新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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アリアハン城②

 

 

 

 ウィザードバーグと名を変えた都市から離れた一行は、南東を目指す。ゆっくりと羽ばたく神鳥の羽毛に包まれた少女は、既に夢の中へと旅立っていた。

 いくら神鳥とはいえども、瞬間移動が出来る訳ではない。船で渡るよりも遥かに速い速度ではあるが、それでもアリアハンまでは数日掛かるだろう。先程まで最後の輝きを放っていた太陽は西の大地へと沈み、月明かりが降り注ぎ始めている。まもなく星々が輝く時間帯へと突入する事は明白であった。

 ルーラという移動呪文を行使する方法もあるが、それでも結局は移動する事に変わりは無く、無駄な魔法力を使用するよりも、ラーミアという神鳥の背で移動した方が合理的であるという判断なのだろう。

 

「カミュ、夜も更ける。ラーミアも休ませなければならないだろうし、一度何処かで野営をしよう」

 

「……わかった」

 

 景色の変化を感じ取ったリーシャが一度地上へ下りる事を提案し、カミュはそれに肯定を示す。最早、ラーミアはポルトガを越え、バハラタ近くの森の上を飛んでいた。着地場所を探すようにカミュが声を掛けると、一鳴きした後ゆっくりと高度を下げて行く。サイモンの亡骸が眠る島のある湖を越え、森の手前で着陸したラーミアは、自身の食料を探す為にもう一度大空へと舞い上がった。

 カミュ達がこの近くで野営するという事を理解しているのだろう。食事を終えれば、またこの場所に戻って来るであろう事を察したカミュとリーシャは、その付近で野営を行う為に準備を始めた。一人だけ、柔らかな羽毛から引き剥がされる事にぐずった少女がいた事は、また別の話である。

 

「先に休ませて貰いますね」

 

「ああ、この場所の魔物であれば、警戒する必要もないだろうが、火の番は私とカミュに任せてゆっくり休め」

 

 カミュとリーシャで狩って来た獲物や果物で食事を終えると、メルエは即座に眠りに就いてしまい、暫く後でサラもまたその傍に身を横たえる。リーシャの言葉通り、このバハラタ周辺に生息する魔物であれば、最早カミュ達の敵ではない。更に言えば、魔王バラモスの影響力が消滅した事により、余程の事がない限りは魔物に襲われるという事もないだろう。『腐った死体』のような、元々生命を持たない種類の魔物となれば尚更である。

 本来であれば、火の番など必要はないだろうが、それでもこれまでの習慣のようにカミュは焚き火に薪をくべ、リーシャは炎を見つめていた。

 

「……アリアハンまでは行くが、城下にはアンタ方だけで行ってくれ」

 

「なに?」

 

 暫くそうした静かな時間が流れた後、不意に開かれたカミュの口から発せられた言葉にリーシャは素で聞き返してしまう。それ程に意味が解らない言葉であり、全く予想もしていなかった言葉であったのだ。

 アリアハンへの帰還は、盛大に祝われる程の物である。それは英雄の帰還などとは比べ物にならない、真の勇者としての凱旋なのだ。誰も成し遂げられるとは考えていなかった程の偉業である、『魔王討伐』という使命を見事に果たした者の帰還は、世界中の生物の喜びと共に、それを送り出した者達の誇りとさえも成り得るもの。

 その場所に、その主役が戻らないと口にしたのだ。リーシャでなくとも、呆けて当然の事であっただろう。

 

「ま、待て! 何故だ!? 確かに、お前にとってアリアハンに良い思い出などないかもしれないが、魔王バラモスを討った今のお前であれば、それこそ国を動かす事の出来る力を持っているのだぞ?」

 

「……元々、あの国へ帰るつもりは無かった。戻った所で新たな制約が増えるだけだ」

 

 魔王バラモスを討伐したのは、カミュを含めて四人の功績ではあるが、世界中の人々が崇めるのは、その使命を受けた『勇者』である。魔王の消滅によって世界が劇的に変わるだろう。その時に誰よりも崇められるのは、それを命じた国王ではなく、それを成した『勇者』なのだ。

 カミュにとって忌まわしい過去しかないアリアハンではあるが、帰還すれば今まで彼を英雄の息子としてしか見ていなかった者達も、彼こそが『勇者』であると認めるだろう。それまでとは正反対の待遇が彼を待っているに違いない。リーシャは、そのような華々しい経験をカミュにもして欲しかった。

 だが、それに対して返された答えは、リーシャの胸に太い釘を突き刺す。『元々戻るつもりが無かった』という言葉は、リーシャの胸の奥で理解していた事柄であり、理解していて尚、蓋をして奥へ仕舞い込んでいた事であったのだ。

 

「こ、国王様への報告があるだろう!? お前にはその義務がある筈だぞ!」

 

 そして、リーシャの恐れていた事もまた、先程カミュが口にした事の一つであった。

 以前、ランシール近辺の森の中でサラと語り合った時に危惧された事柄。それは、魔王という強大な存在を討ち果たした者の力もまた、それ以上の脅威となりかねないという事実である。

 確かに、世界を恐怖で覆った『魔王バラモス』という存在は消滅した。だが、それを討ち果たした者というのは、それ以上の力を持っているという事を証明している。世界中を恐怖させる程の力よりも上位にある力。それは、力の無い者にとっては、脅威以外の何物でもないのだ。

 故にこそ、それを抑え、制御する為の制約が生まれて来る。彼を捨石とさえ考えていた可能性のある国家であれば、その者を牛耳る為に更なる強硬な制約を強いても不思議ではなかった。

 

「アリアハン国王への報告は、本来は騎士であるアンタの仕事の筈だ」

 

「ならば、お前はどうするつもりだ!?」

 

