新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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魔王バラモス④

 

 

 リーシャが先陣を切って走り出す。魔神の斧が怪しく輝き、それを握る人間の身体を眩い光が包み込む。後方から唱えられたピオリムという呪文が、彼女の俊敏さを急激に上昇させて行ったのだ。既にその武器はメルエの魔法力を纏っており、その身体もメルエの魔法力で覆われている。バイキルトとスカラによって強化された女性戦士を最終段階まで上げる補助魔法が唱えられていた。

 その後ろを天上から降された剣を握り締めたカミュが掛けて行く。突如攻勢に出たカミュ達に一瞬戸惑いを見せたバラモスであったが、その表情に余裕が即座に浮かんだ。魔の王から見れば、何をどうしようが人間である事に変わりはないのだろう。ここまでの戦いの中で自分が傷つけられた事には我慢ならないが、それでも自身の命を脅かす程の存在ではないと認識していたのだった。

 

「愚かな……自ら死に急ぐとは」

 

 斧を振り被ったリーシャの姿を確認したバラモスは、それを振り払うように腕を振るう。しかし、ピオリムによって俊敏さを上げていたリーシャはそれを僅かな動きで避けた。そのまま振り下ろされた斧は、バラモスの胸元に吸い込まれ、ゆったりとした衣服と共にその贅肉を斬り裂く。吹き出る体液が床に弾け飛んだ。

 続いたカミュの剣が深々とバラモスの太腿に突き刺さり、派手に体液を撒き散らす。堪らず膝を着いたバラモスは、怒り狂うように腕を振るう。しかし、既に離脱しているカミュには当たらず、それを見たバラモスは大きく口を開いた。

 

「燃え尽きよ!」

 

 動作も少なく、溜めも少なく吐き出された激しい炎は、真っ直ぐカミュとリーシャへと向かう。その炎は、魔王の怒りを表すように激しく、先程までよりも広範囲に広がっているようにさえ見えた。

 メルエが杖を構えて氷結呪文の準備に入るが、それよりも速く、少女を護るように立つ賢者の両腕が前へと突き出される。両手の前に巨大な魔法陣が浮かび、眩い輝きを放った。

 その魔法陣は、メルエでさえも見た事のない魔法陣であり、『悟りの書』という秘められた書物の中にあるにも拘らず、稀代の魔法使いにも見えぬ程の希少性を持つ物である。悔しそうにその魔法陣を見つめるメルエではあったが、その魔法陣が及ぼす効果まで理解する事は出来ず、その結末を見つめる事しか出来ないのだった。

 

「フバーハ!」

 

 サラの詠唱と共に巨大な魔法陣から真っ白な霧の壁が生み出される。カミュとリーシャを護るように展開された霧の壁は、バラモスの吐き出した炎と衝突し、それを包み込むように気化させて行った。

 カミュやリーシャの視界を遮る訳ではないその霧は、激しい炎の全てを気化する事は出来ず、その熱風の余波と炎が僅かにカミュ達を襲う。しかし、それは二人の前衛が持つ龍種の盾によって十分に防ぐ事が出来る程度のもの。多少の火傷は怪我の内には入らない。カミュは自身とリーシャにベホイミを唱えた。

 

<フバーハ>

古の賢者が編み出した霧を生み出す呪文。魔法力によって編み出す霧である為、同じように魔法力で生み出された火炎や氷結には効果はないが、魔物や龍種などの吐き出す炎や吹雪に関しては、その効力を軽減させる効果を持つ。炎に対しては霧によって火炎を気化させ、吹雪などに対しては水分のある霧で包む事によって溶かすのだ。水分を多く含む霧を壁のように生み出す為、その使用魔法力の量はかなり多く、通常の呪文使いであれば即座に魔法力が枯渇する程である。その為、『悟りの書』に封印された呪文であった。

 

「…………サラ…………」

 

「大丈夫ですよ、メルエ……ルビス様、その大いなるお力の一部を私にお貸し下さい……」

 

 フバーハの結果を見届けたサラが片膝を着いた事で、隣に立っていたメルエが心配そうに近寄って行く。だが、そんなメルエを手で制したサラは、その指に嵌められた指輪を握り込み、胸の前で合わせて天へと祈りを捧げた。

 その祈りの言葉と同時に眩く輝き出した指輪を中心に、サラの身体全体を激しい光が包み込む。その光を目にしたメルエは小さな笑みを浮かべた。彼女はその光を知っているのだ。内なる魔法力を再び満たす感覚を彼女は覚えている。

