新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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勇者の洞窟(ラダトーム北の洞窟)③

 

 

 

 上の階層へ戻ると、既にサラマンダーの吐き出した炎の形跡は既になく、完全な闇が広がっていた。真っ直ぐに突き進む通路のような道へ『たいまつ』を向けると、既に物言わぬ肉塊となったサラマンダーの亡骸が照らされる。

 他の魔物に喰い散らかされてはおらず、カミュ達が下の階層に行っている間にこの場所へ魔物が入り込んでいた可能性は薄い。それでも、この洞窟内には多数の魔物が生息している事は明白であり、カミュ達が持つ『たいまつ』の灯りに引き寄せられた魔物と遭遇する可能性は捨て切れなかった。

 

「カミュ様、極力魔物との戦闘は避けましょう。逃げ切れるか解りませんが、現状で魔物と戦闘を行うのは得策ではありません」

 

「そうだな……ここまでの戦闘は運も味方していた。地上までの道で戦闘を行えば、私達が怪我を負う可能性の方が高いだろうな」

 

 真っ直ぐ進む通路を通り抜け、右へと折れようとするカミュを止めたサラが警戒心を緩める事無く口にした言葉は、とても魔王を討ち果たした者が口にする物ではなかった。だが、それに同調するように口を開いたリーシャの言葉が、今の一行の状況も正確に物語っている事も事実である。

 ここまでの戦闘は、多対一という状況を作り上げられたという点があり、一点集中での攻撃と防御が行えたのだが、この後で遭遇する魔物が必ずしも一体とは限らないだろう。もし、カミュ達と同数以上であれば、サラやメルエという直接戦闘に長じていない者達も魔物と対峙しなければならない。その時、致命的な怪我を負ってしまえば、最悪命を落としてしまう可能性は否定出来ないのだ。

 

「なるべく魔物と遭遇しないよう歩くが、見つかった時は走るぞ」

 

 そんな二人の意見を素直に取り入れたカミュの言葉に、二人は大きく頷きを返す。逃げる為に駆け出す際、足手纏いになりかねないメルエという少女を抱えるのはリーシャとなるだろう。カミュが道を切り開き、その道を一気に駆け抜けるという方法しか、この洞窟を安全に出る道はなかった。

 細心の注意を払いながら先頭を歩くカミュは、無駄に『たいまつ』を動かす事無く、周囲の空気や気配を窺いながら進む。迷路のような洞窟ではあるが、来た道を戻るだけの作業であれば『行き止まり探査機』の出番はない。最後尾を警戒しながら進む女性戦士はいつでもメルエを抱える事が出来るように少女の直ぐ後方を歩いていた。

 

「ここまでは何とかなったか……」

 

 上の階層へ続く坂道まで戻って来たカミュは、大きな息を一度だけ吐き出す。『たいまつ』の炎が揺らめいている事からも、この坂道の先が表へ繋がる最後の階層になる事は確かであった。

 ここまでの中で魔物の影を見る事はなく、時間は掛かったが無事にこの場所まで辿り着いている。だが、この階層の上には、往路で遭遇しかけた巨大な魔物達が存在しており、今も尚カミュ達の戻りを待っている可能性は捨て切れない。その際、最悪の状況にまで陥る場面が有り得るのだ。

 振り返ったカミュに皆が頷きを返し、先頭を歩く彼がゆっくりと坂道を上がって行く。徐々に『たいまつ』の灯りによって見えて来る岩壁が、四人の胸の内に久方ぶりの恐怖を運んで来ていた。

 彼等の実力は、既に魔物や魔族の中でも上位に位置する。しかし、それは通常の状態であればという但し書きが付随するのだ。今の状態であれば、魔物との戦闘はいつも以上の緊迫感を要し、『死』という結末を容易に想像させる程の物であった。

 

「メルエ、抱き上げるぞ」

 

 そんな一行の危機感は、坂道を上りきった時に現実となる。リーシャの前を歩いていた幼い少女が、眉を下げた状態で振り返ったのだ。

 それが意味する物は魔物の襲来以外にはない。即座に少女を抱き上げたリーシャは、駆け出す準備に入る。周囲の気配を探るように動きを止めたカミュは、『たいまつ』の炎を高く掲げた。

