新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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魔王バラモス①

 

 

 

 ランシール大陸を飛び出したラーミアは、海を渡り、ネクロゴンド大陸の中へと入って行く。柔らかな羽毛に包まれ深い眠りに落ちていたメルエが目を覚ました頃、大きな翼はネクロゴンド火山の上を横切って行った。

 周囲の景色と柔らかな羽毛に頬を緩めたメルエは、その羽毛に抱き付くように腹這いに横になり、その暖かさに再び瞳を閉じる。もう一度眠りに就いてしまいそうな少女をサラが窘め、それに対して頬を膨らませる姿に苦笑を浮かべた。

 

「カミュ、あの城でルーラを行使した場所にラーミアで下りる事は出来ないのか?」

 

「ラーミアには狭過ぎる。万が一、翼が建物などに当たった場合を考えれば、実行すべきではないな」

 

 サラとメルエのやり取りを微笑みながら見ていたリーシャは、前方で地上を見下ろすカミュへと考えていた事を問い掛ける。その問い掛けは、あの過酷な城を歩んだ者だけが思うものであろう。出来るならば、再びあの道程を歩きたくないと考えるのは仕方のない事であった。

 しかし、そんなリーシャの願いは即座に斬り捨てられる。カミュ達にとってみれば、かなりの広さを持つ庭園であっても、ラーミアという神代の不死鳥の巨体にとってみれば、手狭と言っても過言ではないだろう。その翼が建物に接触すれば、如何に霊鳥といえども只では済まない。しかも、そこが魔王の城となれば尚更であった。

 

「そうですね。ラーミア様には同じ場所で待っていて貰いましょう。先日よりも魔物との接触には注意を払いながらの行動になるでしょう。カミュ様やリーシャさんには少し無理をして頂く事になるかもしれません」

 

「……ああ」

 

「呪文の援護がなくても対抗出来る程度の魔物であれば良いがな……」

 

 メルエを押さえながらも二人の会話に入って来たサラは、今後の方針を語る。既に一度魔王の直前まで探索を終えた場所である。太陽の光が届くのであれば、道に迷う事もなければ、余計な場所に入り込んでしまう事もないだろう。ただ、魔物の本拠地と言っても過言ではない場所なだけに、極力魔物と接触しないように行動する必要はあるのだ。

 サラの言葉通り、サラやメルエといった呪文使いにとって、魔法力を使った呪文の行使は極力避けて行きたい。魔物達の頂点に立つ魔王バラモスと対峙する為には、彼女達の魔法という神秘がどうしても必要になって来るからだ。

 魔法力を温存する為には、前衛で戦うカミュやリーシャに武器のみでの戦闘を強いる事となり、補助呪文や回復呪文を行使する事はあっても、上位の攻撃呪文などは控える必要がある。それは、如何に人類の頂点に立つ武器の使い手二人であっても、かなりの危険が伴う行動であった。

 更に言えば、武器での攻撃が通用しないような敵と遭遇した場合、その限りではない。動く石像などは、サラやメルエの補助呪文がなければかなり厳しい戦いになるだろうし、ホロゴーストのような実体のない魔物に対しては、武器での攻撃には限界があるからだ。

 

「いざとなれば、私にもメルエにも『祈りの指輪』があります。魔王との決戦の前に、ルビス様が我々の祈りを拒絶するとは思えませんから」

 

「…………メルエ……がんばる…………」

 

 心配そうにカミュへ視線を送っていたリーシャは、サラとメルエの指に嵌められた小さ指輪を見て、小さな溜息を吐き出す。彼女にしてみれば、どれ程にサラが優秀な賢者になろうとも、どれ程にメルエが上位の魔法使いになろうとも、その身を案じる事に変わりはないのだ。

 しかし、サラの腕から抜け出したメルエが、小さな決意を示した事で、一行の方向性は決する。全ては『魔王バラモス』の討伐という最終目標に到達す為。それだけの為に、彼等はこの長い旅路を歩んで来たのだ。

 

「ふふふ。メルエも随分逞しくなったものだ」

 

 笑みを浮かべるリーシャに、メルエも満面の笑みを浮かべる。

 この幼く微笑む少女は、アリアハン出立当初から一行と共に行動していた訳ではない。故に、彼女の目標が『魔王討伐』でない事は確かである。それでも彼女は皆と共に歩もうとする。それが彼女の生きる道なのだろう。

