新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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勇者の洞窟(ラダトーム北の洞窟)②

 

 

 

 広い通路のような洞窟は真っ直ぐ奥へと伸びている。ゆっくりとした下り坂ではあるが、確かに下の階層へ降りている事が解った。痛々しく左腕に包帯を巻いたカミュが先頭を歩き、心配そうに眉を下げたメルエがサラの手を引くように後ろを歩く。自分を先導するようにカミュに付いて行こうとするメルエに苦笑を浮かべたサラは、後方を警戒し続けるリーシャへ視線を送った。

 サラマンダーの吐き出した炎の名残も消えかけ、周囲を再び闇が支配し始めている。『たいまつ』の炎のみが頼りとなる薄暗い洞窟の中を慎重に歩を進めていた一行は、遂にその場所に辿り着いた。

 

「カミュ……」

 

「……やはり来るべきではなかったか」

 

 広い通路に似た下り坂を下った先には、開けた空間が広がっていた。その広さは洞窟の中とは思えない程の物で、一つの町がすっぽりと納まってしまう程の物。漆黒の洞窟の中にも拘わらず、全体を見渡せる程の明るさがあり、周囲で燃え盛る炎がまるで奥へ吸い込まれる事を抵抗するように揺れている。

 その広大な空間に一歩踏み入れたカミュは、その奥へと進もうとはせずに立ち止まってしまう。後方からカミュに追いついた三人の女性もまた、その異様な光景に立ち尽くしてしまった。

 

「戻りましょう」

 

「いや、もう遅いだろうな」

 

 この場所が勇者の洞窟の最奥である事は間違いないだろう。燃え盛る炎によって照らし出された空間の奥には、巨大な漆黒の穴が見えている。それが魔王の爪痕と呼ばれる異世界への歪みである事は誰の目から見ても明らかであった。

 全てを飲み込むような漆黒の闇。揺れ動く炎さえもその闇に飲み込まれそうになり、その場に立っているだけで足元が不安定に感じてしまう程の畏怖を感じる闇である。もしかすると、この洞窟内で行使した魔法に使用する魔法力もまた、あの闇に全て吸い込まれてしまい、結果的に呪文の行使が出来ないのかもしれない。

 ここまでどのような苦境も乗り越えて来た勇者一行の心を折りかねない程の恐怖を与えるその闇を見たサラは引き返す事を先頭の勇者に提言するが、その言葉は背中の剣を抜き放った彼によって却下された。

 

「グオォォォォォ!」

 

「……また竜種か」

 

 それは、全てを飲み込む程の漆黒の闇の前で暴れ狂う魔物がカミュ達へ照準を合わせた事を感じた為である。洞窟内を照らし出す炎の原因は、この魔物の吐き出す炎なのだろう。鋭い牙を除かせる巨大な口から今も吐き出される炎が、周囲の炎を消す事無く、燃え盛っていた。

 カミュの言葉通り、その魔物は竜である。先程戦闘したサラマンダーのような龍ではなく、竜の女王のような竜。大地を踏み締める四つの足で巨体を支え、その頭部には角を持ち、大きく裂けた口には鋭い牙を生やしていた。

 しかし、その姿を見る限り、正確には竜種ではないのかもしれない。竜の女王のような体躯ではなく、その姿はジパングという小さな島国を滅亡に追い込んでいた『ヤマタノオロチ』という生物に酷似していたのだ。

 五つの首を持ち、その長い首から続く頭部も五つ。中央にある三つの頭に備わる鋭い瞳がカミュ達四人を射抜き、両脇の二つの首が威嚇するように炎を吐き出していた。

 

「オロチか?」

 

「いや、あれとは異なる存在だな。竜種なのか否かは判らないが、厄介な相手である事に変わりはない」

 

 盛大に雄叫びを上げる目の前の化け物に対して、以前に見た姿を思い出したリーシャは斧を手に持つ力を増す。ジパングで遭遇したヤマタノオロチという化け物は、言葉通り死力を尽くして戦った相手であった。あの頃のカミュ達よりも遥か上位に力量は上がっていたとしても、自分達の全てを出して戦い切った相手と同格の者となれば、それなりの覚悟が必要となる。しかも、あの時はサラとメルエの魔法という神秘がなければ、間違いなく彼等は全滅していたのだ。

 しかし、そんなリーシャとは裏腹に剣を抜き、『たいまつ』を壁際に置いた勇者は落ち着き払っている。厄介な相手だとは口にしながらも、勝てない相手であると口にする事はない。それどころか逃げ出す相手でもないという事を明確に背中が物語っていた。

