する湖へ行きたい」

 

「湖? ああ……あの巨大な入り江の事か?」

 

 カミュ達の目的の場所は、サマンオサの英雄が眠る場所。

 偽の国王によって追放され、幽閉されたまま行方知れずとなった彼は、旅の扉を使った先にある宿屋から北の湖に向かって行ったという話が残されていた。

 その宿屋は、バハラタから北へ向かい、森を抜けた場所にある。その北にある巨大な湖は、ロマリア国の領土と面しており、カミュはその場所を告げたのだが、頭目にとっては、そこは海から水が入り込んでいる巨大な入り江という事だった。

 

「だが、あそこは難しいぞ。かなり前から船では入る事が出来ないそうだからな」

 

「何故ですか?」

 

 カミュの話す目的地を理解した頭目は、その場所へ想いを走らせ、何かを考え込むように唸った後、理解不可能な事を口にする。その内容が全く理解出来ないサラが横から顔を出し、理由を問いかけた。

 海から海水が入る入り江へ入る事の出来ない理由など、その入り口が狭いという物しか思い浮かばない。しかし、川のような物であれば、小舟で乗り入れる事も可能であろうし、それよりも細いのであれば、歩きで入れるという事になる。根本的に水が入り込めるのであれば、地下へでも入る小さな穴でもない限り、人間が通れないという事になる筈がないのだ。

 だが、理由を聞いたサラへ向けられた頭目の表情を見る限り、彼が嘘を吐いている事など有り得る筈もなく、ましてや冗談を口にしているという物でもなかった。

 

「理由は解らない。だが、呪いが掛けられているように船が押し戻されてしまうらしい」

 

「……船が押し戻される?」

 

 その噂のような物は、船乗り達にとっては常識に近い程に広まっている物なのかもしれない。頭目が理由を話し出すと、他の船員達の顔色も変わって行く。まるで幽霊怪談でも語るかのように潜められた声が甲板の上に響いて行った。

 そんな船員達の雰囲気に対し、真っ先に飲み込まれたのはやはりというべきかサラであり、その様子に笑みを浮かべたメルエを置いて、カミュが話の続きを促す。一度頷きを返した頭目は、表情を厳しい物へ変えて語り始めた。

 

「昔、ある商船が海賊に襲われたらしい。その商船に乗っていた恋人の死を受け入れる事の出来なかった娘が、あの入り江の岬から身を投げたという話だ」

 

「……み、身を投げた方が……化けて出ている……のですか?」

 

「サラ……化けて出るはないだろう」

 

 一行はポルトガの港を出港し、北へと船を走らせている。既にメルエは傍にはおらず、定位置である木箱の上へと移動していた。幼いメルエにとって、怯えるサラは楽しい事に入るのだろうが、海の景色や飛び回る海鳥達に勝る程の興味をそそる物ではなかったのだろう。

 船員への指示を出しながら続けられた頭目の昔話にすっかり怯えきったサラは、震える声で問いかけ、その姿にリーシャは溜息を吐き出す。『僧侶』という霊などに特化した特殊な職業から、世界で唯一の『賢者』となった今でも、霊魂に恐怖を感じているサラ自体が、リーシャには到底信じられないのだ。

 

「さぁな……それはどうだか解らないが、その岬を通る事は出来ない。死にきれず、他の船を呼び戻すのだという噂もあるがな。それに、その岬には娘の名前が付けられ、『オリビアの岬』と言われている」

 

 甲板の上が静まり返り、遠く海鳥の鳴く声と、波の音だけが響いて行く。

 怪談などを恐れるような時間帯でもない。だが、リーシャでさえもその頬に冷たい汗が流れてしまう程、その話は信憑性を持っており、勇者一行にとって旅の妨げになる事は明白であった。

 船員達の中でも、その噂を聞き及んでいる者も多く、中には実際に体験した事のある者もいるのかもしれない。皆総じて青白い顔をしながら、自分の仕事に従事していた。

 そんな中、カミュだけは小さく溜息を吐き出し、木箱の上から海を笑顔で眺めているメルエへと視線を移す。魔物を相手にし、その中で実体を持たない物までも斬り伏せて来た彼にとって、霊魂のような物は恐怖に値しない物なのだろう。

 

「そ、それで……その恋人は……」

 

「ん? ああ……エリックという名の男らしいが、実際に行方知れずだからな……しかも、その海賊船も、他の海賊との戦闘によって海へ沈んだと言われている」

 

 オリビアという名の女性が絶望を感じる程に愛した男性の消息を問いかけたサラは、返って来た答えを聞いて絶句する。商船を襲った海賊さえも既にこの世にいないとなれば、商船で旅をしていた者達は全て海の藻屑と化してしまっている筈であった。

 海の略奪者である海賊は、余計な荷を積む事はない。見目麗しい女性であれば、様々な需要があるのだろうが、男性となれば同じ海賊に堕ちる以外に残された道は、死一つである。

 

「だが……その海賊船も、オリビアの呪いによって、エリックを乗せたまま、夜な夜な海を彷徨い続けているっていう噂だ」

 

「ふぇっ!? ゆ、ゆう……幽霊船ですか……」

 

 こうなってしまったサラの頭脳は、いつものような回転を見せる事はない。怯えきった瞳は、視点を定める事無く揺れ動き、決して太くはない足は、小刻みに震えていた。

 先程まで、その怪談話に薄ら寒い物を感じていたリーシャであったが、隣のサラの怖がりように、何処か冷めてしまう。よくよく考えれば、リーシャ達は霊魂などよりも不思議な現象を、この四年間で何度も目にして来た。

 その度に驚きで目を見開いた物であるが、それを『そういう物なのだ』と理解するようにすれば、自分の中での折り合いが着き、何処か自然に落ち着く物である。故に、足の震えが手や顔に転移し始めたサラを見たリーシャは、その肩に手を置こうと伸ばすのであった。

 

「うひゃぁぁ!」

 

「な、なんだ!? それ程に驚く事か?」

 

 突然置かれた手に驚いたサラは、かなり大きく素っ頓狂な声を上げてしまう。驚かせようと思っていた訳ではないリーシャの方が驚いてしまう程の声を上げたサラは、そのまま腰が抜けたように甲板へとへたり込んでしまった。

 不甲斐ない『賢者』の姿に大きな溜息を吐き出したリーシャは、まるで叱りつけるようにサラへと声を掛け、その手を掴んで立たせようとするが、足に力の入らないサラは、情けない表情を浮かべてリーシャを見上げるばかり。

 以前にカザーブの村で遭遇した時のような失態を見せなかった事だけでも、サラを褒めてやるべきなのかもしれなかった。

 

「サラ……またメルエにからかわれるぞ?」

 

「……うぅぅ……」

 

