新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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魔王バラモス②

 

 

 

 耳を劈くような爆発音が地下の広間に響き渡り、周囲を真っ白な光が包み込む。狭くは無い広間が大きく揺らぎ、天井を形成していた岩が床へと降り注ぐ。大きな岩が床に落ちる度に地震のように世界が揺れ、土埃と岩の欠片が周囲に飛び散った。

 左腕を振り切った姿のまま、魔王バラモスは不敵な笑みを浮かべ、それだけで戦闘が終了したかのように勝利を確信する。脆弱な人類という種族であれば、最上位の爆発呪文に耐えられる者などいはしない。その呪文の存在さえも知る事も無く、どのような呪文なのかを知る事も無く、何が起こったのかも理解しないまま、この世の生を手放している筈だった。

 

「……あれが……最上位の爆発呪文ですか」

 

 だが、この場にいるのは、そんな種族の垣根さえも越えてしまった者達である。数多くの魔物と対峙し、その全てを打ち破って来た者達であり、エルフや魔族などよりも上位の力を有するまでに成長した、世界の希望なのだ。

 無傷ではない。先頭で盾を掲げていたカミュの左腕は、凄まじい爆発によって焼け爛れ、既に感覚さえも失っているだろう。刃の鎧に護られていない部分は、酷い火傷を負っており、皮膚は溶け、赤黒い肉が見えていた。

 同じくその隣でドラゴンシールドを掲げていたリーシャの右足には、酷い火傷と共に大きな岩片が突き刺さっており、今も尚血液が地面へと滴り落ちている。ドラゴンシールドの鱗のところどころが剥げ、その爆発力の凄まじさを物語っていた。

 何より、常に怪我などをした事のないメルエが、地面に倒れ伏している。爆発の余波を受けた軽い身体は、後方に吹き飛ばされ、地下の広間を支える石柱の一つに身体を打ち付けていたのだ。

 そして、サラ自身も立っているのがやっとの状態であり、火傷を負った腕からは血液と共に体液さえも流れ出ている。彼女の身体を護る法衣が魔法の威力を幾分か軽減してくれていたとはいえ、その被害は決して軽視出来る物ではなかった。

 それでも、全員が生きている。

 

「……矮小な人間の分際で!」

 

 最上位の呪文を行使したにも拘らず、自身の前で跪く事もせずに立つ一行を視界に捉えたバラモスは忌々しげに顔を顰める。この最上位の爆発呪文は、魔族であっても上位に位置する者しか唱える事は出来ない。周囲の空気を一瞬で圧縮させ、それを間髪入れずに開放するという行為は、並大抵の魔法力では実現出来ないのだ。

 それだけの大呪文を受けたにも拘らず、無傷ではないにしても、誰一人命を失ってはいない。今にも死を受け入れるような状態に陥っている可能性はあるが、それでも生きている事は事実であり、そのような状況が、魔王バラモスの自尊心を大きく傷つけていた。

 

<イオナズン>

世界最高の攻撃呪文と言っても過言ではないだろう。術者が最大限の魔法力を駆使して行使すれば、辺り一帯を焼け野原にする事も可能な程の威力を誇る爆発呪文である。その場に立つ者を呼吸困難に陥れる程に圧縮された空気が一気に弾ける爆発力は、一国の全戦力さえも一瞬の内に消し飛ばす程の物であった。『魔道書』に記載されていない事は当然として、『悟りの書』と呼ばれる古の賢者の遺産にも未だに浮かび上がってはいない大呪文である。

 

「リーシャさん、カミュ様、ご自分の身体に刺さった破片などはご自分で抜いておいて下さい。その後は、私の魔法力を受け入れる準備を」

 

 辛うじて立っているという状況であるカミュとリーシャに向かって言葉を発したサラは、痛む身体を引き摺ってメルエの許へと向かう。倒れ伏していたメルエの指が動き、傍に転がる雷の杖に触れる頃、ようやくサラが辿り着いた。

 強かに石柱に身体を打ちつけたメルエではあるが、その脊髄などに損傷は無いようで、杖を支えに懸命に立ち上がろうと力を込めている。そんなメルエの身体の隅々まで手を這わせたサラは、大きな傷がない事に安堵の溜息を吐き出した。

 早々に爆風で吹き飛ばされた事により、その熱などを受ける事は少なく、小さな手や顔の一部に火傷を負う程度に留まったのだろう。打ち付けた事による打撲はあるだろうが、内臓の損傷などは血液を吐き出していない為、ないと考えて良い筈である。難しく顰められた眉は、それでも身体に痛みがある証拠ではあるが、サラは安堵していた。

 

「ベホマラー!」

 

 優しく落ち着いた笑みを浮かべたサラは、強く手を天へ向けて詠唱を行う。それと同時に、サラの掲げた手を中心に淡い緑色の光が集まり、先程のイオナズンのように弾けた。弾けた淡い光は、彼女が指定する者達を包み込み、その身体を癒して行く。傷を塞ぎ、火傷を修復し、肌を癒して行った。

 自身の身体の傷が癒えて行くのを感じながらも、カミュとリーシャは視線を魔王から動かさない。いつでも動き出せるように注意深く身体の具合を確かめていた。

 サラが行使した呪文は、彼等にとっても初見の物である。それでも、今更サラがどのような呪文を行使出来るようになろうと彼等は驚かない。メルエが行使する攻撃呪文には恐ろしさを感じる程の驚愕を示す彼らだが、サラという『賢者』については、その魔法への探究心や理解力を心から信じているのだ。