 それは希望という光を繋ぐ未来への輝き。

 

「小癪な人間め!」

 

 指輪から溢れた光は、斧を振るうリーシャへ一撃を見舞おうとしていたバラモスの視界にも入り込む。その聖なる輝きは、魔の王が最も嫌う種類の光であったのだ。

 目の位置に腕を掲げたバラモスは、不愉快そうに顔を顰め、憎々しげにその光を放つ者を睨みつける。その瞳には、憎悪と憤怒の炎が吹き上がるように燃えていた。その怪しい炎を認識したカミュとリーシャは、サラとメルエを護るようにバラモスとの間に入り、それぞれの武器を構える。それを嘲笑うかのように、再びバラモスは口を大きく開いた。

 

「カミュ、盾を掲げろ!」

 

 リーシャが自身の盾を掲げる。彼女はカミュの魔法力の残りが少ない事を知っており、アストロンという絶対防御の呪文を当てに出来ないと思っていたのだ。即座にカミュも盾を掲げるが、ここまでの戦闘の中で何度も経験して来たバラモスが吐き出す激しい炎を防ぐには、正直ドラゴンシールドだけでは心許ない。元々、魔物が吐き出す炎や吹雪への耐性がある盾ではあるが、魔の王が吐き出す炎を全て防ぐ事は不可能なのだ。

 ある程度の覚悟を決めたリーシャは、足を踏ん張るような態勢を取る。しかし、そんな彼女の心配を吹き払うように、吐き出された激しい炎の前に霧の壁が再び立ち塞がった。視界を覆うように展開された霧の壁は、炎を包み込むように気化させて行く。蒸発しきれない余波がカミュ達を襲うが、それは龍種の鱗で作られた盾によって防ぐ事の出来る範疇であった。

 

「メルエ、祈りの言葉は覚えていますね? 倒れるまで魔法力を酷使してはいけませんよ。メルエの魔法力の残量はメルエにしか解りませんから、自分の魔法力と向き合って、祈りを捧げるのです」

 

「…………ん…………」

 

 補助魔法の効力は、本来行使者の命がある限り続く。メルエの放ったスクルトやバイキルトは、今も尚カミュとリーシャの身体や武器を覆っているし、サラが放ったフバーハは前衛二人を護るように霧の壁を生み出し続けていた。

 一度放った魔法力がその身体や武器を覆い続けるという事は、その魔法力を維持し続けるという事でもある。魔法力を新たに追加する程ではないが、それを維持する為の制御は行使者に委ねられていた。今のカミュの武器を覆っている魔法力に歪みや乱れはない。リーシャの身体を覆っている魔法力は、吸い付くようにその身体を護っている。それは、メルエがその魔法力を維持し、制御し続けている事を示していた。

 それがメルエの成長でなくて何だと言うのだろう。以前にメルエがその呪文を行使した時は、荒さの目立つ危うい物であった筈。それが今、世界の頂点に立つ魔の王の身体さえも貫き、その強靭な攻撃さえも緩和させる働きを、この幼い少女が一人で担っているのだ。

 故にこそ、サラは心を配るのだ。幼い少女には体力がない。メルエという魔法使いは、その内に宿す膨大な魔法力によって体力を補っていた。魔法力の制御や維持は、精神をすり減らし、神経を衰弱させる。サラならば、それを体力によって補填する事は可能であるが、メルエはそれを魔法力で補填している可能性が高かった。

 

「おりゃぁぁぁ!」

 

 サラとメルエの会話が終わる頃、地下室に戦士の雄叫びが響き渡る。吐き出した炎さえも緩和された事に怒りを剥き出しにしたバラモスが拳を振るい、それに合わせる様にリーシャが魔神の斧を振り下ろしたのだ。

 しかし、バラモスとて魔族達との覇権争いを勝ち抜いて来た強者である。魔神の斧が深々と突き刺さって尚、その拳を振り抜き、人類最高位に立つ女性戦士の身体を吹き飛ばした。

 凄まじい音と土埃が立ち上り、衝撃によって魔王の腕から抜けた斧が宙を舞う。壁に衝突したリーシャが床に落ちると同時に、魔神の斧がその傍に突き刺さる。石で出来た壁さえも貫き突き刺さるその姿が、魔神の斧という特殊な武器の鋭さを物語っていた。

 

「吹き飛べ!」

 

「…………マホカンタ…………」

 

