新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

185 / 277
~幕間~【ネクロゴンド地方】

 

 

 

 登って来たのと反対側へと下り始めた一行ではあったが、未だに熱を持ち続ける溶岩の名残によって、その速度は上がらない。額に汗が滲む中、安全な場所を探りながらの下山となり、リーシャはメルエを抱きながらの歩行となった。

 幸いな事に、先程の噴火によって魔物の出現は皆無であり、戦闘が行われる事もない。魔物自体が溶岩に飲まれてしまったのか、それとも避難をしたのかは解らないが、どちらにしてもカミュ達にとっては有難い事であった。

 夜が来ても休む場所を見つけるのは至難であり、溶岩の熱のお陰で凍える事はないが、ゆっくりと身体を横たえる事は出来ない。メルエはリーシャの腕の中で眠るのだが、カミュやリーシャに至っては不眠不休に近い状態の下山となる。

 

「カミュ、まずは川であった場所を越えよう。あれを越えれば、森に入る前に休む事も出来る筈だ」

 

「わかっている」

 

 一行が山を下り終えた頃には陽が傾き始めており、下り始めてから四日目の夜が更けようとしていた。

 山を囲むように流れていた美しい川は消え失せ、その畔に生えていた木々は根こそぎ溶岩に飲み込まれている。全てを焼き尽くした後の焦土のような景色に、リーシャとサラは眉を顰めた。この平原や森を住処としていた動物達も溶岩に飲まれてしまったのかもしれない。その可能性は否定出来ず、自分達の都合で罪もない動物達の生活場所を奪ってしまった事にサラは心を痛めたのだった。

 異様な臭いと熱気に包まれた大地を歩き続け、一行は川であった場所を渡りきる。その頃には、メルエはリーシャの腕の中で眠りに就いており、太陽が沈み切ると同時に月が夜空に浮かび始めていた。

 

「この辺で良いだろう」

 

「そうですね……近くの川で水を汲んで来ます」

 

「私も付いて行こう」

 

 川であった場所を越え、森の入り口に入った場所でカミュは荷物を下ろし始める。周囲の木々が上空を覆い、雨などで濡れる心配もなさそうな場所であった事から、サラは安堵の溜息を吐き出した。

 荷物を下ろしたサラは、近くに流れる小川の音を聞き、腰の水筒を取り出す。そのまま全員の水筒を手にし、小川で水汲みに行く事を告げると、メルエを寝かしつけたリーシャも同行する事を口にした。軽く食料でも狩って来るつもりなのだろう。手にはしっかりと斧を握っており、獣を狩るつもりである事が解った。

 眠るメルエを護るように座ったカミュは、近くの枯れ木を集め、メラによって炎を点す。赤々と燃える炎が夜の寒さを和らげて行った。

 水を汲み終わったサラと共に戻って来たリーシャは、小川で取れた魚を数匹調理し始める。簡単な食事を終えた後、トヘロスを唱えて全員で眠りに就く事となった。噴火の影響もあるのか、周囲に魔物の気配はなく、全員が就寝しても問題はないと考えた為である。

 

「カミュ、起きろ!」

 

 しかし、そんな静かな夜は、耳を劈くような声によって破られた。

 溜まっていた疲れを癒すように深い眠りに落ちていたカミュは、火山の噴火時のような大きな揺れに驚いて目を覚ます。身体を起こしたカミュは、自分の胸倉を掴んで大きく揺すっているのがリーシャだと気付いた時、不機嫌さを明らかにした。

 血相を変えたリーシャの瞳を見れば、魔物の襲来などではない事が解る。それが解るからこそ、カミュはこの女性戦士の慌てように顔を顰めたのだ。

 

「メルエがまたいない!」

 

「また、魔法の契約でもしているのだろう」

 

 血相を変えたリーシャの口から出た言葉を聞いたカミュは、大きな溜息を吐き出す。この言葉を聞くのも久しぶりの事ではあったが、それ以上にこの事柄に関して心配をしていないという点もあるのだろう。

 メルエは『悟りの書』に記載されている呪文の契約を始めてからは、一人で呪文の契約をする事はなくなっていた。それはサラに厳しく言いつけられているからという理由もあるが、『悟りの書』自体をサラが所有しているという理由もあったからだ。

 カミュに続いてサラも叩き起こしたリーシャは、『悟りの書』の有無をサラへと問いかける。寝ぼけ眼で自分の荷物を調べた彼女は、暫くして『悟りの書』を袋から取り出した。その存在を確認した瞬間、カミュは勢い良く立ち上がり、ドラゴンキラーを背中へと括り付けた。

 

「手分けはしない! 森の奥から探す!」

 

「わかった」

 

「わかりました!」

 

 『悟りの書』がサラの手元にあるという事は、メルエが契約に必要となる魔方陣が記載されている物を持っていないという事。それは、メルエが呪文の契約の為にこの場を離れている訳ではないという可能性が高くなった事を意味していた。

 呪文の契約ではない状態でメルエがいなくなったという事実自体が重い。誰かがメルエを攫って行ったのか、それとも魔物がメルエを襲ったのかは解らないが、メルエがカミュ達三人と離れたいと考えていない以上、深刻な事態に陥っている可能性が高いのだ。

