新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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バラモス城④

 

 

 

 瘴気を吐き出す龍の石像の部屋に戻った一行は、奥にある地下への階段を下りて行く。階段を下りた一行の目の前には上に戻る階段が見えていた。しかし、そこを上るように道を示したリーシャの言葉を聞いたカミュは、脇目も振らずに左手の通路を歩き始める。今回はカミュのその行動を止める事もなく、微笑むメルエに笑顔を返したリーシャは、その後ろを歩いて行った。

 細い通路には魔物の影はなく、カミュが持つ『たいまつ』の炎だけが揺らめいている。壁に映る四つの影が時に小さく、時に大きくなる姿は、幼いメルエにとって何度見ても気味の悪い物なのだろう。サラの手を強く握った彼女は、その腰に身体をくっつけるようにして歩いていた。

 そんなメルエの様子を微笑ましく見ていた一行は、その影の一つが大きく揺らめき、その影に鋭い瞳が浮かんだ事に気付いてはいなかったのだ。

 

「また地上に戻るのか……」

 

「……魔王となれば、地下にいそうなものですが」

 

 カミュ達の目の前に再び現れた上り階段が、彼等の心に広がり始めた疲労感を大きくさせる。明らかに落胆を示したリーシャに、メルエは笑顔を浮かべながら同じ行動をする。そんな二人を余所に、サラは先入観に支配された言葉を口にした。

 魔に属する物は地下という考えは、『人』の世界では常識と言っても過言ではない。だが、この城を囲む泉やその周囲の木々を見て、それが単純な先入観である事が解った筈。夜行性の強い魔物が多い為、彼等の暮らす場所は暗く湿った場所という考えが固定してしまったが、魔物といえども太陽の恵みがなければ食する物を失い、いずれ滅びて行く事になるだろう。

 もしそれでも、太陽を嫌い、闇だけを望む者がいるとすれば、それは魔物が栄える時代を望む者ではなく、世界の滅びを望む者なのかもしれない。

 

「どっちだ?」

 

「……右だな」

 

 階段を上がって直ぐに左右へ分かれる回廊が続いていた。

 リーシャの返答を聞いたカミュは、当然の事のように左手の通路へと足を向け、誰一人それに反論する事無く、その道を進んで行く。魔物の気配もなく、周囲に瘴気も満ちていない為か、彼等一行の心に若干の余裕が生まれていた。

 何処かに遊びに行くかのように、メルエはサラの手を嬉しそうに握り、その顔を見上げては小さく歌を口ずさむ。その様子を見る限り、この幼い少女はこの場所に何をしに来ているのかを正確に理解していないのだろう。彼女にとって『魔王バラモス』という存在はそれ程脅威を感じる存在ではないのかもしれない。

 それは、何もメルエの能力が魔王よりも上だからという訳ではないのだろう。魔王と名乗る存在から見れば、如何に人類最高位の『魔法使い』であっても、赤子のような存在である筈だからだ。だが、彼女はそれだけの力を持つ魔王の居城でも微笑を浮かべる。

 彼女にとって、最も強く、最も優しく、最も厳しい存在は、彼女を護る三人の大人なのだから。

 

「メルエ、しっかり歩け。この場所は呑気に散歩出来る場所ではないぞ」

 

「…………むぅ…………」

 

 しかし、そんなメルエの無邪気さも、この場所ではご法度であった。珍しくメルエに厳しい表情を見せたリーシャは、その行動を窘めるように強い口調で叱りつける。サラに纏わり付くように歩いていたメルエは不満そうに頬を膨らませ、顔を背けようとするが、それさえも拳骨による制裁を受けた。

 しょんぼりと俯いた少女は、サラの手を握りながら、魔王城の一階部分を歩き続ける。だが、その先にある上への階段を更に上り、再び城の二階へと足を踏み入れた時、不意に感じた視線にメルエは振り向いた。

 まだメルエが怒られていると思っているのかと思ったリーシャは、小さな笑みを浮かべてその心を落ち着かせようとするが、少女の視線は、リーシャの表情を捉えず、何かを探すように首をめぐらしている。変化したメルエの態度を不審に思ったサラも、魔物の気配を探して首を巡らせた。

 

「メルエ、何かいるのか?」

 

「…………??…………」

 

 暫し首を巡らせていたメルエだが、最後尾から近づいて来たリーシャの問い掛けに、首を横へと傾ける。カミュやサラが注意深く周囲を見回しても、魔物の姿どころか気配すらない。陽光が差し込む二階部分の回廊は、影を生み出す場所も限られている程に見渡す事ができ、この場所に一行以外がいない事は確かであった。

 だが、それでもメルエがこの場所で何かを感じた事は確かであり、それをカミュ達三人は何よりも信じている。自分達が感じる事の出来る気配など、メルエが感じる事の出来る気配の足元にも及ばない。この一行の中で誰よりも魔物の気配に敏感なのは、誰よりも幼い少女なのだ。

 

「カミュ、警戒を怠るな」

 

「わかっている」

 

 先程メルエの感じた物が魔物の視線や気配であるという確証はない。それどころか、この細い回廊で魔物の姿が見えない以上、身体が透明な魔物でもない限り、魔物がいないと考えた方が正しいだろう。しかも、メルエの経歴を振り返ると、彼女は霊体となったアンやその母親の姿も視認していた事からも、彼女が首を傾げるのであれば、この場所に魔物の襲来はないと考えても良い筈だ。

 だが、メルエが一度でもその気配を感じたのであれば、確かにこの場所に魔物が居たのだと三人は考えている。階段を上った直後であった為、もしかすると、階下から階段を昇って来ていたのかもしれない。

 彼等三人が警戒する理由としては、メルエが何かを感じたというだけで十分なのであった。故に、カミュ達は警戒の度合いを最大限に高め、回廊の突き当たりにある下り階段を下りて行く。一進一退の行動に辟易して来ている心は否めないが、再び気持ちを引き締めて行った。

 

「……広いな」

 

 一階部分に再度下りた彼等は、そこに広がる広間の大きさに少し驚きを表す。大きな広間に繋がる部分には、扉があったであろう部分もあるが、その扉は既に朽ち果てており、その場所に存在していない。その奥には大きなベッドが二つ置かれており、在りし日の姿は煌びやかな物であったのだろうと想像出来る物であった。

 高貴な者の寝室であったのかもしれない。壁に飾られた額であったのであろうと想像出来る物が床に落ちており、埃と不快な空気に部屋は満ちていた。

 

「寝室のようですね」

 

 奥へと通り抜けながら、サラは無残なその部屋の姿に言葉を漏らす。不気味な程に静寂に満ちているその部屋は、何処となく不穏な空気に満ちており、メルエはサラの腰に身体を付けるようにその横を歩いていた。

