新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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魔王バラモス⑤

 

 

 

 サラは夢を見ていた。

 それはとても暖かく、とても優しい夢。

 敬愛する両親に囲まれて食事をする彼女の手は小さく、スープを掬うスプーンさえも上手く持てない。それを見た母親が苦笑を浮かべながら彼女の手を握り、スプーンの握り方を優しく教えてくれる。一人でそれを実践し、上手くスープを掬えた事に満足そうに微笑んだ彼女の頭に大きく優しい手が乗せられた。

 その手は遠い昔に感じた事のある、暖かい無償の愛に満ちた物。優しく撫でられた事が嬉しく、彼女は満面の笑みを浮かべるのだ。

 そんな何処にでも溢れているような、極当たり前の幸せ。彼女に与えられる筈だった幸せ。それは、彼女が再びスープを掬おうとスプーンを動かした時に唐突に暗転する。

 

「お母さん!」

 

 既に父親は母子を逃がす為に囮となり、この場にはいない。懸命に彼女を護ろうとしていた母親の身体に魔物の角が突き刺さる。背中を貫き、腹部から顔を出した魔物の角は、彼女の目の前に姿を現した。

 どす黒い血液が大量に付着した角は、幼い彼女の胸に耐え難い恐怖を植え付ける。それと同時に吐き出された母親の血液を頭から被る事になった彼女の恐怖は、限界点を大きく超えてしまった。

 声にならない叫び声を上げ、最早身体の制御も利かない。身体のあらゆる部分から、身に宿る水分を垂れ流す事になった彼女をそれでも離す事のない母親は、そのまま気力と生命を振り絞って魔物から距離を取った。

 しかし、呪文の契約もしておらず、武器を扱う事も出来ない彼女の母親が、数匹とはいえ魔物の群れから逃げ出す事など不可能に近い。絶望に伏しながらも、最後には自分の愛する娘を抱き締め、亀のように丸まった母親は、命が尽きて尚、魔物の攻撃から娘を護り続けたのだった。

 

「魔王バラモスは、必ず勇者様が討伐して下さいます。それを信じて強く生きなさい」

 

 母親が命を賭して護った娘は、通りかかった魔物の討伐隊に偶然発見され、それに同道していた神父に引き取られる。孤児に手を伸ばす事自体が珍しいこの時代で、彼女は幸運を持っていたのだろう。

 次第に強まって行く魔物の脅威は、それらを支配する魔王の力の増加を示していた。そんな中、アリアハンで暮らす者達の間で一つの希望が生まれ始める。

 アリアハンの英雄と謳われた青年の死から十年が経過する頃、その忘れ形見である息子が『勇者』として正式に認定された事が起因となっていた。英雄の息子として、生まれた頃から『勇者』となる事を義務付けられていた子供ではあるが、国王から正式に、成人した暁には『魔王討伐』の勅命を受ける資格がある事を認められたのだ。

 混沌とする時代の中、魔王バラモスという諸悪の根源の存在に怯える世界。その世界に唯一の希望となる英雄の息子を『勇者』と認定するにしては遅過ぎた程である。何故、もっと早くに国王は認定を行わなかったのかという疑問が渦巻く中、その英雄の息子は魔物討伐隊の中でもしっかりと実績を上げていた。

 

「魔王の討伐……。魔物など、この世から消えてしまえば良いのに」

 

 勇者と認定された青年に過剰な期待が注がれて行く中、その噂を聞く度に、教会に引き取られた少女の胸の中にどす黒くへばり付く憎悪の炎が燃え上がる。自分の父を殺し、母を殺し、自分の幸せを全て奪った魔物に対する憎しみは日が経つにつれて大きくなって行き、少女の瞳に悲しい炎を宿して行った。

 教会の教えは、魔物を『悪』とする。正確に言えば、人間は『善』であり、それ以外の知的生物を『悪』としているのかもしれない。人間が知的生物の頂点に立っていると考え、それ以外は人間が管理するか、人間に討伐されるのが当たり前という考えである。その考えを彼女は幼い頃から植え付けられ、そして幼い頃に刻み込まれた恐怖が憎悪へと変わって行ったのだ。

 

「……神父様、私は勇者様の魔王討伐の旅に同道させて頂きたいと思っています」

 

 英雄の息子が勇者と認定されて五年が経過する頃には、彼女の心に棲み付いた憎しみという感情は、抑える事が不可能な程に巨大化していた。

 『魔物をこの手で滅ぼしたい』

 その想いは日に日に強くなり、最終的には『魔物を従える魔王バラモスという存在へ復讐を』という考えに至る。それは、如何にアリアハン教会を任されている司祭といえども止める事の出来ない物であった。

 故に神父は微笑を浮かべて見送る事にする。この、若く才能溢れる一人の『僧侶』を。

 

「この世に死んで当然の命などありません! 誰しもが生きて幸せになる事を許されている筈です! 生きる価値のない者などいません!」

 

 だが、この魔王討伐の旅は若い僧侶が考えていたような旅ではなかった。

 魔物討伐隊という国家が形成した部隊は、荒くれ者が多い事はあっても全員が魔物によい感情を持っていない。憎しみを持つ者、狂気に満ちた者、快楽を楽しむ者、単純に報酬目当ての者など様々ではあったが、ルビス教の教えを信じている者が大多数であり、魔物を『悪』と考える事が当然であった。

 そんな当然の思想と考えていた彼女が見た者は、彼女の理想や希望や思想を打ち壊す存在であったのだ。アリアハン国王が認定し、魔王討伐の旅に出立した『勇者』の持つ価値観は、教会という閉ざされた空間で生きて来た彼女には信じられない物であった。

