新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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第十六章
バラモス城①


 

 

 

 純白の大きな翼を一掻きすれば景色が変わる。広く果てない空は、やはりこの不死鳥だけの物なのかもしれない。白く柔らかな羽毛に包まれながらも、地上の景色に目を輝かせるメルエを必死で押さえるサラの姿にリーシャが苦笑を漏らした。

 青く抜けるような空は、何者も拒みはしない。全てを受け止めるかのように広く優しく、その代わりに何よりも厳しい自然を誇っている。雲が広がれば雨を降らし、天の怒りを地上へ落とす事もあるだろう。その雨や雷が恵みとなる者もいれば、命の危機になる者もいるのだ。

 そんな空を一行は駆っている。自分達の力でではないが、それでも彼等の功績の賜物である事に違いはない。彼等を乗せて大空を飛ぶその姿は、神代から繋がる命を再びこの世に現した霊鳥であるからだ。

 

「メルエ、何度も言っているでしょう! 落ちてしまったら、もう二度と会う事は出来ませんよ!」

 

「…………むぅ…………」

 

 サラの腕を嫌がるように身を乗り出す少女は、悲痛の叫びのような叱責を受けて頬を膨らませる。最早成人して数年経過するカミュやサラであっても、大空からの視界という未知の体験に胸が騒いでいるのだ。同じように未知の経験とは言えども、幼い少女の胸の高鳴りは尚更であろう。

 『ぷいっ』と顔を背けるメルエに対して溜息を吐き出したサラは、『ならば良いですよ、メルエとはここでお別れですね』という最後通告を口にする。自分の傍から離れ、前方へ視線を戻したサラを見たメルエは、喜び勇んで身を乗り出して地上へ視線を向けるのだが、その感覚に何か物足りなさを感じたのか、後方へと視線を戻した。

 そして、全く自分を見ようともしないサラと、その横で下を向くリーシャを見た彼女の心は不安に駆られて行く。故意的に更に身を乗り出してみるが、その小さな身体を掴む腕は伸びて来ない。もう一度振り向くと、サラは先程と同様であるが、リーシャの方はメルエから完全に顔を逸らしてしまっていた。

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

 既に不安という感情は恐怖に近い物へと変わっていた。自分に対して興味を失ってしまったように視線さえも向けないサラの姿も、自分を拒絶するように顔を背けるリーシャの姿も、その恐怖を煽る物以外の何物でもない。その恐怖は、微かな希望を込めて動かした視線の先にいるカミュの姿で恐慌と呼べる物まで進化する事となる。

 少女が最も頼りとする青年は、女性三人のやり取りに見向きもせず、ラーミアへ言葉を投げかけながら進路を示していたのだ。それを見たメルエは絶望し、そろそろとサラへと近づきながら謝罪の言葉を口にする。その瞳には既に涙が溜まっていた。

 

「ぷぷっ……サ、サラ、もう許してやれ」

 

「ふぅ……仕方がありません。メルエ、本当に危ないのですから、身を乗り出しては駄目ですよ。この景色を見たい気持ちは解ります。ですが、メルエが落ちてしまったらと考えると、私達は本当に心配なのですから」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャはメルエを拒絶する為に顔を背けていた為ではない。笑いを堪える為に顔を背けていたのだ。傍から見ていれば、メルエの慌てた姿は笑いを誘う物である。当の本人からすれば堪ったものではないのだが、最近我儘が強くなって来たメルエを懲らしめるのに良い機会だと感じていたリーシャは、静観を決め込んでいた。

 笑みをどうにか堪えながらもサラへと助言を口にしたリーシャの姿は、メルエからは見えていない。その視線の先にあるのは、以前ランシール近辺で見た事のある無表情なサラの顔。そんなサラが小さな溜息を吐きながらも再び自分へ視線を向けてくれた事が嬉しく、メルエは泣き笑いのような表情を浮かべながら大きく頷き、その膝元へと移動して行った。

 

「カミュ、このままあの城へ向かうのか?」

 

「最早他による場所などない筈だ」

 

 メルエとサラとの関係復活に笑みを溢したリーシャは、その表情を再び引き締めて前方で進路を見続けている青年へと向ける。その疑問は、心からの疑問ではなく、自身の覚悟と決意の再確認をする物であったのだろう。その証拠に、カミュの答えを聞いたリーシャの顔は先程以上に引き締まり、大きく頷きを返した。

