新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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戦闘⑨【南西海域】

 

 

 

 ルーラという移動呪文を行使した一行は、ネクロゴンドの山脈を抜けて南西の森の中へと着地する。当初は北西方角へと移動していた彼らであったが、その進路は突如変わり、以前に見た事のある森の中を目的地として定める事となった。

 その場所は、通常の人間であれば何度見ても不気味な印象しか受けない程の物ではあったが、カミュ達四人にとっては感慨さえも湧いて来る場所である。特に幼い少女にとっては、哀しみと共に暖かな思い出がある場所。

 崩れ落ちた木製の門は既に朽ち果てており、その木を寝床にしている虫達の活動拠点となっている。古ぼけた木製の柵にはカラス達が止まり、仲間達の帰りを待っていた。

 

「……カミュ様、何故テドンへ?」

 

「船を降りてから一月も経過していない。船が順調に航海しても、ポルトガへは着いていないだろう。テドン周辺の森の近くで停泊している可能性もあるからな」

 

 グリーンオーブという神秘の力を失い、その力を借りて現世に繋ぎ止められていた魂は全て天へと還っている。故に、この朽ち果てた村にはもはや復元する力は残されていなかった。

 メルエがラナルータという呪文を唱え、昼と夜を逆転させた時には僅かではあるがオーブの力の残骸が残っていたのだろう。だが、今少女のポシェットに入っているオーブは、まるでその力を使う時を待つように静かに輝きを押さえ込んでいる。

 残留していた力を失った村は、夜になってもその姿を変える事無く、昼間と同様に朽ち果てた姿でその場に存在していた。

 カミュとしても、確実にテドンへ向かえると考えていた訳ではない。カミュの中に残る印象を朽ち果てた村の姿にしたのはまだ陽がある内であり、それも可能性を追った結果に過ぎないのだ。だが、既に朽ち果てた姿から変化しない村は、カミュの頭の中に残る印象と合致し、魔法力という神秘を媒体として移動を可能にさせていた。

 

「メルエ、行こう。哀しい事だが、ここにはもう何もない」

 

「…………ん…………」

 

 本来、メルエという幼い少女を最も大事にするカミュであれば、この場所を避けて通る事が普通のように思える。だが、その胸の内をリーシャはある程度把握していた。

 おそらく、彼は船に乗っている者達の身も案じているのだろう。如何に旅慣れたとはいえ、彼らでは全ての魔物と対峙する事は不可能であり、万が一にも大王イカのような魔物と遭遇すれば、全滅する可能性さえも有り得るのだ。

 メルエという大事な少女の心に残る傷を慮って尚、危険の多い航海を続ける船員達の身を案じながらポルトガで待つ事を嫌ったとリーシャは考える。口に出す事も、表情に出す事もしないが、カミュという『勇者』はそういう人物なのだと、彼女は知っていた。

 故にリーシャは、寂しそうに村であった場所を見つめるメルエの手を引き、その心を案じるように歩き出す。

 

「……夜も更けて来ましたね。一度何処かで休みましょう」

 

 テドンの森の中に入り、南に抜けた先にある海へと向かう途中でサラは先頭のカミュへと進言した。既に空には月が浮かび、森の木々に遮られるようにその光は乏しい。歩く先が見え辛くなった今では、道に迷う事はないだろうが危険である事に変わりはない。

 目的である船も、敢えて危険を冒して夜の航海を続けるとは思えない以上、一晩を森の中で明かし、太陽と共に歩き出した方が良い事も確かであった。

 

「陽が完全に上ってしまえば、出港してしまう可能性もある。出来る限り森を抜けたい」

 

「そうだな……メルエは私が背負おう。サラ、これを頼む」

 

 それでも歩みを止めないカミュの発した理由を聞き、眠そうに目を擦り始めたメルエの前に屈んだリーシャは、背中に括っていたバトルアックスをサラへと手渡す。倒れ込むようにリーシャの背に乗ったメルエに苦笑を浮かべたリーシャであったが、受け取ったバトルアックスの重さにふらつくサラを見て目を細めた。

 リーシャの虐めのような修練を受けて来たサラは剣の扱いも上達し、今やその辺りの剣士などよりも上位に立つ存在となっている。だが、それでも彼女は戦士でも勇者でもない。並みの剣士では持つことも出来ない程の重量があるバトルアックスを振り回す事など出来はしないのだ。

 

「それは俺が持つ。もはやこの斧も必要はないと思うがな……」

 

「わかっている。だが、どうしても愛着があってな。出来るならば、船に乗る人間で使える者がいるのなら使って欲しいと思っている」

 

