新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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~閑話~【マイラの村】

 

 

 

 武器と防具の店を出た一行は、そのまま対面にあると云われる道具屋へと向かって歩き出す。手持ちのゴールドが少なくなった事もあり、魔物達の部位を売却しようとしたところ、道具屋の主人が色々と買い取っているという話を聞いたのだ。

 マイラの村で道具屋を開く主人も、元々はアレフガルドの者ではなく、上の世界から降りて来た者だという事であった。道具屋を営んではいるが、鍛治にも長け、色々な武具を武器屋へ下ろしているのだそうだ。

 先程の武器と防具の店にあった、『パワーナックル』と呼ばれる素手に嵌める事で物理攻撃力を上げる武器や、戦う為の巨大で重い金槌である『ウォーハンマー』なども、道具屋の主人が鍛治で生み出した物であるという。

 

「おい、カミュ。あそこに居る婦人は、もしやジパングの女性ではないか?」

 

「黒髪ですね」

 

 その道具屋へ向かう途中の家屋付近で庭の手入れをしている女性を見たリーシャがその容姿を見て驚きの表情を浮かべる。その声で確認したサラもまた、同様の声を上げた。

 このアレフガルドを訪れてからも、黒髪の人間となればカミュ以外には存在していない。上の世界でもジパングと呼ばれる島国で暮らす者達以外に艶のある漆黒の髪を持つ者達はおらず、それがマイラの村に存在する事自体が異様な事であったのだ。尚且つ、その女性が着ている衣服もまた、このアレフガルドでも珍しい衣服であり、ジパングで暮らす者達が好んで着用する物であった。

 それが示す事は、この女性がジパング出身の者であり、カンダタと同じように何らかの影響でアレフガルドへ来た可能性である。それがネクロゴンド火山の噴火が影響した地割れなのか、それとも他の要因なのかは解らないが、この女性が上の世界から来たと言われる道具屋の主人と関係がある者である事は間違いないだろう。

 

「申し訳ありません。ジパング出身の方ですか?」

 

「……貴方達は?」

 

 ジパング皇家の血筋を持つと考えられるカミュは、本来であればあの小さな島国を支える人間の一人でもある。だが、カミュの祖母自体がそれを知らない以上、そのような義務もなければ、資格も無い。女性の出身地を尋ねた事は、そのような義務や責任といった話ではなく、ジパング出身の鍛治屋という部分に引っ掛かりを覚えたからであった。

 トルドが生み出した開拓地に出来上がった町には、ジパング出身の鍛治屋が存在していた。ヤマタノオロチという太古の存在に捧げる生贄という儀式から逃げ出した者達であり、自分の鍛治能力を生かす事の出来る新天地を求めてあの地へ辿り着いている。そして、その娘はその町を生み出した男と共に新たな人生を歩み始めていた。

 そんな鍛治屋の男には、ジパングからの移動の際に別れた者達がいたという。おそらく、それがこの女性と道具屋を営む男性ではないかとカミュ達は考えたのだ。

 

「カミュと申します。上の世界から来た者で、ジパングでイヨ様にお世話になった物です」

 

「まぁ! イヨ様はお元気なのですか!?」

 

 今はウイザードバーグとなった町で暮らす鍛治屋も、目の前で輝く瞳を向ける女性達も、ジパングという国が嫌で飛び出した訳ではない。その統治者の娘であるイヨを恨んでいる訳でもなく、彼女達にとって、今もジパングという国は故郷なのであろう。彼女達がジパングを出た頃のイヨの年齢がどの程度なのかは解らないが、まるで自分の娘の身を案じていたような表情を見る限り、あのジパングの小さな太陽は、全ての住民の心を照らしていたのであろう事だけは理解出来た。

 ヤマタノオロチという竜種さえ居なければ、あの国は平和な時を刻み、太陽のような国主の下で素晴らしい発展を遂げていたのかもしれない。

 

「そうですか……私の夫は、ヤマタノオロチの生贄にされそうになった私を連れ、ジパングを飛び出ました。私の代わりに誰かが生贄になる事を知っていながら、そして夫の世界一の鍛治屋になるという夢を知っていながら、私はその手を拒む事は出来ませんでした」

 

「今のジパングにはヤマタノオロチはいません。イヨ様が見事な国を造り上げています。ジパングはこの先で世界有数の国になると思いますよ」

 

 イヨの健在を示すようにカミュが頷きを返すと、長年胸の中へ押し込めていた懺悔を漏らすように、女性は涙を浮かべて口を開き始める。漏れ出した言葉は、それを心から悔いながらも、それでも今の幸せを感じている事への贖罪のようにも聞こえた。

 そんな女性の言葉を聞いたサラは、現状のジパングの様子を伝える。それが彼女にとっての慰めになるかどうかは解らない。現状のジパングがどれ程に美しく、良い国に変わっていたとしても、彼女が逃げ出した事で代わりに生贄になった娘の命が戻る事も無く、その時の悲しみが消え去る事もないだろう。それでも、サラはその言葉を言わざるを得なかった。

 

「……ありがとうございます。夫は、二階で道具屋をしながらも夢を諦めていません。もし宜しければ、見て行って頂けませんか?」

 

 先程浮かべた苦痛の表情ではなく、とても優しい笑みを浮かべた女性は、自分の夫の夢を心から応援しているのだろう。少しでも夫の夢の助けになればと、彼女なりにカミュ達を見て思ったのだろう。カミュの背中には立派な剣が差されており、リーシャの背中には見た事も無いような斧が括りつけられている。他の二人の女性が身に着ける物も、このアレフガルドの住民達が装備するにはかなり上位の物である事が一目で解る物であった。

