新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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ラダトーム城①

 

 

 

 重く巨大な門が開かれ、カミュを先頭に一行が中へと入って行く。門の奥には、既に案内役の文官が待っており、その傍には護衛らしき騎士が二人控えていた。

 リーシャはその騎士達の職務を理解しており、当然の行いだと思ってはいるが、サラはアレフガルドという異世界の土地での自分達の立ち位置を改めて実感する。カミュに至っては、この程度の騎士が何人揃おうと、有事となれば自分達相手に何の役にも立たないと考えているのか、全く気にも留めていなかった。

 剣の柄にこそ手を掛けてはいないが、騎士達が四人を警戒している事は醸し出す雰囲気からも察する事が出来る。確かに、突如として現れた者が、この世界を闇に包む原因となる大魔王の討伐を口にしたのだから、その警戒が的外れな訳ではなかった。

 最早、このアレフガルド大陸全域に、大魔王ゾーマという名は轟いているのだろう。町を歩く者達が知っているからこそ、再会したカンダタさえもその名を知っていたのだ。このような状況になれば、自称勇者が現れる事は当然の成り行きである。

 上の世界のバラモス打倒の時のように、有名な英雄でも成し得ないという結果でもなければ、打倒大魔王を謳う者が現れ続けても不思議ではないのだ。

 

「国王様が謁見の準備をしております。こちらへどうぞ」

 

「突然の来訪にも拘らず、ご許可頂いた国王様の御心に多大な感謝を」

 

 腰を低くしながらも警戒を怠らない文官の視線を受けたカミュは、深々と頭を下げて謝辞を述べる。既に完全なる仮面を装着し終えたカミュは、後方に控える三人に目で合図し、そのまま文官に続いて謁見の間へ続く回廊を歩き始めた。

 ラダトーム城の城内も上の世界にある各国の城に劣る事のない広さである。だが、陽の光のない城内は薄暗く、各所に灯された松明が放つ明かりでは広い城内を照らし尽くす事は出来ていなかった。

 

「ご一行は上の世界から大魔王ゾーマ討伐の為にアレフガルドへ来られたという事ですが、上の世界のどちらからお越しに?」

 

「……アリアハンという国の出身です」

 

 城内へ視線を巡らせていたカミュに向かって、謁見の間への道を先導していた文官が問いかける。その内容を聞いたカミュは、上の世界という名前を知ってはいても、国家の名までは知らない筈にも拘らず聞いて来る文官を不審に思った。

 上の世界から来た人間達から聞いた事を基にして地図などを作成し、領土拡大の為に動こうとしていると考えるには、今のアレフガルドは混迷し過ぎている。他所へ思いを馳せる暇など無く、むしろ逃亡先として考えていると言われた方が納得の行く状況なのだ。

 カミュは既にアリアハン国からの命で動いている訳ではない。アリアハン国王からの勅命である魔王バラモスの討伐は成し遂げた。故に、今のカミュは個人的な理由から大魔王ゾーマの討伐へ向かっており、己の出身国に留めたのだろう。そして、リーシャも同様に勅命に背いてこの場にいる訳であるから、当然カミュの言動を諌める事はなかった。

 

「アリアハンとは……では、オルテガ殿と同郷の方々ですか」

 

「オルテガ様だと!?」

 

 しかし、静かにカミュと文官の話を聞いていたリーシャは、突如出た名に驚きの声を上げる。まさか、この場で聞く事になるとは思いもよらず、それでいて僅かに残る期待を捨て切れなかった名であった。

 一瞬で顔を顰めた青年とは正反対の表情を浮かべるリーシャと、困惑したような表情を浮かべるサラ。それは各々の思考を明確に物語っているのかもしれない。

 アリアハンの英雄が、遠い異世界であるアレフガルドに来ていた。それが、彼の生存を明確に示している。オルテガという同名の者がいる可能性は捨て切れないが、上の世界の、しかもアリアハンという国から来たオルテガとなれば、彼等全員が考えている者で間違いはないだろう。

 

「もう五年以上前になるでしょうか。このアレフガルドにルビス様の威光が届かなくなり、闇に覆われた時、突如としてこの城へ来られたのがオルテガ殿でした。大魔王ゾーマを討ち果たさない限り、朝が訪れる事はないと陛下に直訴され、そのまま旅に出られました」

 

「オルテガ様はやはり生きておられたのか!」

 

 五年前となれば、カミュ達がアリアハンを出る直前である。英雄オルテガがネクロゴンドの火口で亡くなったという報がアリアハンに届いたのは二十年近く前であった。しかし、ムオルの村の住民達の話に出ていた男がオルテガだとすれば、十年近く前にムオルの村でオルテガが静養していた事になる。そして、五年前ほどにこのアレフガルドへ辿り着き、再び旅に出たとすれば、全ての時間軸が一致するのだ。

 しかし、魔王バラモスはカミュが討ち果たし、その時に聞いた神々しい声によって、彼等はアレフガルドの存在を知った。ならば、オルテガは魔王バラモスを討ち果たそうとはせず、何故アレフガルドの存在を知る事が出来たのかという疑問が残る。この文官の話を聞く限り、オルテガが来る以前は、上の世界からの訪問者は皆無に等しかった事が窺えた。

 他に上の世界からアレフガルドへ来る手段のない中、オルテガがどのような方法で来たのかが解らない。万が一、カンダタのような理由で地割れに飲み込まれたとすれば、何故大魔王ゾーマの存在を知っていたのかという疑問が残ってしまうのだ。

 だが、それでも、勇者カミュの父であり、アリアハンの英雄とまで謳われた男が生きている事だけは、最早疑いようの無い事実である。

 