 再び扉が取り付けられていたと思われる金具を残した小さな吹き抜けを通り抜けた先には、地下へと繋がる階段があり、何度目になるか解らないそれを一行は間を開けずに下りて行く。地下独特のかび臭い空気が充満し、微妙な湿気を帯びた地下は、肌寒さを感じる程度の冷気が支配していた。

 地下の状況を確認したカミュは、『たいまつ』に炎を点して行く。点された炎が映し出された

場所は、細い回廊。真っ直ぐに伸びた通路は、染み出した雨水などが溜まり、小さな鼠などの小動物が突然照らされた事に驚き奇声を上げた。

 『たいまつ』一つでは明かりに乏しく、リーシャがもう一本の『たいまつ』に炎を点す。二つの明かりに照らされ、通路の岩壁には八つの影が重なり合った。

 

「メルエ、足元に気を付けて下さいね」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 その通路の半ばを過ぎた頃、右に折れるように通路が曲がり、更にその直ぐ先で左手へ大きく曲線を描く。その通路を曲がる際に、濡れた地面に滑ったメルエの身体を支えたサラが再度注意を促すと、頬を膨らませたメルエが、恨めしそうに地面を睨み、不意にその視線を後方の壁へと向けた。

 前方でカミュが掲げる『たいまつ』の明かりと、後方でこちらを見ているリーシャが掲げる『たいまつ』の明かりによって、メルエの影が暗明に差があれど、幾つも壁に映し出されている。その影を見つめるメルエの姿を見て、サラもその壁へと視線を向けた。

 それは、視線を向けられる側にいるリーシャにとっては、戦闘開始の合図である。背中に抱えた魔神の斧を手にしたリーシャが振り返った時、その存在が姿を現した。

 

「カミュ、敵だ!」

 

 メルエの影の一つが揺らめき、その影に瞳と口が浮かび上がる。人型ではないが、明らかに生物の影のような形をしたそれは、ゆっくりと壁から這い出るように現れ、『たいまつ』の明かりに照らされる事で漂うように揺らめいていた。

 周囲の壁の色と地面の土の色が反射し、緑色に発色しながら揺らめく影は、不気味な笑みを浮かべるように口らしき物を開き、その上部には瞳のように怪しく輝く光を放っている。

 軋むような不快な音を立てて笑う影を好意的に見る者はいない。サラとメルエを後方に下げたカミュは、リーシャと共にその影の前に対峙した。

 

「……実体を持たない系統の魔物だな」

 

「物理攻撃は無意味か?」

 

 揺らめく影を見たカミュは、以前から何度も遭遇した事のある系統の魔物だと判断する。それを聞いたリーシャは同意見だと頷きを返した後、斧や剣での攻撃が全くの無駄に終わるのかどうかを再度確認した。

 それに対し、首を横に振ったカミュではあるが、それは『物理攻撃が有効だ』と答える物ではなく、『見当も付かない』という意味を持つ物なのだろう。一つ息を吐き出したリーシャは、斧を両手で握り締め、揺らめきながら近づいて来る影に向かって一気に肉薄する。そのまま、影が何かをする暇を与えずに斧を振り下ろした。

 

「ちっ!」

 

 しかし、脳天から真っ二つに割られた影は、数度の揺らめきの後、再度身体の形を構築し、元の状態へと戻って行く。それを見たリーシャは、珍しく舌打ちを鳴らし、不快そうに眉を顰めるのだが、それだけで攻撃を終えるつもりはなく、横薙ぎに魔神の斧を振るった。追撃するようにカミュが袈裟斬りに剣を振り下ろし、影を縦横に四分割に斬り裂く。

 それでも、影は数度の揺らめき後に元の形状へと戻ってしまった。

 

「キキキ」

 

 まるで笑っているかのように軋む音を立てる影に、物理攻撃の効果は余りないように見える。しかし、後方から見ていたサラには、その影の大きさが若干縮まっているように見えていた。

 斬り裂かれた影を元に戻す前に霧散した物もあるのかもしれない。定かではないが、人類最高位に立つ前衛二人の攻撃が何の意味も成さなかった訳ではない事だけは確かであろう。それでも、削り取る事が出来た影の部分が僅かである事も事実であり、たった一体の影にこれだけの時間を掛けていられない事も事実。

 一気に勝負を決める為には、不快な笑みを浮かべて揺らめく影を一瞬でどうにかする必要があるのかもしれない。

 

<ホロゴースト>

暗がりに潜む影の魔物の中でも最上位に位置する存在である。光あるところに必ず存在するその存在は、魔王の魔法力を持って生まれた存在と云われており、その中でも最上位に位置するこの魔物に関しては、魔王の影とも噂されていた。魔王の影となり、魔王の目や耳の役割を果たす。時には魔王の邪魔となる存在の排除の為に動き、時には諜報部隊としての役割も果たしていた。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………メラミ…………」

 

 前衛にいる二人へ下がるように指示を出した直後、その指示を受けた少女の杖が大きく振られる。杖の先にある禍々しいオブジェの嘴から巨大な火球が飛び出した。

 味方に被害が出ないように調整された火球であるが、以前洞窟内で遭遇した<怪しい影>を瞬時に溶かし尽くした火球よりも威力は高い。そんな火球が迫っているにも拘らず、ホロゴーストは不快な笑みを浮かべながら、揺ら揺らと漂っていた。

 

「なっ!?」

 

 火球が直撃する寸前でホロゴーストは横にある壁へと溶け込み、目標を失った火球は、逃げ遅れた数匹の鼠を巻き込んで後方の壁に弾け飛んだ。

 メルエの行使する火球呪文の速度は決して遅くはない。サラであっても、事前に何の呪文なのかを把握しなくては、対処呪文を行使する事は出来ないかもしれない程だ。それにも拘らず、まるでその火球を鼻にも掛けない態度で壁へと消えて行ったホロゴースト自体に、サラは驚きの声を上げた。

 数匹の小動物を巻き込み、死骸さえも残らぬ程に焼き尽くしてしまった事に眉を下げていたメルエは、謝罪するようにサラを見上げる。その視線に気付いたサラは、メルエの肩に手を置き、小さく微笑みを返した。

 

「今のはメルエが悪い訳ではありません。私がネズミさんに謝りますから、気を落としては駄目ですよ。まだ、あの影がいるかもしれませんから」

 

「…………もう………いない…………」

 

 小動物の命を奪う呪文を唱えたのはメルエであるが、それを指示したのはサラであり、その命を背負うのは自分の役目である事を幼い少女へと伝えたサラは、警戒するように周囲の壁へと視線を戻す。だが、そんなサラの足元で、最も気配に敏感であるメルエが首を横へと振った。