 

<ヒドラ>

正確に言えば竜種ではないのだろう。胴体から伸びる首は五つ。古くからアレフガルドに伝わる伝承に登場する魔物である。伝承の中では首が九つという物もあったり、それこそ百に届く数を持つという物まである、正真正銘の化け物であった。その為、竜の女王の下に就いていた竜種や龍種とはその立ち位置が異なっている。

数多くの首から吐き出される炎と、その鋭い牙で過去の英雄達を何人も葬り去り、アレフガルドと別世界を行き来するとさえ云われており、大魔王ゾーマが支配する魔族や魔物の中でもかなりの力を有する者であった。

 

「メルエ、大丈夫ですか?」

 

「…………ん…………」

 

 以前に遭遇したヤマタノオロチと呼ばれる産土神との戦闘開始時に怯え切っていた少女の姿を思い出したサラは、隣で杖を持つメルエに声を掛ける。しかし、そこにはヤマタノオロチや竜の女王を前にした時のような少女はいなかった。真っ直ぐに目の前の化け物を見据えたその姿は、歴戦の勇士を思わせるような強さがある。頼れる仲間の姿に頬を緩めたサラは、前方のリーシャへ頷きを返した。

 徐々に近付いて来るヒドラを前にした一行の周囲の空気が緊迫して行く。張り詰められた空気がヒドラの力量を明確に物語っていた。

 侮れる相手ではない。

 それでも臆する程の相手でもない。

 

「確かに、あの時のような絶望感はないな」

 

「ヤマタノオロチの時に、アンタが絶望感を覚えた事はあったのか?」

 

 自分の手にあった『たいまつ』を後方のサラへと渡したリーシャは見上げるようにヒドラへと視線を送り、完全な戦闘態勢へと入って行く。その時に呟いた言葉に即座に反応したカミュの口端は上がっているものの、視線は同じくヒドラへと向けられていた。

 ヤマタノオロチとの死闘は確かに絶望的な状況が何度もあった。その口から吐き出される炎を相殺する程の呪文を行使していたメルエの魔法力の枯渇や、それに続くサラの魔法力の枯渇。連戦に寄る疲労で動かなくなった前衛二人の腕は、竜種の鱗を何度も斬りつけた事によって握力さえもなくなり掛けていたのだ。

 そこまでの死闘を繰り広げ、その末にようやく手に入れた勝利である。薄氷を踏むような死と隣り合わせの戦いを経験した彼等にとって、今目の前で雄叫びを上げる同種に近い存在は脅威に値する程の魔物ではなかった。

 

「いや、全くなかったな!」

 

 そんなヤマタノオロチとの死闘で、誰もが少なからず諦めに似た感情を持ってしまった中、唯一人悲観的な考えも持たなかった者となれば、彼女しかいないだろう。握力が無くなってしまった事にも微笑みを浮かべ、自分達が倒れる事など想像もせず、常に前線に立ち続けた女性が再びその手にある斧を振るう。

 ヤマタノオロチと相対した時の彼女の武器もまた斧であった。だが、それは上の世界では何処ででも購入出来る程に簡易な斧。『鉄の斧』と名付けられたその斧には特徴など何もなく、木こりが使う斧を少し頑丈にした程度の物である。

 如何にメルエという規格外の魔法使いが放つ魔法力に覆われようと、何度も竜種の鱗を突きぬける事が出来る程の強度を持つ訳ではない。持っている手は痺れ、武器の刃は毀れる。そんな頼りない武器であった。

 

「グギャァァァァ」

 

 しかし、彼女が今装備している武器は、神代の斧である。魔の神が愛した斧であり、この世で最高位に立つ程の斧であった。

 所有する者を試すように重量を変え、その威力を変動させるような悪辣な斧でありながらも、一度その所有者を認めた場合、絶大な威力を発揮する斧でもある。

 そして、勇者と共に歩くこの女性戦士は、既にその斧を持つに相応しい場所にまで登り詰めていた。

 

「グオォォォォ」

 

 噴き上げる体液は、駆け出したリーシャに襲い掛かったヒドラの首の一つの物。牙を剥き出しにして襲い掛かるヒドラの頭部を一閃した斧は、見事に竜種の鱗を斬り裂き、体液を噴出させる。口元を斬られたヒドラは怒りの咆哮を上げ、他の頭部が大きく口を開いた。