 目の前の道は完全な十字路。カミュ達が進んで来た後方から魔物が登場しないと考えれば、前方、左方、右方の三方向に絞られる。三方向全てから魔物が来るという可能性もあるが、逃げる方向を見定めなければ、即座に全滅という未来が現実となるだろう。物音一つ立てずに周囲を警戒するカミュは、僅かな音も聞き逃さないように耳を欹てた。

 

「……正面の通路を駆ける」

 

「わかった。サラ、魔物は私とカミュに任せて、全力で駆けろ」

 

「はい」

 

 小さく呟くような声にリーシャとサラは即座に頷きを返す。僅かばかりに聞こえて来た音で、カミュは左右から魔物が近づいている事を察知したのだ。それがどのような魔物なのかは解らない。だが、少しずつ大きくなる気配と音から考えれば、この洞窟に入った時に戦闘を行わずに退避した魔物である可能性は高かった。

 今の状態で巨大な魔物の挟み撃ちに合えば、全滅の可能性も捨て切れない。カミュは剣を背中から抜き放ち、リーシャもメルエを抱き上げながら斧を構える。全員の準備が整った頃、左右の岩壁が何かによって削られるような甲高い音が洞窟内に響き始めた。

 それと同時に洞窟内を揺らす振動が始まり、それを感じた一行は全力で駆け出す。

 

「やはり、あの魔物か!」

 

 カミュが先頭を走り、サラがその後を続く。最後尾でメルエを抱えて駆け出したリーシャの瞳に、左右の通路からこちらへ向かって来る魔物の姿が微かに映り込む。それは、やはりこの洞窟へ入った時に遭遇した巨体の化け物であり、上の世界で遭遇したトロルやボストロールのような醜い姿をした魔物であった。

 カミュ達が駆け出した事を理解した二体の魔物達も、その巨体を揺らしながらそれを追うように駆け出す。手にした棍棒のような武器で岩壁をなぞりながら、騒音を撒き散らして駆ける巨体の魔物達は、まるでカミュ達の存在を洞窟内に知らしめるように近付いて来ていた。

 

「カミュ様、左です!」

 

 前方に左右の分かれ道が見えた時、サラが大きな声で進行方向を告げる。返事も頷きも返す事なく、カミュが左へと足を進め、それにサラとリーシャが続いた。

 後方から迫る巨体の魔物達の一歩と、カミュ達人間の一歩ではその幅に大きな差がある。通路の幅によって縦に一列となった魔物ではあったが、その距離は確実に近付いていた。このまま洞窟の出口に辿り着くよりも、魔物がカミュ達に追い着く方が先であろう。最後尾を走るリーシャの顔に焦りが生まれ始めた。

 

「カミュ! 追い着かれるぞ!」

 

「右です!」

 

 岩壁を削るような音が大きくなって来る。それは後方の魔物が迫っている事を示していた。最早リーシャに後方を振り返る余裕はない。この状況で戦闘態勢に入っても、万全の状態で魔物と打ち合える訳がないだろう。呪文が行使出来る出来ないの問題ではなく、戦士としての経験から来るものであった。

 逃げる事しか出来ない事に歯噛みしながらも、リーシャは後方から迫る巨体の魔物達の気配を感じ、前方のカミュへと叫び声を上げる。そして、サラは地上へ続く道の最後の分かれ道に入った事を悟り、向かう方向を大声で告げた。

 勿論、先頭を走る青年も帰りの道順は頭の中に入っていただろう。

 だが、無言で進路を右へと取った青年の姿は、一瞬の内に掻き消えた。

 

「カミュ様!」

 

「サラ、急げ!」

 

 右へ曲がろうとしたカミュを左側から突如現れた棍棒が弾き飛ばしたのだ。凄まじい速さで振り抜かれた棍棒は、曲がり角を曲がって地上への入り口で殿を務めようと考えていたカミュの意識ごと刈り取って行く。弾き飛ばされたカミュは対面にある壁に直撃し、沈黙した。

 咄嗟に動こうとするサラを護るように横へ並んだリーシャは、メルエを下ろして臨戦態勢へと入る。前方に現れた魔物の棍棒を斧で受け止め、魔物の隙間からサラとメルエを通す。だが、意識を失っているカミュの身体の内部が破壊されていたり、骨子が破壊されていれば、回復呪文を唱える事の出来ない洞窟では対処が出来なかった。

