新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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魔王バラモス③

 

 

 

 傷が塞がって行くバラモスを前にしても、カミュ達四人は行動に移せない。それは、苛立たしげに鋭い視線を送るバラモスの威圧感が、戦闘開始時よりも更に増していたからだ。

 確かに魔の王であろうと、人間の攻撃によって傷つき、その傷が深ければ命を落とす事は証明出来た。そして、カミュ達の力であればそれが可能である事も理解出来たし、ここまで来た経験と実績が通用する事も証明して見せている。

 だが、それでも、そこまで来て尚、魔王バラモスの存在は圧倒的な物であったのだ。

 傷を与える事は出来る。

 簡単に殺されるつもりもない。

 だが、魔王バラモスを倒し、勝利する光景も見えない。

 流れ落ちる汗は、決してこの場所の気温の変化ではないだろう。ようやく合流を果たしたカミュの表情にも、先程味方を鼓舞したリーシャの表情にも余裕の欠片もなかった。

 

「ふはははははっ。このバラモスと相対する資格のある者達である事は認めよう。だが、それだけだ」

 

 身動きが出来ないカミュ達を一通り見渡したバラモスは、先程までの不愉快そうな表情を変化させ、大きな高笑いを発する。バラモスの身体にある傷は未だに癒されていない。その癒しの力の全てをある一点に集中させたかのように、その治癒活動を止めていた。

 カミュ達の力を認めているにも拘わらず、その傲慢な発言に陰りは見えない。そして、それだけの自信を裏付けるように、バラモスが持ち上げた一本の腕に変化が起こった。

 リーシャが渾身の力を込めて斬り落とした腕が、再生し始める。体内から新たに出現した新しい腕は、粘膜と体液に包まれながらも、しっかりとした動きを見せていた。

 その異常な程の光景を一行は唖然と見つめる事しか出来ない。どれ程に強力な回復呪文を詠唱したとしても、身体の欠損部分の再生というのは不可能であると云われていた。それは世界全土の全ての種族共通の事柄である。だが、目の前の魔の王は、そのような事を然も当然の事のように容易く成し遂げてしまったのだ。

 

「…………て……でた…………」

 

「……流石に、ここまでの絶望感を味わったのは初めてだ」

 

 雷の杖を手にしたメルエが、巨大な魔王の姿を見上げながら小さな呟きを漏らす。その呟きは本当に小さな物だったにも拘わらず、一行全員の耳に浸透していて行った。

 眉を厳しく顰めてその光景を眺め、珍しい言葉を呟いたカミュをリーシャとサラは対称的な表情を浮かべる。サラは、久しく見た事のない本当に絶望の淵に落とされたようなくらい表情を。そして、リーシャは薄い笑みを含めた、心からの喜びを示す表情を。

 二人の対称的な表情を不思議そうに見上げたメルエの視線に気付いたサラは、自分とは真逆の表情を浮かべるリーシャを不審に思う。何故、この状況で笑えるのかと。

 

「お前も希望を持っていたのだな……。大丈夫だ……腕が再生しようと、傷が回復しようと、私達のすべき事に変わりはない。私は、お前を信じているぞ」

 

「…………メルエも………だいじょうぶ…………」

 

 笑みを浮かべたリーシャの言葉に、サラは虚を突かれたように驚愕を表す。目を見開いたまま視線を動かした先には、不愉快そうに顔を顰めたカミュの姿。

 『勇者カミュ』という存在は、全世界の希望としてアリアハンから送り出された者である。世界で生きる全ての者達の希望を一身に背負って歩む者であり、それは自身の願いや想いを押さえ込み、消し去らなければ背負えない程に重い物であった。

 『賢者』となり、象徴としての道を歩み始めたサラだからこそ、カミュが背負う物の大きさと重さを理解していたつもりである。サラとて、『人』の頂点に立つと云われる賢者となり、同じような重責を担う者となったのだ。その重責は、とてもではないがサラ一人で背負える物ではない。先駆者であるカミュがいたからこそ、彼女はその重荷を背負う覚悟を持てたと言っても過言ではないだろう。