 その二人のやり取りから生まれた緊張感は、サラやメルエにも波及して行く。楽しそうにサラの腕の中で微笑んでいたメルエの表情は、魔物と対峙する時のそれへと変化していた。強く握り締めたサラの拳は、四年の月日を掛けて近づいて来た道を再確認しているような決意を表している。

 

「いよいよですね」

 

「そうだな」

 

 サラの呟きにリーシャが頷きを返す。

 彼等がここまで辿り着くのに、どれ程の魔物を淘汰して来ただろう。

 諸悪の根源の打倒を夢見ながら、どれ程の困難を乗り越えて来た事だろう。

 どれ程の『人』の悪しき部分を見て、どれ程の『人』の正しき部分を感じただろう。

 世界で生きる数多くの生物達がどれ程にこの世界を必要としているのかを感じ、この世界自体がそれらの生物達全てを必要としているのを理解したのも、この旅があってこそ。

 そして彼等は、ここへ辿り着いた。

 

「カミュ様、『人』は護る価値のある存在でしたか?」

 

「……サラ?」

 

 ネクロゴンドの火山を超え、湖に浮かぶように聳え建つ城が見えた頃、サラは前方で瞳を細める青年へと一つの疑問を投げかけた。

 それは、今では遥か昔のようで、それでいて最近にも感じる頃にカミュの口から出た言葉。

 『人という種族自体が、護る価値のある物なのかが解らない』と溢したカミュの言葉は、あの頃のサラには全く理解が出来なかった。それでも、人間という種族の数多くの醜い部分を見て、サラはカミュの心の奥にある迷いを感じ取る事となる。だが、『人』の醜い部分を見て尚、『人』の強さと美しさを信じる彼女は、何時かカミュも理解してくれると信じ続けて来た。

 そして、この最終局面を前にして、彼女はその心にある物を直接問い掛けたのだ。

 

「……降りるぞ」

 

 だが、そんなサラの問い掛けに対して、一切の答えを放棄した彼は、ラーミアへと指示を出す。下降を始めた不死鳥の背中で、苦笑を浮かべるサラとは対照的に、少し肩を落としたリーシャがメルエの腕を引いて抱え込んだ。

 サラの問い掛け自体が突然の事であり、その内容自体が驚きの内容であったのだが、リーシャはその心の何処かで僅かな期待を持ってしまったのかもしれない。彼が『人』に対して希望を持てる旅を歩んで来た事を、そしてそんな彼の変化を見て来たという自負があったのだ。

 急速に近づく地面は本来ならば恐怖を誘う物であっただろうが、不死鳥ラーミアという絶対の存在に護られた一行は、その柔らかな羽毛に包まれながら、近づく決戦の地へ各々の思いを巡らせて行った。

 

「これが……魔王城」

 

 地面へと足を着けたラーミアが地上への架け橋として己の片翼を伸ばし、その上を歩く事によってカミュ達四人は、この世を恐怖で支配する物の拠点へと降り立つ。見上げた魔王の拠点は、見る者を恐怖させる程の存在感を示していた。

 それは、渡る事の出来ない湖の向こう岸から見た比ではない。圧倒的な圧力は、無意識に唾を飲み込み、手足が小刻みに震える程である。それでも拳を握り締めたサラは、魔王城を見据えて心を決めた。

 その敷地は遠巻きに見るよりも遥かに広く、城壁の上部は見えず、端も見えない。城門は大きく開かれてはいるが、その奥は漆黒の闇によって窺う事さえも出来ない。この世界さえも飲み込んでしまいそうな程の濃い闇は、まるでカミュ達を誘うように巨大な口を開いていた。

 

「これ程に輝く太陽の光さえも届かないのか……」

 

 太陽が真上を過ぎたばかりの今の時間では、燦々とその輝きは大地へと降り注がれている。湖に反射された輝きは人の目を眩ませる程に眩く、その恩恵を受けた草花はそれ以上に受け取ろうと葉を伸ばしていた。

 だが、それ程に強い輝きを持つ太陽の光も、魔王バラモスの居城内には届かない。創造神からの恵みを拒絶するように広がった闇は、一切の輝きも受け入れるつもりもなく、それでも進入しようとする輝きを飲み込んでしまっていた。

 カミュが後方を振り返り、他の三人へ一人ずつ視線を投げかける。始めにメルエが頷きを返し、サラが緊張した面持ちで続く。そして最後に、最も古参の仲間であるリーシャがしっかりと頷いた。