 鍛治屋として成長するのは、良い武器を見て真似る事から始まる。それを知っているからこそ、彼女はカミュ達を建物へ導いたのだ。

 

「なんでも、ここの店主は伝説の剣を探しているんだと」

 

「伝説の剣? それは、古の勇者が持っていたと云う剣の事か? あれは、大魔王が粉々に砕いたとかいう言い伝えじゃなかったか?」

 

 建物内に入ると、一階部分は椅子やテーブルが置かれていた。奥には仕切りがあり、その奥を窺う事は出来ないが、おそらく鍛治を行うスペースがあるのだろう。その鍛治を待つ為のものなのか、それとも鍛治を行う際に客の要望を聞く為のものなのかは解らないが、とてもゆったりとしたスペースが設けられていた。

 その場所には二人の人物が腰掛けており、この道具屋兼鍛治屋の店主である男性についての噂話に花を咲かせている。その中には興味深い話もあり、カミュ達はその男達の話に耳を傾けた。

 古の勇者が装備していた物の話は、盾と鎧と剣のものがある。今、カミュが装備している『勇者の盾』の名は、サラがラダトーム国の王子から聞いていたが、鎧や剣についてはその名を聞いてはいなかった。

 

「なんでも、その剣ってのは『オリハルコン』という金属で出来ていたんだとよ。神様がお造りになった金属だそうで、この世には無いらしい。正確には、店主はその剣ではなく、オリハルコンって金属を探しているって言ってたな」

 

「この世に無い金属じゃ見つかる筈がないだろう? それに、例え見つかったとしても、神様がお造りになった金属を人間が加工出来るとは思えないが……」

 

 横を通り過ぎようとするカミュ達一行へ一旦視線を向けた男性であったが、古の勇者の使用していた剣の話に興味を戻し、再びその内容に首を傾げる。それはとても興味深い内容の話であり、カミュ達が欲していた物でもあった。

 しかし、古の勇者が装備していた武器は既にこの世にはないという伝承が残っている以上、その剣を手にする事は出来ないという事になる。その剣がどれ程の威力を持った物なのかは解らないが、それでも神代の勇者が使用していた武器というだけでも、それ相応の鋭さと付加効果が期待出来た。尚且つ、精霊神ルビスでさえも倒す事の出来なかった大魔王ゾーマという存在を打倒する為には必要不可欠な武器と言っても過言ではないだろう。

 そして、その希望に一抹の光を与えたのが、この道具屋の店主であるジパング出身の鍛治屋がその金属からその剣を再生させるという夢を持っていると云う話であった。ジパングの鍛治屋が優秀である事は、あの開拓地で既に証明されている。神代の金属を加工する事が出来るか否かという部分を除外すれば、それは希望の残す情報であったのだ。

 

「いらっしゃい」

 

 未だに話題の尽きない二人の男性を横目に階段を上った先には、かなり広めの店舗が広がっていた。部屋一面に陳列棚が置いてあり、薬草や毒消し草、満月草なども置かれている。そんな道具達に埋もれるように材料となる魔物の角や牙、動く石像の石なども置かれていた。

 部屋の中央にはカウンターがあり、そこには黒髪の男性が座っており、何かを作成しているのか手元を動かしながらも、階段を上がって来たカミュ達の姿へ視線を向けている。その瞳はカミュ達を値踏みをするような物ではなく、その者達が装備している武器や防具を品定めするような物であり、少し驚くように目を見開いた後、手元で作成していた物を傍に置いた。

 

「お客様方が必要そうな物はここにはないかもしれませんが、ゆっくり見て行って下さい」

 

「ここで魔物の部位などを買い取ってくれると聞いてきたのだが?」

 

 ジパングで暮らす人間特有の服装をした店主は、柔らかな笑みを浮かべながらカミュ達に歓迎の意を示す。

 元々、ジパングという国は自給自足の制度が成り立っている国であった。カミュ達が訪れた際には集落の中に店などは一軒もなく、旅人を宿泊させる宿屋などの施設も無い。ほとんどの住民が各々の欲する物を物々交換という方法で手に入れていたのだ。勿論、世界共通の貨幣という認識も無かった為、ゴールドのやり取りという方法も有りはしない。それが、異教徒の国と呼ばれるジパングの実態であった。

 そんな島国で生きて来た彼らにとって、例え世界は異なろうとも、貨幣での交換というには中々に難しい物であっただろう。正直に言えば、カミュ達でさえ、このアレフガルドで上の世界の貨幣であるゴールドが使用出来るとは思ってもみなかったのだ。

 

「結構あるんだね。貴方達はこれ程の魔物達を倒す事が出来るだけの力量を持っているという事か」

 

 貨幣とは裏付けが無ければ価値のない物となる。それが国家の裏付けなのか、それとも貨幣自体の価値なのかという違いだけで、それが無ければ貨幣など無価値となってしまうのだ。上の世界での貨幣は『ゴールド』という単位であった。それはその名の通り、貨幣自体が金で出来ている。かなりの重さを持つ物ではあるが、それが全世界共通の価値を持っていたのだ。

 アリアハンにはアリアハンの通貨という物ではなく、国印が押されていようとも、全世界共通の金の含有量が定められていた。それが狂ってしまえば、全世界の流通自体が狂ってしまい、取り返しのつかない事態となる為、どれ程に国家が困窮しようとも、その一線だけは超える事がなかったのだ。