 故に、サラの行使する初見の回復呪文も抵抗なく受け入れる事が出来ていた。

 

<ベホマラー>

術者の魔法力を対象者複数に行き渡らせ、その傷を癒す呪文である。言葉にすればとても簡単な物であるし、実際に、ルカニやルカナン、スカラやスクルトという単体呪文と複数呪文を使い分ける者にとっては容易いようにも感じる。だが、自身の手を翳す事無く、その患部を見る事無く、その者達の傷を癒すのである。単純に魔法力を纏わせるだけのスクルト等とは根本的な難易度が異なっているのだ。その為、古の賢者がその呪文につけた名は最上位回復呪文の物ではあるが、一人一人へ行き渡る効果はベホイミ並の物である。ベホマという単体へ向けると最上位の回復呪文を複数に向けて唱えていると考えると良いだろう。

 

「あの爆発呪文に対抗する事は難しいです。メルエはあの呪文を感じ取ったら、即座にマホカンタを唱えて下さい」

 

「…………ん…………」

 

 カミュ達の許へ戻りながら、メルエの手を引いたサラは彼女に指示を出して行く。

 それが灼熱呪文や氷結呪文であれば、如何に魔王の呪文とはいえどもサラとメルエの呪文で対抗する事は難しい話ではない。だが、魔王バラモスが行使した最上位の爆発呪文に対しては相殺する手段が無いのだ。

 故に、最も体力の少ないメルエには、魔法を完全に遮断する事が出来るマホカンタを行使させ、爆発呪文だけでも回避させようとする。一度の反射で消えてしまう光の壁であれば、その後に攻撃を受けた時に行使するサラの回復呪文までは反射しないだろう。そこまで考えてサラはメルエへと指示を出していた。

 

「この場所まで辿り着いただけはあるという事か……。だが、その奇跡もここまでだ」

 

 再び戦闘態勢に入ったカミュとリーシャが各々の武器を振るう前に、既に勇者一行が生きていた事への驚きから回復したバラモスの腕が振るわれる。贅肉に覆われた腕が一番前で立つカミュの身体を真横に弾き飛ばした。

 『魔王』という地位は、何も膨大な魔法力だけで得る事の出来る物ではない。魔法力に長けた魔物も、腕力に長けた魔物もその下へ置く為には、それ相応の力を示さなければならない。『人』とは異なり、血筋などよりもその力量に重きを置く魔族を統べるには、頂点に君臨するだけの力を誇る必要があるのだ。

 

「うおぉぉぉ!」

 

 吹き飛ばされたカミュの身体が地下室の壁に直撃した音を聞いたと同時に、二人の女性が異なる方角へと駆ける。一人は血液を吐き出して地面へと倒れる青年の許へ、もう一人は吹き飛んだ人間を見て不気味な笑みを浮かべる魔王の許へ。

 魔王の許へ駆け出した女性戦士の速度は、それに気付いた魔王が反応するよりも俊敏であり、その巨体を支える太い足へと手にした斧を振り抜いた。太古の魔の神が所有していたと云われるその斧は、正確に魔王の膝上に吸い込まれ、醜い身体を隠す余裕のある衣服と共に、浅黒い肉をも斬り裂いて行く。吹き出る体液は、この世の生物とは思えない程におぞましい色をしており、床に飛び散ったそれからは、溢れ出る瘴気が立ち上っていた。

 

「ぐぅぅ……人間風情がこの大魔王の身体に傷をつけるなど!」

 

 吹き飛ばされたカミュは駆け寄るサラを手で制して立ち上がっている。血液を吐き出しはしたが、自身の持つベホイミでどうにか出来る程度の物だったのだろう。即座に戦線に戻って来たカミュを見たサラは再びメルエの傍へと位置を取った。

 斧を振り抜いたリーシャは追撃を繰り出そうと斧を振り被るが、バラモスは傷を受けた方の足でそれを振り払う。攻撃の矛先を失ったリーシャは後方へと一度下がるが、その直後に発せられた魔王の怒りの咆哮に足を竦ませる。怯えた訳ではない。恐怖した訳でもない。それでもリーシャは『今、前へ出てはいけない』と本能的に察したのだ。

 

「カミュ様、リーシャさん、一度下がって!」

 

 後方で待つサラの叫びに、リーシャとカミュは後方へと飛ぶ。しかし、その行動途中にバラモスが先に動いた。

 大きく開かれた口から真っ赤に燃え上がる火炎が見えた瞬間、カミュ達の視界が真っ赤に染まる。同時に感じる凄まじい熱気に、カミュとリーシャは一斉に盾を掲げた。

 身体全てが解けてしまいそうな熱気が周囲を包み込み、地下の広間全てに広がった火炎が、カミュ達全てを飲み込んで行く。生物であれば誰しもが生を諦める程の熱量が周囲を覆う中、一人の少女を中心とした冷気が発生した。

 

「…………マ…マヒャド…………」

 

 未だに詠唱の準備が整っていなかったのだろう。これまでの魔物達とは異なり、魔王バラモスの攻撃動作は極めて短い。どのような攻撃が繰り出されるのか解らない事に加え、それが行使されてから対応策を取ろうとしても間に合わない程の速度で繰り出されるのだ。故に、先程のイオナズンや今回吐き出された激しい炎にメルエの対応が遅れた事を誰も責める事は出来ないだろう。

