「カミュ、馬車はどうするんだ?」
マントの裾を握ったままのメルエを引き摺るように森に入ろうとするカミュに、リーシャが放置されたままの馬車について尋ねた。
幌の付いた馬車は、メルエを救い出した時のまま、静かに佇んでいる。
「あの40ゴールドに、馬車の代金までは含まれていない。その内、あの奴隷商人達が取りに戻って来るだろう」
「しかし……」
馬車があれば、メルエのような幼い子供がいても、行軍速度の心配はない。そう思って言い募ろうとするリーシャに、カミュは自分のマントの裾を握って放さない少女に視線を移す事で、その申し出を拒絶する姿勢を見せた。
「……そうだったな……メルエ、すまない」
今まで、奴隷として縛られ、運ばれる為に乗っていた物に、再度乗りたがる訳はない。それを理解したリーシャは、メルエに向かって謝罪の言葉をかけたが、メルエはただ、首を横に数回振ったのみであった。
少し、気不味い雰囲気のまま一行は森へと入って行く。もはや、夕陽も沈みかけ、夜の静けさが森の中に漂っていた。
カミュとリーシャで、今夜の野営地を絞り、火を熾して行く。その間、サラは周囲から薪として使える木の枝などを探し、拾っていった。
簡単な食事を終えた後、焚き火の傍でうつらうつらと船を漕ぎ始めたメルエをリーシャが横たえ、カミュから剥ぎ取ったマントを掛けてやる。まだ幼さが十分に残る寝顔を見て、リーシャに優しい笑みが浮かび、メルエの綺麗な茶の髪を手で梳き始めた。
その後、リーシャは、今日の<アニマルゾンビ>との戦闘後に話した通りに、サラに魔法についての講義を受ける事になる。
幼い頃から、剣だけを磨いて来たリーシャにとって、初めて聞く事も多く、何度も聞き返すような事はあったが、サラは嫌な顔一つせずに、懇切丁寧にリーシャの疑問に答えて行く。その講義の中には、時折サラの職業柄、『精霊ルビス』に纏わる話も織り交ぜられていたが、リーシャとてアリアハン国民である以上、『精霊ルビス』を崇めている一人であるため、そんなサラの話も真面目に聞いていた。
サラの講義を受け始めてどのくらいの時間が立ったであろう。
不意に、傍で寝ていたはずのメルエが、むくりと起き上った。
傍で火に当たりながら講義を受けていたリーシャが、その変化に気付き、視線を動かす。
「ん……どうした? まだ寝ていても良いんだぞ」
「……」
リーシャの優しい声にも上手く反応出来ていない様子で、目を擦る仕草をするメルエに、サラは笑みを溢した。
ようやく、寝惚けから覚醒したメルエは、掛っていたマントを握りしめ、周囲を見渡し始める。その様子に、カミュを探しているのだと感じたリーシャは、今さらながら、カミュがいない事に気が付いた。
「カミュか? おそらく、その辺にいるとは思うが………少し待っていれば戻って来るさ」
その声に、少しリーシャの方を見たメルエであったが、マントを持ったまま立ち上がり、周囲を歩き回り始める。それはまるで、迷子になった子供が、親を探しているかのような必死さであった。
サラには、何故メルエが、そこまでカミュを頼みにするのかが理解できない。別段、特別な優しさをカミュがメルエに向けているようには見えなかった。
メルエの傍でも、サラから見れば、いつものカミュにしか見えないのだ。
「あっ! お、おい!」
自分の考えに没頭していたサラの意識が、リーシャの上げた声で戻される。メルエが野営地を抜け、森に入って行ってしまったのだ。
野営地の周辺に<聖水>を振り撒いているとはいえ、そこを抜ければ魔物達が住処にする森である事に変わりはない。
「サラ! 私はメルエを連れ戻しに行く。ここは、かなりの量の<聖水>を使用しているから安全だ。火を絶やさぬように待っていてくれ」
サラが頷く間も与えず、リーシャはメルエの後を追い、森へと入って行った。
呆然とするサラであったが、今から自分が追いかけても仕方がないと感じ、ここで待つ事にした。
どこをどう歩いたのか分からない。
だが、親を探す帰巣本能なのか、メルエはカミュの下へと辿り着いた。
そこは少し開けた場所で、周囲を木々が囲んではいるが、先程の野営地を一回り程小さくしたような、平地のある場所。
そこにカミュはいた。
カミュは胡坐をかくように、地面に座り、目を瞑っている。その周辺は、何か暖かな風に包まれ、淡い光を放っていた。
メルエにはそれが何か分からなかったが、不思議と違和感を覚える事はなく、まるで昔から知っているような感覚に陥る。
「……どうした? 眠れないのか?」
メルエが近付くと、カミュが目を開く。カミュのたった一つの行動で、メルエが先程まで感じていた、カミュの周囲を満たしていた物が霧散して行った。
その不思議な雰囲気に、メルエは小首を傾げるのだった。
「…………なに…………?」
「……ん? ああ、魔法の契約だ」
メルエの発した、意図の掴みとれない単語だけで、カミュは何を言いたいのかを正確に理解する。