 座り込んだまま涙目で見上げるサラを見たリーシャは、盛大な溜息を吐き出す。リーシャの言葉通り、この状況をメルエが見ていたのであれば、これ幸いと『あわあわ』という言葉を投げかけ、サラをからかっていたであろう。

 リーシャの忠告が現実的であるが故に、サラもまた涙目で唸り声を上げる事しかできなかった。

 いや、正確に言えば、彼女達二人は既に理解してしまっているのだ。

 必ず、自分達がその場所へ行かなくてはならないという事を。

 

「どちらにしても、その場所へ行ってみなければならない事に変わりはない。ネクロゴンドへの道の情報は、サイモンの所持していた<ガイアの剣>しかないのだからな」

 

「そうだな……だが、呪いの話が本当であれば、幽霊船も他人事ではないな……」

 

「……行く事になるのですね?」

 

 今までの頭目の話に興味を示していなかったカミュではあったが、その内容はしっかりと聞いていたのだろう。そして、彼等の目的が『魔王バラモス』の討伐である以上、その『オリビアの岬』という場所へ行かなければならない事もまた事実であった。

 その岬が、身を投げた女性の呪いを帯びているのだとしても、その場所へ行き、サイモンの所持していた<ガイアの剣>と呼ばれる神代の剣を手に入れなければならない。その為にも、呪われた岬であるのであれば、その呪いを解く必要が発生するだろう。幽霊船と呼ばれる生者が一人もいない船に乗り込む事になったとしてもだ。

 

「ならば、グリンラッドを抜けて行った方が早いのかもしれないな……」

 

 三人のやり取りを聞いていた頭目は航路を考え始め、その呟きを持ち場にいる船員達は指示として受け入れる。

 カミュ達にとっては最早当然の事のように話は進んでいるが、世界が平面であると信じられているこの時代で、地図上を横断するような航路を口にし、それを然も当然の指示のように受け入れる船員達自体が、既に世界の理から外れ始めているのかもしれない。

 風を帆一杯に受け、真っ直ぐ北へと動き出す船の甲板の上で、それぞれの仕事に打ち込む船員達をリーシャは頼もしく見つめていた。

 

 

 

 船は順調に航海を進め、嵐に会う事もなく、<テンタクルス>のような魔物と遭遇する事もなかった。遭遇する魔物は、何度も戦闘を繰り返して来た魔物ばかりであり、カミュ達に敵う訳もなく、船員達の中でも腕に覚えのある元カンダタ一味も参入する事で駆逐して行った。

 船は開拓地の脇を抜け、そのまま北を目指して航路を取る。サマンオサへと続く旅の扉の館を横目に船を進め、周囲の気温が下がって来た頃、メルエの身体を気にしていたサラが何かを思いついたように、カミュへと視線を送った。

 

「カミュ様……そういえば、グリンラッドに居た方が、<変化の杖>を望んでいませんでしたか?」

 

「ん? そういえば、そうだったな。だが、あのご老体が何に使うつもりなのか解らない以上、おいそれと手渡す事も出来ないだろう」

 

 嫌がるメルエに上着を羽織らせたサラは、そんなメルエと共にカミュとリーシャの傍へと近寄り話し出す。その内容を聞いたリーシャは、カミュが反応するよりも早くに、自身の考えを口にし始めた。

 確かにリーシャの言葉通り、<変化の杖>という道具は、サマンオサ国王から託された国宝であると共に、神代から伝わる強い力を持った物でもある。その力は、使用者の身体を全く異なる存在へ変化させ、その姿ばかりか声や体格なども変えてしまう。

 あの老人の使用目的は解らないが、悪しき心を持っていたとすれば、それはこの世界で大きな災いの種になってしまうだろう。

 

「だが、俺達に不要な物である事もまた事実だ」

 

「…………いや…………」

 

 サラと共に近づいて来ていたメルエは、先程まで立てかけてあった<変化の杖>を胸に抱き締め、カミュ達の物言いに抵抗を示す。幼い彼女の武器である<雷の杖>は背中に結ばれたままであり、新たに自分の玩具となった<変化の杖>を誰にも渡すまいと鋭い瞳を向けていた。

 <変化の杖>とは、使用者の姿形や声や体の構造に至るまで変化させてしまう神代の道具である。だが、カミュがエルフの隠れ里で約束を交わした通り、彼等は今後この杖を使用する事はないだろう。他者を欺き、自身を欺き、自分という存在を冒涜するようなこの道具を使用する事はなく、また仲間内でそれを使用する事も許しはしない。故に、メルエがいくらそれを欲しても、使用したその場で叱責が待っている事は明らかであった。

 もはや、この杖を使用する事が無いという事は、攻撃の媒体として<雷の杖>を所持している限り、メルエには必要な物ではなく、元々杖という武器を手にしないカミュやリーシャにとっては、その使用効果が必要ない以上、無用の長物となるのだ。

 

「メルエ……私達は、エルフの女王様に『その杖を二度と使わない』と誓ったんだ。それはメルエであっても、使用する事は許されない。もし、メルエがそれを使うのなら、女王様はメルエとお話をしてくれなくなるぞ?」

 

「…………むぅ…………」

 

 <変化の杖>を胸に抱いたまま、メルエは不満そうにむくれ顔をするが、その行為を見ても、リーシャの表情が和らぐ事はない。次第に頬を萎ませたメルエは、懇願するようにサラへ視線を送るが、こちらも首を横へ振る事で否定を示していた。

 メルエにとって、とても不思議でとても楽しい遊びであった『変化』という行為は、彼女が最も信頼する保護者達によって禁止事項となる。それは玩具を手に入れたばかりの子供にとっては、身を切り裂かれる程に辛い事であった。

 

「どうしますか? グリンラッドへ寄られますか?」

 

「……ああ、上陸しよう」

 

 悲しそうに俯くメルエを傍目で見つめながらも、サラは今後の行動方針をカミュへと問いかける。冷たい北風が甲板に吹き込んで来る中、前方を見つめていた青年は、その問いかけに静かに頷きを返した。

 行動方針が確定すると、サラ達は自分達が身に着ける防寒具を取り出し始める。永久凍土と化したグリンラッドと呼ばれる島は、常に氷で覆われているのと同時に、常に雪が降り続けていた。

 前回とは異なり、島のどの辺りにあの老人が暮らす唯一の平原があるのかを理解している為、それ程歩き続ける事はないであろうが、氷に覆われた島で雪を掻い潜って進む事には変わりなく、その身を護る為の防具の他に体温を護る物も必要となるのだ。

 

「この辺りで良いか!?」

 