「あの屈強なオルテガ殿でも、五年以上も音沙汰がありません。生きているのかどうかは、我々には……」

 

 文官はリーシャの言葉に対し目を伏せる。確かに、五年も音沙汰が無ければ、その人物の生死を確かめる術はない。このアレフガルド大陸にも様々な都市や村があるのだろうが、闇に閉ざされた今となっては、人の行き来も激減している事が容易に解る。オルテガがこの王都へ戻って来ない限り、彼の生死を確かめる方法はないのだ。

 それでも、リーシャには何故か根拠の無い自信があった。オルテガは生きており、カミュという勇者と再び出会う事が出来るだろうという確信にも似た想いが胸に込み上げる。それは喜びとなって彼女の顔に浮かび上がるのだが、その笑みが何を意味しているか理解したカミュは、盛大な舌打ちを鳴らして先を急ぐように歩き始めた。

 

「こちらでラルス国王様がお待ちです」

 

「……ありがとうございます」

 

 階段を上がった二階に、ラダトーム城の謁見の間は造られていた。大きな扉の前で待つように指示した文官は、中にいる人間へカミュ達の来訪を告げる。玉座に座る国王へ取り次がれ、許可を貰うまでの僅かな時間、周囲に張り詰めたような静寂が広がった。

 大臣らしき者の声が中から轟いた事で、ようやく大きな扉が開き始める。その国の威厳を示す謁見の間は、どの国でもそれなりの広さが取られており、凝った装飾なども施されている。ラダトーム城も同様に、最奥の玉座から真っ直ぐに伸びる赤絨毯には国家の紋章が刺繍され、両脇で天井を支える柱は綺麗な石を使った物であった。

 先頭のカミュが歩き始めた事によって、後方にいた三人の女性達も絨毯を歩き始める。謁見の間には国王と筆頭大臣の他にも重臣達が集められており、カミュ達の存在の重要性を物語っていた。前方に見える玉座は二つあり、向かって左の玉座には、歳の頃がサラやカミュとそう変わらないであろう青年が腰掛け、右の玉座には、壮年を過ぎて初老と呼ぶに相応しい年齢に入った男性が座っている。頭の上に王冠がある事を見る限り、初老の男性がラダトーム国王なのだろう。

 

「よくぞ参った。ラダトーム国王のラルスである」

 

 玉座までの距離を測り、カミュが跪くのを見て、リーシャ達三人も膝を着く。全員が頭を下げた事を見た国王が名乗りを上げた。

 玉座の隣に立つ大臣らしき者が『直答を許す』という言葉を告げる。その間に、先程カミュ達を案内した文官が大臣に耳打ちをし、大臣がその言葉を小さく国王へと告げると、国王は驚きに目を見開いた。

 

「そなたらは、オルテガ殿と同郷と聞いたが相違ないか?」

 

「……はっ。アリアハン国の生まれです」

 

 決してオルテガが父親であるという事を口にはしない。ここまでの道中で何度も衝突していなければ、その事実にリーシャは口を開いていたかもしれない。だが、今の彼女は、『まだその時ではないのだ』と考えており、赤い絨毯を見つめていた。

 もし、ここでカミュがオルテガの息子である事を口にすれば、先程の文官の様子を見る限り、ここでも過剰な期待を背負う事になるだろう。過剰な期待は重荷となり、再び青年を苦しめる事になる。彼は今、彼の意志でアレフガルドに立っているのだ。そこに国家への責務も無く、定められた道でもない。

 今のカミュは、『そういう存在』ではないのだ。

 

「オルテガ殿が話してくれたが、上の世界に行ったバラモスは如何した?」

 

「……我々が討ち果たしましてございます」

 

 ラルス国王の質問に対するカミュの言葉が出た瞬間、謁見の間が一気にざわついた。それは、魔王バラモスを倒したという偉業に対しての驚きではない事が、重臣達が囁く言葉で解る。彼等は、カミュ達のような歪な集団がバラモスを倒したという事に対して口々に何かを言っているのだ。

 確かに、傍から見れば、屈強そうな青年は別にしても、他は全て女性。更に言えば、一人は年端も行かない幼子である。とても魔物を倒す事が出来る一行には見えないだろう。中には、聞こえるような声で『嘘ではないか』という言葉を発する人間さえも居た。

 

「静まれ! この者達がバラモスを倒した事の是非は重要ではない。バラモスなど、例えルビス様を封印した者とはいえ、大魔王ゾーマの手下の一人にしか過ぎぬ。全ての元凶はゾーマである」

 

 騒々しくなった謁見の間を、ラルス国王が一声で黙らせる。そこは流石は一国の国王といったところであろう。そして、一瞬にして静けさを取り戻した謁見の間に、信じられないような言葉が飛び出す。その内容にサラは思わず顔を上げてしまい、慌ててもう一度赤絨毯を見つめるように頭を下げた。

 大魔王ゾーマという存在が出て来た以上、バラモスはその部下に過ぎない可能性が高い事はサラも理解している。バラモスがルビスを封印した事も、竜の女王の話の中にあった。だが、それがこのアレフガルドの人間達が正確に把握している事に驚いていたのだ。

 精霊ルビスという存在は、上の世界では絶対神に近しい存在である。それは、このアレフガルドでも同様であるのだろう。そのような絶対的な存在が魔の者によって封印されてしまうという事は、絶望以外の何物でもない。

 人間の心は弱い。自らが信じる絶対神でさえも封じる事の出来る者を打ち倒す事など不可能だと知り、恐怖し、怯え、諦める。もし上の世界の国家が、精霊ルビスがバラモスによって封印されたという事実を知っていたとしたら、カミュという犠牲を生み出す事は無かったかもしれない。何故なら、彼らが心から信じる精霊ルビスの加護という物は既に存在しないという事になるからだ。

