新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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アリアハン城③

 

 

 

 謁見の間に広がる暗闇は、誰もの心に生み出された深い哀しみと苦しみを表すように、徐々に全てを支配して行く。生き残った役人達の瞳は生気を失い、全ての気力を失くした者のように虚ろな表情を浮かべていた。

 ようやく訪れたと思った平和という甘い蜜を吸い込んだ者達にとって、全てを絶望の淵に落とす程の闇は、生きる気力さえも奪い尽くす威力を誇る。それだけの圧倒的な力をこの闇は有していたのだ。

 

「ふはははは! 喜びの一時に少し驚かせてしまったようだ。だが、矮小で脆弱な貴様ら人間にとって、一時でも喜びに浸れた事に感謝して欲しい程だが……」

 

 闇の中で響くその圧倒的な声は、高圧的に見下した言葉を紡いで行く。そして、その内容は決して声の主が人間側の味方ではない事を明確に示していた。矮小で脆弱な存在として人間を見下すその姿勢は、リーシャ達が打ち倒した魔王という強大な存在と同じ物。だが、その声が持つ威圧感は、魔王バラモスさえも可愛く見える程に圧倒的な物であった。

 この謁見の間にいる人間でその事実が認識出来るのは、王を護るように斧を構える一人の女性戦士だけであろう。腰を抜かしたように床に座り込む者達は、声が持つ威圧感に恐怖していても、それがどれ程の力を有する者なのかなど、理解する事は出来ない。比較対象が無いのだ。

 魔王という世界を席巻する程の力を有した者と対峙し、尚且つそれを討ち果たしたリーシャだからこそ、この声の持ち主が『敵対してはいけない者』である事を認識する事が出来たのだろう。魔王を倒した一行の一人である女性戦士の足が小刻みに震えている事がそれを物語っている。斧を持つ手も震え、立っているだけでも全ての気力を使い果たしてしまうのではないかという程に、彼女はこの声の主に恐怖を抱いていた。

 

「余の名は『ゾーマ』! 闇の世界を支配する余の力が戻った以上、この世界全てを闇に閉ざしてやろう」

 

 闇の世界

 それは、生物ならば誰しもが本能的に恐れる世界である。誰もが闇を恐れ、炎を点して明かりを生む。魔物以外の生物であれば、闇の中で行き抜く事など出来よう筈がない。人間が太刀打ち出来ない強大な魔物達が生きる世界を支配する者。それは、魔の王を名乗ったバラモスよりも更に上位に位置する者である事を示していた。

 闇は生物の奥底にある凶暴性を強くする。人間であっても、エルフであっても、闇に対する潜在的な恐怖は持っており、その恐怖が転じて高揚状態になった時、それは凶暴性を生み出すのだ。魔物の凶暴性は増し、人々の不安は矛先を変える。

 世界の崩壊への始まりである。

 

「……ゾーマ」

 

「さぁ、苦しみ悩むが良い! 貴様らの苦しみこそが余の喜び……」

 

 震える唇から零れたリーシャの声は、深い闇の中へと消えて行く。新たに出現した世界の脅威に対し、今の自分では何も出来ないという事を彼女は明確に理解していた。だが、消えて行く彼女の声に重なるように宣告された内容は、彼女の瞳の奥に消え掛けていた勇気の炎を再び燃え上がらせる。他者の苦しみこそが自身の喜びだと告げるその声に、謁見の間にいる者達の誰もが瞳を閉じる中、リーシャだけは燃える瞳を闇に向けた。

 ここまでの数十年の時間の中、どれ程の人間が、どれ程のエルフが、どれだけの魔物達が苦しみ悩んで来ただろう。今の彼女は、人間が善であり魔物が悪であるとは考えていない。一行の中でも間違いなく人間寄りの彼女でさえも、魔物達には魔物達の生き方があるという事を理解していた。

 なればこそ、それらを操り、苦しみ足掻く姿を楽しむような者が全ての元凶だという認識を持つようになっている。それがリーシャという女性戦士の見解であり、限界なのかもしれない。

 

「命ある者全てを余の生贄として捧げよ! その見返りとして、貴様らが味わった事のない絶望でこの世界を覆い尽くしてやろう!」

 

「姿を見せろ!」

 

 先程までの恐怖による足の震えはいつの間にか止まっており、リーシャは闇に向けてしっかりと斧を構え直している。生物全てを生贄とし、この世界を闇で覆い尽くす事を宣言するその声に向かって叫んだリーシャは、何時何処に声の主が現れても良いように臨戦態勢に入った。

 しかし、彼女とて魔王バラモスを討ち果たした猛者である。その身体から発せられる圧力は、宮廷という安全な場所で過ごして来た者達にとって恐怖を感じる程に強力な物であり、鳴り響く声と共に脅威と成り得る程の物であった。

 

「余の名はゾーマ……全てを滅ぼす者である。貴様ら全てが生贄となる日を楽しみにしておるぞ。ふはははははは……」

 