 世界中の人間の悲願であり、希望である戦いが今始まる。

 

 

 

 開け放たれた城門を潜った一行は、その異様さに目を見張る。

 高さも定かではない程の城壁の向こう側には、先程まで感じていた闇など存在せず、太陽に向かって伸びる木々さえ植えられていた。地面の土は瘴気に染まった様子はなく、木々が養分を吸い上げるに値する土壌なのだろう。吹きぬける風にも禍々しい物は混じっておらず、とても諸悪の根源である魔王の居城とは思えなかったのだ。

 だが、驚きに周囲を見回していたサラはある事に気付く。この広い庭園とも呼べる場所には、小動物達の息吹が感じられなかった。立ち並ぶ木々からは小鳥の鳴き声などは聞こえて来ず、木々の根元で眠る猫などもいない。それは、この場所に立つ勇者一行を何処かで見ている魔物達以外の生物が悉く存在していないという事を示していた。

 

「いつでも戦闘に入れるように準備しておけ」

 

 場内へと続く門の前へと移動したカミュは、その禍々しい空気を敏感に感じ取り、後方から近づいて来る三人へ注意を促す。剣こそ抜きはしないが、それでもカミュから発せられる空気は既に臨戦態勢に入っている事が解った。

 だが、警戒を続けながら城の中へと入った瞬間、一行は絶句する事となる。

 

「こ、これは……」

 

 それは、全てにおいて覚悟を決めて入った筈のリーシャの心を揺らぎ、強い想いと強い決意を持って挑んだサラの心を容易く折る程の光景であり、サラの手を握っていたメルエだけがその光景を見て不思議そうに首を傾げている。

 それは正に魔王の軍。

 フロアに整列するように並んだ骨の剣士達は、入り口から入って来る者達を待ち構えていたように隙間なく並んでいた。空洞となった頭蓋骨の瞳の部分は、全てを飲み込むような闇に覆われており、動き出す事のない置物のようにさえも思える。だが、人間の物とは思えないその異形は、全ての骸骨が持つ六本の腕が示していた。

 全ての骸骨が、入り口に向けて六本の腕を掲げ、その全ての手に剣が握られている。だが、まるで置物のように佇んでおり、動く気配もなければ、魔物特有の邪気さえも感じられない。

 城壁に開けられた窓のような空洞から差し込む陽光がその物々しい光景を曝し、先頭のカミュが背中に掛けている稲妻の剣を抜いた。

 それが四年の旅路の果てに辿り着いた、最終決戦の幕開けとなる。

 

「サラ! メルエと魔法の準備だ!」

 

「は、はい!」

 

 覆われた布から、稲妻の剣の刀身がその姿を現した瞬間、今まで置物のように鎮座していた骸骨達の瞳の窪みに炎が点った。炎と称するのは正しくはないだろうその輝きは、まるで自らの意思などないかのように怪しく光り、その先にある者達を射抜く。

 即座に戦闘態勢に入ったカミュ達ではあるが、六本の腕全てに剣を持った地獄の騎士の数は十体。一体二体でもその強さに苦しむ程の強敵である。それが十体となれば、如何に人類最高の地位を持つカミュ達であろうとも、気を抜く事など出来はしないのだ。

 稲妻の剣を抜いたカミュを先頭に、リーシャもドラゴンキラーを抜き放つ。後方では呪文の詠唱の準備に入ったサラとメルエが、注意深く魔物の動向を窺っていた。突進して来る訳ではなく、じりじりと間を詰めて来る地獄の騎士に対して、カミュは一歩も動かない。後方へと退く事もなければ、故意的に前進する事もない。

 

「いやぁぁ!」

 

 それは、自身の間合いに入るのをじっと待つ捕食者の行動。

 ある一線を越えた地獄の騎士の一体は、瞬間的に振り抜かれた稲妻の剣を受け、頭蓋骨を粉々に砕かれる。元々脳などが入っている訳ではない頭蓋骨は、乾いた音を立てて派手に砕け散るが、その程度でカミュの攻撃が止む事はなかった。

 そのまま真っ直ぐに斬り下ろされた稲妻の剣は、骸骨の肋骨から腰骨に掛けて斬り砕き、二度と同じ形で再生出来ない程に破壊して行く。砕かれた一体の六本の腕は地面へと落ち、それを乗り越えるように現れた別の地獄の騎士へと今度はドラゴンキラーが横薙ぎに振るわれた。