 むしろ、自身を覆う圧倒的な熱量の中にいるにも拘らず、最上位の氷結呪文を唱えたメルエを褒めるべきである。少女を中心に生まれた冷気は、圧倒的な炎を押し返すように広がって行き、蒸発を繰り返しながらも、カミュ達の周囲温度を一気に低下させて行く。

 

「ベホイミ」

 

「ベホイミ」

 

 自分達の周囲の温度が下がった瞬間、カミュとサラが回復呪文を同時に行使する。カミュは横にいるリーシャへ、サラは火傷を負ったメルエに対しての行使である。カミュやリーシャが持つドラゴンシールドは、龍種が放つ火炎や吹雪にも耐性を持つ盾ではあるが、ここまでの戦闘に加え、先程のイオナズンによって劣化が激しい。そこに魔王バラモスという魔物や魔族の頂点に位置する者の吐き出す炎を受けているのだ。

 リーシャの身体は大地の鎧で護られてはいるが、身体全てが護られている訳ではない。バラモスを睨みつける彼女の手は魔神の斧を離さずに握ってはいるが、その手を見ればとても物を握れる状態ではない。火傷によって皮膚は剥がれ、高熱に曝された武器を握る肉は真っ赤に焼け爛れていた。

 

「……カミュ、見ろ」

 

 そんなリーシャの回復をしていたカミュは、視線を動かそうともしない彼女の呟きに魔王バラモスへと視線を送る。そして、そこで今まで感じた事も無い程の絶望感を味わう事となった。メルエの回復を終えたサラもまた、その光景を見て言葉を失い、無意識に手を胸の前で合わせてしまう。

 

「……自然治癒」

 

「矮小な人間から受けた傷など、僅かな時間があれば塞がってしまうわ!」

 

 呆然と見つめるサラの視線の先は、先程リーシャが斧で斬り裂いたバラモスの膝上に残る傷がある筈だったのだが、その部分は体液が泡立つように噴き上がり、傷を塞いで行っていたのだ。斬り裂いた衣服は当然元には戻らない。だが、魔王バラモスの肉体は、戦闘開始前の状態へと戻って行った。

 カミュ達の傷は完全に塞がっていない。魔法力を温存する為にサラはベホマを使用しておらず、カミュもまたベホイミしか行使していない。だが、それでも彼等が保有している魔法力は確実に目減りしている。いくら『賢者』となり、魔法力の量が増えたサラといえども、魔王に拮抗する程の魔法力を有している訳でもなく、無尽蔵に引き出せる器が別にある訳ではない。

 このまま戦闘を続けて行けば、徐々に減って行く魔法力と、徐々に増えて行く傷を持つカミュ達に比べ、魔王バラモスの有利が崩れる事はないと言っても過言ではないだろう。それは、この場に挑んだ者達が持っていた自信と覚悟が強ければ強い程、与える絶望も大きな物となる程の事実であった。

 

「……別段、瞬時に傷が回復する訳ではなさそうだ。回復よりも与える攻撃を多くすれば良い。傷を受ければ癒さなければならないという事は、魔王であろうと死ぬという事だ。俺達のやる事に変わりは無い」

 

「……カミュ」

 

 リーシャでさえ半ば諦めに近い感情を持ってしまった状況にも拘らず、稲妻の剣を握り締めた青年だけは一人前を向く。確かにバラモスの身体は未だに体液が泡立ち、傷を覆っている。それは、大きな傷であれば、それを治癒する為にそれ相応の時間が必要である事を示していた。

 ならば、その傷が癒えぬ間に更に大きな傷を与えれば良いのである。そして、それは致命傷となる攻撃を繰り出せば、魔王であろうと『死』に至るという事を示す物でもあった。自然治癒という驚愕の事実に目が行っていたリーシャとサラは、その事実に気付いていなかったのだ。

 『魔王討伐』という使命に誰よりも興味を示さなかった青年が、誰よりもその成功を信じていた。それは、世界の最高位に立つ者達にとって何よりも心強い事実であり、何よりも喜びを感じる事実であったのだ。

 

「メルエ、俺とコイツの武器にバイキルトを! それに加え、全員にスクルト。アンタは回復に専念してくれ。攻撃呪文にそれ程効果はないかもしれないが、隙があればメルエに行使させてくれ!」

 

「はい!」

 

 剣を一振りした青年は、そのまま目の前のバラモスに向かって突進して行く。その指示に大きく頷いた少女が杖を一振りすると、彼の持つ稲妻の剣の輝きが変化して行った。続いて駆け出したリーシャの斧もメルエの魔法力を纏い、その輝きを強くする。

 この長い旅路の中で、メルエの魔法力の質も大きく変化していた。以前はその膨大な魔法力の量に頼る節が強く、細やかな調節が苦手であったのだが、船ごと運ぶルーラの行使や度重なるトラマナの行使などの経験を積み、その魔法力への細やかな対応が可能となって来ている。

 カミュやリーシャの武器に施されたバイキルトという補助呪文は、以前にヤマタノオロチ戦で使用した物とは雲泥の差があり、一切の歪みを生じさせずに武器を覆っていた。

 

「愚かな人間が!」

 

 迫って来るカミュを見たバラモスはその腕を突き出し、まるで照準を合わせるかのように指先をカミュへと向ける。しかし、そんなバラモスの攻撃が繰り出される前に、囮となったカミュの後方から再び魔神の斧が薙ぎ払われた。