 息巻くリーシャを嘲笑うかのように、笑い声を最後にその声は途切れる。世界で生きる全ての生物を生贄に要求するという前代未聞の圧力を残し、謁見の間を取り巻いていた闇も徐々に晴れて行った。

 宮廷に差し込む陽光が謁見の間にまでその恵みを届け始めた頃、ようやく押し迫っていた危機が去った事に安堵の溜息があちこちから零れ始める。それと同時に、リーシャの後方で圧力に負けず立ち続けていたアリアハン国王が玉座に座り込む音が聞こえた。

 大きな溜息を吐き出し、手を額に当てるようにして視線を隠すその姿は、実際の年齢よりも十年以上老けてしまったようにさえ感じる。僅か前までは、ようやく訪れた平和を祝した宴の指示を出していたこの国王の心労は、リーシャのような宮廷騎士でさえ察する事が出来ない物であった。

 

「なんとした事だ……ようやく平和を取り戻せたというのに……」

 

 深い溜息を吐き出し、ようやく搾り出した言葉は悲嘆。

 アリアハン国王として、二人の勇者を輩出し、ようやく世界に平和を齎したと思った矢先の出来事に、気を張り続けていた国王の心の糸が切れてしまったのかもしれない。玉座の上で脱力するその身体からは、王族が発する覇気が全く感じられなかった。

 周囲を囲う重臣達は完全に床へとへたり込み、新たに訪れた世界的な危機よりも、目の前に感じていた死の恐怖から開放された事に安堵している。

 しかし、それも致し方ない事であろう。あのような状況の中で自我を保っていられる人間は世界中でも限られている。魔王バラモスと直接対峙したリーシャや一国を治める国王、そしてその一国の政を担う筆頭大臣だけが、この場でまだ理性を保っていた。

 

「皆の者に何と言えば良い……。これ程に疲弊した世の中で、更に闇の世界が訪れるなど、どうして言う事が出来ようか。この事は決して口外してはならぬぞ」

 

 天井へと視線を向けた国王は独り言のように呟きを漏らし、最後に筆頭大臣へ視線を移すと、先程の出来事を口外する事を禁じる命を発する。それに対して顔を顰めた大臣は、一つ呼吸を落ち着けると、国王へ真っ直ぐ瞳を向けた。

 その瞳には失望や絶望は無く、この状況に陥って尚、このアリアハンという国家を慮る使命感が宿っている。それはこの国が未だに死んでいない事の証なのかもしれない。

 

「国王様、何人かの兵士と役人がゾーマと名乗る者によって命を落としております。この事を秘するのは難しいかと……」

 

「……魔物の討伐隊に参加し、命を落としたとする。遺族への補償金を支払い、この場に居た者達にも秘密を護るように厳命するより他はない」

 

 大臣の言う通り、この場で少なくとも数人の人間が一瞬で消え去った。ゾーマと名乗る闇の王の力によって、遺体も残らずに消え失せてしまった者の事を秘する事は難しいだろう。遺族は宮廷へ出仕した事を見ているだろうし、この王城の中でもその姿を見た者は数多く居る筈である。魔物討伐隊が派遣されたという噂も無く、その行軍も見ていない町の人間はその言葉を信じるかとなれば、限りなく否に等しい。それでも、アリアハン国王は、自身に疑惑を掛けられる可能性を考えて尚、その嘘を突き通すように命じたのだ。

 元々、魔物討伐隊で命を落とした者に親族が居る場合には、その者に遺族補償金を支払う制度がアリアハンにはあった。それ程強力な魔物が生息している訳ではないこの大陸では、戦闘の術を持っている人間が命を落とすという数が少なかったというのも、制度が確立した原因の一つではある。ただ、この制度は、他国では一切見られない事を考えると、当代のアリアハン国王の異質さが窺える物でもあった。

 

「既に国庫から捻出するのは不可能であります。税収も年々少なくなる中、平和による国家活性化も夢の話となりました……」

 

「ならば、余の財産から与えれば良かろう! 城にある調度品や美術品を売り払ってでも支度致せ!」

 

 国王と大臣のやり取りを聞いていたリーシャは、ようやくアリアハン国の実態を察する。そして、自分がこの国に捧げて来た忠誠が間違っていなかった事を再確認し、知らずに小さな笑みを浮かべてしまった。

 このアリアハンという辺境の島国は貧しい。取り扱っている商品なども、他国と比べれば貧相な物ばかりであり、食料なども海の幸や山の幸を主食としている。国民が贅沢などを出来る訳も無く、城下町の一角にはスラム街と化した場所さえもある。

 貧しい国には仕事も少ない。城下町に幾つも道具屋がある訳でもなく、外界との関係を絶ったこの国に旅人が立ち寄る事などない以上、宿屋などの施設もそれ程必要ではない。武器や防具に関しても、商品の種類が限られており、店舗を構えられる人間を増やす事が出来るような在庫も無いのだ。

 必然的に仕事にあぶれた者は、魔物討伐隊に参加するか、スラム街に行く事になる。

 