『何をしていたのか?』とメルエは聞いているつもりなのだろう。それを汲み取ったカミュは、傍に置いてあった『魔道書』を掲げ、自分が行っていた事をメルエへと伝えるが、先程まで『奴隷』であったメルエに、それを理解する知識はなかった。
「…………ま……ほう…………?」
「ああ」
カミュの目の前まで移動して来たメルエは、小首を傾げたまま、カミュの表情を見ている。それに、頷くようにカミュは答えた。
それでも、カミュの口にした単語が理解できないメルエは、反対側へと小首を傾げるのだった。
「…………か…ぜ…………」
「……お前……魔力の流れが見えるのか?」
メルエが先程感じた、カミュを取り巻く風。
それは、魔法の契約時に、契約者が纏う魔力そのものだったのだ。
その流れが視認できるという事は、その人物もまた、魔力を有しているという事になる。
別段、この世界で魔力を有しているという事は、それ程珍しい物ではない。しかし、二桁に届くか届かないかの子供に、他者の魔力を視認できる程の魔力があるとなれば話は別であった。
「……ここに座ってみろ……」
カミュは、何やら地面に円を描いた後に、そこに幾何学模様のような物を描き、メルエを呼んだ。カミュが何をやっているのか理解はできないが、その声にメルエはこくりと頷き素直に従う。
メルエがカミュの描いた円の中に入り、腰を下ろすと同時に、円に沿うように淡い光が溢れ出し、メルエを包み込んで行った。
「……???……」
暫くの間、メルエを包んでいた光は輝き続け、そして、まるでメルエの中に吸い込まれるようにその光は収縮して行く。不思議そうに自分の身体を見ているメルエとは正反対に、カミュは呆然とその光景を眺めていた。
「……まさか、本当に契約が完了するとは……」
「……???……」
その様子を傍で見ていたカミュの顔に、珍しく心からの驚きの表情が浮かぶ。そんなカミュの表情を見て不安になって来たメルエは、飛び上がるように円を飛び出し、カミュの下に駆け寄って行った。
「……メルエ……あの方角へ指を向けて、『メラ』と唱えてみろ……」
駆け寄って来たメルエに、カミュは違う指示を出す。カミュの顔を見上げていたメルエは、再度こくりと頷いた後、言われた方向に右人差し指を向けた。
指を掲げた瞬間にカミュの眉間に皺が寄って行く。
メルエの纏う空気が変わったのだ。
「…………メラ…………」
メルエの呟くような<メラ>の詠唱と共に、人差し指から凄まじい音を立て、岩のような大きさの火球が飛び出した。予想はしていたのだろうが、その桁違いの<メラ>を見て、カミュは呆然となってしまう。
「あっ!」
「なっ!?」
メルエから飛び出した火球の規模に、尚更目を見開いたカミュであったが、その後に起こった事に、らしくない叫びを上げてしまう事となる。
木々しかなかった、火球の進行方向には、運悪くメルエを探しに来たリーシャが、突然姿を現したのだ。
メルエを探し、森へ入ったリーシャであったが、あの小さな身体がどこへ向かったのか皆目見当もつかない。
ましてや、闇に閉ざされた森の中である。
一行は、ロマリアで見つけた『ランプ』を購入しようかどうか迷ったが、その燃料である油が高級なため、再び<たいまつ>に落ち着いていた。
その<たいまつ>を持っての探索となる為、難航していたのだ。
そんな中、自分の右手の茂みから、淡い光が輝いた事に気が付き、リーシャは腰の剣に手をかけながらそちらへと歩いて行く。しかし、近くまで近寄った時には、その光は消えてしまっていた。
途方に暮れそうになったリーシャが最後に掻き分けた茂みの先に、突如昼になったかと思う程の熱気と光が飛び込んで来たのである。
「なっ!?」
咄嗟に左手に持つ、<青銅の盾>を顔面に掲げ、その光から目を護ろうとしたリーシャに、更なる衝撃が襲った。
<青銅の盾>を持つ左腕に何かがぶつかり、その力にリーシャは吹っ飛ばされる。何が起きたのか理解出来なかったリーシャではあったが、魔物の襲来を考え、素早く態勢を立て直し、腰の剣を抜き放った。
「……まいったな……」
しかし、リーシャの耳に聞こえて来たのは、魔物の雄たけびや奇声ではなく、もはや聞き慣れて来た、自分と共に旅する捻くれ者の声であった。その声を聞いたリーシャは、<青銅の盾>から顔を上げ、前方から歩いて来る青年に厳しい視線を向けた。
「カ、カミュ! お、お前……何をする!」
「……いや、すまない……悪気があった訳ではない」
「……」
リーシャの激昂に、カミュは素直に謝罪の意を表し、その傍にいたメルエはカミュの後ろへ隠れてしまう。小さな姿を確認したリーシャの怒りは、一瞬沈静化するが、再び湧き上がる怒りを隠そうともしなかった。
「……メルエ、ここにいたのか? それより、カミュ! 今のはなんだ!? まさか、メルエに良い所を見せようと、魔法でも見せていたのか!?」
メルエの存在に気がついたリーシャは、ほっと胸を撫で下ろし、一つの問題を解決したとばかりにカミュへと詰め寄って来る。リーシャの剣幕に、メルエは更にカミュの後ろで小さくなり、カミュの足を掴むその手にも力が籠っていった。