 国王に認定される『勇者』は稀である。自称勇者という存在は数多く旅に出たが、その全ての行方が解らない。正式に国王に認定された『勇者』となれば、世界広しといえども、サマンオサ国王に認定されたサイモンとアリアハン国王に認定されたオルテガの二人しかいなかった。しかも、厳密にいえば、その二人でさえも『英雄』の枠から出る事は叶わなかったのだ。

 

「……カミュ様は、勇者様ではないのですか?」

 

 幼い頃から信じ続けて来た『勇者』像からかけ離れた存在。

 それが彼女から見た、勇者カミュという存在であった。

 何度となく衝突を繰り返し、それでも彼女にはその青年の胸の内が見えて来ない。勇者である事さえも疑ってしまう程にまで彼女の心は曇り始める。魔物に情けを掛け、人間を忌み嫌うような態度を取り、精霊ルビスさえも蔑ろにする発言をするこの青年へ憎しみの感情さえも持ち始めていたのだ。

 

「悩み、苦しみ、考え、泣く。それでも最後には再び前へ向かって進むのが、サラだ。私もカミュと同様、サラ以外の『僧侶』を見た事はない」

 

 そんな暗闇に落ちて行きそうになる彼女の心を、寸での所で必ず引き上げてくれる存在がいた。旅の途中、この広い世界の理と、自分の信じる教義との隔たりに悩む彼女を導いて来たのは、その暖かな手である。

 答えを教えてくれる訳ではない。悩みを解決してくれる訳でもない。それでもその一言が、その一押しが、彼女を再び前へと歩き出させて来たのだ。凝り固まった教えで雁字搦めになっていた彼女の心を解きほぐし、『変わって行く自分を恐れない』という考えを教えてくれたのも、その存在である。

 何度となく救われて来た。

 何度もその手に導かれて来た。

 その人物こそ、彼女にとって師であり、目指す目標なのかもしれない。

 

「……アンタだけが頼りだ……頼む」

 

 しかし、意識はしていなかっただけで、彼女にとってもう一人『師』と呼べる存在がいたのだ。教え導くような事は一切ない。言葉にして相手に想いを伝える事も、態度でそれを示す事も一切ない。だが、その青年が歩む道は、常にサラの指針となっていた。

 認める事も、理解する事も拒み続けて来た『勇者』という存在は、彼女が幼い頃から憧れ続けていた者よりも遥かに厳しく、遥かに哀しく、遥かに尊い存在であったのだ。何時しか彼女もまた、彼こそが『勇者』であると信じ始める。彼が遭遇する様々な事件を見る度に暴走しがちになる彼女とは異なり、その青年は常に冷静に物事を捉え、冷静な判断によって仲間達を導いて来た。

 彼と共にならば、『魔王討伐』という不可能に近い悲願を達成出来るとまで考えるようになった彼女は、その青年に認められ、頼られる存在になっている事を実感してはいなかったのだが、それは言葉にして明確に告げられる。死に瀕した彼女をこの世界に繋ぎとめ、再び皆の許へと引き上げてくれた青年は、その場で彼女の目を見ながら告げたのだ。

 

 

 

「ぐぅぅ……」

 

 最後に自分が姉のように慕う人物の笑顔を見た気がしたサラは、全身の痛みを突如感じる。戻って来た意識が、身体の異常と危険をサラへと知らせているのだ。

 倒れ伏したサラは身体を動かす事が出来ない。背中を中心に全身に響き渡る激痛が、全ての神経への命令を断絶させている。地震のように揺れ続ける地下室の振動が、その激痛を継続的に彼女に与え、息を吸う事も困難にさせていた。

 首は動かず、手も右手が僅かに動くだけ。それでも開いた瞳の向こうに映る者を見た彼女は、夢現の状態から即座に覚醒する。

 そこに座り込み、大事な杖までも手放しているのは、彼女が護ると誓った相手。魔物に両親を殺され、孤児として教会に引き取られた彼女よりも辛く苦しい時間を過ごして来た少女。その少女が絶望しか見えない表情を浮かべ、成す術も無く座り込んでいた。

 

「……メ…メルエ……」

 

 圧迫される肺の空気を精一杯吐き出すように漏らした声は、何故か鳴り響く爆音のような音に掻き消されて行く。凄まじい音と共に響く振動が、この地下室で起こっている事の重大性を物語っていた。

 呟くようなサラの声は誰にも届かない。サラ自身でさえ自分の声が聞こえない状態であったのだから仕方の無い事であろう。

 だが、サラの視線の先にいる少女にだけはその小さな呟きが届いていた。僅かに顔を上げた少女は、周囲を確認するように顔を動かし、倒れ伏すサラの姿を見つけた瞬間、間髪入れずに立ち上がる。そのままサラの許へと『とてとて』と駆け出した。

 メルエが駆け出した瞬間も、サラしか見えない状態で走っている間も、地下室は一定の間隔で揺れ続け、その振動で何度も転びながらメルエは走り続ける。また、爆音のような凄まじい破壊音も鳴り止む事は無かった。

 

「…………サラ………サラ…………」

 

 自分の許へと辿り着き、その傍に座り込んだメルエの瞳からは止め処なく涙が溢れ続けている。それ程の恐怖を感じ、絶望を感じていたのだろう。痛む身体を感じながらも、サラは無理やり笑顔を浮かべた。

 右手しか動かない。倒れる時に背中に受けた天井の石が、彼女の脊髄を傷つけたのかもしれない。それでも何とか立ち上がろうと身体に力を込めるが、その命令が全身に行き渡る事はなかった。無理に力を込めた事で大量の血液を吐き出したサラを見たメルエは、再び涙を溢れさせ、その背中に手を宛がう。