 先程とは異なり、人類最高位に立つ魔法使いの魔法力を纏った斧は、バラモスの太腿を深々と抉り、その態勢を崩す。贅肉に覆われた体躯を支える事が出来なくなったバラモスは盛大に膝を着き、カミュへと向けていた指先の照準を離してしまった。

 苦痛と不快で歪んだバラモスの表情は、迫る稲妻の剣の輝きを見て驚愕の物へと変わって行く。全ての魔物の頂点に立つ魔王バラモスにとって、自身に歯向かって来る相手など久方ぶりであり、更に言えば、複数での連携攻撃が可能な者達など初めて対峙したのだろう。

 愚かで矮小なる人間ならば、自分の身体に触れる前に吹き飛ばす事も、消し炭にする事も出来るという自信がバラモスにはあった。彼に逆らおうとした者達の数は少ないが、それでもその者達は魔王バラモスという強大な存在の前に立つ程の力を有していたのである。だが、それだけの力を有した者達であっても魔王バラモスに傷を付ける事は出来ず、その身体に触れる事さえ出来ずに生を手放して来たのだ。

 魔王バラモスが脅威と感じている唯一の人間である、古の賢者でさえもこの魔王バラモスの身体に何度も傷を付ける事は出来ていない。それだけの力を持った者が魔王バラモスという存在であり、この世界の脅威として君臨する存在なのだ。

 

「おりゃぁぁぁ!」

 

 渾身の雄叫びと共に振り下ろされた稲妻の剣がその鋭い刃をバラモスの肩口を斬り裂いた。バラモスの体格は、ボストロールやトロルのような巨人族程の物ではないが、それでもカミュやリーシャに比べて頭二つ以上に抜き出た体躯を持っている。

 足を斬り裂かれ、態勢を崩していなければ、カミュの剣は間違いなく届かなかっただろう。だが、人類最高位の戦士の援護を受ける事によって、今まで誰も届かなかった高みへ神代の剣が吸い込まれていったのだ。

 それは、まさしく人類の起こした奇跡だろう。

 

「メルエ、来ますよ!」

 

「…………ん………メラミ…………」

 

 自身の身体に傷を付けられ、絶対の自信を崩された事で、魔王としての誇りと共に憤怒の表情へと変わって行く。傷口が泡立ちながら治癒していく中、立ち上がったバラモスが再び指先をカミュへと向けたのを見て、サラがメルエへ指示を飛ばした。

 杖を振り上げたメルエが詠唱を完成させ、杖先から巨大な火球が飛び出して行く。真っ直ぐにバラモスの掲げる指先に向かって火球が飛んで行き、それはバラモスの行動を制したように思われた。

 しかし、相手は魔族の頂点に立つ『王』である。その力は、人間の遥か上にあり、『人』という種族の想像力をも遥かに凌ぐ程の物であった。

 

「メラゾーマ!」

 

 その詠唱の言葉は、カミュ達が今まで聞いた事のない物。バラモスの醜い指先に巨大な魔法陣が浮かび上がる。魔法陣に描かれた文字さえもはっきりと視認出来る程に鮮明なそれは、幼い少女の頭に強烈に焼き付いて行った。

 魔法陣の中心から飛び出した物は、カミュの体躯全てを飲み込むほどに巨大な火球であり、その熱量を現すように、周囲の空気が歪んでいる。その歪みを認識するかしないかの段階で、その火球はメルエの火球に衝突し、その全てを飲み込んでいった。

 メルエという人類が放つ火球とはいえ、一度は魔族のメラミさえも飲み込んだ程の威力を誇る呪文である。その火球がまるで路傍の石に見えてしまう程の圧倒的な熱量と体積に、カミュはその場を一歩も動く事は出来なかった。

 

「マ、マホカンタ!」

 

 呆然としていたのはカミュだけではない。魔王の放つ圧倒的な熱量にリーシャやメルエも何も行動出来ずに固まってしまっていたのだ。

 それでも『賢者』だけは動き出す。稀代の魔法使いであるメルエの火球を飲み込む時間を利用し、サラはその火球の矢面に立っていたカミュへ光の壁を生み出した。どのような効果のある呪文であろうと、どれ程に強力な呪文であろうとも、全てを弾き返す光の壁がカミュを包み込み、迫り来る圧倒的な火球を待ち構える。

 メルエが生み出した火球全てを飲み込んだそれは、速度と威力を増して光の壁に衝突。全てを弾き返す光の壁さえも軋む程の衝撃を残し、巨大な火球は地下室の天井へ辛うじて弾き返された。先程のイオナズンによって脆くなっていた天井から大きな岩が降り注ぎ、カミュ達とバラモスの間に壁を作り出す。

 泉の中央から下部へと潜った地下室ではあったが、そこまでの階段はかなりの距離があった。かなり深く掘り下げて造られた地下室なのだろう。あれ程に天井を崩壊されたにも拘らず、天井部分から水が漏れて来る事はなかった。

 

「カミュ、気を抜くな!」

 

 確実に全てを飲み込むであろうと思われた火球が目の前で弾き返され、間近に迫っていた命の危機を乗り越えたカミュは、自分と魔王を遮る岩壁が出来上がった事によって、僅かに力を抜いてしまう。しかし、どれ程僅かな時間であろうと、どれ程に些細な瞬間であろうと、世界の恐怖の全てである『魔王バラモス』の前で気を緩める事は命取りとなるのだ。