「……少し落ち着いてくれ……俺も多少混乱している……」
「お前が……混乱?」
カミュと混乱という全く結びつく事のない単語に、リーシャの頭に疑問符が浮かぶ。しかし、カミュの顔は真面目そのものだ。
別段、口端を上げている訳でもない。
そこで初めて、リーシャは冷静さを取り戻した。
「……落ち着いて聞いてくれ……信じられないかもしれないが、今、アンタがその盾で受けた<メラ>は、俺が放った物ではなく、メルエが放った物だ」
「何……メルエが!?」
カミュの言葉に、リーシャの声は自然と大きくなる。その声量に、カミュの後ろに隠れていたメルエの身体は大きく跳ね上がった。
リーシャの怒りの矛先は、カミュへ向かっているのだが、それをメルエが自分に向けられている物だと勘違いしてしまっているのだ。
「馬鹿も休み休み言え!!」
「……いや、アンタの気持ちは理解できる……だが、事実は事実だ」
カミュへ向けられた怒鳴り声は、メルエの身体を完全にカミュのマントの中へと移動させてしまう。激昂したリーシャを抑える為に、カミュは冷静に話をするが、カミュへと詰め寄って来ているリーシャには通用しなかった。
「メルエが魔法を使えるとでも言うのか!?」
「……いや、今までは使えなかったのだろうが……たった今、契約が完了した」
リーシャは完全に混乱している。
カミュの言っている事は理解できるが、うまく飲み込めないのだ。
そして、それを理解して行くに連れて、カミュが犯した罪を認識し、怒りを更に増して行った。
「お、お前! メルエに魔法の契約をさせたのか!? 何を考えている!? 」
「……それについては、謝る他ない……魔力の流れを見ていた為に、試しに魔法陣の中へ入れてみたら、契約が完了してしまった」
掴みかからんばかりに詰め寄って来るリーシャに対し、カミュは表情を崩さないまでも、いつものような横柄な態度を取る事なく謝罪の言葉を呟いた。
一瞬気が抜けたような表情を浮かべたリーシャであるが、再びカミュへと怒りを向ける。
「お前は馬鹿か!?」
「……アンタに言われると、かなり堪えるな……」
自分が馬鹿にしているリーシャから馬鹿扱いされた事に、若干肩を落とすカミュであるが、リーシャの詰問は終わる事を知らなかった。しかも、それはリーシャ自身を馬鹿にしたような言葉を吐いた事に対してではなく、今話題に上がっている幼い少女に関する事。
そこにリーシャの人と成りが窺える。
「お前は、メルエに魔法を教えてどうするつもりなんだ!? まさか、旅に連れていくつもりなのか!?」
「……いや、そのつもりはない……」
自分の事よりもメルエを優先させるリーシャを見て、カミュは言葉を濁し始める。
カミュ自身、何か思う事があるのであろう。そこに直接突き刺さるリーシャの言葉は、カミュから精彩を奪って行った。
「お前が私達に言ったのだぞ! しかも、あれ程の威力の魔法が使える少女を、引き取ろうとする人間が何処にいる!? お前は、メルエの将来をも暗い闇に閉ざすつもりか!?」
もはや、リーシャはカミュの胸倉を掴み、その瞳を怒りの炎で燃やしてカミュを糾弾していた。
そのリーシャに対し、カミュは反論する言葉を持たず、沈黙を貫いている。
リーシャの言うように、普通の村でメルエの里親を探そうとすれば、魔法などという物はむしろ邪魔にしかならない。普通に暮らし、普通の幸せを願うのならば、魔法など『百害あって一利無し』なのだ。
魔物に襲われた時の対処にはなる。だが、それは普通であった場合に限るのだ。今の<メラ>がメルエの放った物であるならば、それは十歳前後の子供が唱える威力の物ではない。<メラ>だけで言えば、カミュ以上の物なのである。
強すぎる力は、畏怖の対象になる。
魔物を退治した時などは、周囲の人間に喜ばれるかもしれないが、時が経つにつれ、『その力が、自分達に向けられやしないか?』という疑心を生み、そして恐れられるようになる。
メルエが行使した能力は、そういう類の物なのだ。
魔法力をその身体の内に微塵も所有していないリーシャでさえ、契約時の魔力の流れによる発光を視認できた程の魔法力をメルエは持っている。それは、メルエを幸せに導く物だとは言い難いのだ。もし、そのようなメルエを喜んで引き取るとなれば、それは跡目のいない魔法武官の家か、それとも研究材料としてしか見ない魔法学者の場所しかない。
「……すまない……俺の考えが足りなかった」
「くっ!」
カミュは、本当に珍しく、謝罪を繰り返す。そんな様子に、リーシャもカミュを責め続ける事が出来なくなっていた。カミュも、自身の犯した罪と、それによって道を限定されてしまった幼い少女の未来を十分に理解しているのだ。
故に、彼は何も反論をしない。
「…………メルエ…………だめ…………?」
そんな中、今までリーシャの声量に怯え、カミュの後ろに隠れていたメルエが、少しだけ顔を覗かせてリーシャとカミュの顔を見上げる。その顔は、形の良い眉毛をハの字に歪め、怯え切った物であった。