 

「だが、手下とはいえ、バラモスも精霊ルビス様を封じる程の者。その者を討ち果たしたそなたらが、大魔王ゾーマの討伐に名乗りを上げてくれた事、アレフガルドの王として嬉しく思う」

 

「畏れ多い言葉でございます」

 

 このアレフガルドの民の中で、精霊ルビスという存在を見た者はいないだろう。それでも、明けぬ夜が続くのは、精霊ルビスという輝きが何処かに封じられ、それによって光が届かない状態になっているのだと考えているのかもしれない。その封印が解かれ、再び大地を光が照らす日を待っているのだろう。

 文官の話では、五年以上もの間、このアレフガルドは闇に覆われていたという事になる。それでも心を折られず、夜が明ける日を民達が待てるのは、目の前に居るラダトーム国王の人徳と善政の成せる事なのかもしれない。それだけの威厳を、この王は有していた。

 

「凶暴化が進んだ魔物達に殺された民も多い。更には、人間だけではなく、魔物さえも愛するルビス様を封じ、太陽の恵みを奪った。大魔王ゾーマの影響を受けているとはいえ、魔物達を許す事は出来ぬ。オルテガ殿さえ戻らぬ今、最早そなたら以外に頼める者はおらぬ。このアレフガルドから魔物達を一掃せよ」

 

 だが、国王としての能力を認める事の出来る者と思っていた人物が大きな声で発した言葉に、再びサラは顔を上げてしまう。その時、ラルス国王の横に座る青年と目が合った。許容出来ない驚きの瞳を向けたサラの顔を、同様以上に驚きに目を見開いた青年は、口を半開きにさせたまま、固まってしまったかのように時を止めてしまう。

 そんな青年の姿への疑問よりも、今のラルス国王からの命に対するカミュの答えが気になったサラは、不敬にも顔を上げたまま、カミュの背中へと視線を移す。先程までのように、仮面を被ったままのカミュであれば、その命を粛々と受け止め、早々にこの場を立ってしまう筈。そう考えたからこそ、サラは動かない彼に不安を感じ、隣で跪くリーシャへと視線を向けた。

 そこに有ったのは、優しい笑みを浮かべ、首を静かに横へ降る女性戦士の姿。サラがメルエに放つ魔法の言葉と同等の力を持つその笑みは、不安に覆われそうになっていたサラの心に一筋の光を差し込んで行った。

 

「畏れながら……魔物全てを討ち果たす事は難しく、国王様の命と言えども我々に成し遂げられるとは思えません。不敬とは心得ながらも、国王様の命を遂行出来ない事を一番の不敬と思えばこそ、その儀は平にご容赦頂きたく、お願い申し上げます」

 

 暫しの間、鋭く目を細めていたカミュは、何を恐れる事もなく、一国の国王の勅命を跳ね除けたのだ。

 再びざわめく謁見の間。だが、『上の世界の者が!』や、『バラモス如きを倒した程度で』など罵声に近い物もあったが、中には『それは道理』と頷く者もおり、即座にカミュ達を処罰するような雰囲気にはならなかった。

 安堵するように表情を緩めたサラは、リーシャが声を出さずに『心配するな』と口を開いたのを見て、己の浅慮を恥ずかしく思う。信じていた筈であるし、それだけの時間も共有して来た。だが、どうしてもアリアハンを出た頃のカミュのイメージはサラの中で残っており、僅かでも彼を疑う心が残ってしまっていたのだ。

 

「……ふむ。オルテガ殿と同郷の者であり、バラモスを討ち果たす強者でありながらも、そなたは少し異なる目をしておるな」

 

 勅命を跳ね返された事など皆無であろう。それは、国家に対する反逆であり、国王に対する裏切り行為に等しい物であるのだから当然である。だが、同時に、如何に一国家の王と言えども、他国の者に対してまで強制力を持つ事はない。民は国家の所有物であり、その民が亡命でもしない限りは所有権が移る事はないのだ。

 アリアハン国の出身と口にしたカミュという勇者は、アリアハン国家の所有物であり、その命令はアリアハン国王のみが発する権利を持つ。依頼であれば別であるが、命令する権利はラダトーム国王にはないのだ。実際、移動手段も解らぬ上の世界の未知の国家とはいえ、それは世界共通の理である。

 暫し、思案に更けるようにカミュを見つめていたラルス国王は、静かに息を吐き出し、何かを達観したような瞳をカミュへ向けた。

 

「この大陸は、精霊ルビス様によって造られたと云われておる。精霊ルビス様は、云わば我らの母なのだ……」

 

 何かを悟ったように瞳を閉じたラルス国王は、隣に座る青年へと視線を移し、先程とは異なる柔和な笑みを浮かべる。

 もし、このアレフガルドを生み出した者が精霊ルビスであると云う伝説があるならば、国王の言うように、母のような存在であろう。上の世界では、創造神が世界を作り、精霊ルビスがその世界を守護しているという教会の教えがあったが、母なる大地には大地の女神がおり、泉も森も個別の精霊達が護っていると考えられてもいた。アレフガルドとでは、教えの根本が異なっているのだ。

 母を傷つけられて怒りを感じない人間など皆無に等しい。特別な生い立ちを持つ者でなければ、敬愛する母を侮辱されて黙っている事など出来はしないのだ。このアレフガルドの民にとって、精霊ルビスとはそういう存在なのだろう。

 

「これは我が息子であり、ラルス二世としてアレフガルドを継ぐ者である。こ奴がこの国を治める時、アレフガルド大陸の全てに母なるルビス様の祝福が注ぎ、全ての民達が笑みを浮かべて暮らせるようにしたいと考えておる」