 故にカミュは急いで支度をし、不測の事態に備えて三人一緒にメルエを探す事を提言した。

 

「平原の方へ戻ったとは考え難い。森の奥へ向かった可能性が高い筈だ」

 

 先程言った言葉を再度言う姿が、カミュが珍しく混乱している事を示している。メルエがこの場所を動いた時間が何時かは解らない。それでも、既に夜明けまで数刻というこの時間になっても戻っていないという事が本来であれば異常であった。

 メルエの『魔法使い』としての力量はカミュ達全員が信じているし、それが人類最高位の物である事は疑いようもない事実である。だが、ある程度の魔物であれば、自力で消滅させるほどの力を有しているといっても、彼女は幼い少女なのだ。

 彼女が一人きりの時に呪文を行使して魔物を打ち破った事は一度たりともなく、全てはカミュやリーシャやサラといった保護者と共に戦う時だけであった。大事な者を傷つけられた事に怒り、己の中にある魔法力を暴発させる事はあっても、それも全て彼らが共にいればこそであろう。メルエ一人では魔物と対峙出来ないという事をカミュ達は知っているのだ。

 それでも、今まではそれ程遠くに行く事はなかったし、魔物の気配にカミュやリーシャが気付く事の方が早いという過信があった。それをカミュは悔いているのだ。

 

「メルエは少し開けた場所で呪文の契約を行う癖があります。おそらくカミュ様と行った最初の契約時がそうだったのでしょう」

 

「開けた場所か……そういえば、先程サラと水を汲みに行く途中に、そんな場所があったな」

 

「何処だ!」

 

 野営地から森の奥へ入った際に、歩く速度を維持しながら口にしたサラの言葉に、リーシャは思い当たった事を発する。

 メルエは初回の契約時に、カミュが描いた地面の魔方陣を見ている。故に、その後も魔方陣を描ける地面がある場所を契約場所として定める癖がメルエに出来上がっていた。地面に木の枝で魔方陣を描くという方法以外にメルエが契約方法を知らない事が一番の原因ではあるだろうが、最も信頼するカミュがその方法を使用していたという事もその理由となっているのだろう。

 

「落ち着けカミュ。先程慌てふためいていた私が言うのもなんだが、お前が慌てればこのパーティーは崩れる。サラがいる、私もいる。必ずメルエは見つかる。それに、今のメルエの心は壊れてはいない。ならば、私達が頼りとする偉大な『魔法使い』は、私達が来るのを待つだけの力と頭脳を持っている筈だろう?」

 

 掴みかからんばかりに詰め寄って来るカミュに、リーシャは一つ息を吐き出した。

 先程は、顔面蒼白となるほどに慌てていた彼女ではあったが、カミュの珍しい姿を見て、冷静さを取り戻したのだ。確かに、リーシャの口から言うべき事ではないかもしれない。しかし、この状態になったカミュを抑えられるほど、サラは強くはない。

 カミュの両肩を掴んだリーシャは、その瞳を真っ直ぐ見つめて年若い『勇者』を窘めた。

 父親のような、それでいて兄のような感情を表すカミュに対し、リーシャの胸は熱くなっている。だが、それでもこのパーティーの核だと信じる青年が取り乱しては、全てが狂い出すとリーシャは考えていたし、今のまま探しに飛び出しても決して良い結果は生まれないと考えていた。最も、カミュからすれば、その核となる人物は異なっている訳だが。

 

「……わかった。それで、何処だ? メルエの力は知っているが、夜が深くなれば魔物の動きは活発化する。この場所の魔物の生態を全て知っている訳ではない以上、呪文の効力がない魔物がいてもおかしくはない筈だ」

 

「それでいい。私が先導しよう」

 

「いえ! 私が覚えていますので、先頭を歩きます。取り乱す事で捜索が難航するのは駄目ですが、急を要する事は確かですから」

 

 カミュの瞳を見て、リーシャは頷きを返す。先程までの焦燥感に駆られた瞳ではなくなった事が理解出来たからだ。彼の中にあるメルエの存在はとてつもなく大きいのだろう。それはメルエの父親との約束も含まれたものなのかもしれないが、アリアハン出立当初のような、誰の事へも関心を示さない青年はもういないのだという事だけは、明確になっていた。

 頷きを返したリーシャは、自分が見つけた場所へ行く為に歩き出そうとするが、それは後方から慌てたように口を開いたサラによって止められてしまう。リーシャの方向感覚は致命的なほどに狂っている。元いた場所へも戻れない可能性がある以上、サラが覚えている限り歩いた方が確実性があると考えたのだろう。

 

「そうか。ならば頼む。私は最後尾で魔物の襲来に備える」

 

「はい」

 

 何の疑いもなくサラの言葉に従ったリーシャは、バトルアックスを片手に、皆が歩き出すのを待つ。サラが先頭を歩き、こちらも剣を抜いたカミュが続く。焚き火から移した<たいまつ>を掲げ、一行は森の中へと入っていった。

 月明かりが雲によって遮られ、漆黒の闇に閉ざされた森の中にフクロウの鳴き声だけが轟く。魔物さえも寝静まっているのではないかと錯覚する程の静けさの中、赤々と燃える焚き火だけが野営地に残されていた。

