新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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~閑話~【ランシールの村②】

 

 

 

 ネクロゴンドの山脈を越えた場所にあるバラモス城を飛び出した一行の光に気付いたラーミアは、下げていた首を動かし、大きく翼を広げる。羽ばたきながら上昇した不死鳥はその光を追うように速度を上げて行った。

 ルーラの光に包まれながらも、追い付いて来たラーミアの姿を確認したメルエは満面の笑みを浮かべ、その顔を見たリーシャも柔らかな笑みを浮かべる。

 ラーミアという不死鳥がカミュ達一行にどのような感情を抱いているのかは解らない。だが、カミュ達一行と行動を共にしようとする意志は窺えた。一行が目指す南東の大陸に向かって翼を羽ばたかせている。

 

「キュェェェ」

 

 南東に浮かぶ大陸が視界に入り、徐々に高度が下がって行く中、ラーミアが一鳴きした。

 太陽が西の方へ傾き始めており、真っ赤に染まった海が波打つ。夕暮れ時に入ったランシール大陸の中央に無事着陸した一行は、ラーミアの羽ばたきによって巻き起こる風を防ぐように手を掲げる。幼いメルエが吹き飛ばされないように、その身をマントの中へと誘ったカミュは、ラーミアの足が大地へ着いた事を確認し、魔法力を弱めた。

 着陸したラーミアを覗き見たメルエが、絶対防壁であるカミュのマントから飛び出し、柔らかな羽毛に包まれたその身体へと抱き着く。大きな翼でその幼く小さな身体を包み込んだラーミアの瞳は、メルエとの初対面の時に比べて遥かに優しくなっている事が解る。

 

「カミュ様、明日一日はランシールで休息しましょう。皆さんが気付いていませんが、かなりの疲労が溜まっていると思いますので」

 

「……わかった」

 

 サラの提案に頷きを返したカミュは、メルエと戯れるラーミアに向かって今後の方針を語り聞かせる。既にラーミアが人語を理解している事は明白であり、その証拠にカミュが語り終えた時には、その首を縦に振った後で一鳴きをした。

 名残惜しそうにラーミアから離れるメルエであったが、リーシャに抱き上げられると、疲れが出たのか重そうに瞼を落としてしまう。カミュやリーシャでさえ今回のバラモス城での攻防には疲労を感じているのだ。幼く、体力を魔法力で補っているメルエは、それ以上の疲労を感じているのだろう。

 

「旅の宿屋にようこそ」

 

 町に入るとそのまま宿屋へと直行した一行に、宿屋の店主は営業的な笑みを浮かべる。それぞれの部屋の鍵を渡された一行は、各々の部屋に入り、即座に就寝した。

 自分達が考えているよりも疲労度は遥かに高かったのだろう。それぞれが湯浴みや食事も取る事無く、深い眠りへと落ちて行く。極度の緊張と、大きな警戒感が緩み、勇者一行の小さな休息日が訪れた。

 

 

 

「カミュ! 服を脱げ!」

 

 翌朝、メルエから借りた最後の鍵で部屋の扉を開けたリーシャは、ベッドの中で未だに眠るカミュを叩き起こす。言葉を聞く限りで言えば、追い剥ぎのように感じる言葉ではあったが、何の躊躇もなく布団を剥ぎ取るその姿は、正に追い剥ぎのそれであっただろう。

 驚きに目を見開いたカミュであったが、そんな追い剥ぎの横で笑顔を浮かべる少女を見て、深い溜息を吐き出した。彼女の髪は、少し湿り気を残しており、埃や油が綺麗に落ちた清潔感を漂わせている。朝目覚めると共にリーシャと湯浴みをしたのだろう。リーシャ共々宿屋にある部屋着に着替えており、清々しい笑顔を浮かべていた。

 

「……わかった。湯浴みを済ませてから衣服は持って行く」

 

「今はサラが湯浴みをしているからな。暫く待て」

 