 ふらつくサラからバトルアックスを受け取ったカミュは、その斧の在り方を見て軽い溜息を吐き出す。彼にとって、武器は所詮武器でしかなく、愛着を持って接する物ではないのだろう。草薙剣のように、特別な意味を持つ神代の剣であれば、それを返還しなければならないという使命感にも似た物を持つのだが、今カミュが装備している稲妻の剣などには興味の欠片もないのかもしれない。

 だが、戦士であるリーシャにとって、武器とは己の力を示す物の一つである。戦士とは己の力のみで戦う者であり、その力を引き出す為に武器を用いる。故にこそ、武器とは己と共に歩む戦友に等しく、ぞれを粗末に扱えば必ず己に返って来ると考えている者も多いのだ。

 騎士といっても、上級貴族のような裕福な家であれば武器を買い換える事も容易であろうが、リーシャのような下級貴族の出であったり、平民の出である戦士にはそのような余裕はない。そういう者達は巡り合った武器こそが己の命を預ける相手であり、共に歩む友なのだ。

 

「ですが、リーシャさんのように力がある方は……」

 

「……サラ、まさかとは思うが、私を『馬鹿力の怪力女』だとでも言うつもりか?」

 

「自覚はあるのか……」

 

 サラは先程まで自分の手に有ったバトルアックスの重さを考え、その重量を振り回せる人間が船の上どころか、世界中を探してもいないのではないかと思っていた。船に乗っている人間の中には、カンダタ一味という、ある地方では恐れられた一団の元幹部がいるのだが、その者達であっても戦闘用に改良されたバトルアックスを振り回す事が出来る者はいないだろう。それこそ、彼等が兄のように慕う一味の棟梁でなければ無理ではないかと考えられる。

 そんなサラの正直な考えに対し、瞬時に瞳を吊り上げたリーシャはメルエを起こさないように低い声を発した。

 戦士としての矜持も、騎士としての誇りも持ってはいるが、それでもやはりリーシャは女性なのだろう。だが、そんなリーシャの恨み節は、同じようにバトルアックスを軽々と持った青年によって斬り捨てられる。もはや射殺しかねない程の鋭さになったリーシャの瞳を無視するように歩き始めたカミュの背中を、サラも慌てて追いかけた。

 

「森は抜けましたね……陽が上る頃に海岸を確認しましょう」

 

 リーシャの背ですやすやと眠るメルエに苦笑しながら、彼らは夜の森を抜けて行く。途中でゴートドンのような魔物を視界に納める事はあったが、カミュ達から逃れるように身を隠し、夜の闇に紛れて消えて行った。

 最早、彼等四人の実力は、その身から溢れ出さんばかりに上昇している。それはサラやメルエが宿す魔法力もそうであろうが、カミュやリーシャの纏う実力自体が魔物の本能を呼び覚ましているとも言えるだろう。

 『逆らってはならぬ者』、『手を出してはならぬ者』、『己の生命を脅かす者』、様々な言い方はあれど、テドン近辺を住処とする魔物達から見れば、カミュ達四人は種族を超えた上位に位置する者達である事は間違いはないのだ。

 

「ふぅ……カミュ、そのままレイアムランドと呼ばれる島へ向かうのか?」

 

「ああ。ここまで来て足踏みをする必要はない筈だ」

 

 火を熾し、眠るメルエを護るように身体を横たえたサラは、即座に眠りに就いてしまう。サラ自身も、ネクロゴンドの火山付近の洞窟の探索には力が入っていたのだろう。そこを抜ければ『魔王バラモス』という諸悪の根源と相対する事になる可能性があると覚悟していたのだろうし、緊張も極限近くまで高まっていた筈だ。

 バラモス城の圧倒的な存在感に気圧され、自分達の目的が達成出来ないという絶望感に陥った時に、高まっていた緊張感と覚悟は、とても深い絶望へと変化する。それは、緊張と覚悟によって押さえつけていた疲労を一気に噴き出させたのかもしれない。

 シルバーオーブを手にし、精霊ルビスの従者の復活を可能な物とした時、その疲労は安堵となってサラを襲う。そして、ようやく彼女は信頼する者達に護られる中で、それら全てを開放する事が出来たのだろう。

 

「しかし、不死鳥ラーミアとは、どのような者なのだろうな?」

 

「さぁな……。だが、あの城に行く為に必要だという事だけは確かだ」

 

 サラとメルエが仲良く眠りに就く横で、カミュとリーシャの会話は続いていた。

 『精霊ルビス』という存在を目にした者はいない。ルビス教の教皇でさえ、その姿を見た事はなく、声を聞いた事さえもない。唯一、歴代の『賢者』と呼ばれる存在だけは、精霊ルビスと人間の架け橋になる者として、その尊顔を拝した事があるのかもしれないが、この世界に現存する者の中では誰一人としていない事は事実であった。