 

「…………ホイミ………ホイミ…………」

 

 メルエにとって、何度も見て来た呪文である。自分が行使出来ない事など百も承知でありながら、それでも何とかこの姉のような存在を救いたいという想いから、その行動を繰り返し続けた。

 賢者としての洗礼を受けていないメルエに、神魔両方の呪文を行使出来る訳はない。如何に魔法力の量が多くとも、魔法の才能が頭抜けていても、彼女の体内に眠る魔法力の色が変化しない限り、彼女が『経典』の呪文を行使する事は出来ないのだ。

 そんな幼い少女の行動を見ていたサラの瞳にも大量の水分が溢れ出し始める。メルエ自身、自分がホイミを行使出来ない事を十分に理解した上で、それでもサラを救いたいと考えてくれている事に涙した。

 そして、そんな歪む視界の中に、ほんの僅かではあるが、淡い緑色の光を見たサラは、驚きと共に納得してしまう。

 『やはり賢者としての才能を持っていたのだ』と。

 

「……メ、メルエ、ありが……とう。だい……じょうぶ……大丈夫…です…から」

 

「…………サラ…………」

 

 サラの呟きの中に込められた言葉。それは、メルエにとって何よりも勝る魔法の言葉。サラがその言葉を口にする以上、この場でメルエが心配する事は何一つなくなる。そんな魔法の言葉であった。

 それでも心配そうに顔を覗き込んで来るメルエに笑顔で頷きを返したサラは、静かに瞳を閉じる。まるで眠るように閉じられた瞳を見たメルエは焦りを感じるが、僅かに動いたサラの右腕から溢れ出す緑色の光を見て安堵の笑みを浮かべる。

 

「……ベ、ベホマ……」

 

 その詠唱と同時に巨大な魔法陣が浮かび上がり、サラの身体を包み込む。急速に治癒して行くサラの身体は、死の間際まで迫っていた身体を戦闘可能状態まで引き上げて行く。背中の傷ついた脊髄をも修復し、徐々に身体全体に力が行き渡るようになって行く事を確認したサラは、身体を起こした。

 輝くような笑みを浮かべ、再び大粒の涙を流すメルエの頭に手を置いたサラは、そこで初めてこの地下室になり続けていた轟音と、揺れ続けていた振動が止んでいる事に気付く。前方へ視線を向けると、そこには巨大な魔王の姿が見える。そして、それに対峙するように立つ青年。

 サラはようやく状況を把握した。

 鳴り響いていた轟音は、魔王バラモスの振り上げた拳が落とされ続けていた音であり、サラの傷に響く程の振動は、その拳によって何かが地面に叩きつけられ続けた物だったのだ。それを理解したサラは、その対象となっていたのが盾を掲げた態勢のまま立っている青年だと把握する。それは、信じる事が出来ない程の奇跡である。

 あの轟音と振動は、サラが目覚めてからも数える事が出来ない程鳴り続けていた。それはサラが目覚める前から続けられていた物である事は明白であり、魔の頂点に立つ存在の全力の拳を受け続けて尚、その場に立ち続ける事など、人類には絶対に不可能な事なのだ。

 

「……カミュ様」

 

「…………カミュ…………」

 

 魔王バラモスは、サラの行使した最上位の回復呪文が生み出す魔法陣に気付き、ようやくその攻撃を中止した。それは、既に目の前にいた筈の青年が粉々になっている自信があった事が前提で、回復した他の人間の命を奪おうとした為だろう。だが、その青年は、土埃が晴れると同時に、再び魔の王の目前に現れたのだ。

 それは驚愕に値する程の物。魔の頂点に立ち、世界中の生物の頂点に立つ力を持つバラモスでさえ、その光景を信じる事が出来なかった。我を忘れる程に怒り狂っていた事は認めよう。それでも全ての力を持って振り下ろし続けた拳は、どのような生物も粉砕して来た拳である。どのように強靭な魔族であろうとその拳で叩き潰し、バラモスは魔の頂点へと登り詰めて来たのだ。

 

「人間の分際で……」

 

 再び怒りの形相を向けるバラモスに対し、無言で立ち続ける影。サラの場所からは、その影の位置は真正面ではない。少し横へとずれたその場所からは、青年の顔がはっきりと見えていた。

 上部へ掲げた盾の隙間から見えるその瞳を見た時、サラの瞳から無意識に涙が零れ落ちる。歪んで行く視界の中でもはっきりと映り込むその瞳の光は絶える事無く、むしろ輝きを増しているようにも見えた。

 諦めも絶望も、悲しみも苦しみも見えないその光が、呆然と見つめていたサラとメルエの胸で消え掛けていた希望と勇気の炎を再び燃え上がらせる。再燃した炎は、全ての恐怖と絶望を燃やし尽くし、輝く希望と絶え間ぬ勇気を彼女達に与えた。

 何故、彼がその位置にいるのか、それを理解した時、サラの心に歓喜の感情と感動の涙が襲い掛かる。彼がいる場所の真後ろには大きな血溜まりが出来ており、その中央に一人の女性が倒れ伏している。細かな痙攣を続けている事が、彼女の生命が未だに残っている事を示してはいるが、危険な状態である事は確かであろう。

 そんな女性戦士を護るように立つ青年こそ、真の『勇者』なのだろう。

 サラが幼い頃に教え続けられて来た『勇者』ではない。教会が口を揃えて発信する『勇者』ではない。全ての魔物を倒し、魔物を根絶やしにしようとする『勇者』でもなく、人類の為だけに全てを捧げる『勇者』でもない。