 起き上がるリーシャに向かって体液を撒き散らしながら振るわれたバラモスの腕が、その魔法力を開放する。瞬時に圧縮されて行く空気を確認したメルエが、雷の杖を振るった。

 光の壁がリーシャを包み込むと同時に、その周囲の空気が一気に弾ける。地面を揺るがす衝撃と、耳を劈く爆音が響き、天井の一部が崩壊する。だが、その熱した爆風はリーシャを襲わず、行使者であるバラモスへと弾き返されて行った。

 体液が流れ出している腕の治癒は進んでいない。その傷跡を襲う熱風にバラモスは苦悶の声を発した。今までどれ程の呪文を行使しようともその身体に傷一つ付ける事が叶わなかったのだが、ここに来て初めて、呪文の効果によって魔王に一矢を報いたと言えるのかもしれない。

 

「カミュ様! 魔王とて生物です!」

 

 その時、サラの叫びが轟く。言葉は少なく、聞く者によっては何を指しているのか理解出来ないだろう。だが、カミュは爆風の余波を盾で防ぎながら、しっかりと頷きを返した。

 世界の頂点に立ち、世界で生きる生物達の恐怖の対象となっている魔の王でさえ、生命という尊い物を持つ生物の一つである事に変わりはない。剣で斬られれば傷を受けるし、その傷が深ければ命を落とす。そして、戦い続ければその内にある魔法力を使用するし、如何に膨大な魔法力といえども無尽蔵な訳でない以上、いつか尽きるのだろう。肉体は再生する事は出来ても疲労するし、その体力が人間の何倍もある魔族だとしても、疲労によって行使出来ない事も出て来る筈なのだ。

 

「目障りだ!」

 

 しかし、自身を愚弄するような言葉を発したサラを睨み付けたバラモスは、再びその腕を振るう。振るわれた腕と同時に放たれた詠唱は、メルエが反応するよりも早くにサラの身体へと到達した。圧倒的な強制力を持つその風は、この世で唯一人の賢者でさえも抵抗出来ない程の力を有している。一瞬目を見開いたサラではあったが、次の瞬間に自分の身体がリーシャとは反対側の壁に打ち付けられている事を知った。

 強かに背中を打ち付けられた事によって、呼吸が詰まってしまったサラは、そのまま床へと倒れ込む。その瞬間を待っていたかのように、崩れた天井の一部がサラの背中に直撃した。身体の内部を傷つけられたサラは盛大に血液を吐き出し、朦朧とする意識の中で迫り来る魔王の姿を見る。

 

「させるかぁぁ!」

 

 しかし、サラを踏みつけようとしたバラモスの足は、横一線に振り抜かれた魔神の斧によって弾き返された。派手に体液を撒き散らしながらも、サラから幾分か横へずれた場所に落ちたバラモスの足に、輝くような一閃が追い討ちを掛ける。

 走り込んで来たカミュがその足を斬り裂き、そして、足を踏み台にして跳躍したのだ。慌ててそれを叩き落とそうとしたバラモスではあったが、カミュが剣を振り抜く方が早かった。肩口から入ったカミュの剣が、バラモスの腹部までを切り裂いて行く。

 吹き出る体液と、飛び出る臓物。並みの魔物であれば、その一撃で命さえも奪える程に強烈な一閃。カミュでさえ、この長い旅の中で数度しか経験した事のない程の会心の一撃だったに違いない。

 

「グオォォォォ!」

 

 これまでの理知的な叫びではなく、魔物本来の雄叫びのような声を上げる。それは地下室全体の大気を揺るがす程に巨大な叫びであり、人類であれば例外なく恐怖を覚える程の凄まじい咆哮であった。

 身を竦ませたのは、やはり最も幼い少女。サラに対する暴力に怒りを露にしていたメルエの足が、魔王の咆哮によって小刻みに震える。サラの元へと踏み出そうとした足が動かず、口元は歯が噛み合わない。カタカタと小さな音を立てて鳴り続ける自分の口元が、自分の意思で動いている訳ではない事にさえ気付かず、メルエはその恐怖の対象を見上げた。

 体液を派手に流し続けながらも、尚をその瞳は生命力に満ちている。通常の魔物ならば致命傷であるその傷も、自然治癒という特殊能力によって徐々に回復し始めていた。

 

「許さんぞぉぉぉ!」

 

 既に魔王バラモスに冷静さは欠片もない。あるのは世界を滅ぼす事の出来る程の暴力のみ。カミュが切り開いた活路を広げようと斧を振り上げたリーシャの身体は、メルエが瞬きをする僅かな時間で消え去った。