 口内には炎が渦巻いており、それを見たリーシャは即座に水鏡の盾を掲げる。吐き出される炎がサラマンダーの吐き出した炎と同格であれば、吐き出す口の多いヒドラが圧倒的に優位となるだろう。カミュの放つ勇者特有の絶対防御呪文がない今、盾によって防ぐ事の出来る炎は限られており、本来であれば避けるという選択が最善だったのかもしれない。

 だが、そんなリーシャの後悔も杞憂に終わる。ヒドラの口から吐き出された炎は、リーシャの後方から飛び込んで来た熱風によって押さえ込まれ、リーシャの目の前で炎の海を広げたのだ。

 

「……メルエ?」

 

 リーシャの呟きは呆けたような声であった。

 それは何も彼女だけではない。彼女と共にヒドラへ向かおうとしたカミュも、後方で薬草の準備を始めたサラも、呆然と目の前の光景に言葉を失っていた。

 それは当然の事であろう。この場所は呪文が行使出来ない筈であり、それはカミュとサラ自身がこの階層に到達してからも試して見た結果である。自分の腕から発せられた魔法力は、ヒドラの後方に見える漆黒の闇へと吸い込まれるように消え失せ、神秘を発現する事はなかったのだ。

 だが、サラの隣にいる少女は、自分よりも大きな杖を真っ直ぐヒドラへと向け、その結果を当然のように受け入れている。その姿が意味する物を理解出来ないカミュとサラが呆けてしまっても仕方のない事なのだ。元よりリーシャは呪文行使が出来ない場所としか認識していない為、メルエが起こした神秘の理由になど辿り着ける訳がない。

 

「…………サラ……やくそう……つぶす…………」

 

「え? あ、はい」

 

 サラの方へ視線を向ける事無く杖を掲げる少女は、自分の師である姉のような女性に指示を出す。そんな少女の纏う空気に臆した訳ではないが、何故かその言葉は拒否する事が出来ない程の力が篭っていた。

 自分の革袋から出した器にメルエの持っていた薬草を入れ、それを磨り潰す。小奇麗な布に磨り潰したものを載せ、それを揉む事で布に薬草の成分を染み込ませて行った。

 メルエが何故、この場所で呪文を行使出来たのかは解らない。いや、むしろメルエが呪文を詠唱した呟きをサラも聞いてはいないのだ。それでも、今、間違いなく神秘は発現した。リーシャを襲う炎を押さえ込む程の炎を発現させ、炎の壁を生み出している。

 

「……今のはベギラマだろう。ならば、この竜種の吐き出す炎はベギラマで相殺出来る程度の物だという事。その盾でも十分に防ぎ切れる筈だ」

 

「……カミュ、ここは呪文行使が可能な場所なのか?」

 

 カミュの考察など、リーシャの頭には入って来ない。その瞳は厳しく細められ、まるで尋問するように低い声で問いかける。それに対し、静かに首を横に振ったのを見た彼女は、苦々しく表情を歪めた。

 『メルエに無理をさせている』という想いがリーシャの胸を締め付けて行く。時折メルエは人が変わってしまったかのような状態に陥る時があった。己の心を殺し、己の自我を殺し、目の前の敵を殲滅する事だけを目的としたような変化を起こす際、彼女は己の分を越えた呪文を行使したり、自分の身体に負荷を掛けてしまう可能性があったのだ。

 魔法という神秘が行使出来ない事で、足手纏いになってしまう事を恐れた少女が再びそのような状態に陥ってしまったのではないかと、リーシャは心を痛めていた。

 

「……まずは、目の前の障害を排除してからだ」

 

「わかった」

 

 カミュもまた似たような感情を持っていたのだろう。故にこそ、立ち上がるリーシャの顔を見る事もなく、襲い掛かるヒドラの首に向かって剣を振り下ろした。

 もし、彼等二人が妹のように愛する少女の身に何かがあった場合、この二人は平常心ではいられないだろう。いや、今でさえ、彼等二人の心は乱れ始めている。メルエという少女の危うさは、二人の共通する認識であったのだ。

 

「カミュ、右だ!」

 

 駆け出したカミュの右手から、一つの首が襲い掛かる。鋭い牙を剥き出しにしたヒドラは、そのままカミュの右半身を食い千切ろうと迫っていた。正面の首と左前にある首から吐き出される炎を警戒していたカミュは、その首の接近に直前まで気付かず、リーシャの忠告で咄嗟に態勢を変える。