「……旅の扉を開通させる事は未だ出来ません。再び難民者が多く流入しては、今度こそこの国は……。しかし、城の調度品や美術品を買い取る事の出来る商人は、この国にはおりません。可能だとすれば……城下の酒場の女店主ぐらいかと」

 

 スラム街は、元々アリアハンという国には存在しなかった。

 広大な海と、雄大な大地を持つこの国は、基本的に自給自足が可能な国でもある。海に出て海産物を獲り、山で山菜を採り、川で水を汲み、森で薪を拾う。それがこのアリアハンという国の原点なのであった。

 何時しか他国と交流を持つようになったこの国は、少しずつ形態を変えて行く。海を渡って来る交易船に海産物を売り、趣向品や武器や防具を購入し、城下で売買を行う。自給自足よりも高い収入と、贅沢な生活に慣れてしまうと、時代を追う毎に自給自足が出来る人間は少なくなって行くのだ。親が子供に教えず、子供が孫に教える事も出来ず、その内数える程の人間だけが猟師や漁師として残るだけとなった。

 そして、魔王バラモスの台頭により海は荒れ、交易船の来航がなくなると、アリアハン国家は行き詰まる事となる。税収は落ち込み、城下町の活気も著しく低下した。そんな中で旅立ったのが英雄オルテガである。英雄オルテガであれば、この最悪な状況を打ち壊してくれると誰もが希望を持ち、送り出した。

 だが、世界の希望となる英雄の出立は、思わぬ弊害を生む事となる。

 それが難民の流入である。

 

「ならば、その酒場の店主が買い取れる分だけでも良い! 大臣よ、何度も言うが……このアリアハンは国民あっての国なのだ。この国で生きる者が居なければ、国王など只の飾りに過ぎん」

 

 魔王バラモスの台頭により、凶暴化した魔物達は世界中に猛威を振るった。その被害は、生息する魔物の種類によって大きく異なり、凶暴な魔物達の生息する国から亡命する者達などが増えて行く事となる。

 出来るだけ弱い魔物が生息する国へと考える者達が目指した先は、最弱にして最古の魔物が生息する大陸。陸続きのロマリアまで出た者達は、そのまま旅の扉を使ってアリアハン大陸へと流れて来た。

 しかし、貧しく自給自足が基本のアリアハン国では、その難民全てを受け入れる事など出来はしない。レーベという村で留まる者達は少なく、アリアハン城下町に流れ込んだ難民は元々アリアハンで暮らしていた人口に匹敵する程に上った。

 必然的に仕事にありつけない難民は一箇所に集まり、それがスラム街となる。

 

「国王様……国王なくしても、国は成り立たないのです」

 

「余は……もう疲れた」

 

 最初の内は、英雄オルテガの生還を信じ、それまでの辛抱と難民を受け入れていたアリアハン国ではあったが、英雄オルテガの死亡が確認されると、これ以上の難民を受け入れる事は出来ないと判断し、旅の扉を封鎖する決断を下す。

 勇者カミュがアリアハンから旅立ったとなれば、再び旅の扉が開通した事が知れると考え、カミュの旅立ちと共に封鎖した。英雄オルテガが旅立った頃よりも更に魔物の凶暴化が進んでいる事を考えると、それ以上の難民が押し寄せて来る可能性を否定する事が出来なかったのだろう。

 他国からどれ程に糾弾されても、難民を輩出している他国を糾弾する事はせず、自国の民を護る為に国交を断絶したこの決断は、誰もが出来る物ではないのかもしれない。

 

「宮廷騎士リーシャよ」

 

「……はっ!」

 

 同行していた考え過ぎる賢者のように思考の海に潜っていたリーシャは、国王からの直の問い掛けに意識を戻す。再び膝を着いて目の前に跪いた彼女は、大臣の命によってそれぞれの仕事に戻って行く重臣達の足音を聞きながら、続く言葉を待った。

 謁見の間の扉が閉まり、周囲の気配を察するに、この場所に居る人間は彼女以外では国王と筆頭大臣だけになっているのだろう。ゆっくりと玉座の隣に戻って来た大臣が止まるのを待ってから、国王は重い口を開いた。

 

「先程の出来事は他言無用だ」

 

「はっ」

 

 予想通りの言葉に深々と頭を下げたリーシャであったが、続く言葉に反射的に顔を上げる事となる。それは、リーシャの予想の遥か上を行く言葉であり、全く想像さえもしていなかった言葉でもあった。

 反射的に上げた顔を大臣に向けると、大臣さえもそれに納得しているような表情を浮かべており、リーシャは、自分の考えの浅はかさを知る事となる。

 

「……カミュへも伝える事を禁ずる。あの者には伝えてはならぬぞ?」

 

 魔王バラモスを討伐し、名実共に『勇者』となった青年に、闇の王であるゾーマの出現を伝える事を禁じる命であったのだ。

 勇者カミュの帰還がない事で、謁見の間に居た者達の中で『勇者死亡説』が有力化した事はリーシャであっても感じる事が出来ていた。だが、その中でもアリアハン国王だけは真実を把握しているのではないかとも感じていたのだ。

 それでも、この言葉は予想外であった。

 