 捻くれ者の勇者が一人で旅立つ筈だった旅に、その勇者を認めようとしない頑固な戦士が加わり、二人でアリアハン城下町を出た時に駆けて来た教会の教えを盲信する僧侶が同道を申し入れた。歪な者同士、何かあれば口論に発展し、とてもではないが噛み合う事もなく全滅の一途を辿る筈だった旅に突如舞い降りた少女は、今や世界の頂点に立つ戦士が認める程に逞しい存在となったのだ。

 そんな少女の微笑を見て、リーシャは確信する。

 『自分達は必ず魔王を打倒する事が出来る』と。

 

「……降りるぞ」

 

 カミュが呟いた一言を合図に、巨大な不死鳥が降下を始める。背にカミュ達を乗せている為、鳥特有の頭からの急降下をする事無く、翼をはためかせながら、徐々に高度を下げて行った。

 森の木々達を越え、十分に翼を広げられる程の平原に出た所で、ラーミアの足が地面へと着地する。再び見上げる巨城は、数日前と変わらず圧倒的な存在感を示していた。

 それでも彼等が怯む事はない。数日前に訪れた時よりも更に硬くなった決意と絆の許、彼等は再びその土地へと足を踏み入れる。何かを告げるように一鳴きしたラーミアの鳴声を背中に受け、四人は城門を潜って行った。

 

「あの中に入っても仕方ありませんでしたね。外周を回って行きましょう」

 

「あの細道は危険だぞ。魔物の気配がない事を確認した上で進もう」

 

 一度通った道を忘れるほど、彼等は軽い道を通って来た訳ではない。彼等が歩んで来た道は、どれも危険と隣り合わせの物であり、一瞬の気の緩みが命に直結する物であった。故に、サラは一度通った道順を指し、リーシャはその道に伴う危険性を口にする。二人の言葉に同意するように頷きを返したカミュは、陽の光が差し込む庭園を注意深く進んで行った。

 気のせいかもしれないが、リーシャもサラも、数日前の太陽よりも今日の太陽の方が強烈な陽光を放っているように感じていた。それは、まるで勇者一行を後押しするように魔物達の住処を照らし、その出現を妨げているようにさえ感じる。夜の闇を本領とする魔物からすれば、強烈な太陽は天敵なのかも知れない。その陽光によって力を制限されるような事はないだろうが、それでも好んで出て来る場所でもないのだろう。

 それを考えると、太陽のような強烈な光を放つ『英雄オルテガ』という存在は、魔族や魔物にとっては天敵のような物であったのかもしれないとリーシャは不意に考える。そして、『ならば、自分の前を歩く青年はどのような存在なのだろう』という思いを馳せた。

 

「……下がっていろ」

 

 城壁と建物の壁の間にある小道の中に入って直ぐ、カミュはサラやメルエに後方へ下がるように指示を出す。大人二人が横並びになれるかどうかの細道である為、最後尾にいるリーシャには、前方の光景が僅かしか見えない。

 太陽の光が届き難いこの場所に現れたのは、先日この場所を通った時に遭遇した物と同じ魔物。

 崩れたスライムのような形状をしていながら、その体躯はあらゆる武器を弾き返す程の強度を誇る。下級の灼熱呪文を行使し、あらゆる生物の頂点に立つ程の敏捷さを持っていた。

 はぐれメタルと呼ばれる、スライム系の亜種であるメタルスライムの亜種。亜種中の亜種と言っても過言ではない魔物が、嫌悪感を抱く程の笑みを浮かべてカミュ達の行く手を遮っていた。

 

「カミュ、私にやらせてくれ」

 

 一歩前に出ようとした勇者を制したのは、最後尾から最前線へ出て来た戦士。既に魔神の斧を手にしていた彼女は、有無も言わさぬ雰囲気を醸し出しながら、はぐれメタルとの間に割って入って来た。

 元々、メルエの持つ攻撃呪文などの効果がない相手であり、サラの補助呪文の効果もない魔物である。呪文使いである二人に出番はなく、一撃必殺の毒針という武器を持っているメルエを前線に出す事が出来ない以上、カミュかリーシャが相手をしなくてはならないのだ。

 そして、目の前にいるはぐれメタルは一体。如何に俊敏さを売りとしている魔物であろうとも、この細道でカミュ達側へ抜ける事は不可能であり、必然的に一対一の状況が作り上げられていた。