 このアレフガルドという世界の始まりは、仮定の話ではあるが、上の世界からの移住から始まったのかもしれない。上の世界の人間が『ゴールド』という貨幣を持ち込んだ事で、アレフガルドにも『ゴールド』という貨幣価値が生まれたとも考えられた。

 全ては仮定の話であり、実際のところは解らない。だが、アレフガルド大陸という別世界でも同じ通貨での取引が可能であるという事実だけは確かであった。

 

「貴方達はオリハルコンという金属をご存知ですか?」

 

「……いや、見た事も聞いた事も無い」

 

 カミュが取り出した魔物の部位の種類の多さに驚きながら、何かを思った店主は、カミュに向かって問いかけを放つ。それは、この建物の一階部分で二人の男性がしていた会話の中に出て来た名であった。

 神代の金属など、カミュ達が知る由もない。今、リーシャやサラが装備している盾や兜に使われているミスリルという金属でさえ、彼等はアレフガルドで初めて聞いた物であるのだ。大地の鎧や刃の鎧、稲妻の剣や魔神の斧がどのような金属で造られているのかは知らないが、彼等が鑑定の出来る商人でもなく、金属を打つ鍛冶職人でもない以上、それを知る必要もなかった。

 カミュ達の返答に対し半ば予想していたのか、店主はそれ程の落胆を見せる事もなく、魔物の部位の買取金額をカミュへ差し出すと、一振りの剣をカウンターの奥から取り出して来た。

 

「私は、上の世界にあるジパングという国の出身です。私の国には、遥か昔から国主様の血筋に伝わる『天叢雲剣』という剣がありました。神から国主様へ下賜された物だという事なのですが、その剣は天を遮る雲を斬り裂くような美しい光を放ち、その装飾は簡素ながらも人の心に響く物であったと云われています」

 

 独り言のように呟きながら手にした剣を眺める店主に、カミュ達は口を開く事が出来ない。彼らが国主の後継者となったイヨから借り受けた『草薙剣』は、古の『天叢雲剣』と呼ばれる剣であった物だろうと考えられていた。それは、イヨを含めたジパングの民達全てが見た事のない剣であり、誰一人として手にした事のない剣でもあったのだ。

 

「私の夢は、そんな祖国に伝わる『天叢雲剣』のような剣を打つ事。いつか、そのような剣をと思い、何本も打っては見たものの、やはり形ばかりで中身のない物しか出来上がりません」

 

 自嘲気味な苦笑を浮かべた店主の手の中にある剣は、そう言われれば、何処となく『草薙剣』に似た物であった。両刃の剣でありながらも野暮ったい厚さや幅はなく、細身という程に細い訳でもない。鋭く磨がれた刃は輝くような光を放ち、下位の魔物であれば力を込める事なく両断出来るであろう力を宿していた。

 だが、鋼鉄の剣などは及びも付かない程の剣でありながらも、カミュの持つ稲妻の剣はおろか、草薙剣にも遠く及ばない剣である。それが『人』が生み出す事の出来る限界なのだと言われればそれまでであるが、この店主はそれを限界だとは考えていないようであった。

 

「……話は解りましたが、何故私達に?」

 

「貴方達が身に着けている装備品は、武器も防具も並大抵の物ではありません。失礼とは承知しながら、見定めさせて頂いておりました」

 

 店主の話は、只の客に話す内容ではない。ここまでの旅で、様々な人間の思惑の中を歩いて来たカミュだからこそ、店主へ鋭く瞳を細め、その真意を問いかけた。

 警戒するカミュの心に気付いた店主は、深々と頭を下げて、その無礼を謝罪する。そして彼は、カミュ達が纏う雰囲気が只者ではないと理解した上で、今までの話を語ったのだと口にした。

 確かに、カミュ達が身に着ける装備品は、今では一品物が多い。カミュに至っては、兜から剣までの全てが一品物である。オルテガが使用していた兜が何の兜なのかは解らないが、ここまでの旅でそれを超える可能性のある兜は、リーシャが被る『ミスリルヘルム』だけであった。

 

「このアレフガルドにも、古の勇者が持っていた神代の剣の伝承が残っています。その剣はオリハルコンという金属で出来ており、既に大魔王によって砕かれたと伝えられていますが、その後、ラダトームの南西にあるドムドーラ付近でオリハルコンを見たという話もあります。もし、オリハルコンを見つける事があったら、どうか私に売って下さい」

 

 一気に要望を吐き出した店主は、カミュ達四人に向かって深々と頭を下げた。既に三十路を超えていそうな男性が、若者というには若過ぎるカミュ達へ真剣に頭を下げるという行為自体、彼の切実さを物語っている。

 彼が何故そこまで神代の剣に拘るのかは解らない。だが、既に壮年に足を掛けたジパングの男性は、神代の剣に並び得る物の作成に自身の人生を賭けているのだろう。強力な魔物が蔓延るアレフガルドで、オリハルコンという金属を求めて旅する事は命を捨てる行為と言っても過言ではない。故にこそ、彼の目に強者として映ったカミュ達にそれらを依頼したのだ。

 

「その神代の剣というのは、完全に復元出来るのか?」

 

「……わかりません。神々が造ったとされる剣を、人間である私が造ろうとする事自体が畏れ多い事なのです。それに、オリハルコンという金属は太陽の熱でなければ溶けないとさえ云われていますし、それを錬成する事が可能かどうかも解りません。ただ、私の全てを注ぎ込むつもりです」