 永久凍土の島にある唯一の平原の場所を記憶していたサラの指示を聞き、船を動かしていた頭目の問いかけに全員が頷きを返す。

 島全体の大きさや形を考えると、この場所で上陸すれば、半日程度の時間で平原に出る筈だという予想の元、カミュ達は岸へと小舟を走らせた。

 

「メルエ、勝手に行っては駄目ですよ!」

 

 島に上陸した途端、小舟を岸へと上げるカミュ達を余所に、メルエは雪の中へと駆け込んで行く。子供特有の楽しみという事もあるのだろうが、雪を見たメルエの瞳は眩いばかりに輝き、それは<変化の杖>を持って遊んでいる時よりも強い光を宿しているようであった。

 サラの忠告も聞かず、地面に積もっている雪を掬い上げては空へと放ち、キラキラと輝く雪の結晶を浴びては笑顔を溢す。冷たい雪を全身に受け、吹き抜ける北風によって頬を赤くしていても笑顔で雪を掬い上げるメルエの姿は、窘めていたサラでさえも苦笑を浮かべてしまう程に無邪気な物であった。

 

「地図上であれば、おそらくこの辺りでしょう。前回、あのご老人がいた平原は、大体この辺りにありましたから……北西に向かえば良いでしょうね」

 

 正確ではないだろうが、大凡の位置を把握していたサラが進行方向を示し、頷きを返したカミュを先頭に、一行は雪原を歩き始める。雪を触りたくて堪らないメルエを引き摺るように、雪原を歩く一行は、風もなく穏やかに舞い落ちる雪に心を和ませていた。

 だが、雪という物は、カミュ達が考えている程に甘い物ではなく、穏やかな姿というのは雪原が持つ小さな一面である。進む毎に強さを増す風は、空から舞い降りる雪だけではなく、地面に降り積もっていた粉雪さえも舞い上がらせ、彼等の視界を奪って行った。

 

「メルエ、カミュ様のマントの中に入って」

 

「…………ん…………」

 

 風が強まり、粉雪が舞い上がって吹雪へと変わって行く。その状況を見たサラは、手を繋いで必死に歩き続けているメルエをカミュのマントの中へと誘導した。

 素直に頷くメルエを見たサラは、先頭を歩くカミュを大きな声で呼び止め、そのマントの中へメルエを押し込んで行く。メルエは身体が濡れでもしない限り、寒さを訴える事はない。だが、その体が幼い物である事には変わりはなく、体力や体温の低下は、四人の中で最も早い事は間違いがないとサラは考えたのだ。

 数刻の時を一寸先も見えない雪原で固まって歩く中、最後尾を歩いていたリーシャは何処か不自然な周囲に首を傾げ、それが何か理解出来ない不安に変わって行く事で全員を呼び止める声を上げた。

 

「カミュ、何かが変だ! この吹雪の具合は、何かがおかしい! 先程までよりも私達の周囲の風だけが増しているぞ!」

 

「……魔物か?」

 

 突然のリーシャの声に立ち止った一行は、その言葉の内容に首を傾げながらも、吹き荒れる風へと目を凝らし、上空へと視線を向ける。

 マントの中に隠れていたメルエも顔を出して空を見上げる中、周囲の吹雪が嘘のように晴れ渡る青空をカミュは見た。吹き荒れる雪の結晶で視界が遮られていても目に飛び込んで来る美しい青が、リーシャの言葉通り、この場所だけが吹雪いている事を示していた。

 青空の中にも雲はあり、このような島では晴れていても雪が降る事は珍しくはないが、吹雪くという事はあり得ない。それを理解したカミュは、予想出来る一つの可能性を考え、背中の剣を抜き放った。

 

「カミュ様! あの雲の中に影が!」

 

「構えろ!」

 

 頬に当たる雪を手で押さえながら見上げた雲の先に巨大な影を見たサラは、その旨を全員へと通達すると共に、腰に差している剣を抜き放つ。上空から迫る敵に対し、サラの力量では剣による攻撃は不可能であろう。それでも、彼女には一つの使命があるのだ。

 

「メルエ、下がっていろ!」

 

 それは、幼くも世界最高位に立つ『魔法使い』の守護。

 カミュのマントから出て、リーシャの指示通り後ろへと下がって来たメルエを自分の後ろへと隠したサラは、上空で蠢く影に目を凝らす。吹雪の中に見える雲に映る影は、雲と共に降りて来ていた。

 雲が地上へと降りて来るように広がり、先程まで見えていた青空を隠すようになった頃、その影の全貌が見えて来る。太く長いその影は、雲の中を駆け回りながらその大きさを増し、カミュ達が一塊になり、空へと向かって陣形を完成させたのと同時に、その姿を表した。

 

「龍種か!?」

 

「ちっ!」

 

 雲の中から顔を出したそれは、以前に遭遇した事のある魔物に酷似していたのだ。いや、それは魔物というよりも神獣と言った方が正しいのかもしれない。

 巨大な顎を大きく開き、そこから見える牙は、『人』などを一刺しに出来る程に鋭く光っている。口元には髭のような触覚が伸び、巨大な目玉と頭部を覆う(たてがみ)、そしてそこから生える巨大な角に、長く巨大な胴体に似合わぬ程に小さな前足には鋭い爪が輝いていた。

 それは、この世界の中でも希少種と呼ばれる種族であり、時には神と崇められ、時には神に従う獣として畏れられ、時には全てを滅ぼす魔獣として恐れられる物である。

 

「グオォォォォ!」

 

 数年前、サラが『賢者』となる為に登った塔を住処とし、カミュが己の心と向き合う為に立ち向かった試練の洞窟内で遭遇した<スカイドラゴン>と姿こそ似てはいるが、その鱗の色や瞳の色は異なっており、同種族ではあっても同じ物ではない事を物語っていた。

 巨大な口を開いて放った咆哮は、カミュ達四人の身体を振動させる程の威力を誇り、大地の雪を舞い上がらせる程の強さを誇る。痺れるように震える身体を護るように抱えたサラは、後ろで怯えているであろう幼い少女を護ろうと振り返った。

 

<スノードラゴン>

世界の北部にある、常に雪が降り続ける永久凍土を住処とする古代種。

龍種の中でも最下位に位置する<スカイドラゴン>と大差はないが、それでも<スカイドラゴン>よりも上位に位置する龍である。

遭遇した者は全てその命を散らし、この龍種の存在を伝える事の出来る者は皆無であった事から、その存在は伝説に近い物にまで昇華しており、世界の北部では雪原を護る神として崇めている地方もあると云われていた。

 

「カミュ、来るぞ!」

 

 口を大きく開いた<スノードラゴン>の様子に身構えたリーシャは、同じように剣を構えたカミュへ声を発し、<スノードラゴン>の口から何かが放たれる前に横へと飛び退いたのだ。