 

「…………いく…………」

 

 リーシャの脇を通り抜けて行く際に、メルエが後方へ向かって杖を振るう。杖の先に付けられた禍々しいオブジェの嘴が開き、その内から炎の吐き出した。こちらに向かって来る巨体の魔物二体の前に着弾した熱弾は、一気に炎の海と化す。

 ベギラマという中級灼熱呪文程度の威力しかないとはいえ、魔物を一瞬とはいえ戸惑わせる事は可能である。魔物と呼ばれていようと、生物の本能は変わらない。突如現れた炎に対し、本能の奥にある恐れは隠せないのだ。

 

「サラ、カミュを背負って地上へ出ろ!」

 

「えっ!? カ、カミュ様を背負う事は……」

 

 二体の魔物はメルエの機転で足止めをする事が出来た。だが、残る一体は未だにリーシャの目の前に残っており、その巨体から繰り出される一撃を彼女は辛うじて避けている。振り抜かれる棍棒を斧で弾き、唸りを上げる拳を避けるという行為は、一瞬の判断を誤れば死に直結する程の物であった。

 そんな紙一重の攻防の中で見つけた隙に発した彼女の声は、賢者という称号を持ってしてもサラには不可能な行為。男性と女性という性別の違いは勿論、前衛を担う者と後衛を担う者の違い。そして根本的な体力と腕力の違いが明白なのだ。

 ましてや、カミュという勇者が身に付ける装備は、賢者であるサラが装備不可能な程の重量を有した物である。それを装備したまま意識を失っている屈強な男性を背負える程の力をサラは有していなかった。

 

「ちっ! ならば、傍に落ちている剣を使え! それを道具として使うのであれば、サラでも出来るだろう!? この魔物に向かって剣に願え!」

 

「は、はい」

 

 メルエが生み出したベギラマと同程度の炎が弱まりを見せ、その奥にいる二体の魔物が弱まった炎を乗り越えて来るのが見える。多少皮膚に火傷を負いながらも、それを物ともせずに近付いて来る魔物達に大きな舌打ちを鳴らしたリーシャは、代案をサラへと叫んだ。

 カミュが握っていた稲妻の剣は、魔物からの一撃を受けた際に彼の手から離れている。近付いたサラの近くに転がった剣は、その刀身を静かに輝かせていた。稲妻の剣という神代の武器にも、メルエが持っている雷の杖と同様に付加効果がある。ヒドラとの戦闘でもカミュが使用したように、中級の爆発呪文であるイオラと同程度の威力を持つ神秘を生み出すという物であった。

 そして、付加効果を持つ武器を道具として使用する場合、そこに使用者の制限はない。それは以前メルエが所有していた魔道士の杖が物語っている。魔法力を発現する才能が皆無であるリーシャでさえも、魔道士の杖からメラと同等の火球を生み出す事が出来ていた。それは、道具としての使用であれば、魔法力の有無も、その呪文の行使の可否も、それこそ所有する資格の有無も必要ない事を意味しているのだ。

 だが、メルエの所有する雷の杖が、主である少女以外の命令を大人しく聞くかと問われれば、首を捻らざるを得ないという事も事実であった。

 

「お願いします……貴方の主であるカミュ様を救う時間を下さい」

 

 メルエという主に対し、絶対的な忠誠を見せる雷の杖を間近で見続けて来たサラだからこそ、握り締めた稲妻の剣に対し、己が行使する理由を述べる。サラという主の資格を持たない者が神代の武器に対して命じるのではなく、依頼するという形式を取った。

 そして、その願いは、稲妻の剣という武器の使命と合致したのだろう。一瞬の輝きを見せた刀身は、リーシャの目の前で先端の丸い棍棒を振り回す魔物へ神秘を発現させる。魔物の顔面の空気が一気に圧縮を始め、リーシャが大きく後退すると同時に弾け飛んだ。

 凄まじい爆音と振動が響き、魔物の巨体が後方へと仰け反る。そのまま尻餅を突くように倒れた魔物を見たリーシャは瞬時にカミュの許へと戻り、青年の身体を担ぎ上げた。腕と足が本来とは逆方向に曲がっている様子を見る限り、彼の身体の内の骨の幾つかは無残に折られているのだろう。口端から零れる真っ赤な血液が、内部の臓物も傷つけられている可能性を示していた。