 巨大な牙を水鏡の盾で防いだカミュは、若干後方へと下がるが、既にその程度の力で吹き飛ばされるような存在ではない。だが、それでも五つ全ての首の相手をする事も出来なかった。

 カミュが態勢を立て直して剣を振るうよりも先に、ヒドラの他の首が彼へ襲い掛かる。盾が弾かれた状態でその牙を防ぐ方法はなく、盛大な舌打ちを鳴らしたカミュは剣を振るおうと強引に身体を捻った。

 

「うおりゃぁぁぁぁぁ!」

 

 しかし、その首はカミュへ届く事はなく、床へと落ちて行く。地響きを鳴らして落ちた首は、既に白目を剥いており、巨大な口からは大量の体液を吐き出していた。カミュがその首に視線を送ると、首先が途中で斬り落とされており、体液が滝のように溢れ出している。その横では、斧に付着する体液を振り払うリーシャの姿が確認された。

 その凄まじい一撃は、正確にヒドラの太い首を切断し、一つの首を戦闘不能へと追い込んでいたのだ。のた打ち回るように跳ねる首を鬱陶しそうに避けながらも、リーシャは次の標的となる首へと視線を向ける。態勢を立て直したカミュもまた、視線をこちらを向いているヒドラの首へと移した。

 しかし、二人はその首を見た瞬間に盾を構える事となる。視線を向けた先の一体の首は二人に向けて大きく口を開いていたのだ。その中には渦巻く炎が見えており、カミュ達二人が視線を向けた時には既にそれを吐き出す段階に入っていた。

 

「…………いく…………」

 

「は?」

 

 炎の襲来に備えた二人が瞬時に上がる熱気を感じた頃、後方から呟くような声とそれに反応する間抜けた声を聞く。その瞬間、前方から迫っていた熱気を押さえ込むような熱量が後方から吹き抜けて行った。

 カミュ達の前に着弾した熱弾は、頭部を失って暴れ回る首を巻き込んで炎の壁を生み出す。斬り口を焼かれた首は力なく床へと落ち、他の首から吐き出された炎は壁に阻まれてカミュ達へは届かなかった。

 再び発現した神秘に首を動かした二人は、後方で杖を前へと突き出している少女へ視線を移す。

 

「心配要りません。今のはメルエが呪文を行使したのではなく、雷の杖に備わっている力をメルエが解放したのです」

 

 二人が心配している内容を理解していたサラは、前方へ大きな声を張る。先程メルエが杖を突き出した際に発した言葉が、呪文の詠唱ではない事に間の抜けた声を発した彼女ではあったが、その後に発現された神秘を見た時に全てを理解したのだ。

 メルエの持つ『雷の杖』は神代の武器である。その杖は己の主と認めた者に対しては、絶対の忠誠を誓うかのように尽くす。その身と心を護る門番のように、主の身に及ぶ危険を排除する為には自らが神秘を発現する事さえも可能としていた。

 そして、それは主の命令があった時でも同様なのだろう。メルエという雷の杖を持つ主が、己の大事な者達を護る為に命を下した。神代から残る武具であるこの杖にとって、それは何よりも優先させなければならない命であり、喜びさえも感じる信頼の証なのかもしれない。

 杖の先端に装飾された禍々しいオブジェの口から吐き出された熱弾は、ベギラマという神秘となって、ヒドラが吐き出した炎を防ぐ。正しくその炎の壁の姿こそが、メルエという少女の心にある想いの具現なのだろう。大事な者を必ず護るという彼女の想いこそが、ここまでの旅の中で彼等の間に築かれて来た絆を強くし続ける元であった。

 

「妹の成長は嬉しいものだな」

 

「……『娘の』の間違いではないのか?」

 

 サラの言葉を聞いた前衛二人は、後方で杖を持ったままヒドラを睨みつける少女へ視線を移し、優しい笑みを浮かべる。その際に発し合った軽口が彼等の心に生まれた余裕を示していた。

 ベギラマでも防ぎ切れる炎に躊躇する二人ではない。その程度の炎であれば水鏡の盾でも防ぐ事が可能であるし、後方にいる少女が目を光らせている以上、その必要もないだろう。ならば、彼等の役目は一つしかない。

 

「カミュ、一つ一つ首を落として行く必要などない。首の攻撃を避けながら、直接胴体を狙うぞ。いざとなれば、お前のその剣にも付加効果があった筈だ」

 

「わかった」

 