 国王への報告は、勇者であるカミュの義務であると同時に、それに同道する命を受けたリーシャの義務でもある。カミュが同席しないという事は本来許される事ではないが、魔王との戦闘によって受けた傷の療養中とでも言えば、それもまた許されるだろう。それ程に過酷な旅であった事は、彼女達が証明出来るからだ。

 だが、アリアハンに戻らないという事は、カミュが何処の国にも属さない存在となってしまう。それはアリアハン国家としても看過出来る物ではない。故にこそ、カミュはアリアハン国へ戻らなければならないという義務が生じるのだ。

 魔王を討ち果たす事さえも可能な者となれば、軍事的にも政治的にも人間社会では非常に危うい存在となる。その存在を所有する国家は、それだけの力を有する事となり、世界的な発言力も行動力も強くなるのは必然であろう。アリアハンとしても、それを他国に奪われる事だけは何としてでも避けたい筈だ。

 国家に属して来たリーシャという宮廷騎士は、その事をこの場にいる誰よりも理解している。だが、それでもこの青年を無理やりアリアハンへ連れて行く事だけは出来なかった。これだけの時間を共有して来た彼が、どれ程の苦しみと悲しみを味わって来たのかという事の一端を、彼女は見てしまっていたからだ。

 故に問い掛ける。

 何処へ向かうのかと。

 

「さぁな」

 

 だが、それに対して、明確な答えは何一つ返って来る事は無かった。視線を外すように焚き火の炎へと瞳を向けた彼は、静かに薪を炎へと入れて行く。薪に残る水分が炎の中で弾け、乾いた音が夜空へと響き渡った。

 二人の会話はこれ以上進む事はない。リーシャには言いたい事が数多くはあった筈であるが、それでもその口が再び開かれる事はなかった。

 

 

 

 朝陽が昇り、朝食を取った一行は、待機していたラーミアの背に乗り、再び大空へと舞い上がる。魔王の放っていた瘴気からの開放を喜ぶように空一面は晴れ渡り、勇者達の新たな門出を祝っているようにさえ感じる物であった。

 だが、その中でも沈痛の面持ちのまま一言も口を開かない女性戦士の姿は、彼女の抱える悩みや苦しみを知らないサラとメルエにとって、とても不思議な物に見える。時折真っ青な空を見上げ、一つ息を吐き出しては遠くを見つめる彼女の姿は、悲壮感さえも漂う程に寂しい物だった。

 

「……アリアハンが見えて来ました」

 

「…………アリ……アハン…………」

 

 広く青い海が途切れ、懐かしい村が見えて来る。自然と溢れ出す涙は、彼女達が歩んで来た長い道程の全てを洗い流す想いなのかもしれない。感慨深そうに下を見つめるサラの横で、初めて見る大陸に首を傾げ、メルエがその名を反芻していた。

 レーベという村を越え、瞬く間にラーミアは『ナジミの塔』の上空に達する。その景色を見ていたリーシャとサラの頭に、四年以上前の出来事が鮮明に思い出されていた。

 アリアハン城下町を旅立つ時の数多くの声援は、今もリーシャの心に残っている。二人を見送る大勢の人間達の中を必死に掻い潜り、ようやく城下を出た時の景色をサラは今でも鮮明に思い出せる。

 

『どうぞ、このサラも、勇者様の旅へ同道する事をお認めください』

 

 息を切らして追い付いた先で叫んだ言葉は、リーシャの耳にもサラの耳にも残っている。その後顔を上げた時に見た、背筋が凍る程に冷たい視線は、今もサラの心に恐怖の欠片を残していた。

 何一つ噛み合う事のない三人の旅は、この小さな島国から始まったのだ。踏み出した事の無い外の世界に戸惑いながらも期待に胸を膨らませていたサラが、アリアハン城下町を出て直ぐに絶望を味わう事になったのも、今では懐かしい思い出である。

 自分が何故アリアハンという国を出される事になったのかという事を突きつけられたのは、ナジミの塔がある小島に近い森の中であった事をリーシャは思い出す。言い返す事の出来ない悔しさと、自分でも何処か察していた事を指摘された事による絶望。それは今まで感じた事の無い感覚であり、前後不覚になる程の衝撃であった。

 

『最後にお主達のような若い希望の力になれた……』

 

 ナジミの塔とレーベの村に居た二人の老兄弟が揃って口にした言葉である。あの頃のサラには、この言葉の持つ重みと哀しみ、そして喜びと望みを正確に理解する事は出来なかった。

 今のサラにはそれが痛い程に理解出来る。あの二人の老人は、決して生を諦めた訳ではない。だが、死を真っ直ぐに受け入れたのだ。まるで、バラモスを討ち果たした時のカミュのように、その命の灯火が消え去るという事実を受け入れ、抗う事を止めた。

 哀しく、苦しい時間は長く辛い物だっただろう。だが、あの時の二人には、それさえも懐かしい思い出として振り返る事の出来る心が宿っていたのかもしれない。

 

『……私は、カミュ様の言葉を否定する事が出来ません』

 

 その時に感じた苦しみと悩みは、その先の旅の中で彼女の頭と心に残り続ける。何度も悩み、何度も苦しみ、何度も嘆き、何度も泣いた。何度も倒れたし、何度も救いを求めた。だが、一度たりとも、その時に感じた疑問を解決出来るような答えが与えられる事はなかったのだ。

 それでも、その女性は『賢者』となる。世界を救うと謳われる『勇者』と対を成す存在であり、『勇者』が取りこぼす『人』という種族を救う存在として。彼女ほど、自身の存在とこの世界の理について悩んだ『僧侶』はいないだろう。彼女ほど、精霊ルビスという存在を信じながらも、この世界の『人』の中で広まる教えに疑問を持った『僧侶』はいないだろう。