 

「任せた」

 

「任せろ!」

 

 二人の中で一言のみのやり取りが行われ、カミュは一歩後ろへと後退する。不安そうにそのマントの裾を握るメルエの肩にサラの手が乗せられた。

 別段、無理をして倒す必要のない魔物でもある。何度かの攻撃を警戒していれば、勝手に逃げ去ってしまうような魔物なのだから、武器を手にして前へ踏み出す必要はないのかもしれない。だが、前方へと踏み出した女性戦士の背中は、その魔物さえも畏怖させる程の何かを発していた。

 その証拠に、目の前で嫌らしい笑みを浮かべていた筈のはぐれメタルは何かに驚き、戸惑うような動きを見せる。逃げようとしながらも、自分の後方にがら空きの道がある事さえ忘れてしまったように、壁と壁の間を右往左往していたのだ。

 

「やあぁぁ!」

 

 そんなはぐれメタルの動きに合わせるように振り下ろされた魔神の斧が空を切り、地面を割る。初撃を辛うじて交わしたはぐれメタルではあったが、地面に残された傷跡を見て、その戸惑いに拍車を掛けた。

 既に混乱状態といっても過言ではない状況に追い込まれたその魔物は、地面に突き刺さった斧を抜いたリーシャに向かって、飛び込んで行く。速度を増したはぐれメタルの突進ではあったが、掲げられたドラゴンシールドによってそれは防がれ、金属音を響かせてその身体は地面へと転がった。

 

「正直にお聞きしますが、リーシャさんの力量というのは、カミュ様から見てどうなのですか?」

 

 地面に転がるはぐれメタルに追撃を掛けるリーシャが斧を振り下ろす。しかし、急激に重量を変える魔神の斧の特性によってバランスを崩した彼女の攻撃は、またしても避けられてしまった。

 そんな女性戦士の戦闘を見ながら、微動だにしないカミュへサラはずっと感じていた疑問を口にする。サラという賢者にとって、剣や斧といった武器を振るうカミュやリーシャの力量は、雲の上の物であり、計り知る事の出来ない程の高みにある物でもあった。故に、自分に稽古を付けてくれるリーシャの力量が全人類の中でも最上位に入る物だという事は理解していても、それがどれ程の物なのかが正確に把握出来ない。

 リーシャという女性戦士と渡り合える力量を持つ者といえば、世界広しと雖も、カミュ以外には存在しないだろう。それは同時に、リーシャという『戦士』の力量を把握出来るのもまた、彼以外には有り得ないという事になる。だからこそ、サラは彼に問い掛けたのだ。

 

「……呪文を行使せず、剣のみでの戦闘であれば、この世で勝てる者などいない」

 

「そ、そうですか……カミュ様にそこまで言わせる程なのですね」

 

 混乱状態に陥っているのではと感じる程に緩慢な動きを繰り返すはぐれメタルの動きを注視するリーシャの背中を見ながら一向に口を開かないカミュを見たサラは、自分の失言を理解する。カミュにとっても、リーシャという女性戦士との模擬戦で勝ち星よりも敗戦の方が多いのだ。そんな人間に相手の力量を尋ねる事自体が間違っていたと彼女は後悔する。

 だが、はぐれメタルの動きに合わせて、斧を振るう機会を探っているリーシャの手の動きを見ていたカミュは、小さく呟きを返した。それを聞いたサラは、驚きと共に湧き上がるような喜びを感じる事となる。

 カミュ程の人材にそこまで言わせる人間は、この世で誰一人いないだろう。彼は、一見何事にも興味を示さない人間に見えるが、四年も共に旅をして来たサラやリーシャは、その胸の奥にある物を知っていた。『負けず嫌い』と言えば良いのか、彼はあの女性戦士に勝てない事を人一倍悔しがっていたし、何時かそれを超えようと努力を続けている。そんな彼が本人に聞こえないとは言えども、そこまでの評価を口にした事がサラは嬉しかった。

 

「…………リーシャ……つよい…………」

 

「ああ」

 

 まるで我が事のように胸を張るメルエの姿に、カミュは小さな頷きを返す。そんな二人の姿にサラが笑みを浮かべた時、前方で繰り広げられて来た戦闘が終わりの時を迎えた。

 機を待っていたリーシャの斧が、満を持して振り下ろされたのだ。

 魔神の斧は陽光を受けて鋭い輝きを放ち、横に飛び退こうとしたはぐれメタルの身体のど真ん中に吸い込まれて行く。斧自体の重さと、その持ち主の生み出す速度で斬り込まれた一撃は、あれ程の強度を誇った魔物の体躯を両断した。