 

 押し黙ったカミュの代わりに、リーシャが剣の製作が可能かどうかを問う。大魔王ゾーマに砕かれたといえども、それは神代から伝わる勇者の剣であり、それを生み出した者は人間ではないのだ。精霊神ルビスよりも高位にいる神々が生み出した剣であれば、人間に造り出せる物ではない。

 ジパングというルビス教とは異なった宗教観を持つ国で生まれた店主ではあるが、彼はアレフガルドに伝わる精霊ルビスという存在と、更に上位に位置する神という存在をしっかりと把握し、信仰心こそ定かではないが、その存在の大きさを認識している節がある。それは、異世界人として生きて行く上で必要な事であったのかもしれない。

 

「……旅先で見つけたとしたら、ここにお持ちしましょう」

 

「本当ですか!? ありがとうございます!」

 

 男性が持つ剣は、このジパング出身の鍛治屋が打った剣だという。その剣は、確かに草薙剣には遠く及ばない物ではあるが、神代の剣以外の物であれば上位に入る武器に見える。ドラゴンキラーのように特殊な材料を使用しているようには見えず、鉄や鋼鉄で作ったというのであれば、この男性の力量は十分な領域にあると見て良いだろう

 この一行の中で最も武器に対して思い入れを持つリーシャは、この男性の力量を理解したのか、腰に差されたドラゴンキラーをカウンターへ置いた。このドラゴンキラーも、ジパング出身の鍛治屋が鍛え直して改良した業物である。だが、もしかすると鍛冶師としての才は、アレフガルドへ渡ったこの男性の方が上であったのかもしれない。もし、彼がドラゴンキラーを改良していれば、今もリーシャの武器は、この竜の剣であった可能性も否定は出来なかった。

 

「これは、店主と同じようにジパングを出た鍛治屋の男性が改良した物だ。竜の牙などで作られた剣ではあるが、本来の形状を変えてしまった為に刃が反れてしまった。だが、私達にとって、この剣は色々な者達との絆の証でもある。私達がもう一度ここへ戻って来るという証に、これを店主に預けよう」

 

「……え? あ……確かに、これは師が造った物に間違いない。この刻印は師の物であるし、このような見事な剣を造れるのは、あの人しかしない筈だ」

 

 リーシャが置いたドラゴンキラーを鞘から抜き放った男性は、その見事な刀身に見惚れる。そして剣の根元にある刻印を見て。何やら納得したように頷きを繰り返した。

 トルドバーグという場所に居た鍛冶師の男性は、共にジパングを出た人間の事を友人として口にしている。だが、確かに上の世界にいた男性の年齢は、目の前に居る男性よりも二十以上上であった。ならば、彼は弟子となる男性の境遇と、自身の娘に降り懸るであろう災いを危惧し、共にジパングを出たと考えられる。

 そして、カミュ達が見る限り、アレフガルドへ来てしまったこの男性は、既に師を超える力量を有していると言えた。

 

「ジパングは、今はヤマタノオロチもおらず、イヨ様の治世となって落ち着いています。それまでに犠牲になって来た人達は戻りませんが、未来に向かって真っ直ぐ動き出しています」

 

「……そうですか」

 

 ジパングの現状を語るサラの言葉を聞いた男性は、ドラゴンキラーを抱きながら静かに涙を溢す。彼の心を長く蝕んで来た罪悪感が消える訳ではないだろう。それでも、祖国と言える場所の平和を願わない訳ではない。まだ小さく脆い集落であったジパングに生まれ、隣の家の人間だけではなく、集落に生きる全ての者達と関係を持ちながら生きて来たのだ。時には国主である者と会話を交わし、日々の恵みと、今ある生に感謝を捧げて生きて来た彼にとって、祖国ジパングは忘れる事の出来ない故郷であった。

 男性の様子に柔らかな笑みを浮かべたリーシャとサラは、既に階段付近へ移動したカミュの後を追って道具屋を出て行く。静かになった道具屋の二階には、後悔と喜びの嗚咽が小さく響いていた。

 

 

 

「宿へ向かうのか?」

 

「そういえば、漁師の方が宿屋の手配をして下さっていると言っていましたね」

 

 道具屋の建物を出たカミュ達は、不安そうに彼等の帰りを待っていたジパングの女性に笑みを送りながら、マイラの村の大通りへと出る。大通りを北へ真っ直ぐ向かった先に、宿屋の看板が見えており、一度宿屋へ向かう事となった。

 マイラの村には、『妖精の笛』という宝物があるという話ではあったが、その道具の使い道などの明確な情報がある訳ではなく、緊急な必要性があるとも思えない。この場所で進むべき道を見出さればと考えてはいたのだが、予想外の場所から方向性を見出した形になっていた。

 

「いらっしゃい。四人様でしょうか? でしたら一晩120ゴールドになります」

 

「……随分高いな」

 

 宿屋の扉を開き、カウンターへ近付くと、そこに居た店主が営業的な笑みを浮かべて料金を提示する。その金額を聞いた一行は、流石に驚きを表してしまった。一人30ゴールドの宿泊料金となれば、上の世界のどの地域の宿屋よりも高額となる。ラダトーム王都でさえ、一人頭1ゴールドから2ゴールドといったところであった事を考えると、異常と言っても良かった。

 宿屋の雰囲気はそれ程高級感はない。調度品や部屋の扉を見ても、どこにでもある宿屋の物と大差はなかった。料理が名物なのかと考えても、同行した漁師の話を聞く限り、海の幸は少なく、家畜のような物も飼っている様子がない事から、肉料理が有名な訳でもないだろう。