 サラに手を引かれたメルエが迫って来る二体の魔物に向けて再度杖を振るうのを待って、全員が地上への坂道を駆け上がる。上の世界とは異なり、地上へ戻る道から陽の光が差し込んで来る訳ではない。それでも洞窟へと流れ込んで来る新鮮な空気が、住み慣れた場所への帰還を実感させていた。

 

「カミュの治療を急いでくれ! メルエ、呪文での援護を頼むぞ!」

 

「…………ん…………」

 

 サラとメルエを先行させていたリーシャは、洞窟の出口を抜けると同時に、少し離れた場所にカミュを下ろす。そのまま斧を構えてぽっかりと開いた洞窟へと向き直った。後方に控えたメルエがしっかりと杖を握って前方を見据える。その際に、予備として持っていた枯れ木に『たいまつ』の炎を移し、小さな焚き火を燃やした。

 洞窟の奥から響く咆哮が、稲妻の剣の生み出した神秘によって傷つけられた魔物の怒りを物語っている。咆哮と共に響く振動が、洞窟の入り口付近の岩壁を揺らし、リーシャ達が立つ地上の大地さえも震わせる。小さな砂丘の砂を震わせ、只でさえ動き難い立ち位置を更に悪くしていた。

 勇者の洞窟と呼ばれる特殊な場所で生息していた魔物が、自身が受けた傷への怒りと、食料となる人間を求めて地上へと姿を現す瞬間である。

 

「メルエ、私の武器にバイキルトを、この身にスカラを頼む」

 

「…………ん…………」

 

 洞窟内から姿を現した醜い魔物が、カミュとリーシャの持っていた『たいまつ』から移された炎によって浮かび上がった。

 どす黒い皮膚を持ち、肩から下がった何の毛皮か解らない物の中に見える垂れ下がった贅肉は、人間に生理的な嫌悪感を抱かせる。巨大な身体に相応の大きさを持つ頭部にある口からは、長い舌がだらしなく垂れ下がっており、腐敗色に近い紫色をしたそれからは、臭いさえも漂って来そうな涎が砂丘へと落ちていた。

 洞窟から地上へ姿を現した魔物は二体。その姿を確認したリーシャは、後方のメルエに武器強化と防御強化の呪文の詠唱を依頼する。即座に唱えられた二つの呪文が、人類最高位に立つ『魔法使い』の復活を示していた。

 三体居た魔物の内、稲妻の剣によって傷を受けた者と、雷の杖によって火傷を負った二体が地上へ出て来ている。怪我も受けず、怒りを覚えなかった一体は、棲み処を離れる事を嫌って洞窟の奥へと戻って行ったのだろう。

 

「サラ、カミュは任せたぞ」

 

「はい。お任せ下さい」

 

 メルエの後方で治療に専念していたサラは、リーシャの背中に向けて大きく頷きを返す。

 如何に最上位の回復呪文であるベホマを行使するとはいえ、完全に折れてしまった骨を元に戻すにはそれなりの手順と時間が必要となる。骨が折れる前の正常な位置に身体を戻し、それから回復呪文を唱えなければ、しっかりと骨が繋がらないのだ。

 こちらに近付いて来る魔物は、その姿を見る限り、トロルやボストロールの上位種である事は間違いないだろう。本来であれば、カミュとリーシャという人類最高位に立つ直接戦闘の達人達が揃って、初めて戦う事が可能な程の強敵である。

 だが、今のリーシャの背中とメルエの背中は、当代の勇者が回復するまでの時間を作り出してくれるという安心感さえ覚える程の力強さを有していた。二人を頼もしく思うサラは、大きく頷きを返し、意識を失っている勇者の回復へと意識を集中させる。

 

「ムオォォォォォ」

 