 一塊になっていたカミュとリーシャは、それぞれ別方向へ飛ぶ事で、<スノードラゴン>の攻撃を避けようとする。だが、<スノードラゴン>の口から放たれた物は、リーシャやカミュが想像していた火炎ではなく、先程まで視界を奪っていた雪と風の嵐であった。

 吹き荒れる雪の舞いは、避けきる事の出来なかったカミュやリーシャの身体に付着して行き、その腕を雪で覆い始める。メルエの氷結系呪文程の即効性はないが、それでも振り払う事の出来ない雪は確実にカミュ達二人の体温を奪って行った。

 

「グオォォォ」

 

 カミュ達が付着する雪を払い切る前に、再び開かれた<スノードラゴン>の口から吹雪が吐き出される。二手に分かれていたカミュとリーシャであったが、その吹雪が向けられたのはカミュであった。

 上空から見る<スノードラゴン>の瞳が、人間と同じように物を認識しているかどうかは解らないが、大地と同化するようにその身を護る<大地の鎧>を纏うリーシャよりも、赤紫色の<魔法の鎧>を纏うカミュの方が、真っ白な雪原では目立っていたのかもしれない。

 剣を持つ方の腕に付着した雪が拭えず、痺れるように冷えた手が剣を持つ事も儘ならなくなる中、辛うじて<ドラゴンシールド>を掲げたカミュは、その盾で吹雪を遮ろうと腰を落とす。龍種の鱗を張り合わせて作成したと云われる<ドラゴンシールド>は、例え劣化種の鱗だと言えども、龍種が吐き出す火炎や吹雪の損害を軽減する能力を持っていた。

 

「…………ベギラマ…………」

 

 <ドラゴンシールド>の付加能力によって、辛うじてその場を切り抜けたカミュは、雪と風で音さえも聞こえなくなり始めた雪原に響き渡る呟きを聞き、後方へと身体を飛ばした。

 カミュの身体がその場を離れると同時に、むせ返るような熱気が吹雪を包み込む。火炎と化した熱気は、雪原の雪を溶かしながら周囲の気温を上昇させ、カミュの身体に付着する雪をも溶かし始めた。

 自分の指示を待つ事もなく、的確な呪文を行使したメルエを褒めようとその顔を見たサラは、そこに立つ幼い少女の表情を見て凍り付く。

 射抜くような視線を<スノードラゴン>へと向けたメルエの瞳の中に怒りや恐怖は見えない。まるでその辺りに転がる石でも見るように冷めた視線を向けるメルエの心中は計り知れないが、<スノードラゴン>という龍種に対し、興味さえも示していないかのようなその姿に、逆にサラは恐怖を感じてしまった。

 

「……メ、メルエ?」

 

 恐れを成したサラは、自分へ視線を向けようともしないメルエへ震える声で問いかけるが、その声にも反応を返さずに、メルエは<スノードラゴン>を睨むように見つめ続ける。

 吹雪を消し溶かされた<スノードラゴン>は、標的をカミュやリーシャから呪文を唱えた幼い少女へと変え、そちらの方向へ巨大な身体をうねらせる。しかし、空中でうねった尾が、地面の雪を掻き揚げ、陽光で雪の結晶が輝く中、幼い少女へと向き直った<スノードラゴン>は世界で唯一の『賢者』と同様にその身体を硬直させてしまった。

 射抜くように細められた少女の瞳は、<スノードラゴン>を射殺さんばかりに鋭く光り、その手に持つ禍々しいオブジェの付いた杖は、真っ直ぐ前方へと向けられている。両者の間に流れる緊迫した空気に、態勢を立て直していたカミュやリーシャでさえも動く事は出来ない。

 本来、<スノードラゴン>の下位種とはいえ、同じ龍種である<スカイドラゴン>を一人で倒しきったカミュであれば、この雪原の支配者である龍種に対しても効果的な攻撃は可能である。そして、それはここまで彼と共に旅を続けて来たリーシャやサラも同様であり、幾ら世界最強の種族である龍種であっても、彼等三人を同時に相手が出来る程の力を有している訳もないのだ。

 だが、それでも動けない。

 

「グオォォォォォ!」

 

 そのような誰一人動けない状況の中、緊迫した空気に真っ先に耐えられなくなった者は、雪原の支配者たる<スノードラゴン>であった。

 怯えるように咆哮を上げた<スノードラゴン>は、まるでメルエの視線から逃げ出すように顔を背け、その恐怖の象徴である少女に向かって口を大きく開く。そこから吐き出される物は、先程と同様の吹雪であり、通常の人間であれば、その凄まじいまでの雪と風によって雪の彫像と化してしまう程の威力を誇る物であった。

 しかし、大口を開いた<スノードラゴン>が、自分の意思で吹雪を吐き出すその瞬間、目の前で厳しい瞳を向けていた少女が、自分の背丈よりも大きな杖を振り下ろす。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 <スノードラゴン>が先に動いた事によって張り詰めていた空気は弾け、その隙を突いて<スノードラゴン>から離れたカミュとリーシャは、自分の横を通り過ぎて行く熱気を感じて呼吸を止めた。

 灼熱系最強の呪文によって焼かれた空気で喉までも焼かれる事を防ぐ為である。それ程に、この世界最高位に立つ『魔法使い』の力は桁違いなのだ。

 吐き出された雪と風は、瞬時に焼き尽くされ、迫り来る巨大な火炎は怯える<スノードラゴン>へ向かって襲い掛かって行く。

 永久凍土の氷さえも溶かす程の威力を持つ火炎である。如何に雪原の支配者と言われた<スノードラゴン>であっても、その火炎に身体全てを飲み込まれてしまえば、無傷では済まないどころか命さえも瞬時に奪われてしまうだろう。故に<スノードラゴン>は恐怖で身が竦む中、それでも懸命に吹雪を吐き出し続けた。

 

「……カミュ」

 

「……既に戦意はないのだろうな」

 

 火炎が全てを焼き尽くすように収まりを見せた頃、その対象となっていた<スノードラゴン>の姿が現れる。

 <スノードラゴン>の周囲の雪は溶け、永久凍土の氷も半分近く溶けている。全てを溶かし、大地の色が顔を出さなかったのは、死への恐怖を感じた<スノードラゴン>が懸命に吹雪を吐き出し続けたからなのだろう。

 それでも、神獣とさえ伝えられる雪原の支配者の身体にも、目を覆いたくなる程の傷跡を残している。吹雪を吐き出し続けた筈の口元の皮膚も焼け爛れ、巨大な瞳を守る為にある瞼も火傷の為か大きく腫れ上がっていた。龍種という世界最強種である証である強靭な鱗も所々剥がれており、疎らになった鱗のない部分に見える地肌は、灼熱の炎によって焼け爛れている。