 

「ちっ! 斧のようには行かないか……」

 

 ドラゴンキラーを横薙ぎに振るったリーシャからすれば、地獄の騎士を粉砕するのではなく、弾き飛ばすつもりであったのだろう。だが、その目論見は崩れ、地獄の騎士の腕数本を粉砕し、わき腹から入った剣は、肋骨を綺麗に斬り裂いた。

 彼女の舌打ちの理由は一つ。余りにも剣速が早すぎた為、骨の断面が美し過ぎるのだ。乾いた音を立てて崩れた骨を乗り越えて来る地獄の騎士が振るった剣をドラゴンシールドで受け止めたリーシャは、先程自分が斬り裂いた地獄の騎士が、カミュが倒した地獄の騎士の腕と同化する事によって復活を始めた姿を見て、もう一度大きな舌打ちを鳴らした。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………イオラ…………」

 

 カミュ達に群がって来る地獄の騎士の後方に向けて指を指し示したサラに頷いたメルエが雷の杖に自身の魔法力を乗せる。瞬時にオブジェへと集まった魔法力がサラが指差す方向へと飛んで行き、その周囲の空気を圧縮して行った。

 弾ける空気と、轟く爆発音、更には一気に広がる熱風から身を護るように掲げられたカミュとリーシャの盾に骨の破片が飛んで来る。盾の隙間から広間の奥へ視線を向けたカミュの目の前に現れた地獄の騎士が、その盾の隙間目掛けて剣を突き入れて来た。

 間一髪で剣先を避けたカミュであったが、数本の頭髪と共に鮮血が周囲に飛び散る。深々と抉られた頬から流れ出る血を止めようと、回復呪文を唱える彼に向かって再び剣を振るった地獄の騎士の頭蓋骨が真っ二つに斬り裂かれ、その後方から現れたリーシャが血糊の付着していないドラゴンキラーを一度大きく振るった。

 息が詰まるほどの攻防が繰り広げられる中、攻撃範囲の広い呪文を行使出来ないメルエは困惑したようにサラを見上げる。幼い少女からの救いを求める視線に気付いていて尚、サラにはそれに応じる戦略が出て来ないのだ。

 

「ちっ!」

 

 再び目の前に現れた地獄の騎士の剣を盾で防いだカミュではあったが、その魔物の別の腕が持つ剣によって太腿を切られ、盛大な舌打ちを鳴らす。後方に飛び退こうとした彼ではあったが、傷ついた太腿によってそれ程距離は稼げず、すぐ横に現れた別の地獄の騎士が顎の骨を下へと動かした事を見て眉を顰めた。

 骨しかないその体躯の何処にそれが存在するのかと考えたくなるほどに不快な息が吐き出され、それを直接受けたカミュの身体は、何かによって焼き尽くされたかのように感覚を失って行く。身体全体が麻痺し、身動きが出来ないカミュの目の前に二本の剣が滑るように落ちて来た。

 

「させるか!」

 

「キアリク!」

 

 しかし、彼は一人で戦っている訳ではなく、彼と同等の力を持つ者達と共にやって来たのだ。

 横から繰り出された盾が、カミュへと剣を振り下ろそうとしている地獄の騎士の頭蓋骨を粉砕し、その身体を弾き飛ばす。ドラゴンシールドを掲げたリーシャがカミュの前に立ち、彼を護るように地獄の騎士達へ鋭い視線を向けた。

 それに遅れるように唱えられた古から伝わる賢者の呪文がカミュを包み込む。淡い光に包まれた彼の身体から、痺れるような熱さが消え、その動きを戻して行った。

 

「限がない。カミュ、どうする!?」

 

「駆け抜ける! メルエを頼んだ!」

 

 広間で未だに剣を持つ地獄の騎士は六体。

 既に十体などは粉砕し尽くした。いや、正確に言うならば、メルエの放ったイオラだけでも、十体近くの地獄の騎士を葬っている筈だ。それでもこの場所に四体の地獄の騎士が存在し、床に散らばる骨達が蠢いている事を考えると、これを続けて行っても、蘇る事のない状態に全てを追い込むまでにかなりの時間を有する事になる。それを理解した彼等は、一気に奥まで駆け抜け、次のフロアへ到達しようと考えた。