 人外の叫び声を上げた一体の魔物が棍棒を振るう。手に持つ棍棒は、先端が球体となっており、その球体は意図的に削られたような形をしており、無数の棘が作られていた。

 凄まじい勢いで振り抜かれる棍棒の速度は、通常の人間では目で追う事など不可能に近い。そしてその速度で棍棒が衝突すれば、先端の棘に肉は突き破られ、更に棍棒の重量で人間の身体などは内部から弾け飛ぶだろう。人間の女性の中でも上位に位置するリーシャの背丈の倍近くあるその巨体は、それに似合った腕力と、それに合わない速度を併せ持っていた。

 

<トロルキング>

トロル系統の最上位種である。だが、最上位種とは言っても、トロルという巨人族の中で特出した存在がそれを率いるボストロールであるのに対し、異世界に等しい場所を棲み処とするトロルキングはトロルやボストロールを率いる能力はない。基本的に同種と群れて生息する事が多く、人間が遭遇する時は二体以上の場合が多い。その暴力に近い腕力と、体型に似合わない俊敏さを併せ持ち、遭遇した者は万が一にも生き残る事はなかった。知能は低く、言語を話す者も皆無に等しいが、様々な魔物や魔族の中での生存競争を勝ち抜いて来ただけあり、小さな傷であれば治癒を促進して自動回復する能力や、呪文の行使さえも可能であると云われている。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 棍棒を斧で弾いたリーシャに向かって、もう一体のトロルキングが拳を振るう。咄嗟に盾を構えたリーシャであったが、その凄まじい腕力によって真横へと弾き飛ばされた。

 だが、リーシャが横へ動いた事によって、前方の視界が晴れた少女が杖を振るう。呟くような詠唱を受け、雷の杖の先にあるオブジェの嘴部分に巨大な魔法陣が生まれた。魔の王が行使していた最上位火球呪文が、リーシャを殴りつけたトロルキング目掛けて放たれる。

 周囲の砂さえも溶かしてしまう程の高熱が迫り、トロルキングはそれを払うように腕を振るった。

 

「ギャァァァァァ」

 

 しかし、その火球呪文は、如何にトロル系最上位種であろうと手で払える程度の物ではない。全てを溶かす高熱は、トロルキングの左腕の肉も骨も溶かして行く。触れた部分は瞬時に融解し、火球はそのまま周囲に肉の焦げる臭いを撒き散らせながら、二の腕付近までを飲み込んで行く。

 剣で斬り裂いたような傷ではない為、切断部分から体液などは噴き出しては来ない。だが、焼け爛れた肉は痛々しい程に体液を溢れ出していた。同種の左腕が即座に消え失せた事を見た一体のトロルキングは、驚愕の為か動きを止めてしまう。そして、そんな隙を突いて態勢を立て直したリーシャが真っ直ぐトロルキングへと向かって行った。

 左腕を失って咆哮を上げるトロルキングは、迫り来るリーシャへ怒りの瞳を向ける。そして棍棒を振り抜いた。

 

「うおりゃぁぁぁぁ!」

 

 しかし、それを横へ飛ぶ事で避けた彼女は、一気に魔神の斧を横薙ぎに払う。太い足の太腿部分に突き刺さった斧は、そのまま紫色の皮膚を抵抗なく斬り裂いて行った。噴き出す体液が砂丘をどす黒く染め、自分の身体を支える事の出来なくなったトロルキングが膝を着く。

 一体を葬り去ろうと再び斧を構え直したリーシャが落ちて来た腹部に向かって腕を振るおうとした時、先程まで驚愕で硬直していた方のトロルキングが左腕を動かした。

 

「B@46UR」

 

「…………マホカンタ…………」

 

 しかし、リーシャへ向かって左腕を掲げたトロルキングが奇声を発すると同時に、後方に控えていた少女が再び杖を振るう。瞬時に生み出された光の壁がリーシャを包み込んだ。それは如何なる呪文も弾き返すと云われる魔法力で生み出された光の壁。

 その光の壁が輝き、トロルキングが放った神秘を弾き返す。突風のように巻き起こった抗う事の出来ない風が、行使者であるトロルキングへと襲い掛かった。しかし、敵も然る者、その太い腕を交差させ、砂地に足を埋めるようにして圧力に耐え切ったトロルキングが、自身の行使した呪文を跳ね返す元凶を生み出した少女へ標的を変える。

 

「グラァァァァァ」

 