 自分の感情のみで動いてはいけない。自分の考え全てが正しいと思ってはいけない。数多くある制約の中で、何処が最善の道なのかを模索しながら歩む事は本当に難しい。サラは未だに未熟な為、多分に感情を入れ込んでしまう事もあったが、サラから見たカミュという『勇者』は、その制約を遵守しているように見えていたのだ。

 希望を持たなければ、絶望感など感じはしない。自分の生にさえ執着を持たず、アリアハンを出た頃から変わらず、全てに諦めているようなカミュが絶望感を口にした。それがどれ程に驚くべき言葉なのかを知っていたのは、やはりこの一行の要となる女性戦士であったのだ。

 

「わ、私も、カミュ様が『勇者』様であると強く信じています! 私をここまで導いて下さりました。私に新しい道を見せて下さいました。カミュ様とリーシャさんと、メルエがいたからこそ、私は今、この場所に立っているのだと知っています」

 

「……ちっ」

 

 サラの言葉は、宣言のように地下室に響き渡る。その言葉の内容に誰よりも優しく、何よりも暖かな笑みを浮かべたリーシャは、不愉快そうに舌打ちを鳴らすカミュの肩に手を置いた。

 魔王の傷は癒えつつある。その中でこのようなやり取りを続ける事は愚行以外の何物でもないだろう。それでもリーシャは自分の胸に湧き上がる喜びを押さえる事は出来なかった。

 カミュが希望を持っていた事、サラがカミュを心から信じている事、メルエが自分の力を制御し管理出来ている事。その全てが、この旅をカミュと共に始めた彼女にとって歓喜の雄叫びを上げたい程の喜びに満ちた出来事であったのだ。

 

「祈りの指輪は着けているな? この戦いで魔法力切れは言い訳にならない。自分の魔法力の残力を確認しながら行使しろ。もし危ういと感じたら、即座にルビスに祈れ。応えてくれるかどうかは知らないが、何もしないよりは良いだろう」

 

「……ふふ。ルビス様は、いつでも私達を見守って下さっています」

 

「メルエも頼むぞ?」

 

「…………ん…………」

 

 未だに眉を顰めたままのカミュの指示に対し、サラは小さく笑みを浮かべながら、その言葉の一節を窘める。そんなやり取りを見ながら、リーシャはメルエにも彼の指示を実践するように言い付けた。

 戦闘の再開の準備は整った。魔王バラモスに比べ、カミュ達一行の体力や魔法力に余裕はない。回復呪文や補助呪文を連続で行使して来たサラの魔法力は半分近くに減っていても可笑しくはなく、強力な攻撃呪文で魔王の攻撃を防いで来たメルエもまた同様である。

 それでも、カミュの言葉通り、彼等が倒れ伏す言い訳にはならない。彼等はこの場所に来るまでに、多くの者達の心にある希望を託されて来ている。『人』に対し、世界に対し、諦めしか持っていなかった青年の胸に『希望』という光を生み出す程の者達から託された想いは、簡単に諦めを受け入れる事を許しはしないのだ。

 

「人間どもよ、滅びるが良い!」

 

 再び最強の布陣を敷いたカミュ達は、凶悪な宣言と共に振り下ろされたバラモスの拳を掻い潜る。しかし、掻い潜った筈の腕の横合いから、もう一方の拳が唸り上げ、リーシャの身体に直撃した。

 真横に吹き飛ばされた彼女は、地下室を支える柱の一つに打ち付けられ、床に崩れ落ちる。余程の力で叩き付けられたのか、柱には大きな亀裂が入り、天井からは巨大な岩が落ちて来た。

 

「…………イオ…………」

 

 リーシャの身体を押し潰しかねない程の巨大な岩が空中で激しく弾け、細かな石粒となって地面へと降り注ぐ。雷の杖を振るったメルエが、天井から崩れ落ちる巨大な岩に向かって、最下位の爆発呪文を詠唱したのだ。

 メルエという少女の視野は、魔法という神秘を覚えたばかりの頃に比べて、圧倒的に広くなっている。それは、彼女が姉のように慕うサラの教えの賜物であろう。

 『メルエの力は、相手を滅する物ではなく、全てを護る物』という言葉は、幼い魔法使いの心の成長と共に、戦闘における視野をも広くさせていた。

 

「メラゾーマ」

 