「カミュは自身が望む望まないに係わらず、勇者となるしか選択肢はなかった筈だ。それもこれも余の誤りから始まった事……」

 

「国王様……」

 

 静かに独白するアリアハン国王の言葉は懺悔に近い。流石に直視する訳にもいかないが、リーシャは玉座へと視線を戻した。隣に居る大臣が国王を気遣うように言葉を掛け、それを手で制するようにした国王が、真っ直ぐリーシャの瞳を見つめる。

 ここから先で語られる事が、他言無用な物である事を示す行動に気付いたリーシャは、右腕を胸の前に掲げ、もう一度深々と頭を下げた。

 

「オルテガが命を落とした報がこの国に届いた時、余は重臣達を集めた上で、オルテガの妻を登城させた。重臣達にもオルテガの死を伝える事で、オルテガという人物の死は誇るべきものである事を宣告したかったのだが……妻の言葉は余の想像を超えていた」

 

「は?」

 

 静かに語られ始めたアリアハン国王の言葉は、何処か要領を得ない。自然とリーシャは顔を上げてしまい、救いを求めるように大臣へと視線を送った。

 国王に対して直に疑問を持つ事は不敬に値する行為である。本来は、謁見最中に許しも無く顔を上げる事自体が不敬に値するのだが、この状況ではその罪を問われる事はないだろう。事実、国王は強く瞳を閉じ、大臣は静かに息を吐き出すだけであった。

 

「『オルテガ様の意志は、この子が継ぎます』と答えたのだよ。彼女の腕の中で静かに眠る我が子を見て」

 

「そ、それは……」

 

 国王の代わりに言葉を紡ぎ出した大臣は、過去を思い出したのか苦い表情を浮かべる。それは、その場にいた者達の感情が真っ二つに分かれる出来事だったのだろう。

 重臣達が揃った謁見の間での発言は、それだけの重要度と拘束力を持つ事になる。多くの者達がそれを聞いてしまっているのだ。それが国にとって不利益になる物であれば、反対意見も数多く出て来る事で、発言者に何らかの罰則が与えられるだろう。だが、それが利益を生むものであったとすれば別の話である。

 英雄オルテガの旅というのは、アリアハン国にとってかなりの負担となっていたのは事実である。志半ばに倒れたオルテガの功績よりも、魔王バラモス討伐失敗という責任が際立ってしまっており、アリアハン国としては名誉を挽回しなければならない事もまた事実であった。

 英雄の妻が、己の子を次の英雄として育てる事を公言してしまった。それは、国王と大臣の胸の中に仕舞って置けるような物ではなくなった事を示している。そして、その一言がカミュという一人の人間の運命を決めてしまったのだ。

 ニーナに自覚はなかっただろう。自分の恋しい夫を失った憤りと悔しさが、その言葉を生み出してしまったと言っても良いのかもしれない。

 だが、その発言は時と場所を誤っていた。

 

「日増しに強まる魔物達の脅威と、城内に広まり始めた新たな勇者の誕生の噂は、このアリアハン国の民達を歪めてしまった。オルテガは自ら魔王討伐の旅に出る事を志願したが、カミュは違う。余が勇者認定を行わなければ各国での優遇もなく、旅に出る事も出来ないのではと考えたのが……」

 

「オルテガ殿の父であるオルテナ殿が息を巻いていてな……あのままでは、認定されずとも旅立たせる可能性さえもあったのだ」

 

 遥か遠い過去を見るように瞳を虚空に向けながら語る国王の言葉を、傍に立つ大臣が後に繋げる。

 確かに、カミュの祖父であるオルテナは、日増しに糾弾の強くなる息子への批評に憤っていたと云われていた。その名誉の挽回のために、カミュを勇者として厳しく育て、魔物討伐隊へも志願させている。

 カミュが他国に行っても、それなりの対応を受けていたのは、アリアハン国から認定された『勇者』であるからだ。自称勇者が数多く出回った頃から、国家としては援助などを行う相手を厳正に判断するようになっている。故にそこ、もしアリアハン国がカミュを『勇者』として認定していなければ、彼等の旅は想像以上に厳しい物になっていただろう。

 

「カミュは生きておるのだろう? 良い、大臣も気付いておるわ。あの者がこの国に戻って来ないという事が、余の罪を明確に物語っておる。せめて、この先の人生だけは好きに生かせてやりたいのだ」

 

「……こ、国王様」

 

 不敬とは知りながらも、リーシャは国王の瞳を真っ直ぐ見つめて涙を溢す。カミュが生きている事を問い掛けに対し、否定する事も肯定する事も出来ずにいたリーシャを手で制した国王は、とても優しい笑みを浮かべて言葉を紡いだ。

 『自分の信じていた国王は、やはり信じるに値する国王であった』

 そう感じずにはいられない彼女は、流れ落ちる涙を拭う事も出来ず、深々と頭を下げて小さな嗚咽を漏らし続ける。

 しかし、事はそれ程に単純な事でもなく、時間が有り余っている訳でもない。暫しの時間、己の感情を吐き出したリーシャは、意を決したように顔を上げて口を開いた。

 