 だが、今、サラの視線の先で鋭く魔王を睨むその青年こそが、リーシャが信じ続け、メルエが慕い続け、サラ自身が信じ始めた『勇者』なのだ。

 

「ベホマラー」

 

 涙で擦れた声を張り上げ、サラは祈りを捧げる。サラの手に魔法陣が浮かび上がり、奇跡の光が周囲に降り注ぐ。血溜まりで倒れ伏す女性戦士に、傍らで涙を流す幼い魔法使いに、そして誰よりも強く、誰よりも暖かく、誰よりも尊い『勇者』に。

 何故、カミュが魔王の拳を受け続ける事が出来たのかは解らない。それが勇者としての力なのか、それとも彼の身体に流れる島国の国主の血が成せる鬼の力なのかも解らない。

 只一つ言える事は、彼の瞳に諦めという光はなく、その心が折れる事もないという事。その事実は、周囲にいる者達の心に希望と勇気を生み、再び前へと足を踏み出させる。それこそが、『勇者』と名乗る資格のある者が持つ特殊な力なのかもしれない。

 

「メルエ、しっかりしなさい! カミュ様の援護をするのです。メルエはカミュ様を護るのでしょう!?」

 

「……!!…………ん…………」

 

 傍で未だに嗚咽を繰り返すメルエに向かって、サラは大きな檄を飛ばす。その言葉は、メルエ自身がダーマ神殿近くの森でカミュに向かって誓った約束。二年以上前の約束を忘れた訳ではない。それでも動く事が出来ない程に折れ掛けていた心は、もう折れる事はない。メルエにとって約束という物が持つ重みは、通常の人間が考える重みではなかった。

 折れない心は、勇気と希望に満ちている。しっかりと頷いたメルエは、自分の背丈よりも大きな杖を握り、大好きな青年の背中を見つめる。その姿を見たサラは笑みを浮かべ、即座にリーシャの許へと駆け出した。

 先程のベホマラーで幾分かは回復したのだろうが、それでも死の境を彷徨っていた人間を全回復させる事は難しい。呼吸は正常に戻っていても、未だに身体を動かす事は出来ず、意識を取り戻す様子もないリーシャに駆け寄ったサラは、即座に最上位の回復呪文の詠唱に入った。

 

「大人しく死んでいろ!」

 

 リーシャの許へ駆け寄るサラの姿を確認したバラモスは、それを阻止しようと動き始めるが、その前には未だに微動だにしない青年が立ちはだかる。苛立つ感情を抑える事をせず、バラモスはその青年を横薙ぎに殴りつけた。

 だが、それでもその青年は吹き飛ばされる事はなかった。上部に構えていた盾を真横へ構え直し、その拳の衝撃を受けて尚、彼はそこに立ち続ける。既に彼の持つ盾は原型を留めてはいない。ひしゃげるように歪んだ盾には龍種の鱗が疎らになっており、それがドラゴンシールドだという事を理解出来る人間は誰もいないだろう。

 

「……お前こそ、大人しく待っていろ」

 

 鋭くバラモスを睨み付けていた勇者の口から、久方ぶりの声が発せられる。それは、魔の王に対しても臆す事無く、むしろ上位に位置しているのではないかと思える程に威圧的な物言いであった。

 本来であれば、彼の方こそ倒れ伏していても可笑しくはない。いや、正確に言えば、原型を留めぬ程の肉塊に成り果てていても可笑しくはないのだ。全身の骨の悉くが粉砕され、臓物さえも破壊され、潰されていても可笑しくはない命。ベホマラーという回復呪文によって回復されたとはいえ、それで全快する程生易しい状況ではなかった筈。

 それでも彼はその場に立ち続け、仲間を護り続ける。

 

「この我を……塵一つ残す事無く、消え失せろ! メラゾーマ!」

 

「…………マホカンタ…………」

 

 カミュの発した言葉に憤りを感じたバラモスは、目の前で不遜に立ち続ける青年に向かって三本の指の一本を指し向ける。その指先に巨大な魔法陣が浮かび上がり、その魔法陣を理解したメルエが杖を振るった。

 バラモスの指先から発せられた巨大な火球は、真っ直ぐにカミュに向かって飛んで行く。直撃してもいないにも拘わらず、迫る火球の熱気でカミュの髪の毛が焦げて行った。それでも動こうとしないカミュの身体が光の壁によって覆われる。人類最高位に立つ魔法使いの魔法力によって生み出された光の壁が呪文に対しての絶対的な障壁となるのだ。

 

「ふはははっ。この呪文はあのお方が生み出された呪文。貴様らのような矮小な人間にどうこう出来る物ではないわ!」

 

 しかし、その光の壁を認識して尚、魔王バラモスは高笑いを浮かべる。カミュに斬りつけられた傷も癒えず、未だに体液を流し続けながらも自身の勝利を疑わないその姿にカミュは眉を顰めた。

 そして、その言葉が真実である事を告げるように、カミュを護る光の壁に衝突した極大の火球は、弾き返される事なく光の壁を押し続ける。目の前に迫っている極大の火球は、カミュのような人間の身体など何一つ残す事無く消し去るだけの力を有していた。それを理解しているカミュは、火球と衝突している部分に僅かな亀裂が入った事を目にし、急遽横へと避ける。

 

<メラゾーマ>

メラと呼ばれる火球呪文の最上位に位置する呪文である。しかし、その呪文は人類の間では伝わっておらず、エルフや人間にとって火球呪文の最上位はメラミであるという認識があった。それは、このメラゾーマという呪文を編み出した存在が魔族であるという説や、限られた魔族や魔物にしか契約出来ない呪文であるという説があり、その説も限られたエルフの間でしか語られては来なかったからだ。その呪文を編み出した魔族の名を持つとさえ伝えられているその呪文を実際に見た人間は、過去一人もいない。