 横から現れたバラモスの足がリーシャの身体を蹴り飛ばしたのだ。その威力は、先程まで受けていた物の比ではない。壁に打ち付けられて止まる事が出来る程度の暴力が生易しく感じる程に強力な一撃は、リーシャの身体を中央に立つ柱に直撃させて尚衰える事はない。太い柱を砕き、更にその向こうへ吹き飛ばされたリーシャは、サラが横たわる近くの壁に叩き付けられた。

 一瞬で意識を刈り取る程の暴力。歴戦の戦士であり、今や人類最高位に立つ戦士である彼女でさえ、激しく血液を吐き出した後、白目を剥いて床へと倒れ込んだ。

 

「貴様は骨も残さぬ!」

 

 既にリーシャが虫の息になっている事を確認したバラモスは、次の標的を、目の前で剣を握っているカミュに定める。おぞましい色の体液を付着させたままの稲妻の剣は、しっかりとバラモスへ向かってはいるが、それを持つ青年の意識はバラモスへは向いていなかった。

 徐々に立ち位置を動かすカミュの向かう先は、彼の仲間が倒れ伏す場所。再び意識を手放してしまった賢者と、この旅で初めて命の危機に瀕した戦士が倒れている壁に向かって、カミュは警戒を怠る事無く進んでいたのだ。

 振り抜かれたバラモスの拳を避けたカミュは、それを機に駆け出す。しかし、それを嘲笑うかのように、激しい炎がカミュを飲み込んで行く。いつもならば、カミュという青年を襲う炎を防ぐ氷結呪文を唱える魔法使いは、その杖を振るえる状態ではなかった。恐怖に襲われた少女は、只々その戦闘を傍観するしか出来ない。

 

「ふははははっ。己の矮小さを思い知れ!」

 

 真っ赤に燃え上がる炎が、この世の希望である『勇者』を包み込む。全てを燃やし尽くす程の業火は、天上付近まで炎を立ち上らせ、そこにいる生物を閉じ込めて行った。

 通常の人間ならば、命を取り留める事など出来はしない。その肉はおろか、骨の欠片までも燃やし尽くすであろう業火は、離れた場所でその戦いを見ていたメルエの視界さえも真っ赤に染め上げる。それは、幼い少女にとって絶望と悲しみの光景だった。

 

「貴様……」

 

 しかし、この青年は最早アリアハンを出立した時のような心を持ってはいない。彼を包む炎を、絶望を感じながら見ていた少女の父親の前で誓ったあの時から、彼に諦めという言葉はないのかもしれない。命ある限り、彼は生きる事を諦めず、生き残る事に向かって努力を続ける義務がある。

 誰もが絶望し、誰もが倒れ伏しても、彼だけは絶望する事も倒れ伏す事も許されない。それは誰に誓った訳でも、誰に強要された訳でもない。

 彼自身の誓いなのだ。

 

「…………カミュ…………」

 

 激しい炎が消え、床の石までもが溶けている姿が現れる。しかし、魔王が目的としていた人物だけは、その場に変わらず立っていた。

 徐々に変わって行く肌の色が、彼がこの場で唱えた呪文の種類を物語っている。例え人類最高位に立つ魔法使いであろうと、例え世界で唯一の賢者であろうと、例え世界を恐怖に陥れる魔の王であろうと、その呪文を唱える事は出来ず、行使する事も出来ない。

 その呪文を行使し、全ての者を護る事が出来るのは、この世界で唯一人。

 『勇者』と名乗る青年だけなのだ。

 

「ちっ」

 

 しかし、『勇者』といえども人間である。体力や腕力は戦士に及ばず、魔法力の量は賢者や魔法使いに及ばない。

 最後の魔法力を振り絞ってのアストロンだったのであろう。鉄化が解けたカミュは、そのまま片膝を床につけてしまう。それが示す事は唯一つの事柄であり、一行の全滅を示す事。

 『魔法力切れ』である。

 カミュは、サラやメルエとは異なり、祈りの指輪を嵌めてはいない。いや、もしその指に精霊の神秘を嵌めていたとしても、彼は祈らないかもしれない。だが、その事実が示す事は、これ以上の呪文行使が不可能であるという絶望であった。

 

「それが矮小な人間の限界だ! 大人しく死んで行け!」

 