 

「全力を尽くします」

 

 国王の隣に座っていたのは、このラダトーム国王家の嫡男であった。このラダトームが建国されてどの程度の時間が流れているのかは解らないが、自身を初代として、息子に二世を名乗らせるという国王の自信もかなりの物である。だが、その胸の想いは、父や王の物としては当然の物であった。

 自分の愛する息子に苦難の道を歩ませたいと思う親はいない。どんな親も、子供が幸せに暮らす事を心から願い、その為に自身を犠牲にする。親子であっても人間であるが故に、擦れ違いや誤解など数多くあるだろう。それでも等しく親は子を想うのだ。

 

「このラダトーム王都から南にある海を挟んで向こう側に大魔王ゾーマの城がある。年々瘴気の量が増えて来ており、最近ではこの王都にまで届く時もある程だ。大魔王の城へは、周辺の海域の荒さと魔物の為に、船では行けぬ」

 

「畏れながら……ならば、オルテガという男はどのようにして魔王の城へと向かったのでしょう?」

 

 闇の向こうにある城を見る事は出来ない。例えラダトームの南西にある海岸へ出たとしても、大魔王ゾーマの居城を見る事は出来ないだろう。しかも、船にて渡る事も出来ないとなれば、南へ進路を取る必要がない事になる。

 しかし、カミュの発した疑問に、リーシャとサラは顔を見合わせた。その疑問は、このアレフガルドに来るまでに何度か思い浮かんだ事である。その頃は、既にオルテガが死亡していると思い込んでいた為、それに対して深く考える事はなかったが、生存している事が明確となれば、オルテガの軌跡については疑問しか残らないのだ。

 カミュ達が歩み続けて来た道は決して平坦ではない。魔法のカギや最後のカギがなければ辿り着けない場所もあり、ラーミアという存在を復活させなければ辿り着けない場所もあった。それでもオルテガは魔王バラモスと対峙し、アレフガルドに来たという実績がある。疑問は深まるばかりなのだ。

 

「解らぬ。しかし、五年の月日が流れて尚、アレフガルドに朝は来ず、大魔王ゾーマは健在である。オルテガ殿は、辿り着けぬまま命を落とした可能性もあるだろう」

 

 確かに、何の便りもなければその生存自体が怪しく、大魔王ゾーマの健在は、夜が明けない事で証明されている。通常に考えて、オルテガは既に死亡していると考えても致し方のない事であった。

 それでも、後方に控えるリーシャには、オルテガ生存の自信があったのだ。それは、オルテガへの信頼ではなく、勇者カミュへの信頼。彼が勇者であるからこそ、彼の父であるオルテガは生きているという根拠のない自信に基づく物。何度となく、勇者カミュが引き起こして来た必然を目の当たりにして来た彼女だからこその自信なのかもしれない。

 

「出立は明日にし、今日はこの城で身体を休めるが良い。ささやかではあるが、壮行の宴を催そう。そなたらの旅の安全と無事な帰還、そして吉報を待っておる」

 

「……有り難き幸せ」

 

 ラダトーム国王との謁見が終了する。大臣の締めの言葉を契機に、カミュ達を先導するように文官が前に出る。壮行の宴までの時間を過ごす為の部屋へと案内するつもりなのだろう。カミュが先に立ち上がり、国王と皇太子に一礼をすると、そのまま謁見の間を辞した。

 文官に続き、階段を下り、一つの部屋へと案内される。四人が過ごすにはかなり広めの部屋には、テーブルと椅子が並べられており、テーブルの上には綺麗なティーセットが置かれていた。壁には額が掛けられており、中にはアレフガルド大陸の地図であろう物が入っている。かなり細かく造られた物であり、地名から川や海の名、都市や村の名前も記載されていた。

 

「こちらの部屋でゆっくりとお過ごし下さい。城内を見て回られても結構ですが、客人にお見せ出来ない場所もございますので」

 

「ありがとうございます。その辺りは気を付けて行動致します」

 

 案内を終えた文官が、共に連れて来ていた侍女にお茶を入れさせている間、少し注意事項を口にする。壁に掛かっている地図へ視線を固定しているカミュに代わり、サラが文官の懸念に応えた。如何に国王が認めた客人とはいえ、城の中を無遠慮に歩き回る事は良しとはしない。上の世界の人間達の常識を把握していない文官は、その辺りを危惧していたのだろう。

 侍女に可愛らしいお礼を口にしたメルエは、足が床に届かない高さの椅子に座り、温かなお茶で喉を潤す。太陽が無い為か、アレフガルド大陸は上の世界よりも肌寒く、リーシャであっても温かな飲み物は有り難かった。

 

「そちらの『妖精の地図』は、国王様から皆様へ差し上げるようにと申し付かっております。宴の最中に額から外し、用意をしておきますので」

 

「……ラルス国王様の御心に感謝致します」

 

 茶を入れ終えた侍女が退出し、全員が席に着いた事を見計らって、文官は国王からの命を口にする。この地図の名称の謂れは解らないが、これ程に精巧な地図となれば、国宝に近い位置にあっても可笑しくはないだろう。それを無償で下賜するという事の重大性に、カミュは若干顔を顰めた。

 国家としてはそれなりの見返りがなければ、素性も解らない人間にそれ程の厚意を示さない。大魔王ゾーマを討ち果たす者としてカミュ達を見ていたとしても、それが成し遂げられる保証はどこにもなく、そもそも大魔王ゾーマ討伐を本当に目指しているのかも解らない。それにも拘らず、これ程の厚意を示されるという意味がカミュには解らなかったのだ。