 その全ての始まりは、レーベの村を二度目に訪れたあの夜なのかもしれない。

 

「……アリアハン城だな」

 

 それぞれの胸に各々の想いを抱きながらも、遠い過去にあった出来事のように思い出に浸っている内に、ラーミアはこの大陸の王のいる城の上空に辿り着く。四年以上も前に出た頃と全く変わりなく、城はそこに存在していた。

 城下町へと続く門は固く閉ざされているが、上空から見た城下町の活気は、リーシャが生まれてから一度も見た事のない程の物である。町は活気に溢れ、色とりどりの衣服が町中を回っていた。煌くようなその輝きが、太陽の光を反射し、鮮やかな色合いを醸し出している。

 アリアハン城に掲げられている国旗は、風に身を任せて悠然と揺れており、抜けるような青空に映えていた。

 全ての物が懐かしく、それでいて遠い過去に見た物のように新鮮に映る。徐々に近づく城の景色は、郷愁の思いに駆られるリーシャとサラの胸を強烈に締め付けていた。

 

「……帰って来る事が出来たのだな」

 

「は、はい……生きて戻る事が出来ました」

 

 着地したラーミアの背から降りたリーシャは、目の前で閉ざされた大きな門を見上げて瞳を潤ませる。既に大粒の涙を溢し始めていたサラは、何度もその言葉に頷きを返し、咽ぶように言葉を漏らしていた。

 どれ程に苦しい時間を過ごしていようと、彼女達二人にとってはこのアリアハンこそが故郷なのだ。生国であり、育ててくれた国である。それは、長い時間を掛けて培われた物であり、どれ程の濃い時間を他所で過ごしたとしても、その想いだけは変わらない。

 そんな二人の感動の時間は、意外な程に早く終幕を迎える。

 

「……もう、会う事もないだろう」

 

「え!?」

 

 リーシャとサラの背中に掛けられた言葉は、とても短く、とても小さかった。サラが驚いて後方を振り返った時には、それを発した青年はラーミアの背に乗り、飛び立つように指示を出す。サラの隣には何かを諦めたような表情をしたリーシャがおり、哀しみを帯びた瞳は、傍にいた筈の少女の背中へ向けられていた。

 急にカミュがラーミアの背に乗った事で、置いて行かれると感じたメルエは、それを追うようにラーミアの背に手を伸ばす。だが、既に浮かび上がった霊鳥の羽毛にはメルエの幼い手は届かず、泣きそうな顔を浮かべた。

 

「馬鹿者! メルエを連れて行ってやれ!」

 

 その声は誰に向けられた者であろう。涙で擦れたような大声に、浮かび上がったラーミアの首が動く。メルエが纏う天使のローブを嘴で挟んだラーミアは、そのまま幼い少女の身体を背中へと降ろして上空へと飛び上がった。

 一瞬の出来事に目を奪われていたサラは、既に遥か上空へと舞い上がってしまったラーミアの姿に我に返る。このような結末は彼女の想像の枠を遥かに超えていた。世界の脅威であった諸悪の根源を討ち果たし、全ての生物の平和を勝ち取った勇者がその功績を讃えられる事無く行方をくらませるなど、到底考えられる話ではない。それこそ、アリアハン国家としても世界に顔向け出来ない程の失態となる筈だ。

 そのような状況にも拘らず、リーシャは何も口にする事もなく、遠ざかるラーミアの影を追っている。それがサラには不思議でならなかった。

 以前のリーシャであれば、カミュの行動を何が何でも止めたであろう。アリアハンという国家に仕える宮廷騎士でもある彼女にはアリアハン国としての面子を護る義務がある。魔王バラモスを討ち果たした勇者と共に、アリアハン国王に拝謁し、その栄誉を賜るという願いもあっただろう。

 だが、寂しげな瞳を空へと向ける女性騎士は、その逃亡にも近い勇者の行動を黙認したのだ。

 

「よろしかったのですか?」

 

「……ん? 何を言っても無駄だろう。カミュは十分に苦しんだ。もうそろそろ、自由にしてやっても良い筈だ。それに……メルエがカミュを選ぶ事も解っていた事だからな」

 

 一騎士が判断して良い事柄ではない。だが、彼女は敢えてそれを犯した。その心にある想いはサラには解らない。それはきっと、アリアハン城の謁見の間から共に旅をして来たリーシャにしか解らない想いなのだろう。

 勇者もおらず、共に戦った魔法使いもいない。そのような状況で、サラがアリアハン国王に拝謁する事は出来ず、必然的にリーシャ一人での謁見となるのだろう。その時、この騎士がどれ程の叱責を受けるのかはサラにも解らない。もしかすると、魔王バラモスの討伐という偉業さえも打ち消してしまう程の罰を科せられるかもしれない。

 それでも、この決断をしたリーシャに対して、サラが口に出来る言葉は何一つなかった。

 

「サラ、城下に入るぞ」

 

「は、はい!」

 

 ラーミアの影が遠く北の彼方へ消えて行った頃、ようやくリーシャは門へと向き直る。大きな城門の脇にある勝手口に取り付けられた窓を叩き、中にいるであろう門番へ合図を出したリーシャの言葉で、サラはその後を追って歩き出した。

 小窓から顔を出した男の顔は、長くアリアハンで生活していたリーシャやサラも驚く程に穏やかで晴れやかな物であり、それが今のアリアハン国を明確に現している。門番としての職務は、余計な発言をする必要はない。訪れた者の素性を確認し、それが国にとって危険な者でなければ門を通すという単純な物。だが、訪れた者が起こす行動の良し悪しによって、門番である者に責任が及ぶという重い仕事でもある。

 

「宮廷騎士のリーシャ・デ・ランドルフだ。この度、勅命である魔王討伐を果たし、帰還した」

 

「なっ!? も、申し訳ございません! すぐに門をお開け致します!」

 