 

 

 

 風によって動く木の枝が擦れる音と、葉が揺れる音だけが響く森の中を歩く一行は、リーシャが言っていた場所に辿り着く。だが、そこにメルエの姿はなく、森の中と変わらない闇と静寂が広がっているだけであった。

 

「いないな」

 

「……契約をしていたような魔法陣も残っていません。もしかすると、ここではないのかもしれませんね」

 

 開けた場所へ<たいまつ>を翳し、隅々まで見回ってみたが、幼い少女の姿はない。それに加え、呪文の契約の際に必要な魔法陣の跡も残っていない事から、この場所ではなかったという結論に達する。

 口調とは異なり、サラの表情には明確な焦りが浮かんで来ていた。メルエがここで契約をしていなかったという事は、別の場所で契約をしているか、もしくは本当に何者かに連れ去られてしまったという可能性が浮上する。それは、彼ら三人にとって最も恐れている事であるからだ。

 

「今からでも遅くはない。カミュ、皆で手分けをして探そう!」

 

 カミュの取り乱し様を窘めた筈のリーシャが、明らかな動揺を表し出す。彼女にとって、妹のようでありながらも娘のような存在でもあるメルエの身に危険が迫っている可能性があるという事は、リーシャの根底を揺らす程の重大事なのかもしれない。

 そして、先程まで我を失っていたカミュが、打って変わって落ち着き払った状態であった事がリーシャを慌てさせる事になっていた。言い方は可笑しいが、リーシャとしては安心して慌てられる状態になったとでも言うべきなのだろう。

 

「カミュ様」

 

 しかし、そんなリーシャを余所に、周囲の空気から何かを感じ取ったサラが、周辺を探っていたカミュへ声を掛ける。声を掛けながらもサラの視線は森の奥へと向いたままであり、それが何を示すのかが解らない彼等ではなかった。

 藁にも縋るような思いでサラへと駆け寄ったリーシャは、同じように駆け寄って来たカミュの表情が即座に歪むのを見て、顔色を失う。

 

「……冷気か」

 

「はい、この奥からです。急ぎましょう」

 

 サラの視線の先にある闇が広がる森の中から吹き抜け来る風には、カミュの頬を痺れさせる程の冷気が乗せられていたのだ。夜の寒さが厳しいネクロゴンドではあったが、これ程の冷気を感じる事はない筈である。それにも拘らず、森の中から肌で感じるほどの冷気が流れ込んで来る理由は一つしかないだろう。

 それを理解しているからこそ、サラはカミュやリーシャへ視線を向けずに森の奥へと駆け出して行く。サラの雰囲気に只ならぬ物を感じたリーシャもまた、慌ててその後を追った。

 

「こ、これは……」

 

 森の奥へ進めば進むほど、肌に感じる冷気は強くなって行き、リーシャが斧を握る指先の感覚さえも失うほどまでの物となって行く。これ程の寒さは、北の果てにあるグリンラッドと呼ばれる島でしか感じた事はなかった。

 永久凍土と呼ぶに相応しいあの島は、大地の上に降り積もった雪が解ける事はなく、その雪が氷となって大地を覆う。その為、防寒具無くしては上陸する事など不可能であり、そこで生きる魔物達もまた、寒さに特化した魔物達ばかりであった。

 駆けるカミュ達の吐く息は真っ白く濁り、吐き出した傍から水分が凍りついてしまったかのように口元を凍らせて行く。水分を含む目元に氷が付着し、鼻の周りにも白い結晶がこびり付いていった。

 そして、その世界は現れたのだ。

 

「なんだ、ここは……」

 

「ぐわっ!」

 

「きゃあ!」

 

 真っ先に開けた場所へと抜けたサラが呆然と見つめる場所へようやく辿り着いたカミュは、その光景に言葉を失う。同じように飛び込んで来たリーシャは、驚きの声をあげる前に足元を滑らし、盛大に転んでしまった。転んだリーシャはその勢いのままサラの足元を掬い、サラまでも地面へと尻餅を突く事になる。

 そんな二人の間抜けな姿を一瞥する事もなく、カミュはその壮絶な光景を呆然と眺め続ける。周囲に<たいまつ>を翳してはいるが、詳細を処理するには暫しの時間を有する事となった。

 

「メ、メルエ!」

 

 カミュが正気を取り戻すよりも早く、盛大に転んだリーシャの手から離れた<たいまつ>が転がる場所に倒れている少女の姿を確認したサラは、再び転んでしまわないように這うように近づいて行く。いや、正確に言えば立ち上がれないのだ。

 カミュが言葉を失うほどの光景とは、全ての時を止めてしまったかのように輝く世界であった。

 ようやく立ち上がったリーシャが、傍に落ちていたサラの<たいまつ>を拾い上げて周囲を照らし出す。カミュの持つ物と合わせ、ようやくその場所の全貌が見えてきた時、その異常な景色は、美しい輝きを放っていたのだった。

 

「氷の世界……」

 

「何故、これ程に……」

 