 間髪入れずに唱えられた最上位の火球呪文が倒れ付すリーシャを襲う。その距離は短く、サラやメルエの放つマホカンタの詠唱は間に合わない。朦朧とする意識の中、リーシャは自分の身体に迫る圧倒的な熱量を感じ、顔を上げた。

 全てを飲み込む程の火球は、橙色に発光しながらもリーシャの肌を焦がして行く。余りにも強大な火球の為、その速度は遅く、間一髪で我に返った彼女は、その場を飛び退くように離れた。しかし、余波だけでも相当な熱量を誇る火球である。その肌は黒く焦げ、ところどころ焼け爛れたように肉を露にしていた。

 巨大な火球は柱一本を容易く飲み込み、その全てを消滅させて行く。天井に繋がっている一部が残っている事だけが、そこに柱があったという事を物語っていた。

 

「ベホイミ」

 

「すまない……あの火球だけは、受け止める訳にもいかなそうだ」

 

 即座にリーシャに駆け寄ったサラが焼け爛れたリーシャの肌を癒して行く。余波だけでもこれだけの火傷を負う火球である。まともに受け止めようとしたならば、盾どころかその身体全てを消滅させる可能性さえもあるだろう。

 今は、最上位の火球呪文を行使した隙を突いたカミュの剣がバラモスの右腕に食い込み、派手におぞましい色をした体液を噴き出させている。受けた傷の痛みと、鬱陶しく駆け回るカミュの姿に顔を顰めたバラモスは、再び何らかの呪文詠唱の準備に入った。

 魔の王の周囲に尋常ではない程の魔法力が収束されて行く。それは、再び最上位の呪文が行使される事を示していた。しかし、今のサラは全精力を傾けてリーシャの回復を急いでいる。最上位の火球呪文の余波は、それだけの傷跡を残していたのだ。

 

「…………マホトラ…………」

 

 残った呪文使いは、『経典』の呪文は使えない。そして、全ての呪文を弾き返す光の壁を一行全員に作り出すには時間が足りない。だが、この幼い呪文使いは、そのような絶望的な状況の中でも自分に何が出来るのかを考え、その中で最善の方法を取捨選択するだけの経験と知識を育んで来ていた。

 バラモスの腕に集まり掛けていた魔法力が霧散し、その一部がメルエの身体に取り込まれて行く。相手の魔法力の一部を奪い、自身の魔法力へと変換する呪文。それは、魔王バラモスという圧倒的な存在の持つ魔法力にさえ効力を発揮した。

 魔法力の欠乏という危機をも未然に防ぎ、尚且つ魔王の攻撃さえも妨害する。今、これ程の絶妙な魔法行使が他にあるだろうか。それは『賢者』となったサラでさえも、考え付かない程の高度な行使方法であった。

 しかし、この世を恐怖に陥れる魔王は、それを不問にする程穏やかな生物ではない。

 

「煩いわ!」

 

 魔法力を奪われた隙を突いて剣を振り下ろそうとしたカミュを左腕一本で弾き飛ばし、追い討ちを掛けるように激しい炎を吐き出す。壁に直撃したカミュが、床に伏せる前に唱えたアストロンによって、その激しい炎はカミュの身体を害する事はなかったが、これで『勇者』の一定時間の戦線離脱が決定した。

 吐き出された激しい炎に包まれて行くカミュを呆然と見つめていたメルエは、自分の倍以上もある体躯が急激に迫っている事に気付き、杖を構える。しかし、魔の王の圧力を一身に受けた少女の足は、心とは裏腹に小刻みに震え、動かす事など出来はしなかった。

 

「バシルーラ!」

 

 怯えるようにバラモスを見上げていたメルエの瞳が一瞬輝き、即座に光を失う。メルエという少女の危機は、常に誰かによって防がれて来た。彼女が心から頼りにする『勇者』であったり、姉のように慕う『賢者』であったり、そして、今バラモスの放ったバシルーラによって反対側の壁に吹き飛ばされた『戦士』にである。

 魔神の斧を掲げ、少女の危機に割り込んで来た女性戦士は、その斧を振り下ろすよりも前に圧倒的な反発力によって弾き飛ばされ、彼女が最も大事にする少女の傍から遠く離されてしまった。強かに打ち付けられた身体は、大地の鎧という女神の愛した鎧に護られているものの、地下室に響き渡る程の軋みを上げる。