 姿が見えないというだけで、魔物の存在を否定する事をメルエはしないだろう。ならば、この地下に先程の影はいないという事になる。それは、両者共に被害なく戦闘が終了した事を意味していた。

 

「しかし、本当に厄介な魔物だな……」

 

「そうですね。私達がこの城へ辿り着いている事は、既にバラモスも知っているのでしょうが、先程の影が報告役だとすれば、これまで以上の妨害も有り得るかもしれません」

 

 斧の背中に括りつけたリーシャが、大きな溜息と共に壁に立てかけていた『たいまつ』を取る。そんなリーシャの横で、サラは何処か思案めいた表情を浮かべ、不穏な事を口走った。その言葉はこの一行の誰もが思いつかなかった事であり、カミュでさえも弾かれたようにサラへ視線を送る。

 これまでの旅の中で、強敵と遭遇する事は多々あった。カンダタという盗賊の親玉を含めても、その中の誰もが、カミュ達が襲撃する為に向かって来ている事を察している人間はいなかったのだ。ヤマタノオロチと呼ばれる太古からの龍種であっても、溶岩の洞窟の奥でカミュ達を目にするまでその襲来を予感していても、確信にまでは達していなかった。

 

「サラ、どういう事だ? 先程の影が魔王の斥候だというのか?」

 

「え? あ、はい……メ、メルエ、ネズミさんは余り綺麗ではありませんから、触っては駄目ですよ! 噛まれたりしたら、病気になってしまいます!」

 

 疑問を感じたリーシャの問い掛けは、その辺りの話に興味を示す事無く、甲高い泣き声を上げる鼠に興味を示して手を伸ばそうとしたメルエの行動によって霧散してしまう。屈み込むメルエを大慌てで立ち上がらせたサラは、その瞳を見て、行動を窘めた。

 叱られている訳ではない事が解ったメルエは、何故駄目なのかが解らず、不思議そうに小首を傾げる。とても先程までの戦闘で強力な火球を生み出した少女とは思えない姿に、リーシャは苦笑を浮かべた。

 鼠など、何処にでもいる生物ではあるのだが、不衛生な場所に多い事は事実であり、幼い赤子などは、鼠に齧られて死亡する事なども多い。アリアハンのスラム街などは、餓死した死骸などに群がる鼠が繁殖し、人の数百倍の数が生活していただろう。そして、スラム街での死亡理由として多いのが、餓死以外に原因不明の病気があり、それは鼠が齎した物ではないかという説もあった。

 しかし、どれ程人間社会で忌み嫌われる動物であろうと、メルエにとって害をなさない物であれば、それは興味の対象となる。アッサラームの家の中で何度か見た事はあるのだろうが、家の中で食事が取れないメルエには食料を取られたという記憶もなく、その頃の彼女には、逃げ出す小動物に興味を示す余裕はなかったのだ。

 

「ネズミさんが悪い訳ではないかもしれませんが、ネズミさんの身体は汚いのです。だから触っては駄目です」

 

「…………メルエも……だめ…………?」

 

 もう一度触ってはいけない理由を説明するサラに向かって、少し哀しそうに眉を下げたメルエが問い返す。その問い掛けを聞いたサラは、一瞬何を言っているのか解らなかったが、すぐにメルエの言いたい事を理解する事が出来た。

 メルエの頭の中では、『汚い=駄目』という構図が今の話で出来上がってしまっている。そうなれば、自分も汚ければ駄目なのかという想いが浮かんだのだろう。彼女は奴隷として売られる前から、湯浴みなどを滅多にさせてもらっていなかっただろうし、奴隷として連れられた馬車の中では、垢と埃に塗れていた。加えて言えば、今の彼女達四人は、暫くの間湯浴みを行ってはいないし、旅の埃や汗がそのままになっていると言える。

 

「ふふふ。そうですね、私達もこのままでは駄目になってしまいますね。この戦いが終わったら、ゆっくり湯浴みをしましょう」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの心配事が、このような場所に相応しくない程に和む内容だった事で、サラだけではなく、他の二人の表情にも余裕を齎した。

 『この戦いが終わったら』。

 その言葉にサラがどれ程の想いを込めているのだろう。本来では決して叶わぬ夢物語に近い願望。その願望の意味は、世界中の生物が抗う気力さえも失う程の力を有する『魔王バラモス』を打倒し、この世界と、この世界に生きる者達の平和を取り戻すという事と同義であるのだ。

 その偉業を成し遂げた者はおらず、数十年以上の間、それを望んで旅立った者達は悉くこの世を去っている。戦闘の終了後に湯浴みをする所か、この場所にも辿り着けずに魔物の餌となった者は数多い。そんな数多くの想いと屍を乗り越えて彼等はこの最終決戦の地に辿り着いた。

 だが、それでも、誰も辿り着く事が出来なかった魔王城へ足を踏み入れた彼らでさえ、超越する程の力を『魔王バラモス』は有しているだろう。なればこそ、その存在は『魔王』なのである。

 何者も届かず、何者も寄せ付けない程の絶対的な存在。

 それが『魔王バラモス』。

 今、その絶対的な存在を目の前にして、その先にある未来をサラが初めて口にした。誰しもが願いながらも、それを口にする事を忌み嫌っていたように避けて来た事柄を、一行の中にいる『賢者』が口にする。それは、想像以上に大きな意味を持っていた。

 

「そうだな。帰ったら、私がメルエの髪を洗ってやろう」

 

「でしたら、私は身体ですね。それに、リーシャさんの髪も整えないといけませんし」

 

 嬉しそうに未来を語る二人の女性に、幼い少女は花咲く笑みを浮かべる。その笑みは、暗く湿った地下道さえも照らす程の暖かな輝きに満ちていた。

 そんな三人のやり取りを見ていたカミュは、若干表情を和らげながらも、その脇を抜けて先へと足を踏み出す。この最後の城へ辿り着いてからも深まる各自の絆は、最早容易く切れるような物ではない。しっかりと結ばれたそれは、言葉にせずとも、各自の心に刻まれている事だろう。

 

 通路を先へと進むと、再び一階部分に続く階段が見えて来る。心を通わせ、未来を見つめる四人に、落胆という感情は既に存在しない。その階段の向こうに『魔王バラモス』がいるかのように厳しく瞳を細めたカミュは、一歩一歩確かめるように階段を昇って行った。