 真っ直ぐに振り被った棍棒を幼い少女へと振り下ろす。マホカンタという光の壁によって事無きを得たリーシャは、左腕を失ったトロルキングが半狂乱になって振るう棍棒を避ける為に少女を護る事は出来ない。棍棒を振り下ろすトロルキングは勝利を確信し、もう一体の棍棒を盾で受け止めたリーシャは焦った。

 だが、凄まじい速度で振り下ろされる棍棒を他人事のように見つめる少女の顔には、焦りも怯えも見えない。

 そこにあるのは小さな笑み。

 

「アストロン」

 

 そして、少女は笑みを浮かべたまま、物言わぬ鉄像へと姿を変えて行く。

 堅い木と金属がぶつかり合う大きな音を上げ、周囲の砂が空中へと舞い上がった。自分の腕に響く衝撃が、生物を潰した時の感触とは異なる事を感じたトロルキングは、遅れて走る腕への激痛に表情を歪める。あれ程の勢いで、何物も受け付けない鉄の塊へ棍棒を振り下ろしたのだ。対象へ伝わる筈の衝撃の全てがトロルキングの腕を襲ったのだろう。

 棍棒は折れずとも、トロルキングの右腕に裂傷が入り、体液が噴き出す。その腕を左腕で押さえようとする頃には、第二撃が巨体の魔物を襲った。

 

「バイキルト」

 

 後方から響く賢者の詠唱によって、トロルキングへ向かった青年の剣が魔法力に包まれる。元々の輝きの上に、極め細やかな魔法力の輝きが加わり、稲妻のような稲光を伴って振るわれた一撃は、トロルキングの片足を斬り飛ばした。

 肉も骨も一撃を持って斬り裂き、片足を失ったトロルキングは砂丘の上に倒れ込む。倒れ込んでくるトロルキングの太い首に稲妻の剣を突き入れ、そのまま真っ直ぐ切り落とした。巨大な頭部を支える首筋から盛大に体液が噴き出し、その量と反比例するようにトロルキングの瞳から光が失われて行く。その最後を見つめるように一度剣を振るった青年へ左腕を伸ばすように、トロルキングは生命を失った。

 

「カミュ様! リーシャさんの方へ! 理屈はわかりませんが、バラモスのように自然治癒の能力を持っているようです!」

 

 一体のトロルキングを葬り去った青年へ向けて後方から指示が飛ぶ。青年がもう一体のトロルキングへ視線を向けると、片腕を失ったトロルキングが人類最高位に立つ女性戦士と真っ向から切り結んでいた。

 その太い両足はしっかりと砂丘の砂を踏み締めており、リーシャが抉った太腿の傷は既に傷痕さえも残っていない。それが示すものは、この知能の低そうな魔物が回復呪文を行使出来るという可能性と、魔王バラモスのように自身の魔法力を使用して自然治癒の能力を行使している可能性の二つであった。

 先程、メルエがマホカンタで防いだ物が、バシルーラという呪文であるとサラは見ている。故にトロルキングが回復呪文を行使出来る可能性も否定は出来ないが、回復呪文であるホイミ系を唱えた際に現れる緑色の光が発現しなかったという点から、自然治癒の能力だと考えたのだ。

 

「カミュ! 肝心な時に寝ていた分は働け!」

 

「わかった」

 

 自分に近付いて来た者が待ち望んでいた青年である事に気付いたリーシャは、表情を緩め、笑みを浮かべながら皮肉を飛ばす。それを受けたカミュもまた、口端を上げて頷きを返した。

 砂丘という場所の足場は悪い。本来であれば、トロルキングの巨体を振り回すように動き回り、隙を見つけて斬りかかるという戦闘手段をとるべきなのだが、砂地に足を取られて思うように動けないという状況であった。

 メルエの魔法力であるスカラを纏ったリーシャだからこそ、怪力を持つトロルキングの一撃を何度も耐えて来れたのだが、それでも致命傷を与える事が出来なかったのは、足場の悪さが原因の一つである事は間違いないだろう。そして、先程のメルエの危機に駆けつけられなかったのもまた、砂丘による足場の悪さがあったのだ。

 しかし、今のリーシャには少しの焦りも不安もない。彼女の隣に一人の青年が戻っただけではあるが、それはこの一行の完全なる復活を意味している。前衛である勇者と戦士、そして後衛を担う賢者と魔法使いが揃った今、彼等の『死』という未来は遥か彼方へ遠退いたのだった。