 そんな信仰の世界の存在である『精霊ルビス』の従者とされる不死鳥。死を受け入れない鳥と呼ばれるその者が、どのような存在なのかもまた、この世界で知る者は誰もいない。

 

 

 夜が更けて行き、交代で眠りに就きながら日の出を待った一行は、東の空の方から明るみが見えたと同時に海岸沿いを歩き始める。未だに夢の中にいるメルエを背負ったリーシャを最後尾に海岸沿いを歩く一行は、朝陽に輝く海面に知らず知らず頬を緩めた。

 魔王バラモスが台頭し、如何に世界が魔に怯える時代になろうとも、太陽は毎日昇り、恵みの輝きを降り注ぐ。この世界に生きる者達全てに平等に降り注ぐ太陽の輝きは力強く、明日への希望を胸に湧き上がらせて行くのだ。

 そんな太陽が有る限り、人々の希望は消えない。

 今日よりも良い日を東の大地より運んで来る太陽が昇る限り、世界で生きる全ての生物の営みは消える事はないだろう。

 サラは東の空へと浮かび上がって来る太陽を見ながら、そんな事を考えていた。

 

「カミュ、船だ!」

 

 サラが東の空に気を取られ、カミュが周辺の魔物を警戒する中、後方に居たリーシャが未だに太陽の光の届かない暗がりに佇む帆を捉える。畳まれていた帆を徐々に上げられ、船上からは様々な声が聞こえていた。

 日の出と共に出港する予定であったのだろう。それを察した一行は、走り難い砂浜を駆けて船へと近づいて行く。既にリーシャに背負われているメルエは目を覚ましていたが、砂浜を駆ける速度が落ちてしまう為、彼女が下ろされる事はなかった。

 

「おい! あれを見ろ!」

 

 出航の指示を飛ばす頭目の怒鳴り声が響く中、最後の手順となる錨を上げる作業を待っていた船員が、遠くから聞こえて来る声を耳にし、昇って来る太陽の光の中に小さな影を発見する。眩しそうに額付近に手を翳した船員は、徐々に近づいて来る影の正体に気が付き、周囲の船員達へと声を飛ばした。

 出航の準備が整ったにも拘らず錨を上げようとしない船員を不審に思った者が近づき、最後には多数集まった錨付近に檄を飛ばす為に頭目までが近づいて行く。

 そして、船上は歓喜の声に包まれた。

 

「おかえり! よく戻って来た、よく戻って来た」

 

 いつもは感情を極力抑える筈の頭目が、カミュ達の帰りに対して全身で喜びを表している。それを見ていた船員達もまた、勇者達の凱旋を心から喜んだ。

 それ程に、ネクロゴンド地方という場所は、人間という種族にとっては鬼門に近い場所なのである。誰一人としてその場所に辿り着いた者はおらず、その場所を見た者もいない。唯一、世界の期待を背負った一人の英雄がその場所に辿り着いたと云われるが、その英雄もまたその場所で命を落としたと考えられていた。

 カミュ達がどれ程に強力な能力を持っていたとしても、カミュ達をどれ程に信じていたとしても、頭目や船員達にとって彼等四人が大事な者達である以上、その身を心から案じていたのだろう。皆の顔がそれを明確に物語っている。

 

「魔王の城はなかったのか?」

 

「いや、あるにはあったが、渡る方法がない」

 

 だが、頭目は即座に表情を戻す。周囲の船員達が勇者達の帰還を喜ぶ中、彼だけはカミュ達がこの日数で戻って来た事の真意に気付いていたのだ。

 もし、あのネクロゴンドに魔王の城があり、そこへ入ったとすれば、帰還する事自体が難しい。世界を闇の脅威で覆う程の存在と死闘を行うのだ、如何にカミュ達四人の力が強いとはいえ、無傷で帰還出来る訳がない。魔物の拠点となる場所なのだから何度も戦闘を行う筈であり、最悪その場で死んでしまっていても可笑しくはないだろう。

 それにも拘らず、僅か一週間程で帰還したという事は、その場に彼等の目的地はなかったと考えるのが普通であり、頭目はそれを確認したのだ。

 

「レイアムランドという島へ向かいたい」

 

「レイアム……ランド? ああ、あの南の果てにあると云われる島か」

 

 次の目的地を告げるカミュの言葉を聞いた頭目は、その聞き覚えのある単語を自身の頭の引き出しから引き摺り出し、この世界に伝わる場所を口にする。カミュ達にシルバーオーブを預けた男性もまた、レイアムランドの場所は遥か南にあると口にしていた。

 既に伝承化してしまっている程の場所であり、本当にある場所なのかも解らない。この世界では世界の果ては奈落の底へと続く崖になっているという説が信じられている。故に誰も果てまで旅をしようとは考えないのだ。