 『ならば何故、今この時に服を徴収しに来た?』と問い掛けたくなる程の事を平然と言うリーシャに呆れるように溜息を吐き出したカミュは、そのやり取りを聞いてさえいなかったかのように笑顔で手を差し出すメルエを見て、一際大きな溜息を吐き出す。

 メルエにとってカミュの服を洗う事は与えられた仕事なのである。しかも嫌な仕事ではなく、自分でも役に立つ事が出来るという喜びの伴う仕事であった。故に、彼女はカミュへと両手を伸ばすのだ。

 

「部屋着に着替えて、メルエに渡せ。メルエ、私は下で洗濯の準備をしているから、カミュの衣服が重いようなら、カミュに持たせろよ」

 

「…………ん…………」

 

 ベッドから出て来ないカミュを見ていたリーシャは、後の事をメルエに託して階段を下りて行く。その背中に向かって頷いたメルエは、再び笑顔でカミュへと両手を差し出した。

 全てに諦めなければならない状況になって、ようやくカミュはベッドからその身体を下ろして行く。上着を脱ぎ、ズボンも脱いだ彼はそれを畳んでメルエの腕の上に置いた。自分の腕に掛かった重みを感じたメルエは花咲くような笑みを浮かべ、そのまま覚束ない足取りで部屋を出て行く。

 

「メルエ、少し待て」

 

 『よたよた』と歩き始めたメルエを慌てて引き止めたカミュは、ベッド横に畳んである部屋着へと着替える。振り向いたメルエにそれ程余裕が見えない事から、階段を一人で下ろす事に不安を感じたカミュは、部屋の扉を出た所で、自分の衣服をメルエの手から受け取ろうとするが、それは反対方向へと振り向いた彼女によって拒絶された。

 『ぷいっ』と顔を背けたメルエは、そのまま階段へと移動し、一歩ずつ下へと下り始める。それを見て慌てたのはカミュであろう。見るからに衣服の重さで前のめりに階段を落ちて行きそうな少女の身体に手を翳しながら、共に階段を下りて行った。

 

「メルエ、こっちだ!」

 

「…………ん…………」

 

 ようやく全ての階段をメルエが下りた頃には、カミュの額や首筋は嫌な汗で湿っていた。そんなカミュの苦労も知らず、宿屋の裏口の向こうからメルエを呼ぶ声が聞こえ、そちらに視線を動かした少女は嬉しそうに笑みを溢す。

 既に外で大きな桶に手を入れているリーシャは、自分達の衣服を洗い始めていた。泡立つ石鹸の香りが辺りに漂い、小さな泡が宙に浮いて弾ける。その景色を見たメルエの瞳が先程以上の輝きを放ち、自分の為に用意された桶へと手に持った衣服を入れ込んだ。

 リーシャによって冷たい水が桶に入れられ、自分の顔に飛んで来た水の冷たさに微笑みながらもメルエは腕を桶へと放り込む。汗と汚れが冷たい水へと溶け込み、何度か揉み洗いを繰り返した後、桶の水を地面へと捨てた。新たに水を入れて貰い、ようやく石鹸を放り込んだメルエは、その小さな手で衣服を洗い始める。

 

「あっ、もう洗い始めてしまっているのですか?」

 

 メルエが顔に飛んで来る泡をそれがついた手で擦り、笑みを浮かべる頃、ようやくサラが湯浴みを終えて外へと出て来る。湯で火照った身体に爽やかな風を涼しげに受け、靡く髪を手で押さえる姿に、メルエは花咲くような笑みを浮かべた。

 片手で持った自分の衣服を新しい桶へと入れたサラは、井戸から新たな水を汲み入れる。そのまま屈み込んで衣服を揉み始める彼女を見ていたリーシャは、青く抜ける空を仰ぐように顔を上げていたカミュへと声を掛けた。

 

「カミュ、早く湯浴みを済ませて来い。それまでに洗濯を終わらせて朝食を用意しておくから」

 

「…………メルエ………あらう…………」

 