 

「ここの名物は温泉なのです。温泉の料金も宿代に含まれておりますので……」

 

 リーシャやサラの表情に考えている事が明確に出ていたのだろう。苦笑を浮かべた店主がこの宿の名物を口にする。温泉宿という事だけでそれだけの金額を取るという事が感覚的に解らないリーシャとサラは、その言葉を聞いて尚、首を傾げざるを得なかった。それを下から眺めていたメルエは、面白そうに微笑みながら小首を傾げる。まるで親子のように揃う三人を見ていた店主は先程とは異なった普通の笑みを浮かべた。

 ここへ来ているであろう漁師の話をすると、既に料金を受け取っているらしく、店主はにこやかな対応を取る。120ゴールドという料金が、このアレフガルドではどの程度の金額なのかは解らないが、アリアハンでは十泊は可能な料金でもあり、銅の剣のような武器さえも買う事の出来る金額であった。カミュ達の考えの範疇を超え、この内陸のマイラの村では、塩漬けされた魚介類が高額な値段で取引されているのかもしれない。

 

「温泉は初めてですか? 男湯と女湯に分かれていますから、安心してお入り下さい。お湯の中で身体を洗うなどされなければ、どれだけ入っていても結構ですから」

 

「お湯の中へ入るのですか?」

 

 不思議そうに見つめるサラの視線を受けた店主が温泉の入り方を説明し、それを聞いたサラは更に首を傾げる。湯の中へ入るというのは、リーシャもサラも経験した事がない。通常の宿屋であれば、浴場のような場所は設置されているが、そこには沸かした湯が置かれているだけである。その湯を掬いながら、湯で濡らした布で身体を拭き、髪などは湯で洗い流すのが通常であった。身体を洗うという行為の後、その湯に浸かるという行為はしないのだ。

 細かく話せば、実はジパングにはそのような施設がある。あの場所には宿泊施設はなく、国主の館にはあるが、彼等がそこを利用した事はなかった。元々、溶岩の洞窟が近くにあるジパングでは、地面から湯が沸く場所は多く、温泉と呼ばれる場所は多い。ただ、来訪者であるカミュ達がそこへ案内されなかったという事なのだろう。

 もしかすると、イヨ自体が好んで使用してはいなかったのかもしれない。

 

「食事までは時間がありますので、それまでにゆっくりお浸かり下さい」

 

 部屋の鍵と共に身体を拭く布を渡された四人は困惑したままそれぞれの部屋へと入って行く。何が楽しいのか、メルエだけはにこやかな笑顔を浮かべならも、香りの強くなった硫黄の臭いに顔を顰めるという百面相を繰り返していた。

 各々が部屋に入ると同時に、装備品を外して部屋着に着替えて部屋を出る。いつもならば湯浴みまでの時間に暫く時間を掛けるカミュでさえも、部屋に入って直ぐに布を持って出て来た事を見る限り、彼もまた温泉という物に興味を示したのであろう。

 

「ここですね……」

 

「…………むぅ………くさい…………」

 

 宿屋から外へ出る廊下が続き、その廊下は高い壁としっかりした屋根で仕切られている。そこを抜けた奥に、赤色の布が掛かった入り口と、青色の布が掛かった入り口の二つがあり、赤が女性、青が男性となっていた。

 入り口が近くなるにつれて濃くなる硫黄の臭いが鼻をつき、慣れない臭いにメルエだけではなくリーシャやサラも多少顔を顰める。カミュと別れた三人は布を潜り、中にある扉を開けるのだが、その中を見て驚きに目を見開く事となった。

 

「み、みなさん……は、裸ですが?」

 

「全員が裸で湯に入るのか?」

 

 中は脱衣所となっており、様々な女性が既に生まれたままの姿になっている。布で隠す者もいない事はないが、全員が女性である為なのか、それ程気にはしていないようであった。サラやリーシャもメルエを含めた三人で湯浴みをした事はある。だが、全員が素っ裸になって湯を浴びた事はなく、そんな習慣に驚愕しかなかった。

 最早、ここに先程の武器屋での対応のような凛々しい賢者はおらず、先程の道具屋での力強い戦士もいない。只々驚きで目と口を開いてしまった女性が二人呆然とその光景を眺めているだけであった。そんな中、一人だけその光景を興味津々と眺めていた少女が自らの部屋着を脱ぎ始める。何重にも重ねている訳ではない部屋着は即座に脱ぐ事が可能であり、呆然とする二人の横で裸になったメルエは、奥へ進もうとする女性達に混じって歩き始めた。

 

「あっ! メ、メルエ、少し待て!」

 

 慌てたのは、そんな少女の保護者であるリーシャであった。自身の部屋着を脱ぎ、女性の中でも豊かである胸を押さえていた布を解く。未だに若干抵抗感を残している為か、大きな布で自身の身体を隠しながらも、膨れ顔で待つメルエの方へと向かった。

 二人が奥へ消えてしまった後も誰もいなくなった脱衣所で放心していたサラは、難しく顔を歪めながら、おずおずと部屋着を脱ぎ始めた。リーシャのように押さえつける必要のない胸に巻いている布はない。部屋着の下に着ている肌着を脱いでしまえば、控え目な膨らみが、サラが女性である事を主張していた。