 

「…………リーシャ…………」

 

「その身に絶望を刻み込め!」

 

 弱々しく呟かれた言葉は、救いを求める言葉。地下室の喧騒に消え逝く小さな呟きは、目の前に迫る魔王の死の宣告に掻き消される。唸りを上げる腕がその小さな身体を粉砕し、この世からメルエという存在自体を消し去る為に襲い掛かった。

 少女が呟く救いを求める言葉は誰にも届かない。この世を生み出した創造神にも、この世の守護者である精霊ルビスにも。諸悪の根源である魔王バラモスが、神や精霊王よりも強力な存在である事の証明なのか、幼い少女の願いは天には届かなかった。

 

「ごぶっ」

 

 願いは天には届かない。

 神や精霊は応えない。

 それでも、少女の願いは届く。

 誰よりもこの少女の危うさを知り、誰よりもこの少女の身を案じ、誰よりも少女の事を理解している者へ。

 

「サラ!」

 

 バシルーラによって壁に叩き付けられた筈のリーシャが即座に立ち上がる。それだけ衝撃的な映像であったのだ。

 リーシャとて無事ではない。内臓を傷つけられたのか、口端からは血液が垂れ落ちている。左手の指の数本が違う方向へ曲がっており、折れている事が解った。それだけの怪我を負い、心さえも折れそうな状況でも彼女は自分が妹のように愛している『賢者』の身を案じているのだ。

 その心の叫びはこの広い地下室に虚しく響き渡り、宙に舞った『賢者』の身体は、数度硬い地面に叩き付けれる。最後に完全に沈黙したその身体に生気は感じられなかった。

 

「…………サラ…………」

 

 地面に尻餅を着いていたメルエは、遠く吹き飛んだ者の名を呟く。

 バラモスの圧倒的な拳が迫る中、カミュが殴り飛ばされ、リーシャが弾き飛ばされた。それでも少女を護ろうと割って入って来たサラがメルエの身体を押し出し、その身代わりとなってバラモスの拳を受け入れたのだ。

 遠目から見てもサラの身体は正常な状態ではない。右腕と左足は奇妙な方向へ曲がっており、口からだけではなく、鼻からも大量に血液が溢れ出している。意識はないのだろうが、その身体は小刻みな痙攣を起こしていた。

 

「ふははははっ。どうした人間、その程度か?」

 

 高笑いを上げるバラモスは、回復役を葬った事に満足そうな表情を浮かべている。バラモスの言うように、倒れ伏したサラの命は風前の灯と言っても過言ではない。数分もすれば細かい痙攣も治まり、身体は冷たくなって行くだろう。それだけの攻撃を彼女はその身で受けたのだ。メルエを庇う為に盾を掲げる事も出来ず、無防備の状態で魔の頂点に立つ者の全力の拳を受けるという事は、死を意味する。

 サラは、カミュやリーシャのように神代の鎧に身を護られている訳ではない。その為、全ての衝撃をその身一つで受け入れる事になった。それが最大の要因であろう。

 

「……カ、カミュ」

 

「アンタへの回復は終えた。アレは俺に任せろ」

 

 自身の身体にベホイミを掛け、即座にメルエの元へと戻って来たカミュは、そのままリーシャの身体に回復呪文を唱える。そして、それが終了すると、死に瀕した賢者の方へ視線を移した。

 自分の指が正常な形に戻り、常に叩かれているような頭痛が治まった事に安堵したリーシャは、カミュの言葉に驚きの表情を浮かべるが、即座に柔らかな笑みを浮かべる。そして、再び厳しく表情を引き締めると、魔神の斧をしっかりと両手で握り締めた。

 

「その間、アンタには魔王の相手を一人でして貰う。……頼んだ」

 

「信じているぞ、カミュ。バラモスは、私に任せろ」

 

 短いやり取りで、お互いの心は把握出来た。リーシャはカミュの心を、カミュはリーシャの心を。そして調和した二つの心は、一つの目的に向かって動き出す。互いを理解し、互いを信じているからこそ成せる技なのだろう。