 宮廷騎士リーシャ・デ・ランドルフ。

 その名は、四年前であればこのアリアハンで知る者など限られていた筈。貴族とはいえ、最下級に位置する家名である。アリアハン城下町でその名を知る者は彼女が懇意にしていた者達だけであろうし、アリアハン国で宮仕えしている者達の中でもそれ程名が通っていた訳ではない。貴族達の中で、彼女の持つ才能と力に嫉妬の感情を持っていた者達ならば別であるが、有象無象の騎士の一人と考える者達も多かっただろう。

 だが、この門番の慌てようから察するに、彼の瞳は英雄を見るように輝き、その対応を自分がしている事に感動さえ覚えているように見えた。

 今の城下を見る限り、魔王の消滅という状況が伝わっているようにさえ感じる。確かにカミュ達は、直接この国へ戻った訳ではなく、全世界にルーラを使用した情報が行き渡っても可笑しくはない時間が流れてはいた。だが、その情報の出所は一体何処であるかという事だけが、サラの胸に大きな疑問として残る事となる。

 

「アリアハンへよくぞお帰りなさいました! 魔王バラモスの討伐の報は、既にこの国にも届いております!」

 

「……そうか」

 

 巨大な門が開き、徐々に見えて来るアリアハン城下町は歓喜に満ちていた。誰もが笑みを絶やす事無く、笑い声と歓声が溢れている。ゆっくりとその中へと入ったリーシャとサラを歓迎するように、先程の門番が口を開いた。

 リーシャの表情は、横にいるサラが今まで見た事のない物。それは、彼女の職業である宮廷騎士としての顔なのかもしれないが、サラの好きなリーシャの顔ではなかった。

 門番とリーシャの会話に口を挟む事の出来ないサラは、四年ぶりに戻った故郷の町の光景に目を細める。何もかもが懐かしく、それでいて何処か寂しく感じるのは、彼女がこの世界にある全ての国と町や村を訪れているからなのかもしれない。

 この小さな島国が彼女の全てであったあの頃、雄大であり威厳に満ちた町だと思っていたこの城下町が、今は何故か小さく見える。この城下町を出た時のサラの年齢は十七。四年経過した今もその頃と身長は変わらない。視点は変化していないが、彼女の視野が変わったのだろう。

 

「……勇者カミュ様はどちらに?」

 

「ん? ああ……」

 

 門番はサラを一瞥すると、リーシャの後方に誰もいない事に気付く。魔王討伐という命を受け、この城下町を大々的に旅立った者は、今リーシャの横にいる女性ではない。それは、このアリアハン国の国民全員が帰還を待ち侘びている『勇者』という存在なのだ。

 勇者カミュは、英雄オルテガの息子であると共に、彼らと同じアリアハン国民である。城下町の外れにある一軒家で十数年を過ごしていた彼は、父親の名声の影響もあって、町民達全員に顔を知られていた。故にこそ、この名誉ある凱旋に彼がいない事に不審を抱いたのだろう。

 

「し、失礼致しました! さぁ、早くお城へ。国王様もお喜びになっておられます」

 

「……ああ」

 

 門番とはいえ、その責務は重い。人の表情や雰囲気を見て入国の審査をするのである。リーシャの表情と、口ごもる姿を見た彼は、ある一つの想像を巡らせた。

 それは、魔王バラモスとの戦闘で、勇者カミュは名誉の死を遂げたのではないかという勝手な想像。誰もが恐れ、世界中を恐怖に陥れる程の存在との戦闘は、彼らのような一般人には想像さえも難しい。如何に勇者といえども、無傷で勝利を捥ぎ取る事など出来ない筈だ。そう感じていた彼は、相討ちという最期を持って、勇者がこの世に平和を齎したのだと考えた。

 それは、勝手な妄想ではあるが、現状のリーシャ達の状況から考えれば、否定する必要性を感じない物である。勇者がこの国に戻らないという事実よりも、『死』とされた方が、カミュの今後の生活にも影響は少ないだろう。

 

「お疲れ様でした! そしてありがとうございました!」

 

「これで……これで平和がやって来るのじゃな」

 

 王城へと歩く途中、リーシャとサラは道々で彼女達を見ている者達の言葉に耳を傾ける。その全てが喜びと感謝に満ちており、騎士として悠然と歩くリーシャの横で歩くサラは、気恥ずかしく居心地の悪い想いを抱いていた。

 俯いて歩くサラは、自分の記憶に残る十字架の影が地面に映りこんだ事で顔を上げる。そこに祀られたルビス像が、胸の前で手を合わせ、静かな微笑を湛えていた。そして、そんな教会の開かれた門の前で立っていた一人の男性を見た彼女は、瞬時に溢れ出す涙に視界を歪ませる。

 

「国王様への報告は私がする。サラは、待ってくれている人の許へ戻れ」

 

「……はい!」

 

 元々、サラという『僧侶』は国王から使命を受けた者ではない。カミュが旅立つ時に『仲間を集めよ』という言葉を国王から賜っていたが、アリアハン城下町にある酒場にカミュが訪れる事がなかった事など、既に耳に入っている筈だ。

 そうであれば、如何に魔王バラモスを討伐したとはいえ、サラが国王に謁見しなければならないという義務はない。サラが名声を欲しているのであれば、リーシャは強引にでも謁見の間に彼女を連れて行っただろうが、今の彼女にその欲がない事を誰よりもリーシャは心得ていた。

 サラという賢者の目指す物を現実とする為には、ある程度の名声と権威が必要となるのかもしれないが、それを彼女達が実感するのはもう少し先の事となる。

 

「よく戻りましたね、サラ。ルビス様も、貴女のその努力を褒めて下さる事でしょう」

 

「……神父様」

 