 遥か北にあるグリンラッド。

 遥か南で忘れられた島、ルザミ。

 その場所を知る者は限られた者であり、その場所に辿り着く者もまた、限られた者である。

 

「まぁ、今となっちゃ、南の果てなのか、北の果てなのかは解らんがな」

 

 この船に乗る船員達は、その限られた者達であった。

 誰しもが果てに向かう事を恐れてはいたが、この世界の果てはなく、繋がっている事を既に知っている。それが海に生きる者達にとってどれ程の知識なのかという事を彼等が気付いているかは解らないが、彼等の中でその事実は既に常識となっていた。

 それは、彼等が『勇者一行』と呼ばれる者達との旅で築いて来た『絆』なのかもしれない。

 

「よし! 出航だ!」

 

 世界の希望が再びこの船に戻って来た。

その事だけで彼等の胸に宿る勇気は再燃する。

 頭目の言葉に反応した船員達は、喜々とした表情で己の持ち場へと散って行く。錨は即座に上げられ、日の出と共に靡く風を受けた帆は、巨大な船をゆっくりと動かし始めた。

 

 

 

 テドン付近の海岸から真っ直ぐ南へ下りながら船は進んで行く。天候にも恵まれ、時折雨が降る事はあっても、大きく海が荒れる事はなかった。

 陸地は見えず、常に海原と海鳥達しか見えない景色をメルエは飽きもせずに笑顔で見つめ、海が穏やかな日に船員達が行う魚釣りを傍で見ながら、揚がって来る魚が生簀に入って行くのを屈み込んで眺める。そんな中、珍しい海の生き物を見つけてはサラに問いかけ、その名前を反芻しては触れてみようと手を伸ばすメルエが、貝に手を挟まれて大泣きしたのは船員達の中で長く笑い話として語り継がれる事となる。

 

「…………ヒャダイン…………」

 

「やぁ!」

 

 そんな穏やかな航海の途中でも魔物との遭遇はあり、甲板へとよじ登ろうとする魔物へ向かってメルエやサラが呪文を唱え、既に甲板まで辿り着いた魔物をカミュとリーシャが斬り飛ばす。以前のように船員達が戦闘に加わる必要はなく、むしろ足手纏いになる恐れがある為、彼等は己の仕事に没頭していた。

 最後のマーマンダインを斬り捨てたカミュは、甲板に横たわる魔物の死骸を海へと戻す作業をしている船員達を見て、息を吐き出す。それと同時にリーシャもバトルアックスを背中へと戻した。

 

「ぎゃぁぁぁ!」

 

 だが、そんな戦闘終了の雰囲気は、突如響いた悲鳴によって打ち破られる。テドンを出てから一月近くの航海の中で、戦闘で悲鳴が上がった事などない。それがどれ程異質な物であるかを理解した船員達の表情にも緊張が走った。

 既に太陽は西の空へと沈み始め、一日の終わりを示している。薄暗くなって来た甲板の視界は悪くなっており、夜という魔物の時間が迫っている事を示していた。

 戦闘終了を感じた船員の一人が持ち場に戻ろうと甲板の荷物を横切ろうとした時、その刃が彼の足を切り裂いたのだ。噴き出す血潮は甲板を真っ赤に染め上げ、倒れ込んだ船員は深々と切り裂かれた腿の部分を押さえる。

 

「くそっ!」

 

 倒れ込んだ船員から一番近くにいた乗組員が駆け出した。

 その場所に何が居るかは解らないが、そのまま放置していて良い訳がない。この状況で船員達に攻撃を仕掛けて来るとすれば、それは魔物以外には有り得なく、魔物相手となれば一般の船員では対処が難しかった。

 駆け出した者は、この船に乗る船員達の中でも新人扱いされる者。既に三年近くも船に乗っている者を新人と称する事が正しい事なのかは解らないが、船の扱いとなればまだまだ未熟な部類に入るのだろう。

 しかし、話が戦闘となれば別である。

 

「こっちに来い!」

 

 倒れ込んだ船員の腕を掴んだ新人は、その重い身体を引き、自分の後方へと下がらせる。それと同時に持っていた鋼鉄の剣を手にし、暗がりに向けて声を荒げた。

 広い甲板の反対側にいたカミュ達が到着するまであと僅か。その間だけでも凌げれば、怪我を負った船員の傷も癒され、その魔物も対峙されるだろう。この新人はそれを十分に理解していたし、自分の力を過信する事はなかった。

 それでも、その魔物は彼が一人で対峙する相手ではなかったのかもしれない。

 

「ぐっ、ちきしょう、離せ!」

 

「グルル」

 