 階段の先は再び細い通路が続き、真っ直ぐに伸びた道を突き進むと、右に折れるように進む事になる。だが、その道を折れた瞬間、先頭のカミュの足が急に停止した。急停止した事でサラも寸前で足を止めるが、皆の足元しか見えないメルエは、そのままカミュの足にぶつかってしまう。何事かと最後尾から顔を出したリーシャは、歪む視界に愕然とした。

 

「瘴気に満ちているというよりは……」

 

「……瘴気のカーテンですか」

 

 その通路から於くの広間へと続く小さな入り口は、視認出来る程の瘴気によって覆われていたのだ。その奥の部屋全てが瘴気に満ちた場所という訳ではなく、その入り口が入る者を拒むように瘴気が降りていると考えた方が正しく見える。

 歪む大気がその瘴気の濃さを示しており、そのまま奥へ向かおうとすれば、高濃度の瘴気を吸い込んでしまい、身体にどのような異変が起きるかも解らない。だが、進まなくてはならない以上、この場で出来る事は唯一つである。

 

「メルエ」

 

「…………ん………トラマナ…………」

 

 瞬時に何をすべきかを悟った二人の呪文使いは、即座に障壁を作り出し、瘴気に対する壁を生み出した。高濃度の魔法力を更に均す事によって、障壁内の空気は澄んだ物へと変化して行く。頷いたカミュが一歩踏み出す事で、障壁がそのまま入り口の上部から降り注ぐ瘴気を遮って行った。

 だが、本当に驚くべき物は、魔族の本拠地である場所にあってしかるべきである高濃度の瘴気ではなく、その瘴気の壁に遮られた向こう側にある景色であったのだ。

 

「……謁見の間なのか?」

 

「向こうに見えるのは……玉座ですね」

 

 瘴気に周囲を囲まれたその場所は、瘴気を入り込ませない程の神聖さを保っており、真っ直ぐに伸びた赤い絨毯は、在りし日の名残を残している。赤い絨毯の先の一段上がった場所には玉座が設置されていた。

 それらが示す事柄は、ここは王が来訪者との謁見を行う場所であるという事実。各国の王城に必ず存在する、『謁見の間』と呼ばれる広間であるという事である。それは、明らかにこの城が国家の王城であった事も示しており、それが人間の国であったのか、それ以外の種族であったのかを知る術は残っていないが、この場所で国王となる人間が自国の家臣や他国の客人と相対していた事だけは確かであろう。

 ネクロゴンド王国とでも云うべきなのかもしれない国の中枢となる王城は、今や魔王の手に落ちている。魔族が棲み付き、昔の栄華の名残など欠片も見えない。それでも、この謁見の間を中心に国家を形成し、この場所を中心に微笑みと涙が入り混じり、数多くの生が育まれて来た筈である。

 

「この国家は遥か昔に魔族に滅ぼされたのか……許せんな」

 

「いえ、一概にはそう言えないでしょう。遥か昔、魔物や魔族がこの場所で平穏に暮らしていたのかもしれません。その場所に人間が入り込み、魔族や魔物を追い出して城を構えたのであれば、それは侵略者側の非です」

 

 国家に属する騎士として生きて来たリーシャは、朽ち果てた玉座へ視線を送り、悔しそうに唇を噛み締める。国家という物は、王族がその場所にいるだけでは成り立たない。その場所で生きる数多くの者達がいなければ、食料も生み出す事は出来ず、文化も生まれないのだ。

 この王城も、王族が建造を命じたとしても、その命で実際に動く者、そして実際に働く者がいなければ建立される事はなかっただろう。この国で暮らす数多くの者達の惨い死に様を想像したリーシャは、魔族や魔物に対する強烈な怒りに見舞われた。故にこそ、サラが口にした言葉が信じられなかった。

 

「サラ……魔物ではなく、人間が悪いというのか?」

 

「いえ、そういう訳ではありません。ただ、どちらが悪いと判断出来る状況ではないということです。第一に、この場所で国家を形成していた者が人間であると決まった訳ではありません。魔族が国家を形成し、魔族同士の争いで片方が敗れたのだったとしたら、この場所は元々魔族や魔物の生きていた場所となります」

 

 サラはこの四年の旅で大きく変化している。愚直に魔物を憎むだけの『僧侶』はここにはおらず、冷静な瞳で世界を見つめる事が出来る『賢者』となっていた。

 故に、この場所を見て自分の胸の内に生まれた憤りの炎を押さえ込み、この状況で何が解るか、何が考えられるか、という事を冷静に考える。この城が本当にネクロゴンド王国と呼ばれた王城なのか、それともそうでないのかを考えた際、今の自分達では答えに辿り着けないという事を理解するのだ。

 その答えがリーシャやカミュに受け入れられるかどうかは解らない。それでも、自分はこの場所で安易に答えを出すべきではないというのが、サラの答えであった。

 

「……ふぅ。熱くなってしまったな。済まない、サラ。私達が考える事は唯一つ。『魔王バラモス』の討伐である事を思い出した」

 

「アンタのその姿も随分久しぶりに見た気がするな」

 

 玉座をみたまま視線を動かす事もなく自身の考えを口にするサラを見つめていたリーシャは、肩の力を不意に抜き、息をゆっくりと吐き出す。自身が想像以上に熱くなってしまっていた事に気付き、その目的を再認識したのだ。

 そんな彼女の姿に小さな笑みを浮かべたカミュは、冗談とも本気とも取れる言葉を口にする。傍で不思議そうに三人を見ていたメルエも、出会った頃のリーシャを思い出したのか、柔らかな笑みを浮かべた。

 二人のその姿に羞恥を憶えたのはリーシャである。自分の昔の姿を語られる程恥ずかしい物はない。しかも、自分でさえも理解している恥部であれば尚更であろう。だが、羞恥に顔を赤くする彼女の姿が、尚更にメルエの顔に笑みを浮かべさせる事となった。

 

「そ、そこまで酷くはなかった筈だ!」

 

「いや、それに対しては同意出来ないな」

 

「…………リーシャ……おこる……………」

 

 最早、先程まで難しい表情を浮かべていたサラでさえも、頬が緩んでしまう。微笑みながらカミュのマントの中へと逃げ込んだメルエの姿が更に笑いを誘って行った。

 滅びし国家の謁見の間で繰り広げられるやり取りは一時の休息となり、羞恥に燃えるリーシャから逃げるように外へと繋がる大手門を開けるのだが、そんな休息時間は一瞬の物となる。巨大な門を押し開けて外へと出た一行は、そこに蔓延する強大な威圧感に足が竦んでしまう。門を出た左手であり、城の東側にある泉の方から来る強大な魔法力と、それに伴う威圧感は、ここまでの四年の旅の間でも感じた事のない程の物であった。

 

「いよいよか……」

 

「ああ」

 