 斧よりも軽いドラゴンキラーを片手に持ったリーシャがメルエを抱き上げ、先頭のカミュが駆け出したのを見たサラはその後を全力で追い駆けて行く。道を遮るように出て来た地獄の騎士を吹き飛ばし、突き出して来た剣を盾で弾き飛ばす。それは、カミュとリーシャに比べて地獄の騎士の力量が劣っているからこそ出来る芸当ではあるが、サラやメルエといった武器の扱いに関して更に下位に位置する者にとっては目を疑う程の物であろう。サラは自分に迫る骸骨が前方と後方から振るわれる二本の剣によって粉砕されて行くのを場違いな程に呆然と眺めながら駆けていた。

 

「…………サラ……………」

 

「はっ!? カミュ様、伏せて!」

 

 砕け散る骸骨達に意識を飛ばしていたサラは、後方からの呟きを聞いて我に返り、カミュの更に前方の闇に光る何かを見て大声で叫ぶ。その叫びは有無も言わさぬ程の力を有し、地獄の騎士の剣を弾いたカミュは、そのまま倒れ込むように床へと伏せた。

 声を張り上げたサラも即座に伏せたが、後方でメルエを抱きながら剣を振るっていたリーシャは一歩行動が遅れてしまう。一体の地獄の騎士の剣を交わしながらドラゴンキラーを振るった彼女が正面を向いた時、それはすぐ目の前にまで迫っていた。

 カミュやサラの傍にいた地獄の騎士を巻き込み、その骨ごと融解させる程の高温を持つそれは、真っ赤に燃え上がりながらリーシャに迫っていたのだ。

 

「…………メラミ…………」

 

 真っ赤に燃え上がる火球は、絶望を感じていたリーシャの腕に抱えられた少女が振るう杖の先から飛び出した火球と衝突し、盛大に弾け飛ぶ。周囲の空気を一気に熱しながらも床へと落ちる火の粉が、その火球の凄まじさを物語っていた。

 残っていた地獄の騎士のほとんどを巻き込んだその火球が消え、即座に立ち上がったカミュとサラは、自分達の正面に立つ存在を見て驚きを隠し切れない。乾いた骸骨の残骸を踏みながら姿を現したのは、サラ程の背丈しかない魔物だったのだ。

 全身を緑色のローブで包み込み、腰で縛った紐は地面に着く程の長さを誇っている。その紐は浅黒く汚れており、緑色のローブで唯一刳り貫かれた目元からは怪しげな光が覗いていた。

 

<エビルマージ>

古の賢者に匹敵するとまで云われている呪文使いである。魔物の中でも魔法に重きを置く者は少ないが、その中でも魔王の傍近くで生きる事を許された程の高位呪文使いである。実在するかさえも正確には証明されておらず、ネクロゴンド地方に近い場所で、『邪悪な魔道士』という意味合いを持つ者として伝えられて来た。右腕と左腕で同時に呪文を行使出来るなどの伝承もあり、この世界の魔法に携わる者の中では、恐怖の対象でありながらも憧れを持っている者もいると云う。

 

「……先程のはメラミか?」

 

「はい。おそらくそうでしょう。数多くの骸骨を巻き込んだ事によって威力が落ちていなければ、メルエの呪文でも相殺出来なかったかもしれません」

 

 両腕を下へ垂らしながら広間の奥に陣取るエビルマージから視線を外す事無く問い掛けるカミュに、同じように視線を動かさないサラが眉を顰めて答える。

 確かに、先程の呪文は中級の火球呪文に違いはない。幽霊船で遭遇した魔物と同様以上の威力を持っている事が想像出来る程の熱量を有していた。それは、カミュやリーシャの攻撃を受けても復活して来た地獄の騎士の骨を跡形もなく消し去る程の物。人類最高位に立つメルエの呪文でなければ、対抗さえも出来ない物であっただろう。

 

「キキキッ」

 

 メルエを床に降ろし、戦闘態勢に入ったリーシャは、目の前に存在する魔物が発した不快な笑い声のような音に眉を顰める。

ローブの置くの瞳は見えない。怪しい光だけが魔王城の暗闇に輝き、その光がまるでカミュ達一行を嘲笑っているかのように見えたのだ。その笑い声のような奇声も、人間の本能が不快感を示す程に脳へ直接響き、サラの身体は無意識に震え始める。