 荷物のように暗がりに鎮座していた影がのそりと動き出したかと思うと、新人が剣を持つのとは反対の腕に何かが飛び出して来る。それは新人が考えていたよりも巨大な物であり、一瞬の内に彼の腕は強力な力で挟み込まれた。

 万力のように圧倒的なその力は、彼の左腕を容赦なく締め付け、通常では有り得ない程の音を響かせる。彼の脳に直接響く軋むような音とは別に、波や風の音を遮るようにそれは甲板にも轟いていた。

 その力から逃れようとする彼ではあったが、強力な力で挟み込まれた腕は動かない。後方へと下がりながら喚く彼と共に、その魔物はゆっくりと姿を現した。

 

「無理に動くな! 腕がなくなるぞ!」

 

 甲板の荷物の影になっていた場所から引き摺り出されるように現れた魔物を見たリーシャは、駆けながらも声を荒げる。今も尚、左腕を引き抜こうとしていた新人は、その声と、自分の腕を挟む青紫色をした巨大な鋏を見て硬直した。

 出て来たのは巨大な蟹。沈み行く太陽の真っ赤な光を受けて尚、青紫に輝く体躯は通常の人間よりも大きい。そしてそこから伸ばされる二つの鋏もまた、一つ一つがメルエの身体並みの大きさを持っていた。

 青紫色に輝く甲羅のから伸ばされた目は獲物である新人を睨みつけ、その下にある巨大な口からは全てを噛み砕ける程の牙が覗いている。

 

<ガニラス>

『軍隊ガニ』や『地獄のハサミ』とは異なり、本来の生存場所である海原を住処とする蟹の魔物である。陸へ揚がり、適合した魔物ではない為、本来の本能や技量を有したまま強力な魔物と化していた。抵抗の強い水中での動きに合わせ、数多くの足は同種の魔物よりも太くしなやかな筋肉で覆われており、巨大な鋏の力もまた、同種の物よりも強く出来ている。特殊な技能を有している訳ではないが、基本性能が同種の物よりも遥かに高く、海域で遭遇する魔物の中では大王イカに次ぐ難敵であった。

 

「ちきしょう!」

 

「やめろ!」

 

 左腕の感覚がなくなり、自分の真下にいる巨大な魔物と同じような色へと変色した事で、新人は冷静さを失ってしまう。右腕に持った鋼鉄の剣を振り下ろそうとしたその時、ようやく辿り着いたカミュが声を上げた。

 だがそれと同時に振り下ろされた鋼鉄の剣がガニラスの身体に衝突するよりも早く、不快な音と共に、絶叫と血飛沫が甲板に噴き上がる。

 骨をも一瞬で圧し折る力は、新人の左腕を二の腕部分からぶった切ったのだ。空中に投げ出せれた左腕は、甲板に落ちると同時にもう片方の鋏で掴まれ、そのままガニラスの口へと運ばれて行く。鋏ばかりか口元までも真っ赤な血液に染めたガニラスが、腕から噴き出す血液を必至に抑える新人の後ろで蹲っていた船員に向かって鋏を伸ばした。

 

「ぐぶっ!」

 

 辿り着いたカミュが間に入るよりも早くに伸ばされた鋏に反応出来たのは唯一人。片腕を失って尚、腰が抜けたように動けない船員に覆い被さった新人だった。

 肉を切り裂き、深々と背中に突き刺さった鋏の脇から真っ赤な血液が溢れ出して来る。それは確実にこの人間の命の灯火を吹き消して行く。内蔵までをも傷つける程の重症。致命傷ともなりえるその傷を受けた新人は、大量の血液を甲板に吐き出し、瞳の焦点さえも朧になって行った。

 

「お、おい! 死ぬなよ!」

 

 ポルトガ国王が自身の財を投じて製作させた巨大な船。その船はこの世界を救うと謳われる『勇者』が持ち主となるが、彼等に船を動かす技術はなかった。その為に国王自ら自国の民に問い掛け、募った結果、この船の船員達は集められたのだ。

 しかし、国王の呼びかけに応じた者達の数では、この巨大な船を動かすには足りない。頭目を命じられた人間は、進水式が近づくにつれ焦りを感じる。そんな進退窮まった時に現れたのが、決して若くはない七人の男達であった。

 精悍というには影が強く、勇敢というには歪な色が濃い七人の男達を見た時、頭目はその七人の脛に幾つもの傷がある事を察する。これだけ巨大な船が海に出るというのだから、そこに発生する利権に肖ろうと群がる者達は数多くいた。その中から純粋に海に出たいという人間だけを選んで来た頭目であった為、彼等を見た時に受け入れるか否かを悩む事になる。

 だが、それでも人手が足りないのは明らかであり、今まで見て来た下心がはっきりと解る者達とは異なる雰囲気を持つ七人を頭目は日雇いのような形で雇う事にした。

 