 先程まで脱衣所にいた女性達の年齢層は様々である。サラ達よりも遥かに上の年齢となる老婆もいれば、少し上のうら若き女性もいた。老婆は別として、若い女性は皆、サラよりも女性としての丸みが顕著であり、どうしても劣等感を感じずにはいられない。

 そんな自身の胸に湧き上がるどす黒い感情を抑えながらも、サラは意を決したように大き目の布を身体にしっかりと巻きつけ、リーシャとメルエが消えた奥へと踏み出した。

 

「わぁ……」

 

 奥へ進むと大きな引き戸があり、それを引いて開けた時、先程とは異なる感嘆の声をサラは上げてしまう。まるで、視界全てが真っ白に変化してしまったかのように、サラ自身が全て湯気に包まれたのだ。強い硫黄の香りも気にならない程の熱を持つ湯気がサラの視界を奪い、息苦しさを感じる程の熱気に包まれる。それは、戦闘時に感じるような命の危機に直結する物ではなく、何処か安心出来るような心地良い物であった。

 徐々に開けて行く視界の中で、はしゃぐメルエの声が聞こえて来る。そんな少女の歓喜に困ったような注意を口にするリーシャの声が聞こえて来る。それは、何処か別世界のような光景であり、ランシールでサラ自身が望んだ未来の先にあるような景色であった。

 

「メルエ! 周りの人の迷惑を考えろ!」

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

 サラの視界が完全に戻ると同時に、目の前で振り下ろされた拳骨が少女の頭を打ち抜く。最早リーシャの身体を覆う布はメルエによって取り除かれており、裸の女性が裸の少女に拳骨を落とすという奇妙な光景が広がっていた。

 三人以外にも既に五、六人の女性がこの場所におり、皆思い思いに温泉を楽しんでいる。中央には数十人の人間が入れるのではないかと思う程の大きさがある岩で作られた窪みがあり、その窪みには溢れんばかりの湯が満たされている。新たな湯が岩で出来た窪みの中央部分から湧き出している証拠に、中央部分では泡が途切れる事なく浮き上がっていた。新たな湯が湧き出す度に古い湯が外へと押し出され、サラやリーシャが立つ場所もまた温かな湯で満たされている。既に硫黄の臭いなども気にならない程に鼻は麻痺し、独特の雰囲気と独特の香りの中、人々は皆笑みを浮かべていた。

 

「サラ、こっちに来い! 一度この窪みの湯で身体の泥や埃を洗い流してから湯へ入るそうだ」

 

「は、はい!」

 

 素っ裸のまま仁王立ちで立つリーシャの呼びかけに応えたサラは、湯で滑りやすくなっている床を注意深く歩く。湯で満たされた窪みの近くには木で出来た桶が置いてあり、身体を屈めたリーシャはそれで掬った湯を傍にいるメルエへと掛け始めた。いつも身体を拭う湯よりも温度が高いのだろう。一瞬、驚いたように身体を跳ねさせたメルエは、『熱い』という苦情をリーシャへと伝えた。

 不満を漏らす少女に軽く謝罪を告げたリーシャではあったが、そのままメルエの茶色に輝く髪へもお湯をゆっくりと掛けて行く。最初は不満を漏らしていたメルエも、直ぐにその温度になれたのか、楽しそうにお湯を被りながら目を手で押さえていた。

 メルエと戯れながら笑うリーシャの胸元が、動く度に揺れるのを恨めしそうに見ていたサラは、突如として飛んで来た熱い湯に、悲鳴を上げてしまう。顔に落ちて来る湯の雫を払ったメルエが、窪みから湯を掬ってサラへと掛けたのだ。自分が考えていたよりも遥かに高い温度の湯が突然降って来たのだから、サラでなくとも驚くだろう。だが、思っていた以上に大きな声を出してしまったらしく、湯に浸かっていた女性達の視線が一気に集まって来てしまった。

 

「ふふふ。湯に入っている女性達に聞いたのだが、温泉に布を巻いたまま入るのは禁止なのだそうだ。マナー違反となるのかな。皆、一糸纏わぬ姿で入るのが礼儀らしい」

 

「ふぇ!? 巻いたままでは駄目なのですか!?」

 

 メルエに対して怒りを向けるサラを見ていたリーシャは笑みと一緒に彼女を地獄へ落とす一言を発する。それを聞いてしまった彼女は、まるで絶望の淵へ落とされたかのような表情を浮かべ、愕然とリーシャを見つめた。

 最早サラには、横から飛んで来るメルエが掬った湯の熱さなど感じる事は出来ない。遠くなって行く湯煙の中、自身の身体へ掬った湯を掛けるリーシャが見えるだけである。サラの身体は大きな白い布が完全に巻かれており、見えているのは肩口の肌と、太腿より下の肌だけであった。だが、湯に入る為には布を解かなければならず、それは自身の胸の中にある劣等感とどす黒い嫉妬を晒す事になってしまう。それは当代の賢者として、どうしても避けなければならない物であった。

 

「ほら、サラも早く布を解け、湯を掛けるぞ」

 

「ちょ、ちょっと待って下さい!」

 

 そんなサラの苦悩を知らず、自身にお湯を掛け終わったリーシャは、サラに湯を掛ける為に桶に湯を掬い始める。まだ、心の準備も、決意も出来上がっていない彼女は、必死に手でそれを制そうとするが、理由の解らないリーシャは、首を傾げながらも湯を掬い終えてしまう。逃げる事も出来ない状況まで追い込まれて尚、サラは何とかこの状況を打破出来る妙案はないものかと賢者としての頭脳を懸命に回転させた。