 

「プキュッ」

 

 奇妙な声を発したはぐれメタルであったが、その後は何一つ声を上げる事も出来ずに命の灯火を失って行く。二つに分かれた銀色の魔物は、徐々に液体と化し、地面へと吸い込まれて行った。

 僅か一撃。されど、渾身の一撃である。

 世界を救うと謳われる勇者が認めた一撃であり、世界で敵う者のいない程の一撃。それは、人類最高の一撃と言っても過言ではないだろう。

 それを成す者と、その者の持つ武器が最高位に立っているからこそ成せる技でもある。

 

「ふぅ……時間が惜しい、先へ進もう」

 

「はい!」

 

 斧を一振りした後に振り返ったリーシャの顔を見たサラは、満面の笑みで頷きを返した。

 そのまま最後尾へ戻ろうしたリーシャの腰にメルエがしがみ付く。花咲くような笑みを浮かべて見上げる少女の頭から帽子を取ったリーシャは、その頭を優しく撫でた。

 そんな三人のやり取りを暫しの間眺めていたカミュが再び歩き出したのを機に、再び人類頂点に立つ者達が歩み出す。事態は最終局面に向けて、着実に近づいていた。

 

 

 

 その後、先日歩んだ通りの道を歩んだ一行は、数度の戦闘を行いながらも、ネクロゴンド王国の在りし日の姿が残る玉座を抜けた。

 その間に遭遇した魔物は、地獄の騎士やライオンヘッドなど。その中にエビルマージがいなかった事は彼らにとって幸いだっただろう。動く石像に関しては、ここまでの道程の中、石像が飾られている場所は無く、遭遇する事はなかった。

 ライオンヘッドは、ここまでの多くの戦闘によって力量を更に数段上げていたカミュとリーシャによって、呪文の行使をする暇も無く、一刀の元に斬り伏せられている。地獄の騎士に至っては、ゾンビキラーという生命を持たぬ者に対して絶大な威力を発揮する剣によって呪縛から解き放たれていた。

 ここまでの道程は、バラモス城を一度経験した一行の更なる力量の上昇を証明する物となる。『魔王バラモス』を残すのみとなった一行にとっては、その討伐の成功の確率をも上げる物となった。

 

「カミュ、外にあの魔道士はいないか?」

 

「……大丈夫そうだ」

 

 玉座から外へと出る門を開けたカミュは周囲を注意深く眺め、最早天敵とも言えるエビルマージの姿を探す。だが、中央の泉から発せられる威圧感や瘴気が感じられるだけで、その周囲にエビルマージの姿は無かった。

 それでも慎重に表へと出た彼は、再度確認した後、リーシャ達三人を呼び出す。魔神の斧を手にしたリーシャが、サラとメルエを護るように門を潜って行く。真上に上った陽光が強く差し込む庭園は、泉からの瘴気を押さえ込むように輝いていた。

 

「今度こそ、最後の戦いだな」

 

「……はい」

 

 泉の中央へ伸びる一本の橋の入り口に立った一行は、禍々しい瘴気を吐き出す地下への入り口へ視線を向け、大きく息を吐き出す。

 再びこの場所まで辿り着いた。

 この先は、これまでとは比べ物にならない程の厳しい戦いとなるだろう。

 アリアハンを出立し、ロマリアという異国の地に辿り着いた彼等は、自分達よりも力量の高いカンダタという盗賊と戦った。それでも、彼等は四人全ての力を使い、それを打破する。その後、自分達よりも力量の高い魔物達との戦闘を経て、再び遭遇したカンダタという盗賊を、カミュ一人で圧倒出来る程に彼等は成長を続けて来た。

 ヤマタノオロチという太古からの龍種を撃破し、魔王直属の部下であるボストロールさえも退けて来ている。それは、たった一人の力では成し得ない事であり、四人各々が自身の役割を把握し、その力を最大限に発揮して来た結果なのだ。

 ヤマタノオロチが弱かったとは思わない。同じように、ボストロールが弱かった訳でもない。ここまでで遭遇して来た数多くの魔族や魔物が弱かった訳でも、カミュ達の力が圧倒的だった訳でもない。全てが紙一重の戦いであったとも言えよう。それでも彼等は、全ての戦いに勝利し、今この場所に立っている。