 カミュが膝を着いた事を見たバラモスは高笑いを浮かべ、その拳をカミュに向かって勢い良く振り下ろす。魔法力を失った彼にその拳から己を身を護る術はない。ドラゴンシールドを掲げた彼は、その衝撃に耐える為に立ち上がり、足に力を込めた。

 地響きがする程の一撃。脆弱な人間の身体など一瞬の内に潰されてしまうだろうその一撃は、正確にカミュの身体を打ち抜く。

 土埃が舞い、床の岩が砕け散る。その様子を眺めているメルエの身体が再び細かく震え始めた。それは何にも勝る恐怖であり、彼女の根底を脅かす程の絶望である。絶対の保護者であり、彼女にとって誰よりも強者であるカミュの死。それを予感させる程の一撃だったのだ。

 

「どれ程耐える事が出来る! その身体の全ての骨を叩き砕いてくれるわ!」

 

 魔の王の圧倒的な一撃を受けて尚、盾を掲げたまま立つ姿が見えた時、一瞬メルエの身体の震えは止まった。だが、息も吐かせぬ間に再び振り下ろされた拳が、再びメルエの視界を真っ黒に染め上げる。

 メルエは絶望の中、生まれて初めて何かに祈った。だが、今や、彼を救ってくれる者は誰一人としていない。いつも小言を言いながらも笑みをくれる賢者の意識は未だに戻ってはいない。母のように暖かい戦士は、血溜まりの中で細かな痙攣を繰り返していた。

 常に四人で紡いで来た物語は、今終幕の時を迎えているのかもしれない。

 

「ふはははは!」

 

 高笑いと共に何度も振り下ろされる拳は、反撃の余地など与えず、それを受ける者の精神までも粉々に叩き潰す。巻き上がった土埃は視界を遮り、最早メルエの方からカミュの姿を見る事は叶わなくなっていた。

 カミュが立っていた場所を中心に走り始めた床の亀裂は、徐々にその範囲を広げて行き、今やメルエの足元にまで及んでいる。立っている事さえも出来ぬ程の振動を生み、その衝撃を受け止めきれない地下室は、天井を形成する岩を地面へと落として行った。

 

「…………カミュ………カミュ…………」

 

 地面に座り込んでしまったメルエの瞳から、大粒の涙が溢れ出す。止める事など叶わないその想いは頬を伝い、彼女が握り締める拳へと落ちて行った。少女の生み出す水滴は、その指に嵌められた精霊の神秘を濡らし、曇らせて行く。

 最早、少女は青年の名を呟く事しか出来なかった。

 何度も何度もその名を呟き、歪んで行く視界の先にあるその絶望を只眺める事しか出来ない。彼を救う呪文は何もない。魔法使いである彼女にサラやリーシャを回復させる呪文を行使する事も出来ない。彼女が大事に思っている者を護る為の力は、魔の王という絶対的な相手を前に何の役にも立たなかった。

 僅かな時間で歪められた希望。ほんの僅か前までは、四人が魔王打倒を目前にしているとさえ思っていた。サラという賢者の唱えた呪文によって、魔王の吐き出す炎の被害は軽減され、メルエという幼い魔法使いの放つ呪文によって、魔王が放つ圧倒的な爆発呪文は弾き返された筈。リーシャという女性戦士の振り抜いた斧によって魔王の身体は傷つけられ、カミュという勇者の一閃は魔王に致命傷を与えたとさえ思われたのだ。

 だが、現実は無常であった。

 肩口から腹部への傷の回復を後回しにした魔王バラモスは、一瞬の内に二名の強者を虫の息に落とし込み、今、彼女達を支える絶対的な主柱まで折ろうとしている。彼等三人を失えば、残る者は幼い少女である。人間としては規格外の魔法力を持ち、年齢を考えれば異常な程に強力な呪文を行使するとはいえ、メルエは年端も行かぬ少女であった。魔王の拳を受け止める事など出来はしないし、魔法力の量も魔王に匹敵する程ではない。

 待っているのは『死』のみである。

 

 何もかもが終わる。

 この世界で生きる者達の希望も。

 この場所へ赴く為に歩んで来た青年達を支えて来た者達の夢も。

 この世界の未来も全て。

 

 人知れぬ戦いは、人知れず幕を閉じる。

 『勇者』と称される者が、魔王バラモスの許へと辿り着いた事さえも誰も知らぬまま、この世界の最後の戦いの幕は下ろされるのだ。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
かなり短いですが、ここで終わらせて頂きました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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