「畏れながら申し上げます」

 

「良い! 直答を許す」

 

 即座に返された国王の言葉に対し、喜びが湧き上がって来るのを抑えつけたリーシャは、国王に視線を移して口を開く。それは、彼女が四年という旅を続けて来た結果であり、四年という旅で得た経験であった。

 小さな笑みを浮かべ、真っ向から主である国王に反論する自分を、四年前のリーシャは想像さえもしていなかったであろう。だが、今の彼女は、それを成すだけの決意があり、希望があり、勇気がある。それは、彼女の隣にいつでも立ち続けていた一人の青年から与えられた輝く宝物なのかもしれない。

 

「……本日を以て、宮廷騎士の職とアリアハン国貴族の称号をご返還致したく存じます」

 

「な、なんだと!?」

 

 予想だにしなかったリーシャの言葉に驚きの声を発したのは筆頭大臣であった。アリアハン国王は驚きで目を見開いてはいるが、何処か予想をしていたのか、声を上げる事はなかった。

 魔王バラモスを打倒した勇者に続き、それに同道していた戦士さえもアリアハン国から出る事を明言する。それは、アリアハン国にとって損失にしかならない事であった。吸引力を疑われる事は当然として、勇者や英雄が戻る事を拒否した国として汚名を残す事になりかねない。それは、一国の政を担う大臣としては許す事の出来ない物であったのだ。

 しかし、声を荒げようとする大臣を手で制したアリアハン国王は、静かにリーシャを見つめて口を開く。それは、まるで父のように優しく、暖かな声であった。

 

「……旅立つつもりか?」

 

「御意。大魔王ゾーマが存在する限り、この世界やアリアハン国に平和は訪れません」

 

 アリアハン宮廷騎士という職を失おうと、アリアハン国貴族という地位を失おうと、リーシャという女性戦士はアリアハンが産んだ子である。国王を真っ直ぐに見つめる彼女の瞳がそれを明確に物語っていた。

 アリアハンの子である以上、アリアハンに及ぶ危害を許す訳にはいかない。それを防ぐだけの力を有しているのならば尚更である。だが、闇の王であるゾーマの存在を秘するのであれば大々的に旅に出る訳にも行かず、討伐が成功する補償もない以上、アリアハンの騎士や貴族という地位は生国に迷惑を掛ける可能性があるだけの重荷になってしまう。

 アリアハン国王の願いである、誰にもゾーマの存在を知られぬままに討伐するという行為を行うとすれば、これ以外に方法は無かった。

 

「相解った。今よりアリアハン宮廷騎士の任を解く。貴族の称号の返還も受け取ろう」

 

「国王様!」

 

 大臣が反論を述べようとするが、それを手で制した国王は柔らかな笑みを浮かべる。小さく首を横へ振った国王を見て、大臣は大きな溜息を一つ溢した。

 この国の国王と大臣もまた、リーシャ達が旅の最中で出会った主従と同じように、戦友であるのかもしれない。互いに己の力を最大限に発揮出来るように助け合い、ここまで国を維持して来たのだろう。改めて、リーシャは国王と大臣に敬意を表した。

 

「……国王様、騎士の任と称号の返還の後となりますが、国王様の命に背く不忠をお許し下さい」

 

「……カミュを連れて行くつもりか? ふむ。やはり、そなたを同道させた事は間違ってはいなかったのかもしれんな」

 

 全てに於いて先回りされてしまう事に驚いたリーシャであるが、その後に続いた言葉を聞いて、更に驚く事になる。

 アリアハン大陸でカミュから告げられた事を事実ではないかと考えていたリーシャは、アリアハン国王がリーシャという一騎士を認識していないと思っていた。数多くいる貴族達の中でも最下級の地位を持ち、宮廷騎士団長の父を持つと言っても、彼女に名声があった訳ではなく、国王の親衛隊であった訳でもない。故に、厄介払いとして上申された人事のままに国王が勇者への同道を命じたのだと思っていたのだ。

 だが、それは自身の主君であるアリアハン国王を侮る大不敬な行為であった。

 

「そなたの父には世話になった。あの者の頭は固いが、他者を認める柔軟性を持っていた。そして、何者にも屈しない強い信念と、絶対に折れない強い心の芯を持つ者でもあったな」

 

 最早、リーシャの瞳から零れ落ちる物を遮断する術は何もない。国王の顔さえも見る事が出来ぬ程に歪んでしまった視界に気付き、リーシャは視線を床へと落とした。

 次々と零れ落ちる水滴が、赤い絨毯に染みを作っては消えて行く。この宮廷に味方など一人もいないと感じて過ごして来た十数年は誤りであり、自分を見ていてくれた者、自分を信じてくれた者、そして自分の誇りである父を信じてくれた者がいた事に、彼女は心から感謝した。

 彼女もカミュと同じであったのだ。人の心など言葉にしなければ伝わる事はない。彼女とカミュの異なる一点は、それを伝えてくれる者がいた事だけである。

 