 カミュの湯浴みが長い時間を要しない事を理解しているリーシャは、それまでに洗濯を済ませ、朝食の準備に入ろうとしている事を伝える。幸い、この日も他に宿泊客はおらず、店主に朝食を作る事の了承を得ていたのだ。

 顔に幾つも泡をつけたメルエは、そんなカミュを見上げて満面の笑みを浮かべる。胸を張って仕事を請け負った職人のように鼻息荒く言葉を紡いだ彼女は、再び桶へと腕を入れて衣服を揉み始めた。

 

「メルエ、頼む」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの言葉を聞いたメルエは、先程以上に嬉しそうに微笑み、大きく頷きを返す。結局、最後はリーシャの手を借りる事になると予想は出来るが、最後の最後までメルエはカミュの衣服を洗う役目を他の人間に渡そうとはしないだろう。故に、カミュは柔らかな笑みを浮かべながら、屋内へと入って行った。

 使命に燃えるメルエが一生懸命に手を動かす姿をリーシャとサラは微笑ましく見つめ、各々の洗濯物を洗い続ける。抜けるような青空が広がり、東から昇った太陽が眩いばかりの光を大地へと降り注いでいた。

 

 

 

 カミュが湯浴みから戻る頃、先程までメルエ達が桶を広げていた井戸の周りには誰もおらず、井戸から少し離れた物干し台の傍で、一仕事をやり切った笑みを浮かべるメルエが、風に揺れる衣服を見上げていた。

 その横で少女の頭を優しく撫でる女性と、洗濯物が入っていた桶を重ねる女性が同じように、太陽の暖かな光を受ける衣服を見上げている。そんな女性達の傍に歩み寄って来た青年に気付いたリーシャは、小さな笑みを浮かべた。

 

「スープの仕込みは既に済んでいる。中に入って食事にしよう」

 

「…………ん…………」

 

 朝早くに起床し、湯浴み、洗濯という仕事をやり終えたメルエは自分の空腹感を思い出し、大きく頷きを返す。柔らかな笑みを浮かべたサラは、食堂へ向かうリーシャとメルエを追って宿屋の門を潜って行った。

 野菜のスープに軽く炙られたパン、そして朝の市場で買って来た鳥の卵を焼いた物が食堂の机に並べられ、食後の果物類も各人に切って配られる。果物に関しては、机に並べられる食事に目を輝かせている少女の分だけ多少大きめに切り分けられていたが、誰一人不服を訴える者はいなかった。

 

「今日一日はゆっくりと身体を休めましょう」

 

「……最後の休息になるかもしれないからな」

 

「カミュ、縁起の悪い事を言うな!」

 

 パンを齧りながら何気なく口にしたサラの言葉に、スープを口に運んでいたカミュが呟くように答える。しかし、その言葉は、如何に何度も死線を潜り抜けて来た者といえども看過できない物であり、リーシャが大きな声で咎める事となった。

 勇者と呼ばれる事となった青年の使命は『魔王討伐』である。世界の脅威であり、人類の脅威である魔王バラモスの討伐という使命を一身に受けた青年は、その戦いの中で起こり得る自身の死という物を既に受け入れていた。

 これまで数十年の間、誰一人として達成する事は出来ず、その目的へと向かった者達は誰一人として戻ってきていない。それ程の困難の先にある『夢』なのだ。その夢を実現する事が出来ると安易に信じる事が出来る程に甘い道を彼等は歩んで来てはいなかった。

 魔王へ近づいている事を実感する程に、魔王が持つ強大な力をも否が応にも感じずにはいられない。凶暴性を増して行く魔物達の中で、その知能も高くなっているようにさえ感じる。魔王直前に遭遇したエビルマージなどは、己の特性を理解した上で、如何に相手を始末するかという事を計算した動きに見えた。

 この先にいる魔王はそれらを遥かに凌ぐ程の強敵である。その先にあるのは、世界の平和か、若しくは一行の死であるのだ。

 それ以外の結末は有り得ない。

 