「……いや……メルエは何も悪くない」
カミュはそんなメルエの頭を撫でながら、何も知らない少女に非がない事を伝える。リーシャも、それ以上は何も言えず、ただメルエを見つめる事しかできなかった。
カミュを責めれば事態が好転する訳ではない。彼がそれを理解している以上、リーシャが言う事は何もないのだ。
「さあ、戻ろう……もう夜も更けた。眠らなければ、明日が辛くなる」
「……ああ……」
リーシャが、不安そうなメルエの手を引き、野営地の場所に戻って行く。リーシャに手を引かれながらも、カミュの存在を確かめるように、何度も何度も振り返るメルエを見て、カミュもその足を動かさざるを得なかった。
「あっ! メルエちゃん!……無事で良かったです」
野営地に戻った三人の姿を確認したサラは、満面の笑みを浮かべ駆け寄って来る。そんな、サラの言葉に、何が不満だったのか、リーシャの手を握りながらあからさまにメルエは顔を顰めた。
「…………メルエ…………」
「えっ!?……あ、は、はい……ではメルエ、無事で良かったです。それでは、私の事もサラと呼んで下さいね」
暫くサラの顔を眺めていたメルエが、ぼそりと呟いた一言に、サラはすぐに何を言いたいのかを理解する。そのサラの答えに、満足そうに頷くと、メルエは先程寝ていた場所に戻り、カミュのマントを被って横になった。
「ふふっ……あれ?……どうされたのですか? お二人とも顔色が優れませんけど?」
「……ああ、大丈夫だ」
「……」
メルエとは違い、何とも難しい顔をしている二人を不思議に思い、サラは声をかけた。しかし、返って来た答えは、表情と同じく重苦しい雰囲気漂う物であり、そんな二人を見て、サラの疑問は不安へと変化して行くが、そんなサラの肩にリーシャが手を置く。
「サラも、今日はもう休め。この場所は、<聖水>を多量に使用したためか、魔物の気配が全くしない。今日は見張りを立てずに休める。ゆっくり休め」
「あ、は、はい」
何があったのか聞こうと口を開きかけたサラを制するように、リーシャは就寝する事をサラに勧めて来る。それは、有無も言わせぬ迫力を持った物であった為、サラは自らの寝床に入る他なかった。リーシャも、既に静かな寝息を立てているメルエの傍に横になり、目を閉じる。願わくは、隣で安らかに眠る少女の将来も、安らかな物である事を祈りながら、リーシャは眠りへと落ちて行った。
「おい、起きろ! カミュ、起きてくれ」
カミュは、耳元で声を出さないように抑えている叫びに、目を覚ました。
まだ、森の中は暗闇が支配しており、陽が昇るまでは、まだかなりの時間がある事が分かる。ゆっくりと身体を起こすカミュの肩を、リーシャが激しく揺すっていた。
「……起きた……余り揺らすな」
鬱陶しそうにリーシャへと視線を動かすカミュの瞳に、顔を真っ青にしたリーシャの顔が飛び込んで来る。
その顔に余裕など全くなく、焦燥感に駆られている事は目に見えて明らかであった。
「カミュ、メルエがいない!」
「……何……?」
リーシャの言葉に周囲を見渡すと、確かに火の傍で丸くなっているのはサラだけである。先程までメルエが眠っていた場所に少女の姿はなく、身体に掛けられていたカミュのマントも一緒に消えていた。
カミュは、少し前に、火に薪をくべる為に目を覚ましている。その時には、確かにメルエはそこに寝ていたはずだが、夜の暗さから、その時からそれ程の時間が立っていない事が分かる。
つまり、カミュが薪をくべ、少し眠りに落ちている間にいなくなっているのだ。
「カミュ、どうする!?」
横で、開く口の大きさと声量が一致していないリーシャは、いつになく焦っているのが一目で分かるほど狼狽していた。カミュにしても、この狼狽している戦士にしても、それなりの者である。魔物や襲撃者が襲ってくれば、その気配に目を覚ます筈だ。
つまり、そんな二人の横を歩く事が出来るのは、気配を消す事の出来る者か、警戒に値しない小動物かのどれかという事になるのだ。
「……一先ず、落ち着け……少し周辺を探す。何か盗られた物などはないか?」
もし、昼に相対した奴隷商人などが再び現れていたら、眠りこけている三人など、疾うに殺されているはずだ。いや、その前に、カミュやリーシャが目を覚まさない訳がない。
「いや、盗られた物などは何もない」
既にその可能性は確認していたのであろう。カミュの問いかけに、リーシャは即座に答える。カミュは、リーシャの言葉に頷きながら、自分の荷物を確認していた。
そして、ある物が失われている事に気が付く。
「……なるほど……」
「何か盗まれていたのか?」
カミュが呟いた一言に、何か手掛かりでも見つけたのではと、リーシャは必死の形相でその肩を掴んだ。カミュは、いつも以上に狼狽するリーシャの姿に、正直戸惑っている。昼に出会ったばかりの少女の身の上を、ここまで心配するリーシャが不思議だったのだ。
「メルエの行き先が、何となくだが見当がついた」
「本当か!?」