 羞恥に燃えていた顔は自然と引き締まり、拳を握る力は強まる。先程とは異なる熱を帯びた身体は、この四年の旅の集大成を迎える為に小刻みに震え始めた。

 それは、恐怖の震えでも、感動の震えでもない。この四年の旅で培って来た物全てを吐き出して戦う事への武者震い。彼等は今、ようやくその場所に立ったのだ。

 横一列に並んだ一行は、泉の中央に続く橋の前に立ち、凄まじい威圧感が漏れ出す地下へ向かう階段に視線を送る。各々の表情にそれぞれの経験が宿っていた。

 アリアハンを出た時は、『勇者』であるカミュ、『戦士』であるリーシャの二人だけでの出発。しかし、アリアハン城を出立し、アリアハン大陸の平原を歩き始めた時に彼等を追って来た『僧侶』であるサラが同道する事となる。そして、三人での過酷な旅は、ロマリア城でのカミュ王誕生という小さな事件を経て立ち寄った森の中で、幼くとも才能溢れる『魔法使い』メルエが加わる事によって、様変わりを始めた。

 

「メルエ、魔法力はたくさん残っていますか?」

 

「…………ん…………」

 

 教会の教えを愚直に信じる『僧侶』と、残酷な程の幼年時代を送って来た『勇者』とのやり取りは、幼い『魔法使い』を怯えさせる程に過激な物であり、常に平行線を辿る。アリアハンを出たばかりの頃は、そんな『僧侶』と共に『勇者』を糾弾していた筈の『戦士』は、誰よりも一行の心を見て、その変化を感じていた。

 『自分が変わって行く事を否定しない』という戦士の言葉が、常に教えが最優先だった僧侶の思考に一石を投じ、多くの醜さを持つ『人』の心に残された美しさを見る事によって、僧侶は常に迷い、悩み、泣く事となる。

 『誰しもが幸せに生きる事を許されている』という彼女の言葉は、奴隷として売られた幼い少女を救う時に出た言葉。それは、何度も彼女を苦しめ、何度も彼女に涙させる言葉となった。

 そんな僧侶が後の苦しみを生みながらも救った少女は、類稀なる才能を秘めた魔法使いとなる。戯れのように魔法陣へと導いた勇者がその後長く後悔する程に、彼女は容易く呪文の契約を済ませ、その後も次々と高位の呪文の契約を済ませて行く。世間一般の魔法使いが一生を掛けて使用する『魔道士の杖』と心を通わせ、只の道具である筈の杖が限界を超える程に耐え続ける事が出来たという不思議な魅力をも持った少女であった。

 常に苦しみ、悩み、考え、泣いて来た僧侶は、人類を救うと謳われる『賢者』となり、今その元凶の許へと辿り着く。そして、不思議な魅力を持つ少女は、その生い立ちが徐々に明らかにされながら、『悟りの書』に記された古の賢者が手にした呪文の契約まで済ませ、今、人類最高位の『魔法使い』となっていた。

 

「カミュ、遂に私達はここまで来たのだな……」

 

「……まだ『来た』だけだ」

 

 その勇者の在り方に疑問を持ち、アリアハン出立時には勇者として認めないと心に誓った戦士は、旅を続ける中で、その青年の心を知る努力を続けて行く。何度も衝突しながらも強引に心へと踏み込んで行く姿勢は、時に鬱陶しく、時に嫌悪の感情を受ける事もあった。それでも諦めず、その心に踏み込んで行った彼女は、その青年の広い心と、深い優しさを知る事となる。そして、青年が生み出す必然を認め、彼こそが『勇者』であり、彼だけが『勇者』であると認めた。

 アリアハンという辺境の小国を出立した時から常に隣を歩み続けて来た戦士は、勇者として祀り上げられた青年の心に大きな扉を開ける事となる。彼にとって頭が固く、短慮で、粗野であるという認識があったその戦士は、誰よりも深い慈愛を持ち、誰よりも他人の心を慮る優しさを持っていた。

 魔法力もなく、只武器を振るうだけしか能がないと悩むその心の根は、共に旅をする若すぎる呪文使い達の心と身体を想っての事。騎士としての誇りを持ち、精霊ルビスという存在を信仰しながらも、賢者となる女性を前へと進める為、その至上の存在にも斧を向けると宣言する程の熱い心も持ち合わせていた。勇者の青年にとって、一人旅を続け、誰も知らぬ場所でその命を散らす事を目的とする旅は、この一人の女性戦士によって、死ぬ事が許されない旅へと変化をして行く。どれ程の強敵に遭遇しても、剣を振るう彼の横にあり、お互いの動きやそれに伴う考えさえも理解出来る程に回数を重ねた戦闘の中で、いつしか彼が最も頼りとする最高の『戦士』となって行った。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 各々の頭にこれまでの旅が蘇り、それを振り払うかのように『勇者』が一歩足を前へと踏み出したその時、青年の横に立っていた少女が、振り向き様に杖を大きく振るった。

 巨大な魔法陣が浮かび上がり、先端のオブジェの嘴から灼熱の炎が飛び出す。そのまま一行の後方へ着弾した炎弾は、立ち上る炎の壁を生み出した。それと共に水分が蒸発する巨大な音が庭園に響き渡り、蒸気が空へと立ち上る。

 一行の心や、場の空気さえも読まない魔物の出現に、一行は眉を顰めながらも即座に戦闘態勢に入った。

 

「……厄介だな」

 

「はい……相殺し切れなかった冷気がここまで来ている事から、マヒャドだと思われます。全員がマヒャドを行使するとなると、厳しい戦いになります」

 

 蒸気の霧が晴れて行く中、一行の肌を刺すような冷気が周囲を満たして行く。そして、横並びになっている一行と相対するように、正面の魔物も横並びに四体が立ち並んでいた。

 その魔物はエビルマージ。魔物の中でも魔法に重きを置いた上位の魔物である。両手を広げながら、今にも呪文を行使しようと身構えるその姿が、一行の胸にある小さな不安を煽っていた。

 メルエが放ったベギラゴンという最高位の灼熱呪文でも相殺し切れない程の冷気となれば、ネクロゴンドでメルエが行使した最高位の氷結呪文以外は有り得ない。魔法に重きを置いた魔物の放つ呪文である以上、人間であるメルエの呪文で完全に相殺する事は不可能に近い。しかも、それが四体となれば、サラという世界唯一の賢者の呪文を足しても、相殺する事は出来ないのだ。

 この最終局面で、これ程に厄介な敵はいない。魔王バラモスという強大な敵を前にして、サラやメルエの魔法力を温存したいというのが、一行の考えであるのだが、そうも言っていられない状況に追い込まれてしまった。