 

「ブモォォォォォ」

 

 鼻息荒く振り上げた棍棒が横薙ぎに振るわれる。笑みを引き締めたリーシャは水鏡の盾を掲げ、僅かにその身を泳がせるがそれを受け止め、返す斧で棍棒を持つ右腕を傷つけた。斬り裂かれた傷口から体液が上がるが、その傷も暫くすれば消えて行く。僅かな傷では敵を倒せない事が明白となり、再生するよりも早くに致命傷を与える必要がある事が解った。

 一度カミュと横並びに並んだリーシャは、冷静さを欠きながら棍棒を振るトロルキングへと視線を向け、態勢を立て直す。横にいるカミュの左腕には青く輝く盾が見えた。先程のトロルキングの強力な一撃を受けて尚、その形状に歪みも無く、輝きに曇りも無い。黄金の神鳥が、今も尚、この勇者の存在を讃えるように輝いていた。

 

「カミュ様、リーシャさん、一度下がってください!」

 

 振り回される棍棒を避けていた二人に後方から指示が飛ぶ。それはここまでの長い旅の中で何度も聞いた事がある言葉。後方支援組が何らかの行動を起こそうとする前兆であった。

 振り抜かれた棍棒に魔神の斧を合わせたリーシャが、その体格差を物ともせずに棍棒を弾き飛ばした勢いを利用し、二人は一旦後方へと下がる。後方にいる二人の呪文使いの視界が開けた事を契機に、戦いは一気に終幕へと向かって行った。

 

「ベギラゴン」

 

 サラが両手を一気に前方へ突き出す事で、その掌から膨大な熱弾が飛び出す。既に行使済みの呪文ではあるが、根本的な魔法力の量と内に秘めた才能が異なるサラは、最上位の灼熱呪文を行使する為に、己の両手を使用する必要があった。

 この呪文の行使自体に慣れて来れば、賢者であるサラは片手での行使も可能になるのであろうが、基本的に攻撃呪文をメルエに託している事が、このような部分で弊害となっていた。

 

「この火炎は、いつ見ても凄まじいな……」

 

 サラの両手から発現した神秘は、トロルキングの足元に着弾し、そのまま強大な炎の海を生み出す。炎を振り払うように棍棒を振り回す巨体をそのまま飲み込み、砂丘に炎柱を打ち立てるその呪文の結果を見たリーシャは、その脅威に言葉を溢した。

 リーシャの頭の中では勇者の洞窟内で遭遇したサラマンダーという魔物が吐き出した火炎が思い出されていた。あの火炎もまた、今目の前で立ち上る炎の柱と同程度の威力があったように思える。その火炎の中でも生き残って来た自分達の強運を誇ると共に、紙一重の戦闘を行って来たという事を改めて実感していたのだ。

 

「グオォォォォォ」

 

「…………マヒャド…………」

 

 しかし、戦闘はまだ終了していない。あれ程の炎の海を掻き分けて、トロルキングは尚も前進し、カミュやリーシャに襲い掛かろうと棍棒を高らかに掲げる。振り上げた棍棒は火炎の炎が移り、真っ赤に燃え上がっていた。その棍棒が当たれば、如何に鎧の上からといえども、深刻な傷を受けるだろう。

 アレフガルド大陸の魔物の強靭さに驚きながらも再び戦闘態勢に入ったカミュとリーシャの後方から、トロルキングに止めを刺す詠唱が呟かれる。

 幼い少女が振り下ろした杖の先にあるオブジェから吹き荒れる冷気は、最早吹雪のような生易しさではない。ベギラゴンという神秘が生み出した熱気は、寒さが厳しい砂丘を熱気で包み込む程の物であった。だが、その後に唱えられたマヒャドが生み出す冷気は、一気にその温度を永久凍土よりも下へと引き下げて行く。カミュ達の吐く息が瞬時に凍り付く程の冷気は、ベギラゴンの炎で焼け爛れたトロルキングの身体の細胞を死滅させて行った。

 

「カミュ様、メルエ、とどめを!」

 

「…………イオラ…………」

 

「イオラ」

 