 互いに頷き合った後、カミュは一気に速度を上げてサラの許へと駆け出す。そしてリーシャは、その動きに勘付いたバラモスを牽制するようにその間に割り込んだ。

 カミュへと向けられたバラモスの腕は、リーシャの持つ魔神の斧によって阻まれる。僅かに斬り裂かれた腕から新鮮な体液が吹き上がった。それでもこの者は魔の王であり、人間一人で抑える事など不可能な存在である。

 

「骨も残らぬように殺してやる!」

 

 リーシャによって斬り裂かれた腕の治癒も後回しにしたバラモスは、そのまま大きく口を開く。その奥には真っ赤に燃え上がる火炎。それを盛大な勢いで吐き出したのだ。

 噴き上がる激しい炎は真っ直ぐに細かく痙攣するサラへと向かって吐き出された。それは、死に逝く者を更に殺し得る程に強力な物であり、死者すらも冒涜する程に残酷な所業。最早死を待つのみとなった相手の骸さえも残さぬその力は、まさに魔の王に相応しい圧倒敵的な物でもあった。

 

「…………マヒャド!…………」

 

 駆け寄るカミュさえも巻き込んで燃え上がろうとする激しい炎の音が地下室を支配する中、珍しく力強い呪文行使が響き渡る。吹き荒れる吹雪よりも低い冷気が周囲を覆い尽くし、バラモスが吐き出した激しい炎の進路を塞ぐように通り抜けて行く。

 激しくぶつかり合う炎と冷気が、凄まじい音を上げながら大気へと変化して行き、高温の霧となってバラモスの視界を奪った。その隙を突くようにカミュはサラの許へと駆け寄り、その身体を確認する為に屈み込んだ。

 そして、希望を失う。

 

「……息はあるのか?」

 

 最早、サラの身体は魂を半ば程を手放しており、小刻みに繰り返していた痙攣も治まり始め、瞳は白目を剥いている。口や鼻からは大量の血液を流し、手や足は大きく別方向へ曲がってしまっていた。

 流石のカミュでさえ、その凄惨な姿に言葉を失ってしまう。その理由の一つは、ここまでの状況になってしまったサラを癒す術をカミュが持ち合わせていない事にある。彼が行使出来るのは、中級回復呪文であるベホイミであり、死を受け入れ始めた魂を戻す程に強力な回復呪文を行使する事は出来ないのだ。

 故にこそ、この場でカミュは立ち尽くす。自身の力ではこの場を覆す事が出来ないという事を、彼は誰よりも理解している。『任せろ』という言葉を口にした手前、何とかしなければならないという事を解っていて尚、彼はその凄惨な仲間の姿を見つめる事しか出来なかった。

 

「…………スカラ…………」

 

 カミュの後方では、バラモスという強大な敵を戦士と魔法使いのみで相手している。彼女達には回復手段が何もない。どちらかが怪我を負えば、それは致命傷ともなり得る。それ程の緊迫した状況にも拘らず、リーシャという女性戦士は、バラモスの攻撃を掻い潜りながらもメルエという少女を護っていた。

 彼女だけでは魔王を倒す事など出来はしない。それでも尚、あの場で諦めもせず、絶望もせずにバラモスと対峙している理由は唯一つだけなのだろう。バラモスという強大な敵を前にして怯えず、その攻撃がサラの方向へも、メルエの方向へも向かわないように気張っている理由は僅か一つだけの理由なのだ。

 『私はお前を信じている』

 先程戦闘に戻る際に告げられた言葉である。彼女はその言葉通り、カミュという『勇者』を信じ、彼が『賢者』を再び戦場へ戻してくれると信じ切っていた。だからこそ、それまでの間、彼から託された事を全うしようと必死になっているのだ。

 

「……やるしかないのか」

 

 魔神の斧を振るい、メルエへと攻撃をしようとするバラモスの腕を弾き返したリーシャの姿を見たカミュは僅かに目を閉じ、そして大きく息を吐き出す。開かれた瞳は、決意と覚悟の光に満ちていた。

 既に意識のないサラの手足を元の位置に戻す。折れた骨を正しい形に直しているのだろう。幸いな事に綺麗に折れた骨であった為、元に戻す事は簡単であった。意識がないというよりも、魂の在り処が変わって来ている為、サラが痛みで呻く事はない。準備を整えたカミュがもう一度息を吐き出した。