 

「カミュ、一気に倒すぞ。時間を掛ける分、私達は不利になる」

 

「アンタに魔法力はない。マヒャドをまともに喰らえば即死も有り得る」

 

 一気に肉薄し、一撃で数体のエビルマージを倒してしまいたいのはカミュも同じである。だが、カミュとは異なり、リーシャに呪文の耐性は期待出来ない。ある程度は大地の鎧やドラゴンシールドが緩和してくれるであろうが、肉体は別である。最上位の氷結呪文は、その肉体の中までも凍らせてしまう程の威力を秘めており、そうなってしまっては、如何にベホマといえども完治は難しい可能性があった。

 

「……時間は余りなさそうです。空が曇って来ました……雨が降り出せば、氷結呪文の防御が厳しくなるばかりか、凍結を早める事になりかねません」

 

「ちっ!」

 

 状況を分析しながら剣を構えていたカミュは、サラの言葉で空を見上げて舌打ちを鳴らす。先程まで暖かな光を降り注いでいた太陽が、今は雲の陰に隠れてしまっていた。そればかりか、その雲は黒々とした厚い物で、雨ばかりか雷さえも宿した物である事が解る。

 これ程の雷雲となれば、降り注ぐ雨の量は想像に難しくない。相当の量の雨が降り出せば、屋外であるこの場所の地面に水は溜まり、カミュ達全員の身体は濡れる。濡れた物ほど、凍らせる事は容易であり、エビルマージが唱える氷結呪文の脅威が増す形となる事は想像出来た。

 

「俺が先頭で行く。アンタは、俺の影から必ず一体は倒してくれ」

 

「……わかった」

 

 カミュの言葉に渋々ながら頷いたリーシャが、魔神の斧を握り込む。二人の瞳の間で交わされた会話は、彼等以外には解らないだろうが、それを機にカミュは一気にエビルマージへと駆け出した。

 緑色のローブを纏った四体の魔物は、迫り来るカミュの姿を見て手を翳す。その動きを見て、サラとメルエが動き始めた。先制するように魔封じの呪文をサラが唱えるが、カミュの突進に身構える三体のエビルマージは、それを嘲笑うかのように手に魔法力を溜め始める。

 しかし、最後の一体が、他のエビルマージと同様に手を掲げたまま何やら慌て始めたのを見て、リーシャは好機と判断し、魔神の斧を手にして駆け出した。

 

「呪文を封じられた奴は後だ!」

 

 そんなリーシャの行動を叱りつける様にカミュは叫び、一体のエビルマージが呪文を詠唱終える前に、その身体の肩口から斬り付ける。鋭い斬り口を残し、稲妻の剣がエビルマージの身体抜け、一泊置いてから激しく体液が噴き出した。

 崩れるようにエビルマージが地面へと倒れるのを見届ける暇もなく、カミュは前方へドラゴンシールドを掲げる。身体の芯まで凍りつきそうな程の冷気が周囲を支配し始め、カミュの足と地面を縛りつけた。

 

「ベ、ベギラマ……」

 

「メルエ!」

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 微かに動く右腕を振り、凍りつく口を強引に開いて完成させた詠唱により、カミュの周囲が炎に包まれる。だが、エビルマージが唱えたマヒャドに対し、圧倒的に威力が違い過ぎた。カミュの生み出した炎の壁は、燃え上がる前に鎮火して行き、足元の氷を若干溶かす程度にしか効力を現さない。

 もし、サラの指示がもう少し遅かったり、その指示に即座にメルエが応えなければ、カミュは身体の芯まで凍りついた氷像と化していただろう。だが、人類最高位に立つ『魔法使い』が唱えた最上位の灼熱呪文の熱気が彼を包み込み、その身体を覆っていた冷気を吹き飛ばして行った。

 

「いやぁぁ!」

 

 自身の放った最上位の氷結呪文が霧散して行くのを呆然と見ていたエビルマージにリーシャの斧が振り抜かれる。だが、『魔の神』が所有していたこの斧は気まぐれであり、定めた主をも試すような行いをするという言い伝えがあった。

 剣よりも斧を持っての戦闘の時間の方が長くなっているリーシャであったが、振り抜いた斧の重さが急激に重くなったような錯覚に陥る。重心がぶれた斧は、エビルマージの身体に触れる前に波打ち、そのローブを僅かに斬り裂いたのみに留まった。

 

「R@L1H0」

 

「えっ?」

 

 リーシャが攻撃を失敗する事など、この四年余りの旅の中で一度もない。マヌーサなどの呪文によって幻に包まれている時であれば別だが、エビルマージがそれを唱えた様子はない。それにも拘らず、その手にした斧が空を斬った事にサラは声を失った。

 だが、この場所は『魔王バラモス』の居城。そのような呆けている時間は与えられる筈がない。未だに身体を覆う冷気からの完全脱出を果たしていないカミュと、先程斧を振りぬいた態勢のリーシャが、突然その場で倒れ伏したのだ。

 何が起きたのか理解が追いつかないサラであったが、今まで傍観した一体のエビルマージが何かを行使し終えたように手を翳している事に気付き、最悪の展開を頭に浮かべてしまう。その魔物の手から発せられた呪文が『死の呪文』であったとしたら、倒れ込んだカミュとリーシャは、既に生を手放した存在という事になってしまうのだ。

 愕然とするサラの視界に、先程マヒャドを行使したエビルマージが再度両手に魔法力を集めている姿が映り込む。それが倒れ伏した前衛二人に向けられている事に気付き、サラは自分の横で杖を持っているであろう少女へと視線を送った。

 

「メ、メルエ!」

 

 しかし、サラの横で杖を持ちながら呪文の準備をしている筈の少女の姿はなく、視線を下に落とすと、その少女は前衛二人と同様に地面に倒れ伏していたのだった。

 杖を握ったまま、地面に頬をつけるように倒れているメルエの姿は、苦痛に満ちた物ではない。だが、それがサラの心の不安を大きくする。『死の呪文』を受けた者は、死へと誘う言霊に運ばれ、その魂を手放してしまう。そこに身体的苦痛は皆無なのだ。

 

「はっ!? ベギラゴン!」

 

 自分の横で倒れるメルエの姿に意識を持っていかれてしまったサラではあったが、エビルマージの周囲の空気が冷えて行くのを感じ、咄嗟に詠唱を完成させる。その呪文は、既に人類最高位の『魔法使い』が習得してはいるが、この『賢者』にとっては契約を済ませたばかりの初詠唱の物であった。

