幽霊船が夜の海へと消えて行った姿は、今も尚、船の乗組員の心に強烈な衝撃を残していた。
物悲しい音を響かせ、海の底へと沈んで行ったようにも、虚空の彼方へ消えて行ったとも感じられるが、どちらにしても、この現世の何処を探しても、『ボニー海賊団』の乗る船を見つける事が不可能となった事だけは確かであろう。
一時代を築き、世界の海を領有する程に巨大な版図を築いた女性棟梁の率いる海賊団は、友とも呼べる者へ夢と想いを託して、黄泉への海路を旅立って行ったのだ。
「次は何処へ向かう?」
「オリビアの岬へ向かってくれ」
夜の海を呆然と眺め続ける船員達の姿に溜息を漏らした頭目は、既に幽霊船の行方に興味さえも示していないカミュに向かって目的地を問う。その問いに対しても、然して動じる様子を見せずに淡々と目的地を告げたカミュは、思いついたように『朝を迎えてからでも構わない』という言葉を付け加えた。
細かな心遣いに苦笑を浮かべた頭目は、即座に表情を引き締めて、仕事へ戻らない船員達に激を飛ばす。その怒鳴り声に、ようやく再起動を果たした船員達が、各々の仕事へと戻って行った。
「…………メルエ………ねむい…………」
「ん? そうだな……サラ、メルエを船室へ連れて行ってやってくれ」
「え? 私がですか?……わかりました。メルエ、行きましょう」
目を擦りながら眠気を口にするメルエの姿を見たリーシャは柔らかな笑みを作り、固い表情で海を眺めていたサラへ少女を託す。小さく頷きを返したメルエは、サラの返事を待たずにその手を握った。
思考を海の彼方へ向けていたサラは、自分の手を握って目を擦るメルエを見て苦笑を浮かべ、その少女を伴って船室へと入って行く。甲板には、船員達の他にカミュとリーシャが残る事になるのだが、暗い闇へ視線を向け続けるカミュが、その先にある光の道を見出しているようにさえ、リーシャは感じていた。
「カミュ、オリビアの呪いを解く方法は見つかったのか? エリックという男は見たが、呪いを解く方法など口にはしていなかったぞ?」
「……あの岬の状況が呪いである確証はないが、呪いだと仮定した場合、それを解く可能性はアンタが持っている筈だ」
細かな表情さえも判別出来ない甲板の上でのリーシャの問いかけは尤もな物であろう。彼女の言うように、幽霊船の中にエリックという男性は存在した。正確に言えば、肉体のない霊魂である為、存在したというのは可笑しいのかもしれないが、その霊魂は現世に残り続ける事が出来ずに、一人語りの後で海水に溶け込むように消えて行ったのだ。
だが、あれだけの光景を見たリーシャは『呪い』という物を信じ始めており、それを前提に解く方法という物を問いかけている。
それに対し、カミュは未だ、あの岬の状況を『呪い』の影響があるものだとは見ていなかった。
「私が持っている物? このロケットペンダントか?」
そんなカミュから投げかけられた言葉に対し、リーシャは困惑した表情を浮かべ、自分の腰に下がっている革袋の中に入っていた銀色に輝くペンダントを取り出す。
それは、無念の内に魂を消滅させたエリックという男性が最後まで握り締めていたロケットペンダントである。開封した中には、女性の似顔絵や小さく折り畳んだ手紙、そして毛髪の一部が大事そうに入っていた。
そのロケットペンダントは、拾い上げたリーシャが持つ事になり、幽霊船内部から彼女の腰に下がる革袋の中に入っていたのだ。
「今の所、それ以外の糸口はない。岬の入口で、それを掲げて効果が無いようであれば、渦巻く海流の中へ放り込むしかないだろうな」
現状のカミュ達に与えられた選択肢は数少ない。それは旅を始めた頃から変わりない事ではあるのだが、この岬の呪いに関しては、いつも以上に情報が頼りなかった。
不確定要素の多い行動を取る必要があり、それが効果を示さなければ、彼等のここまでの行動が全て無駄に終わってしまう事になるだろう。それ程に慎重さを必要とする事柄に対しても、淡々と話すカミュを見ていたリーシャは、苦笑を浮かべた。
「そうか……まぁ、呪いという物が解けなくても、エリックの持ち物をオリビアの遺体が眠る海底へ届けてやるのも悪い事ではないだろうな」
自分達の数か月の時間が無駄に終わる可能性を示されたリーシャであったが、ここでも彼女の人柄が表に出る事となる。
無念の内に消滅したエリックの想いが入った遺品を、その相手である女性の想いが残る場所へ送り届ける事を良しとする彼女の優しさに、カミュは小さな笑みを浮かべた。
暗闇に支配され、相手の表情を読み取る事さえも出来ない甲板の上ではあるが、リーシャはそんな僅かばかりのカミュの変化に気付く。笑みを浮かべたかどうかまでは判別出来ないまでも、表情が動いた事だけは理解したのだ。