 満身創痍と言っても良い程のその姿に、先程までの戦意は微塵も感じる事は出来なかった。

 

「グモォォォォ」

 

 焼け爛れた口を大きく開いた<スノードラゴン>は、哀しみさえも滲ませる雄叫びを上げる。

 その雄叫びにも身動きせずに自身を見つめる幼い少女の瞳を一瞥した<スノードラゴン>は、恐怖による身体の震えを隠す事無く、身体をうねらせて上空へと逃げ出した。

 追撃を警戒する事もなく、敵に背を見せて逃げ出す姿は、カミュ達から攻撃の意思さえも奪い取ってしまう。哀れにさえ感じてしまう程の行動を起こしてまで、<スノードラゴン>は幼い『魔法使い』から逃げ出したかったのだ。それは、彼女の持つ強大な魔法力と、強力な呪文の力だけの影響ではないのかもしれない。

 何故なら、その幼い少女に対し、<スノードラゴン>だけではなく、この場に居た全ての物が恐怖に近い感情を持ってしまっていたのだから。

 

「メルエ、何があった?」

 

「…………???…………」

 

 そんな中、逸早く心を戻したのは、この幼い少女を旅に同道させる事を決めた青年である。世界で最も希少で、最も強い種族である龍種を睨み付けていた少女へと近付き、その変化を問いかけるが、既にメルエは何時もの様子へと戻っていた。

 カミュの発する言葉の意味を理解する事は出来ず、小首を傾げるような仕草で不思議そうな表情を向けている。彼は、メルエの身に何かがあり、今までの戦闘では見せた事のない表情を見せたと考えたのだ。

 思えば、<エルフの隠れ里>に以前訪れ、アンという娘の魂を開放した後のメルエも、まるでその娘の魂が乗り移ったような戦闘を行い、カミュ達三人の恐怖を誘った事がある。あの時は、媒体を使用しないまま<ベギラマ>を行使しようとし、カミュに叱責された事で意識を戻したが、先程の<スノードラゴン>との戦闘中は、終始メルエの様子は変であった。

 

「メルエ、身体は大丈夫なのか?」

 

「…………???…………」

 

 吹雪が収まり、雪が空から静かに振り続ける中、心配そうに近づいて来るリーシャの言葉の意味さえも理解出来ないメルエは、反対側へ小首を傾げ、困惑したような姿を見せる。本当に意味が理解出来ないのだろう。

 先程まで身体を動かせない程の恐怖を感じていたサラではあったが、いつも通りの無邪気な少女の姿に、ようやく硬直していた身体から力が抜けて行くのを感じる。心配し、その身体の隅々までを触って確認するリーシャに対し、困惑の表情を浮かべているメルエを見て、サラは小さな笑みを溢した。

 

「メルエは凄いですね。龍種さえも退けてしまうとは」

 

「…………ん…………」

 

 カミュやリーシャとは異なり、サラの中ではある程度の答えが出ているのかもしれない。その証拠に、恐怖が去ったサラの顔は、困惑と不安に彩られているカミュやリーシャの表情とは異なる笑みが浮かんでいる。

 笑顔で近づいて来るサラに向かって頷いたメルエもまた、花咲くような笑みを浮かべ、その腰へと抱き着いて行った。

 メルエという少女は、とても不思議な少女である。

 『魔王バラモス』という諸悪の根源に立ち向かうように旅立った者達の中で、『勇者』と自称する者達は数多くいた。 

 だが、その者達の中で、ここまでの功績を残して来た者は一人もおらず、『魔王バラモス』という存在に肉薄した存在も『英雄オルテガ』以外には、その息子であるカミュしかいない。その事からも、このカミュという青年が、その他の者達とは異なる運命を持っている可能性は否定出来ず、リーシャやサラが信じるように、彼こそが『勇者』と呼ばれる存在であると言っても過言ではない。

 そして、カミュという青年が『勇者』であるからこそ、彼の周囲にもそれぞれの運命を持つ者達が集まるのかもしれない。

 女性でありながら、今や世界最高位の『戦士』となったリーシャ。

 世界で唯一の『賢者』となったサラ。

 そして、何かに導かれるように、それが必然であるかのように出会い、その内に眠る才能を開花させ続け、今や『賢者』となったサラでさえ足元にも及ばない呪文を行使し続ける『魔法使い』となったメルエ。

 そのメルエとの出会いもまた、カミュという『勇者』が引き起こした必然なのかもしれない。

 出会うべくして出会い、開花する事が当然であったかのように才能を爆発させた事もまた、全てを見守る『精霊ルビス』のお導きなのかもしれない、とサラは考えていた。

 

「……先へ進む」

 

「お、おい! カミュ、良いのか?」

 

 腰へと抱き着くメルエと、その背中を優しく撫でるサラの姿を見ていたカミュは、そのまま踵を返し、前方へと歩き出す。その行動に驚いたのはリーシャであり、最愛の妹のような存在の身の危険を危惧していた彼女は、歩き始めた青年の背中へ向かって問いかけてしまう。

 だが、振り返ったカミュの表情を見た時、リーシャは全てを悟り、そして後悔の念さえも胸に宿してしまう。それ程に、彼の表情は哀しみに満ちていたのだ。

 

「今の俺達に何が解る? 進むしかない……」

 

「……わかった」

 

 メルエの身に何が起きたのか。

 それを明確に把握している者など、この中に誰一人としていない。

 何かに気付き始めているサラでさえ、明確な理由を説明出来る程に理解している訳ではないだろう。それでも、サラは笑みを作り、妹のように可愛がるメルエを抱き締めている。

 リーシャは、この青年の考えている事が手に取るように理解出来た。

 この青年は、自分を責めているのだ。

 自分と出会う事で、魔物と戦う必要がある旅をする事になり、自分の不注意で魔法の契約を済ませた事により、幼い少女は『魔法使い』となった。更に言えば、その危険な旅を続けていた為に、幼い『魔法使い』は世界最高位に立つ程の能力を有する事になってしまったのだ。

 それを彼は悔いている。だからこそ、あの表情を浮かべ、あの言葉を吐き出したに違いない。

 『今の自分には何も出来ない』、『何もしてやる事が出来ない』、そんな考えが、彼の罪悪感を大きくさせ、そして哀しみを増大させているのだろう。

 

「悔やむな……。お前が悔やめば、お前と共にいる事に喜びを感じているメルエの顔もまた、哀しみに歪んでしまうぞ」

 

 再び歩き出そうとする青年の背中へ向かって、リーシャは口を開いた。

 その言葉は、彼と共に四年の旅を歩んで来た彼女だからこそ口に出来た言葉なのかもしれない。だが、同じように四年間という時間を過ごして来たサラには口に出来なかった言葉でもある。