 リーシャの方に振り返りながらも教会に辿り着いたサラは、涙混じりに自分を抱き締める年老いた神父の背中へと手を回す。娘の身を案じていたように暖かなその愛情は、久しくそれを感じていなかったサラの心へと素直に浸透して行った。

 サラは既に一僧侶ではない。それこそ、この年老いた神父達の遥か高みに立つ『賢者』である。だが、その事を彼女は口にしないだろう。ようやく訪れた平和の中で、波風を立てる事を彼女は嫌う筈だからである。

 だが、それは彼女が『賢者』である限り、長くは続かないだろう。そんな一抹の哀しみを感じながら、リーシャは義理の親子の再会を眺め、再び歩き出した。

 

「騎士様、ご無礼を承知でお尋ねしたい事が……」

 

 既にサラから視線を外し、アリアハン城へと続く橋を視界に入れた頃、リーシャは不意に横合いから声を掛けられる。リーシャが騎士である事に遠慮した言葉ではあるが、それはリーシャの拒否を受け付けない程の強制力を感じる問い掛けであった。

 視線を移したリーシャの瞳が見開かれる。

 そこに立っていたのは、その存在を知りながらも、リーシャでさえ言葉を交わした事のない相手であり、このアリアハン城下町で一番名の通っている人間であった。

 

「息子は……カミュは魔王バラモスを打ち倒す事が出来たのでしょうか?」

 

 英雄オルテガの妻ニーナである。

 世界中に名が通り、アリアハン国民の憧れともなっている英雄の妻となり、若くして一人息子の母となった者。今や、英雄オルテガの妻であり、勇者カミュの母という名声を持つ女性であったのだ。

 胸に手を合わせ、不安に眉を下げながらリーシャに問い掛けるその姿は、一人息子の身を案じているようにも見えながら、何処かそうではない雰囲気を醸し出している。その不思議な感覚が何なのかが理解出来ないリーシャであったが、それでもこの問い掛けにはしっかりと答えなければならない義務が彼女にはあった。

 

「はい。カミュは、その手で魔王バラモスの首を落とし、見事討ち果たしました」

 

「ああ……やはり、オルテガ様はカミュを見守って下さっていたのですね」

 

 胸を張り、自分と共に命を賭して戦った勇者の勇姿を真っ直ぐに伝えたリーシャは、その言葉を聞いたニーナの言葉で、朧気ながらも自分が感じた不思議な感覚の理由に気が付く。しかし、それはここで決め付ける事の出来るような問題ではない。故に、リーシャはこの妙齢の女性ともう一度言葉を交わそうと口を開く。

 うっとりと何処かに意識を放ってしまっているニーナは、胸の前で手を合わせながら空を仰ぎ見ていた。

 

「ニーナ様、大変申し訳ありません。カミュはここへは戻っていません」

 

「え? ま、まさか……」

 

 苦々しく表情を顰めたリーシャの言葉は、意識を飛ばしていたニーナの脳へ直接響き、目を見開いたまま視線を動かす。

 魔王討伐という偉業を成し遂げて尚、生国であるアリアハンへ彼が戻って来ないという事は、一般的な想像力を持つ者ならば『死』を連想させるのは必然である。それはこの母親も同様であり、半開きのままになっている唇は微かに震え、リーシャの言葉を聞き漏らすまいとその瞳を固定させていた。

 そんなニーナの姿に安堵の溜息を漏らしたリーシャは、ゆっくりと口を開く。

 

「いえ……カミュは生きております。ですが、この国に戻る事はありません」

 

「……そうですか。ですが、何処にいても、オルテガ様がカミュを護って下さいます」

 

 ニーナの返答を聞いたリーシャは、自分の中にあった違和感が確信に変わった事を知る。そして、哀しげにニーナを見つめ、小さく頭を下げた後、アリアハン城へと続く橋を渡り始めた。

 知らずに溢れる涙は、誰を思っての物だろう。自分の瞳から流れる涙に気付いたリーシャは、青く澄んだ空を見上げ、何処かでこの空の上を飛んでいるであろう青年を思う。彼が何故、あれ程までにここを嫌うのか、そしてレーベの村で宿屋の義理の息子に向かって語った内容が何から来ていたのかを彼女はようやく理解したのだ。

 オルテガの妻であるニーナは、既に三十路を半ば越えて尚、オルテガの妻であり続けているのだろう。確かに、彼女は息子であるカミュを愛している事に変わりはない。それは絶対に揺るがない事実であり、どれ程にカミュに対して厳しい態度を取っていても、心の底から息子を愛していた。

 カミュの祖父であるオルテナという老人は、己の息子の不名誉な汚名を返上するという目標を持ち、孫を厳しく鍛える為に非人道的な行為を行っていたのかもしれないが、その横でこの母親は口を挟めなかっただけなのかもしれない。だが、幼い少年にとっては、手を差し伸べてくれない者もまた、自分を虐げる者に映っていたとしても責める事は出来ないだろう。

 

「カミュ……今、お前の傍にいる少女は、お前という存在だけをしっかりと見つめてくれている筈だぞ……」

 

 オルテガの妻であるニーナにとって、カミュは自身の息子という前に、英雄オルテガの息子という面が強かった。自分の腹を痛めて産んだ息子ではあるが、彼女は息子を産んで尚、オルテガにとっての女性であろうとしていたのだ。それは、彼女が未だに自身の夫の名に敬称をつけている事からも窺える。

 若くしてオルテガに嫁ぎ、二十歳になる前に母となったニーナは、恋する夫への愛情を捨て切る事は出来ず、息子に対しての愛情も歪めてしまったのだろう。それは、オルテガの死という、何よりも辛い報によって加速して行き、息子の姿に恋する夫の姿を見てしまっていた。