 

「失礼致します」

 

 部屋を出て行った文官が扉を閉めると即座に、再び扉がノックされる。対応の為にサラが扉を開くと、一人の老人が立っていた。上の世界では宮廷いる魔法使いのようにローブを纏い、白く長い髯を蓄えている。手を部屋の中へと向けるサラの横を抜けて入って来た老人に、カミュは訝しげな視線を送った。

 一つ咳払いをした老人は、一行をゆっくりと見渡し、小さな笑みを浮かべる。敵意のない笑みを向けられたメルエもまた、それに対して笑顔で返した。メルエが笑顔を浮かべたという一つだけで、この一行の雰囲気は和らぐ。そこに例外はなく、サラは老人に椅子を勧めた。

 

「お寛ぎのところに、申し訳ございません。大魔王ゾーマへ挑む皆様に祝福をと国王様に申し付けられましたので、お伺い致しました」

 

 老人の笑みの中には悪意が見えない。純粋なカミュ達一行への労いに満ちていた。それは、様々な国で、様々な者達を見て来た一行にとって、初めて体験する笑みだったかもしれない。

 そして何よりも、謁見の間で勅命に近しい物を拒絶したカミュ達に対し、ラダトーム国王がこれ程の厚意を示す理由が解らない。度量の狭い国王であれば、その場で処刑の命を発しても可笑しくはない程に、彼等は国王の面子を潰している。それでも尚、地図を与え、そしてこの老人に祝福の儀を執り行うように命を下しているのだ。

 単純に喜ぶリーシャやサラとは異なり、カミュは何処か訝しげに老人へと視線を送る。

 

「では……勇気ある若者達に祝福あれ!?」

 

 一つ息を吐き出した老人が立ち上がり、四人の頭上に両手を向け、祝福の詔を唱える。瞬時に部屋を染め上げれる光が眩い程に輝き、闇に閉ざされたアレフガルドに一時の光を与えた。

 光が収まると同時に、酷く憔悴したように老人は椅子に座り込み、大きく息を吐き出す。目が開けられるようになったリーシャは、何が行ったのか全く解らず首を傾げるが、祝福とはいえ気休め程度の物なのかもしれないと隣のカミュやサラへと視線を向けた。だが、そんなリーシャとは全く異なる表情を浮かべたカミュとサラは、自分自身の身体を見つめながら、何度も老人へと視線を送ってたのだ。

 

「……魔法力が回復している」

 

「は、はい。私もです。宿屋で一泊していますので、枯渇寸前という訳でもありませんでしたが、今では完全に全快しています」

 

「…………メルエも…………」

 

 この一行の中で魔法という神秘を行使する事の出来る者達だけが、老人が起こした奇跡を体験しているのだった。故に、リーシャだけはその奇跡が起こした恩恵を受けていない。彼女だけは自身の内に流れる魔法力を感じる能力はなく、それを外へ放出する術もないのだ。

 通常は宿屋で一泊すれば、大抵の人間は体力や気力が回復する。魔法力などは全回復するのが通常ではあるが、彼等三人の成長度合いによる魔法力の量の増大と、闇に閉ざされたアレフガルドの特殊な環境によって、全てが回復出来ていなかったのかもしれない。

 だが、目の前で肩で息をしている老人が行った祝福の儀により、彼等の魔法力が全て回復したのだった。

 

「……流石は、大魔王ゾーマへ挑もうとする方々。魔法力の量も尋常ではありませんな」

 

「魔法力を回復する事が出来るのか!? それなら、旅に同道して貰えば、無敵ではないか!?」

 

「リ、リーシャさん……」

 

 カミュやサラの言動から、先程の祝福の儀の効果を知ったリーシャは、未だに息も絶え絶えで言葉を発する老人を旅に同道させる事を提案する。しかし、それは余りにも酷な事であり、現実から遠く離れた身勝手な言い分である事である。サラは少し呆れたような表情を浮かべながらリーシャへ視線を送った。

 だが、確かにリーシャの言う通り、一行の中に魔法力を完全回復させる事の出来る者がいれば、戦いは遥かに楽になるに違いない。メルエやサラが己の魔法力の残量を考える事無く、強力な呪文を唱え続ける事が出来るのであれば、大抵の魔物に後れを取る事はないだろう。それはカミュにもサラにも理解出来る事であった。

 

「いやいや。私のような老人には皆様のような方々と共に歩く事は出来ませぬよ。この能力は、私の家系に受け継がれる物なのですが、この歳にならなければ発現しない能力でもありましてな。とてもではありませんが、厳しい旅や魔物達との戦闘などには着いて行けんでしょう」

 

「いえ。貴重なお力を分け与えて頂いた事、心より感謝致します」

 

 リーシャの物言いに感情を乱される事なく、老人は物腰柔らかく丁重な断りを入れる。この老人の能力は、他人の魔法力を回復させるものではあるのだろうが、その神秘の解析は出来ない。何故、このような能力が使えるのか、そして何故このような能力が可能なのかという事などは解らないのだ。もしかすると、この老人でさえもその理屈は理解していないのかもしれない。

 サラの感謝と、メルエの幼い感謝の言葉を受けた老人は、来た時と同じような柔和な笑みを浮かべたまま、退出して行った。

 その後、暫く何事もなく時間が過ぎ、メルエが眠そうに舟を漕ぎ始めた頃、再び部屋の扉が叩かれる。先程と同じようにサラが対応の為に扉を開けると、歳若い侍女が深々と頭を下げ、宴の準備が出来た事を告げた。

 