 神代の武器はメルエの雷の杖だけではない。リーシャの持つ魔神の斧も、カミュが持つ稲妻の剣も同様の物である。リーシャの言うように、稲妻の剣に関しては、ネクロゴンドの洞窟内で数多くの魔物を駆逐する程の能力を秘めていた。それは、まるで中級の爆発呪文であるイオラのような効力である。

 ヤマタノオロチを打倒した時のカミュ達であれば、首の攻撃を掻い潜りながら本体を攻めるという戦略を取る事は出来なかった。カミュ達の力量がヤマタノオロチよりも遥かに下であったという事と、その吐き出す炎を相殺する為の方法がメルエの放つ呪文しかなかったという理由がある。それに比べ、炎を防ぐ方法自体がメルエ任せである事に変わりはなくとも、カミュ達全員の力量と装備武具の強さが異なっていた。

 既に人類を超越し、魔物や魔族の中でも最上位に入る程の攻撃力を持つリーシャとカミュが持つ武器も、神代から伝わる物である。身体能力、武器の能力、そして戦闘経験の幅を考えた場合、彼等二人が如何に竜種といえども遅れを取る事は有り得なかった。

 

「…………いく…………」

 

 駆け出したリーシャ目掛けて口を開いたヒドラを見た少女が杖を振るう。吐き出される炎と、杖が生み出す炎がぶつかり、炎を壁を作った。炎の壁に首を差し込むような愚かな行動をしないヒドラは、生み出された炎によって胴体へと真っ直ぐ進む道を駆けるリーシャを待ち受けるように出口へ首を動かす。既にリーシャの周囲は相当な熱量を持つ炎の壁に塞がれており、その出口から更に炎を吐き出されれば、完全に炎に包まれてしまうだろう。

 それを理解して尚、彼女は脇目も振らず真っ直ぐに駆けた。

 

「行け!」

 

 出口にヒドラの首が移動し、その口を大きく開けた時、カミュは握っている剣を前へと突き出す。

 瞬間的に圧縮されて行く空気。それは大きく開かれたヒドラの口内で弾け飛んだ。渦巻く火炎を巻き込むように弾けた空気が、ヒドラの頭部を内部から破壊して行く。白目を剥いた一つの頭部が下に落ちてくると同時に、神代の斧が一閃した。

 巨大な首が根元から斬り込まれ、派手に体液を撒き散らす。上部から降り注ぐ体液を縫うように避けながらリーシャは斧を最上段に構えた。巨大なヒドラの腹部に突き刺さった斧をそのまま流れるように這わせ、鱗の護りのない腹部を抉って行く。

 竜種の中でも上位に位置するヒドラの鱗は通常の人間では傷一つ付ける事は出来ないだろう。それを可能にしているのは、カミュとリーシャの力量と、その手にある武器の恩恵があればこそである。そして、竜種の鱗をも斬り裂く事が出来る者が脆い腹部を斬り裂いたとなれば、通常の魔物に対処出来る筈がなかった。

 

「ギャオォォォォォ!」

 

 駆け抜けたリーシャを追う様に降って来る体液の中には、ヒドラの生命の源である臓物までもが含まれている。痛みと苦しみを叫ぶように全ての首が叫び声を上げ、その内の一つの首が、潰されないように外へ出て来たリーシャの身体を壁へと弾き飛ばした。

 勇者の洞窟の最下層に位置する壁はここまでの岩壁よりも強度が高い。大地の女神に愛された鎧とはいえ、全ての衝撃を緩和出来る訳ではないのだ。壁に当たり、そのまま地面へと落ちたリーシャを見たサラが磨り潰した薬草を持って駆け出し、それへ視線を向けたヒドラよりも早く一つの首の前にカミュが立ち塞がった。

 

「グギャァァァァ」

 

「…………いく…………」

 

 既に五つ存在したヒドラの首は、残り二つとなっている。既に過半数の首を失い、腹部には大きな裂傷がある。臓物を垂れ流し、生物としての限界は既に超えているだろう。それでも残る首の一つは大きく口を開き、駆け寄るサラ諸共にリーシャを焼き殺そうと炎を吐き出した。

 しかし、そのような暴挙を許すようなメルエではない。杖を振るい、炎の横合いから熱弾を叩き込む。着弾すると同時に炎の壁を生み出し、ヒドラが吐き出した火炎の進路を完全に遮断した。