「最後の決戦です。私は全力を尽くします」

 

「…………メルエも…………」

 

 しかし、そんな悲観的な勇者の発言も、今の賢者と魔法使いには些細な事なのかもしれない。

 以前ならばそうではなかっただろう。カミュの言葉の裏の真意を読み取ろうとする余裕はサラにはなかったし、カミュを盲信するメルエにとって、その言葉は絶対に近かったのだから。

 だが、彼女達はこの四年以上の期間で驚く程の成長を遂げている。これまでリーシャにしか踏み込む事の出来なかった勇者の心は、真っ直ぐな女性戦士の努力の結果、外の世界へと繋ぐ扉を少しずつ開いていたし、その心を読み取る余裕を賢者は有していた。また、幼い少女は、世界を知り、愛を知り、心を知る事で、己の意志という物を明確に持ち始めていたのだ。

 

「ふふふ。お前の軽口など、誰一人気にしなくなってしまったな」

 

 そんな二人を見たリーシャは、心底面白そうに笑みを浮かべ、意地の悪い視線をカミュへと送る。別段特別な意図などなかった彼ではあったが、彼女の得意気な表情を見て、何処か不愉快な感情を抱く事となった。

 各々が皿の上に乗せられた料理を食し終わるまで、他愛もない話が飛び交いながら、和やかな一時が過ぎて行く。サラの果物にまで手を伸ばそうとするメルエをリーシャが叱り、それに対して頬を膨らませる少女へ鉄拳が落ちるのを見たサラが、自分の分を半分に切り分けて与えていた。

 

「時間がありますから、リーシャさんの髪を整えましょう。ネクロゴンドの洞窟で燃えてしまったままですから、このままでは折角綺麗な髪が痛んでしまいます」

 

「ん? 私は別にこのままでも良いが……」

 

 食事が終わり、食器をメルエと共に洗い場へと運ぶ時、前を歩くリーシャの頭部を見たサラは一つの提案を口にする。だが、サラにしてみれば、今まで何故思いつかなかったのかと思う程の事であったのだが、当の本人にとってはそれ程重要な事ではなかったようだった。

 己の癖のある金髪を指で摘んだリーシャは、確かに毛先に痛みがあるように見えるが、それがそれ程気にする物でもないと考えている。むしろ以前よりも短くなった髪が戦闘の邪魔になる事がないとさえ思っていた。

 

「駄目です。いくらなんでも、そのままでは不恰好ですよ。リーシャさんが私に言ったのですよ? 女性たる者、乱れた髪を振り乱して外へ出てはいけないと……」

 

「ぐっ……」

 

 確かにその言葉には覚えがあった。

 以前、寝癖をそのままに寝巻き姿で宿屋を飛び出して来たサラへ向かってリーシャが告げた言葉であり、その回数も一度や二度ではない。

 自分の発した過去の言葉を持ち出して来たサラの発言にリーシャは言葉を詰まらせる。これ以上抗う事が出来ないと悟った彼女は、一つ大きな溜息を吐き出し、サラへと振り返った。

 

「だが、サラは髪を切る事は出来るのか?」

 

「はい! 自分の髪や神父様の髪を切っていましたので」

 

 最後の望みの綱も今断ち切られた。

 もう一度大きな溜息を吐き出したリーシャは、口煩い賢者の提案を受け入れる以外に道がない事を理解する。そんな横で面白そうに成り行きを見ていたメルエが花咲くような笑みを浮かべていた。

 確かにサラの髪の毛は綺麗に揃えられている。アリアハンを出た頃から比べると遥かに長くなった髪ではあるが、前髪や横などは整えられていた。そして、横で微笑を浮かべるメルエも出会ってから比べても少し伸びた程度にしか見えないのは、サラが人知れず切り揃えていたのだろう。自分の持っていたナイフなどで伸びた部分を切り落としていたリーシャとは髪の毛の扱いが根本的に異なっていたのだ。