 カミュが己の力で何かを成したとしても、『オルテガ様が護っていたから』と言われれば、その努力も覚悟も無に帰してしまう。『オルテガ様であったら……』、『オルテガ様のように』と言われ続けるという事は、子供の立場から見れば、自身を見てくれていないと感じてしまっても仕方のない事であろう。

 それを彼は十六年間感じ続けて来たのだ。それは、祖父や母親の本当の心とは異なる事だったのかもしれないが、それでもそれを受け続けて来た彼にとって、自分を見てくれない者達を『親』と認識する事が出来なくなってしまったとしても誰もそれを否定する事は出来ないだろう。

 

「国王様にお取次ぎを」

 

「はっ! 暫しお待ち下さい」

 

 アリアハン城門に辿り着いたリーシャは溢れる涙を拭い、城門を護る門兵に口上を述べる。英雄となった女性騎士の涙を勘違いした門兵は感極まったように涙ぐみ、即座に城へ取次ぎに戻った。

 そんな兵士の後姿を見ながらも、リーシャは再びカミュの過去について想いを馳せる。

 カミュの心を覆う闇、そして背中に残る不恰好な傷、そしてカミュがメルエに対して口にした暗い過去。その全てはカミュの視点からの物であり、全てが真実という訳ではない。擦れ違いや掛け違いがあったとはいえ、カミュが受けて来た苦痛や悲しみは消える事はないだろう。そして、カミュの持つ憎しみが失せる事もない。だが、彼が愛されていたという事実もまた、変えようのない事実であるのだ。

 オルテガの息子として母親から見られてはいても、その根底にあるのは愛情である。彼の身を案じて作られたサークレットには、彼の身代わりになるように『命の石』が嵌め込まれていた。彼が戻らない事を伝えたリーシャに向けたニーナの顔は、誰が何と言おうと息子を想う母親の顔であった。

 だが、その全ては伝わらない。

 それも、永遠にだ。

 

「哀しいな……。お前が持つ憎しみも、お前が持つ悲しみも、誰にも届きはしないんだ。だが、お前を想う者の暖かな愛情も、お前の生存を喜ぶ表情も、お前には届かないのだな」

 

 門兵が戻るまでの間、リーシャは再び涙を溢す。

 哀しい生き方しか出来なかった、誰よりも優しい青年を想いながら。

 誰が悪で、誰が正義など、誰にも決める事は出来ない。カミュから見れば、この世界に生きる全ての人間が悪に映るだろう。幼い内に荒くれ者達が多い討伐隊に放り込まれた彼が経験した苦痛は、想像も難しい。何度も死を経験し、それでも死を許されず、そしてそれを護るべき存在である親は自分を見ていない。

 彼の逃げ場は何処にあったというのだろう。

 彼の心の安らぎは何処に求めるべきだったのだろう。

 

「お待たせ致しました。国王様がお待ちです」

 

「うむ」

 

 カミュが魔王バラモスの討伐に成功した今となっては、彼の祖父の厳しい行いも正当化されてしまう。『幼い頃から厳しく鍛錬を行っていたからこそ、勇者は魔王を倒せた』と言われれば、それを否定出来る者は誰一人としていないのだ。

 『魔王バラモスを討ち果たし、英雄オルテガの無念を息子が晴らした』というカミュの感情を無視した噂は飛ぶように世界へと広まるだろう。そして、その影には『英雄オルテガが天から勇者を護っていたのだ』という噂も付いて来る。

 カミュという青年がこのアリアハンへ戻り、祖父や母親と向き合わない限り、彼が持つ恨みも憎しみも永遠に残り続けるのだ。そして、それは母親側も同じであり、どれ程に息子を愛していたかという事を伝える事は出来ず、この親子は永遠に分かり合う事はない。

 それは親の本当の愛を知るリーシャにとって、哀しみ以外の何物でもなかった。

 

「お帰りなさいませ」

 

「よくぞ戻られた」

 

 謁見の間に向かう廊下を歩くリーシャに、数多くの言葉が掛かる。宮廷で働く侍女や、文官達も丁重に女性騎士の帰還を祝福する。そのような中、不意に感じた鋭い視線に気付いたリーシャは、そちらの方へと視線を動かした。

 そこには『いざないの洞窟』で会った上級貴族の騎士が立っていた。視線を向けて直ぐには最早名前さえも出て来ず、咄嗟に誰であったのかさえも解らなかったリーシャではあったが、その騎士が向けて来る敵意のある視線で、ようやく誰であったのかを思い出す。

 親の七光りで宮廷の地位を得た者から見れば、勇者と共に旅立ち、四年の月日を経て魔王を討ち果たした女性騎士に集まる視線が憎らしかったのだろう。羨望も高まれば憎悪になる。もはや憎しみに近い視線を送って来るその男の視線に気付きながらも、リーシャは軽い溜息を吐き出して無視する事にした。

 あの頃、躍起になって自分の力を認めて貰おうとした女性騎士はここにはいない。今や、このアリアハン国にいるどの騎士よりも高い戦闘能力を持ち、それこそ一部隊が相手でも殲滅出来るだけの経験を積んだ彼女にとって、一騎士の妬みなど気にする必要もない些事であったのだ。

 

「……良い気なもんだな。魔王を倒した英雄様は、いつの間にか貴族の位も上がるのか?」

 

 だが、無視をされた貴族にとっては、些事で済ます事の出来る物ではない。

 どれだけ強大な敵を討ち果たした者だとしても、どれだけの偉業を成した者だとしても、狭い箱庭から出た事のない者から見れば、現実味のない物なのだ。故にこそ、その力関係も、立ち位置も昔のままだと錯覚する。

 アリアハンという小さな国しか知らない彼にとって、リーシャという女性騎士は下級貴族に他ならず、貴族の地位という物しか誇る物を持たない彼は、それに縋るしかないのだ。

 だが、現実は箱庭に降り注ぐ太陽ほど優しくはない。

 