 

「ちっ」

 

 自身の身の危険を感じ、咄嗟に横へと動いてしまったが、その先にいるのは横たわるリーシャに回復呪文を唱えるサラである。マホカンタの光の壁を砕き、その威力を落としたとはいえ、人間の一人や二人を軽く飲み込む事の出来るだけの脅威は維持している。その熱量を感じたサラは、振り向き様に先程メルエが唱えた物と同じ呪文を行使した。

 サラとリーシャを包み込むように生み出された光の壁が、最上位の火球を受け止める。軋むような音を響かせ、光の壁の淵が解る程にその形状を歪ませて行く。マホカンタという全ての魔法を弾き返すと云われる絶対障壁がまた一つ消え去ろうとしていた。

 

「ふはははは! 何度受け止めようと同じ事。そのまま消し炭となって燃え尽きろ!」

 

 魔法力の制御はサラの方が遥かにメルエよりも上だとはいえ、その魔法力の量は逆である。全てを弾き返す光の壁の強度は、その質ではなく量が重要となるのだ。軋んでいた光の壁に細かな亀裂が入り始める。

 リーシャの意識は未だに戻ってはいない。今のサラに強靭な女性戦士を担いでこの場を離れる事など出来ず、巨大な火球が押し寄せている場所へカミュが割り込む事など出来ない。絶体絶命の窮地から抜け出たと感じていただけに、サラの瞳に再び絶望の闇が映り込んだ。

 

「な! き、貴様……それは!」

 

 しかし、唯一人、この状況でも心を折らぬ者がいた。

 先程、誰よりも慕う青年から勇気と希望を受け取り、その胸に誓った約束を果たす事を決意した少女が、自身の背丈よりも大きな杖を動かしたのだ。

 杖の先のオブジェの口が大きく開かれる。それと同時にその嘴の先を中心に巨大な魔法陣が浮かび上がった。その魔法陣は、この地下室にいる誰もが目にした事のある紋様。しかし、それを呆然と眺めるサラが持つ『悟りの書』にさえも記載されてはいなかった魔法陣である。

 魔法陣を形成する一言一句が目に入る程に大きく、その輝きはサラが行使した最上位の回復呪文の魔法陣よりも強い。光の壁に入る亀裂の音さえも耳に入らないかのように、サラは呆然とその魔法陣から生み出される神秘に目を奪われた。

 

「その呪文は、あのお方が生み出された物だ! 貴様のような人間に……はっ! き、貴様は……」

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 その魔法陣の形に驚愕の表情を浮かべたのは魔王バラモス。

 それもその筈であろう。その魔法陣は、魔の王を名乗る者が先程行使し、今まさに勇者一行の内二人を消し去ろうとしていた呪文の物なのだ。

 呟くような詠唱が地下室に響き渡る。その合図を待っていたかのように、雷の杖の先にあるオブジェが、巨大な火球を吐き出した。その火球は大きさも然る事ながら、凝縮された炎の密度がメラミなど比較にならない程に濃い。触れる大気さえも飲み込んでしまう熱量を放ちながら、光の壁を破壊しようとするバラモスの放った火球へと真っ直ぐに走った。

 

「きゃぁぁぁ!」

 

 凄まじい熱量と熱量のぶつかり合い。魔法に対しての絶対防壁と言っても過言ではない光の壁の内にいながらも、サラはその衝突の凄まじさに悲鳴を上げてしまう。相手を喰らうかのようにせめぎ合いを続けていた火球であったが、徐々にメルエの放った火球がその勢いを増して行った。

 如何に魔の王が放った物とはいえど、二つの光の壁を破壊しようとするのに相当な勢いを殺されていたのだ。新たに生み出された火球の勢いに勝てず、その熱量を奪い尽くされ、全てを飲み込まれて行った。

 同種の火球を飲み込んだメルエの放ったメラゾーマは、そのまま反対側の壁に直撃し、壁石を融解させながら消滅して行く。火球が消滅した後に見えた壁の大穴が、その呪文の凄まじさを物語っていた。

 

「その馬鹿を叩き起こせ!」

 

「えっ? あ、は、はい!」

 

 その凄まじさに圧倒され、火球が消えて行った先を呆然と眺めていたサラは、突如響き渡った声に我に返る。即座にもう一度リーシャに対してベホイミを行使したサラは、その身体に傷が残っていない事と呼吸が安定している事を確認した後、揺り動かしながらその名を呼んだ。

 カミュが発した『叩き起こせ』という指示は、文字通りの事なのだろう。実際、死の境を彷徨ったサラ自身が体験しているのだから、その行動方針に変わりは無い筈だ。しかし、そんな事がサラに出来る訳がない。しかし、耳元で名を叫ぶサラの声にもリーシャは反応しなかった。

 

「早くしろ!」

 

「き、貴様達だけは生かしてはおけん。退け!」

 

 サラを急かすカミュの声が響き渡り、それを掻き消す雄叫びをバラモスが上げる。大きく横へ振った腕と共に唱えられたバシルーラの詠唱が、抗う事の出来ない強制的な風を生み出す。しかし、それでも地面に足が根を生やしたように動かないカミュを見て、バラモスが苛立たしげに舌打ちを鳴らした。