「ごふっ……怪我はないか?」

 

「ああ! ああ! お前のお陰で傷一つない。しっかりしろ!」

 

 勇者一行を乗せての出港準備の為、ポルトガ港は喧騒に包まれる。その中でも、食料や水を船へと運び込む仕事や、船の部品の確認など、船員達は睡眠時間を削る程に仕事に追われる事となっていた。

 そんな中でも七人の男達は懸命に働いていたのだ。彼等の見た目は優男ではない。むしろ屈強な者達と言っても過言ではないだろう。海の男として生きて来た船員達が気後れすることはないだろうが、それでも陸上であれば腕力で海の男達に遅れを取るような者達ではない事は確かだ。

 そんな男達にも拘らず、船員達の指示に黙って従い、どんな仕事でも不平不満を口にせず働いている。そればかりか、仕事の一つ一つに疑問を持ち、海で生きる為に何故必要なのかを貪欲に吸収しようとしていた。

 何事も真面目に取り組み、仕事の意味を考え、どんな事でも吸収しようとする者達を邪険に出来る人間などいない。最初は舐められないようにと強気に出ていた船員達も、この七人の新人に対して次第に心を開くようになって行く。

 

「サラ、急げ!」

 

「二人を下げろ!」

 

 そんな七人の姿を見ていた頭目は、これ以上疑問に思っても仕方がないと考え、その採用の合否をいずれ訪れる勇者一行に委ねる事にした。

 そして、ポルトガ港にて勇者一行を初めて見た頭目は、その若さに驚く共に、七人の男と勇者一行の関係性に驚く事になる。何か因縁めいた物を持っている事だけは理解出来たが、その内容までは解らない。それでも、自分の勘が間違っていなかった事を感じた頭目は、彼等のやり取りに注視した。

 そして、七人の新人の覚悟と、それを受け入れる勇者一行の度量を見て、頭目は彼等を本当の仲間として認めたのだ。

 それからの時間の経過は早かった。勇者一行との旅は過酷でありながら、夢と希望に溢れ、船員達の表情を輝かせ続ける。未知の土地に、未知の特産、そして未知の知識が彼等を大きく成長させて行った。

 唯一の懸念である魔物との戦闘も、この七人の新人が居たお陰で、船の安全が確保されていたといっても過言ではない。そして、今や脛に傷のある七人の男達は、この船にとって掛け替えのない人材であり、勇者一行を支える仲間となっていたのだ。

 

「ピィ―――」

 

 瀕死の新人と足に傷を受けた船員を下げ、カミュとリーシャがそれぞれの武器を構える。その瞬間、ガニラスの甲羅にへばり付いていた貝が奇声を発した。

 マリンスライムと呼ばれるその魔物が奇声を上げると同時に、ガニラスを包み込むように光が集まって行く。その光はガニラスの甲羅を覆うように膜を作り、只でさえ頑丈な甲羅を更に強化して行った。

 しかし、もはや、マリンスライムなどの貝に弾かれるような者達ではない。その手に握る武器も、その武器を握る腕も、『魔王バラモス』という頂点に挑もうとする程の物なのだ。カミュが振り抜いた稲妻の剣は、マリンスライムを貝ごと容易く斬り裂き、その命を奪って行く。

 

「…………バイキルト…………」

 

「うおりゃぁぁぁぁ!」

 

 甲羅を強化させたところで、所詮は蟹の化け物である。人類の頂点に立つ戦士の会心の一撃を防げる程の強度を持っている訳ではない。直前に唱えられた『魔法使い』の補助呪文を受けたバトルアックスは、ガニラスの甲羅を突き抜けてその身体を真っ二つに砕いて行く。防御するように突き上げた二つの鋏はその役目を担えず、弾き飛ばされた右鋏は甲板に置いてあった大きな木箱に突き刺さった。

 瞬く間に魔物を葬り去った二人の後方では、船員の治療が行われている。駆け寄ったサラは即座にベホイミを唱えるが、背中から内臓までを貫通したガニラスの鋏がつけた傷は粗く、ベホイミでは修復が追いついていかない。その内に、新人の瞳から光が失われて行った。

 

「頼みます、どうかこいつを助けてやって下さい!」

 

 未だに血が止まらない自分の太腿を押さえながら、自分を庇った男の身を案じる船員は、喉を枯らしてサラへ懇願する。懸命に回復呪文を唱え続けるサラではあったが、腕の肘付近まで輝く淡い緑色の光では、命の危機にまで瀕した傷を癒す事は叶わない。悔しそうに唇を噛み締めるサラの頭に、以前の悔しさが浮かび上がった。

 カミュという勇者を失わない為に始めて行使したベホイミという中級回復呪文。だが、人喰い箱の鋭い牙を受けた深い傷さえも復元した回復呪文でさえ、メルエの義母であるアンジェの命を救う事は出来なかった。