 何度となく自分の火炎を防がれた事と、死に瀕した状況という事実が相まって、ヒドラは完全に我を失って行く。自身の攻撃を悉く遮った原因である少女に狙いを定め、一飲みにしようと首を伸ばした。

 

「……行かせると思ったのか?」

 

 だが、その首は幼い少女に辿り着く前に、途中から切断される事となる。

 駆け出したカミュの剣が突き刺さり、その刺突部分を起点にして一気に振り下ろされたのだ。

 噴き出す体液を撒き散らしながら上げた首に、皮一枚で頭部がぶら下がるが、その重みと激しい動きによって、頭部が床へと落下する。凄まじい音と衝撃を残す頭部を避けたカミュは、そのまま再びヒドラの腹部へと潜り込んだ。

 残る一つとなった首がカミュを追うが、その牙が彼を捕らえる事はなく、再び腹部へと稲妻の剣が突き刺さる。深々と突き刺さった剣を引き、世界最上位種である竜種の生命を斬り裂いて行った。更に、剣を突き刺したままカミュが念じると、その剣を中心に空気が圧縮され、ヒドラの内部から一気に弾ける。爆発音を響かせて弾け飛ぶ臓物が、ヒドラの最後に残った生命への執着を剥がして行った。

 

「メルエの機転がなければ、かなり苦戦しただろうな」

 

「ああ。もし、呪文を行使出来ていたとしても、強敵であった事には変わりはない」

 

 命の灯火が消え失せ、最後に残った頭部の瞳から光が失われる。首を支える力が消滅した事で、一気に地面へと落ち、洞窟の最下層に巨大な振動が響き渡った。巨体が沈んだ事で揺れる大地は、幼いメルエを引っくり返させ、尻餅を突いた少女は恨めしげにヒドラだった物を睨み付けた。

 そんな幼い少女が、この戦闘中に己の出来る事を考え続けていなければ、この戦闘はかなりの苦戦を強いられた事は間違いないだろう。本来の万全の状態で戦っていてもそれは変わらない。この狭い空間であったからこそ、ヒドラ自身も己の動きが制御されていたのだろうし、もしヒドラが何らかの呪文を行使出来たとしたら、今以上の苦戦は免れない事は確かであった。

 

「しかし、この竜種は何を護っていたのでしょう?」

 

「魔王の爪痕という事もないだろうな……」

 

 戻って来たリーシャは多少の擦り傷を身体に残していながらも、骨を折った様子もなく、臓物を傷つけられた様子もない。その頑丈さに若干の呆れを含んだ溜息を吐き出したカミュは、遅れて来たサラの言葉を聞いて竜種の遺骸へと視線を移した。

 その時、ヒドラであった物体が、倒れた後方にある巨大な穴へと落ちて行く姿が映り込む。魔王の爪痕とは呼ばれているが、それはぽっかりと空いた穴のような物であり、空間自体が歪んでいるようにも見えない。一行は徐々に落ちて行くヒドラの身体を見守る事しか出来なかった。

 

「なっ!?」

 

 しかし、その巨体の全てが巨大な穴へと落ちた瞬間、四人全員が言葉を失う事となる。

 ヒドラの最後の頭部が穴へと落ち、その姿が見えなくなると同時に、勇者の洞窟最深部を大きな地震が襲ったのだ。

メルエだけではなく、カミュ達三人であっても立っている事すら不可能な程の振動が響く。洞窟自体が崩れてしまうかもしれないと思う程に大きな振動により、天井を形成している岩の小さな破片が降り注ぐ。メルエを庇うようにマントを広げたカミュを中心にリーシャ達が固まり、振動が止むのを待つ事となった。

 

「……あ、あれは」

 

 落ちて来る小岩の影響で視界が悪くなって行く中、一際大きな振動が響いたと同時に、継続していた揺れが収まる。徐々に晴れて行く視界に目を凝らしたサラは、その先に見えた物体に言葉を失ってしまった。

 それは、正しくヒドラの巨体。あの一際大きな振動は、まるで吐き出されるように飛び出したヒドラの巨体が天井部分に当たり、床へと落下した時のものなのだろう。ヒドラの死体は、何処かが再生した訳でもなく、逆に何処かが欠損している訳でもない。単純にカミュ達が倒した時のままの状態で床に転がっていた。

 魔王の爪痕と呼ばれる異世界からの入り口と思われていた場所であったが、何故かヒドラはこの場所へ戻されている。その理屈も原因も解りはしないが、魔王の爪痕が自ら拒否したような形になっていた。