 怒りに任せた魔王の豪腕が振るわれ、それを避けたカミュがすれ違い様に剣を振るう。神代から伝えられる稲妻を模した剣は、その名の通り、バラモスの腕に稲妻のような一撃を落とした。凄まじい轟音が鳴り響き、バラモスの体液と共にその太い腕が宙に舞う。しかし、その瞬間を狙ったかのように再び唱えられたバシルーラという呪文が、カミュの身体を強制的に壁へと吹き飛ばした。

 カミュが壁に直撃するのを確認する事無く、バラモスが動き出す。斬り落とされた腕を放置したまま向かう先は、自分の背丈よりも大きな杖を抱き締めて立つ幼い魔法使いの許。狂いそうな程の怒りに冷静さを失っているバラモスの口からは、体液なのか涎なのかわからない液体が零れ落ちていた。

 

「…………リーシャ…………」

 

 徐々に近づいて来る存在は、先程までメルエの心に恐怖を刻みつけていた存在。徐々に再燃する恐怖の炎がメルエの幼い心を蝕み、膝が細かく震え始める。助けを求めるように呟かれた声は、消え入りそうな程にか細く儚かった。

 しかし、その呟きは、彼女の第一保護者を自負する女性には届く。先程までどんなにサラが呼び掛けても反応を返さなかった女性戦士は、その呟きが大気に溶けて行くよりも前にその両目を開いたのだ。

 即座に立ち上がったリーシャは、メルエへと近づくバラモスとの間へと割って入る。その豹変振りに驚きの表情を浮かべていたサラは、一つ苦笑を浮かべると、壁に激突したカミュの様子を窺うように視線を動かした。

 

「メルエ、私にもう一度スカラとバイキルトを掛けてくれるか?」

 

「…………ん…………」

 

 一度死線を彷徨ったリーシャの身体は、いつの間にか魔法の効力が薄れていた。スカラやバイキルトによって彼女の身体や武器を覆っていたメルエの魔法力が霧散している。それは、確実にリーシャが死の一歩手前まで旅をしていた事を示しており、心を折ってしまっていたメルエの魔法力制御が不安定になっていた事を示していた。

 そのやり取りを聞きながらも、立ち上がって来るカミュを視界に納めたサラは、驚愕の表情と共にメルエを振り返る。もし、メルエの不安定な制御によって補助呪文の効力が消え失せてしまっていたとしたら、何がカミュを護っていたというのだろう。あれ程の攻撃を一身に受けながらも心を折らず立ち続け、先程はバラモスの腕さえも斬り飛ばしている。それが補助呪文の支え無く行っていた行為であるとすれば、彼は別の何かに護られているとしか考えられない物であったのだ。

 故にサラは、立ち上がり様に駆け寄って来るカミュの姿に恐怖を感じてしまう。それは未知の者への恐怖ではなく、彼自身が生命さえも犠牲にしてこの場に立っているのではないかという恐怖。この戦いが終わった瞬間に、その役目を終えるかのように生命の灯火を消すのではないかという不確かな恐怖にサラは青褪めた。

 

「さぁ、カミュ、最後の戦いだ!」

 

「直前まで眠っていた奴に言われたくはない」

 

 再び役者は集結した。

 魔の王の圧倒的な脅威をその身に受けながらも、再びこの場に募ったのだ。

 無傷ではない。誰しもが死の境を彷徨った。目に見える傷が消えはしても、誰もが満身創痍である。勇者の魔法力は既に枯渇しており、この先で呪文を行使する事は出来ない。最上位の回復呪文も、彼にしか行使出来ない絶対防御の呪文も使えはしない。戦士は死線を彷徨って帰還したばかりである。その手に込める力が上手く全身に行き渡るまで、今しばらくの猶予が必要であろう。同じく死線を彷徨いながらも帰還した賢者の魔法力は一度枯渇し、祈りの指輪で魔法力を補充はしたが、それも十分な量ではなく、再び枯渇する時は近い。幼い魔法使いもまた、皆を護る為に何度も補助呪文を行使し、その体内にある余力の全てを使い尽くしかねない状況にまで追い込まれていた。

 それでもこの四人は、その最大の脅威へと向かい合う。

 その脅威の先にある未来を夢見て。

 

「纏めて死んで逝け!」

 

「フバーハ!」

 

 四人が固まった事を把握したバラモスは、大きく口を開き、激しい炎を吐き出した。しかし、それを予測していたサラが両手を前に出して霧の壁を生み出す。先程行使した筈の霧の壁は既に霧散しており、意識を失っていたサラが制御不可能だった事を物語っている。だからこそ、サラが意識を失っている間に吐き出された激しい炎を、カミュはまともに全て受け止めたのだ。

 燃え盛る激しい炎は、霧の障壁とぶつかり蒸発して行く。それでも残る熱波を物ともせず、リーシャが炎の中を突き進んで行った。

 

「…………マヒャド…………」

 

 そんなリーシャを支援するように、後方から身も凍る程の冷気が吹き荒れる。熱風に曝されていた彼女の身体が急速に冷やされ、氷の刃と化した魔神の斧の刃先が魔王の身体に吸い込まれて行った。

 深々とバラモスの脇腹に突き刺さった斧を渾身の力で振り抜いたリーシャは、追撃を警戒して即座に距離を取る。体液と内部の臓物が飛び出た事で態勢を崩したバラモスの腕がリーシャを吹き飛ばすように薙ぎ払われた。距離を取っていてもその脅威に曝されたリーシャは咄嗟に盾を構えて防御の態勢を取る。脇腹を抉られた事で十分な力を込める事が出来ないバラモスの腕は、リーシャの身体を吹き飛ばす事は出来ず、サラやメルエの待つ後方へ飛ばす事しか出来なかった。