 カミュの僅かな気の緩みに気付いたリーシャはそれを咎める叫びを上げるが、僅かに遅かった。自分の失態に我に返ったカミュが前方へ視線を向けた瞬間、目の前にあった筈の岩壁は破壊され、そこからは大きく鋭い三本の指先が突き抜けて来ていたのだ。

 

「ぐっ」

 

 ドラゴンシールドは間に合わない。掲げるよりも早くに滑り込んだ三本の指先は、鎧に覆われていないカミュの腕から足先までに掛けて振り下ろされた。指先に光る爪は龍種のように鋭く、カミュの腕の肉をこそげ落として行く。刃の鎧で護られた部分には爪は刺さらず、まるで弾き返すように刃を生み出してバラモスの指先へ傷を付けるが、それよりも深い傷跡をバラモスはカミュの身体に残して行った。

 崩れるカミュの身体から大量の血液が溢れ出し、床下を真っ赤に染め上げて行く。尚も追撃を仕掛けようとするバラモスの腕を魔神の斧の一振りで遮ったリーシャは、倒れたカミュを護るようにその前に立ち、回復役であるサラの到着を待った。

 

「ならば、諸共焼け死ね!」

 

「…………マヒャド…………」

 

 自身の物理攻撃を何度となく防ぐリーシャに苛立ちを覚えたバラモスは、再び大きくその口を開け、真っ赤に燃え上がる火炎を吐き出す。先程の火球ほどの熱量はないまでも、人間数人を焼き尽くす程度の威力は有しており、倒れ伏すカミュが流す血液さえも即座に蒸発する程の熱気が周囲を覆って行った。

 しかし、その熱は再び振り下ろされた少女の杖から噴き出した圧倒的な冷気によって打ち消される。例え激しい炎であっても、その行動機会さえ失わなければ、メルエの放つ最上位の氷結呪文が負ける道理はない。吹き荒れるブリザードが火炎を巻き込んで気化して行き、周囲を真っ白に染め上げて行った。

 

「ベホマ!」

 

 その間にカミュの許へと辿り着いたサラは、即座に最上位の回復呪文を詠唱する。カミュの身体全体を覆い尽くす緑色の光が、深々と抉られた傷を癒して行く。最早、この戦闘に限って言えば、ベホイミ級の回復呪文では傷を完全に癒す事など出来なかった。それ程に魔王バラモスの力は圧倒的であり、全ての攻撃が致命傷になりかねない物であったのだ。

 回復を終え、立ち上がったカミュがリーシャの横に並ぶ。同時に晴れた視界の先に見えるバラモスがカミュ達全員を忌々しげに睨み付けていた。

 カミュ達の傷は癒えている。だが、その代償として、サラやメルエの魔法力は大きく減少しているだろう。特にここまででサラの回復呪文の詠唱間隔は相当に短くなっていた。魔王バラモスの攻撃が想像以上の物であると同時に、勇者一行全員に効果を及ぼす攻撃方法が多い事が最大の原因であろう。

 対するバラモスの身体にある傷は、半分程の治癒が終わっている。いや、正確に言えば、半分程しか終わってはいないのだ。体液を泡立てるようにして傷を癒していたバラモスではあるが、それは攻撃と同時進行で行える物ではないらしい。彼が攻撃の手を休めた時や、一つの攻撃を終えた時に治癒が始まっていた。つまり、攻撃の手を緩めなければ、その治癒の速度を遅らせる事は可能であるという事になる。

 

「バイキルトの効力は続いているな?」

 

「……ああ」

 

 カミュの方へ視線も向けずに問い掛けるリーシャに対し、彼は小さく頷きを返す。稲妻の剣を覆う魔法力にも、魔神の斧を覆う魔法力にも揺らぎはない。後方で厳しく眉を顰めながら杖を持つ少女が立っている限り、その魔法力が霧散する事などないのだろう。

 前衛の二人へ魔王の攻撃が集中する限り、後方のメルエへの被害は軽減する筈である。幼いとはいえども、彼女も立派な勇者一行なのだ。この場に立つ事の意味に気付いていない訳でもなく、そこに伴う危険性を理解出来ない程に愚かでもない。だが、それでもこの前衛二人にとっては、護らなければならない存在なのであった。

 

「来るぞ!」

 

 自分の身体の治癒を後回しにしたバラモスは、その腕を大きく振り上げる。振り上げた掌に一気に掌握されて行く空気は、高濃度に圧縮されて行った。

 それだけの行動で次に何を行うつもりなのかを理解したカミュとリーシャは、攻撃に移るよりも防御の体制に入ってしまう。だが、彼等が護るべき者と考えていた少女だけは、その圧倒的な魔法力に立ち向かうべく、雷の杖を大きく振るった。

 

「…………イオラ………マホカンタ…………」

 

 矢継ぎ早に二つの詠唱を行った少女の行動は、この世の常識では考えられないものである。二つの呪文を同時に詠唱する事など不可能に近い。魔法陣での契約を行う魔法使いや僧侶は、その契約に使った魔法陣を使用する事で呪文を行使するのだ。それが描かなければならないのか、頭の中で描くのかという些細な違いはある物の、攻撃呪文の同時行使などは、難度が高いという物ではなく実質不可能に近かった。

 しかし、右腕に持つ雷の杖を振るう事でバラモスの顔面部分に大きな爆発を生み出した彼女は、左腕を直に振るう事で、前方のカミュに再び光の壁を生み出している。実際、『賢者』であるサラが、二つの呪文を同時に行使するという離れ業を行ってはいるが、あれは魔法力に対して誰よりも探求している彼女だからこそ可能な事なのだろう。