 リーシャの言葉が続かないのも無理はないだろう。何故なら、その場所は見渡す限り凍結し終えた氷の世界だったのだから。

 木々はその色を失う事無く透明な氷に閉じ込められ、傍を流れていたであろう小川は、その流れ自体の時間を止められてしまっている。表面だけではなく底の水までも凍りつけられ、<たいまつ>を近づけると、中を泳いでいた魚までもそのまま動きを固められていた。

 岩も草も土も、全てが透明な氷に閉じ込められたその世界は、芸術品といっても過言ではない程の美しさを誇り、見る物を魅了すると共に、恐怖で支配する。歴戦の勇士であるカミュやリーシャでさえ、その光景を前に足は細かく震え、胸が締め付けられるような感覚に陥った。それは決してその場所の気温が原因ではないだろう。

 

「はっ! メ、メルエは無事か!?」

 

 恐怖に縛られていたリーシャは、震える足を強引に動かし、サラが近寄って行った場所へ駆け出す。しかし、氷に覆われた地面は何度となく彼女の足元を掬い上げ、地面へと叩き付けた。通常時であれば滑稽に映るその姿も、今のこの世界を目にした後であれば、誰一人表情を緩める事など出来はしないだろう。

 一面氷に覆われた大地で倒れ伏しているメルエは、身体を横に倒すような形で丸まっていた。近くに寄ったサラはその身体を隅々まで触診し、呼吸が安定している事を確認すると安堵の溜息を吐き出す。何度も転倒を繰り返しながらも到達したリーシャも、そんなサラの表情を見て安堵の溜息を吐き出した。

 吐き出した溜息が瞬時に凍り付く程の冷気が支配する世界。永久凍土にも引けを取らないその冷気の中、最愛の少女の無事を喜ぶ二人の女性が満面の笑みを浮かべた。

 

「この魔物さえも凍らせるのか……」

 

「えっ?」

 

 しかし、緊張感を解いた二人とは異なり、ゆっくりと近づいて来たカミュは、照らし出される周囲の光景を注意深く見つめ、そして驚愕の声を漏らす。持っている<たいまつ>が照らし出している地点は、一点から動こうとはしない。その地点へ視線を動かしたサラもまた、その場所に転がる物を見て絶句した。

 それは本来であれば、絶対にその姿を固定する物ではない。だが、小川を挟んだ向こう側に転がる三体の物体は、全て身体を氷によって固められていたのだ。

 

「あれは、火山で遭遇した魔物なのか?」

 

 空中に浮かぶのではなく、煙のように漂う訳でもなく、その物体は氷で覆われた地面に転がっていた。

 それは、ネクロゴンド火山を登山中に遭遇した冷気の塊である魔物。フロストギズモと呼ばれる、山頂付近の冷気から生まれた魔物。山頂から吹き抜ける冷気が森へと落ちる事によって、森の中でも生まれたのであろうその魔物が、生理的に拒絶したくなるような薄汚い笑みを浮かべたままの姿で凍り付いていたのだ。

 本来、冷気が寄り集まり生まれたこの魔物自体が、視認出来る程の冷気の塊である。それにも拘らず、その冷気ごと氷の中に閉じ込めるという行為が、どれ程に異常な事なのかが理解できる者は少ないだろう。

 圧倒的な冷気で、更に瞬間的な急凍を行わなければ、そのような芸当は出来はしない。それを理解したからこそ、カミュとサラは絶句したのだ。逆に言えば、凄まじい光景である事は理解しても、その光景を生み出す事の壮絶さを理解出来ないリーシャの驚きは、二人の物とは若干異なっていたのだろう。

 

「これは全てメルエが行ったのか?」

 

「ええ……おそらくは」

 

 周囲の光景、そして凍りついた魔物を見たリーシャは、この光景を作り出す事の出来る可能性のある只一人の少女へ視線を向ける。その視線を見たサラは、リーシャの考えを肯定するように頷きを返した。

 この場の全てが凍り付いている中で、只一人凍りつく事無く眠りに就いている少女が、この世界を生み出したと考えるのが当然であろう。だが、リーシャの知るメルエの氷結呪文でも、ここまでの世界を生み出す事が可能であるかどうかは自信がない。元来魔法という神秘に憧れてはいても、その中身に関しての知識は皆無であるリーシャには、この世界がどのようにして生み出されたかは想像さえも難しかったのだ。

 

「メルエは大丈夫なのか?」

 

「既に契約は済んでいます。ただ、行使するにはメルエの力量が未熟だったのでしょう」

 

 景色を変える程の呪文を行使した事による後遺症を心配したリーシャではあったが、サラはメルエが行った行為の原因に思い当たる物があるのだろう。ようやく笑みを浮かべたサラは、自信に満ちた顔でリーシャに頷きを返した。

 サラとメルエの間には約束事がある。それは、呪文の契約時にはサラが必ず立ち会う事というものだ。その約束事をメルエも破る事はない。『悟りの書』をサラが所有しているという事も理由の一つではあるが、それ以上にメルエはサラを信頼していた。

 故に、今回も既に契約を終えた呪文の練習を行おうとしたのだとサラは考えていたのだ。

 

「俺は魔物を砕いてから戻る。焚き火でメルエを温めてやってくれ」

 

「わかった」

 