 客室とは異なる大広間に通された一行は、開かれた扉の先の光景に息を飲む。これまで上の世界の全ての国家へ訪問した彼らではあったが、このような宴を開かれた事は一度もなかった。

 宮廷で働く全ての人間が集まっている訳ではないが、それでも主要な人物達はこの広間に集められているだろう。正直に言うと、この厚意は有り難い物ではなく、むしろカミュにとっては迷惑以外の何物でもないのだ。何故なら、この宴によって、カミュ達一行が大魔王ゾーマ討伐を目指している事が公式の物となり、その目的は義務に近い物となるからである。

 今後のカミュ達の行動に制限が掛かる訳ではないが、過剰とも言える期待をその身に受ける事だけは確かであった。

 

「今宵は、このアレフガルドにルビス様の威光が戻る日を願い、宴を催した。このラダトームを出立し、大魔王ゾーマに挑む若き勇者達を送ろうではないか」

 

 ラルス国王の開会の言葉と共に、宴が始まる。アレフガルド交響楽団が演奏を開始し、その曲に合わせるように、様々な飲み物が出席者達に配られる。各テーブルに乗せられた数々の料理からは暖かな湯気が立ち上り、食欲を誘う匂いが辺りに立ち込めていた。

 次々と押し寄せる重臣達に辟易しながらも一つ一つ言葉を交わすカミュの足元で、テーブルの上に乗る料理を食べたいメルエが頬を膨らませている。それを見たリーシャは少女を抱き上げ、欲しい料理を聞き、小皿にそれらを盛り付けた。更に近くに居る侍女に声を掛けて、メルエが腰掛ける小さな椅子と机などを持って来てくれるように頼む。余り頼まれた事のない申し出に困惑した侍女であったが、手に持つ皿の料理を哀しそうに見つめる少女に苦笑を浮かべ、ホールの端にあるテーブルと椅子を勧めてくれた。

 重臣達の対応に追われていたカミュに断りを入れ、リーシャはメルエを伴ってバルコニー近くにあるテーブルへと向かう。自分の分の料理を取り分けたリーシャは、ほくほく顔で果実汁を受け取ったメルエを椅子に乗せ、自分も着席した後、料理を食べ始めた。

 

「国王様!」

 

 メルエの口元を拭いながら、リーシャが何気なくカミュへ視線を戻すと、先程までカミュを取り巻くように集まっていた重臣達は潮が引くように道を開け始める。誰かが声を上げた通り、カミュの許へ歩み寄って来たのは、このアレフガルド大陸全てを治めるラルス国王その人であった。

 この場が立食パーティーであるが故に、その場で跪く者は居ないが、それでも話題の勇者に対して国王が何を話すつもりなのかという好奇心からその場を動く者もいない。だが、筆頭大臣までその隣を歩き、周囲の重臣達へ人払いを命じた事によって、渋々といった感じで離れて行った。

 それを機に、カミュの隣に居たサラもまた、国王へ一つ礼をし、リーシャ達の横を抜けてバルコニーから外へと出て行く。それを見送ったリーシャは小さく息を吐き出し立ち上がろうとした。

 おそらく、サラという賢者は、先程の謁見時に国王が発した言葉を気にしているのだろう。彼女が目指す理想は、国王が発した言葉の真逆に位置する物であり、憎しみを捨てた先にある未来である。このアレフガルドは、闇に閉ざした大魔王の影響によって、少しずつ人々の心は荒んで来ていた。それは目に見えない程の変化ではあるが、確かな変化である。

 その荒んだ心は、その原因となった物へ向かう。大魔王へ向けられた憎しみは、人間達へ被害を及ぼす魔物達へと移って行った。それは日を増すごとに大きくなり、己では抑え切れない程の物へと変わって行くのだ。

 それはサラという『賢者』が歩んで来た道でもある。だからこそ、彼女は悩むのだろう。どうしたら、自分の理想へ辿り着けるのかと。

 立ち上がったリーシャが料理を頬張るメルエに声を掛けようとした時、その横を一人の男性が擦りぬけて行った。

 

 

 

「カミュと申したか?」

 

「はっ」

 

 リーシャが擦りぬけて行った男性がバルコニーへと出て行くのを見送った頃、ラルス国王がカミュへと語りかけ始める。周囲に人がいない事を確認した大臣も少し離れた場所へと移動し、実質一国の王と一人の青年だけの会話が始まった。

 跪く訳にもいかない為、カミュは静かに国王と対峙する。真っ直ぐに向けられたラルス国王の瞳は、一国の王としての威厳を持ちながらも、何処か優しさを感じる暖かさがある。少なくとも、先程の謁見の不敬を追求する訳ではない事は理解出来た。

 

「ふむ。やはり、そなたは精霊ルビス様に愛されし者なのだな」

 

 ふと視線を和らげたラルス国王は、一人自己完結をするように頷き、その肩に手を置く。何を指し、何を意味するのかが解らないカミュは、不敬と知りつつもその言葉に答える事が出来ない。仕方なく目を伏せるように頭を下げるしか出来なかった。

 このラルス国王は、先程謁見の間で見た王とは別人のような瞳の色をしている。それがカミュが持った印象であった。何が違うという事を明確に表す事が出来ないが、何かを達観したかのようなその顔は、憑き物が落ちたかのように晴れやかである。また、何かを決意し、何かを成そうとする『男』の表情でもあった。

 

「この城の北西に、大魔王が現れた魔王の爪痕がある洞窟がある。この悪夢の全ての起源がそこにあるだろう。だが、もしその場所に行くのであれば気をつけるが良い。魔王の爪痕は全てを飲み込むと伝えられておる」

 

「魔王の爪痕ですか」

 