 一つ印を結んだカミュは、その手を天へと向ける。彼が神に祈った事など、生まれてこの方一度足りともない。神という存在に加護を貰った事など一度もないと考えているし、その下にいる精霊ルビスなど、憎しみを感じる事はあっても感謝などした事は髪の毛の先程もなかった。

 その彼が自身の魔法力を天に向かって放出し始めたのだ。それは本当の奇跡の始まりなのかもしれない。彼が世界の『勇者』となる第一歩。その祝福の光が彼の腕に集まり、その光は死を迎えるだけとなったサラの身体をも包み込んだ。

 

「ベホマ!」

 

 地下室全体を照らす程の緑色の光がサラの身体全体を覆う。折れた骨は結合し、身体の内部の傷が修復されて行く。細かく痙攣しながら弱まり続けていた呼吸は、しっかりとした息遣いへと戻って行った。

 サラという『賢者』の中に、未だに生への執着が残されていたのだろう。通常の人間であれば、即死であっても可笑しくはない程の状況であった。生者と死者を分かつ最後の物はその精神である。その者が死を受け入れてしまえば、その魂は精霊ルビスの許へと召されてしまう。最後の最後まで死と抗う者だけが、それを救おうとする者の魔法力を受け入れる資格を有するのだろう。

 呼吸が安定し、サラの指先が僅かに動いた事を確認したカミュは安堵の溜息を吐き出した。しかし、それも一瞬の事であり、即座に先程まで死の境を彷徨っていた女性の頬を張ったのだ。

 

「ふぇっ!?」

 

「目が覚めたか? 身体の具合はまだ完全ではないかもしれないが、余裕がない。俺は前線に戻る……後方は任せた」

 

 強く張られた衝撃で目を覚ましたサラに、カミュは矢継ぎ早に指示を出す。死線を彷徨っていた朦朧とした頭の中で、サラは必死に今の状況を把握しようとした。そして、その中で最も素直に頭の中に入って来た言葉がある。

 『任せた』

 もしかすると、彼の口からこの言葉は何度か聞いた事があるかもしれない。だが、まるで初めて聞いたかのように彼女の頭の中に浸透して行った。魔法のように直接サラの心へと響くその言葉は、再び『賢者』としての彼女を覚醒させる。それは、この世界を左右する程の人間の復活を意味していた。

 

「お任せ下さい!」

 

「メルエは危うい……アンタだけが頼りだ……頼む」

 

 不覚にも、サラは瞳を潤ませてしまった。カミュの言葉に喜び以外の感情が湧き上がらない。ここまで四年の旅を経て、自分が仲間として認められたと感じた事は何度かあった。そして、それを匂わすようなカミュの言葉を聞いた事もある。だが、ここまではっきりと明確に、そして力強く告げられた事はなかっただろう。

 零れ落ちる涙を拭いもせず、サラはカミュへ向かって大きく頷きを返す。

 想いは託される。

 そして、再び前へと向かって歩き出すのだ。

 

「おりゃぁぁぁ!」

 

 蝿を振り払うように振り抜かれるバラモスの腕に斧を合わせたリーシャは、その勢いに押される身体を踏ん張りで押さえつける。何度も弾き返したバラモスの腕や足には、無数の斬り傷が出来ており、身体の至る所から体液を流していた。

 しかし、それを成した者もまた無傷ではない。身体の内部にある骨の数本は折れているのだろう。それが内臓を傷つけている為か、口からは血液を流しており、身体は痛々しい火傷の痕が残っている。何度か吐き出された激しい炎は、メルエの放つマヒャドによって相殺されてはいるが、それでもその余波によって身体が焼かれていたのだ。

 それでも彼女が立っているのは、彼女が心から信じている者の帰りを待つが為である。そして、その瞬間が訪れる。

 

「ふん!」

 

 態勢を崩したリーシャの身体を襲うバラモスの腕を、横から突き出された剣が貫く。貫かれた剣は反対側へ突き抜け、即座に抜かれた剣と共に大量の体液が噴き出した。剣が抜かれる瞬間、カミュが持つ神代の剣が、その特殊性を吐き出したのだ。