 メルエを抱き上げたリーシャは凍りついた地面を慎重に歩き始め、それを見たカミュは転がる魔物であった物体を叩き割り始める。この氷の世界が何時出来上がったのかは解らないが、メルエが氷の世界で暫しの時間を眠っていた事は確かである以上、その身体を一刻も早く温めなければならない事に変わりはない。メルエが寒さに強い事と、生物としての機能については別問題なのだ。

 慎重に歩を進め、ようやく氷の世界から抜け出したリーシャとサラは、野営地に向かって駆け出して行く。身体の芯まで冷え切ったメルエを抱いたリーシャは、心配そうに顔を歪めながらも、一刻も早く野営地へ戻るように足を速めた。

 必死になったのはサラである。メルエの状態が魔法力切れに近い状態であると予想していたサラではあったが、リーシャと同様にその小さな身体の体力も心配していた。だが、『賢者』であるサラが、『戦士』であるリーシャの体力について行けない事も事実であり、徐々に引き離されて行く事に焦りさえも感じてしまう。

 結局リーシャが野営地に辿り着き、焚き火の傍でメルエの身体を摩り続けて毛布を掛け終えた頃に、息も絶え絶えなサラが戻って来るという結果に終わった。

 

 

 

 翌朝、何事もなく目を覚ましたメルエはいつも通りであり、カミュが取って来た果物を頬張りながら笑みを浮かべる。呪文の契約については約束事をしてはいたが、呪文の修練に関してはメルエなりにも思う所があるのだと考えたサラは、昨夜の事をメルエに尋ねないという結論に達していた。

 サラが考える限り、メルエの身体に負担になる物ではないと聞いたカミュとリーシャもそれらに納得を示した事で、何事もない朝食時を向かえたのだ。

 

「地図上の位置から見て、ここから南下する以外に道はない」

 

「そうですね。何があるか解りませんが、行くしかありません」

 

 朝食を取りながら地図を広げていたカミュは、これからの道を確認を込めて口にする。それに呼応するように頷きを返したサラの瞳も何時も以上の力を宿していた。そんな二人を見ていたリーシャが笑顔を浮かべ、食事を終えたメルエもリーシャに口元を拭って貰いながら大きく頷きを返す。

 全員がこの先で待ち構える者の存在を肌で感じ始めているのだろう。これが彼らにとって最後の行進となるのかもしれない。そんな感慨が湧き上がって来るほどの決意が皆の胸を占めているのだろう。

 

 森を抜けた一行は、そのまま山肌に囲まれた平原を南へと下って行く。陽が昇り、陽が落ち、再び陽が昇っても歩き続ける。

 出来る限り魔物との遭遇は避けるように歩みを進めていた彼等ではあったが、人間にとって未開の地であるネクロゴンド地方で魔物と遭遇しないなどという事はあり得ない。山を下りてから三日目に、ネクロゴンド地方の恐ろしさを知る事となる。

 

「なっ!?」

 

 平原から再び森へと入った頃であった。先頭を歩いていたカミュが立ち止まった事で、一行に緊張感が走る。背中のドラゴンキラーの柄に手をかけたカミュは、息を殺して周囲を警戒し始めた。

 それに伴って、サラやメルエも準備を始め、リーシャもバトルアックスを手に取る。しかし、そんな彼等の警戒を嘲笑うかのようにそれは現れた。

 

「グオォォォ!」

 

 警戒していた前方ではなく、縦一列に並んだ一行の真横の木々が一瞬で薙ぎ倒されたのだ。

 軋むような音を立てて根こそぎ倒されて行く木々が悲鳴を上げる。木々を住処としていた鳥達が一斉に羽ばたき、危機を知らせるように鳴き声を上げた。

 薙ぎ倒された木々は、その者に道を空けるように横たわり、木々が遮っていた日光はその者の到来を知らせるように、その者を照らし出す。陽の光を背中に受けたそれは、カミュ達が見上げなければ全貌を把握出来ないほどの巨体を持った生物であった。

 

「サ、サマンオサの魔物!」

 

「ちっ!」

 

 それは、醜悪な姿をした魔物。サマンオサで相対したボストロールに酷似した巨体に、申し訳程度に獣の皮で隠されたたるんだ贅肉が露となった浅黒い肌からは、異臭を放っていた。

 ボストロールのように特殊な棍棒を持っている訳ではなく、ただ、その巨体から生み出される怪力のよって木々を薙ぎ倒して現れたその魔物は、一番近くにいたカミュに向かってその拳を振り下ろす。驚きはしても警戒を緩めていなかったカミュは、咄嗟に後方へ飛び、間一髪でその暴力から脱出した。

 拳が振り下ろされた地面は一瞬の内に陥没し、まるで大地が暴れるような振動を生み出す。体重の軽いメルエなどは空中に浮いてしまうが、その身体は後方から来たリーシャの片腕に抱き抱えられ、サラと共に最後尾へと退けられた。

 