「何者にも縛られる必要はない。ここから先の旅は、そなた達の旅だ。無理をするな、命を粗末にするな、己の力を信じ、己の経験を信じよ」

 

「……はっ」

 

 国王の一言一言がリーシャの胸に染み込んで行く。零れ落ちる涙は止まらず、返答する声も震えていた。

 父のように暖かな声は、臣下への言葉には聞こえない。まるで自らの子へと語り聞かせるように告げられる教訓の胸に刻み込み、リーシャは何度も何度も頭を下げ続けた。

 そして、暫く口を閉ざしていた国王が、最後にリーシャに告げた言葉が、彼女の感情の最後の砦を決壊させてしまう。

 

「そなたもカミュもアリアハンの子である。良い記憶はないかもしれぬ。楽しい記憶も少なかろう。それでも、この国の大地も森も、川も海も、そなた等を見守り続けてくれる筈だ。そなた等に、多大な幸ある事を願っておる」

 

「……はっ」

 

 何とか搾り出した声は国王の耳にも届かない程に小さく、不敬とは理解しながらも、リーシャは口元を手で覆ってしまう。嗚咽が漏れ、静寂に満ちた謁見の間に喜びの慟哭が響き渡った。

 最早、リーシャでさえもこの国に戻る事は無いだろう。闇の王ゾーマの居場所が何処なのかは解らないが、勅命として受けた魔王バラモス討伐とは異なり、今回は出奔のような扱いになってしまう。リーシャはこのアリアハンに戻る資格を失ったのだ。

 ゾーマという存在を世界が認識しない以上、それを討ち果たしたと声を上げても、誰一人その行為を認める者はいない。宮廷騎士として勅命を受けて魔王を倒した英雄は、その職を捨てて他国へ出奔したという噂は即座に世界中へ広まるだろう。

 極論を言えば、この時点でリーシャはこの世界での居場所を失った。アリアハン国を出奔した英雄を受け入れようとする酔狂な国はないだろう。強大な軍事力と引き換えに、全世界を敵に回す可能性があるからだ。

 それを理解しているからこそ、アリアハン国王の言葉は別れの言葉であり、それを受けたリーシャは涙した。

 

 

 

 

 

 謁見の間を出たリーシャは装備を確認した後で、城下町にある一つの建物へ向かって歩き出す。町の中央に位置する場所にあるその建物は、このアリアハン国にある唯一の教会。『精霊ルビス』を信仰する世界の中で、その教えを広め、その偉大さを敬う者達の集う場所。

 世界各国にあるその場所に居る人間の中でも更に異質な者を求めて、リーシャは歩く。彼女の顔には涙の跡が今も尚、くっきりと残っていた。

 精霊ルビスが手を合わせる像が掲げられている門の前に辿り着いた彼女は、その門を両手で開く。誰であろうと開かれるその扉は、広く深い心を持つ精霊ルビスを示しており、質素ながらも厳粛な空気が奥から流れて来ていた。

 

「この教会にどのようなご用件かな?」

 

「リーシャと申します。サラに用がございます」

 

 門が開かれた事によって、奥にある精霊ルビス像の前に立っていた神父の問いかけが聞こえて来る。門から像までの距離はある程度あり、神父からリーシャの顔は明確に見えてはいないのだろう。しかし、教会に属するサラの名を告げた事によって、神父は来客者の素性を把握する事となった。

 このアリアハン国に於いて、教会に所属する一僧侶の名を知っている者は少ない。元々孤児であったサラには、友と呼べる者は少なく、神父の使いとして買い物に出たとしても、その名で呼ばれる事は稀であったのだ。

 ならば、先程サラと共に帰還した勇者一行の一人であるという事は明白である。故にこそ、神父はその場に跪いた。

 

「これは失礼致しました。この度は、ルビス様に代わり、世界に平和を齎すお働き、誠にご苦労様でございました」

 

「お顔を上げて下さい。申し訳ございませんが、急ぎの用がございますので、サラをお呼び頂けませんか?」

 

 跪く神父の口上は、世間一般的には正しい物言いなのだろう。だが、あの地獄のような戦場を知る者にとっては、何処か釈然としない内容でもある。

この世界を創造神より託されたのが『精霊ルビス』であると云うのが、この世界で信じられている神話であった。故に、この世界に生きる者達に与えられる試練というのは、神やルビスの意志でもあると云うのが常識である。

 しかし、世界を恐怖に陥れ、全ての生物の脅威となる魔王という存在は、人間達に与えられた試練というには余りにも過酷過ぎた。その為、『精霊ルビス』に成り代わり、魔王という悪を打ち倒す者こそ、『勇者』であるという事を高らかに謳う事によって、人間の正当性を国家や教会は示していたのだ。

 

「畏まりました。暫しお待ちを」

 