「……ひっ! 勇者やお前など、いずれ俺の指揮下に入れて貰い、捨て駒にしてやる」

 

 無言の圧力を受けた男は瞬時に硬直する。しかし、無意識に威圧的な空気を作ってしまった事を恥じたリーシャがそれを押さえ込むと、男は喚くように言葉を吐き捨てた。

 既に城の中でも貴族しか入る事の出来ない領域に入っていた為、周囲に人は少ない。故に彼を咎める者もおらず、彼を諌める者もいなかったのだ。それが彼の勘違いを更に強くさせる。

 魔王という諸悪の根源を打ち倒す程の力を有した者を御しきれる訳がない。そして、それ程に貴重な力を有した者達を一貴族の指揮下に入れる訳もない。だが、常に自分の思い通りに生きて来た彼には、大半の望みは権力を通して可能であったのだろう。

 だからこそ、先程と全く異なる雰囲気になっているリーシャに気付かなかった。

 

「……宮廷を血で汚す訳にはいかないな。だが、この世に未練がないのならば、いつでも相手になろう」

 

 一瞬の怒気を受けただけで、彼の腰は砕ける。へたり込むように座り込んだ上級貴族の股から暖かな液体が零れ始めた。四年もの間、強力な魔物と戦い続けて来た者がその腕を振れば、自分などの命は容易く消し飛ばされる事をようやく理解したのだ。

 そんな哀れな男の姿を見たリーシャは、自分を諌めるように首を数度振り、再び謁見の間への道を歩み始める。そして、この程度の者達の妬みに負けた過去の自分を情けなく思うのだった。

 この男がカミュと共に旅に出ていたら、間違いなくアリアハン大陸を出る事は出来なかっただろう。戦闘技術も然る事ながら、その無駄な誇りが邪魔をし、最悪カミュに斬り殺されていたかもしれない。

 宮廷貴族もこれ程に腐った者達ばかりではないが、大なり小なり貴族としての誇りを持っている。それは、この宮廷で生きる為には必要不可欠なものではあるが、カミュやサラやメルエという個性の強い者達と旅をする上では、これ以上に邪魔になる物などないだろう。

 そこまで考えて、リーシャは自身が貴族である事への顕示欲がない事に気付く。騎士としての誇りはある。父が残してくれた家名への誇りもある。だが、下級貴族へ落ちた家名を再び上げようという願いはあったが、それを他者へ誇示しようという思いはなかった。

 もしかすると、それが勇者への同道の理由だったのかもしれないと思った所で、謁見の間へ続く扉の前へと辿り着く。

 

「宮廷騎士リーシャ・デ・ランドルフ様、ご帰還されました!」

 

「お通ししろ!」

 

 扉を護る兵士が、名乗りを上げるように声を張り上げ、それに応えるように中から声が響いた。ゆっくりと開かれる扉の向こうに見えてきた玉座には、懐かしきアリアハン国王の姿が見える。その横には大臣だけではなく、数多くの役人達が並び、リーシャ一人だけの帰還を待ち侘びていた。

 一歩一歩踏み締めるように赤絨毯を歩き、リーシャは玉座へと進み出る。その身に纏う『大地の鎧』はこの場にいる誰もが見た事のない輝きを放ち、その背に背負う『魔神の斧』は誰もが腰を引いてしまう程の威圧感を放っていた。

 それこそが魔王バラモスという存在を打ち倒す事の出来る程の力量を持つ者である事を明確に示す物である。誰も見た事のない武器や防具を持ち、鍛え抜かれた肉体と、試練を乗り越え続けて来た精神が放つ空気は、その姿を見た者達の息さえも止めてしまう程に凄まじかった。

 

「よくぞ、戻った!」

 

「はっ」

 

 玉座から少し離れた場所へリーシャが跪くのを待っていたように、アリアハン国王の声が広い謁見の間に響き渡る。顔を上げる事無くもう一度頭を下げたリーシャの声に、国王は満足そうに頷きを返し、一つ息を吐き出した。

 魔王バラモスの討伐の報は、既に国王の許へも届いている。誰がそれを成したかなど火を見るよりも明らかであり、英雄オルテガの死後に魔王討伐へ旅立った人間はアリアハンから出立した勇者と女性戦士しかいない。そして、ここにその女性戦士が戻って来たという事実が、魔王バラモスの消滅という事実を証明していた。

 それは全世界の喜びであり、アリアハン国の誇りである。

 

「よくぞ魔王バラモスを打ち倒した! 流石は英雄オルテガの息子である。国中の、いや世界中の者達が勇者カミュを讃えるだろう」

 

「はっ」

 

 国王の顔に一瞬の苦悩が浮かぶ。しかし、即座にそれは笑みと変わり、その偉業とそれを成した者を讃える言葉を送った。静かに聞き入るリーシャは、赤い絨毯を見つめながら、ここには居ない三人の仲間達の顔を思い浮かべる。

 不愉快そうに眉を顰める『勇者』

 過分な程に恐縮し、身を震わせる『賢者』

 何故自分が頭を下げているのかも理解出来ずに不思議そうに首を傾げる『魔法使い』

 その全ての者達の表情が鮮明に浮かび、リーシャの頬は無意識に緩んだ。魔王バラモスの討伐という偉業は、彼等三人が居たからこそ成しえた物である。カミュとリーシャという二人では到底成しえなかった物であり、そこにサラが加わっただけでも成しえなかった物。

 運命のように、そして奇跡のように集まったこの四人でなければ成す事の出来なかった偉業は、ようやく認められる。願わくば、この場に全員が揃っていればと思うリーシャであったが、その思考は国王から掛かった次の言葉で霧散した。

 