 カミュという青年を、一人の人間として接し、その心の中を理解しようと奮闘して来たリーシャだからこそ、彼が心の奥底へと仕舞い込んだ悲しみや苦しみに気付き、他の人間であれば気付きもしない僅かな表情の変化に気が付いたのだ。

 それは、世界で唯一人の『賢者』にも、皆を和ます世界最高位の『魔法使い』にも出来ない、このパーティーを引っ張って来た二人が築いて来た『絆』なのかもしれない。

 

 

 

「氷が少なくなって来ましたね」

 

 そこから数刻の時間を歩き続けた彼等は、道中で<スノードラゴン>や<氷河魔人>と遭遇する事もなく、無事に平原まで出る事が出来た。

 大地の土を覆う分厚い氷も薄くなり、空から降り注ぐ太陽の光も何処かしら温かく感じるその場所には、緑豊かな木々が立ち並び、太陽の光を一身に受けようと、花々が咲き乱れている。雪に心を弾ませていた筈のメルエの瞳が、先程までとは異なる光を宿し始め、草花の中へと駆け出した。

 苦笑を浮かべるリーシャとサラは、駆け出したメルエを追うように歩き出し、残されたカミュは、青い空に輝く太陽のような微笑みを浮かべている少女を暫しの間眺め、ゆっくりと歩き出す。

 

「このような場所にまた来られるなど、物好きな方達じゃな」

 

 草花の中にひっそりと建つ小屋の扉を叩くと、以前に訪れた時と同じ人物が出て来る。この場所を訪れてから一年程の年月しか経過してはいないが、その老人の姿は、更に老いを感じてしまう程の物であった。

 頬はこけており、目は窪み、唇の色は落ちている。死人のようなその表情を見たメルエは、驚きの余りマントの中へと隠れてしまった。それ程にこの老人の衰えは顕著であり、生きる希望を失いつつある事を明確に示唆している。

 老人の姿に驚きながらも、勧めに従って中へと入った一行は、老人と相対するように席へと座り、この部屋の空気が落ち着くのを待った。

 

「ここへ再び来られたという事は、何か用でもあるのであろう?」

 

「はい。ですが、その前に一つお聞きしたいのですが……」

 

 メルエの前に暖かな白湯を出した老人は、ゆっくりとした動作でカミュ達へ向き直り、この場所への来訪目的を問い質す。

 確かに、この氷で覆われた島を歩き、命の危険を冒してまで来る価値は、この小屋には一つもない。貧しい小屋に何の取り得もない老人が住んでいるだけとなれば、この老人の知人や親族でない限り、この老人に会う事が来訪目的となる事はないだろう。

 それでもカミュ一行のような若者達がこの場所を訪れたという事は、この老人に何か用事があるという事になると考えるのが普通であった。

 

「……以前、<変化の杖>を欲しておられましたが、その杖を手にしてまで何を求めておられるのですか?」

 

「な、なに!? <変化の杖>を入手されたのか!? 譲ってくれ! 頼む!」

 

 静かにカミュを見つめていた瞳は、その青年の口から出た言葉を聞いた途端、歓喜と困惑の為に揺れ動き、発狂してしまったかのように大声で喚き立てる。突如発せられた大声に驚いたメルエは、持っていた白湯の入ったカップを落としてしまい、机の上に白湯が零れ落ちた。

 机の端まで流れた白湯が床へと落ちて行く中、発狂したように叫んだ老人を見据えているカミュの瞳には、一切の揺らぎはない。老人の慌てぶりに驚く事もなく、老人の鬼気迫る想いに気圧される事もない。ただ黙って老人を射抜くように見つめているだけであった。

 

「す、すまぬ……取り乱してしまった」

 

「いえ、お気になさらずに」

 

 微動だにしないカミュの瞳に射抜かれた老人は、自分の姿を改めて振り返り、羞恥に赤らめた顔を隠すように床へと視線を落とす。この老人にとって、<変化の杖>という物は、我を忘れてしまう程に欲した夢の道具であるのだろう。半ば伝説化したように『人』の世に伝わる神代の道具の存在を信じきる事は出来ず、それでも尚その希望に縋る他なく、この老人は生きる気力を繋げて来ていたのであろう。

 何かを考え込むように俯いた老人は、暫く考え込んだ後、ゆっくりとその胸の内にある想いを吐き出して行く。それは哀しいまでも『人』の感情の一つであり、『人』の心の向かう場所であった。

 

「わしは、昔にエジンベアを追われた身。もはやあの国に身寄りはなく、知り合いもいない。だが、エジンベアはわしの故郷なのじゃ……」

 

 この老人は、十数年前にこの場所へ移り住んだと話している。それまではエジンベアで暮らしていたのだとも話していた。

 あの特殊な国では、自分達の中にある常識以外を許す事はない。ルザミに居た学者のように、『世界は丸い』と唱えただけでも、それは人心を惑わす物だと追放処分を受けてしまうのだ。この老人もまた、あの国の常識を覆す事を成したのかもしれない。

 あの国とこの老人の間に何があったのかは解らないが、それでもこの老人が故郷を追われる事となり、二度と戻る事が出来ないという事実だけは確かめる必要などないだろう。

 

「わしはあの国へ戻りたい。生まれたあの場所で死を迎えたい。例え、今の姿を失う事になっても、誰もわしという個人を見る事がなくとも、あの場所へ帰りたい……」

 

「……そうですか」

 

 老人の独白は続き、その想いは切実な願いへと変化して行く。それを聞くリーシャやサラの表情も沈痛な物へと変化して行き、次第に老人の強い願いが彼女達の胸を打った。

 生まれ故郷という物は、人それぞれの想いはあれども、その者の心、人格、身体の全てを育んで来た土地である。そこにどれ程の苦労があろうとも、歳を重ねる毎にそれらは思い出へと変わり、やがて望郷の念へと昇華する。

 リーシャやサラは、生まれ故郷であるアリアハン国を愛している。彼女達でさえ、あの国には嫌な思い出の方が多い事だろう。親を亡くし、孤独を感じ、何度涙した事か解らない。だが、それでもあの国は彼女達を育み、彼女達を造って来た。故郷への想いは、彼女達が年齢を重ねる程、そして故郷を離れてからの時間が長くなる程に大きくなって行く。

 それが、本来の故郷という物なのかもしれない。

 

「変化の杖ならば、どんな姿にもなる事が出来ると伝えられておる。本当に存在するのかも解らないし、そんな不可思議な事が現実になる事がない事も理解しておるのじゃ。だが、それでも……僅かな可能性でもあるならば、その希望に縋りたい……」

 

 カミュは、生まれ育ったアリアハンに対し、特別な想いはない。むしろ憎しみに近い程の感情を持っているし、どうしても行かねばならない理由でもない限り、二度と足を踏み入れたくはないとさえ考えていた。