 一抹の疑問を胸に抱きながらも、リーシャは神父と問答する愚を理解し、早々にサラへの取次ぎを頼む。リーシャとて、ルビス教の信者の一人である。精霊ルビスの代わりに魔王という諸悪の根源を討ち果たした事を誇りに思ってもいるし、それが世界にとっての善行であったと信じてもいる。だが、四年以上に渡る長い旅路の中で、仲間達が苦しみ、悩み、嘆き、涙して来た事を間近で見て来た彼女にとって、神父の物言いには若干の憤りを感じてしまったのだ。

 奥の居住区へ下がって行く神父の背中を見ながら、リーシャは大きく深呼吸を行う。現状を考えると、悠長にしていられない事もまた事実であり、このような場所で無用な諍いを起こす事が愚の骨頂である事を理解していた。彼女もまた、四年という長い旅路の中で大きく成長をしているのだろう。

 

「リーシャさん! どうなされたのですか?」

 

 暫しリーシャがルビス像を見つめていると、居住区の方から慌てたように女性が駆け寄って来た。一瞬、その女性が誰だか解らなかったリーシャではあったが、飛び出した言葉が聞き慣れた声であった事で、柔らかな笑みを浮かべる。

 アリアハンへ戻った時に着用していた装備品を脱いだ賢者は、普段着ていたであろう継ぎ接ぎが多く見られる布の服を身に纏っていた。貧しい国にある教会に金銭的な余裕などないだろう。旅立ちの時にサラが着用していた僧侶服や武器は、そのような苦しい台所事情の中で神父が与えた物なのかもしれない。それは、育ての親である神父の深い愛情の表れなのだろう。

 

「サラ、長旅がようやく終わって休んでいるところに申し訳ないが、カミュを探すのを手伝ってはくれないか?」

 

「えっ!?」

 

 気を利かせているのか、この場に神父が戻って来る事はなかった。必然的にサラと二人きりになったリーシャは、優しい瞳で見つめるルビス像の前で、端的に用件だけを告げる。それは、圧倒的に言葉の足りない物であり、サラであっても瞬時に理解出来るような物ではなかった。

 何を言われたのかが理解出来ないサラは、呆然とリーシャを見上げて言葉を失う。だが、そこは世界で唯一の賢者となった者。暫しの時間も掛からずに、眉を顰めて顔を落とした。

 

「そうですか……やはり、カミュ様の自由は認めて貰う事が出来なかったのですね」

 

「ん? い、いや、そうではない。そうではないぞ」

 

 視線を落としたサラは、彼女が考えていた一つの可能性に辿り着き、落胆の溜息を吐き出す。

 アリアハン国にとって、勇者カミュという存在は計り知れない程の重要性を持つ。外交的にも軍事的にも、彼の存在はアリアハン国の切り札と成り得る存在なのだ。故にこそ、勇者カミュの行動には制限が掛かり、それは国家の所有物として扱われる可能性さえも出て来る。それをサラは考えてしまった。

 生きている事をリーシャが国王に報告し、カミュを連れ戻す勅命を彼女が受けて来たのだと考えたサラは、哀しみを宿した瞳をリーシャへと向ける。サラの知るリーシャという存在であれば、勅命を固辞する事は出来ない筈だが、その心は哀しみと苦しみで満たされてしまっているだろうという気遣いの瞳でもあった。

 

「闇の王を名乗る者が、謁見の間に現れた。この世界を闇で覆い尽くすと宣言した者の名は、ゾーマ」

 

「……えっ? ど、どういう事ですか?」

 

 サラの勘違いに気付いたリーシャは否定の言葉を口にし、一つ息を吐き出して心を鎮め、ゆっくりと新たなる脅威の名を口にする。その名を口にする時、謁見の間で味わった恐怖を思い出し、リーシャの身体が小さく震え出す。無意識に震える身体が、その存在の圧倒的な力を示していた。

 リーシャという女性戦士は、既に人類最高位に立つ戦闘能力を持つ。魔王さえも退ける程の力量を持つ彼女でさえも、自らの死しか想像出来ないその威圧感が、大魔王ゾーマの恐ろしさを明確に物語っているのだろう。

 突如告げられた内容に戸惑うサラに対し、リーシャは時間に余裕がないにも拘らず、ゆっくりと謁見の間で遭遇した一連の出来事について語り出した。

 あの場で大魔王ゾーマが告げた内容を、その圧倒的な力を。そして、これから襲い掛かる世界的な脅威を。

 最初の頃は驚きと恐怖に目を見開いていたサラではあったが、話が進むにつれて思考の海へと潜り始め、リーシャが語り終わる頃には視線を落としたまま頭に手をやって何やら呟きを漏らすようになっていた。

 

「あれ程の存在を打ち倒す事が出来るのは、カミュしかいない。それに、武器を振るう事しか出来ない私のような存在と共に戦う事が出来る者もアイツしかいないだろう」

 

 自由を求めたカミュを再び戦場へと連れ出す事への罪悪感はリーシャにもある。だが、彼女にとって勇者カミュという存在は、共に戦う事の出来る唯一の存在でもあるのだ。

 小さく笑みを浮かべたリーシャは、未だに思考の海に落ちているサラに向かって真っ直ぐ頭を下げる。深々と下げられた頭は、サラを通して、後方にあるルビス像に向けられているようにも見えた。