 体内から爆発する衝撃は、魔王でさえも抗う事は出来なかった。傷口から噴き出される体液と共に、再び魔王の腕がその機能を失う。

 

「……遅いぞ、カミュ。サラは大丈夫なのか?」

 

「ああ」

 

 自分の横へと移動して来た青年の顔を見たリーシャは、僅かに微笑を浮かべる。そして、その問い掛けに彼が頷いたのを見て、その笑みを濃くした。しかし、逆にカミュはリーシャの姿を見て顔を顰める。それ程凄惨な姿をしていたのだ。

 死が目前に迫っていたサラ程ではないにせよ、立っている事もままならない程の傷である事は確かである。意識が朦朧としていても不思議ではなく、地に伏し、息も絶え絶えになっていても可笑しくはない物であったのだ。

 それを示すように、カミュ帰還によって一瞬気が緩んだリーシャは、足元をふらつかせる。その身体を抱き留めたカミュは、即座に回復呪文の詠唱を行った。

 人類最高位に立つ『戦士』とは、人類最高位の攻撃力を有する者である。その者でも、バラモスに対して致命傷を与える事は出来ず、死と隣り合わせの戦闘を行わなければ対峙出来ない相手なのだ。

 むしろ、この状況でサラとメルエを守り抜いた彼女を褒めるべきだろう。

 

「……信じていたぞ、カミュ」

 

 カミュに抱かれながらも、自分の身体が癒えて行くのを感じたリーシャは、駆け寄って来るサラの姿をその背中越しに見て、綺麗な笑みを浮かべる。もしかすると、彼女自身は意識的にカミュを信じ込んでいたのかもしれない。『サラは助からないのではないか?』という疑問が浮かばなかった訳はない。それ程に厳しい状況であった事は、倒れ伏すサラの姿を見ていた時から感じていただろう。

 それでも、彼女は信じるという選択肢を取った。カミュという『勇者』ではなく、カミュという一人の男性を心から信じた結果は、彼女が考えていた最も幸せな物だったのかもしれない。

 彼女が信じる男は、もう昔のようにサラを只の同道者として見てはいない。同じ目的を持ち、志さえも近くする仲間として受け入れていると、リーシャは信じたかったのだろう。そしてその願いとその期待は、満点の回答を持って応えられたのだ。

 

「……カミュ、ありがとう」

 

「……礼を言われる覚えはない。アレがいなければ、この結末は俺達の死で幕を下ろすだけだ。それに……まだ終わった訳でもない」

 

 心からの謝礼を述べたリーシャに対し、カミュはその身体を引き剥がし、右手に稲妻の剣を握り込む。その素っ気無い対応を見たリーシャもまた、回復した身体で魔神の斧を握り込み、微笑を浮かべた。

 サラを復活させたのは、誰がどう言おうとカミュである。それをリーシャは信じていたし、理解をしている。あの状況からサラを再び戦場に立てるように立ち上がらせる方法が何であるのかを察する事はリーシャには出来ない。それは呪文や魔法が生み出す神秘の知識がリーシャ自身に無いからであった。

 それでも、今のカミュの言葉を心の底から嬉しく思う。

 『礼を言われる覚えがない』というのは、サラを救う事がカミュにとっても当然の行為であるから。

 『アレがいなければ……』という言葉は、サラという『賢者』の重要性を理解し、サラという個人の必要性を理解しているからこそ。

 そして、『まだ終わった訳ではない』という言葉が、彼自身が諦めていない事の証拠。

 その全てがリーシャにとって喜びとなる。

 

「相手は魔王だ。俺やメルエだけではなく、あの賢者の魔法力もいつまで持つか解らない。正直に言えば、既に俺の魔法力は枯渇間近だと考えている。それでも……それでも前へ出るしかない」

 

「任せろ! 元より私には魔法力など有りはしない」

 

 腕の再生を優先させていたバラモスが再び戦闘状態に戻って来る。その瞳は、魔族特有の怒りの色に彩られており、何とか理性を保っているようにも見えた。

 ここから先は、これまで以上の激戦となるだろう。先程のサラのように、何時仲間が死の淵に落ちるか解らない。サラ程の強者が、僅か一撃だけで昏倒する程の物なのだ。それをメルエのような幼子が受けてしまえば、おそらく即死であろう。それを阻止する事が出来るとすれば、それはカミュでありリーシャであり、そしてサラである。この三人が幼い魔法使いを護りながらも魔王という圧倒的な存在に立ち向かわなければならないのだ。