肩を掴むリーシャの手を退けるが、カミュの言葉を聞いた彼女の腕が、再び彼の肩口を掴んだ。
そのリーシャの行動に、カミュは大きな溜息を吐き出す。
「……ああ……連れてくる」
「私も行こう」
メルエが何故いなくなったのか見当がついたカミュは、その予想場所に向かおうとする。しかし、付いて来る事を言い出したリーシャの言葉に、頭を振って拒絶の反応を示すカミュに、再びリーシャが咬みついた。
「何故だ!?」
「……<聖水>の効力もいつまで持つか分からない。ここにいてくれ」
言葉に詰まったリーシャを置いて、カミュは森の中へと入って行く。リーシャは初めて感じる不安感や焦燥感を抑え込むように、火の傍に座り込み、深く溜息を吐き出した。
「……やはり、ここだったか……?」
「!!」
突然後方からかかった言葉に驚き振り向くメルエの怯えた表情は、小動物そのものだった。
そこは、先頃カミュが、魔法の契約をする為に魔法陣を敷いていた場所である。
カミュの持つ袋に入っていた筈の『魔道書』を広げたまま、おそらく自分で描いたであろう魔法陣の中に座っていた。
「……俺の『魔道書』を使って、何をしている……?」
「……」
カミュの静かな問いかけに、ビクッと身体を震わせたメルエは、俯き黙り込んでしまう。そんなメルエの様子に、溜息を吐きながら、カミュはメルエへと近付いて行った。
カミュが近付いて来る事に怯えるように身体を縮込ませたメルエは、眉の下がった瞳をカミュへと向けている。
「……別に怒っている訳ではない……契約をしていたのか?」
「…………」
傍に来たカミュの手が、自分の頭に柔らかく載せられた事に安心したのか、メルエは黙って一つ頷いた。
メルエが座っていた場所に描かれた魔方陣は、拙いながらもしっかりとした物で、『魔道書』を見ながら一生懸命に描いた事が見て取れた。
「…………これ…………?」
メルエは近くに広げてある『魔道書』を手に持ち、あるページを指さして、カミュに見せるように持ち上げた。
メルエの持ち上げた『魔道書』のページには、カミュも習得出来ていない魔方陣が描かれてある。
「……<ヒャド>か……」
「…………ヒャ………ド………ヒャ…ド………ヒャド…………」
メルエは一言一句確かめるように、また噛みしめるように、カミュの口から出た魔法の名を反復する。そして、何度か同じ言葉を繰り返した後、納得がいったのか、また違うページを選び出した。
「…………これ…………?」
「……これは<ギラ>だな……」
メルエの指し示した場所を見たカミュが、再びその魔法の名を口にする。発音を確かめるようにカミュの口元を見ていたメルエは、『魔道書』に視線を戻し、再びその名を反復した。
「…………ギ……ラ………ギラ…………」
何度も反復するメルエの姿を眺めながら、カミュは一つの結論に辿り着く。それは、この時代では決して珍しくはない物であり、それに関して、カミュがメルエを蔑視する事などないのだが、確認を込めて、カミュは口を開いた。
「メルエ、お前は字が読めないのか?」
「!!」
メルエは、カミュの問いかけに、驚きと戸惑い、そして哀しみを混じり合わせたような表情をし、目を見開く。そのメルエの態度が、カミュの考えが間違っていない事を示していた。
おそらく、メルエの両親は、メルエに対して教育は全く施さなかったのだろう。だが、それ自体は、この時代では責められる事ではない。
今の時代、読み書きが出来ない子供が大半であった。ある程度の収入がある家に生まれた人間であれば、親や近所にいる知識がある者の教えを請い、読み書きや計算などを覚える事が出来るが、貧しい家に生まれれば、そもそも親自体が読み書きをする事が出来ない。
故に、『子供に教育を』と考える親の方が稀なのである。そういう世の中だからこそ、国の中枢に蔓延る人間は、教育を受ける事の出来る貴族がその割合を大きく占める。
メルエは、カミュの言葉に完全に俯いてしまった。
先程まで次々と『魔道書』のページをめくり、目を輝かせていた少女の姿は微塵もない。そんなメルエの姿に、カミュは手のひらをその頭に乗せ、優しく撫でた。
「字が読めない事は、珍しい事ではない……すまない、そんなに落ち込むな」
「……」
カミュの慰めのような言葉にも全く反応を示さないメルエに、カミュは困りきってしまう。
カミュは、実際に『人』との接し方が分からない。幼い頃から友人などおらず、子供達と遊んだ事などないのだ。
「……それで、他に契約した魔法はあるのか?」
一向に顔を上げないメルエに、カミュは溜息をついた後、話を続ける事にした。
何度かメルエの頭を撫でながら、他に出来た契約の内容を聞いてみると、ようやくメルエの顔が上がり、再度『魔道書』を持ち上げる。
「…………これ……とこれ…………」
正直に言えば、問いかけたカミュ自身が、『これ以上は、契約出来てはいないだろう』と考えていた。