<トロル>

ネクロゴンド地方に住み着く巨人族の末裔とも云われる。魔物というよりは魔族に近い存在ではあるが、知能は限りなく低く、本能で動く獣と大差はない。武器や道具を使用する知識もなく、その身体能力だけに依存した攻撃方法を持つ。魔族の中でも異端であり、その雑食性から、人間を好んで食す以外にも、魔物を食す事もあると云う。トロルの中で稀に現れる知能を有した者が、これらを下位種として従えるボストロールという説が有力である。

 

「カミュ、盾で受けるな! その馬鹿力は盾では受け止められないぞ!」

 

 追撃を仕掛けようとするトロルの腕が振るわれた際、カミュは咄嗟にドラゴンシールドを掲げようとするが、瞬時に叫ばれたリーシャの言葉で真横へと転がった。

 風切り音を上げて振り抜かれた巨大な拳がカミュの頭上を過ぎて行く。大きな空振りをして態勢を崩したトロルは、二、三歩よろけるように動き、その隙を突いたリーシャは、自身の倍近くある巨体の足に向かってバトルアックスを振り抜いた。

 

「グギャォォォ」

 

 トロルの苦痛の叫びと共に、人類とは異なった色の体液が噴き出す。膝上の大腿部を斬り裂かれたトロルは片膝を着くように地面に落ち、苦悶の表情を浮かべた。

 立ち上がったカミュが、跳躍と共にトロルの右腕を深々と斬り裂く。二の腕部を斬り裂かれたトロルは、右腕を上げる事が出来なくなり、垂れ下がった腕を庇うように左腕を動かすのだが、それは勇者一行にとって児戯にも等しい行為であった。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………メラミ…………」

 

 戦闘力が一気に低下したトロルを見たサラが、人類最高位に立つ『魔法使い』へと指示を出す。高く掲げられた杖の先にあるオブジェの口から、巨大な火球が飛び出した。苦痛に歪むトロルの顔面ほどの大きさもある火球が、その顔面へと真っ直ぐ飛んで行く。

 左手一本しかないトロルに、メラミの火球を避ける方法などある筈がない。辛うじて左手で僅かに勢いを殺したとはいえ、数本の指を犠牲にした恩恵はなかった。

 森に轟く程の衝突音を響かせ、トロルの顔面に直撃した火球は、その肌を焼き、トロルの身体自体を後方へと弾き飛ばす。踏ん張りの利かない足と、受身の取れない腕では、トロルが転倒を避ける術とはならなかった。

 再び大地を揺らすほどの振動を起こしながら倒れ込んだトロルは、焼け爛れた鼻や口から必死に空気を取り入れようともがき、奇妙な音を発している。

 

「カミュ、とどめだ!」

 

 『魔王討伐』という使命を持っていても、この一行は既に魔物への憎しみなど持ってはいない。無闇に魔物を苦しめて楽しむ趣味などなく、自分達が襲われなければ好んで戦闘を行う事もないのだ。故に、リーシャは早急にとどめを刺し、魔物を楽にするように動こうとしていた。

 だが、彼らは、このネクロゴンド地方に生息する魔物達を甘く見ていたのかもしれない。決して油断をしていた訳でもない。侮っていた訳でもない。それでも、彼等はここまでの旅の中で培って来た自信に酔っていたのかもしれなかった。

 

「下がれ!」

 

「ぐぼっ」

 

 倒れ込んだトロルにとどめを刺そうとバトルアックスを振り被ってリーシャが駆け出した瞬間、その対象となった魔物の身体全体が濃い緑色の光に包まれる。それは、輝いたと表現した方が良いのかもしれない。その輝きは瀕死のトロルを包み込む。

 そして、斧を振り下ろし始めていたリーシャの姿が掻き消えた。

 

「メルエ、私はリーシャさんを治療します! 皆にスクルトを」

 

「…………ん…………」

 

 残像さえも瞳に焼き付くほどの速度で吹き飛ばされたリーシャは、先程トロルによって薙ぎ倒された木々に叩き付けられ、悶絶する。

 呼吸が止まってしまう程の衝撃を受けたリーシャの頭からはどす黒い血液が流れ、頭部を裂傷した事が解る。更に、吐き出した液体にも血液が混じっている為、身体の内部も傷ついている事が予想された。

 サラの指示通りにスクルトを唱えたメルエは、戻って来たカミュの後方で次の指示を待っている。サラは即座にリーシャの治療を始めるが、それよりも早く動き出した山のような巨体が視界に入って来た。

 

「あの呪文は……」

 

「何故だ?」

 

 先程まで瀕死の状態で身体を横たえていた筈のトロルは、戦闘開始直後と変わらない姿で再び立ち上がったのだ。その身体の何処にも傷はなく、流れ出ていた体液の跡さえない。カミュに斬り裂かれた筈の右腕を振り回し、メルエの呪文で焼け爛れた筈の顔面の肌は、醜悪であれど火傷の跡さえも残ってはいなかった。

 不快そうに顔を歪めるカミュとは異なり、サラはその理由に勘付いている様子である。しかし、そんなサラの顔も悔しさに歪むように眉を顰ませ、下唇を強く噛んでいた。

 

「マヌーサ!」

 

 表情を歪めていたサラではあったが、再び全快の状態で襲い掛かって来るトロルの行動を抑える為の呪文を詠唱する。トロルの周囲が軽く発光した途端、先程まで真っ直ぐカミュへ向かっていたトロルの拳が制御を失った。