 紫色の体表が真っ赤に焼けていたトロルキングは、一気に冷却される事によって氷像へと変化して行く。それを見届けたサラは、最後の指示を口にした。その指示の細かな内容を聞かずとも理解した勇者と魔法使いは、己の持つ爆発呪文の詠唱を完成させる。

 耳鳴りがする程に急速に圧縮された空気が一気に弾けた。凄まじい爆発音を響かせ、巨大な氷像が砕け散って行く。闇に包まれたアレフガルドを照らし出すように一瞬の光が弾け、トロル系最上位の魔物の命は潰えた。

 

「勇者の洞窟を出てしまった魔物が哀れに思えてしまうな……」

 

 弾け飛んだ氷像の欠片が砂丘へ舞い落ちて行く姿を見ながら、リーシャは魔物へ追悼の意志を示す。どれ程に強大な魔物であろうと、どれ程に人間の脅威となる魔物であろうと、一つの命である事に変わりはない。人に仇名す魔物であれば躊躇無く命を奪うが、勇者の洞窟という場所で生息し続ける限り、このアレフガルドの住民と争う事は無かっただろう。

 勇者の洞窟自体が、既に危険区域として看做され、今や誰も入る事が無かったのであれば、あの洞窟で暮らす魔物達は害にはならない物達だったとも言える。カミュ達が洞窟に入る事なく、トロルキングに見つかる事もなければ、あの二体の魔物は外へ出る事はなかっただろう。外へ出てしまった以上、アレフガルドで暮らす人間の害になる可能性は否定出来ず、それを考慮に入れて戦いはしたが、地上に出た事によって呪文行使が可能になった二人の呪文使いの餌食になってしまった事については、何処か哀れに思えたのだ。

 

「俺の剣や、アンタの斧だけでは、ここまで旅を続ける事は出来なかっただろうな」

 

「……その言葉はサラへ言ってやれ」

 

 剣を背中の鞘に収めるカミュが溢した言葉を聞いたリーシャは、一転した笑みを浮かべる。後方でメルエを褒めるサラへ視線を移しながら、『カミュの言葉を聞いたとしたら、彼女はどのような顔をするのだろう』という想像をしてしまったのだ。

 リーシャに何も返す事もなく歩き始めたカミュは、再び革袋から地図を取り出した。勇者の洞窟での目的は全て果たし、次への目標を考えながら、旅の進行を考えているのだろう。そんな勇者の行動を見たサラとメルエも、二人の傍へと近付いて来た。

 

「どうする? 一度ラダトーム王都へ戻るか?」

 

「いや、このまま進む。カンダタとの話にあったマイラの村を目指す」

 

 太陽が見えないアレフガルド大陸では、洞窟に入ってしまえば、今が昼なのか夜なのかが正確に把握出来なくなる。自身の身体が感じる疲労と、欲する休息が、それを確認する術となるのだ。

 確かに、神経を研ぎ澄まさなければならなかった洞窟を出た事で疲労は感じているが、呪文を行使出来なかった為に、サラやメルエの魔法力も十分に残っているだろう。カミュが受けた火傷のような傷も、先程サラによって回復しており、誰も大きな傷は負っていない。ラダトームの宿屋で休む必要もなければ、治療を受ける必要もなかった。

 再び『たいまつ』を手にした一行は、砂丘を抜けて北東へと進路を取って行く。

 

 アレフガルド大陸の進み方には二つの方法がある。

 一つはその大陸の大地を隈なく歩き続ける事。

 そして、もう一つは海原を乗り越え、大陸に添って進む道。

 だが、このアレフガルドという世界は、ガイアと呼ばれる上の世界に比べて歴史が浅かった。故に、世界自体が未だに完成されてはいない。

 この大陸で暮らす人間達はこの大陸しか知らず、海を渡って新たなる世界を見ようと願うには歴史が浅過ぎた。更に、そのような願いを人々が持つよりも前に、闇がアレフガルドという世界を包んでしまった為、時代が停滞してしまう。

 そんな小さな世界と闇の世界を結ぶ『魔王の爪痕』と呼ばれる大穴が、異世界から訪れた勇者一行によって眠りから覚まされた。

 時代と歴史が大きな渦と共に加速度的に動き出す。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
一応、これで第十八章は終了と致します。

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