 再び戦闘態勢に入ったリーシャに視線を奪われていたバラモスは、最も警戒しなくてはならない者への注意を怠ってしまう。

 

「バイキルト!」

 

「うおぉぉぉぉ」

 

 賢者の放つ緻密な魔法力を纏わせた剣を構えた勇者が、その内にある情熱を吐き出すような雄叫びを発して、バラモスへと突進していたのだ。その距離は僅か。脇腹の治癒を優先する時間もなく、カミュを弾き飛ばす呪文を行使する事も出来ない。必然的にバラモスは一つの呪文を行使する選択肢しか残されてはいなかった。

 真っ直ぐカミュに向けられた指先に巨大な魔法陣が浮かび上がる。この世で限られた魔族しか契約する事は出来ず、その中でもそれ相応の実力を持つ者にしか行使出来ない最上位の火球呪文。全ての呪文を弾き返すと云われる光の壁さえも砕き、全てを飲み込む程の熱量を持つ、最大の攻撃呪文と言っても過言ではないだろう。

 それが再び、カミュの身に襲い掛かろうとしていた。

 

「メラゾーマ!」

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 しかし、彼の後方には、そんな魔族の常識さえも覆す程の才能を秘めた魔法使いがいる。バラモスが行使した魔法陣をその頭の中に叩き込み、二度目にその魔法陣を見た時に、その魔法陣の構成までをも読み解く程の才能。

 賢者と謳われるサラでさえ出来ぬ偉業。しっかりと記憶した魔法陣を頭に思い浮かべ、それを杖先に展開する事によって詠唱を可能にするなど、人間界の常識さえも無視している。『魔道書』や『経典』、更に言えば『悟りの書』に記載される呪文は、その魔法陣の構成も描かれている。それを地面に描き、その内に入る事によって契約を済ませるのが通常の呪文使いであるのだが、メルエはその順序を飛び越えてしまっているのだ。

 契約とは、その呪文に必要な魔法力を対価とし、力を借りる為の物として語られている。だが、今のメルエは強引にその魔法陣を描き、呪文を使役しているのに等しい行為をしていた。それがどれ程に常識破りで、どれ程に驚異的な事なのか、それをこの中で理解出来るのは、この幼い少女の師である賢者と、その呪文を与えられた魔王だけなのかもしれない。

 

「き、貴様! 一度ならず、二度までも!」

 

 カミュに向かって飛び出した特大の火球は、同じようにカミュの側面後方から飛んで来た特大の火球とぶつかり合い、あらぬ方向へと進路を変えてしまう。流石に魔王と少女の火球となれば、必然的に魔王の火球の勢いの方が強く、メルエの呪文はじりじりとその勢いを喰われてはいるが、進路が変わった事によって、一行に危害が出る事はないだろう。

 先程以上の憤怒の表情を浮かべたバラモスが、行使した少女を睨みつけ、それを亡き者にするために動き出す。だが、この魔王は怒りの余りに、何故自身がメラゾーマを放つ事になったのかという事実を失念していた。

 

「ぐぼっ……き、きさま……」

 

「メルエ! 祈りを捧げなさい!」

 

 突如走った激痛に、バラモスの視線が下へと落ちる。バラモスの動きが止まった事を見たサラは、地面に両膝を着いてしまったメルエへ指示を叫んだ。ここまでの呪文の行使に加え、魔王が行使するような最上位の呪文を二度も詠唱して来たメルエの魔法力は完全に底を突いてしまっていた。

 少女の指に嵌められた祈りの指輪は、サラの指に嵌められている物とは根本的な部分が異なっている。サラの物は、エルフ族の暮らす隠れ里で購入した物であるのに対し、メルエのそれは、イシス国女王から直に譲られた物であった。

 購入した祈りの指輪は、エルフの親達の祈りが込められているとはいえ、それはカミュ達に向けられた祈りではない。それに比べ、メルエが譲り受けた物は、メルエを含むカミュ達一行の無事な帰還へのイシス国女王の祈りが込められているのだ。

 その違いは、見た目には解らず、言葉にしても解らない。それは心に直接響く物である。

 

「…………メルエ………まもり……たい…………」

 

 その呟きは、精霊ルビスに捧げる物ではないのかもしれない。その言葉は少女の願いであり、決意であった。そして、その願いこそが、その指輪を譲り受けた時にイシス国女王と交わしたメルエの約束である。

 故にこそ、この指輪はその願いに応えるのだ。

 眩い光に包まれたメルエの身体に、魔法力が漲って行く。全快する事はないまでも、幼い少女の全てを支える魔法力が今、その小さな身体に満ちて行った。

 

「ごふっ……」

 

 そんなサラとメルエのやり取りの間に、バラモスは自身の胸から生える剣先を眺め、怒りに震えていた。先程のカミュの一撃は、正確にバラモスの胸を貫き、その生命の源に一撃を入れていたのだ。溢れ出る体液が逆流し、魔王の口から一気に吐き出される。それは、カミュが剣を抜くのと同時に堰を切ったように溢れ出して来た。

 世界を恐怖に陥れる魔王でさえも死を実感するような一撃。それは、カミュだけの攻撃ではない。そこまでの様々な過程を経て、一瞬だけ生まれた僅かな隙を突いたという話。

 サラが懸命に回復に努め、攻撃呪文の効果が薄くとも、メルエがその類稀なる才能を持ってバラモスの攻撃を相殺し、リーシャがバラモスの攻撃を掻い潜りながらその身体を斬りつけて生まれた本当に僅かな隙に、カミュという『勇者』が入り込んだのだ。