 

「……わかった。サラ、頼む」

 

「はい」

 

 何処か諦めに似た笑顔を浮かべるリーシャとは対称的な満面の笑みを浮かべるサラを見たメルエは、自分の分の食器を洗いながら小首を傾げる。

 その後、全ての食器を洗い終え、リーシャ達三人は椅子と布と鋏を持って洗濯物が靡く物干し台の近くへと出て行った。

 リーシャを椅子に座らせたサラは、その首から布を巻き、お湯で濡らした手拭いを髪に巻きつける。細い金髪を蒸らすようにした後、櫛で梳いて行く。観念したように瞳を閉じるリーシャと、その横で笑顔で見上げるメルエの姿を遠巻きにカミュが眺めていた。

 

「やはり綺麗な髪ですね」

 

「そ、そうか……?」

 

 濡れて癖が薄くなった金髪を揃えるように梳いていたサラは、朝陽に輝くその毛色を恍惚と眺める。そんな視線を感じたリーシャは戸惑うように苦笑を浮かべた。

 戸惑うリーシャの様子を気にした感じもなく、サラは繊細な金髪に鋏を入れて行く。軽やかな金属が擦れる音と共に、短い金髪が膝元の布へと落ちて行った。そこまで大幅に切るつもりもなく、本当に整える程度の考えだった為、櫛で梳きながら細かく鋏を入れて行く。『はらはら』と落ちて行く髪が太陽に光に輝き、まるで雪の結晶のように煌いていた。

 

「…………メルエも…………」

 

「え? そうですね……メルエの髪も少し切っておきましょうか。リーシャさんの次に切りましょう」

 

 軽やかな金属音と共に落ちて行く金糸を眺めていた筈のメルエが、鋏を握るサラの横へと移動して来る。何処にあったのか、小さな木箱を抱えており、それをサラの横に置く事でサラの身長まで背丈を伸ばそうとしていた。

 何か嫌な予感はするものの、メルエが自分の髪も切って貰いたいのだと言っているのだと考えようとしたサラが、次は彼女の髪を切る事を約束するが、その少女は不満そうに頬を膨らませる。それを見たサラは、自分の嫌な予感が間違っていなかった事に気付くが、敢えてメルエと視線を合わせないように鋏を動かし続けた。

 

「…………メルエも……きる…………」

 

「わっ! あ、あぶないですよ!」

 

 しかし、そんな意図的な無視を黙って受け入れる程、この幼い少女は大人しい性格ではない。カミュという勇者に救い出され、リーシャという戦士に愛を注がれ、サラという賢者に心を学んだ彼女は、自分の意思を外へ発する術を知る。最早我儘にも近い感情の吐露ではあるが、それも彼女の変化の一つである事を知るリーシャやサラは、窘めたり叱ったりするもののそれを押さえつけるような事はして来なかった。

 だが、この時ばかりは、そんな幼い少女の我儘は天誅を受ける事となる。

 

「メルエ!」

 

「…………!!…………」

 

 自分の頭の上で何やら不穏な空気が広がり始めている事を感じたリーシャは、ゆっくりと瞼を開け、鋏が反射する太陽の光を感じた時、凄まじい一喝を放った。

 久方ぶりに聞く、自分へ向けられたリーシャの怒声を受けたメルエは、余りの驚きに木箱から落ちてしまう。強かに臀部を打ったメルエは、涙を浮かべながら静かに動かない背中を見上げた。鋏を持っていたサラでさえも動きを固めてしまう程の声量を轟かせた女性戦士がゆっくりと顔を後方へと動かして行く。

 

「メルエ、大人しく座って待っていろ……」

 

「…………ん…………」

 