 しかし、世は無常である。サラの後ろから忍び寄ったメルエが、彼女の身体に巻きつかれた乾いた布を一気に剥ぎ取ってしまったのだ。

 

「…………サラ………だめ…………」

 

「きゃぁぁ! な、何が駄目なんですか!? 私は駄目ではありません! 私の何処が駄目なんですか!?」

 

「サラ……お前は何を言っているんだ?」

 

 メルエとしては、禁止事項だと言われている布を巻いての入浴という行為をしようとしているサラへ駄目出しをしたつもりなのだろう。だが、ここまで自分の中にある黒い感情と戦い続けて来たサラからすれば、その言葉はそんな自身の心の闇を突き刺す物であったのだ。

 故に、通常では絶対に発しない大きな声で、まるでメダパニにでも掛かってしまったかのように喚き散らしてしまう。驚いたのは、誰よりもメルエであろう。自身の行動など、いつもの悪戯とサラへの駄目出しなのだ。予想以上の反応に面を食らってしまったメルエは、呆然とサラを眺めるしかなく、そんな一連のやり取りを見ていたリーシャは言葉を失ってしまった。

 周囲から一気に集まった視線は、息を切らせたサラを現実に戻す程に冷たい物で、急速に失われる血の気が、彼女に冷静さを取り戻させる。湯に入った訳でもないのに真っ赤に染まった彼女の顔を見ていたメルエが眉を下げて涙ぐむ。悪戯のつもりで行った事がサラを傷つけ、このような姿にしてしまった事を悔やんでいるのだろう。

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

「だ、大丈夫です。少し驚いただけですから……。メルエが悪いのではありません」

 

 哀しそうに眉を下げながら、自分に向かって謝罪の言葉を呟く少女を見て、サラの心に罪悪感が生まれて来る。自身の劣等感も嫉妬も、この純粋な少女には関係のない事なのだと知ったのだ。メルエは只、大好きな姉のような二人の女性と、初めて訪れた幻想的な場所を楽しみたかっただけなのだろう。自分が楽しいと思うように、二人も一緒に楽しんで欲しいと願っているのかもしれない。そんな幼い心を、サラは自身の黒い感情で塗り潰してしまったのだった。

 アリアハンという国を出てから五年。既にサラの成長は止まってしまっている可能性がある。内なる成長はこの先もまだ伸び代が残っているだろうが、身体的な成長は絶望的に近い。だが、目の前に居る少女もまた、出会った頃からほとんど変わりはない。身長も伸びた様子はなく、女性としての丸みや膨らみも現れた感はない。何処か親近感さえも感じてしまうメルエを抱き締めたサラは、哀しそうに見上げる少女へ満面の笑みを浮かべた。

 

「さぁ、お湯の中に入ってみましょう。掛けたお湯も熱い物でしたから、ゆっくり入らないと火傷してしまうかもしれませんよ」

 

「…………ん…………」

 

 メルエを抱き締めたまま、そろそろと湯の中へ足を入れ始めたサラを見て、リーシャもゆっくりと岩で出来た湯船へと足を入れて行く。じんわりと染み込むように広がる温かみが、戦闘などで疲労した身体を癒して行った。

 思った以上に深い岩で出来た窪みは、幼いメルエでは立つ事も侭ならない。サラからメルエを受け取ったリーシャはその小さな身体と共に湯の中へ身体を沈めて行く。溜息のような何とも言えない息を吐き出しながら湯に浸かるリーシャを横目で見ていたサラは、湯の中に入って浮かぶ双丘を憎々しげに見つめながらも、その隣に身体を沈めて行った。

 

「ふぅ……湯に身体を沈めるというのは初めての体験だが、これは心地良いものだな」

 

「…………あたたかい…………」

 

「そうですね。疲れや、身体の毒素もお湯に溶けて行くようです」

 

 気持ち良さそうに目を閉じたメルエの頭を優しく撫でながら、リーシャは一つ静かに息を吐く。サラもまた、湯に入るという不思議な行為が齎す心地良さに目を細め、先程まで心の中で渦巻いていた黒い感情が溶け出して行くような錯覚に陥っていた。

 中央付近から熱い熱湯が湧き出している為、必然的に入る者は淵へと集まって来る。サラ達の周囲にも年齢が様々な女性達が気持ち良さそうに湯に身体を沈めており、ゆっくりとした時間が流れて行った。

 

「あれ? こことは違う、小さな窪みもありますね」

 

 心地良い温かさに包まれながら暫しの時間過ごしていたサラは、自分達が入っている窪みの他に、小さな窪みがある事に気付く。その窪みにも湯が満たされており、サラ達が入っている湯船とは異なり、湧き出した湯がその小さな窪みへと流れ入る通り道が出来ていた。

 この大きな窪みの湯が溢れる際に流入しているのだろう。サラ達が入っている場所よりも湯の温度が低いのか、静かな湯気が立ち昇っている。だが、その湯船に入っている人は誰もおらず、遠くから見る限りでは、底の浅い湯船のようであった。

 

「あら、貴女達はここが初めてかしら? あの湯船は、時々来るお客様の為の物よ」

 

「お客様?」

 

 サラの言葉を傍で聞いていた妙齢の女性がその疑問に答える。リーシャよりも幾分か上の年齢ではあるだろうが、肌は艶々と輝き、母性の象徴でもある豊かな胸を持っていた。その部分を見ただけで、再び黒い感情が湧き上がって来る感触を抑えながら、サラは女性の言葉に疑問を挟む。