 神経性の呪文の効果が現れた事で、カミュは一つ息を吐き出し、態勢を立て直す。その隙にサラはリーシャの治療を開始した。

 しかし、トロルは決して意識を手放している訳ではない。神経性の呪文の影響でカミュ達の幻を見ているだけであり、その場所が必ずしもカミュ達の本当の場所と重ならないという訳でもなかった。

 

「えっ?」

 

 リーシャの身体に手を翳し、ベホイミの詠唱を行っていたサラは、先程まで眩しい程に照りつけていた太陽の光に影が差した事で呆けた声を上げる。幻に包まれていた筈のトロルの瞳が正確にサラを射抜き、そのまま巨大な拳を振り上げていたのだ。

 トロルの状態を見て態勢を立て直していたカミュはサラとリーシャへの救援には間に合わない。リーシャの怪我の回復も未だ終了しておらず、意識さえも戻ってはいなかった。

 

「…………イオラ…………」

 

 サラが覚悟を決めた時、トロルの顔面を中心として空気が弾ける。圧縮された空気の開放は、盛大な爆発音と共にサラとリーシャの身体さえも弾き飛ばした。

 自身が母のように、姉のように大事に思う者を傷つけられた事を黙って見ているほど、このパーティーの『魔法使い』は大人しい存在ではない。自身の力の制御を覚えた筈の彼女ではあるが、今回は自分の中で燃え上がる怒りの方が勝っていたのだ。

 そんな怒りの捌け口とされたトロルは堪ったものではない。危うく首から上が吹き飛んでしまうかのような爆発をまともに受け、顔面の機能が大幅に削られた。

 鼻は削げ落ち、耳は弾け飛び、眼球は砕け散る。喉から下の上半身の皮膚は焼け爛れ、呼吸さえも困難なほどにまで、トロルの身体は破壊されていたのだ。トロルはそのまま後方へと倒れ込む。

 

「リ、リーシャさん。今、ベホイミを」

 

 しかし、その爆発の余波を受けたリーシャとサラも無事ではなかった。爆風の熱気でサラは火傷を覆い、爆発で砕け散った岩の欠片がリーシャの半身に突き刺さっている。即座にその欠片を抜き放ったサラは、血が噴き出すリーシャの身体にベホイミを唱える。そんな自分の火傷よりもリーシャの治療を優先させようとするサラの頬を暖かな掌が覆った。

 気を失っていた筈のリーシャの意識は、先程の爆発によって強引に戻されていたのだ。

 

「私よりも、自分の顔の手当てを優先しろ。私なら大丈夫だ。それと、今回はメルエを叱るなよ。今叱れば、メルエは迷ってしまう。それは、この先の戦闘では足枷にしかならないぞ」

 

「……わかっています。それに、まだ戦いは終わっていませんから」

 

 火傷で爛れたサラの肌を掌で隠しながら、リーシャは力ない笑みを浮かべる。サラが考えていたよりも深く岩の破片が突き刺さっており、未だに真っ赤な血液が流れ出していた。

 それでも、リーシャはサラやメルエの事を心配している。それが彼女が彼女である所以なのだろうが、今だけはその姿が歯痒く映った。顔を顰めたサラは、右手で自分の身体にベホイミを掛け、左手でリーシャの身体にベホイミを唱える。

 このネクロゴンドまで来れば、残るは『魔王バラモス』となる事は必至である。その時に、メルエが迷い、悩む状態であれば、とてもではないが戦力とはならない。己の中に宿る膨大な魔法力の制御を覚えた幼い少女ではあるが、己の感情までも制御出来る程の成長は遂げてはいなかった。

 いや、メルエほどの年齢の子供であれば、自分の感情を制御する事を学んでいる最中であり、感情というのも手に入れたばかりのメルエであれば、それを制御する事など不可能に近いだろう。

 

「まさか……まだあの魔物は立ち上がるのか?」

 

 しかし、そんなメルエの話を飛ばしてまで語るサラの話を聞いたリーシャは、痛む身体を押さえながらも上半身を起き上げる。それを柔らかく抑えながらベホイミを唱え続けるサラの視線が、倒れ伏したトロルの方へ動かされた。そして、サラの視線を追ったリーシャは、驚きの声を上げたのだ。

 倒れたトロルの巨体を包み込むように発光する濃い緑色の光。それは、リーシャが意識を失う直前まで見ていた光景である。それが何を意味するのかが理解出来ないリーシャではない。それは、再びあの巨大な魔物が戦闘可能状態に戻るという事だった。

 

「カミュ様! 近くに必ず回復呪文を唱えている魔物がいる筈です!」

 

 自身の火傷の治療を終えたサラは残るリーシャの傷に全力を傾け、それと同時にカミュへと注意を促す。トロルを包み込む緑色の光は、人間界では『神の祝福』とまで呼ばれる回復呪文の物である事は確かであった。

 しかし、あの暴力の塊と言っても過言ではないトロルにそのような事が出来るとは思えない。サマンオサで王に成り代わっていた魔物が上位種と考えるのであれば、尚更に不可能であろう。故に、サラは他の魔物が回復呪文を唱えたのだと結論付けていた。