「な、なんだ!? 私は何か変な事を言ったか?」
「いや……やはり、悪党ではないと思っただけだ」
いつものように自分が馬鹿にされたのかと考えたリーシャは、少し声を荒げるが、それに返された言葉を聞いて口を噤んでしまう。カミュに対しては何処か被害妄想が強くなってしまうリーシャではあったが、返って来た真っ直ぐな言葉に何も言えなくなってしまったのだ。
欠けた月を見上げるように顔を上げたカミュは、その淡い月明かりを浴びて口を閉じる。それ以上に何も語る気はないのだろう。
淡く優しい月明かりに照らし出された船は、再び西の方角へと進み始めた。
船はポルトガを通り過ぎ、そのまま再びオリビアの岬を目指して進む。
食料や水などの貯蔵は十分にあったし、何の交易品も持たずに再びポルトガの港に入る事は難しかったのだ。
別段、それが許されぬ行為ではない。だが、ようやく活気を取り戻し始めたポルトガの根底には、カミュ達が乗る船によって齎される、見た事もない交易品の数々への渇望があった。
カミュ達の船が戻る度に、この世界にも希望が残されているという事を感じる事が出来るし、その希望が未来へ続く夢である事も事実である。『人』が生きる為に最も強い活力は、未来への希望であった。
『今日より良い明日がある』
『今年よりも素晴らしい年が来る』
そんな小さな希望が、明日を生きる勇気と喜びを与えているのだ。
「ポルトガの活気を見ると、『人』の未来も悪くはないのだと感じるな」
「……気楽な物言いだな」
夜が明ける前の為、サラとメルエは船室で眠ったままである。
水平線の先に太陽の欠片が見えるまで数刻の時間が必要となるだろう。そのような真夜中にも拘らず、船の上から見えるポルトガの港は、無数の明かりに満たされていた。
夜が明けぬ内から航海へ出る船もあるのだろうし、町の中で活動を開始する職業もあるのだろう。その状況自体、ポルトガ国王の尽力の賜物であるが、その原動力となったのは、その営みの明かりを嬉しそうに眺めるリーシャや、皮肉を口にする青年達である。
しかし、『人』の未来が、ポルトガ国民の願う通りの物になるかどうかは、カミュの言う通り、この先の厳しい旅路の成否によって決まる。『魔王バラモス』を討伐出来たとしても、必ずしも世界が救われる訳ではない。だが、『魔王バラモス』を討伐出来なければ、この世界に広がる暗雲が晴れる事がないのは確実でもあった。
「大丈夫だ。お前は必ず『魔王バラモス』を打倒出来る。アリアハンを出た頃の私は、お前を見て絶望した。だが、今の私は、自信を持ってそう言える」
いつものような嫌味を言うカミュに対しても腹を立てず、彼女は遠くに見える明かりから視線を外し、口端を上げている青年の瞳を見つめる。急に振り返ったリーシャに対して驚いた彼は、その口から出て来た言葉に対し、更なる驚きを表した。
リーシャが『カミュこそが勇者である』という言葉を口にした事は、これまでの旅で何度かある。彼が作り出す『必然』を目の当たりにし、彼の行動の先にある未来を感じ、その全てを信じ始めている事も確かである。
だが、彼女がアリアハンという生国を出立した頃に感じた想いを本人に対して話したのは初めてであったのだ。
「お前こそが『勇者』だ。私は、この旅の中でお前を見て来た。私はもう、お前に『世界を救え』や『魔王を倒せ』などと言うつもりはない。お前は、お前が思うように、己が信じた道を突き進め。その道が、王道であり正道でもある筈だ。私はそう信じている」
「……何が言いたい?」
いつもとは毛色の異なる言葉に、カミュは明らかな猜疑心を向ける。
カミュとリーシャの表面上ではない対立は、ロマリアを超えた辺りから少なくなり、今や皆無となっていた。それは感情をぶつけ合う必要が無くなっているという事ではなく、お互いがお互いの考えを何処かで容認し始めているという証拠であろう。
リーシャとしても、カミュの考えを全面的に支持している訳でもないし、未だに父であるオルテガへ向ける憎しみの理由も解らなければ、それを認めるつもりもない。親と子の間にある蟠りを何とかして溶かしてやりたいとさえ考えてもいた。
それでも、彼女は誰よりも、この無口で孤独な青年を信じているのだ。
カミュも彼女の思考や価値観全てを認めている訳ではない。相変わらず、交渉の前面に出る事を禁じているし、その考え無しの行動には辟易する時もある。自分の伝えたい事が簡単に伝わらないという事実に心を乱される事もあるし、その無遠慮な物言いや、他人の心に強引に入り込んで来る事を鬱陶しく思う事もあった。
だが、それと同時に、この長く辛い旅の中でリーシャという一人の人間を見ている内に、この女性戦士を誰よりも頼りにするようになっていたのだ。