 

「……行くぞ」

 

 誰が何と言おうと、リーシャ達三人は、この青年の後ろを歩んで来た。『共に歩んで来た』と言えば聞こえは良いだろうが、リーシャやサラはそう感じている。彼に導かれ、彼に護られて、彼女達はこの場所まで辿り着いたのだ。

 だが、この場所まで来た事で、自分達が『共に歩む』事の出来る仲間として受け入れられている事を改めて感じ、そしてその自信を強めて行く。彼女達は既に世界が認める『勇者』の横を歩める者達なのだ。アリアハン国以外となると、カミュという勇者の名を知る者はいても、同道する三人の女性の名を知る者はいないだろう。それでも彼女達は勇者を信じ、勇者と共に歩んで来た。

 そして、今、彼女達は世界の救世主となろうとしている。

 

「……ここは」

 

 泉の中央へ向かう橋を渡り、まるで浮島のようになっている大地へと足を下ろす。そして、その中央にある下りの階段を下りた先で、サラは言葉を失った。

 先頭のカミュが皆を護るように立っているが、そんなカミュでさえも濾過出来ない程の威圧感が周囲に満ちている。濃く漂う瘴気が一行の呼吸を困難にさせ、視界の全てを赤く染め上げていた。

 地下の広間は、それこそ魔王にとっての謁見の間なのかもしれない。あの泉の底にここまで広い空間を造る事が出来るのかと思う程の面積をしている。漂う雰囲気は今まで感じた事もない程に歪んでおり、濃密な瘴気が真綿で首を絞めるように一行を包んでいた。

 

「メルエ、大丈夫か?」

 

「…………ん…………」

 

 濃い瘴気に口元を押さえたリーシャは、自分の足元にいるメルエの身体を気遣う。既に成人してから長いリーシャでさえも息苦しさを感じる程の場所である。幼いメルエにとっては死活問題に発展しても可笑しくは無いのだ。

 しかし、リーシャの考えに反し、メルエは真っ直ぐ前方を見つめながら、大きく頷きを返す。それは、何者も折る事の出来ない決意に満ちた表情であり、声を掛けたリーシャでさえも怯みそうになる強さを持っていた。

 幼いながらも、この先に居るであろう存在の強大さを理解し、カミュ達が成し遂げようとしている事の困難さを感じているのであろう。自分の大好きな人間に危害を加えようとする者は、何処の誰であろうがメルエの敵である。『魔王』であろうが、『国王』であろうが、『魔物』であろうが、『人』であろうが、彼女の善悪の線引きは、カミュ達三人が基点なのだ。

 

「ふはははははっ」

 

 周囲の雰囲気に飲み込まれそうになっていたカミュ達の耳に大音量の笑い声が響いて来る。それは、怯みかけていた心を恐怖に竦ませる程の威力を誇る。それは最早、声というよりも地響きと称した方が良いのかもしれない。広い地下の空間が揺らぎ、カミュ達が踏み締める地面を大きく揺らしていた。

 しかし、それは一行の勘違いであり、揺れているのは地面ではなく彼等の足そのものであったのだ。小刻みに震えるその足は、目の前に聳える魔物の頂点に君臨する者から発せられる威圧感によって刻み付けられた消えぬ恐怖の証。

 覚悟は決めて来た。決意も固めて来た。それでも尚、この場所まで来てしまった自分自身を呪いたくなる程の恐怖がそこには存在していたのだ。

 身が竦むほどの瘴気の中、圧倒的威圧感に心が圧され、強大な魔法力に喉が焼かれる。先頭に立つカミュでさえも、前に一歩も足を踏み出す事が出来ていなかった。

 

「……醜いな」

 

「……カ、カミュ様」

 

 それでも当代の『勇者』は前を向く。目の前の圧倒的な存在の姿を見て、眉を顰めながら不遜な言葉を呟いた。そんな青年の姿にサラは驚き、視線を前方から外してしまう。圧倒的な威圧感に飲み込まれ、強大な魔法力に竦んだ身が解けて行く。『勇者』の一言によって、全てが引っ繰り返ったのだ。