 

「サラを無理やり連れて行くつもりはない。だが、私にはキメラの翼もなければ、ルーラという移動呪文もないんだ。いくつかの町や城を回ってくれるだけでも良い。頼む、力を貸して欲しい」

 

 頭を下げたまま依頼の言葉を口にしたリーシャは、自分の言葉に何時までも返答をしないサラの言葉を辛抱強く待つ。しかし、何時もならばどのような事でも何らかの言葉を発するサラが、今回ばかりは一切の言葉を口にしなかった。

 勝手な物言いだという事を重々承知しており、自分の栄誉の為にカミュを犠牲にしていると思われても仕方ない程に説明を省いている自覚のあったリーシャは、それでも尚、サラの言葉を待ち続ける。だが、ようやく、搾り出すように零れたサラの言葉に、彼女は勢い良く顔を上げる事となった。

 

「やはり、あのお声はルビス様だったのですね……。であれば、ルビス様を封印している者がゾーマ。それに、こちらの世界と……あちらの世界……」

 

「サラ、どういう事だ!? サラは、ゾーマの存在を知っていたのか!?」

 

 呟きはとても小さく、リーシャでも聞き取れない部分が多々ある。だがそれでも、サラの呟きを繋ぎ合わせると、サラ自身が何らかの形で大魔王ゾーマの存在に気付く情報を持っていた事だけは理解出来た。

 勢い良く顔を上げたリーシャは、その勢いのままサラの両肩を握り締め、その真意を問い質そうとする。突如思考の海から現実に引き戻されたサラは、驚きの悲鳴を上げて驚愕の表情を浮かべた。

 目の前に迫る真剣なリーシャの瞳を見たサラは正気を取り戻し、記憶の中にある精霊ルビスの言葉らしき物をリーシャへと語り始める。魔王バラモスを打ち倒し、カミュが倒れた時に聞こえて来たその声は、サラにではなくカミュへと語り掛ける物であった事を。

 

「カ、カミュはその事を知っているのか!? アイツは大魔王ゾーマの存在を知っていたのか!?」

 

「明確にゾーマという名が出て来る事はありませんでした。ですが、カミュ様ならば何かに気付いているかもしれません。ルビス様は、『決してこちらの世界に来てはならない』とおっしゃっていましたから」

 

 未だに強くサラの両肩を握り締めながら焦りを浮かべるリーシャを見たサラは、その焦燥感に駆られている姿に疑問を持つ。リーシャの姿は、大魔王ゾーマという存在の台頭よりも、精霊ルビスが封印されているという重大事よりも、この世界の危機をカミュという勇者が知っている事に恐怖を感じているようにさえ見えたからだ。

 そして、サラがその答えを口にした瞬間、焦燥感に駆られていたように見えたリーシャという女性は、歴戦の勇士であり、世界最高位に立つ戦士へと変わって行く。顔を挙げ、教会の扉の外へと視線を移した彼女の背中は、四年の旅の中で、後方にいるサラやメルエを護り続けて来た力強さを持っていた。

 

「サラ、時間がない。悪いが、即座に着替えて来てくれ。サラの支度が出来次第、すぐに出るぞ」

 

「えっ? 出ると言っても、カミュ様が何処にいらっしゃるか解りませんよ」

 

 最早、サラと問答するつもりもなければ、サラの都合を考えるつもりもないのだろう。振り返る事もしないリーシャからの願いは、既に命令に近い強制力を持っていたのだ。

 その背中から立ち上る物は、明確な怒気。魔物さえも震え上がらせる怒気を目の前にして、サラは気力を振り絞って制止を掛ける。

 カミュが何処へ行ったのかという事は先程までリーシャでさえも把握していなかった筈であった。闇雲に探すには、この世界は広過ぎる。如何にルーラという移動呪文があるとはいえ、一日や二日で全ての国や町を回れる訳ではない。一つ一つ虱潰しに探す事が出来る程に時間がある訳ではない事は、先程のリーシャの焦り具合からして明白であった。

 

「あの馬鹿が行く所など、一つしかない!」

 

「え? ど、何処ですか?」

 

 振り返ったリーシャの表情に恐れを抱いたサラであるが、言葉に詰まりながらもその目的地を問い質す。既にサラが同道する事は確定事項になっており、それを避ける事は不可能である。

 正確に言えば、サラ自身、リーシャから謁見の間での出来事を聞いた時から、再び旅へ出る覚悟は決めていた。もっと突き詰めれば、例え大魔王ゾーマが出現しなくとも、彼女は旅立っていただろう。

 サラという『賢者』の目指す先は、未だ道半ばなのだから。

 

「カザーブだ!」

 

 教会内に響き渡るリーシャの宣告が、勇者一行の新たなる旅の幕開けとなる。

 世界を恐怖に陥れた魔王バラモスを打倒した人類の希望は、再び人知れぬ戦いへと向かって歩み始めるのだ。

 世界中で誰も知らぬ敵との戦い。

 それは更に過酷な旅となって行く。

 

 

 

 




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