 『これ以上の我儘は許されない』

 幼いメルエでさえも理解出来る程の空気を纏ったリーシャの姿に、少女の首は即座に縦へと振られる。その勢いに負けたサラまでもが、何故か何度も頷いてしまうのだった。

 しょんぼりと肩を落としたメルエは、木箱を抱えて少し離れた花壇の傍へと歩いて行く。そこに木箱を置くと、そのまま木箱に登り腰を下ろした。足をぶらぶらと揺らしながら、リーシャの髪を切るサラを羨ましそうに見つめるその姿は、リーシャの心に何か罪悪感さえも湧き上がらせるような物となる。

 

「……少し厳しく言い過ぎたかな」

 

「いえ、そんな事はありませんよ。ほら、メルエの事ですからすぐに……」

 

 暫くそんなメルエの姿を横目に見ていたリーシャの小さな呟きに、サラは可笑しそうに微笑む。そして、その微笑に少し首を動かしたリーシャもまた、その先に見える光景に頬を緩ませた。

 先程までしょんぼりと肩を落としていた筈のメルエは既に木箱に座ってはおらず、花壇の傍に屈み込み、花の香りを楽しみながら、土を弄り始めている。土の中から顔を出す小さな昆虫に頬を緩め、その虫を指で突きながら興味深そうに瞳を輝かせていたのだった。

 叱られた事を既に忘れてしまったかのように動き回るメルエを見たサラは、再びリーシャの髪の毛を整え始める。子供特有の物ではあるが、その思考の切り替えの早さに呆れたような溜息を吐き出し、リーシャは再び瞳を閉じた。

 

「……この位でどうでしょうか? 焦げが残っている部分を切ると、全体的に短めにしなければ変になってしまうので……」

 

「ん? 十分だ。前よりも動きやすくなっているし、何より鬱陶しくない」

 

 切り終った事で、軽くブラシで叩いたサラは、布を外しながら自信なさ気にリーシャへと確認する。だが、それに対して返って来た答えを聞き、彼女は呆れてしまうのだった。

 女性の命ともいえる髪の毛に対し、『鬱陶しくない』という感想を持つ事自体が異常であるのだが、動きやすいか否かという基準で髪を触るリーシャが不思議な生き物に映ってしまう。髪の毛が燃えたり切られたりした程度で泣き叫ぶ事はサラもしない。だが、それでも喪失感は拭えないだろうし、悲しみという感情を持つ事は必至であるだろう。

 持って来た小さな鏡を覗き込み、満足そうに頷くリーシャの金髪は、アリアハンを出た頃に比べると、圧倒的に短くなっている。肩口まであった髪は、耳が完全に出てしまう程に切られており、前髪も眉に一切掛かる事はない。生まれ持っての癖がある髪である事から、真っ直ぐに揃った前髪ではないが、それでも女性の前髪としては短すぎる物であった。

 後ろ髪は首筋を伝うように揃えられており、正直、身体的な特徴がなければ、綺麗な顔の男性と取られても不思議ではない。この時代では髪の短い女性が少ない事もサラがそう考える理由の一つであった。

 

「メルエも髪を切ってもらえ!」

 

「…………ん…………」

 

 すっきりした表情を浮かべるリーシャは、そのまま花壇付近で動き回るメルエへと声を掛ける。その声に嬉しそうに頷く少女が駆け寄って来て始めて、サラは花壇付近で遊び回るメルエを放置していた事を悔やんだ。

 それはリーシャも同様であり、額に手を当てたまま大きな溜息を吐き出す。そんな二人を見上げたメルエは、不思議そうに首を傾げた。

 

「メルエ……湯浴みをしたばかりだろう。そんなに汚してしまっては、手も顔ももう一度洗わないと駄目だ。服も洗濯が必要だな……」

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

 メルエの目の前に屈み込んだリーシャは、その小さな手を持って窘める。その瞳は優しくはあっても咎める物であり、メルエは小さく頭を下げた。

 花壇の土を触り、動き回る虫と共に土に膝や手をつけたのだろう。メルエの手も土で汚れており、その土は朝露や撒かれた水によって緩んでいる。泥に近い状態に緩んだ土は、手や膝だけではなく、何故か顔にも付着しており、更には宿屋で借りた部屋着まで汚していたのだった。