 背中から突き抜け、臓物まで届いた傷は生命の危機にまで達する。カミュのように鍛え抜かれた者であれば、それ程の傷を受けて尚、立ち上がる気力を残す事もあるだろう。生きる気力を失わなければ、回復呪文の恩恵を最大限まで引き出す事も可能であるからだ。

 だが、通常の人間の生命力はそれ程強い訳ではない。意識を失う程に強い痛みは、その者の生きる気力さえも奪い、生を諦めてしまう。生を諦めた者に対して行使する呪文としては、ベホイミは弱いのだ。相手の意思さえも無視する程の圧倒的な治癒力。それを有する呪文が必要であった。

 

「カミュ様はそちらの方の足にベホイミを! メルエ、リーシャさんを下がらせて!」

 

 唱え続けていたベホイミの詠唱を止めたサラの腕から淡い光が消えて行く。サラの指示を受けたカミュによって場所を移動させられた船員の瞳が絶望の色へと変化して行った。

 だが、『賢者』の瞳になった時のサラの強さを、この三人は知っている。頷きを返したメルエは素早くリーシャの手を引いてサラとの距離を取る。ベホイミの行使が終わり、斬り裂かれた足の傷を癒したカミュは、そのまま船員を担いで甲板中央へと移動した。

 既にサラの下でうつ伏せになっている男の意識は朦朧となり、いつ命の灯火が吹き消えてしまっても可笑しくはない。先程までのベホイミの行使によって、左腕の傷は塞がり血は止まっている。欠損部分の復元は出来ないが、その部分が化膿する事はないだろう。

 

「その御許へと向かう者を遮る事をお許し下さい」

 

 一つ小さな呟きを漏らしたサラは、更に小さく詠唱を開始する。紡ぎ出す言霊と共に、サラの周囲に巨大な魔法陣が浮かび上がった。魔法力を放出する才が皆無であるリーシャでさえも視認出来る程の魔法陣は、サラの下で苦しむ男性を包み込む。

 額に汗を滲ませながらサラは男性へと視線を動かした。

まだ息はある。心臓の鼓動は微弱ながらも続いており、懸命に生きようともがいている事が解った。心臓の鼓動が止まらなければ、まだサラに出来る事はある。既にルビスの御許へと旅立った魂を呼び戻す事は出来ないが、その身体に残ろうと踏ん張っている魂を繋ぎ止める事は出来る筈だ。

 そう決意したサラの瞳に再び炎が宿る。大きく広げた両手を中心に、サラの身体全体を緑色の光が包み込む。最早それは淡い光ではなく、太陽の沈んだ暗闇の中でも周囲を照らす程に明るく輝いていた。

 

「ベホマ!」

 

 詠唱の完成と共に、サラを中心に光が爆発する。

 緑色に輝きを放った光は、サラの下で横たわる男性の身体に向かって一気に吸い込まれて行く。生命力を失いかけていた身体の傷は、瞬時の内に塞がって行き、あれ程醜く傷つけられていた臓腑は元の健康な色へと戻って行った。

 臓物が修復され、それを確認するよりも早く、その上を肉が覆い皮が覆う。全ての傷を塞いで行き、最後には時間を巻き戻したかのように、修復作業を終えた。

 男性を命の危機に陥れていた傷は塞がったが、欠損した左腕は戻らない。それでも、先程まで弱々しかった息吹はしっかりとした呼吸へと戻り、誰一人として口を開けない静寂の中、男性の命の鼓動がしっかりと刻む音が鳴り響く。

 それは、彼が命を取り留めた事を明確に示していた。

 

<ベホマ>

回復系の呪文としては最高位に位置する呪文。『経典』という教会が保持する書物には記載されておらず、『悟りの書』という古の賢者が残した文献に記載されていた。どれ程に深い傷であろうと、その者の命の灯火が宿っている限り修復してしまう程の神秘である。生命を諦めない者、未だ精霊ルビスの御許に向かうには早過ぎる者を繋ぎ止める程に強力な回復呪文は、生命のバランスさえも崩しかねない物として、『悟りの書』という限られた者にしか見えない書物に封印されていた。

 

「成……功……しました」

 

「サラ!」

 

 緊張の糸が切れたサラは、そのままゆっくりと横へ倒れて行く。慌てて駆け寄ったリーシャが抱きとめなければ、甲板に頭を打ってしまっていただろう。満足そうな笑みを浮かべて眠るサラを見たリーシャは安堵の溜息を吐き出し、誇らしげにその頭を優しく撫でた。