 

「カミュ、あれは……」

 

「盾ですね……」

 

 周囲の砂埃が完全に晴れると、ヒドラの死骸の近くに何かが落ちている事が見えて来る。ヒドラと戦闘していた時には気付かなかったのか、それとも魔王の爪痕が今吐き出したのかは解らないが、薄暗い洞窟の中でも青く輝くその光は周囲の空気を浄化しているかのように神秘的であった。

 『盾は地深くに』という言い伝え通りだとすれば、本当に魔王の爪痕の奥に落ちていたという可能性も捨て切れない。ただ、見えている盾のような物が、町の防具屋で販売されているような代物ではない事だけは感じ取る事が出来た。

 

「古の勇者が使用していたとされる盾は、『勇者の盾』と伝えられているそうです」

 

「そのままの名だな……」

 

 先程の地震が再び起こらないかを警戒しながら慎重に盾へと移動している途中で、サラはラダトーム城で王子から聞いた伝説の内容を思い出しながら口にする。しかし、その名を聞いたリーシャは、何処か捻りのない名に警戒心が抜けてしまった。

 確かに古の勇者として語り継がれている者が装備した盾なのだから、『勇者の盾』と呼ぶ事は間違いではない。更に言えば、古の勇者が装備していた武具というのは伝承の中だけにしか存在しない物であるのだから、全ての武器や防具が、『勇者の剣』、『勇者の鎧』、『勇者の兜』、『勇者の盾』となっていてもおかしくはないだろう。

 現に、カミュが握っている稲妻の剣も、上の世界では『勇者の剣』と呼ばれるに相応しい実績を残している。もし、大魔王ゾーマという存在がおらず、バラモスを討ち果たした後、カミュが何処かで平和に暮らしていけたとしたら、そういう伝承が残ったのかもしれなかった。

 

「これは……」

 

「凄い力を感じますね」

 

 魔王の爪痕と呼ばれる巨大な穴付近まで近付いた一行は、そこに鎮座する盾を見て言葉を失う。その盾は、水鏡の盾のように円形でもなければ、魔法の盾のように楕円形でもない。台形に近いながらも滑らかな曲線を描き、その淵は金色に輝いている。盾自体は青い輝きを放つ不思議な金属で造られており、その金属が地上には存在しない貴重な物である事が解る程に神秘的な色をしていた。

 そして、何よりも眼を引くのが、その盾全体に描かれた絵画のような模様である。中央に埋め込まれた真っ赤な宝玉を中心に描かれた模様もまた光り輝く金色であり、それは見る者の心を和ませ、大きな安心感で包み込むような不思議な模様であった。

 

「…………ラーミア…………」

 

「ん? そうだな! 確かにラーミアだ。メルエの言う通り、この模様はラーミアに良く似ているな」

 

 盾へ手を伸ばそうとするカミュの横から顔を出したメルエは、その盾に描かれた模様を見て満面の笑みを浮かべる。笑みと共に口にしたその名は、彼等を魔王バラモスの元へと運び、このアレフガルドへも渡って来た神鳥。精霊ルビスの従者として語り継がれていながらも、その存在感は精霊神ルビスや竜の女王にも匹敵する。カミュを『勇者』として、そして世界の守護者として認めたその神鳥は、今は守護者不在の上の世界を護っていた。

 自分の感じた事が嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべたメルエは、それを肯定するように微笑むリーシャを見て笑みを濃くする。短い期間ではあったが、世界が輝いて見える少女にとって、あの神鳥は大好きな存在の一つであったのだろう。

 嬉しそうに微笑むメルエの頭を撫でたカミュは、その盾を持ち上げる。持ち上げる際に水鏡の盾を外したカミュは、怪我をした腕を庇うようにゆっくりと嵌めて行った。

 

<勇者の盾>

アレフガルド大陸に遥か昔から伝わる伝承の中に存在する勇者が装備していた盾。遥か昔に訪れたアレフガルドの危機を救った者であり、その者が装備していた武器や防具の全てが伝承として、今も語り継がれている。

竜種の吐き出す火炎や吹雪などを遮断し、持ち主の身体を傷つけない程に火炎や吹雪への耐性が強い。原料となる金属の特徴であるのか、熱への耐性が有り、高温に曝しても変形する事はなく、人類では加工は不可能な物とさえ伝えられていた。

アレフガルド大陸では古の勇者がラダトーム王家へ下賜したという伝承も残っており、現在の国民達はその伝承を信じている。だが、実際はラダトームには伝えられておらず、伝わるのはそれらに関する言葉だけであった。