 

「…………サラ………あそこ…………」

 

「はっ!? カミュ様、あの魔物を先に倒してください! リーシャさんは、カミュ様の援護を」

 

「引き受けた!」

 

 必ず何処かに魔物が存在すると確信しているサラが周囲に目を向ける中、近寄って来たメルエがある一点を指差す。その方向へ視線を向けたサラは、即座にカミュとリーシャへと指示を出した。

 既に怪我の回復が済んだリーシャは、我が事得たりと立ち上がったトロルへと駆け出して行く。それと同時に、カミュもまたメルエの指差した方角へと走り出した。

 メルエの指差した方角には、森の木々が立ち並んでいる。だが、陽の光の影に隠れるように、それは漂っていた。

 まるで人間の血液を吸収したような赤黒い身体を持ち、その下部からは無数の黄色い触手を垂らした魔物。以前に遭遇した事のある、回復呪文を唱える魔物<ホイミスライム>に酷似した姿を持つその魔物は、嫌らしい笑みをその赤黒い身体に浮かべながら、空中に浮かんでいたのだ。

 

「おりゃぁぁぁ!」

 

 赤黒い魔物に一直線に向かうカミュを遮るように立ち上がったトロルの行動を、リーシャがバトルアックスで弾き返す。

 回復呪文で怪我が治癒したとはいえ、トロルが失った身体の部位は戻らない。片目は醜く潰れ、弾け飛んだ耳は欠損したままである。だらりと垂れた舌は、最初の頃に比べて長さが半分程になっていた。

 リーシャが作ってくれた隙を利用し、赤黒い魔物の目の前に辿り着いたカミュは、手に持つドラゴンキラーを振り抜く。避けるように伸ばされた黄色い触手が斬り飛び、人類とは異なる色の体液が噴き出した。

 しかし、その斬り傷もまた、即座に回復呪文で塞がって行く。

 

<ベホマスライム>

スライム族の亜種であるホイミスライムの上位種と考えられている。攻撃力などは皆無に等しく、ホイミスライムと大差はない。だが、通常の人間には脅威であり、捕食した人間の肉体ではなく血液を食す為に、スライム状の体躯の色が赤黒い色だとも云われていた。どのような怪我も即座に治す回復呪文を行使すると云われ、その呪文は『経典』にさえ記載されていない悪魔の呪文であると伝えられている。神の祝福を受けた回復呪文ではなく、魔物の身体のみに効果を示す魔の呪文だと、人々の間では語られて来たのだ。

 

「いやぁぁぁ!」

 

「ピキュゥゥ」

 

 しかし、回復呪文だけが取り得の魔物が、ここまで戦い続けて来た歴戦の勇士を相手に持ち堪えられる訳がない。返す剣で、浮かぶ胴体を真っ二つに切り裂いたカミュは、地面へと落ちたスライムが形状を保てずに地面へと吸収されるのを見て、即座にトロルへと向かって駆け出した。

 既にトロルとの戦闘も終盤を迎えている。ボストロールとさえも激戦を繰り広げたリーシャが、下位種一体に後れを取る訳がない。カミュが走り出したと同時に唱えられた呪文が、戦闘を終了させる幕引きの鐘となって鳴り響いた。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 振り下ろされたトロルの腕を斧で斬り飛ばしたリーシャが後方へ下がると同時に紡がれた呪文は、この世界にある灼熱呪文の中でも最強の呪文。全てを飲み込む程の火炎が、幼い『魔法使い』の持つ杖の先から迸った。

 まるで周囲の森を炎から護るように、トロルの周囲を取り囲むように着弾した火炎は、そのまま天へと登るように立ち上り、トロルの巨体を飲み込んで行く。逃げる事さえ出来ないように囲みを作る火炎は、天から吸い上げられているかのように円を描いて立ち上ったのだ。

 

「炎から飛び出して来た際の準備をしておけ」

 

「わかった」

 

 灼熱呪文を唱えた少女と、火柱との間に入ったカミュは、傍にいるリーシャへと警戒を緩めないように指示を出す。斧を下げて火柱を見ていた彼女は、再び表情を引き締めた。

 だが、彼等の心配は杞憂に終わる。力自慢の巨体を有するその魔物は、二度と炎から出て来る事はなく、火柱が終息するとその肉体を全て燃やし尽くし、炭のような骨だけを残してこの世から消え去って行った。

 怪我は回復してはいても、体力が戻る事はない。二度も瀕死に陥っていたトロルには、最上位の灼熱呪文から逃れるほどの体力は残されていなかったのだろう。故に、燃やし尽くされる事しか術はなかったのだ。

 

「……あの呪文の契約を急がないと」

 

 戦闘が終了し、移動を開始し始める。カミュもリーシャも武器を納め、笑みを浮かべて近づいて来たメルエの手を握って再び歩き始めた。

 そんな三人の後ろを歩き始めたサラは、誰にも聞き取れない小さな呟きを漏らす。魔物の肉が焼けた不快な臭いと、木々の焦げ臭さが残る森の中で、その小さな呟きは天へと登って行った。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

次話は今月中に更新出来るかどうかわかりませんが、頑張って描いていきます。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。