 魔法力が枯渇した訳ではないだろう。今のサラが、大呪文とはいえども一つの呪文の行使だけで魔法力が枯渇するとは思えない。故に只緊張の糸が切れ、安堵の為に力が抜けたのだろうと考えていた。それはカミュの顔を見れば明確であり、彼もまた小さな微笑を浮かべて頷きを返している。

 

「……うぅぅ……」

 

「もう目が覚めたのか? 無理をするな、死線を彷徨っていたのだからな」

 

 カミュに頷きを返したリーシャの下で小さな呻き声が聞こえて来る。先程まで死線を彷徨い、再びこの世界で生きる事が許された者が生還を果たしたのである。

 ゆっくりと起き上がろうとするが、未だに血液が足りないのか身体をふらつかせる。その身体を支えたのは、カミュによって足の怪我を回復してもらった船員であった。彼によって命を救われ、彼の生還を誰よりも願った船員は、その顔を涙と鼻水で汚しながらも、満面の笑みで男を支える。

 そんな船員の顔を見て、自分が未だに生きている事を実感した男は、困ったような笑みを作るのだが、左腕に違和感を感じ、そこに何もない事に気付いた時、再び絶望の表情を浮かべた。

 

「その左腕は、名誉の傷だ。確かにこの先の人生で苦労する事もあるだろう。だが、それでもその傷を誇れ。私も、カミュも、サラやメルエも、そしてこの船に乗る全ての者が、その傷を誇りに思う」

 

 二の腕から先がなくなり、二の腕部分を愛おしそうに撫でる男に誰も声を掛けられない中、サラの身体を静かに甲板に横たえたリーシャは、満面の笑みを浮かべたまま口を開く。その言葉の何処にも嘘偽りは含まれていない。その事を誰もが理解出来る程、彼女の言葉は真っ直ぐであった。

 だが、カミュは若干の驚きを見せる。

 左腕を失った男は、元カンダタ一味の者。そして、それを誰よりも糾弾していたのは、この頑固な女性戦士だった。それから三年近くの旅を続けて行く中で、彼等を少しずつ認めて来た彼女ではあったが、騎士という職業上、人間性を認める事は出来ても、その罪自体を許す事はないように見えていたのだ。

 一度の善行が、全ての罪を洗い流す訳ではない。だが、その善行が罪を償おうとしている人間の決意の現れであり、その道の起点となっているならば、その決意を認め、誇りとする。そんなリーシャの言葉に、カミュは笑みを濃くした。

 

「鍛えろ! お前に身体の一部を奪われた者もいた筈だ。その者達に負けぬよう、そしてその胸にある誇りを失わぬよう、自らを鍛えろ!」

 

 厳しい言葉を投げかけたリーシャは、その手に持っていたバトルアックスを男の前に突き出した。突然の行動に驚いた男性であったが、残る右腕でそれを受け取り、静かに涙を溢す。座っている分、受け取ったまま倒れる事はなかったが、受け取った斧の重さを全身で感じた。

 戦斧と呼ぶに相応しいそれは、歴戦の者達だけが使える程の重量を持つ。それは元カンダタ一味の者にとっては特別な意味を持つ武器の一つであり、憧れの象徴ともいうべき武器。

 その背を追いかけて来る者達全てを護り続けようと奮闘した男が最後まで使用していた武器と同じ物であり、兄のように慕い続けて来た男が強敵達を薙ぎ倒し続けて来た武器と同じ物。

 今、彼の手にある物は、そんな憧れの男を打ち倒した者が常に持ち続けていた武器なのだ。その価値を測る事など出来はしない。後に英雄として語り継がれても可笑しくはない程の人物から、その誇りと考えても可笑しくはない武器を託された。それがどれ程の事なのかを理解出来ない者ではない。胸にバトルアックスを抱き抱えた男は、静かに涙を流し続けていた。

 

「仲間は誰一人欠けちゃいねぇ! 出航だ!」

 

 既に闇が支配し始めた海原の真ん中で漂う訳には行かない。

 頭目が張り上げた声に応える船員達の声は、少し涙の混じり擦れている。それでもその声を聞いた頭目は、笑みを浮かべたまま舵の方向へと歩き出した。

 全ての船員が持ち場へと戻って行く。全ての者の持ち場が同じ方角である訳がない。それにも拘らず、全員が同じ方向へ向かい、その場所で涙交じりの声を掛け、そこに座る者の肩に触れてから持ち場へと戻って行った。

 カミュ達四人だけが、この長い旅で『絆』を築いて来た訳ではない。この船に乗る船員達は、勇者一行が探索を続けている間でも、お互いを護り、お互いを気遣って来たのだ。

 それもまた、『人』が紡ぐ立派な『絆』と呼べる物であろう。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

かなり長くなってしまいそうなので、二話に分ける事としました。
レイアムランドは次話になると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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