 

「この盾はアンタが使え」

 

「え? 私ですか?」

 

「…………むぅ………サラ……ずるい…………」

 

 左腕に吸い付くように納まった勇者の盾を暫しの間見ていたカミュであったが、先程まで装備していた水鏡の盾をサラへと手渡す。受け取ったサラは久しぶりに変更される盾に戸惑うが、その横で先程までの笑みを消して鋭い視線を向けるメルエを見て苦笑を浮かべた。

 水鏡の盾もまた特殊な金属で造られている。その為、その盾の重量も通常の鉄の盾に比べて軽く、サラでも装備が可能な物である。流石にメルエも装備出来るかと問われれば、首を傾げる物ではあるが、成人の女性魔法使いであれば装備が可能なのかもしれない。

 サラマンダーという火の精霊にも例えられる龍種が吐き出した強力な火炎を防ぐ事も可能であり、尚且つその高温でも変形しない盾となれば、ここから先の旅でもかなり重宝する物となる事は間違いなかった。

 サラは隣で頬を膨らませるメルエを見ないようにしながら、今まで使用していた魔法の盾を外し、左腕に水鏡の盾を装備する。魔法の盾のように持ち主の大きさに合わせるように変形する事はなかったが、まるで女神の祝福を受けたかのようにサラの左腕に納まった。

 

「メルエには水鏡の盾は重いだろう? それに、メルエが自分の身を護る為に盾を掲げる事態は私やカミュが必ず阻止してみせる。だから、本来はメルエに盾など必要ないのだぞ?」

 

「…………むぅ…………」

 

 不貞腐れてしまったメルエを宥めるのはリーシャの役目である。メルエが己の装備品を購入して貰ったのは、魔王バラモスの居城へ向かう前に訪れたエルフの隠れ里が最後であった。

 変化の杖を使用し、エルフの姿になっていたメルエの成長を願うエルフ達の優しい想いを受けて手に入れたローブは、今もメルエの身を護り続けている。その身を理不尽な死から護るその装備品は、それを纏う少女が着るに相応しい優しい名を持つ。

 

「膨れた顔をしていると、その衣服は似合わないぞ。メルエの笑顔は天使のようでなければな。ほら、ラーミアも今のメルエを笑っているぞ」

 

 メルエを抱き上げたリーシャは、リスのように膨らんだ少女の頬を突く。頬が萎んで行く『ぷぅ』という可愛らしい音に、サラは微笑みを浮かべた。

 先程まで死と直面するような戦闘を行っていたとは思えない和やかな空気に、カミュでさえも小さく息を吐き出す。その左腕に装備された勇者の盾に描かれた黄金の鳥は静かに輝きながらも、そんな一行を見守っていた。

 

「慎重に且つ、迅速に洞窟を出ましょう」

 

 笑みを消したサラの言葉に全員がしっかりと頷きを返す。この洞窟は間違いなくこの場所が最下層であろう。勇者の盾という古の勇者の装備品も手に入った以上、この場所に長居する理由はない。呪文の行使が可能な場所もなく、生息する魔物も強力な物ばかりであり、ここまで何とか戦闘に勝利してはいるが、それも薄氷の上を歩くような物であった。

 傍目からどのように見えようと、この一行はサラとメルエの呪文行使によって保たれている。アリアハンを出立したばかりの頃はそれ程ではないが、メルエが加入し、サラが賢者となってからは、この二人が発現する神秘は、何度となく一行を救って来たのだ。

 今の一行は、その両翼を奪われた鳥と言っても過言ではない。前衛の二人が真っ直ぐ魔物へ向かえるのも、後方からの支援があるからこそであり、それがなければ例え勇者であっても、例え人類最高の戦士であっても、玉砕を覚悟しなければならなかった。

 

 メルエを下ろしたリーシャはその小さな手をサラへと託し、再び斧を構えて歩き出す。最後尾のリーシャが、来た時に下った下り坂を登り終えた頃、ヒドラとの戦闘で燃え移っていた火炎の炎が、まるで何かに飲み込まれるかのように消え失せた。

 ひっそりと静まり返った最深部には、洞窟内よりも暗い闇を持つ魔王の爪痕が残されている。

 まるで、勇者の帰還を喜ぶように、そして勇者の帰還を待ち望むかのように。

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございます。
勇者の洞窟はあと一話続くかもしれません。

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