 それは嫌悪による恐怖。

 メルエも同様の物を感じているようで、小さな唇が小刻みに震えていた。僅か一体の魔物に対してここまで歩んで来た猛者である彼等が怯むという事自体が信じられない事柄であり、目の前の魔物が尋常ではない力を有している事の証明。

 それが魔王という遥か高みにいる存在の居城の実体なのだ。

 

「……カミュ」

 

「下手に突っ込むな……ここでアンタが惑わされれば、冗談では済まない」

 

 目の前の魔物の威圧感が想像以上であった事もあり、リーシャは額から汗を垂らす。搾り出すように発した言葉に対するカミュの言葉は、ここまでの道程で彼女をからかう時と同じ内容でありながら、それ以上に緊迫した空気を醸し出していた。

 エビルマージと呼ばれる魔物が、呪文に重きを置く存在である事が、先程放たれたメラミが明確に物語っている。幽霊船で遭遇したミニデーモンのようにメラミだけに特化した存在でない事をカミュは理解していたのだ。

 もし、それ程に高位の呪文使いが精神に影響を及ぼす呪文を行使する事が出来たとしたら、最悪カミュであってもその毒牙に蝕まれる恐れがあり、二人の前衛が精神異常となった場合は間違いなく全滅の憂き目に会う事だろう。

 

「カミュ様が護る者はメルエ。リーシャさんが護る者もメルエです。その事をしっかり胸に刻んで下さい。それだけでも、精神に影響する呪文への対抗になる筈です」

 

「…………メルエも……まもる…………」

 

 動きを考えていた前衛の二人は、後方から掛かる『賢者』の声に大きく頷いた。

 精神に影響する呪文の効力は、その対象の魔法力の量や質によって変わって来る。例えば、この世界にいる一般的な『魔法使い』が、人類最高位に立つメルエに向かってメダパニやラリホーなどを唱えたとしても、魔法力の量も質も圧倒的に上であるメルエには効果が薄く、成功する確率も必然的に低くなるのだ。

 それは魔物対人間であっても同様であり、魔法力の有無によっても変化する。この勇者一行の中で最も呪文に惑わされ易いのがリーシャであるのは、魔法力が皆無に近く、その行使の手段もない事が主な原因であり、その知能が低いという訳ではないのだ。

 だが、そんな魔法力の差を覆す可能性が一つだけある。

 それが行使された側の精神状態である。

 

「ふぅ……さて、行くか」

 

 サマンオサで遭遇したボストロールには、サラがマホトーンを何度行使しても効果が現れなかった。だが、ボストロールの精神状態を怒りによって乱し、魔法力への抵抗を減退させる事でサラはその効力を発揮させたのだ。

 カミュがザキという死の呪文を弾き返したのは、その胸の内に確固たる想いを持ったからであり、それが確実に死の呪文を弾くという保証はないまでも、その回避率を上げていた事だけは確かであろう。ならば、護る対象を心にしっかりと定める事で、混乱の呪文などへの抵抗になる可能性は否定出来ない。

 それを理解したリーシャは、一度メルエの顔を見て笑みを浮かべると、ドラゴンキラーを一振りしてカミュへ言葉を投げかけた。それに頷きを返したカミュもまた、稲妻の剣を強く握り込む。

 戦闘の準備は整った。

 

「クワァァ」

 

 剣を手に持って駆け出そうとするリーシャに向かってローブの口の部分が開き、その場所にある闇が赤く染まって行く。何かを吐き出すように声を上げたエビルマージは、そのまま燃え盛る火炎を吐き出した。

 最早急停止出来ないリーシャは、盾を掲げながらも前へと進み、右手に握った剣を水平に構える。そんな彼女を後押しするように、彼女の後方から冷気を帯びた魔法力が吹き抜けて行った。

 人類最高位に立つ『魔法使い』が唱えた中級の氷結呪文である。

 ヒャダインと銘を打たれたその呪文は、リーシャに襲い掛かる火炎とぶつかり蒸発して行く。熱を持った蒸気の中でも突き進むリーシャの肌が焼けるように熱くなるが、それでも突き出された剣が緑色のローブを突き抜けた。

 

「カミュ!」

 

 突き刺した剣を抜いたリーシャは後方へ飛び、その後ろから稲妻の剣を振り被ったカミュが現れる。突き刺さった剣が引き抜かれ、体液を溢しながら苦悶の表情を浮かべたエビルマージはその剣に反応出来ない。袈裟斬りに入った剣は、エビルマージの肩口から下腹部までを斬り裂き、その命を刈り取って行った。