 倒れ伏すカミュとリーシャの上を吹き抜けた熱風は、二人とエビルマージ達とを遮るように灼熱の壁を生み出す。一歩遅れたエビルマージのマヒャドがその壁に衝突し、瞬時に蒸気へと変化して行った。

 メルエよりも威力に劣るサラのベギラゴンではあったが、先に着弾した事と、緻密な魔法力によって構成された炎の壁が、魔物の氷結呪文を必死に食い止める。しかし、それも時間の問題であり、敵であるエビルマージは残り三体。一体の呪文を封じているとはいえ、サラ一人で何とか出来る相手ではない。

 

「メルエ……眠っているのですか……」

 

 メルエの状態を見ようと屈み込んだサラは、倒れ伏す少女の小さな胸が規則正しく上下している事を確認した。そこまで来て、ようやく自分が焦りでかなり心を乱していた事に気付く。

 前衛にいるカミュは、『死の呪文』の身代わりとなる『命の石』を所持している。サマンオサ大陸にて、ラーの鏡が安置されていた洞窟で発見したそれを、満場一致で彼へと渡していたのだ。故に、彼が『死の呪文』によって命を落とす事は有り得ない。ならば、先程エビルマージが唱えた呪文は、『死の呪文』であるザラキではなく、眠りへと誘うラリホーであったと考えるべきだろう。

 この一行の力量は魔物相手であっても遅れを取る物ではない。通常であれば、ラリホーのような精神異常を起こす呪文は、そこまで効き目はなかった筈だ。

 だが、エビルマージという魔物の中でも上位に入る呪文使いが行使したという事とが原因の一つであり、それ以上の要因として、ここまでの道中で一行は自分達が考えているよりも疲労していたという事だろう。

 バラモス城に入ってから既に二日近くの時間が経過している。昨夜は全員が十分な睡眠を取る事が出来ず、ここまでの道中では一瞬も気の抜く場所はなかった。常に周囲を警戒し、解らぬ道に戸惑いながら、緊張と緊迫感に胸を圧されながら突き進んで来たのだ。

 

「メルエ……行って来ますね」

 

 ならば、何故サラだけが眠りに落ちなかったのか。

 それは、『精霊ルビス』の加護の賜物なのか。

 否である。

 彼女は、この一行の中で唯一、エビルマージが唱える精神異常の呪文を警戒していたのだ。常に魔物の手に注視し、それが何を行使しようとする為の物なのかを解読しようと必死であった。

 カミュ達三人の警戒が足りなかったという訳ではない。だが、その警戒に対しての注視力が異なっていたのだ。

 

「邪魔です!」

 

 全速力でカミュ達の許へと駆け出したサラは、その間にいるエビルマージを一刀の元に斬り捨てる。最早、呪文さえも行使出来ないエビルマージなど敵にもならない。倒れ込んだ魔物の身体に遅れ、緑色のローブに包まれた首が落ちて行った。

 サラの持つゾンビキラーという剣は、この世に生を持たない者達に絶大な威力を有する物ではあるが、鍛え上げられたその刃は、それ以外の者に対しても剣としての威力は十分に有している。それを手にしたサラという『賢者』も、カミュやリーシャには及ばないまでも、人類の中では上位に入る程の力量は有していた。

 地獄の騎士や、動く石像などの直接攻撃を主とする者に対して抗う事は出来ないまでも、エビルマージのように呪文に主力を置く敵であれば、剣技で圧倒する事は可能なのだ。

 

「M@HY@5」

 

「マホカンタ!」

 

 サラは『賢者』になってから、『悟りの書』にある呪文を数多く取得して来ている。攻撃呪文に関して言えば、メルエの方が習得は早く、威力も圧倒的に高い。それ故に、戦闘で必要性がない限り、サラは攻撃呪文を行使する事を控えていた。

 だが、決してサラが呪文を習得していない訳ではなく、常にどの呪文も行使出来るように準備は進めて来ている。メルエの成長の為に一歩引いた立場で補助呪文や回復呪文の行使に徹してはいても、味方の危機とあれば、その限りではない。

 自身の持つ全ての呪文を行使し、魔物と渡り合う。呪文の知識、理解力、どれを取っても、彼女が人類で最高位に立つだろう。どのような時に、どんな呪文を行使するべきなのか。そして、それがどのような結果を生むのかも理解しているからこそ、彼女は『賢者』なのだ。

 

「ザメハ!」

 

 放った氷結呪文が自身へ跳ね返って来た事に戸惑っているエビルマージ達の隙を付き、サラは詠唱を完成させる。それは『悟りの書』に記載されていた一つ。このような危機がある事を予測していたかのように記載されていた魔法陣による契約を、サラは済ませたばかりであった。

 彼女が歩む道を、彼女よりも前を歩いて切り開いて来た『勇者』を、その細く頼りない道を歩む事に迷う彼女をいつでも正道へと引き戻してくれる『戦士』を、そして彼女を姉のように慕いながら、いつも和みと決意を齎してくれる『魔法使い』を再びこの戦場へと戻す為に、彼女は力の限りその呪文を詠唱する。

 

<ザメハ>

深い眠りに落ちた者を強制的に引き摺り起こす呪文。『睡眠』という、生物であれば生きて行く為に必要な欲を押さえ込み、逆にその欲を霧散させる呪文であり、それはある意味で考えれば、生物を死に至らしめる程の魔法である。故にこそ、古の賢者は、この呪文を『悟りの書』に記載する事によって封じ込めたのだ。

 

「カミュ様! リーシャさん!」

 

 瞬時に眠気を振り払ったカミュとリーシャが立ち上がる。己が置かれた状況を全て把握していないまでも、そこは人類の頂点に立つ『勇者』と『戦士』である。後方にいた筈のサラがこの場所におり、そのサラが大声で自分達へ指示を出している。それだけで彼等には十分であった。

 一瞬で間を詰められたエビルマージは、振り抜かれた魔神の斧を避ける事は出来ない。今度は重心がずれる事はなく、むしろ重さを感じない程に手に吸い付いた魔神の斧は、エビルマージの身体を両断した。

 凄まじい威力で振り抜かれた為、エビルマージの上半身が魔神の斧の刃の上に乗り、そのまま遥か彼方へと吹き飛ばされる。体液さえも置き去りにして吹き飛ぶ斧の威力に一瞬足が鈍ったカミュの前にエビルマージの魔法力が集まっていた。

 

「…………マホカンタ…………」

 