 

「…………メラミ………マホカンタ…………」

 

 イオナズンという最大爆発呪文を行使するための準備を始めていたバラモスではあったが、下位の呪文であるという利点を生かした行使速度で放たれたイオラによって、圧縮し始めた空気の一部が霧散していく事に苛立ちの舌打ちを打つ。実際のダメージというのは皆無に近いのだろう。ヤマタノオロチの頭部を吹き飛ばし、ボストロールの巨体を吹き飛ばしたメルエのイオラではあるが、この魔族の頂点に立つ『王』に対しては、効果を示す事が出来ていなかったのだ。

 それでも、メルエの意図はバラモスを傷つける事ではない。彼女の目的は唯一つ。それは彼女が大事に思う者達の身を護る為の呪文の行使時間を得る事であり、彼女の全てはその一時の為に使われていた。

 

「メルエ、バラモスの攻撃が呪文でなかった場合、回復呪文も弾いてしまいます。最悪の場合、自分だけに行使しなさい」

 

「…………むぅ…………」

 

 続いてサラへ同じように光の壁を生み出そうとしたメルエの杖を、対象者である賢者が手で下ろす。確かに、バラモス自体が魔法を反射する光の壁に気付いていたとすれば、呪文以外の攻撃手段に変える可能性がある。その場合、身体的な傷に関しての回復手段がなくなるという結果になってしまうのだ。

 マホカンタという光の壁は、それがどのような効果の呪文であろうと、誰が行使した呪文であろうと、全てを弾き返してしまう。他者を想い、その傷を癒す為に行使した回復呪文であっても、その全てを弾き返してしまう為、魔法力の無駄使いになるのだ。

 

「メルエが行使した呪文に気付いてはいないようですね。メルエ、自分にマホカンタを……私は自分で行使しますから」

 

「…………ん…………」

 

 しかし、サラが見る限り、バラモスがマホカンタの行使に気付いた様子はない。故にバラモスは先程と同じ行動をし始めたのだ。掌に向かって高速に圧縮される空気がこれから起こり得る事象を明確に物語っている。通常の『人』という種族の魔法使いや僧侶であれば、対処する事の出来ない速度であっても、サラとメルエという稀代の呪文使い達であれば可能であった。

 即座に自分へ光の壁を生み出したサラは、前方で警戒するカミュ達に向かって大きく頷いてみせる。それは準備が整った事の報告と、カミュ達の行動を後押しする自信の表れであった。

 呪文行使に突き進む魔王バラモスへ駆け出したカミュの手にはしっかりと稲妻の剣が握り込まれており、その横を駆けるリーシャは両手で魔神の斧を握り締めている。カミュやリーシャには、メルエがマホカンタを行使した姿が見えていない。元来の呟くような詠唱に加え、その直前に行使した攻撃呪文が目に入っている為、自分達を包む透明な光の壁が見えてはいないのだ。

 だが、それでも彼等がサラという賢者を疑う事はない。彼女があれだけ自信に満ちた顔で頷きを見せる事は少ない。その数少ない自信が裏目に出る事は、更に限られて来るのだ。しかも、目の前に立ちはだかる魔王の力は、ここまでの僅かな戦闘で明確になっており、少しでも狂った判断をした場合、その者達の『死』という現実が待っている事も明白である。それでも尚、サラが頷きをみせた。それだけでも、彼等二人が全精力を掛けて魔王に向かう価値があるのだろう。

 

「イオナズン!」

 

 魔王バラモスの左腕が振るわれる。それと同時に、息苦しく感じる程に圧縮された空気が弾けた。耳を劈き、地面を揺らす爆発音が響き渡り、カミュ達の視界を真っ白に染め上げて行く。だが、その爆風と熱風は、カミュ達の方向ではなく、行使者であるバラモスの許へと向かって行った。

 凄まじい速さで弾き返された爆風は、魔王の巨体をも仰け反らせ、その熱風は魔王の纏うマントを焦がして行く。それでもその身体には一切の傷を与えない。まるで攻撃呪文の効力がないかのように立つバラモスの浅黒い皮膚には焦げ一つ見る事が出来なかった。

 

「おりゃぁぁぁ!」

 

 反射されたイオナズンは、元々魔王バラモスの行使した呪文である。しかし、爆風を受けて忌々しそうに細めた瞳に映ったそれは、人類最高位の攻撃力を持つ『戦士』の一振りであった。

 煌く刃の一閃は、それを繰り出す者が発する気合の声をも超えた鋭さを誇り、放り出されていたバラモスの左腕に斬り込んだ。容易く斬れる筈のないその肉は、魔の神が愛した斧の刃を受け入れ、地面へと落ちて行く。三本の指を持つ魔王の腕は、肘先から斬り落とされた。

 人類最高位に立つ戦士の最高の一撃。

 それは、矮小な人類であっても、魔の王に対抗する力がある事を高らかに示す。彼等が歩んで来た道程と、彼等が培って来た経験が花開いた瞬間であった。

 

「カミュ!」

 

 魔王の腕を斬り飛ばした女性戦士は、後方から掛けて来る勇者の為に屈み込む。屈み込まれた女性の肩に足を掛けた青年は、そのまま肩を蹴り出して跳躍する。肘先を失ったバラモスがその痛みに顔を歪めている間に、重力に従って落ちる力を利用した一振りが肩口へと吸い込まれて行った。