 カミュにこの事を伝えたかったのだろう。もしかすると、このラダトーム国王は、オルテガにこの情報を伝える事を失念していたのかもしれない。そして、それを後悔しているからこそ、カミュにこれを伝えようとこの場に現れた可能性があった。

 そして、カミュは自分達の勘違いを知る事となる。彼等一行は、ギアガの大穴のような裂け目が『魔王の爪痕』だと考えていた。魔王が世界を渡る為に斬り裂いた事で生まれた裂け目という逸話を持つ物だと考えていたが、その名は全ての元凶であるこのアレフガルドに存在する物を差すというのだ。

 

「ふむ。強力な魔物がその裂け目から溢れ出しており、その洞窟には誰も入る事が出来ぬ。入った者は例外なく戻っては来ず、全ては言い伝えという物ではあるがな」

 

 確かに、大魔王が居た場所で生きていた魔物であれば強力な者達ばかりであろう。海で遭遇したクラーゴンやマーマンキングなども十分に強力ではあるが、それ以上の魔物達が棲み付いていても可笑しくはない。そして、それ程の魔物達であれば、このアレフガルド大陸の者達では対処が出来ない筈だ。魔王バラモスを打ち倒した勇者一行でさえも苦戦する魔物達を、上の世界の通常の人間よりも力や魔法力で劣る者達が相手出来る訳がないのだ。

 故に、その洞窟は何時しか『勇者の洞窟』と呼ばれるようになる。真の『勇者』にしか攻略出来ない場所であり、そこから生きて出て来る事が出来た者こそが『勇者』であると。

 ラルス国王は、確信にも似た想いで、この情報をカミュに伝えたのだ。オルテガの時は半信半疑であった。腕力も魔法力もあり、次々と魔物を討ち果たしているオルテガを見ても、上の世界から来た余所者という事を差し引いても、ラルス国王は彼を『勇者』であると感じる事はなかった。

 広大なアレフガルド大陸を治める王族であり、精霊ルビスが生み出した大地を治める王族であるラルス国王には、上の世界の王族よりも若干特殊な能力が備わっているのかもしれない。

 

「このアレフガルドには、遠い昔から伝わる英雄譚がある。ルビス様が生みし、このアレフガルドを護った真の勇者。その勇者が装備していた物が、勇者の洞窟の奥底に眠るという言い伝えもあるのだ。もし、そなたらが真の勇気を持つ者達であるならば、勇者の洞窟へ入る事になるかも知れぬな」

 

「はっ……ラルス国王様のご配慮、心よりお礼申し上げます」

 

 ラルス国王なりにカミュ達の行動を後押しするつもりなのだろう。アレフガルド大陸で『勇者の洞窟』とまで云われる場所を攻略すれば、このアレフガルドでカミュ達は精霊ルビスの祝福を受けし者という称号を得る事が出来る。そうなれば、ラダトーム王国としても、助力する事に何の後ろめたさもなくなるのだ。

 それに加え、古の勇者の装備品の言い伝えも本当の事なのだろう。その言い伝えが全国民が知る物なのか、それともラダトーム王族にしか伝えられていない物なのかは解らない。だが、ラルス国王の瞳が嘘を言っている人間の物ではなかったのだ。

 アレフガルド国王と、アリアハンの勇者の会談は、この言葉を最後に終了する。マントを翻して離れて行く国王の後ろを大臣が歩き、再びカミュは重臣達に周囲を固められる事となる。

 

 

 

 バルコニーに出たサラは、火照った頬を撫でる冷たい風に心地良さを感じながらも、月さえも浮かばない漆黒の空を見上げる。このアレフガルドの人々の心を覆ってしまう闇も、この空から来たのではないかと思う程の闇。見る者の心に焦りと不安を湧き起こさせるその闇は、南に聳えているだろう大魔王の居城さえも包み込み、勇者達の目標までも見失わせてしまっていた。

 今、このアレフガルドで生きる者達の心は、深い闇に包まれ始めている。魔物を憎み、それを率いる大魔王を憎み、人間以外の者達を蔑む瞳を持ち始めているのだ。それは、サラにとって最も避けたい事であり、最も恐れていた事でもあった。

 

「サラ殿」

 

「はっ!? 王子様」

 

 サラの後にバルコニーへと出た男性は、ラダトーム国王の嫡子であった。

 既に謁見の間で大々的に後継者指名に近い名乗りをされた事もあり、王太子と述べた方が正しいのかもしれないが、サラは突然掛けられた言葉に驚き、単純に王子と呼んでしまう。そんなサラに対しても笑顔を崩さない王太子は、手に持つ飲料の一つをサラへと手渡し、自然な仕草で隣に並んだ。

 この行動に驚いたのはサラであり、その目的も意図も解らず、王族の思惑などを推測する事も出来はしない。混乱状態に陥ってしまったサラは、おろおろと首を動かしながら、飲み物を飲む事も出来ず、最後には視線を落としてしまった。

 

「貴女のお名前は伺いました。許可も得ずにお名前を口にした事をお詫びします」

 

「い、いえ!」

 

 王族の第一王子に謝罪されてしまうと、如何に勇者一行の『賢者』といえども立つ瀬はない。恐縮するように勢い良く頭を下げた事によって、手に持っていた飲み物の全てを床へと溢してしまった。

 自分の犯した失態に呆然としていたサラではあったが、隣でくすくすと笑う王子の声に我に返り、慌てて謝罪を繰り返す。真っ赤に染め上がった顔を隠してくれる漆黒の闇に、サラは初めて感謝したい気持ちであった。

 

「父に代わり、謁見時の言葉を謝罪します」

 

「え?」

 