 しかし、そんなカミュを光の壁が包み込む。目の前で吹き荒れる冷気が、光の壁に反射されて行使者であるエビルマージへと襲い掛かった。

 サラの行使したザメハは、後方にいる幼い少女の眠りさえも打破していたのだ。振り抜かれた杖を握り、真っ直ぐに魔物を捉えた瞳は、強い光を宿している。

 元々自分の行使した呪文であり、攻撃呪文は氷結系しか持ち合わせていないエビルマージにとって、跳ね返って来るマヒャドは脅威ではない。しかし、その冷気の壁を突き抜けて来る、天の怒りのような剣は、この魔物にとって命を奪う威力を十分に有していたのだった。

 袈裟斬りに入った剣は、肩口から腰までを斬り裂き、エビルマージの身体を斜めに両断して行く。剣が抜けてから、暫しの時間を掛け、エビルマージの身体はずれるように地面へと落ちて行った。

 

「ふぅ……何とかなりましたね」

 

「すまない……たすかった」

 

 四体全ての死骸が散らばる中、ようやくサラが安堵の溜息を漏らす。そこでようやく自分達が置かれていた状況を理解したカミュは、小さくサラへと頭を下げた。

 駆け寄って来るメルエを抱き上げたリーシャではあったが、再び自分が魔物の呪文によって眠りに落ちてしまっていた事を知り、カミュと共に頭を下げる。それを見ていたメルエも、サラへ向かって、リーシャの腕の中から小さく頭を下げていた。

 

「い、いえ! 初めての呪文でしたから、成功して良かったです」

 

「最近は、サラが初めての呪文を行使する事が多いな。それだけサラも成長し、『悟りの書』に記載されている物を見る事が出来るようになったという事か」

 

 ベホマに続き、サラが新呪文を行使した事を知ったリーシャは、笑みを浮かべてその健闘を讃える。安堵の溜息を吐きながら、何処か引き攣った笑みを浮かべるサラを見て、それ程まで緊迫した状況であった中で、緊張と共に行使したものである事を悟ったのであった。

 しかし、そんなリーシャの笑みは、『ふぅ』と息を吐き出すと共に片膝を地面へと突けてしまったサラを見て凍り付く。そんな姿を見た事は数度ある。それの意味する事を知っているカミュの表情も一気に険しくなった。

 

「だ、大丈夫です。魔法力切れではありません」

 

 近寄って手を貸そうとするリーシャを手で制したサラは、静かに立ち上がり、着ている法衣に付いた砂を手で払う。しかし、その表情を見る限り、それ程余裕があるようにも見えない。むしろ、今は魔法力が切れてはいないが、それも時間の問題のように見えるのだ。

 そして、同じ呪文使いであるメルエへと視線を移したカミュとリーシャは、幼い少女の表情を見て眉を顰める。彼女の表情にも余裕はなかったのだ。常に笑顔を浮かべる少女の顔に余裕はなく、何処か神妙にサラを見つめている。それを見たカミュ達は、一抹の不安に駆られた。

 

「正直に言えば、私もメルエも余裕はありません。このまま『魔王バラモス』に挑んでも、十分に力を発揮出来るとは言えません」

 

「ど、どうするんだ?」

 

 そんな二人の不安を煽るように告げられたサラの告白に、リーシャは心から動揺してしまう。サラが弱音を吐く事は初めてではない。だが、このような場面で、しかも『賢者』の顔となっているサラが弱音を吐くなど有り得る事ではなかった。

 それが尚更、この状況が切羽詰った物である事を物語っている。動揺してしまったリーシャを責める事など誰にも出来よう筈がない。その隣にいるカミュでさえ、何一つ言葉を発する事が出来ず、黙り込んでしまっていた。

 

「ここまで来て、このような事を言うのは悔しいのですが、一度戻って態勢を立て直しましょう。この場所からなら、ランシールが最も近い筈です。一日休息を取り、もう一度この場所へ挑みます。それが、最も確実な方法だと思います」

 

「……カミュ」

 

「……一日二日で世界が滅びるのならば、疾うの昔に滅び去っている筈だ。ルーラで一度ランシールへ戻る。この場所なら、魔王の張った結界なども感じない。ルーラでも移動は可能だろう」

 

 カミュの瞳を見て語るサラの提案は、通常ならば受け入れるに値しない物である。彼等の目的は『魔王討伐』であり、その魔王まで最早目の前なのだ。次にこの場所へ来れる確証もなく、この場所へ辿り着いたとしても、その時に魔王がここにいるとは限らない。

 それを理解しているからこそ、リーシャは救いを求めるようにカミュへ視線を向けた。だが、そんな一行のリーダーである青年の口からは、サラの提案を受け入れる言葉が発せられる。

 確かにカミュの言うように、僅か数日で世界が滅びてしまうのであれば、そのような時間は遥か昔に過ぎ去っているだろう。魔王によってこの世界の全ては破壊され、人間などは一人も残っていないかもしれない。だが、それも希望的観測に過ぎなかった。

 そんな不確定な物で好機を逃す事を否定しようとしたリーシャであったが、カミュの瞳を見て、それを諦める。彼の瞳の中には、何か確信めいた光が輝いていたからだ。

 彼がこのような瞳をする時、その胸にはリーシャやサラでさえも解らない何かが秘められている。それを細かく説明しようとはしないため、時折口論になって来た経歴はあるが、それでも彼がこの瞳をする時、それが間違っていた例はなかった事も事実であった。

 

「……仕方がない。道順は憶えているのだろう? ならば、次は戦闘を極力減らし、この場所まで来る事も可能だな」

 

「ああ」

 

 一息吐き出したリーシャの問い掛けに、カミュは大きく頷きを返す。それを見たリーシャは満足気に頷きを返し、自分の腕の中で船を漕ぎ始めたメルエを抱き直した。

 メルエを抱きながらサラに肩を貸したリーシャは、そのままカミュの近くへ寄って行く。サラがもう片方の手でカミュの腕を掴んだ事で、帰還の準備は整った。

 

「外のラーミア様は、カミュ様の魔法力に反応する筈です」

 

「ルーラ」

 

 サラの言葉に無言で頷いたカミュは、そのまま移動呪文の詠唱を完成させる。

 魔王の拠点である城の庭園から上空に浮かび上がった光は、未練があるように暫く上空で留まった後、南東の方角へと消えて行った。

 

 

 

 魔王が台頭して数十年。誰も辿り着く事の出来なかったと云われる場所に彼等は立つ事となる。だが、それは『勇者』と呼ばれる者にとっても、それに同道する者達にとっても過酷な道程であった。

 人類最高位に立つ四人を、精神的にも肉体的にも限界に近い状態に追い込む程に過酷な場所。それが世界を恐怖で覆う『魔王バラモス』の居城であるバラモス城である。

 何故、それ程の力を持つ魔王がこの場所から動かないのかは解らない。だが、今も尚、その場所に在り続けるその存在がある限り、この世界に平和が訪れる事はない。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

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