 断末魔の叫びを上げながら床へ倒れ伏したエビルマージは、数度の痙攣をした後に絶命する。あれ程の威圧感を発していた魔物の何とも呆気ない幕切れに、サラとメルエは少し拍子抜けしたような表情を浮かべた。

 

「一体だけというのが幸運だったな」

 

「ああ……魔物というよりは魔族なのだろう。こちらを侮っていてくれたのも幸いだった」

 

 剣に付着した体液を振り払ったカミュとリーシャは、床に倒れ伏して動かないエビルマージだった物を見ながら息を吐き出す。野生の本能が強い魔物が敵を侮るという事自体が考えられる事ではないのだが、それが知能を持つ魔族のような存在であれば別であろう。己の魔法力に絶大の自信があったのか、若しくは人間自体を侮っていたのかは解らないが、地獄の騎士達を葬っていた一行に対してさえも余裕を持って対峙していた事から、かなり上位に位置する魔族なのだという事が窺えた。

 リーシャの言葉通り、そのような敵が数体現れて戦闘に発展すれば、この一行であってもかなりの危険が伴うだろう。呪文に重きを置いた魔族の中でも上位に入る者が複数出現し、それらが一斉に攻撃呪文を唱えたとすれば、対抗するのが如何に人類最高位に立つサラとメルエであっても、それらを防ぐ事は難しくなる筈だ。

 それを誰よりも理解しているサラは、難しい表情で唇を噛み締めていた。

 

「階段があるな」

 

「……行くぞ」

 

 難しい表情をしているサラを余所に、奥に見つけた階段を下りようとカミュが歩き出す。何時ものようにリーシャへ問いかけないのは、選択肢が限られているからだろう。内部へ入ってからは広い広間になっており、その奥は薄暗く近づかなければ階段は見えなかった。太陽は西に沈み始め、徐々に暗さが濃くなって行く中、カミュに若干の焦りがあったのかもしれない。更に言えば、魔王という諸悪の根源であれば、地下にいるだろうと言う勝手な思い込みもあったのだろう。

 置いていかれないように歩き始めたメルエに気付き、漸くサラも行動を開始する。実際にここまでの戦闘で、サラの出番はかなり少なかった。本来、サラの腰に下がっている剣は、地獄の騎士のような命を持たない者に対して絶大な力を有している。だが、彼女の剣の腕が地獄の騎士まで届かない事で、あの時動く事が出来なかったのだ。

 大きく力を伸ばして来た一行ではあるが、己の特化した部分を中心に伸ばして来た節もあり、メルエは勿論の事、サラでも人間相手ならばまだしも、上位の魔物相手に対等以上の戦いが出来る程ではない。

 『この状態で魔王に届くのか?』

 自分が歩んで来た道が間違っていないという自信をサラは持っている。だが、そこで培って来た経験が役に立たないのではないかという小さな疑問が彼女の中に生まれてしまった。それは、この最終局面に向かう場面では致命的な程に大きな隙となる。

 

「サラが広げていた見聞、そして培って来た経験は、決してサラを裏切らない」

 

「えっ?」

 

 だが、若い賢者のそんな揺らぎは、いつの間にか近づいて来ていた女性戦士によって払拭される。その力強い言葉が、サラの胸の奥で小さくなって行く炎へ薪をくべて行くのだ。

 彼女はいつでもそうであった。サラという人間が迷う時、苦しむ時にはそれが解るかのように、必ず前へ踏み出す勇気をくれる。それがこの若い賢者を支え、歩み続けさせて来たのだろう。だからこそ、サラはもう一度顔を上げてリーシャの瞳を見た。

 そこにあるのは明確な覚悟と揺ぎ無い決意の炎が点る瞳。それこそ、サラという賢者も、カミュという勇者も信じる、この一行の要となる者の強さの現れであったのだ。

 

「ポルトガ国王の言葉を、サマンオサ国王の言葉を、そしてイヨ殿の言葉を忘れるな」

 

「はい!」

 

 剣を鞘に収める事無く握り締めたままのリーシャは、サラの返事に頷きを返し、メルエに続いて階段を下って行く。その背中を見つめながら、もう一度胸の前で両手を合わせて握り締めたサラは、ここから続く激闘の数々を考え、大きく深呼吸をして歩き出した。

 

 

 