 再び歩き出した一行の視界に、はっきりとその存在が見えて来る。カミュが溢した通り、その姿は人類であれば誰しもが嫌悪感を感じる程に醜く歪んでいた。

 大きく開かれた口からは、毒々しい色の舌が覗き、その頭部に頭髪などは一切無く、代わりに大きな瘤のような物が突き出している。顎辺りの贅肉は弛み、その贅肉は己の巨体を支えきれないのではないかと思う程に身体全体を覆っていた。

 その醜い身体を隠すように余裕のある衣服を身につけ、自分の地位を誇示するように巨大なマントを掛けている。手足は鳥のように三本の指しかなく、全体的に浅黒い肌が、禿げ鷲を想像させる姿であった。

 

「遂にここまで来たか……自らの矮小さも知らずに驕る者達よ。大人しく滅びの日を待っていれば良いものを、この大魔王バラモス様に逆らおうなどと身の程さえも弁えぬ者達じゃな」

 

「自らを『大魔王』と名乗るとは……」

 

 確かに、今目の前にいる圧倒的な存在からすれば、人類など矮小な存在なのだろう。それを否定するつもりも無ければ、それが出来るともサラは思っていない。だが、自らを『大魔王』と名乗るこの存在に対し、強い怒りだけが湧いて来ていた。

 人間でありながらも、既に世界で生きる全ての者の象徴となったサラからしても、『魔王』という存在が他者に誇る呼称ではないと思っている。それにも拘らず、この世界で誰も認識していない『大魔王』という名称を名乗るこの存在が容姿だけではなく、その中身も醜い存在なのだと感じてしまったのだ。

 当然、カミュに護られるように魔王を見上げているサラの呟きなど、瘴気に飲み込まれて誰も聞こえてはいない。それでも、サラの瞳の色は明らかに変化していた。

 

「我の念願まであと僅か。座して滅するのを待っておれば良いものを……この地へ自ら赴いた事を、地の底で悔やむが良い」

 

 サラの瞳が変化する頃、魔王から放たれる威圧感と魔法力が高まりを見せる。足ばかりではなく手さえも小刻みな震えが走り、メルエは無意識にリーシャの腰元に手を伸ばした。ここまでの厳しい旅路を歩み、今や種族を超えた存在となった彼らでさえも胸に湧き上がる恐怖を抑え切れない存在が、その本性を表に出し始めたのだ。

 

「メルエ、怯えるな。私達は負けはしない。あの化け物こそ、私達と相対した事を悔いる事になるだろう」

 

 だが、前衛で真っ直ぐ魔王を見つめる『勇者』と、その後ろを常に護って来た『戦士』の心は揺るがない。怯えるメルエの手を握ったリーシャは、その視線を逸らす事無く、もう片方の手で魔神の斧を握り締めた。

 既にカミュも稲妻の剣を抜いている。この二人は、まるで心の奥底で繋がりを持っているように、ほぼ同時に戦闘の態勢へと入っていたのだ。そんな二人の姿を見たサラはメルエの手を引いて自分の隣へと移動させ、自身も戦闘の態勢へと入る。

 

「最早『人』の中にも戻れぬ矮小な者達が、それでもこの大魔王に逆らうか!」

 

 戦闘態勢に入るため、ゾンビキラーを抜いたサラは、思わずその剣を取り落としそうになる。何よりも醜く、何よりも魔物と思える姿をした魔王が発した言葉に、彼女は自身の胸の中に生まれ始めていた一抹の不安を呼び覚まされたのだった。

 『人類の中に戻れない者』という言葉は、彼等が既に人類を超越した存在になっている事を示している。その事実をこの魔王が認識している事にも驚愕したのだが、強すぎる力が人類の中で弾かれる可能性を他種族に指摘された事に最も驚愕してしまったのだ。

 

「……お前が『大』魔王だとは聞いていないが? 醜いのは外見だけではないようだな」

 

 サラの驚愕、メルエの恐怖、リーシャの気負いが再び一人の青年の言葉によって霧散する。確かに、世界中に恐怖と共に轟ろかせていたのは、魔物達の棟梁である『魔王バラモス』という名であり、決して『大魔王バラモス』という名ではなかった。

 魔王と大魔王の違いなど人類にとっては些細な事であり、どちらにしても自分達の脅威となる存在である事に違いはない。目の前にいる圧倒的な存在感を示す存在が『魔王』であろうと、『大魔王』であろうとカミュ達の目的は何一つ変化しないのだ。