「面を上げよ!」

 

 ゆっくりを顔を上げたリーシャが見た国王の表情は何処か晴れやかであり、何処か寂しげであった。それがリーシャには不思議な光景に映るが、それを問い掛ける事など出来はしない。目の前で自分を見つめる者は、このアリアハン国を治める国王であり、リーシャという女性騎士にとっての主となる者であるのだ。

 

「……して、カミュは戻らぬか……」

 

「!!……御意……」

 

 薄い笑みを浮かべた国王は、小さく呟くような問いを投げかける。その声にリーシャの身体は小さく跳ね、国王の問い掛けに肯定を示した。

 まるでその事を予想していたような国王の言葉はリーシャにとって予想外の物であり、それを察していて尚、これ程穏やかな表情を浮かべる国王の真意が理解出来ない。だが、国王の胸の内を邪推するなど、臣下としてあってはならない物であり、リーシャはそれ以上思考する事を止めてしまった。

 ただ、国王は静かに瞳を閉じ、小さく息を吐き出す。それを見た大臣や他の役人達は、それぞれに勝手な妄想を始めるのだ。

 

「……苦労を掛けたな……今はゆるりと休むが良い」

 

 天井へ視線を移した国王の言葉が、皆の想像に決定打を打つ。

 それは、勇者の『死』。

 魔王バラモスを打ち倒す事に全てを賭し、全てを失った勇者は、この瞬間にアリアハン国にて生み出されたのだ。

 

「……国王様」

 

「良い、何も申すな」

 

 それがアリアハン城下町で暮らす者達であればリーシャは何も言わない。その勘違いを訂正する事はないし、それをする必要性も感じはしなかった。だが、それが自分が仕える主となれば話は別である。国王を欺く事は一騎士として出来る物ではない。故に、彼女はその身に罰が下る事を承知で口を開こうとする。

 しかし、その言葉は始まる前に遮られた。

 遮る声の主は、この国の頂点に立つ王。不敬と知りながらもその瞳を真っ直ぐに見てしまったリーシャは、その瞳の奥に真実を見る。

 『国王様は全てを理解していらっしゃる』と。

 

「さぁ、皆の者、ここには無い者達と共に祝おうぞ! 祝いの宴じゃ!」

 

 魔王バラモス台頭から数十年。その苦しく長い時間の間にこの世を去った者達は数知れず。誰もが苦しみ、誰もが哀しみ、誰もが涙した。その長い道程があればこそ、今この喜びと平和があるのだ。

 国王の宣言を機に、謁見の間に歓声が沸く。全員が喜びの声をあげ、喜びの涙を流す。隣の者達と抱き合い、己の生と友の生を喜び合った。それは、このアリアハン国だけではなく、全世界で生きる者達が待ち侘びた瞬間である。

 だが、謁見の間の内部を警護する兵士が宴の準備のために侍女を呼ぼうと扉に手を掛けた時、その短い歓喜の時間が暗転した。

 

「ぎゃぁぁぁぁ!」

 

 謁見の間の後方から響き渡った悲鳴に全員が振り返る。しかし、その場には先程悲鳴を上げた者の姿はなく、立ち上る黒煙と焦げ臭い臭いが謁見の間に広がり始めていた。

 それは、先程までその場所に居た筈の兵士の消滅を意味している。その意味がこの場にいる者全てに理解出来ない。しかし、それは周囲を覆うように出現した闇が答える事となる。

 突如現れた闇は、リーシャの周りに居た兵士達を次々と飲み込んで行き、その身体も心も魂さえもこの世から消滅させて行く。それは正に地獄絵図であった。

 誰しもがその闇の正体を理解出来る者はおらず、目の前で完全に消滅する兵士達の姿に本能的な恐怖を植え付けられる。植え付けられた恐怖のよって身は竦み、制御下を離れた身体は全く動かす事が出来ない。役人の一人がこの世から消え去った時、ようやくこの状況を打開出来る唯一の人間が我に返った。

 

「おりゃぁぁ!」

 

 跪く際に、利き腕とは逆側に置かれていた禍々しい斧を取り、アリアハン国王にまで手を伸ばそうとする闇に向かってそれを振り下ろす。世界最高位に立つ戦士の一撃が、国王の傍に広がった闇を霧散させ、危機的な状況を打開したのだ。

 そのまま国王を護るように武器を構えた彼女は、周囲で腰を抜かす役人達の周囲に再び闇が出現するのではと注意深く謁見の間を見渡す。しかし、それ以上は人を飲み込む程の闇が出現する事はなく、その代わりに謁見の間全体が夜のような闇の帳が下りて来た。

 先程兵士達を飲み込む闇が出現した時、直ぐには気付かなかったリーシャではあったが、その闇がバラモス城にて魔王バラモスを飲み込んだ物と同一である事を理解した時、瞬時に気持ちを切り替え、『騎士』の顔から『戦士』の物へと変化させていた。

 

『ふははははははっ』

 

 そして、隣にいる人間の表情さえも明確に見えない暗闇の中で、地の底から響くような巨大な笑い声が響き渡る。生命を持つ者であれば、誰しもが『死』を連想し、絶望の淵に落とされる程の恐怖を植え付けられる声。その笑い声を聞いた者全てがその場にへたり込み、中には失禁をしている者さえ居る。リーシャでさえも斧を握る手が細かく震える程の圧倒的な力が、その声には満ちていた。

 静まり返る謁見の間には、先程まで満ち満ちていた喜びの空気も、希望の空気も有りはしない。そこにあるのは、圧倒的な恐怖と、闇よりも暗く、地の底よりも深い絶望だけであった。

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございました。
調子に乗って描いていたら、いつの間にかとんでもない文字数になりました。
ですので、二話に分けようと思います。
二話目はもう少し時間を置いて更新致します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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