 しかし、肉を深々と斬り裂く感触と噴き出す体液の音を聞いた頃には、カミュの身体は真横へと吹き飛ばされ、地下室の壁に直撃する事となる。肩口に斬り込まれた剣が抜ける瞬間に、バラモスの片腕がカミュの身体を捕らえていたのだ。渾身の力を込めて薙ぎ払われた腕は、鞭のようにしなやかでありながらも、金槌のような破壊力を持っていた。

 地下室全体が揺れる程の衝撃を残したカミュは、そのまま床へと崩れ落ちる。慌てて駆け寄ろうとするサラの目の前には、巨大な足が踏み出されていた。魔王バラモスという存在はその強大な力だけで魔王の位置にいる訳ではない。僅かな戦闘であっても、誰がこの一行の要となっているのかなど判断出来る頭脳を持ち合わせているのだ。

 攻撃の中心は剣や斧を持った前衛二人である事は見て解る。その為、バラモスの攻撃は鬱陶しい蝿を払うように、前衛二人に向けられていたのだが、致命傷とも思える傷を負わせても立ち上がる彼等を見て、それを可能とさせている者が誰であるかを把握していた。

 

「手始めにお前からだ!」

 

 ここまでの戦闘では、回復役が誰であるかを理解してはいても、その者を攻撃する事が叶わなかったのである。回復役というのは、戦闘を主とする一行の中で要となる。その者を失えば、ほぼ間違いなくその一行は全滅の道を辿るだろう。それをこの一行は誰よりも知っていたのだ。

 故に、ここまでの戦闘の中でも意図的にサラという賢者が前へ出て来なければ、彼女が傷つく事はなかった筈である。そういう布陣を敷いていたし、前衛二人が後衛の二人へ敵の攻撃が向かわないように動いて来ていた。

 今、その最強の布陣が崩れている。しかし、それは初めての事ではなく、ここまでの戦闘でも何度かあった事であった。ヤマタノオロチと死闘を繰り広げた時も、ボストロールと大きな戦闘を行った時も、その隙は必ず生じていたのだ。

 その中で、何故サラやメルエが無事であったかと問われれば、それはカミュ達と敵との力量の差が僅差であった事と、その敵となる魔物自体が人間を侮り、そのような分析をする必要性を持ち合わせていなかった事であろう。

 しかし、今カミュ達が対峙しているのは、あらゆる魔族や魔物の頂点に立つ『魔王』なのである。

 

「…………スカラ…………」

 

 バラモスは敢えて呪文の行使を行わなかった。

 肘先を失った方の腕ではなく、もう片方の腕を振り上げたバラモスは、握り拳を真っ直ぐに振り下ろす。空気を震わす程の唸りを上げて振り下ろされる拳を見た少女は、自分の大事な姉のような存在に向かって杖を振るった。

 魔法力の鎧を纏わせるように輝いたサラの身体ではあるが、魔王の攻撃をまともに受けて無事である保証はない。直接戦闘に特化したカミュやリーシャであれば、並みの攻撃では微動だにしない程の強靭な肉体を所有してはいるのだが、呪文使いの色が強いサラはその限りではない。

 誤解の無いように言っておけば、サラという賢者も人類の頂点に立つ程の存在である。呪文使いとしての色が濃い彼女ではあるが、人類最高位の戦士の手解きを受け、魔物の中でも最上位に位置するであろうネクロゴンドの魔物達を斬り伏せて来たのだ。その剣技も体力も、そして肉体も、並みの人間からすれば、遥か高みにいる存在である事に間違いはない。

 それでも尚、容易く粉砕出来るのが、『魔王バラモス』なのだ。

 

「……ア、アストロン」

 

 駆け出したリーシャの斧は間に合わない。

 人類最高位に立つ『魔法使い』の呪文でも防ぎ切れない。

 その威圧感とその恐怖で足を竦ませてしまったサラに対抗手段はない。

 だが、唯一人、それでも諦めず、そしてその絶望的な状況を覆す事の出来る存在がいた。

 この世界の『勇者』であり、ここまで来た一行全員にとっての『勇者』である。

 

「この死に損ないが!」

 

 光に包まれたサラは、魔王の拳が届くよりも一瞬速くその身を鉄へと変えて行く。何物も受け付ける事のないその鉄は、魔族の頂点に立つ者の拳さえも弾き返した。

 己の攻撃力で拳を痛める程脆弱ではないバラモスは一瞬唖然とした表情を浮かべ、鉄色に変わったサラを眺める。そして、自分の攻撃が何の意味も成さなかった事を理解すると、それを行ったであろう者を憎々しげに睨みつけ、生きる物ならば例外なく萎縮する程の巨大な咆哮を上げた。

 その視線の先には、辛うじて立ち上がり、自分の身体に向かって淡い緑色の光を放っている青年の姿がある。彼は、凄まじい力で吹き飛ばされ、硬い岩壁に激突した事によって受けた傷の回復よりも、仲間の危機回避を優先させていたのだ。

 

「バシルーラ!」

 

 回復を終えたカミュが皆の許へと戻ろうと駆け出した瞬間、怒りに燃えたバラモスが腕を振るう。強く抵抗出来ない程の力がカミュを襲い、そのまま弾き返されるように先程の岩壁に叩き付けられた。