 だが、目の前で膝を折り、顔を覆って咽び泣く老人の姿を見て、彼の心の中にも僅かではあるが何らかの想いが湧き上がって来る。それは憐みかもしれないし、蔑みかもしれない。それでもカミュの中にこの老人に対しての歩み寄りが生まれていたのだ。

 

「……変化の杖は差し上げます」

 

 カミュの口から零れた言葉が、この小屋の中の時間を僅かに止めてしまう。

 リーシャやサラは目を見開き、老人は驚愕の言葉に勢い良く顔を上げた。只一人、白湯を飲みそびれたメルエだけは、不満そうに頬を膨らませ、カミュの方へ瞳を向けている。

 神代から伝わり、この世の守護者と云われる『精霊ルビス』の手から『人』の王へと渡った国宝級の杖である。一国を救った恩賞として下賜された物を、哀しい過去があるとはいえ、一般人に委ねる事は、不敬に値する行為なのかもしれない。だが、驚きに見開かれていたリーシャとサラの表情は、すぐに穏やかな物へと変わった。

 それは、彼女達もまた、カミュの考えに賛同した事を表している。

 

「メルエ、杖を」

 

「…………いや…………」

 

 だが、ここに来て、唯一人だけカミュの考えに異を唱える者が現れた。

 それは、ここまでその神代の杖を持って歩いて来た人物であり、この杖の能力を一番楽しんでいる者。子供がお気に入りの玩具を手放さないように、この少女もまた、奇妙なその杖を胸に抱いて、絶対的な保護者に背を向けるように身体を背けたのだ。

 メルエがカミュに対して反抗的な態度を取る事は珍しい。いや、珍しいというよりも初めてかもしれない。

 ヤマタノオロチの住処であるジパングの洞窟内で、カミュの進行方向に異を唱える事はあったが、それは彼の身を案じての物であり、魔物に対して不思議な感覚を持つ彼女だからこその行動である事はカミュ達三人も知っている。

 その時とは異なり、今のメルエの行動は、完全な彼女の身勝手な我儘であった。

 

「メルエ……その杖を持っていても使用する事は出来ない」

 

「そうですよ、メルエ。私達が持っていても使う事は許されない事は、リーシャさんからお話しをされたでしょう?」

 

「…………むぅ…………」

 

 大きな溜息を吐き出したカミュは、我儘を言い出した少女に困惑したように口を開くが、その言葉から逃げるようにメルエはカミュから遠ざかろうとする。そんなメルエのマントを掴んだサラは、彼女の前に屈み込んだ。

 目を合わせるように語るサラの瞳から顔を背けたメルエではあったが、自分が不利である事を理解出来ない彼女ではない。ここで自分が我儘を続けていても、カミュ達が折れてくれる訳はなく、自分の要望が届かない事は既に悟った筈である。

 しかし、それでも、甘えや我儘という物を知ったばかりの少女は、不貞腐れたように頬を膨らませ、<変化の杖>を抱えたまま離さなかった。

 

「ああ、ご老体。一つ言い忘れてはいたが、この<変化の杖>を使用する際には、悪しき心を持たぬ事を忠告しておく。悪しき心を持ってこの杖を使用した場合、最悪元の姿に戻れないばかりか、命の補償はないぞ」

 

 頑なに<変化の杖>を抱き抱えるメルエを見ていたリーシャは、未だに呆然としている老人に向かって意味ありげな言葉を漏らす。それは、決してカミュ達が体験した事でもなく、言い伝えがある物でもない。

 あの<ボストロール>という魔物でさえ、元の姿に戻っている。『人』の造った国を崩壊へと導き、その国で生きる者達に苦痛を与え続けていた<ボストロール>が元の姿に戻れた以上、リーシャの語る内容が正しいとは言い難い。

 それでも、先程まで顔を背けていたメルエは、驚いたように顔を上げ、真偽を確かめるようにリーシャからサラへと視線を移した。

 

「メルエが悪戯で使用した時は、初めての使用でしたので、ルビス様もお許しになったのでしょう。ですが、メルエも知っているでしょう? その杖を使って皆を苦しめていた魔物は、メルエ自身がその報いを与えたではありませんか。エルフの女王様とのお約束を破り、メルエがあの杖を悪戯に使用するのであれば、必ずルビス様のお叱りがありますよ」

 

「…………むぅ…………」

 

 自分の方へようやく視線を戻したメルエに、サラは優しい笑みを浮かべる。だが、その笑みとは裏腹に、メルエの希望を打ち壊す言葉は、メルエの顔からも希望を奪い取った。

 不貞腐れたように頬を膨らませていたメルエは、哀しそうに目を伏せ、その瞳には大粒の涙がたまり始める。

 この幼い少女の中で、エルフ女王と約束をしたつもりはなかったのだろう。だが、『約束』という言葉は、メルエの中ではとても重要な物である。カミュが誓ったあの言葉は、自分にも適用される事を改めて把握し、<変化の杖>を使う事が出来ない事を正確に理解したのだ。

 

「それに、メルエ……背中にある<雷の杖>は重くはありませんか? メルエが<変化の杖>ばかりに気を向けてしまうと、あれ程にメルエの事を好いてくれている<雷の杖>に嫌われてしまいますよ?」

 

「…………だめ…………」

 

 涙を溢す事を耐えていたメルエであったが、サラから掛った予想外の言葉に、溜まっていた物を溢しながら、弾かれるように顔を上げた。

 <雷の杖>という杖も、<変化の杖>にも負けぬ程の能力を持っている。姿を変えてしまうというような摩訶不思議な能力ではないが、人類最高位に立つメルエという『魔法使い』の魔力を一身に受け、それを魔法という神秘へと変換し続けているのだ。

 同じ杖とはいっても、<変化の杖>ではメルエの魔法力に耐える事など出来はしないだろう。それだけでも稀有な武器であるのだが、この<雷の杖>は主を定め、その主を護るように自らで<ベギラマ>を放つ事もあるのだ。

 その杖は、メルエが誇りに感じている<魔道士の杖>の想いを引き継いだ物であり、メルエ自身もその杖を生涯の戦友として認めた物でもある。

 その戦友に『嫌い』だと思われる事は、メルエには耐え難い物でもあった。

 

「では、差し上げましょう? 私は、魔物の姿でもなく、スライムの姿でもなく、エルフの姿でもない、今のメルエの姿が一番大好きですよ」

 

「そうだな。メルエは、今の姿が一番だ。私の大好きなメルエだからな」

 

 サラとのやり取りを黙って聞いていたリーシャであったが、最後のサラの言葉を聞き、優しい笑みを浮かべる。そのままメルエを抱き上げ、涙に濡れるその瞳に視線を合わせ、その頬に自分の頬を合わせる。