しかし、それは、メルエの言葉で完全に否定される事となり、『魔道書』を開いた二つのページに記載されている魔法を指差したメルエは、自信なさ気な表情をしたまま、カミュを見上げて来るのだった。
「……スカラ……と、リレミトだな……効力は解るのか?」
「…………???…………」
魔法の名前を反復していたメルエは、カミュの言葉に小首を傾げた。
もう一度溜息をついたカミュは、メルエにその魔法の効力を話し出す。どのような魔法であるのかを知らなければ、契約は出来たとしても、行使する事は出来ないだろう。
それに気付いていたカミュであったが、期待するような瞳を向けるメルエに溜息を吐き出し、今までの魔法の効力も教えて行くのだった。
「理解出来たか?」
再度確認したカミュに、大きく頷いたメルエは、再び『魔道書』を開き始める。そのメルエの行動に、カミュは驚きを強くし、目を見開いた。
メルエの歳は、多く見積もっても二桁に届いてはいないだろう。その幼い少女が、『魔道書』に記載されている魔法を一晩で複数契約したと言うのだ。驚かない訳がない。
「…………これ…………」
「……メルエ……お前は、何処まで契約出来た?」
『魔道書』を突き出して来るメルエを手で制したカミュは、メルエと目を合わせるように屈み込み、広げた『魔道書』を指差し尋ねる。カミュの質問の意図が把握出来ていないのか、暫し首を傾げていたメルエは、再び『魔道書』をカミュへと突き出した。
「…………これ…………」
おそらく、メルエが契約出来たのは、今、指している魔法が最後なのだろう。
この暗闇の中で『魔道書』を読むのならば、灯りが必要になって来る。傍に転がっていた木の枝の先は若干の焦げ跡が残っており、メルエが<メラ>を唱えた事が窺えた。
その木から出る火の粉の破片が、メルエの指差すページに残っていたのだ。
「……凄いな……それはルーラだ」
「…………ルー……ラ………ルーラ…………」
再び反芻し始めたメルエを、驚きの表情で見つめていたカミュは、メルエへの懸念が浮かび、苦い顔になる。
その表情に浮かぶ物は、確かな『感情』。
ここまでの旅で決して見せる事のなかったカミュの感情は、この幼い一人の少女によって引き摺り出されたのだ。
「……メルエ……よく聞いてくれ」
「…………???…………」
魔法の名の反復を終えたメルエが顔を上げるのと同時に、カミュはその瞳を見つめながら語り出す。首を傾げたメルエは、それでもカミュの言葉を聞こうと、まっすぐカミュへ瞳を移した。
「メルエが魔法の契約を出来た事は理解した。だが、その魔法は、俺達の前以外では使うな。他の人間が周りにいる時には、絶対に使うな……わかったな?」
カミュの忠告は、リーシャが心配している事への予防策である。メルエが魔法を行使すればする程、平穏な生活を送る可能性を狭める事になる。それは、リーシャも、もちろんカミュも願う事ではない。
だが、それを聞くメルエは悲しそうな表情で、カミュを見つめていた。
「…………メルエ………だめ…………?」
それは、『怯え』にも似た感情。
自分が異常だから、カミュは認めないのではないかという疑念。
そして、カミュやリーシャに拒絶される事が、今のメルエに取って一番の哀しみなのかもしれない。
「……いや……そうではない。俺も、メルエの歳と変わらない頃に、<ルーラ>の契約を終えていた」
「…………」
カミュはメルエの横に腰を下ろし、『奴隷』から解放されるべき少女に向かって語り出した。
自分の隣に座ったカミュの顔を見上げ、メルエは眉を下げたまま口を開かない。恐怖や怯えにも似た感情を持ったメルエは、カミュが何を話そうとしているのか見当が付かないのだ。
「……俺は、メルエの歳とそう変わらない頃から、魔物と戦っていた。俺もメルエと同じように、法衣を纏った人物は畏怖の存在だった。いくら怪我をしても、傷を治され魔物に向かわされる。それで、<ルーラ>を覚えた」
「…………おな…じ…………?」
カミュの口調から、『自分が拒絶されている訳ではない』という事を理解したメルエは、ようやくカミュの話に反応を示した。
『自分と同じ』という言葉に関心を示したメルエは、小首を傾げたまま、カミュの横顔を見つめる。
「……ああ……一人で戦って、傷ついて、それでもまた戦わなければならなくて……逃げ出したかったのだろうな……<ルーラ>を行使すれば、家に帰れると思った」
「…………かえれ……た…………?」
カミュの独白に近い話に、こくりこくりと相槌を打ちながら聞いているメルエは、所々で疑問を挟む。そんなメルエの方を見ずに、カミュは一つ一つ答えて行った。
この場には、心に傷を負った二人しかいない。その傷は、決して他人には理解されず、そして自身で癒す事も出来ないのだ。
「……帰れはした。だが、追い出された」
「!!」
カミュの答えに、メルエの身体が弾かれるように揺れた。
カミュの言葉の何に反応したのかは解らない。しかし、それがメルエの過去の一部と繋がっている事だけは確かなのであろう。
尚一層、眉を下げたメルエは、黙り込んだままカミュを見上げていた。