 顔を上げたサラの瞳を真っ直ぐに見つめた王子は、真剣な表情で真っ直ぐに頭を下げる。それは、先程のような儀礼的な謝罪ではなく、心よりの謝罪である事が解る程の物であった。

 アレフガルド大陸という広大な国の王子に二度も頭を下げさせてしまったサラは、事の顛末に付いて行く事が出来ず、放心してしまう。漆黒の闇に包まれて入る為、お互いに気付いてはいないが、頬をほんのりと赤く染めた二人が見つめ合う姿は、ここまでの話の流れでは有り得ない姿だった。

 

「このアレフガルドは、精霊ルビス様が生み出された大地。遥か昔より、魔物も人間もお互いの領域を犯す事無く生きて来たのです。ですが、大魔王ゾーマの台頭、そしてゾーマとの死闘で弱られたルビス様が封じられた事により、その均衡が崩れました」

 

「……それまでは、人と魔物は敵対していなかったのですか?」

 

 サラから視線を外し、真っ暗な空を哀しい瞳で見上げた王子は静かに話を始める。

 その内容は、サラにとって一筋の希望であり、彼女が望む理想への一歩と成り得る程の物。故にこそ、先程までの羞恥を忘れ、サラは王子に対して口を開いてしまった。

 国王でない者とはいえ、次期国王に対して不敬に値する程の物ではあるが、それでもサラは自分の内から沸き上がる想いを抑える事が出来ない。輝く瞳を王子に向け、問うその姿は、彼女が『賢者』と呼ばれる存在である証明なのだろう。

 

「魔物に襲われる事はありました。ですが、それは魔物の領域に踏み込んだ人間の罪。逆に人の領域に踏み込んだ魔物は、我々が討伐します。そのように均衡を保って来たのです。何故なら、精霊ルビス様は、人間だけではなく、魔物も植物も、その他の動物達も等しく愛して下さっているのですから」

 

「はい! 私もそう思います。ルビス様は、懸命に生きる物を区別される訳がありません。もしかすると、大魔王ゾーマでさえ、愛そうとされていたのかもしれません」

 

 王子の語るアレフガルドに於けるルビス教の教えに喜びを感じたサラは、自分の内にあった想いを思わず吐き出してしまう。『賢者』と呼ばれようと、どれ程の経験を積もうと、どれ程に変化しようと、サラの根本は変わらない。自分の発言に驚いた表情を浮かべた王子を見るまで、サラは自分の発言の重大性に気付かなかった。

 目を見開くように驚愕の表情を浮かべた王子を見て、ようやく我に返ったサラは、自分の失言を後悔する。如何に、自分の理想と同じ方向を見ているとはいえ、目の前に居るのはこのアレフガルドを治める王族である。その祖国を窮地に陥れている元凶までも愛すべき対象として語る事は、相手の心情を害する物であるだろう。

 だが、この王子は、サラが考えていた以上にアレフガルド大陸を想う者であった。

 

「なるほど……確かにルビス様ならば、そうなのかもしれません。なればこそ、そのルビス様を裏切り、愛を受ける筈であった魔物達を巻き込んで世界を闇に包むゾーマを許す事は出来ませんね」

 

「は、はい! ご安心下さい。カミュ様は、真の『勇者』です。必ず大魔王を討ち果たし、この大地にルビス様の愛を取り戻して下さいます。私も、『賢者』として、精一杯カミュ様をお助け致します」

 

 先程までの不安と後悔を吹き飛ばすような王子の笑みと言葉。その全ては、サラの心を暖かく包み込んで行った。沸き上がる勇気は、カミュという勇者の背中を見つめていた時とは異なる種類の物である。それが何なのかは解らないまでも、サラは希望に満ちた瞳で漆黒の空を見つめて決意を新たにした。

 そんなサラの姿に若干困ったような表情を浮かべた王子は、手にした飲料を一度口に運び、もう一度サラへと視線を戻す。

 

「サラ殿は、あの勇者を随分と信頼されているのですね?」

 

「え?」

 

 王子が口にしたのは小さな呟きであった。その呟きは吹き抜けた一陣の風に乗って、サラの居る方向とは逆へと運ばれて行く。何かを王子が口にした事だけは解ったサラが視線を戻すが、もう一度口にするつもりのない王子は、困ったような笑みを浮かべて空を見上げた。

 噛み合う事のない歯車は動き出す事無く、灯りの少ないバルコニーに光が差す事もない。このアレフガルドに精霊の祝福が舞い降りるには、まだ時が早かったのかもしれない。

 

「賢者殿の見ている未来を、私も見てみたい。魔王さえ愛そうとするルビス様の生み出した大地に、多くの種族の幸せが広がる世界を……」

 

「ありがとうございます」

 

 漆黒の空を見上げながら発せられた王子の言葉は、今度はサラの耳にしっかりと届く。己の描く夢のような世界を理解してくれた喜びが彼女の胸に湧き上がり、想いとなって瞳から溢れ出す。

 誰にも理解されないかもしれないと思っていた。それはラルス国王との謁見で更に強くなり、自分の目指す道は人間には受け入れて貰えないかもしれないと不安にもなった。それでも自分を信じてくれるリーシャやメルエ、そして先を歩く勇者の為にも、進まなければならないと考えていたのだ。

 サラという賢者にさえ襲い掛かる大きな闇を晴らしてくれたのは、いつも支えてくれる女性戦士の言葉ではなく、彼女を不安に陥れる言葉を発した王の後継者であった。

 

 一つの時代は終わりを告げ、一つの時代が始まって行く。

 それが精霊ルビスという精霊神が生み出した世界の理。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
年内最後の更新になると思います。
来年も頑張って描いて行きますので、よろしくお願い致します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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