 世界中の時を止めてしまったのではないかと思う程に静かな時が流れる。それは本当に僅かな時だったかも知れない。瞬きする程度の少ない時間だったかもしれない。それでも、それを見つめる一行には、ここまでの四年以上の旅と同程度に長く辛い時間であった。

 

「……き、きさまだけは……貴様だけは生かしてはおけん」

 

 その停止した時間が破られる。あとは倒れ込むだけであった筈のバラモスが、一歩前へと踏み込み、その腕を高らかに振り上げたのだ。狙いは、その先に佇む幼い少女。既に生命の灯火も消えかけたその最後の輝きを、バラモスは一つの目的の為に燃え上がらせる。

 踏み出す一歩は、カミュやリーシャの比ではない。空間を超越したのではないかと思える程、一気にメルエとの距離を詰めて行く。その腕を振り下ろすだけで、幼い少女は消え失せる。そこまでの距離に近づいた時、バラモスの足元で一筋の光が駆け抜けた。

 

「ぐぅ……」

 

 メルエへと近づくその足を横薙ぎに払った一閃は太腿を深く抉り、バラモスの重心を崩す。膝を着くように落ちたバラモスの身体に、再度光が走った。

 魔神の斧と呼ばれる魔の神が愛した武器が、魔の王を名乗る者の身体を傷つけて行く。噴出す体液は、最早その命の灯火が消え失せている事を示すように、量を減らしていた。

 既に勝敗は決している。だが、それでもこの者は魔の王であり、魔族の頂点に立つ者なのだ。残る腕を大きく振り上げ、そのまま自身に残る最後の魔法力を集めて行く。集束して行く魔法力は、周囲の空気を巻き込み、凄まじい圧迫感を生み出していった。

 一気に薄くなって行く大気に、カミュやリーシャの動きもにぶり、その最後の攻撃を許してしまう。

 

「……イ…オナズ……ン……」

 

「…………マホカンタ…………」

 

 圧縮された空気が一気に開放される。それは、一撃で範囲内の人間を全滅させる事が可能な程の最上位攻撃呪文である。メラゾーマは一点集中の力だとすれば、イオナズンは拡散型の広範囲に及ぶ暴力と言っても過言ではない。

 しかも、魔の王の死力を尽くした一撃である。この地下室ごと潰す程の一撃が、一行全員の視界を塗りつぶして行く。即座にメルエが杖を振るい、自身の周囲に光の壁を生み出すが、基本的にマホカンタと呼ばれる呪文は単体に向けての呪文であり、その効力を広げようとすれば、光の壁に行き渡る魔法力が薄くなってしまい、呪文を弾く事自体が不可能となってしまうのだ。

 サラのマホカンタと合わせても、全員を護る障壁を生み出す事は出来ない。それを予測しての行使だとすれば、魔王バラモスは最後に一行全員の道連れを考えていたのかもしれない。

 

「きさまだけは……きさまだけは……」

 

 しかし、魔の呪文の常識さえも覆した少女にとって、人間にとっての呪文の常識などあってないような物である。自身の内に残る魔法力を全て開放するように放たれたマホカンタは、一箇所に纏まった勇者一行全てを包み込むように展開され、輝く壁を生み出していた。

 地下室全てを破壊する程の爆発音が響き渡り、天井は崩れ、地上にある泉の水が流れ込む。天井を支えている柱に入る亀裂が大きくなり、支えを失った壁が魔王が座っていた玉座を飲み込んで行った。

 それでも勇者一行は倒れない。世界中の全ての期待と希望を背負うその背を、地上から降り注ぐ太陽の輝きが押して行く。

 最大の爆発呪文さえも弾き返され、残された魔法力さえも失ったバラモスは、それでも腕を幼い魔法使いへと伸ばした。まるで少女さえ葬り去れば自分の役目が終わるかのように、その姿には悲壮感さえも漂わせている。

 だが、魔王の悲願は届かない。

 

「いやぁぁぁぁ!」

 

 伸ばされた腕は、突如として空を舞う。死力を尽くし、死を賭して戦い続けて来た者の会心の一撃が決まったのだ。

 一閃された斧の一撃は、バラモスの二の腕付近に突き刺さり、その刃の鋭さと、それを所有する者の技量の高さによって、根元から魔王の腕をもぎ取る。腕が根元から失われたにも拘らず、その根元からは最早体液さえも零れない。既に枯渇した命の源は、この世界を恐怖に陥れ続けて来た諸悪の根源の消失を明確に物語っていた。

 

「ごふっ……こ、この……バラモスを倒したところで……」

 

 虚ろなバラモスの瞳は、未だに幼い少女から離れない。既に立ち上がる事も出来ず、振り上げる腕もない状態でこの魔王に出来る事は只一つ。何かを言いかけながらも、しっかりと開かれた口の中には、燃え盛る激しい炎が見えていた。

 その光景を見上げる女性戦士にも、少し離れた場所で見つめる賢者にも、その隣に立つ魔法使いにも焦りはない。何一つ恐れる事はなく、何一つ不安になる要素はない。

 それは、彼女達の前に一人の青年が立っているから。

 

「……最後だ」

 

 その呟きは、崩れ行く地下室の轟音の中でも、一際大きく響き渡った。

 後ろで見つめる三人の女性の耳に。

 そしてその心に。

 

 長く続いた一つの時代が終わりを告げる。

 辺境の小さな島国を旅立った青年は、自身が考えていた物とは全く異なる旅路を経て、予想さえもしなかった結末を迎える事となった。

 その剣は誰の為に振るうのか。

 その盾は誰の身を護る物なのか。

 その心は誰を想う物なのか。

 

 駆け出した『勇者』の一閃が、差し込む陽光のように輝いた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
これにて第十六章は終了となります。

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