 まだ昼前とはいえ、もう一度洗濯をして干すとなると、急がなければならず、しょげ込むメルエを宿屋の中へと連れて歩き出す。侘びの言葉を口にして頭を下げるリーシャに、店主は柔らかな笑みを浮かべて、新しい部屋着を渡してくれた。更には、汚れた部屋着の洗濯も宿屋側で引き受けてくれると快く言ってくれる。恐縮するリーシャではあったが、メルエの身体を洗う為、再び浴場へと消えて行った。

 

「……このような平和な日々が来るのでしょうか?」

 

「それは、『人』次第だな」

 

 一言も口にせず、遠巻きに剣の手入れを行っていたカミュへサラは何気なく問い掛ける。見上げた空は抜けるように青く、漂う少ない雲が優雅に青い空を泳いでいた。

 そんなサラへと返って来た答え。

 それは、とても厳しく、とても優しい一言。

 人間という種族が生きている限り、多種族との共生を考えるのも人間であるのだ。エルフは基本的に他種族との係わりを持とうとはしない。動物や植物は自分が生きる場所を出る事は少ないだろう。そして、ここまでの旅の中で遭遇した魔物と呼ばれる生物達もまた、己の生活圏を定めて生きている節があった。

 この世界で、暮らす範囲を広げようとする者は、『人』だけと言っても過言ではないのだ。平和な世界で生きるという事は、何も『人』だけの権利ではない。動物や植物、昆虫などやエルフや魔物にもその権利はあり、それを四年以上の旅の中でサラも理解していた。

 故にこそ、このカミュの言葉がサラの胸に重く響いて行く。

 

「……カミュ様は、魔王を倒した後はどうするつもりなのですか?」

 

 だからであろう。サラは、ここまでの旅の中でずっと心に引っ掛かっていた疑問を口にする。それは、アリアハンを出立する頃には考えもしなかった疑問ではあるが、ダーマ神殿で『賢者』という存在になってからは常に頭に残っていた疑問でもあった。

 カミュはその頃から自分の事を卑下しなくなった。『そういう存在』という言葉を使い、自分の生を諦めたような発言をしなくなっていたのだ。故にこそ、サラはそんなカミュの未来を聞いてみたいと思っていたのかもしれない。

 魔王という諸悪の根源を打倒する事が『勇者』の使命であり、目標である。だが、逆に言えば、『勇者』という存在は、それ以外に何も求められていなかった。

 

「……さぁな」

 

 期待して待っていたサラは、気の抜けたようなカミュの言葉に肩透かしを食う事となる。カミュ自身、その事が想像出来ないのかもしれないが、この場所まで駆け上がって来たサラは、魔王バラモスを必ず打倒出来ると信じていた。

 まだ目の前で対峙した事はない。その脅威や威圧感を肌で味わった事もない。それでも、この一行であれば、例え世界を恐怖に陥れる魔王であろうと負けはしないと胸を張って言えるだけの時間を彼女は過ごして来たのだ。

 

「カミュ様は、魔王との戦いで死ぬ事はありませんよ。リーシャさんが必ず護ります。メルエも必ず護ります。そして、私もカミュ様を護ります」

 

 だからこそ、彼女はこの青年にも、未来への展望を開いて欲しかった。

 この旅は、既に『死』への旅ではない。そして彼等は、魔王という絶対の力に無謀にも立ち向かう愚者の集まりでもない。それだけの力を有し、それだけの思想を持ち、その先の光を信じて進む者達であるのだ。

 リーシャがカミュを護るように、カミュもリーシャを護るだろう。メルエがカミュを護るように、カミュはメルエを必ず護るだろう。そして、サラもカミュを護ろうと動くし、カミュも自分を護ってくれると彼女は信じている。それだけの絆を彼女は築いて来たと信じていた。

 

「……わかっている」

 

「はい!」

 