 下の階層に降り、即座に現れた分かれ道でカミュが思い抱いたかのように隣を歩く女性戦士に声を掛ける。分かれ道となればこの女性である事をようやく思い出したのかもしれない。

 当然のように左へと折れる道を指し示すリーシャに対し、頷きを返したカミュはこれまた当然のように直進する道を選択する。以前とは異なり、そんなカミュに異議申し立てをしない彼女は、引き締まった表情でメルエの手を取った。

 魔物や魔族の登場を警戒するような足取りで進む一行は、その道の先にある階段を見つけて『ほっ』と溜息を吐き出す。僅かな距離ではあったものの、魔王の居城というだけでも身体が自然と強張るのにも拘らず、先程のような強力な魔族の存在を見てしまえば警戒し過ぎるという事はなく、知らず知らずの内に疲労が蓄積していたのだ。

 

「えっ?」

 

「これは、城の庭園か?」

 

 息を吐き出した一行はその階段を上って行ったのだが、その先に広がる光景を見たサラは驚きに声を失い、リーシャは再び見た景色に呆然と立ち尽くす。

 階段を上がったその場所は壁に覆われた一室であったが、その空間を閉ざす扉を開けたその先には静寂が支配する庭園だった。既に太陽は西の大地に半分以上が沈み、周囲に夜の帳が降り始めている。だが、そこは間違いなく、巨大な城門を潜った先にある庭園と呼べる物であった。

 

「戻って来たのか」

 

「…………おなじ…………」

 

 見渡す立ち位置は変化してはいるが、見える景色は先程と寸分も違いはない。異なる部分があるとすれば、それは太陽からの光の色と周囲の暗さぐらいだろう。軽い溜息を吐き出したカミュの横で、小首を傾げたメルエの小さな呟きが広く広がる庭園に消えて行った。

 立ち尽くす四人の顔を照らしていた夕陽が完全に沈み、周囲を完全なる暗闇が支配して行く。魔王のお膝元である居城が、魔物や魔族の時間である闇夜に覆われて行った。

 

「……カミュ、出来るならば避けたくはあるが、ここで朝を迎えるのか?」

 

「ラーミアで戻った所で、また同じ場所からのやり直しになるだけだ。この場所へ来た時から、危険は覚悟の上ではないのか?」

 

 周囲が完全に闇に閉ざされ、魔王城の不気味さが更に際立って来る中、リーシャがこの後の行動をカミュへ問い掛ける。だが、その問い掛けは逆に問いかけで返された。

 もはや、カミュ達一行は魔王の胸元に入っているのだ。この場所に入った時点で、魔王バラモスという存在を倒すか、若しくはカミュ達全員が死滅するかしなければ出る事が叶わない可能性さえもある。そして、それらを覚悟の上で、彼等はこの場所へ足を踏み入れたのだ。カミュ達と共に在りたいと考えるメルエだけは異なるかもしれないが、少なくともカミュとリーシャはそんなメルエだけは護るという意志の許、この場所に立っているのだった。

 

「わかった。ならば、あの階段があった室内へ戻ろう。あの場所に魔物が入る為には、扉を壊すか階段を上がって来なければならない筈だ。危険への警戒は少ない方が良い」

 

「……ああ」

 

 リーシャはメルエの手を取り、先程上って来た階段がある場所へと戻り始め、その後をサラが追う。最後に残ったカミュは、遥か高みに見える城を見上げた。

 夜空に浮かぶ月は、何時もと同じ光を何時もと同じように地へと降り注いでいる。カミュの瞳に映る月の姿は、この四年の月日で大きく変わっているのかもしれない。月を見上げる彼の顔もまた、この四年で大きく変化しているのだ。

 

 

 

 最後の決戦地である魔王城には辿り着いた。

 だが、そこに蔓延る魔物達は、ここまでの旅で遭遇したどんな魔物達よりも強靭な者達である。一行が培って来た経験に裏付けされた自信さえも揺るがしかねない程に強力な者達が棲むその場所は、世界を恐怖の渦に落とし込む『魔王バラモス』の居城。

 『勇者』と認められた者達は、身の危険を感じながらも戦闘を続けるが、それも未だ入り口に過ぎない。

その中心部へ繋がるのは、果てしなく遠く危険な道。

 それでも彼等は、その道を歩み続けるのだ。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

ようやくここまで参りました。
第十六章は完全にこの場所だけの章になると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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