 それでもバラモスが敢えて『大魔王』という名乗りを口にしたという事は、何か別の意味があったのではないかとカミュは考える。それが虚栄心からなのか、誇示欲からなのか、それとも畏怖させる為のものなのかは解らない。ただ、それが醜い感情の表れである事は理解出来た。

 

「忌々しい矮小な人間め……。ん? その目、何処かで? そうか……我に逆らった愚かな人間と同じ目をしておる。我ら魔族と同等の魔法力を有する『賢者』と呼ばれる一族でもないにも拘わらず、この我に逆らった愚かな人間に」

 

「……そ、それはオルテガ様の事なのか?」

 

 魔王という圧倒的存在の中に蔓延る人間的な醜さを指摘するカミュを睨みつけていたバラモスは、その瞳の中に宿る光を思い出す。そしてその言葉を聞いたサラは何かに引っ掛かりを覚え、その瞳を細めた。だが、リーシャは自身が感じた疑問を口にしてしまう。その声は絞り出すように小さく、傍にいるカミュやメルエにしか聞こえない程に力の無い物であった。

 『魔王バラモス』にとって、自分の目の前にいるカミュ以外は歯牙にもかけない存在なのであろう。リーシャやサラの動きなど気にも留めず、一人記憶の世界へ落ち、瞬時に戻って来た。

 

「あの愚かな人間も、死よりも辛い苦しみを与え、遥か彼方に吹き飛ばして以降は戻っては来ぬ。良い暇つぶしになると、敢えて生かしておいてやったにも拘らず、何処かで野たれ死んだのであろう」

 

「……吹き飛ばした?」

 

 カミュ達を無視するように独り言を始めたバラモスの言葉は、奇妙な違和感を一行に与える事となる。サラは先ほど感じた違和感とは別の物に眉を顰め、再度自分の頭の中を整理するように、思考の渦へと呑まれて行った。

 リーシャやサラとは別に、カミュはこの魔王の独り言に一切耳を貸してはいない。だが、身体を動かす事もまた出来はしなかった。何故ならば、剣を持って駆け出したとしても、一瞬の内に消し飛ばされる姿しか想像出来なかったからである。

 余計な独り言を繰り返す間抜けな姿を曝してはいても、この存在が魔王である事に変わりはなく、その存在が圧倒的な物である事にも変わりは無いのだ。この世に生きる全ての魔物を従え、この世の全ての生物の頂点にも立つ力を有する『魔王バラモス』は、例え『勇者』と呼ばれる存在であっても、一瞬も気を抜く事を許されない存在であった。

 

「忌々しい『賢者』の一族も根絶やしにした。最早、この大魔王バラモスに逆らおうとする者達など、在ってはならんのだ!」

 

 一気に開放された『魔王バラモス』の魔法力が、地下に蔓延する瘴気を吹き飛ばす。息苦しさと視界の悪さが即座に晴れた代わりに、カミュ達は先程以上の威圧感をその身に受ける事となった。

 醜く垂れ下がった顎肉を大きく広げ、大きな咆哮を上げたバラモスの瞳が真っ赤に燃え上がる。それは、これから始まる一方的な蹂躙の開始を告げる物。あらゆる生物の頂点に立つ存在が、他者を踏み潰す事の宣言でもあった。

 軽く振るわれたバラモスの左手に圧縮された空気が集まって行く。それは一行に同道する幼い魔法使いが唱えるイオラという爆発呪文に酷似した動きを見せ、それ以上の濃度を感じさせる。周囲の空気が圧縮されて行き、歪んで行く視界に気付いたカミュは、後方にいる三人に注意を呼びかけた。

 

「再び蘇る事さえも出来ぬよう、その(はらわた)を喰らい尽くしてくれるわっ!」

 

 最後の宣告を告げると同時に、バラモスは左腕を薙ぎ払う。瞬時に圧縮されていた空気はその濃度を濃くして行き、最早カミュ達の位置からバラモスの姿が確認出来ない程になって行った。

 圧倒的な存在が放つ、圧倒的な力。それは、彼等の四年以上に渡る旅路を無にする程の物であり、瞬時にこの世の終わりを告げる事の出来る程の物でもあった。

 光と共に歪んだ景色さえも見えなくなる。圧縮された空気が、その開放を今か今かと待つ中、退避する為に動き出したカミュを嘲笑うかのような死刑宣告が広い地下空間に響き渡った。

 

「イオナズン!」

 

 

 




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