 客というならば、リーシャ達三人もこの妙齢の女性も宿の客であろう。だが、この女性の言葉の中にあるお客様という言葉が、サラが考えている内容とは異なる事を示していた。

 

「運が良ければ見る事が出来ると思うけど……あら、貴女達は運が良さそうね」

 

「え? あれ?」

 

 小さな湯船の方へ視線を向けたままだった女性は、その先に見えた幾つかの影を見つけ、楽しそうに微笑みを浮かべる。サラもまた再び視線をそちらへ向けると、三体ほどの影が小さな湯船に入ろうとしている姿が見えた。リーシャの腕の中でまどろんでいたメルエは、その小さな複数の影を目聡く見つけ、身を乗り出してそちらへ注意を向ける。そろそろと湯船へ入った影は、先程までのサラ達と同じように、心地良さそうに目を細めながら湯の中へと身体を沈めて行った。

 

「お猿さんですか……」

 

「…………おさる……さん…………」

 

 小さな湯船へと入った影は、自然に生きる猿達であった。マイラの村は周囲を森に囲まれた村である。大魔王ゾーマの勢いが増す中、魔物との生存競争に負けた動物達の数も減ってはいるが、それでもこの森の恵みを受けた動物達は懸命に生きていたのだ。

 既に魔物と化した暴れ猿などとは異なり、自然界の猿を初めて見たメルエは瞳を輝かせながら、湯船の中でじっとしている猿達を見つめている。好奇心に満ちた瞳ではあるが、自分と同じように心地良さそうに湯船に浸かる猿達の邪魔をするつもりはないのだろう。花咲くような笑みを浮かべながら、湯の中で呆ける猿達の姿を眺めるだけであった。

 

「マイラの村は、マイラの森の精霊様に護られています。妖精の笛を持つ森の精霊様は、この森で暮らす動物達や人間達、そして魔物達を護って下さっているのです」

 

 猿を優しく見つめるメルエの瞳に頬を緩めた女性は、このマイラの村の守護者である精霊の名を口にする。精霊ルビスという存在は、アレフガルドでの正式名称として精霊神ルビスと呼ばれてもいる。全ての精霊の頂点に立つ存在として、精霊神ルビスは存在し、この世界に存在する精霊達を束ねているという考えだ。

 森の精霊もその一つであり、広大なマイラの森が齎す数多くの恵みが、その精霊への信仰を強くしているのだろう。

 

「妖精の笛は、森の精霊様がお持ちなのですか?」

 

「はい。アレフガルドではマイラの村に『妖精の笛』があると考えられているようですが、正確にはマイラの森の精霊様がお持ちなのです。様々な呪いを解くと伝えられる笛ですから、ルビス様の封印も解く事が出来るのではないかと考える人も多く、一時期は数多くの方々がこの村を訪れました」

 

 女性の言葉の中にあった『妖精の笛』という物は、ラダトーム王都でカンダタが口にしていた物である。マイラの村の宝物として噂されていたようだが、実際はマイラの森の精霊が持つと伝えられる神代の道具であったのだ。

 精霊神ルビスの威光が陰りを見せ、アレフガルドは闇に包まれたと考えられている。ルビスの塔という精霊神ルビスを迎える為の塔に封印されているという話が信憑性を増すにつれ、その封印を解こうと考える者達が出て来るのは自然の流れであろう。

 アレフガルドに現れ始めた魔物達の強さを肌で感じ始めると、人間達は先を憂いながらも今を生きる為に懸命になって行く。それもまた、自然の摂理であった。

 

「ルビス様の封印を解く事が出来るのですか……」

 

「次の目的地は決まりそうだな」

 

 湯船に浸かりながら話を静かに聞いていたリーシャは、猿に夢中になっているメルエを抱き直して口を開く。勇者一行としての目的は『大魔王ゾーマの討伐』である。だが、精霊神ルビスという存在が封印されているのであれば、それを解除するのはサラの役目でもあった。

 『賢者とは、精霊ルビスと人を結ぶ架け橋である』とは、ダーマ神殿の教皇の言葉である。当代の賢者であるサラには、その義務があり、その権利がある。故にこそ、サラはルビスの塔へ向かうべきであるし、マイラの森の精霊と対面するべきなのだ。

 余談ではあるが、このマイラの村を訪れた古の賢者は、マイラの森の精霊との対話を望んでいたのかもしれない。その頃に精霊神ルビスが封じられていたかどうかは定かではないが、このマイラの村を訪れたという事は、そんな理由があったのではないかと推測が出来た。

 

「だが、今日はゆっくりと温泉を楽しもう。心と身体を綺麗にする事も、精霊様にお会いするには必要な事だろう?」

 

「はい」

 

 先程まで湯に浸かっていた猿達が森へと帰ってしまい、残念そうに肩を落とすメルエの頭を撫でながら、リーシャはゆっくりと瞳を閉じる。生まれたままの姿にも拘らず、ここまで心を落ち着かせる事が出来るのは、温泉ならではなのかもしれない。頬を伝う汗さえも心地良く感じる不思議な時間を、彼女達はゆっくりと過ごしていた。おそらく、隣の男性の湯でも、初めて体験する温泉に身を沈め、カミュもまたゆっくりとした時間を過ごしている事だろう。

 久方ぶりに訪れた勇者達の休息は、闇に閉ざされた森の木々が揺れる音と、波立つ湯の音に満たされていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
閑話となります。
次話から徐々に話を動かしていきます。

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