 たった一言。

 小さく呟くようなその一言は、風に乗ってサラの耳に確かに届いた。その瞬間、彼女の想いは報われたのかもしれない。

 何度も何度もこの青年とは争って来た。自分の信じて来た教えを蔑ろにする『勇者』を理解する事が出来ず、恨んだ事も憎んだ事もある。それでも彼が『魔王バラモス』という存在を目指す以上は付いて行く事を決め、ここまで歩んで来たのだ。

 『賢者』となり、それまでの自分の行いや言動が、如何に身勝手な物であったかを知った彼女ではあったが、それまで続けて来た論争に対し、一度たりともカミュへ謝罪をした事はない。彼の苦悩も、その苦労も、辛さも悲しみも理解したとは口が裂けても言えず、どうしても謝罪する事は出来なかった。

 リーシャのようにカミュと並んで前線に切り込む事は出来ず、メルエのように魔物と拮抗するような攻撃呪文は使えない。カミュが回復呪文を唱える事が出来るのならば、自分は不要な存在かもしれないとさえ考えていた彼女は、その陳謝の想いを、行動で示すしかなかったのだ。

 

「…………サラ……また……ないてる…………」

 

 『悟りの書』に記載される呪文の契約は毎日のように試して来た。開いた書物に昨日見た物以外が浮かび上がって来ていない事に肩を落とし、契約の魔法陣に入っても契約が完了しない事に嘆き、自分が契約を済ます前に強大な力でそれを行使する少女の魔法力に自信を失い、それでも彼女は前を向いて歩いて来たのだ。

 何度悔しい思いに唇を噛んだ事だろう。

 何度悲しみに涙した事だろう。

 何度辛い思いに挫折を覚悟しただろう。

 リーシャから受ける剣の鍛錬で自分の不甲斐なさを知り、魔物との戦闘でメルエとの魔法力の違いに愕然とする。その繰り返し中でも、彼女はサマンオサで自分の武器に誓った事を胸に歩み続けて来た。

 その努力と、その意思が認められる。

 それも、分かり合う事などないとさえ考えて来た『勇者』に、認められたのだ。

 

「メルエの髪も切ってやってくれ。前髪が流石に鬱陶しそうだからな」

 

 知らず知らずに溢れ出た涙を見つけた少女は、不思議そうに首を傾げた後、厳しい瞳をカミュへと向ける。状況を判断し、カミュがサラを虐めたのだと思ったのだろう。だが、浴場へ微かに聞こえて来ていた声に耳を傾けていたリーシャは、そんなメルエの肩に手を置き、とても優しい笑みを浮かべていた。

 涙を拭ったサラは、リーシャに抱き上げられて椅子に座ったメルエの首から布を掛け、癖のない綺麗な茶色の髪に櫛を入れ始める。先程までの厳しい瞳を緩めたメルエは気持ち良さそうに目を細め、軽やかな金属音と共に落ちて来る自分の髪に頬を緩めた。

 太陽は優しく暖かな光を注ぎ、雲は優雅に空を泳ぐ。何事もない一日が過ぎ、また新しい日を迎える準備に入るまで、僅かな時間が過ぎて行った。

 

 

 

 翌朝、陽が昇りきらない薄暗いランシールの門の前に、全ての準備を終えた一行が立っている。未だに夢の中を彷徨うメルエを抱き上げたリーシャは、ラーミアへと近づくカミュの後を追い、その羽毛へ少女を預けた。

 全員がその背に乗り、一鳴きした不死鳥がまだ闇が濃い空へと舞い上がる。方向を定めた不死鳥が北西へと続く一筋の光となって飛んで行った。

 

 僅かな休息の時間を終え、彼等は再び厳しい戦いの中へと戻って行く。

 人知れぬ苦悩と葛藤の先に、数多くの幸せを見た者達の過酷な旅が再び幕を開ける。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

次話からようやく決戦に入ります。
久慈川なりのバラモスを描いて行きますので、よろしくお願い致します。

ご意見、ご感想を心からお待ちしております。

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