 回復役が重要な立ち位置にある事は誰しもが知る事柄である。だが、この一行の場合、再び一行との合流を妨げられた青年が全てを握ると言っても過言ではないだろう。皆を奮い立たせる勇気を、皆の絶望を振り払う希望を、そして絶対的な自信を与える安心感を、彼は三人の女性に与え続けて来たのだ。

 魔王バラモスは、その事に気付いていた。いや、正確に言えば、本能的に恐れていたのかもしれない。

 

「…………カミュ…………」

 

 バラモスは世界の情勢に疎い訳ではない。常にこの世の生物達の間で交わされる噂などを耳に入れていた。『勇者』と呼ばれる人類の希望が自分を倒す為に旅を始めたという話は、数十年前から何度も耳にしている。しかし、そんな噂を耳にしても、矮小な人間が何を言っているのかと嘲笑ってさえいた。

 事実、この数十年の間に、自分の許に辿り着いた人間など皆無に等しい。たった二人だけが十数年前に顔を出したが、その者達など脅威にすらならなかった。人類の歴史だけではなく、魔族の歴史の中にも名前を挙げる『賢者』という存在であっても、魔王バラモスに傷一つ付ける事は出来なかったのだ。

 バラモスは、その悲願の為にこの場所を動く事は出来ない。だが、それであっても、既に彼が恐れるような者はおらず、彼の悲願を妨げる者など何処にもいない筈であった。

 絶対的な強者である魔王のそんな考えを、根底から揺るがしかねない者が、今視界の端で苦悶の表情を浮かべている青年である。先頭に立って現れた時、『勇者を名乗ろうとも、所詮は人間』と考えていたが、今バラモスの身体を覆う泡立つ体液が、彼等が並みの人間ではない事を示していた。

 そして、その者達を率いていたのが、あの青年であったのだ。

 

「今度こそ、屍を曝してやろう!」

 

 動けないカミュを尻目に、鉄化が解け始めたサラに向かって拳を握り締めたバラモスは、その拳を横薙ぎに振るう。上部から殴り潰すのではなく、側部から身体の内部を破壊しようと考えたのだ。

 即死という形ではなく、修復不可能な程の傷を負わせ、深い絶望感に落とし入れようと考えての行動なのかもしれないが、それは悪手であった。

 鉄化が解けた事で意識を戻したサラは、迫り来る拳の出現に驚いてはいたが、慌てふためく事もなく冷静にその拳を見つめる。それは、その拳を防いだ後、自分が何を成すべきなのかを考える為であり、何を成せば魔王に届くのかを吟味する為でもあった。

 圧倒的な力を持つ魔王の拳を前にしても、彼女が冷静でいられる訳。それは、バラモスさえも気付いていない、この一行の共通の認識である一つの事柄にある。

 

「ふぅ……余り、私達を侮るなよ」

 

 この一行の『要』となる存在は、カミュでもサラでもない。それは、世界を救うと云われる『勇者』自身も、人類を救うと云われる『賢者』自身も認める事柄であった。

 一行の中で誰よりも人間らしく、誰よりも『人』としての心を残す者。

 女性という事で受けた屈辱を晴らそうと必死になりながらも、女性である事に誇りさえも持つ者であり、そして、今や人類という枠ではなく、この世で生きる生物の中で頂を見る事が可能な程の力量を有しながらも、『人』として世界を見つめる事の出来る瞳を持つ者でもある。

 その者の持つ盾が、魔族の頂点に立つ『王』の拳を防ぎ、その衝撃を受けて尚、彼女の身体は吹き飛ばされる事はなかった。

 

「カミュ! 自力で戻って来い!」

 

「……ちっ」

 

 何とか立ち上がり、再び自分の身体に回復呪文を掛ける勇者に向かって、厳しい一言を放つ女性戦士を見て、サラは苦笑を浮かべる。小さな舌打ちが、地下室全体に響き渡ったのではないかと思う程、場違いな空気がこの場所を支配した。

 魔の神が愛した斧の柄を地面に付けて仁王立ちするリーシャの放つ気が、魔の王さえも怯ませる。後方にいるメルエは、ようやく訪れた一時の安堵の時間に頬を緩め、サラの傍に駆け寄って行った。サラもまた、その後の行動を考えながらも、自分の前に立つ女性戦士の大きな背中を見上げて一つ息を吐き出している。

 このような最終局面の場所で、そしてこのような緊迫した場面で尚、仲間達を気負わせるのではなく、いつもの力を発揮させる空気を生み出す事は、カミュにもサラにも出来はしない。それは、この四年以上に渡る長い旅路の中で、生まれも育ちも価値観さえも異なる者達を繋ぎ止めて来た『鎖』となる存在にしか成しえない事であるのだ。

 

「さぁ、もう一踏ん張りだ」

 

「はい!」

 

「…………ん…………」

 

 魔王バラモスという存在は、確かに世界を恐怖に陥れるだけの力を有した存在であった。

 だが、それは決して手の届かない物ではない。人間である『勇者』や『戦士』の攻撃で傷つき、『賢者』や『魔法使い』の唱える呪文によって、攻撃を防ぐ事も出来る。

 魔王台頭から長い年月が経過する中、それを知る者は未だに誰一人としていなかった。恐怖の対象であり、絶対的な力の象徴でもあったからだ。

 今、その象徴に挑む者達が四人。その手は、確かに届き掛けていた。

 魔王という絶対的な存在に。

 そして、その先にある未来へと。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
バラモス戦はもう少し掛かります。

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