 ここまでの魔物との戦闘では、メルエという規格外の魔法使いが放つ神秘によって幾度となく彼等は救われて来た。だが、この魔王という存在には、メルエの放つ攻撃呪文が目に見える形で効果を現してはいない。それは何もメルエの能力が下だからという訳ではないだろう。メルエよりも、魔王バラモスが行使する呪文が圧倒的に上位にいるからである。

 人類最高位に立つ魔法使いとはいえ、彼女もまた人間である事は否めない。それに対し、バラモスは魔の王なのだ。同じ呪文を行使したとしても、メルエではそれを相殺する事は出来ても圧倒する事は出来ない。ましてや、相手が上位の呪文を行使して来るとすれば尚更である。

 ここまで来て、メルエという少女が彼等の足枷になっている。サラであれば、バラモスの攻撃に対しても何らかの防御態勢を敷く事が出来るだろう。盾を構えるも良し、その場を離れるも良し。実際、カミュのアストロンに護られた経緯があるサラではあるが、カミュやリーシャから見れば、自己の判断に任せる事が可能な仲間の一人であった。

 だが、メルエを支える魔法力が枯渇してしまえば、それこそ手には負えない。動く事さえも出来ない幼子を護りながら戦える程、魔王バラモスという相手は脆弱な存在ではない。しかし、それら全てを理解していて尚、リーシャはカミュに向かって笑みを浮かべながら頷きを返した。

 

「許さんぞ! 貴様ら全て、骨も残さぬように喰らい尽くしてくれるわ!」

 

 最早、バラモスに魔の王としての余裕は欠片もない。カミュ達を睨みつける瞳は真っ赤に血走っており、その怒りの大きさを物語っている。再生した腕から滴り落ちる体液はどす黒く濁り、先程の余裕は見られなかった。

 それが示す事は、魔王バラモスといえども再生能力は無限ではないという事だろう。己の魔法力を使用しているのか、それとも体力を使用しているのかは知らないが、欠損部分の再生にはそれ相応の代償を支払っていると考えて間違いはない。

 依然として、バラモスの放つ威圧感や圧倒的な魔法力に陰りは見えないが、それでもカミュ達の攻撃が有効であったという事実は揺るがないのだ。小さくはある一歩ではあるが、彼等はその悲願に着実に近づいていた。

 

「カミュ……」

 

「後方の二人には『祈りの指輪』がある。俺の魔法力に期待するな。ここから先は、俺とアンタでの肉弾戦が主流だ。気合を入れろ」

 

 『気合』

 そんな言葉がカミュの口から出て来るとは思わなかった。リーシャは驚きと共に、不敵な笑みを浮かべる。

 彼女の隣には常に彼がいた。どんなに苦しい戦いの中でも、どれ程絶望感に打ち震える時でも。それがリーシャという戦士にとってどれだけ心強かったかを彼は知らないだろう。彼を『勇者』であると信じ始めてからのリーシャは、彼と共に武器を振るえる場所を護って来たのだ。

 その彼女に向かって『気合を入れろ』など、鳥に飛び方を教えているようなものである。

 

「お前こそ気合を込めろ! お前が振るう一振りが、サラやメルエの歩む道となる」

 

「……行くぞ」

 

 魔王バラモスの力は圧倒的であった。

 カミュやリーシャだけではなく、この戦いでは本当の意味でサラは死に掛けたのだ。今までのように攻撃を受ける前に救われたのではなく、最早息を引き取るのを待つだけという状況まで追い込まれている。

 ここまでの戦いで、これ程の窮地に陥った事はなかっただろう。誰が何時、己を生を諦め、この戦闘の勝利を諦めても不思議ではない。心が折れそうな程に刻み込まれる圧倒的な力が襲い掛かる中、未だに立ち上がり魔王へと己の武器を向ける彼らこそ、やはり『勇者一行』なのだろう。

 魔の頂点に立つ者との決戦も佳境を迎えようとしていた。

 

 

 




読んで頂きありがとうございます。
次話で最終戦になるかもしれません。

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