 暫くの間、頬を膨らませていたメルエだが、そのままリーシャの肩に顔を埋めてしまった。

 その小さな手から<変化の杖>を受け取ったカミュは、四人のやり取りを眺めていた老人に向かって差し出すように手を伸ばす。

 

「すまぬ……すまぬ……」

 

 仰々しく、神代の神秘を両手で受け取った老人は、涙を流してカミュ達へ頭を下げ続ける。

 十数年もの間、夢に見続けて来た道具は、その神秘として語られている能力を有した物であった。それを齎した者達の言葉を聞く限り、彼等がその効力を試し、その能力を実感した事は確かであろう。だが、注意点として語られた物は、幼い少女を諌める目的もあるのだろうが、自分の使用目的を制限する物でもある事を、この老人は理解していた。

 もし、この老人が悪しき目的で<変化の杖>を使用し、その噂が流れたとすれば、この者達は必ず自分を罰しに来るであろう。それ程の力を有している事は、先程までの会話でも十分理解する事が出来るし、この神秘の杖を入手したという事実が何よりの証拠であった。

 

「その杖の効力が続く時間には限りがありますので、ご注意を。ですが、余りその杖に頼りすぎるのは……」

 

「解っております。わし自身が他人を騙し続ける事への罪悪感で潰されてしまうでしょう。『精霊ルビス』様から伝わる程の道具に、わしのような只の人間が耐えられる時間は短い筈です」

 

 自分の姿を偽り、自分自身を偽る事への忠告を口にしたカミュであったが、その事自体、この老人は明確に把握していた。

 確かに、この<変化の杖>は『精霊ルビス』の手からサマンオサ王族へと受け継がれた道具であり、神が造りし物という伝説も残されている。あの杖を使用したアンデルは、先代国王の実弟ではあったが、『精霊ルビス』から『人』の守護を任されたと伝えられる王族の血を受け継いでいた。その血にどれ程の力が備わっているのかは解らないが、<変化の杖>を受け継ぐ正当な後継者であった事だけは確かである。

 <ボストロール>は魔物の中でも一際強靭な物であり、その神秘に耐え得るだけの胆力も持ち合わせていたと考えられる。また、カミュ達一行に至っては、その魔物を打ち倒し、世界を救う可能性さえも秘めた者達であり、ここまでの旅で何度も神秘を体験した者達でもある為、その神秘に耐えられたとしても不思議な事ではない。

 だが、何の力も有さず、高齢で体力も気力も衰えた老人にとって、<変化の杖>の持つ強力な力は毒にしかならないのかもしれない。

 

「その杖の処分はお任せ致します。世に出す事だけは避けた方がよろしいでしょう」

 

「承知しております。わしと共に墓へ埋める事になるでしょう」

 

 この世界での<変化の杖>の使用は、この老人が最後になるだろう。

 悪しき者が使用すれば、世界に災いが訪れる事は間違いなく、それを容認する事が出来ない以上、最後の使用者と共に灰となるか、土へと還るかしか選択肢は残されていない。

 それを理解しているからこそ、老人は自分の遺骸と共に埋めて貰えるように遺言でも残すつもりなのだろう。そして、それはそう遠くない未来の話となる事は間違いなかった。

 

「何か代わりに差し上げたいのだが、生憎このような生活をしている為、高価な物は何もなくてのう……」

 

「……お気遣いなく」

 

 申し入れを軽く断ったカミュではあったが、老人はそれでも小さな小屋の中の隅々を探し始める。これ以上断る事も出来ない一行は、成り行きを見守る事しか出来ず、再び老人が戻って来る頃には、リーシャの腕の中でメルエは眠りに就いてしまっていた。

 しかし、ようやく戻って来た老人の手にある物を見たサラは、ここまで黙って見守っていた事を激しく後悔してしまう。それはリーシャも同様であり、その手にある物を見つめる目は厳しく、眉間には大きな皺が寄っていた。

 

「これは<船乗りの骨>じゃ。ここを訪れた者が置いて行ったものなのじゃが、この近くでの戦闘で海の藻屑となった海賊団の船長の骨の一部だという。その海賊船は幽霊船となり、夜な夜なこの船長の骨を探し続けていると噂されておる」

 

「……幽霊船?」

 

 しかし、申し訳なさそうにそれを差し出した老人の言葉を聞いたカミュ達は、その言葉の中にあった聞き覚えのある単語に興味を示す事となる。

 それは、この場所へ訪れる前に頭目から聞いた話にも存在した物であり、オリビアの岬の呪いの元ともなっている海賊船の末路でもあった。

 何の因果なのか、それともこれも『勇者』という存在が引き起こす必然なのだろうか。彼等の前に再び細い糸のような道が開けたのだ。それはとても細く脆い道ではあるが、彼等四人は常にそういう道を歩んで来ている。

 それは、今までも、そしてこれから先も変わる事はないのだろう。

 

「その<船乗りの骨>は、糸で吊るせば幽霊船の場所を示すように動き出す。その方角へ進めば、もしかすると幽霊船に遭遇する事が出来るかもしれぬが、それも噂に過ぎぬのじゃ。誠に申し訳ない事ではあるが、わしには、差し上げられる物がこの程度の物しかない」

 

「いえ……十分です」

 

 老人から<船乗りの骨>を受け取ったカミュは一度軽く頭を下げるが、恐縮し切った老人はカミュ達三人に向かって深々と頭を下げる。最後には嗚咽さえ上げ始めた老人を残し、眠り扱けてしまったメルエを抱いたリーシャが最初に小屋を出て行った。

 咽び泣く音を聞きながら、サラも一度綺麗なお辞儀を返して小屋を退出し、最後に残ったカミュは一度小さな溜息を吐き出し、小屋の扉を閉める。

 故郷を追われた者は、己の姿を偽り、己という存在をこの世界から消し去ってでもそこへ戻りたいと願った。

 その想いや願いを今のカミュには理解する事は出来ない。だが、そんな老人の願いを聞き届けた事は、彼の変化の一部が影響しているのかもしれない。

 

 細く頼りない道を辿って来た一行の旅は、その途中で出会う様々な者達によって支えられ、その道を照らされて来た。

 この世の諸悪の根源である『魔王バラモス』へ続く道は、そこへ向かう『勇者』と出会った者達によって明るく照らし出され、堅実な道へと変わって行く。それは、『魔王バラモス』台頭後、誰一人として成し遂げる事の出来なかった事であり、誰一人として見る事の出来なかった道である。

 新たに切り開かれるその道を、彼等は今歩み続けているのだ。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

少し長くなってしまいました。
読みづらいとお感じになられたとしたら、大変申し訳ありません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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