「サラの進む道について、私はあのように伝えた。だが、サラの歩む道は、お前がここまで歩んで来た道でもある。サラは気付いていないだろうが、お前が切り開いた細く頼りない道を、サラは大きく広げながら舗装して来たんだ……だが、いずれ何処かで、お前達二人は道を分かつ事になるだろうな」
「……俺にその気はないが」
訝しげにリーシャを見つめていたカミュは、その後に出て来た内容に、再び目を見開いた。
カミュ自身、この無骨な女性戦士と共に旅を続けて来たという想いはあるし、メルエのような幼い少女が加わってからの旅路をリーシャが語るのであれば、カミュ自身も振り返る事は出来た。
だが、それ以前の自分自身の人生の道を顧みた事は一度もない。それは、リーシャのような他人が解る筈がないと突き放す訳ではなく、カミュ自身が歩んで来た道を自覚した事がない事を示していた。
彼にとって、リーシャとサラと共に歩み始め、メルエが加わった事で本格化した旅が、人生の始まりと言っても過言ではないのだ。彼でさえも振り返る事のない旅路を、後方から共に歩んで来たこの女性戦士だけはしっかりと見つめ続けて来ていた。
それは、他者の存在を認識せずに生きて来たカミュにとって、全てを覆される程の衝撃だったのだろう。故に、カミュはいつものような皮肉交じりではなく、素直な想いを口にしてしまう。
「わかっているさ。お前はサラと道を分かつ時、その道が間違った道でなければ、先頭をサラへと譲るだろう。お前もサラも自覚していないだろうし、その時になって気付く物だとも思う。だが、知らず知らずの内に、サラはお前の背中を見て歩き続けるんだ。お前が見て来た光景を、お前が成して来た功績を……そして、お前が無自覚の内に抑え込んで来た自我という尊さをな」
押し黙ってしまったカミュは、笑みを浮かべながら語り続けるリーシャの瞳を鋭く睨み付ける。自分でさえ知らない自分を、他人に語られる事ほど苦痛な物はない。『そんな者は俺ではない』と反論したい気持ちが喉元まで出て来る中、『何を言っても無駄ではないか』という諦めに似た感情さえも湧き上がって来る。
それが悪意を交えて語られている内容であれば、反論する気も失せるのであろうが、喜びを表すように微笑むリーシャの表情が、カミュの心を尚更苛立たせていた。
「サラは少しずつ変わって行かなければならないのかもしれない。自我を消し、全てを飲み込みながらも前へと進めるようにな」
「その必要はない。それこそ、アレはアレの想う道を突き進めば良い。傀儡ではない存在として歩む為に被る汚れならば、アレが被る必要はないだろう」
最後に笑みを消して、真剣な瞳を海へと向けたリーシャの言葉は、即座に返される。予想もしていなかった返しにリーシャは驚愕の表情を浮かべ、目を見開いて振り返った。
振り返った先の青年の表情は、暗い闇に隠され、はっきりと視認する事は出来ない。だが、月明かりによって少しずつ見え始めた彼の瞳は、真剣な光を宿しており、口にしたその言葉に偽りがない事を物語っていた。
そして、それがリーシャの胸を締め付ける。
それは、苦しみではなく、大いなる喜び。
哀しみの為ではなく、嬉々とした感情の表れ。
「……昔、お前に貰った言葉を、今度は私がお前に送ろう」
込み上げる感情に、抑えきれない想いを抑え、リーシャは月明かりに輝く潤んだ瞳をカミュへと向ける。メルエを思い出す程の満面の笑みを浮かべたその表情は、月が注ぐ淡い光に照らし出され、とても美しく輝いていた。
リーシャが口にした言葉の意味を理解出来ないカミュは怪訝な表情を浮かべるが、月に照らされた女性戦士の表情に見蕩れてしまう。
「……お前は……変わり過ぎだ……」
何とか紡ぎ出した言葉は、甲板の上を吹き抜ける一陣の風に乗ってカミュの耳へと届いて行く。しかし、カミュはそれを理解する頃には、踵を返したリーシャは船室へ向かって歩み出していた。
リーシャとしても、最後の言葉を口にする事が限界だったのだろう。足早に船室へと歩いて行った彼女は、早々に扉を閉め、自室へと入って行ってしまう。
淡い月明かりが降り注ぎ甲板の上で、静かに空を見上げたカミュの口元に、小さな笑みが浮かんでいた。
読んで頂き、ありがとうございました。
今回はかなり短めです。
描き続けていたら、とても長くなってしまい、冗長的になり過ぎた部分もありましたので、2話に分けました。
分け方に関しては、少し差があり過ぎましたが、このような形になりました。
二話同時投稿になると思います。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。