「……魔物から逃げ出すような人間は、孫でもなければ子でもないとな……」
放り込まれた先の魔物との戦闘によって満身創痍となった身体を引きずり、残りの魔力を振り絞った。
しかし、契約を終えたばかりの『ルーラ』を唱え、家に辿り着いたカミュを待っていたのは、祖父と母親の叱責と罵倒であったのだ。
討伐隊を置き去りにし、自分一人が魔法を使って逃げ出し来たと責められ、カミュは再び外へと放り出される。
『英雄の子として有るまじき行為であり、恥じるべき行為である』とその身体の治療も受ける事も叶わずに、外へと投げ出された人間の心には、どれ程の傷が刻まれる事だろう。
実情は、異なっていた筈なのである。
カミュはたった一人で魔物の中に放り込まれていたのだ。
『討伐隊』など名ばかり。討伐の六割以上は、カミュが行っていたと言っても過言ではなかった。
それをカミュの家族は、誰も知らない。いや、『たとえ知っていたとしても変わらなかったであろう』とカミュは考えていた。
「……俺もメルエと同じようなものだ」
その言葉と共に、ようやくカミュはメルエの方を向き直る。その表情は苦笑を浮かべていた。
見る者によっては、痛々しくも映りそうな程の苦笑を浮かべたカミュを見て、メルエは眉を下げたまま黙り続ける。
「メルエ、魔法を行使出来る事が、お前の幸せには繋がらない。行使する事が出来ない方が、この先平穏な暮らしが出来る筈だ」
「…………」
メルエは、カミュの話している難しい言葉を理解出来てはいない。だが、何を言いたいのか、何を自分に求めているのかは、何となくだが理解出来ていた。
故に、彼女の顔は歪んで行く。
「……それ以上、契約は行うな。必ず俺達が、メルエが平穏に暮らせる場所を探してやる。それまでは、魔法ではなく、言葉や文字などをあの僧侶に教われ」
「…………」
今まで黙ってカミュを見つめていたメルエは、カミュの最後の言葉を聞き、その頭を大きく横に何度も振った。
完全なる拒絶である。
自分の感情や考えを他者に上手く伝える事が出来ない程に幼いメルエの精一杯の拒絶。
「……メルエ……」
「…………た……る…………」
微妙に肩を揺らすメルエの姿に、カミュは何とも居た堪れない思いになって行く。声をかけようと手を伸ばしたカミュの耳に、何か呟くような声が入って来た。
それは小さな小さな慟哭。幼いメルエの心の叫びだった。
「…………メルエ………ダメ…………すて……る…………?」
「!!」
やっとの思いで吐き出したのであろうメルエの言葉に、カミュは絶句する。自分が、良かれと思って話した話で、尚更メルエを追い込んでしまっていたのだ。
既に、メルエの瞳を大粒の水滴が濡らしていた。
それでも、カミュを射抜くように向けられた瞳は、幼いとは思えない程の力を宿している。
「……メルエ……」
「…………メルエも………行く…………」
おそらく、あの奴隷商人達に聞かされていたのだろう。
『お前の親は、お前を金で売っ払ったんだ。お前は捨てられたんだ』と。
それは、メルエのような歳の子供にとって、どれ程、心に傷をつけるものであっただろう。そんな自分の状況を知りながらも、『自分を救ってくれた人間達と一緒にいたい』というその一念で、魔法の契約を一人でしていたこの小さな少女に、カミュは言葉を失った。
「…………メルエ………まほ…う………おぼえる………うぅぅ…………」
メルエの瞳からは、溜めに溜めていた涙が溢れ出し、その頬を濡らしていた。
もはや、言葉すらも聞き取る事は難しい。
おそらく、メルエの瞳には、カミュがはっきりとは映ってはいないだろう。それでも、真っ直ぐと見つめる少女を、カミュは胸に抱いた。
「……わかった……」
小さなメルエの身体は、カミュの胸にすっぽりと収まり、その手に持っていた『魔道書』は地面へと落ちて行く。カミュの胸の中で、すすり泣くような声を上げるメルエを、カミュはそのまま抱き締めていた。
「……落ち着いたか?」
メルエの肩の震えが収まった事を確認したカミュが、そっとメルエの身体を離した。
カミュの胸の部分は涙で濡れてはいたが、もはやメルエの瞳の中に涙はない。代わりに、真っ赤に腫れ上った瞼と、頬に残る涙の跡が、その哀しみの度合いを理解させた。
カミュに向かって、こくりと頷いた後、もう一度『魔道書』を拾い上げるメルエの手をカミュが止める。
「……今日は、もうお終いだ。この先は、明日以降にしろ。それに……おそらく今は、<ルーラ>までが限界の筈だ。この先の魔法は、メルエが成長してからだ」
「…………せい………ちょう…………?」
言葉の意味が解らないのか、小首を傾げるメルエに、カミュは苦笑を洩らす。土が付いてしまった『魔道書』を軽く手で払い、カミュは『魔道書』をメルエへと手渡した。
「……簡単に言うと……メルエが、大きくなってからだ」
カミュの言葉にこくりと頷いた後、手渡された『魔道書』を胸に抱いたメルエは、少し微笑んだ。
初めて見るメルエの微笑みは、とても暖かく、カミュの胸に不思議な空気を運んで来る。
「その『魔道書』は、メルエが持っていろ。俺が見たくなったら、メルエから借りる。失くすな」
カミュもまた、メルエへと微笑んだ。
再び頷いたメルエは、踵を返し、野営地への道を戻って行く。その後ろ姿を見ながら、カミュもまた歩き出した。
メルエが先に森の中に入って行った事から、野営地への道は分かっているのだろう。確かに、ここは、野営地からそれ程離れてはいない。メルエの身に危険はない筈だった。
「……連れて行くのか?」
メルエの背中を追っていたカミュの横から、突然かけられた声。
それは、待つように指示を受けていたのにも拘わらず、やはりメルエへの心配で付いて来ていたリーシャであった。
突然現れたリーシャに多少の驚きを見せたカミュであったが、木に背中を預けながら睨むリーシャを見て、一度足を止める。
「お前の心に、メルエを連れて行く事への覚悟はあるのか? 魔法は使えるが、子供だ。その命を背負えるのか?」
「……」
カミュは黙して何も語らない。
一度瞳を閉じたリーシャは、深い溜息を吐き出し、もう一度カミュを睨みつける。しかし、その瞳に宿る物は、怒りなどではなかった。
それをカミュも理解しており、リーシャの瞳から目を離す事はない。
「お前に勝手に付いて来る事になった私やサラとは違い、メルエに関しては、お前が連れて行く事を決めたんだ。それは、しっかりと憶えておけ」
「……ああ……」
リーシャの言葉を聞いていたカミュは、しっかりと頷きを返す。リーシャという『戦士』が何を気遣っているのかを理解したのだ。
故に、カミュの纏う空気も変化して行く。
相対する価値のある者に向けられる物へと。
「お前が連れて行くと決めた以上、反対はしない。私にとっても妹のようなものだ。何も、お前一人で護り切れとも言わない」
リーシャは、真面目な顔で言葉を続けていたが、メルエを『妹のように』と表現した辺りで、カミュの口端が上がっている事に気が付いた。
それを見たリーシャの頭には嫌な予感しか浮かばない。先程までの緊迫した空気はそこにはなく、不思議な空気が漂い始めた。
「な、なんだ?」
「……いや……メルエはアンタにとって、『妹』というよりは『娘』ではないのか?」
これ程に失礼な話はない。
メルエ程の子供がいるとすれば、それ相応の歳でなければならない。少なくとも、現在のリーシャの歳よりも相当な開きがあった。
そして、リーシャは憤慨する。
「わ、わたしは、そこまでの歳ではない!!」
「……初耳だな……では、幾つだ?」
更に失礼を重ねるように、カミュはリーシャの年齢を聞き始めた。
そのような返しが来るとは思っていなかったリーシャは、息を詰まらせたような顔を見せる。
「なっ!?……くっ……女性に対して年齢を聞く事が、失礼に当たると知らないのか!?」
リーシャの怒りとは反対に、カミュの口端は上がって行く。自分とメルエの話を立ち聞きしていたリーシャへの報復なのか、その手を緩める事はなかった。
怒りの為か恥ずかしさの為か、顔を真っ赤に染め上げたリーシャが、瞳を泳がせながらカミュを睨みつける。
「……俺の記憶が正しければ、アンタはあの僧侶に対して、何の抵抗もなく年齢を聞いていた筈だが?」
「あ、あれは、サラの場合、明らかに年齢が若い部類に入るではないか!?」
湯気が出ているのではないかと思う程に上気したリーシャの顔が間近に迫っているにも拘らず、カミュは苦笑のような表情を浮かべたまま、更に彼女を煽って行く。
「……ほう……では、アンタは明らかに歳をとっている部類に入るという事か……」
「ち、ちがっ!」
もはや、完全にペースをカミュに握られてしまったリーシャは、わたわたと手を震わせながら、動揺を繰り返す。その様子を、カミュは笑いを堪えるように眺めていた。
先程までメルエに関して話をしていた時の重苦しい雰囲気は、既に微塵もない。
「まぁ、アンタがこの中で最年長である事は確かだろう。おそらく、メルエよりも二十年程は長く生きているのだろうな」
「そんな歳ではない!!」
更に挑発を繰り返すカミュであったが、リーシャの怒声を聞く様子もなく、リーシャに背を向けて歩き出した。
自分の年齢を完全に勘違いされたままのリーシャは、慌ててカミュの後を追う。そんなリーシャの耳に、呟くようなカミュの声が入って来た。
「最年長のアンタの言葉は護るさ」
「……カミュ……?」
カミュが呟くように溢した言葉が、リーシャの熱を冷まして行く。リーシャに言わるまでもなく、既にカミュの覚悟は決まっていたのだろう。それ以上は、お互い話す事もなく、野営地に戻って行った。
既にメルエは戻っており、カミュのマントに身を包み、静かな寝息を立てていた。
リーシャは苦笑しながら、メルエの身体を包み込むように抱き、瞳を閉じる。メルエという少女の体温の温かさを感じながら、リーシャは眠りへと落ちて行った。
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